SSブログ

安倍氏川柳への批判「重く、真摯に受け止める」 選出・掲載の朝日新聞社が回答

2022年07月29日(金)

朝日新聞のオピニオン欄に掲載の川柳についての記事があった。
その前にも、twitter上にちょっとしたやりとりがあったのを見たか(読んだか)。

ある主張に同意するとき、積極的に同意であることを投書したり,広言したりするかな、
とふりかえって、他の人は知らないけれど,どうかなと思った。
しかし、その主張に同意できないとき、わりあいすぐに反応が出るかな、と振り返っていた。
大昔は、とくにそうだったかな、と思った。
でもさいきんは、どちらにせよ、すぐに反応することを,ためらうようになったか。

それで、件の川柳なんだけれど、
ほぼいつも見て、読んでいるコラム。
川柳って、ちょっと皮肉にというか、ななめから,下から、世に流通する大きな議論に与しない、
どちらかというと皮肉ってみようというところがあるんじゃないか、と思うのだけれど、
どうだろうか。
そういうふうにみると、追悼一色になにか、
いやいや、そうではあるけれど、ちょっと立ち止まって、振り返ってみませんか……っていうような、
そんな言葉を投げかけるのは、そんなに変なこととは思ってこなかった。

ウクライナでもそうだけれど、ウクライナ=善、ロシア=悪……みたいなメディアの報道は、おかしくないか、と思った。
善悪でなく、もうすこし国際政治がどうとか、歴史的背景がどうとか、それなりの見識をお持ちの人たちなのだから、ロシアの侵略が正しいとかそんなことはないけれど、善悪だけで議論してもどうしようもないのだから、掘り下げた議論を聞きたいと思ったけれど、大きなメディアからはあまり興味ある話が聞けないようだ。

おなじことが、川柳の背景をなすことがらについても、言えそうじゃないかと思った。
公衆が見ていたのだから、容疑者というか、いやストレートに犯人がどのような人物なのか、動機があったのか,動機があったとすれば、どういうことだったのか……、
しだいに犯人と目される人物の背景事情があきらかにされるなかで、
追悼することは当然だろうとは思うけれど、そのこととそれこそ「公人」とか「政治家」と言われる人たちの言動についての批判的な検討とは、並行してやっていくのだろう、と思う。

で、それにしても、川柳への批判がそんなにあったのか、と思うとともに、
いや、そのくらいあってもいいじゃないか、とも思ったのだった。

事件後の、まだ時間のたたないところで、「偉大な業績」が称揚され、「国葬」をおこなうとか、
いやはや……だと思っていたところで、そんな川柳にまで批判、というより、これは非難に近いんだろうと思うけれど、なんだかな……と感じた。
あるは、SNSに特有の事態なんだろうか。

そういえば、記事の最後の方で取り上げられている、福島第一原発事故に関する東電経営陣への有罪判決についての川柳も、ちょっと話題になっていた。
で、なんでそんな読み方をするんだろう、という反論があって、議論は終結したんじゃなかったか。


―――――――――――――――――――――――――

安倍氏川柳への批判「重く、真摯に受け止める」 選出・掲載の朝日新聞社が回答
2022年07月19日20時35分
コメント 97
J-CASTニュース

2022年7月15、16日付の朝日新聞「朝日川柳」に、安倍晋三元首相の銃撃事件を揶揄するような内容の作品が複数掲載されたことが、SNS上で物議を醸している。

朝日新聞社は7月19日、J-CASTニュースの取材に対し、指摘や批判を重く受け止めているとして、「様々な考え方や受け止めがあることを踏まえて、今後に生かしていきたいと考えています」と答えた。

「政治的な評価と暗殺をわけて考えませんか」

問題となったのは、15・16日付の朝日新聞に掲載された「朝日川柳」だ。選者・西木空人氏によってそれぞれ7本の川柳が選ばれている。

15日には「銃弾が全て闇へと葬るか」「これでまたヤジの警備も強化され」など、16日には「疑惑あった人が国葬そんな国」「死してなお税金使う野辺送り」など、安倍氏の事件や国葬を行う政府方針を揶揄するような複数の川柳が選出されている。16日は選ばれた7本すべてが安倍氏を題材にしたとみられる作品だった。

……………
元お笑い芸人で時事YouTuberのたかまつつなな氏は18日、朝日新聞デジタルの機能である「コメントプラス」を使い、16日の朝日川柳のページに「政治的な評価と暗殺(ご冥福をお祈りする)をわけて考えませんか」と書き込んだ。

安倍元首相の功罪はどちらも大きいと前置きしつつ、「暗殺されていい人などこの世にいません。暗殺された人に対して、ご冥福をお祈りするということがそんなに難しいことなのかと少しこの川柳を拝読して、悲しくなりました」とした。

……………
朝日新聞社は19日、J-CASTニュースの取材に対し「掲載は選者の選句をふまえ、担当部署で最終的に判断しています」と経緯について説明。「朝日川柳につきましてのご指摘やご批判は重く、真摯に受け止めています」と述べた。

……………
また、15日に掲載された「還らない命・幸せ無限大」という川柳については、一部で安倍氏の事件に関するものとの誤解が広まっていたが、これは「東電旧経営陣に賠償命令が出たことについて詠んだ」ものだと説明している。
nice!(0)  コメント(0) 

〔受験考〕 転塾の相談 親と子、ずれる思い

2022年12月19日(月)


あまり縁のないことなのだけれど、
小さなコラムを、ほぼ毎回読む。

ちょっと前のコラム、テーマは、「塾」を変わる、ということらしい。
「塾」……がいつごろからこんなに目につくようになったのか、
あまり覚えがない。
当然塾に行ったことはない。

春、しばらく新聞の折り込みに、近隣の塾、
呼び方はいろいろあるみたいだけれど、
高校受験のための予備校なんだろう、
そんな塾のチラシがたくさん入っていた。
夏休みが近づいて、またちょっと増えたかな、と。

勤めていたころ、ちょっと遅く帰ってくると、いくつかの塾に少年少女の姿が多くあった。
あるいは自転車で、あるいは徒歩で、あるいは親の送迎のクルマで。
狭い歩道で、ちょっと邪魔なんだけれど……なんて思いながら、ちょっと車道に迂回しながら帰った。

それにしても、「学校」はどんな役割を果たしているのだろうか、とちょっと考える。
大学受験には、むかしから予備校があった。
ずっと昔からあったらしい。
「浪人」なんて言葉がいつごろかあったか。
タテマエなんだろうが、小中学校の勉強をちゃんとやっていれば、高校に行けますよ、
高校の勉強をちゃんとやっていれば、大学へどうぞ……、
ということじゃなかったか、というのは、タテマエ。

勉強しない大学生が言われていたけれど、さいきんはあまり耳にしない。
じゃ、勉強するようになったんだろうか、知らない。

韓国や中国の大学受験の模様がメディアに登場する。
この国の受験の模様も、あちらの国で報じられているんだろうか。
それにしても、よく似た風景だな、と思う。

じゃ、米国や、ヨーロッパ諸国はどうなんだろう。
アメリカについては、映画があったなと思う。イギリスの真似をしたような高校の、高校生の話だったか。有名私立大学にはいるための特別の勉強があるようなことも聞いたけれど、
どうなんだろう。

ふつうの高校のカリキュラムでは、大学には間に合わない、ということがあるのだろうか。
しかし、それじゃなんのために国カリキュラムの基本を決めているんだろう、
と、まぁむかしから言われていたな、と思い出す。

そういえば、ぼちぼち大学受験が始まっているんだろうか。
小学校は?中学校は?
それで、「有名校」では、ハッピーか?
そして、ハッピーだったか?




―――――――――――――――――――――――――

〔受験考〕 転塾の相談 親と子、ずれる思い
2022/7/26付日本経済新聞 朝刊

夏。講習前になると「転塾」の問い合わせが増える。入塾の相談が多い一方、転塾すると保護者から突きつけられることもある。

小6のA男は3人きょうだいの末っ子で、人懐っこい性格だ。母親は上の2人を受験させた経験があり、「中学受験とは……」という自負があった。

事の発端は志望校選びだった。母親が並べた学校はどれも難関。メンタル面で強くないA男のことを考え「今の実力で受かる学校を1つ、選択肢に入れてみては」と提案した。しかし、母親の意思は固かった。

部活引退後、夏にスパートをかける高校受験では一夏で偏差値が10上がることも珍しくない。だが、中学受験ではかなり厳しい。

A男が心配になり話を聞くと、ボロボロと泣き出した。「低いレベルの学校は受けさせない」、そう言われたと。ほかの学校も受けたいが親が許さない。A男の涙は止まらなかった。

もう一度面談しようと母親に連絡をとった。数日後、唐突に退塾の連絡が来て、A男は塾を去った。

何か予感があったのかもしれない。前日、A男から「ノートを預かってほしい」と珍しく話しかけられた。「ノートをとっておいてください。受験が終わったら、必ず先生に会いにきます」と。

振り返れば「ノートが汚い」と注意して、一緒に書き方教室をしたことがあった。計算式もきれいに書けるようになり「これからだね!」と話していたところだった。託されたノートはやめたくないという気持ちの表れで、転塾せざるをえないA男の最後のあいさつだったのかもしれない。

合格してほしい。その思いは家庭も塾も同じはずだ。ただ、どうアプローチしていくかでボタンの掛け違いが起こる。子どもの気持ちに寄り添いながら、どこまで家庭の方針を受け入れるのか、いつもギリギリのところで悩まされる。

夏は受験の天王山。今年もまた、子どもたちとの熱い夏が始まった。

(竜)
nice!(0)  コメント(0) 

高橋美由紀 人口減少社会に生きるということ  歴史人口学からの問い 【世界】2021-08

2022年11月27日(日)

ぼくなどが小さかったころ、よく目にしたのは「産児制限」ということばだった。
すでに戦後間もないころに、この国の合計特殊出生率は、劇的に低下していたはずだ。
ベビーブームが言われるけれど、産めよ増やせよ、ではなかった。戦争期の反動だったのだろう。

戦時中、人口はあまり増えていなかったと記憶する。
10年以上に及ぶ大陸での戦争、さらに連合国との大戦、
人口増加率は大幅に低下していたか。

いつからだろうか、人口減少が、深刻な負の問題であるかのように語られるようになったのは。
江戸時代、列島の人口は3000万人程度だったという。
列島の土地が養いうる人口の規模がその程度だったのかもしれない。

アメリカの人口増加は、かなりの程度、移民社会特有の現象が寄与しているということを聞く。

いま、アフリカの各国で、人口増加が顕著なのだそうだ。
そういえば、遠からずインドが中国の人口を超えるだろうと言われる。

それで、この列島の国では、すでに人口ピークを迎え、これから減少していくだろうと予測されている。
それで、この予測は、なにも最近もたらされたものではない。
1970年代、人口の中位推計で、遠からず高齢社会の到来が予測され、
そのときに社会保障制度のあり方などが問題になることはほぼ確実だとされていた。
1970年代前半に、すでに高齢化社会をむかえ(高齢人口が7%超)、
1990年代前半には、高齢社会をむかえた(高齢人口が14%超)。
(この数字に特別の意味があるか、ちょっとぎもんもあるけれど。)

1970年前後だったか、すでに長期的な計量分析の結果が公表されていた。
で、すくなくとも人口の推移については、ほぼそのとおりだったと思う。

しかし、よく考えてみれば、地球の限られた資源、耕作可能な土地、天然資源などを考えれば、
人口がずっと増え続けることなど考えられないのではないか、
むしろ、江戸時代ではないけれど、土地に支えられて生きてきた人間のことを考えれば、すでに増えすぎているのではないか……、と考えた人がいたのだろう、少なくない人が。
それが産児制限の運動などにつながったところがあったのだと思う。

高齢者の増加が大変だと騒いでいる。
しかし、すでに1970年代、いやもっと早い時期から、人口構成の変化は指摘されていた。
よく疾病構造の変化がいわれたけれど、この国の疾病構造というのか、死因の上位の疾患は、1960年前後には、おおきく変化していて、趨勢として現在に続いてきていたはずだ。
食糧事情、栄養の改善や、医療の普及、革新がすすみ、一方で乳幼児の死亡率の改善が見られ(それでも先進国のなかでは、列島の国はあまり改善していなかったのではないいか)、他方で長寿命化が見られた。

ちょっと気になったのは、かつて北欧諸国が長寿命国で有名だったけれど、
その後寿命ののびは低くなっていたのではなかったか。
代わって列島の国などが長寿の国とされるようになった。
しかし、この点については死生観の違いを指摘する向きもある。終末期医療のあり方などに大きな違いがあるという。どうなのだろう。
(先日、映画監督のジャン・リュック・ゴダールさんが亡くなったけれど、一種の自殺だったという。いくつかの国で安楽死が合法化されているけれど、ゴダールさんも安楽死を選んでなくなった。しかし、深刻な病気などがあったというわけではなさそうだ。ただ、生と死についてのアイデアが問題なのかもしれないな、とは思う。)

いや、いろいろ考えることはある。そして、いったいぼくらはこの数十年、ほぼ確実に到来する高齢社会にどう立ち向かおうとしてきたのだろうと、ちょっとくらい気分になる。

自分もまた高齢者と括られるようになったとき、それほどの「危機感」などなかった、
いまでもそうなのだけれど、ただ、若い人たちを取り巻く状況を見ていて、
もう現役を退いているので、実態をどこまでわかっているか、ちょっと不安だけれど、
メディアの報道などをいちおう肯定するとして、
なんというかあまりにも付け焼き刃のような対策ばかりが目につくように思う。

ひょっとするとじぶん自身もふくめて、もうとっくに終わっている……のかもしれないとか。
まぁ、じぶん自身はともかく、時々一緒に盃を酌み交わしたりする若い人、といっても彼・彼女らも中年になっているのだけれど、もうすこし明るい将来を見通せるようになるといいなぁ、とは思う。
どうする? どうすべきか?


―――――――――――――――――――――――――

【世界】2021年08月


人口減少社会に生きるということ
歴史人口学からの問い

高橋美由紀

たかはし・みゆき 立正大学経済学部教授。柏市史編さん委員。一橋大学大学院博士課程修了。専門は日本経済史・歴史人口学。著書に『在郷町の歴史人口学』(ミネルヴァ書房)など。



■人口減少は悪か

 二〇二〇年の国勢調査による日本の全国人口数(1)は一億二六二二万六五六八人となり、その前回調査(二〇一五年)から八六万八一七七人減少した。これは、一九二〇年から始まった国勢調査で、第二次世界大戦期を除き初の減少を記録した二〇一五年に続いての減少である。また、国立社会保障・人口問題研究所による二〇一七年度将来人口推計では、日本の人口数は二〇五三年には一億人を割り込んで九九二四万人、二〇六五年に八八〇八万人(出生中位・死亡中位推計)になるとされている(2)。
 人口が減少すると社会が停滞するというイメージを抱く人も多く、人口減少に歯止めを掛ける必要がある、という意見も巷では喫緊の課題として取り上げられている。
 しかし、人口総数を維持する、人口減少を抑制する、そのために少子化に歯止めをかけるといっても、けっきょくは各個人が子どもを持ちたいかどうか、そして実際に何人持つ・持てるかというプライベートな行動の集積であり、政府などの行政組織が介入することはたいへん難しい領域である。ただし、歴史を振り返ると、実際は、時に政府は人口増加政策を採り、時に人口減少政策を採ってきた。特に戦時中は世界中のどこの国においても「人口は国力である」と考えられ、「日本の人口はいつ一億人を達成することができるのか」ということが議論された。ちなみに、日本の総人口が一億を超えたのは一九六七年である。
 人口変動を考えるときに第一に考えるべきは「人口学的方程式」である。これは、「人口増加=自然増加(出生数-死亡数)+社会増加(転入数-転出数)」と表される。たとえば東京や日本など、「どこで」人口が変動しているかという地域的境界を限定した上で、人口の変化が「なぜ」生じているのかを示す重要な式である。
 人口学的方程式に基づいて、現在の日本の人口減少の要因を考えると、出生数の減少(少子化)を想起しやすいが、同時に死亡数の増加(高齢者の死亡)によるところも大きい。出生の側面では、人口の置換水準(現代の日本では合計(特殊)出生率の値が二・〇七ほど)の値を切ると人口は減少する。政府はこの値を二〇二〇年度の一・三四から希望出生率である一・八〇に上げることを目指しているが、実際のところ、この値に到達しても人口減少は進行する。歴史的に人口数の変遷を考えると、たとえば、干害・冷害・蝗害・台風などにより大飢饉となった場合には同時に疫病も発生することが多く、それらは人口を減少させてきた。現在のCOVID-19も、先進国の中では合計(特殊)出生率が比較的高かったアメリカなども含めて、日本など多くの国において出生数を減らしている。
 ただし、日本の人口減少は、このパンデミックが起こる以前から進行していた。先進国で人口が停滞する、もしくは減少するという状況は、「食糧生産が上昇して人口扶養力が上昇すれば人口が増加する/食糧生産の不足が人口増加を抑制する」という前近代のマルサス的社会とは大きく異なる。社会福祉が未整備であった前近代では、人びとは自分の子どもに老後の生活保障を求めた。ある程度の社会保障が整備されてくると、こうした老後の生活保障のために子どもを産み育てるというインセンティブは薄れる。
では、現代の先進国では個人が社会保障によって充実した生活を営めるために、多くの子どもを必要としない社会になっているといえるのだろうか。

■歴史にみる「為政者側」の視点と「産む側」の視点

 ここで、歴史人口学から見えてくる近世(江戸時代)の、個人が子どもを持つことと、為政者側の出生数を増加させることに対する意識に迫ってみたい。まずは、江戸時代が日本の歴史人口学研究では中心的な時代であるので、その人口変遷の概観を見てみよう。
 江戸時代初期の人口(一六〇〇年辺り)は約一七〇〇万人と推計されている(3)。 一七世紀は戦国時代が終わって大開墾の時代となり、食糧生産量の増大とともに人口は増加した。田畑が増加したことにより、従来は未婚のままにとどまっ



ていた次男・三男も耕作地を所有して経済的に独立し、結婚して自身の世帯を形成することができるようになった。しかし、一八世紀に入ると、享保の飢饉(一七三二年)、天明の飢饉(一七八二~八八年頃)などの大飢饉が生じ、一九世紀にも天保の飢饉(一八三三~三九年)が生じたことによって、日本全体としての人口は停滞した。ただし、地域別にみると、人口が増加した越後国などと、減少した北関東地方など、相違があった。

【図1】人口趨勢(安積郡郡山上町,安積郡下守屋村,安達郡仁井田村) 出所:各町村人別改帳

 近世の人びとのライフコースは、「宗門人別改帳」「宗門改帳」「人別改帳」という史料から明らかにされてきた。これは、キリスト教禁止と人口調査のために一七世紀後半から全国的な作成が幕府によって命じられた調査である。地域によって、記される内容は若干異なるが、毎年村役人によって作成されて役所に提出された。
 いま、一〇〇年以上にわたって残されている陸奥国二本松藩(現在の福島県中通り地方に相当)の人別改帳から具体的に人口の変動についてみていこう。
 図1は、町場である郡山(こおりやま)、山麓の農村である下守屋(しももりや)、街道沿いに郡山から北上した村落である仁井田(にいた)の人口変動である(郡山は人口数が多いため、右に別軸を取っている)。三町村ともに、天明の飢饉時と天保の飢饉時に人口を減らしているが、町場である郡山は飢饉時の欠損人口をすぐに補填し、幕末まで一貫して人口は増加傾向にあった。
 これに対し、下守屋と仁井田では天明の飢饉以前から人口減少が見られ、飢饉はそれに拍車をかけ、ようやく人口が上向くのは天保の飢饉以降となっている。
 郡山の人口増加は前述の人口学的方程式にしたがえば、転入が多いという社会増加によるところが大きい。なお、大都市は農村よりも自然増加の水準が低く、時にマイナスとなるため、転入人口がなければ人口を維持できないという「都市蟻地獄説」が知られているが、郡山のような在郷町(農村から発展した町)の場合は周辺農村と比して、それほど大きな自然増加面での相違は観察されない。
 では、合計(特殊)出生率の水準はどうだったのか。たとえば、史料作成(二本松藩の場合は多くは三月)から次の作成時点の聞に生まれて死んだ者は記録から抜け落ちやすいなど、出産の記録には漏れがあると考えられるので、現代と同一の指標を算出することは難しい。それを踏まえた上で、「合計(特殊)出生率」を推計すると、おおよそ三から四の間となる(4)。ただし、これは必ずしも三~四人の子どもがいる家族形態であったということではない。近世は、乳幼児死亡率の高い時代であったから、たとえ出産した子どもの数自体が現代よりも多かったとしても、母親がある時点で一緒に生活している子どもの数は二から三人程度と、現代と大きく異なってはいない。また、子どものいない夫婦も多く存在する。そして、死はどの年齢にも訪れたので、結果として人口置換水準の値は高くなる。
 前述した二つの農村の状況から知られるように、二本松藩では、天保期までは人口が停滞していた。このように人口が減少した地域では、為政者が自然増加と社会増加の両面から人口増加の対策を採った。というのも、近世日本は農村に基礎を置いた社会であり、税である年貢を納める農民が必要だったからである。税は村請制といって村単位に徴収されていたから、領主ばかりではなく名主などの村役人も農地を耕す人材を確保することに取り組んだ。すなわち、為政者側の視点としては、「税を納める人間」が必要だったわけである。
 社会増加策としては他地域からの転入者を奨励した。そして、自然増加策としては、出産による人口増加をアメとムチの両方の観点から推奨した。
 アメは、生まれた子どもの数、そして現在いる子どもの数に応じて、金・米・衣類などを与える「赤子養育仕法」という制度である。これは、現代の児童手当とも類似しており、何歳のきょうだい(5)が何人いる場合にはいくら、というように細かく決められていた。
 たとえば、二本松藩で一七四五年に出された赤子養育仕



法の場合には、子ども数に応じて手当が与えられている。三人目の子どもが生まれると手当がもらえるが、その場合は兄姉の年齢が六歳以下であること、すなわち六歳以下三人であれば手当がもらえ、「四人」の場合の子どもは全員が二二歳以下であるといったように細かく規定されている(6)。また、双子の場合、あるいは奉公中の場合、手当資格としての村内居住年数が三年以上などといったことも定められている。所得制限はある場合と無い場合とがある。
 このような施策は多くの東北地方各藩や幕府代官支配所で採用されており、地域によって詳細は異なるが(7)、江戸時代から現在と同様の育児施策が行なわれていたといえる。
 また、ムチのほうでは「子どもの堕胎・間引きは鬼と同様の行為であり避けるべきである」と諭し、そのような行為を取り締まって露見した場合には罰することもあった。

【図2】 弘誓院間引き絵馬(千葉県柏市弘誓院所蔵,著者撮影)

 教諭の例として、東日本各地の寺に「間引き絵馬」が残されている。図2は、千葉県柏市の弘誓院(ぐぜいいん)に奉納された間引き絵馬である。出産した母親と思われる女性が自ら子どもの口を手で押さえて殺している。これは鬼にも等しい行為であるとして後ろに鬼の姿となった母親が描かれ、背景には、次のような「子孫繁昌手引草」の文面がある。

   子どもを多く持つと貧乏になるという風聞があるがそ
  うではない、もしも、子どもを持つから貧乏なのであれ
  ば、子どもがいない家は裕福なはずだがそうはなってい
  ない、子どもは家に豊かさをもたらす元ともなる。

 前近代社会においては、東日本各地で聞引きが行なわれていたと言われる。歴史人口学の研究では、前述した二本松藩の二農村において、性選択的な間引きが存在したことが統計的にも証明されている(8)。
 一般に間引きは貧しさゆえの行為であったと解されることが多い。しかし、間引きの行為者全員が必ずしも生活ギリギリの水準にあったわけではなく、ある一定の生活水準を保つために子ども数を抑えたり、「間引き」の語源の通りに他の子どもをよりよく育てたりするためにも行なわれていたと言われる。嬰児殺しとなる間引きは現在の日本では殺人罪である。それが恒常的に履行されていた可能性があるということに驚く人もいるかもしれない。

【図3】人工妊娠中絶数と出生数に占める割合 1949~2018年 データ出所:国立社会保障・人口問題研究所『人口統計資料集2021』

 しかし、現代の日本でも妊娠した子どもを生まれる前に堕(お)ろす「中絶」件数は多く、中絶率は出生の一割を超えている(図3)。中絶の実数こそ下降傾向にあるものの、出生に対する中絶の割合は、ある一定の値をとりつづける年次もあり、必ずしも直線的には低下していない。
 また、一九六六年には、出生数に対する中絶件数の比が急上昇をみせている。この年は干支でいう丙午(ひのえうま)の年であり、「丙午生まれの女性は気性が激しく男性を不幸にする」という迷信がある。この年の合計(特殊)出生率が低下することは、よく知られているが、高度経済成長期においても、こうした迷信を理由に中絶を選択した個人も多かったということは驚くべき事実である。
 なお、近世にも中絶(堕胎)はあった。しかし、医療技術の発達していない当時は、妊婦が寒い冬に冷たい水に入るといったような母胎を著しく危険にさらす方法が用いられており、堕胎よりも間引きのほうが母親の身体にとっては安全な子ども数制限の手段であった。
 また、近代になってからの人口増加政策として歴史上よく知られているのは、第二次世界大戦中のものだろう。一九四二年の『写真週報』(図4)に見られるように、「産めよ育てよ国のため(9)」という標語とともに出産奨励が行なわれた。これは、人口は国力と考えられたこと、すなわち、総力戦に従事する人口が必要であったことによる。だが、子どもが生まれたとしても、実際に労働者となるまでは一定の時間を要するわけで、ことはそう簡単ではない。

【図4】『写真週報』1942年4月29日号(筆者加工,「結婚十訓」のみ拡大)
 http://www.digital.archives.go.jp/das/image/m2006070420261457668

 では、このような為政者側の人口増加政策に対し、産む側、特に女性にとって、子どもを持つことの意味はどのよ



うなものであったと考えられるだろうか。
 近世農村における女性は、農作業を担いながら、出産および育児に従事せねばならず、特にすでに乳幼児がいる場合は、その負担は著しく増大した。世帯内に他に子どもの面倒を見てくれる女性自身の母親などが存在すればまだしも、そうでない場合、特に農繁期には、自己の意図と関わりなく身ごもってしまった場合に、子どもを間引くという選択に傾くことがあったとしても不思議ではない。女性が農作業に従事する状況とさおとめして、たとえば、田植えは「早乙女」という言葉からも知られるように若い女性の仕事であった。また、町場で生活している女性の場合であっても、生活のために糸取りなどの仕事を行なっていた。
 このようにみてくると、地域で人口減少が観察された場合には、担税者を確保するために人口増殖を図りたい為政者と、経済的困難や労働負荷の増加から子ども数を抑えたい個人との間のせめぎ合いが生じていたといえる。
 では、為政者側の施策である赤子養育仕法は、個人に対して効果的に機能しただろうか。実は、今も昔も政策の効果を測るのは難しい。飢饉などにより出生数が減少した場合には手当が決められたりその額が上がったりしたが、それが実際に子どもを持つインセンティブとして各個人に対して働いたのかどうかはにわかには測りがたい。けっきょく、二本松藩の各村における人口増加・出生数の増加は、天保の飢饉後に大きな飢饉が生じない状況下で、地域における養蚕業などが発展したことによって経済的安定が得られたことに起因すると考えるのが妥当である。

■なぜ、子どもを持つか

 人口減少局面にある日本において為政者側は少子化対策を進めるが、産む側は子どもを持つか否かをどのような理由によって選択するのだろうか。
 現代の日本では、出産の多くは婚姻内カップルによる。すなわち、子どもを持つことと結婚は深く結びついている。しかし、結婚しているカップルにすべて子どもがいるわけではない。子どもを持つことを選択しない場合もあれば、子どもが欲しくてもできない場合もある。いっぽう、近世の日本社会は「皆婚社会」と表現されるように、ほとんどの人びとが結婚をする社会であった。すなわち、結婚しなければ生きていくことが難しい、結婚することによって家の一員、ひいては村の一員として認められることが生きていく上で必須の社会であった。そして、世帯を継続させて、自己の老後を支えてくれる子どもを必要とした。また、近世後期の家族形態として直系家族世帯をとる傾向が強まってきたため、子どもを持つことの必要性に、世帯の永続性も付け加わった。ただし、それには、「養子」を採るという選択肢も存在し、実際にこれは広範に行なわれていた。
 また、結婚をすることが基本と考えられた社会内で、子どもを産むことについても、「なぜ子どもを持つのか」と深く考えるのではなく、「当たり前」とみなされていたことはじゅうぶんに考えられる(ただし、近世は結婚の永続性に関しては比較的柔軟で、人びとは子どもがいてもいなくても離婚をしたり再婚をしたりする社会であった)。
 もちろん、継ぐべき家産があれば、家を絶やさないために子どもを産むことも必要とされたであろうし、ある程度の年齢に達すれば、子どもは労働力として世帯に貢献することもできた。また、貧しい農村では女子が労働力としてかなり幼いうちから質物奉公などに出され、それによって世帯が一定額の収入を得るケースもあった。
 ここまで、人口変動要因の一つである出生について、感情的な側面ではなく、主に経済的な側面から考察し、為政者側と子どもを産む個人・世帯の動機が必ずしも一致しないことについて見てきた。

■求められる社会

 けっきょくのところ問うべきなのは、「人口減少は回避すべき」という主張の理由が何か、さらに言えばその発言は誰のものか、ということである。
 たとえば、為政者側が少子化対策を進める要因として、人口減少によって経済が停滞するという主張を耳にするが、それは真実なのか。前近代社会では「人口停滞→税収減(経済停滞)」と考えた為政者が人口増加策を採ったが、最終的に人口増加は地域の経済が良好になったことによって生じた。現代の社会はそれほど簡単ではなく、先進国にみるように、必ずしも良好な経済が人口増加をもたらすとは限らない。仮に、一国全体としての経済が良好に見えたとしても、個人の生活レベルではそうとは言えない可能性がじゅうぶんにある。
 現在でも「人口減少→経済停滞」という図式は問題とされている。社会全体としての生産者の不足が懸念されると



いうことである。いっぽう、産む側、すなわち各個人の視点からは、人口が少ないことが各個人の利益に繋がる場合もある。たとえば、大学入学や企業への就職を考えたとき、同じだけの入学定員数や雇用数が存在するのであれば、同年代の人口が少ないほうが有利である。
 すなわち、為政者側が出生数の増加によって人口減少を幾分かでも食い止めるためには、社会全体としての人口を形作る個々人の多様な利害について考えることが必要である。いま、それを踏まえた上で日本の適正人口はどのくらいなのかということを考えてみたい。
 現在の日本人口約一億二六〇〇万人は、明治初期人口の約四〇〇〇万人の三倍にもあたる。ここからは、現在の人口減少自体が必ずしも悪いとは主張できない。ただし、このまま減少し続ければ日本という国そのものの存立にも関わることになり、やがて減少が止まって一定の人口に落ち着く必要はあろう。ただ、それでは何人くらいまで減少してよいのか、と問われた場合に適正な人口水準を決めるのは難しい。前近代社会であれば、その国で生産される食物で扶養できる人口数ということになろうか。日本のカロリーベースでの食糧自給率は二〇一九年で三八%であるから(10)、現在の三分の一程度の人口が適切であろうか。
 日本の国土面積に対する人口比率を考えた場合、日本の人口密度は三三八(人/㎞)であり、世界全体の五九(人/k㎡)の五倍以上である(11)。決して日本の人口が少ないとはいえない。ただし、人口に関して望まれるのは数というよりも「人口の年齢別構成」(人口ピラミッド)がいびつでない、ということである。これは、ある一定数の生産年齢人口(人口学的には一五歳以上六五歳未満)が確保されることが社会をスムーズに動かすということである。たとえば、二〇六五年の人口ピラミッド(図5、推計)をみると、高齢者が多く尻すぼみになっている。高齢者と年少者は従属人口といわれ、従属人口の生産年齢人口に対する比率が高いとそれだけ生産年齢人口にかかる負担が大きくなる。

【図5】将来の年齢別人口構成 出所:国立社会保障・人口問題研究所HP

 二〇一八年に放送されたNHKの「縮小ニッポンの衝撃」ではこの形態を「棺桶型」と表して、一部の視聴者の間で物議を醸した。もちろん、そこでは「衝撃」を憂えるだけではなく、労働力確保のための高齢者活用や外国人労働者にとって働きやすい場を提供し日本の将来の労働力不足問題を回避する方策が論点となってはいた。
 われわれが、現在の日本の人口変動の状況に対峙しつつ行なうべきは、やはりより良い未来を形成することである。そのために、高齢者においては健康寿命を延ばし、せめて将来の人ロピラミッドの形態を「花瓶型」といった表現くらいにとどめて、それにふさわしい明るい未来を創っていく必要がある。現在は人口が減少していても、いずれは合計特殊出生率が人口置換水準あたりに落ち着き、人口の年齢構成が一定となる「安定人口」に近付くことが望まれる。そのため何が必要かについて歴史を振り返って考えたときに、もちろん、為政者による金銭給付などの施策は経済的に厳しい状況に置かれた人びとを助けるために必要とはされるが、地域における出生率が恒常的に上向き始めたのは、人びとが安定した暮らしを営むことができるようになった時であったことが想起される。すなわち、「産む側」である個人・家庭の目線で考える必要がある。
 言い古された言葉であっても「住みよい社会」を創出することが、人びとが安心して子どもを産める社会を実現するのであり、われわれはそれを目指して努力を続ける必要がある。



1 総務省二〇二一年六月二五日公表速報値。
2 「日本の将来推計人口」人口問題研究資料第三三六号、二〇一七年七月。
3 斎藤修(二〇一八)「一六〇〇年の全国人口」『社会経済史学』八四-一、三-二三頁。
4 高橋美由紀(二〇〇五)『在郷町の歴史人口学』ミネルヴァ書房。
5 性別を考慮しないため、あえてひらがなを用いている。
6 高橋美由紀(一九九八)「近世の「人口施策」――二本松藩赤子養育仕法の検討」『人口学研究』第二三号、四一-五三頁。
7 高橋美由紀(二〇一九)「近世東北の人口政策」小島宏・廣嶋清志編『人口政策の比較史 せめぎあう家族と行政』日本経済評論社、二九-五〇頁。
8 Noriko O.Tsuya and Satomi Kurosu,2010,“Family,Household,and Reproduction in Northeastern Japan,1716 to 1870,”in Noriko O.Tsuya et al.,Prudence and Pressure,Cambridge(MA):The MIT Press,2010,pp.249-285.
9 図に見るように、もともとは、「産めよ育てよ国のため」であったが「産めよ殖やせよ国のため」として広く知られている。
10 農林水産省ホームページ(二〇二一年五月二一日参照)。https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012.html
11 総務省統計局『世界の人口二〇二一』。

nice!(0)  コメント(0) 

これは闘争、ではない――LGBT理解増進法案見送り 二階堂友紀 【世界】2021年08月

2022年07月26日(火)

どなたかが、この記事に言及していた。

米国で、「中絶」をめぐる論議が話題になっていた。
反対論があって、賛成論があって、
それで、どこまで公権力が、法律が、介入していくべきか、
よくわからないところもあるか、と思った。
それでも、必要があれば、禁止したところで、
あるいは隠れて行われるだろうし、
あるいはフトコロに余裕があれば、他地域へ、他国へ向かうのだろう。
宗教的な道徳観を、否定することはできないし、否定すべきでもないかもしれないけれど、
さて、それをどこまで、他者に、強いることができるのか。

そして、政治、あるいは政治家は?


―――――――――――――――――――――――――

【世界】2021年08月


五年越しの議論を経て与野党合意にまで至っていたLGBT理解増進法案の国会提出が、自民党内部の保守派の巻き返しを受けて、見送られた。いったい何が起きていたのか。

これは闘争、ではない――LGBT理解増進法案見送り 二階堂友紀


 通常国会が終わり、東京・永田町の話題は五輪とコロナの行方、それが解散・総選挙と自民党総裁選に与える影響一色となった。自民党が「性的指向及び性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」、いわゆるLGBT理解増進法案の提出を見送ったことなど、忘れ去られているかのようだ。
 自民党はなぜ、与野党で合意した法案を提出しなかったのか。

■「これはダメだね」
 反対の狼煙は五月一三日にあがった。
 同日タ、衆院議員会館の一室に自民党の保守系議員が顔をそろえた。関係者の証言を総合すると、出席者は中曽根弘文元文部相、高市早苗元総務相、城内実元外務副大臣ら。「婚姻前の氏の通称使用拡大・周知を促進する議員連盟」、すなわち選択的夫婦別姓に慎重な自民党議連を率いるメンバーである。神道政治連盟国会議員懇談会の役員とも重なる。
 中心には安倍晋三前首相の姿があった。この会合は議連総会に向けた打ち合わせで、総会で講演する八木秀次麗澤大教授も招かれていた。八木氏は保守派の論客で、安倍氏に近いことでも知られる。山谷えり子元拉致問題相が参院内閣委員会を中座して駆けつけると、話題は夫婦別姓から理解増進法案へと移った。
 「法案が変質した」。八木氏は五年前の経緯について語り始めた。当時の詳細は本誌二〇一七年五月号と、『性のあり方の多様性』(二宮周平編、日本評論社)の拙稿に記したが、少し振り返っておきたい。
 自民党の「性的指向・性自認に関する特命委員会」が発足した二〇一六年のことだ。初代の委員長を務めた古屋圭司元拉致問題相らは、「わが党の基本的な考え方」などの取りまとめに先立ち、八木氏に素案を見せて理解を求めた。八木氏は「性的指向や性自認にかかわらず」との言い回しが多用されているのに目を止め、「男女共同参画社会基本法の『性別にかかわりなく』と同じように、同性愛と異性愛を同等に扱えという主張につながる危険性がある」と訴えた。その場で修文が施され、「考え方」から「性的指向や性自認にかかわらず」のくだりが消えた。法案の原形である「立法措置の概要」にも、その文言はなかった。
 ところが最新の法案では、基本理念に「全ての国民が、その性的指向及び性自認にかかわりなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを旨として(施策を)行わなければならない」とうたわれていた。かつて男女共同参画の流れを押し戻そうとするバックラッシュを担った八木氏ら、保守派の一部にとってはセンシティブな表現だが、特命委の顧問となった古屋氏も二代目の委員長となった稲田朋美元防衛相もなぜか見逃していた。さらに八木氏は、野党との協議で法案が修正されたことを問題視した。折しも、稲田氏と立憲民主党の「SOGIに関するプロジェクトチーム」の西村智奈美座長の間で、与野党協議が佳境を迎えていた。自民党側は五月七日、法律の目的に「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されない」などと加える修正案を野党側に提示したばかりだった。「これは人権擁護法案です」。八木氏はそう言い切った。独立性の高い人権侵害救済機関を設置する同法案は、保守派が阻止し続けてきた、彼らにとって忌避すべき政策の象徴である。差別禁止規定すらない理解増進法案は実際には人権擁護案と比べるべくもない内容だが、八木氏の喩えは保守派の琴線に触れた。
 「政局的には先に作っておいたほうがいいんだけどね」。自民党主導で法律を作り、施策をグリップすべきとの趣旨だろう。当初はそう語っていたという安倍氏も「これはダメだね」と言った。

■ねじれた「性自認」
 状況を複雑にした要因がもう一つある。「性自認」をめぐる問題だ。「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れうとか、アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとか、ばかげたことはいろいろ起きている」
 山谷氏のこの発言が飛び出すのは六日後のことだが、山谷氏は五月一三日の席でも同じ論点を提起していた。
 山谷氏が説明に用いた資料には「トランスジェンダー・トラブル」として、「女性の人権 温泉(銭湯)、トイレ、更衣室などに影響」「女子スポーツへの甚大な影響」などと記されていた。「急進的なトランスジェンダリズムは、女性を危険に晒す」「野党案の『性自認』ではなく、性同一性が不可欠!」ともあった。
 作成者はゲイの当事者で、特命委アドバイザーの繁内幸治氏(一般社団法人「LGBT理解増進会」代表理事)。繁内氏は四月八日の特命委会合でも同様の資料に基づき話し、長尾敬元内閣府政務官ら複数の反対派が影響を受けたと認めている。
 繁内氏によれば、これらは性自認という用語ではなく、野党案の定義に反対する意図で作ったという。立憲民主党などが提出済みの差別解消法案は、性自認を「自己の性別についての認識」としているが、繁内氏は「この定義では性犯罪者などに悪用される恐れがある」と主張する。自民党は、野党との協議を経て性自認という用語こそ採用したが、「自己の属する性別についての認識に関する性同一性の有無又は程度に係る意識」と厳密に定義しており問題ないという。
 繁内氏は特命委発足に先立ち、「理解増進」につながる考え方を自民党にもたらし、理解増進法案を推進してきた一人である。だが皮肉なことに、その資料を起点に反対論が広がった。
 起点は一つではなかった。
 複数の証言によると、遅くとも二〇二〇年の段階から、シスジェンダーの女性たちが中心となり、山谷氏ら国会議員サイドに働きかけをしていた。シスジェンダーとは、生まれた時の性別と自分の認識する性別が一致している人のこと。会社経営の女性のほか、男性の学者もおり、性同一性障害特例法の「手術要件」完全撤廃に反対していたという。
 特例法が定める性別変更の五要件には、「他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること」のほか、「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」も含まれる。卵巣や精巣を摘出するといった不可逆的な手術を受けなければ、戸籍上の性別は変えられない。性別変更の壁になっている一方、結婚や就職のためやむなく手術を受ける人もいる。世界保健機関などは二〇一四年、不妊手術の強制は人権侵害だとして廃絶を求める共同声明を出した。最高裁は二〇一九年、手術要件について「現時点では合憲」との初判断を示したが、「意思に反して身体を侵されない自由を制約する面は否定できない」として不断の検討を求めた。
 女性経営者らは見直し論を懸念し、「自分の認識だけで性別変更が可能になれば、女性用のトイレや温泉でトラブルが起き、スポーツでシスジェンダー女性が不公平になる」などと訴えていたという。そうしたさなかに法案に性自認の用語が採用され、「性自認を理由とする差別は許されない」のくだりが加わったことで、「性自認=危険」という構図が生まれ、一気に政治問題化した。
 政治は不安や疑問の声とも向き合わなければならない。スポーツ分野については専門的な検討も必要だろう。ただ、この問題を議論する際、当事者の置かれている現実を無視すべきではない。
 トランスジェンダーの多くは日々、男/女のどちらと見なされるか緊張しながら暮らしている。周囲の反応を気にするあまり、トイレに行くのを躊躇い、排尿障害になる人も少なくない。ましてや男女別の浴場に進んで入る人は稀だ。また手術の有無にかかわらず、トランスジェンダーが自認する性別に沿った施設を円満に利用しているケースは数多くある。スムーズに性別移行した人ほど「埋没」することが多く、具体的な成功例が可視化されにくい。だが、ホルモン投与などで外見を変えたうえで、周囲と調整を図り、自認する性別で生きている人たちが既にこの社会に大勢いる。
 そうした前提をすべて捨象し、トランスジェンダー女性が「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろ」と頭ごなしに主張しているように誤解させる発言が、山谷氏以外にも広がっていった。野党案への批判と一部女性の訴えが、保守派の反対論と合流し、トランスジェンダー女性への差別や偏見を煽りかねない政治的主張が確立してしまった。
 いくつもの火種を抱えたまま、理解増進法案は五月一四日、与野党合意に至った。左右のイデオロギーが激しくぶつかるなか、五年越しでこぎ着けた合意を、稲田氏は「ガラス細工」と表現した。
 稲田氏らは気づいていなかったが、合意が報告された超党派の「LGBTに関する課題を考える議員連盟」(会長=馳浩元文部科学相)には、反対派議員の秘書らが参加していた。合意案はすぐさま、安倍氏の手もとに届けられた。

■「菅総理になって……」
 五月一九日朝、衆院議員会館。夫婦別姓慎重派の議連総会では冒頭、ジャーナリストの櫻井よし子氏が「保守政党としての自民党の衿持」と題して話した。「安倍総理から菅総理になって、そんなに日が経ちませんが、この短い間に自民党の中ですごく変な動きがたくさん起きている。(略)自民党の保守政党らしからぬ様々な政策提言、法案の提出、そしてそれを通そうとする非常に強い、早い動きに大変な危機感を感じている」
 櫻井氏は六月七日付産経新聞の連載で「自民党よ、左傾化し保守の価値観から遠ざかるのか」と書いた。「危険な兆候」の筆頭に理解増進法案を挙げ、法案を推進する稲田氏の「変身」を嘆いたが、それを先取りする発言だった。八木氏も夫婦別姓反対の話を終えると唐突に、「この問題と直接は関係ないが、思想的なところでつながっている」と理解増進法案について語り出した。
 「婚姻制度、婚姻に伴う社会保障制度が全部影響を受ける。性的指向と性自認の視点から、すべての政策がチェックされる。国の根幹に関わる大きな見直しが、ほとんど議論されないまま、来週中にも自民党で了承されると言われている」
 最後に八木氏は、自ら法案の問題点をまとめたペーパーの存在をアピールした。A四判二枚の同文書から抜粋する。

・五年前の自民党案は、寛容な社会をつくることを目的としていたが、「性的指向又は性自認にかかわらず」の文言が入ることで、全ての性的指向や性自認を等価値なものとして扱うよう求める内容に変質した
・「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されない」との文言が入ること
で、差別禁止の趣旨を持った
・「差別」の定義が不明
・異性愛と同性愛・両性愛を等価値なものとして扱わなければ「差別」となる
・性自認を認めないことが「差別」となる→女性を危険にさらす可能性
・国と地方公共団体に「相談体制の整備」を義務付けている(筆者注:正しくは努力義務)→「相談体制」という名の「差別」密告機関にならないか
・すべての性的指向や性自認を等価値に扱わなければ「差別」とする統制社会樹立の意図が隠されている
・内閣府に事務を所掌する部署が設置される→有識者や当事者の入った会議が設置される方向に導かれる可能性。男女共同参画局と男女共同参画会議に類似したものか
・最低限、五年前の自民党案に戻すべき

 自民党議員の多くは決して、この法案についてよく知っていたわけではなかった。反対派の中核を担った議員が「本当は部会で発言できるほど知らないんだけど……」と漏らしたほどだ。だが、八木氏のペーパーなどが保守系議員の間で共有され、反対論を形づくった。右派には右派の「ポリティカル・コレクトネス」がある。一部の言説がもとになり、保守陣営で同じような主張が広がっていくのは、見慣れた光景だった。

■「これは闘争だ」
 櫻井氏や八木氏が「警鐘」を鳴らした翌日の五月二〇日。自民党の特命委と内閣第一部会の合同会議には反対派が集結し、法案の了承は見送られた。「靖国神社が同性カップルの挙式を拒んだら訴訟を起こされる」「女性の安全を守るべきだ」「区別も差別という統制社会ができる」。こうした反対論に混じって飛び出したのが、簗(やな)和生元国土交通政務官の発言だった。簗氏は性的少数者をめぐり、「生物学的に自然に備わっている『種の保存』にあらがってやっている感じだ」と述べた。このような主張を口にできなくなる社会はおかしい、との趣旨の発言もあった。同席者からは批判の声もあがったが、一部議員は「政治的に抹殺されるから言えないという状況が生まれつつある」と擁護したという。
 反対派にとっても、簗氏の発言は誤算だったようだ。法案の議論に悪影響を及ぼさないため、発言には気をつけようと申し合わせた矢先だったからだ。「『杉田水脈問題』もあったから、こういう発言はしないはずなのに。インパクト強すぎるよ」。反対派の一人は苛立った。
 そんななか、燃え上がった人物がいた。安倍氏である。複数の証言によると、非公開の党会合での発言が漏れ、差別発言だと報じられたことに激しく憤った。簗氏が自身の出身派閥と同じ細田派に属することも手伝ってか、「仲間を売る人間は許せない」と語気を強めたという。
 安倍氏がもう一つ、強いこだわりをみせていたのが、自らの答弁との整合性だった。野党との協議で「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されない」との文言を挿入するにあたり、特命委側は安倍氏に対し、安倍首相答弁に沿った修正だと説明していたという。朝日新聞も与野党合意を伝えた五月一五日付朝刊で、「国会答弁などで『性的少数者に対する不当な差別や偏見はあってはならない』(当時の安倍晋三首相)と述べてきたことも踏まえた」と指摘した。「差別は許されない」と「不当な差別はあってはならない」。特命委はそのズレを気にとめていなかったが、安倍氏は野党側に譲歩した結果と考えたらしい。「『許されない』には可罰的なニュアンスがある」「過去の首相答弁と整合性をとり、『許されない』を『あってはならない』に修正すべきだ」。反対派は口々に、安倍首相答弁との違いをつき始めた。
 自民党は五月二四日、二度目の合同会議で法案を了承したが、国会審議で「懸念」を払拭することが条件とされた。政調審議会も通ったが、五月二八日の総務会で国会日程を理由に幹事長・総務会長・政調会長の預かりとされ、三役は通常国会に提出しない方針を確認した。
 与野党の一部はなお、安倍氏の答弁に沿った再修正の可能性を模索した。とはいえ、与野党合意を反古にする異例の再修正を決断したところで、自民党の党内手続きを終えられる保証はない。
 稲田氏ら特命委幹部は六月七日、通常国会での法案提出を断念した。
 安倍政権のもとでは、法律を主管する省庁さえ決まらず、足踏みが続いた。安倍政権が終わると、首相官邸も関与して内閣府が担当する方針が固まり、与野党合意も成った。左右対立を乗り越えるかと思えた瞬間もあったが、けっきょく保守派という厚い壁を破れなかった。
 「これは闘争なんだよbずっと闘ってきた歴史があるんだよ」
 安倍氏は周囲にそう宣言していた。法案の旗振り役を務め、保守陣営で強い非難を浴びた稲田氏は「『頑迷保守』との闘いやな」と漏らした。安倍氏に引き立てられ、政界を駆け上ってきた稲田氏はしかし、最後まで安倍氏と挟を分かつことはなかった。
(にかいどう・ゆき 朝日新聞記者)

nice!(0)  コメント(0) 

主権者教育とか。

2022年07月23日(土)


選挙が終わり、恒例の戦況結果の分析、解説が……、
の最中に、安倍晋三さんが突然射殺されるという事件が起きた。
これはこれで、多くの議論をまきおこし、この数十年の時間が、じつは問題を解決したのではなく、ただ分厚く覆い尽くす何かがあったことを思わせた。

それで、選挙なのだけれど、
主権者教育と仮称して、おかしな選挙に関する「教育」?が行われるようになったのは、いつごろだったか。
選挙権年齢の引き下げに連動した……のだったか、どうだったか。


その主権者教育とか、投票所の仕組みとか、投票用紙がどうとか、
正直に言って、どうしてそんなばかげたことを、貴重な授業時間を割いてやっているのか、さっぱり理解できなかった。
まぁ、理解しようとしていないだけ、と言われるかもしれないかな。

HUFFPostにちょっとおもしろい記事があった。


  「私たちを差別しない政党はどこ?」「現状変えて」西成高校1年生が政党に
  アンケート。回答に生徒たちが思うこと
  質問状を送った9政党のうち8政党から回答が集まった
  金春喜
  2022年07月22日 10時0分 JST


この記事のなかで、西成高校の教員の言葉が引かれていた――

  2016年に選挙権年齢が「満18歳以上」に引き下げられたことで、
  主権者教育は高校に浸透してきている。文部科学省の調査によると、
  全国の国公私立高校のうち、高3に主権者教育を実施している学校は
  2019年度時点で96%を占めた。

  ただ、その多くは公職選挙法や選挙の具体的な仕組みを学ぶのみに
  とどまっていた。高校生らがより実践的な内容を学べるかどうかは課題だ。

  西成高校で「反貧困学習」を統括する肥下彰男教諭は
  「架空の政党や候補者の中から投票先を選び、投票箱に票を入れる。
  そんな練習が実践的な主権者教育になるとは言えない」と指摘。
  その上で、「必要なのは、生徒が自分や家族の生活と政治を結びつけて
  考える力をつけること。そのための学び方を、これからも模索していく」
  と話している。

長年にわたってこの国では、若い人に、とくに「学校」のなかで「政治」的な話題を議論することを禁じてきたのではないか。
政治活動への参加は、さらに強く禁じてきたのではなかったか。

いや、この場合の「政治」や「政治的」という言葉の意味するところじたいが、よく見ておくべきことかもしれないのだが、それは置いても、時の政権の施策に異なることなど、御法度にしてきたのだと思う。

いつごろからだろうか、戦況の投票率が劇的に低下してきたのは。
今住んでいる自治体、もうずいぶん長くなったが、
50年ばかり前、市長選の投票率は、7割を超えていた。時の市長は、人気があったのか、7割の過半数ではなく、全有権者の過半数の支持を得て当選する、というようなこともあった。
その後、減少が退き、それに伴う選挙があった。投票率は劇的に低下した。30数㌫程度まで低下した。
新しい市長が、政治的にどうとか、行政手腕がどうとか、そんなことはなかったと思う。かなり優れた人材だったとも思う。
それでも投票率は低迷していった。
1970年代から80年代にかけてのころのこと。

多くの自治体で、似たような傾向があって、とりわけ都市部においてそうだと言われた。
しかし、長期的に見ると、都市部に限らず、投票率はしだいに低下してきたように見える。

メディアの報道を見る限り、今回も、投票の仕方がどうだの、模擬投票だの……、クソどうでもいい(と言っては当事者には失礼だけれど)「主権者教育」なるものが繰り返されていたか。


そういえば、選挙制度については、政治学者とか経済学者と言われる人たちから、もっと積極的な発言があってもよさそうだな、と思ったことがあった。
学生のころ、K.J.Arrowなんかの議論を、かじっていたころのことをすこし思い出す。
きちんとした議論もなく、小選挙区制を導入し、それもなんともよくわからない制度を作ってきたこの国だから、仕方がないか。
全投票の30数%ぐらいの得票(今回どうだったか、調べていない、御免)で、議員の半数近くを得るような制度って、あきらかに間違っている……のではないかと思う。
ちょうど、得票数過半を超えて、大統領になれない某大国を思い出す。





nice!(0)  コメント(0) 

只見線のこと、あるいは、ちょっと前の原武史さんの記事、日中線のこと、など。

2022年07月22日(金)


只見線。
NHKの新日本風土記で「只見線」をやっている。

只見線、小出から列車に乗った。
もう半世紀ほど前のこと、夏、ゼミの仲間と合宿、
いちおう本を読む、ということだったけれど、さてどうだったか。
終わってどうする?
で、只見線に乗ろう、となったのだと思う。
仲間のひとりが、会津の出身。父親が、国鉄の職員だったということもあったか。
当時、何本の列車が走っていただろうか。

只見で下車した記憶がある。
どうしただろうか、どこか宿を探したかもしれない。
ちょっと記憶があいまいになる。
会津まで行ったのだと思う。
会津で宿を探した。
とすると、只見では、ただ乗り継ぎのために余った時間、まちをぶらついただけだったか。

この前だったか、後だったか、
もっと記憶があいまいだけれど、ひとりで只見線に乗った……と記憶する。
どうして乗ったんだろう?
どういうルートで行ったのだったか?

ひとりで乗ったとき、さらにあいまいな記憶だけれど、日中線にも乗ったのではなかったか。
喜多方のまち、まだラーメンの街だなんてことはなかった、古い街並み……。

いまだったら、スマホのカメラが大活躍だったかもしれない。
でもそんなものを持ち合わせてはいなかった。

ちょっと歳を食ってから、くるまの免許を取った。
国鉄の合理化がどんどんすすんでいったころだろう。

くるまの免許を取り、所帯を持った。
そして、旅行は、くるまを使うようになった。
列車のダイヤは、スカスカになっていった。
新幹線は増発され、便利になって行ったんだろう。
しかし、ローカル線は、少ない乗客が、さらに減少して行ったんだろうな……、と思う。
ぼくもまた、減少したひとりだったように思う。


只見線の数年前、高校に入った年の夏、クラブの夏合宿で、小海線に乗った。
小海の駅の近くの、たぶん小学校の小さな体育館を借用したのではなかったか。
小淵沢で小海線に乗り換えたのだけれど、列車は超満員だったと記憶する。
若い人が、八ヶ岳を目指していたのだろう、たぶん。
合宿の用具類があって、積み込むのが大変だったか。

しばらくは夜行ローカル線など、若い登山家たちがあふれていたことがあったな、と思う。
ようやく仕事に就いたころ、同年代、あるいはちょっと上の人たちが、翌山へ行っていたようだった。
まだ、土曜も働いていたころだ。
新宿駅など、夜、夜行列車のために駅のコンコースに多くの若い人たちが並んでいた。

で、只見線はどうだったか。
そこそこ乗客はいたのかな、ちょっと思い出せない。

くるまに乗るようになって、只見線に乗っていない。
代わりに、並行する国道252をなんどか走った。
ついでに下手な運転技術を省みず、国道352を走ったこともある。

ちょっとだけ電源開発の歴史などを聞く。
そういえば、仕事について間もないころだったか、
誘われて、夏の数日、数人で読書の合宿?で、大糸線に乗った。
黒四を訪ねた。
その大糸線にも、見直しが迫られる。

10代のなかばから20代、旅行に行く、となると、
いつも周遊券を買って、ローカル線を乗り継ぐことが多かったな、と思い出す。
しかし、いつの間にか、列車に乗ることが少なくなり、くるまを利用するようになっていた。
気がつくと、国鉄は解体され、多くのローカル線の運命は、厳しいものとなった。

鉄道は、なんというか、沿線の地域、住民の「共有の財産」だったように思う。
いなかにいると、列車が遠くをすぎていく、それが時計の代わりだったりした。
東京へ出て行った親戚の消息を、においを運んでくるように思えた。
まだ、くるまはちょっとぜいたくだったか。

しかし、くるまが共有の財産となることは、ない。
多く、それでよし、と考えたのだと思う。「私」の利便、便益が量られるようになったのだろう。
どちらが先かわからないけれど、くるまが普及し、道路の整備がすすんだ。
凸凹の未舗装道路がいつの間にか舗装され、拡幅されていった。
鉄道も、道路も、おなじように「ネットワーク」として機能するのだろうが、
上を走る列車とくるまには、どんな差異があるだろうか?……



―――――――――――――――――――――――――

(歴史のダイヤグラム)2人の悩みと熱塩への旅 原武史
2020年8月22日 3時30分

[写真]雪のなか客車を牽引するディーゼル機関車DE10-39=福島県の熱塩駅近く、原武史氏撮影

 作家の宮脇俊三は、鉄道の旅情を誘い出す条件として、沿線風景、乗客、列車、駅の四つをあげている。そして宮脇自身の基準に照らして、これら四つの条件をすべて兼ね備えた線は日中線(にっちゅうせん)だとしている(『終着駅』)。

 日中線というのは、福島県の喜多方―熱塩間11・6キロを結んでいたローカル線で、一日3往復しかなかった。赤字がふくらみ、国鉄解体より前の1984(昭和59)年4月に廃止されている。

 実は高校2年生だった80年2月26日、友人のAと日中線に乗ったことがある。

 当時の私は慶応義塾高校に通っていた。慶応の付属校だったが、環境になじめず外部受験を考えていた。もし落ちれば、同級生が大学生になっているのに自分だけ浪人することになる。ただし慶応にない学部なら、落ちても慶応の学部に推薦される。この特例を利用して東京医科歯科大学歯学部を受験しようと考え、4月には理科系のクラスに進もうと決めていた。

 歯科医になりたいわけでもないのに、慶応から出たいがために歯学部を受けるというのは、どう見ても動機が不純だった。自分でもこの矛盾にはうすうす気づいていた。後期の期末試験が終わって春休みに入ると、ふとこの世の果てのようなところまで鉄道で行きたくなった。

 そのとき思い浮かんだのが鉄道雑誌で見た熱塩駅の写真だった。先端が湾曲した洋風屋根の駅舎。機関車を付け替えるための側線。それらは一日3往復しかないローカル線の終着駅とは思えぬほど堂々としていた。1年のときのクラスメートで、鉄道好きだったAを誘うと、すぐ一緒に行きたいと言った。

 喜多方を午後4時4分に出る熱塩ゆきの列車に乗った。磐越西線に乗っていたときに降っていた雪は、会津盆地に入るとやんでいた。列車はディーゼル機関車が牽引(けんいん)し、古い客車を2両つなげていた。車内は私たちと同じ高校生で混んでいた。会津弁でおしゃべりに興じる女子高校生の姿が新鮮に映った。

 しかし途中駅であらかた降りてしまい、熱塩に着くころには数人だけになった。熱塩駅は写真で見た印象とは違って無人駅で、駅舎の壁面は剥(は)げ落ち、側線は雪に覆われていた。私は雪道をかきわけるようにして駅の手前にあった小さな鉄橋の脇まで走り、喜多方ゆきとなって折り返す列車を撮影した。

 この日は駅に近い熱塩温泉の旅館に泊まった。温泉街の一番奥にある旅館で、裏には墓地があった。Aと一晩中話しこんだが、このとき彼が学業を放棄してひたすら文学書を読みあさっていたことを初めて知った。Aが自ら命を絶ったのは、それから3年後のことだった。(政治学者)


nice!(0)  コメント(0) 

路上を子どもたちに返す 今井博之 【世界】2022年02月

2022年11月20日(日)

歩道で立ち止まって、反対側の工事を眺めていたら、
自転車の若い人に、どけ!……いや、もうちょっと優しい言い方だったかな、それでもとってもイヤな感じを受けたのだけれど、そんなことばを投げつけられて、自転車はスピードを緩めることなく去っていった。現場は、やや下り坂、若い男だけでなく、女性でも、とくに電動アシスト自転車で相当のスピードを出して通り過ぎる。
歩行者は、年配の人が多いように見受ける。ぼくじしんもその括りにはいりそうな。

さいしょに自転車が歩道で走行するのを許したのは、神奈川県警だと聞いた。
ほんとうかどうか知らないが、
それでも、むかしは、自転車は自力でこぐものだったから、歩道に入ってきても、まだすこしは許せるところもあったろうか。

クルマとの競合で、自転車の事故が多かったというのだろう。
それでも、見ていると、相応の格好をしたサイクリストは、ほとんどが車道を走っている。
そう、さっきの道も、国道だけど、あまり広い道とは言えない片側1車線道路、そこをヘルメットかぶったロードバイクがよく走っている。
歩道は、あまり広くない、いや、狭い。電信柱があったり、段差があったり。

再開発の街区内は、比較的広い歩道が整備されているけれど、じっさいには、街路樹の植栽升などがあって、しかもかなりの坂道、そこを結構なスピードを出してショッピングセンターへ急ぐ自転車が少なくない。子どもを乗っけた若い女性も少なくない。道路を走ればいいのに、と思う、上の国道などよりずっとクルマは少ないようだし。
そこに、ときおり子どもがキックボードに乗っかって元気に下っていく……。

先日、市の中心部の公園、球場のある公園を、自転車が走っていく。よく見たら、ペダルを漕いではいなかった。電動自転車らしい。

日経新聞に。
  電動ボード「任意でもヘルメットを」 安全確保探る
という記事が出ていた。
電動ボードで死者が出ている、ということのようだが、自損事故だろう。
歩行者のことはほとんど触れられていなかった。
業界団体などは、普及のためにいろいろ要求しているとか聞こえる。
でも、冗談じゃないか、と思う。いや、そうだったら、道路整備のありかたを見直すように求めたらどうかと。

近所で、交通警察が道路交通の取り締まりを時々やっているが、すべて見通しのよいT字路での一旦停止違反の摘発。
小学校からの通学路のある道路にも、通行量の少なくないT字路があるが、取り締まりを見たことがない。
まして、自転車の走行に目を光らせるところを見たことがない。

だいぶん前だけれど、鉄道をくぐる道で、もちろん歩道なんだけれど、自転車がうまくすれ違えなくて、ぶつかってもめていた。そこも、それほど道幅のない歩道、歩行者の少なくないところだった。
そういえば、オランダやデンマークなど、自転車が多いと聞く。メディアが報じるところ、自転車が歩行者を排除するようなことはなかったのだそうだ。自転車が、クルマ、歩行者と共存できる道路整備、ということだったのだろう。

……なんだか愚痴っぽくなってしまう、イヤな話。
道は、人が歩いたから道になったのだろう、「首」を掲げて……と白川さんの解説にあったか。
道は、クルマに占領され、人は隅っこに追われた。
道の片隅に追われ、さらに原付や自転車や脅かされている……、イヤな感じだ。

というか、そういうまちづくりをずっとやってきたんだろうな、
いくばくか愚痴を漏らす側にも、責任がありそうではあるな。


―――――――――――――――――――――――――

【世界】2022年02月

路上を子どもたちに返す

今井博之
いまい・ひろゆき いまい小児科クリニック(京都市南区)院長。一九五七年生まれ。臨床医かつ、子どもの傷害制御の研究者。クルマ社会を問い直す会、日本セーフティプ囗モーション学会会員。


 道路などの建造環境は、これまでクルマでの移動を優先して構築されてきたので、人々の長距離移動や物資の輸送・配達に飛躍的進歩をもたらしてきたが、一方で、交通事故の増加、大気汚染や騒音公害などさまざまな健康被害という副産物をもたらしてきた。さらに、人間を含む多様な生物環境への悪影響だけでなく、先進国では交通・運輸がもたらす二酸化炭素排出量が全排出量の二〇%を超えており、地球温暖化の防止にとっても極めて重要なカギを握っている。
 しかし、問題はそれだけにとどまらず、昨今の道路環境は、地域での人々のコミュニケーションや交流、地域の社会的・互助的ネットワークの形成、子どもたちの発育・発達に対しても重大な影響を与えている。そして、このような地域社会での日常生活におよぼす悪影響という側面は、量的にも質的にも甚大であるにもかかわらず、過小評価されてきた。
 本稿では、子どもの社会生活におよぼす現代のクルマ社会の問題点を述べ、子どもたちが健全に育ってゆくために必要な理想の道とは何か、海外の取り組みの現状もまじえて論じてみたい。

 肥満の流行

 小児肥満の増大は今や先進国の共通現象であり、パンデミックとまで言われている。特に米国では肥満児の割合が三割を超え深刻な健康問題となっている。わが国でも小児肥満は年々増加の一途をたどっており、一二歳時点での肥満児の割合は一〇%を超えている。食生活の質の問題も以前から指摘されてきたが、主要な原因は運動不足にある。米国では小学校の授業と次の授業との教室間移動を、一階の次は三階で、次はまた一階でというふうにわざと増やして、少しでも歩かせようというカリキュラムまで組まれており、肥満防止の取り組みがあらゆる分野で進められている。しかし、その一方で、学校への通学は親のマイカーでの送迎が主流となっている。日本ではあたりまえだと思っている小学校への子どもたちによる集団登校は、欧米人にとっては驚嘆と称賛の的なのである。近年は欧米でも日本を見習った集団登校プログラム、たとえば「歩くスクールバス」などが試行されている。
 米国の最近の研究では、自宅周辺が安全な地域に住んでいる子どもと、そうでない子どもとでは、肥満児の割合が四・四倍も違うという。自分の家の近隣が安全ではないと考えている親は、子どもたちを外で遊ばせたがらず、結果として運動量が減り、肥満児が増加する。別の論文であるが、ビデオやテレビを長時間見て過ごす青年と比較して、スポーツや身体を使った活動の多い青年は、違法薬物や暴力などへの関与が少なく、学業成績も有意に高かったという。子どもの時から身体を使った遊びを多くすることは、単に代謝にとって好ましいだけではなく、認知・社会的・情緒的発達を促進する可能性が指摘されている。
 自分の家の前の道路で自由に遊べる子どもと、日本のように道で遊ぶことが禁止されている地域に住んでいる子どもを比較すると、発育・発達に有意な差があることが、スイスで行なわれた系統的研究で明らかになった。この内容は後に述べるが、その前に、「自分の家の前の道路で遊んでもよい近隣」とは何かについて言及しておきたい。

 歩車共存の道「ボンエルフ」

 大陸ヨーロッパの国々には、ボンエルフと呼ばれる特殊な居住街区がある。ボンエルフとは、オランダ語で「生活の庭」という意味であるが、クルマと歩行者が混在する住宅地において、クルマを優先せず、歩行者との共存をはかった街区である。一九七六年にオランダ政府は、道路交通法を改正し、「ボンエルフ」と指定された区域内では、従来とは異なった交通法規を適用することにした。ボンエルフ内では、①優先権をクルマに与えない、②子どもが道路で遊んだり、住民が道路で休息し語り合うことを奨励する、③歩道と車道の区別をしない、④クルマは自転車や歩行者の速度と同等でなければいけない(実際には時速三〇㎞以下)、という一般道とは異なった法規が適用された。そして、こうした方針の実現を人々の遵法意識に頼るだけではなく、物理的強制力で保証する、すなわち、クルマに対してシケイン(屈曲路)・バンプ(路面のカマボコ型隆起)・ボラード(杭)などを設けて、スピードの抑制を強制した。

 道で遊ぶことができる子ども

 オランダで始まったボンエルフはその後、デンマークやオーストリアなどの近隣諸国へ広がった。スイスでも一九七八年にバーゼルに最初のボンエルフが造られ、順次拡大していった。スイスの教育学者ヒュッテンモーゼルらは、道遊びができる子どもたちと、そうではない子どもたちの違いを、五歳児を対象として研究した(チューリヒ・スタディ-)。ボンエルフに指定された地域に住んでいる子どもは交通事故にあう確率も低く、自宅周辺の道路上で自由に遊ぶことが許されているし(一人で外遊びをすることを許可しない親は六%に過ぎない)、親が同伴することなく自らの足で近くの公園までアクセスできる。このように自宅前に安全な道路があるところで生まれ育った子ども(A群とする)と、自宅前が日本と同じようにクルマを優先しているところで育った子ども(B群とする)の五歳時点での発育と発達に差があるかどうかを比較した。
 外遊びの時間は圧倒的にA群が長く、B群では半数の子どもが自宅の庭以外で外遊びをしないという(図2)。また遊びの種類についてもA群で有意に多様であった。とくに、自転車や三輪車を乗り回す、チョークで地面にお絵かきをする、ボール遊び、ごっこ遊び、隠れ家遊びなど、この年齢の子どもたちの発達にとって重要だと考えられている遊びがB群では著しく少なかった。
 これらの子どもたちの運動発達・社会性行動・自立に関する精緻な測定と評価が行なわれた結果、すべての項目についてA群の子どもが有意に優れていた。自宅周辺で外遊びができる子どもは、遊びの時間が長いだけでなく、友人の数も多く、友だちと共同して遊ぶ機会が多いので、意見の衝突や葛藤を解決する能力など社会的スキルも優っていた。
 一方、公園などの公共の遊び場でしか遊べない子ども(B群)は、大人がそばにいて何か起きないように見守っているので、子どもどうしでいざこざが起きると、すぐさま大人が介入するのである。B群のような不十分な生活環境(道路環境)では、母子関係の密接度が過剰すぎるという結果も出た。子どもの動き回りたいという衝動が母親をイライラさせ、しばしば緊張のもとになるという。子どもは、常に母親の腕にぶら下がって母親にまとわりつく。
 ひるがえって今の日本の子育て真っ最中の母親たちのことを考えてみる。四~五歳にもなったら外で勝手に遊んでくれると、どれだけ負担が軽減されることであろうか。このように幼い子どもが同伴なしでは遊べないような現行の日本の生活環境は、子育てにおけるフラストレーションの大きな一因になっている。
 また、この研究で明らかになったもう一つの側面は、A群とB群を比較して、子どもだけでなく親という大人どうしの友人関係や社会的接点にも有意差があったことである。「一時間くらいなら五歳児を喜んで面倒を見てもよいという人が近隣に何人いるか?」という質問に対し、A群の親たちの数はB群の三倍であったし、大人どうしの関係において、「一緒に出掛ける人が三人以上いる」、「よくおしゃべりをする人が九人以上いる」、「名前を知っている人が一四人以上いる」と答えた割合はA群がB群の二倍以上であり、ご近所づきあいでも有意の差があった。
 このように、ボンエルフ型ではない居住環境は、単に子どもたちが自由に移動できる空間を狭めてしまうばかりでなく、子どもどうし、親どうしの社会的接触の減少をもたらし、子守りなどの相互援助をも減少させている。「子どもに優しい道」が、すべての人に優しい道の基本なのである。

 交通安全教育か交通環境の改変か

 一九六〇年代半ばから始まったモータリゼーションは、当然それまでの居住地域での生活環境に軋轢をもたらした。幹線道路だけではなく生活道路の隅々にまでクルマが入り込み、近隣住民の平穏な生活を脅かすようになった。道路ではクルマに優先権(専横権)が与えられ、サイクリストや歩行者はクルマに服従する存在とみなされ、ましてや子どもが道で遊ぶなどとはとんでもないことだとされた。道路ユーザーのヒエラルキーによって侵害された権利、すなわち歩行権、子どもが道で遊ぶ権利などは、それら権利性が十分に自覚さえされないまま一方的に奪われていった。
 野放図に増え続けるクルマによって、騒音・大気汚染・コミュニティーの崩壊など多くの問題が噴出した。なかでも交通事故の急増は深刻で、日本でも一九六九年には、交通事故死者数が年間一万六〇〇〇人を超え、特に子どもの犠牲が問題となった。
 解決のための努力の方向性は二つに分かれた。一つは、クルマ優先社会を維持しつつ、子どもたちに交通安全教育を行ない、信号機やガードレールなどの道路インフラを整備するという方向である。もう一つは、安全教育よりも交通環境の改善に力点を置き、ボンエルフに代表される「歩車共存」と、歩行者や自転車専用道によってクルマとの分離を行なう「歩車分離」のそれぞれ、あるいはそれらを組み合わせるという方向である。
 英米をはじめ日本は、交通安全教育に力点を置いてきた国の一つであるが、はたして子どもに交通安全教育を行なうことで事故は減らせたのだろうか? あるいはそのような教育を行なうことは倫理的・道義的に正しかったのであろうか?

 社会は子どもの能力を過大評価する

 子どもは交通場面に対処できるだけの能力が非常に未成熟であるにもかかわらず、大人たちはその能力を過大評価してきた。六歳の子ども、つまり小学一年生を例にあげて示す。成人に比してさまざまな限界を持っており、視聴覚の発達段階を成人と比較して模式的に示せば、片目をつぶって(遠近感の未熟性)、水中メガネをかけ(視野の狭さ)、片方に耳栓をして(音定位の未発達)、足に重りをつけているようなものだ(俊敏性の未成熟)。さらに、彼らの目の高さは一一〇センチしかなく、クルマ一台が駐車していても見通しがきかないし、クルマからも彼らの姿が見えない。また、独特の思考形態を持っており、「僕には向こうから走ってくるクルマがよく見えるから、ドライバーもこちらをよく見ている」などの自己中心的思考、「クルマが止まるまで渡ってはだめ」と言われて一時間以上も渡れなかった例(非可塑的思考)などの自己中心的思考、われわれの札想像の範囲をを超えるようなさまざまな弱点を持っている。そして、こうした制約は、その年齢相応の生物学的な発達段階の未熟性であり、教育で克服できるものではない。
 では、そもそも交通安全教育にどれだけの効果があるのだろうか。これまでに世界で出されている論文を精査してまとめた研究がある。子どもに交通安全教育を行なうと安全な行動に関する「知識」は確かに増える。しかし、実際の交通場面で、以前より安全な行動をとるようになった子どもはわずかであり、教育によって実際に事故が減ったことを示した信頼性の高い論文は皆無である(少ないではなく皆無)。今日の欧米の多くの研究者たちは、交通安全教育が無効であると断定はしないが、効果はあったとしても、わずかであるとみている。労力は、教育にではなく、交通環境の改善に向けたほうがより効果的であるという考え方が今では支配的である。

 交通鎖静化(traffic calming)

 ボンエルフの本質は、速度を抑制することと、通過交通を減らすことにある。この二大要素を取り入れた簡易型ボンエルフは「ゾーン30」と呼ばれて、オランダの各地に広がっていった。オランダでは生活道路の八割近くがボンルフもしくはゾーン30になっており、交通事故は七割以上減少したという。
 このようにクルマを抑制し、公共交通や自転車、歩行を促進する交通政策は「交通鎮静化」政策と呼ばれて、近年再び注目されている。英国では労働党のブレア政権誕生を端緒に、交通鎮静化政策が推進された。ゾーン30や英国版ボンエルフである「ホームゾーン」は、今やロンドン市内だけでも四〇〇力所以上もあり、ゾーン内の交通事故は六割以上減少し、道で子どもが遊んだり、道に出てくる住民の数が増え、路上での会話や散歩する人の数も増えたという。さらに驚くべきことに、ホームゾーン内では、窃盗、器物損壊、暴力などが、ゾーン建設の前後比較で一〇分の一にまで減少したことである。道に出ている人の眼数が多いことこそ最大の犯罪抑止力となる。

 ビジョン・ゼ口

 スウェーデンなどの北欧諸国は、もともと歩車分離政策を基本としていたが、近年では歩車共存政策も組み合わせて取り入れるようになってきた。そして、スウェーデンは、一九九七年の国会で「ビジョン・ゼロ」、すなわち「長期的な目標として、スウェーデンの交通システムによって、
死亡したり、重傷を負う人をゼロにする」という目標を決議した。もちろん、交通事故死者数ゼロを国家目標に掲げたのは世界で初めてのことであり、このゼロという数字にこだわって多くの反論や批判に直面することになった。ビジョン・ゼロの過激さは、このように「ゼロ」を目標としたことだと思われがちだが、実はその過激さの真髄は「責任の所在に関するパラダイムシフト」にある。これまで交通事故の処理は、道路使用者の過失割合に基づいて責任を按分するという方法がとられてきた。それを根本的に見直し、単に運転者や歩行者などの個人的ミスに全責任を負わせるのではなく、これからは道路の設計者や管理者、運転手の使用者である会社などにも責任があることを明言した。ビジョン・ゼロの哲学・科学は、①傷害制御(injury control)から発達したシステムズ・アプローチに基づく責任論の転換と、②人間の命や健康を犠牲にして成り立つようなシステムはもはや容認できないという倫理観、この二つが根幹をなしている。
 ビジョン・ゼロ政策をいち早く取り入れたのは、ノルウェー、デンマーク、フィンランドなどの北欧諸国であった。二〇一五年からは米国やオーストラリアも同調するようになり、後に、オーストラリアは「セーフ・システム」、米
国は「ゼロヘの道」と題する各国版ビジョン・ゼロ政策を策定し、その実現に向けて大きく動き出している。そして、同年国連総会で採択された持続可能な開発目標(SDGs)の中の交通安全に関する目標を達成するための基本的考え方としてビジョン・ゼロが採用された。

 路上を子どもたちに返す

 建築家であり、かつ子どもの遊び場の研究者でもある仙田満氏は、「道はそもそも子どものもの」だと言う。子どもはほとんど道で遊んでいた。その道が子どもの遊び場でなくなったのは一九六〇年代半ばであり、自動車交通が子どもたちの遊び場としての道を奪った。山や小川、空き地、広場などの子どもが遊べる場所は、道が遊び場であったがゆえに相互が有機的に結び付けられてネットワークを形成していたが、道で遊ぶことが法律で禁止されて以来、個々の遊び場は分断された。点として残されたわずかな遊び空間さえ、その後、多くが失われていった(一九五五年から今日までに子どもの遊べる空間は一〇〇分の一に減少した)。
 かつての道は、子どもだけではなく、地域住民にとってもセミブライベートな空間であった。交通という公共空間でありながら私的な生活空間の延長でもあった。大人たちは道に床几(しょうぎ)を並べて夕涼みをしたり、子どもたちは地べた
に座り込んでままごと遊びをしたり、お母さんたちは井戸端会議に花をさかせる。これが、ごくありふれたかつての情景であった。
 かつてクルマに奪われた路上を、今こそ子どもたちに返すべきである。そして、クルマによって奪われた静穏な生活を、今こそ住民に返すべきではないだろうか。

 さいごに

 子どもの傷害(事故)死亡率は近年減少傾向にあり、それ自体は大変好ましいことである。しかし、その減少率には社会階層間格差が存在し、全体としての死亡率は減少しているにもかかわらず、もともとあった格差は、さらに拡大し続けている。
 エドワーズらの研究によると、イギリスにおける子どもの歩行者死亡率は、社会階層六階級中最上位と最下位を比較すると一九八一年は五倍の差であったのに対し、二〇〇六年には、その差が二〇倍以上に広がっていた。最上階級の子どもたちの死亡率が著明に減少したのに対し、最下階級の子どもたちの死亡率ははとんど減少しなかったのである。
 生まれた場所に子どもの責任はないし、生まれた階層にも子どもの責任はない。子どもに優しい道を復活させること、社会経済的格差を是正することは、まさに私たち大人の責任である。


 参考資料

1 杉田聡・今井博之 岩波ブックレットNo.四七〇『クルマ社会と子どもたち』(一九九八年)岩波書店
2 今井博之「劣化した通学環境」仙田満・上岡直見編『子どもが道草できるまちづくり』(二〇〇九年)学芸出版社
3 今井博之「子どもが遊べる道のモデル:専門家からの解説」、日本学術会議(第21期)子どもの成長環境分科会成育空間に関する政策提案検討小委員会編「子どもの遊びと安全・安心が両立するコミュニティづくり」(二〇一〇年)こども環境学会
4 今井博之「傷害制御の分野におけるヒューマンエラー」日本セーフティブロモーション学会誌、七巻一号(二〇一四年)
5 今井博之『交通死者・重傷者をゼロにする海外の政策〈ビジョン・ゼロ〉のその後』(二〇二〇年)クルマ社会を問い直す会
nice!(0)  コメント(0) 

【速報】県立校54校を44校に再編へ 愛媛県教委

2022年09月30日(金)



うろ覚えだけど,列島の国における公的教育にかかる予算規模は,
先進国では低い方に位置づけられていたと思う.
自治体の財政においても同じではなかったか.

ちゃんとデータに当たればいいのだけれど.

教育の経済学……というジャンルがある.
戦後の冷戦時代,米ソの対立は,半面で米ソの競争でもあったか.
そのころ,教育の有する経済的効果に目が向けられたのだろう,と思う.
そのときの教育は,国民経済の共有の基盤とみられていたと思う.
義務教育の長期化,無償…….

じっさい一部のエリートだけで国民経済が成り立っているわけではない.

教育の「外部効果」.

でも,いつからだろうか,教育の効果が,私的な領域に取り込まれ,
個人の,個々の家族の教育投資の経済効果だけが取り上げられるようになってきたように見える.

さいきん労働生産性ということばがよくメディアに登場する.
そして,まるで個々の労働者が働かないから,能力がないから,生産性が上がらないかのようなそんなさえずりを聞くのは,ぼくの考えすぎだろうか.
でも考えてみれば,労働生産性は,もともと事後的なアイデアじゃなかったか.
問題は,経営が,うまくいっているかどうか,にあったのではなかったか.
経営の舵取りがきちんとできていれば,
たとえば製品開発はどうか,マーケティングはどうか,そのための研究開発の体制はどうなっているのか,従業員に対する教育はどうか……,
売り上げも伸びるだろうし,ふつうに考えれば労働分配率が横ばいでも,それなりに受けとるものは増えていっただろう.


ちょっと脱線.
昔,この国の長期統計について,一ツ橋の経済研究所だったかの編集で,長期経済統計についてのシリーズが刊行されていた.
いま,どうなっているだろうか.
20年,あるいは30年が失われているかどうか,
失われているとしたら,どのように失われているか,データで説明して欲しい,と思うことがあるが,あまりそうした議論を見ない.


それで,子どもの数が減って,小学校が再編,つまりは統合・合併で減らされて,
中学校も同様で,
高校もそういうことで,
たぶんもうそろそろ大学そうなるだろう,いや,大学もかなりの定員割れの所が出ているというが,まだ大きな議論にはなっていないらしい.議論になっていないから,大丈夫だなんて事はまったくないのだろう.

子どもの数が長期的どういう傾向にあるか,もうずいぶん前からわかっていた.
ただ,高校の入学定員をどうするか,
高校全入などが議論に上っていたから,ちょっとむずかしい面はあったろうが,
いつごろから子どもの数が減少に転じるか,かなり正確に予測できていた.
しかし,議論は深まらず,手も打たれなかった.


それにしても,愛媛県などで学校が減らされたら,通学は大変なんだろうな,と思う.
寮とか,下宿とか,そんなことになるんだろうか.


―――――――――――――――――――――――――

【速報】県立校54校を44校に再編へ 愛媛県教委
2022-07-12

 愛媛県教育委員会は12日、県立高校の統合などの考えをまとめた県立学校振興計画案を示した。2027年度までに現在の55校から44校に再編する可能性がある。


nice!(0)  コメント(0) 

神保太郎 メディア批評(173) (2)ロシア制裁と「北方領土」 【世界】2022-05 

2022年11月11日(金)

そういえばだれかが,
この戦争でもうけているのはだれか,
もっと考えろといっていたような.

イランで,若い人たちの反逆が報道されていた.
かの国は,アメリカなどのつよい経済制裁下にあるのだという.
しかし,振り返ると,かつての王制下にあったイランとそのアメリカとの関係はどうだったか,
考えておいたほうがよいのだろう.
そして,現下の経済制裁が,イランの人びとに,どのような影響を与えているのか,
ふと考える.
宗教強硬派が,政治的なイニシアチブを握っているらしいとのこと.
それで,宗教的な締め付けに、若い人たちが反逆する,
その反逆は,経済生産を行って井川にとって,どんな意味があるかを考えてみる.
いや,だから宗教強硬派のイニシアチブが致し方ないものだなどと言ってはならないのだろう,きっと.
とても狭い道を行くように,もっと違う「解」をさがす必要があるようには思う.





―――――――――――――――――――――――――

【世界】2022年05月

メディア批評
神保太郎

メディアは決して戦争を煽ってはならない――。本欄ではそう記してから1ヵ月、ウクライナは戦場と化し、ゼレンスキー大統領はロシアへの徹底抗戦を国民に、世界に、呼びかける。戦争を止める「正義の戦争」の機運が作られるなか、正確な取材、歴史的厚みある解説、命に根ざす言葉はどこにあるのか。やはりメディアは戦争を煽ってはならない。

連載第173回
(1)ウクライナ危機・言葉の耐えられない軽さ
(2)ロシア制裁と「北方利権」


(2)ロシア制裁と「北方利権」

 命をかけた戦闘と、カネやモノを遮断する経済制裁。ウクライナ戦争は二つの正面で戦われている。日本は経済制裁に加わった。血を見るおぞましさはないが、効果も見えにくい。見通しや評価は曖昧なまま、新聞社説はおおむね政府方針を支持した。
 「暴挙に対し、国際社会が断固たる制裁を行うのは当然である」(読売、二月二六日)。「対口経済制裁 さらに強化の道をさぐれ」(朝日、三月一〇日)。「厳しい制裁を即座に断行せよ」(産経、二月二五日)。ややトーンが違ったのは、「制裁する側も大きな影響を受ける」「撤退すればすむ話ではない」と書いた日経新聞(三月二日)。工ネルギー資源の遮断にどこまで踏み込むか。米英は石油・天然ガスの禁輸を打ち出し、ロシア事業から撤退が相次ぐ。「ロシアへの依存度を考えると、簡単に同調できない国もある。日本もそのひとつだ」(三月一一日)と慎重だ。
 岸田首相は「国によって工ネルギー供給の脆弱性など状況は異なる。日本の工ネルギー安全保障を追求しながら、可能な限りG7に同調させるべく最大限努力をしていきたい」(三月一六日記者会見)と日経に重なる路線をとっている。
 「武力がダメなら制裁でガツンとやってロシアに代償を払わそう」「経済が混乱すればプーチンは窮地に立ち、政権から引きずり下ろされる可能性もある」。そんな願望まじりの言説が「西側」の政府やメディアから流される。「東西対立」という語が飛び交い、発想は冷戦時代に逆戻りだ。「代償を払わす」といっても、代償=痛みを受けるのは口シアの誰か。制裁をする側も「返り血を浴びる」というな
ら、「浴びる」のはどこの誰か。政府には説明責任がある。

■権益の実態  多くの人々は資源確保が大事なことはわかっている。それでも、戦乱で失われる命は無視できない。そこに悩ましさがあるのだが、「命」と「国益」をただ並べても、重さの比較は難しい。判断に必要なのは、抽象論ではない。ロシアで日本が得た権益の実態、ここに至る外交の経緯、オリガルヒと呼ばれるロシア新興財閥の関与、プーチン政権との関係、撤退した場合の日本への影響など、具体的な情報やデータだ。有権者が自ら考える材料を提供するのがメディアの役割だ。
 事業からの撤退が浮上している石油・ガスの開発案件は、制裁を考える恰好の素材だ。「サハリン1」(日本からサハリン石油ガス開発が参加)、「サハリン2」(三井物産・三菱商事が参加)、北極海で天然ガス開発に挑む「アークディック2」(ジャバン・アークティックが参加)。どれも事業の中核はプーチン大統領の盟友・オリガルヒの面々で、利益は国家財政を潤し、戦費にもなる。日本政府は公金を投じて総合商社やエンジニア会社を後押しし、権益確保に動いてきた。ロシアの侵攻が始まると、英国のシェル石油、米国のエクソンモービルが撤退を表明。日本は取り残された。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は、三月二三日、日本で「オンライン国会演説」を行い、「制裁の強化」に触れ「貿易や事業の撤退」を訴えた。北方案件を暗に指摘したという見方もある。
 大手メディアは英米撤退の衝撃は伝えたが、日本の「北方案件」の内実に肉薄する記事や解説は見当たらない。そんな中で雑誌『選択』三月号に、『米国制裁』で高転びの瀬戸際 三井物産の桎桔『ロシア事業』」という記事が載った。政治絡みの「筋悪案件」と問題視し、三井物産があえてリスクをとった裏事情を書いている。経済産業大臣など政治家も登場し、資源外交に商機を見出す総合商社のしたたかさと危うさがうかがわれる。
 こうした「ビジネスの内幕」を描く記事は大手メディアではほとんど見かけない。総合商社は情報源であり、広告や事業のスポンサーでもある。「当たり障りのある内幕もの」は、その筋の専門誌に名を伏せてそっと書く。新聞が面白くなくなったのは、こういうところにあるのかもしれない。
 『週刊エコノミスト』は、「世界戦時経済」の特集(三月二九日号)で「サハリンLNG撤退が招く衝撃」を冒頭に掲げた。「LNGが来なくなれば、債務超過に陥るガス会社も出るだろう」と憂慮するガス大手の首脳の話を紹介しつつ、世界的なLNG争奪戦に火がつき価格は暴騰、インフレを誘発する、と警告する。ロシアは欧州の制裁に備え、中国に運ぶパイプライン「シベリアの力」を完成させたことや、プーチン側近の動きなど権力構造にも触れている。
 制裁は相互に依存しあう世界を崩し経済を混乱させる。平和を前提に作られているシステムを「戦争仕様」に切り替えれば、どんな混乱が待ち受け、何を覚悟しなければならないか。悲惨な目にあうのは資源・食糧を外国に頼る国だろう。「他所の国の戦争」を眺めるかのような日本の戦局報道に違和感がつのる。

■平和条約交渉の中断?  腰の定まらぬ日本を見透かすように、ロシアは「平和条約交渉の中断」を通告してきた。日本から「戦争を仕掛ける国と平和条約など結べない」と表明すべき話なのに、新聞は「平和条約交渉中断は『不当』」(読売、三月二二日夕刊)などと政府の言い分を一面に並べた。朝日は「政府、交渉中断に抗議」「北方傾土交渉 暗礁に」(三月二三日、二四日)。いささかうんざりしながらネット記事を見ると、「あれ、今までロシアは交渉をしていましたっけ?」という書き出しが目に止まった。駒木明義・朝日新聞元モスクワ支局長による「日口交渉『継続せず』 慌てる必要なし」いう記事(デジタル朝日、三月三一日)。慌てふためく各紙一面を嗤(わら)うような書きぶりだ。
 「ロシアのプーチン政権は近年、平和条約を結ぶ前提として、下記のような三条件を突きつけています。1、日本は第二次大戦の正当な結果として北方四島が全てロシアの領土となったことを認めよ  2、日本からすべての米軍を撤退させよ 3、まず平和条約を結び、その後で領土問題に取り組むべきだ。(中略)これらの条件を日本がのまないかぎり平和条約は結べない、と主張しています。こうした
姿勢を『交渉』と呼ぶことは、とてもできません」
 平和条約は一九五六年の日ソ共同宣言のころから浮かんでは消えの連続だったが、二〇一八年一一月、シンガポールで行われた日口首脳会談で唐突に浮上した。そのわけは「北方領土交渉」の挫折が決定的になったからだ。領土交渉は二〇一六年一二月、山口県長門市の温泉旅館で行われた安倍・プーチン会談で事実上、終わっていた。前月、予備会談でモスクワを訪れた谷内正太郎国家安全保障局長は、パドルシェフ安全保障会議書記から「返還した島に米軍基地が建設される可能性」を間われ「否定できない」と答えた。米国が日米地位協定を盾に「日本の施政権が及ぶ地域に米国はどこでも基地を置くことができる」という原則を譲らなかったからだ。北方領土は日米安保条約に阻まれた。こうした事情を首相官邸や外務省の記者は知っているはずだが、「交渉挫折」を見出しにする記事はほとんどなかった。
 そもそも二〇一四年のクリミア制圧で経済制裁を受けているロシアに日本が接近することに、当時のオバマ米大統領は不満だった。領土交渉の破綻は安倍外交の失敗を決定づける。なんとしても交渉をつづけるお題目が必要となり、持ち出されたのが平和条約交渉だった。エサは経済協力。「八項目の協カプラン」の筆頭は「ロシア人の健康寿命の伸長」だが、本命は四番目の「石油・ガス等の工ネルギー
開発協力」。「安倍・プーチン友好の証」とされる北極圏の「アークディック2」は二兆円を超える大事業で砕氷船でLNGを欧州・アジアに振り分けて運ぶ。二〇一九年六月、大阪で開かれたG20首脳会議の場を借り、両首脳の立ち会いのもと契約調印式が行なわれた。事業主体ノヴァテクの大株主ゲンナジー・ティムチェンコ氏は、プーチン氏がサンクトベテルブルグ副市長時代からの盟友で「黒い金庫番」と呼ばれる。
 翌年、ロシアは憲法を改正して領土の割譲を禁じた。領土交渉があったとすれば、安倍氏がロシアのソチに飛んで協力事業でプーチン氏の歓心を買った二〇一六年五月から谷内・パトロシェフ会談までの六ヵ月間。平和条約に模様替えし、交渉が続いているかのような印象を振りまいたが、これも終わった。裏で進んでいたのが「経済協力」というシベリア権益の確保だ。戦前、満州経営に乗り出した安倍
氏の祖父・岸信介商工大臣の頃から「北方」は日本の生命線なのか。その目論見も、ウクライナで危うくなっている。
 駒木記者は問う。「ロシアは交渉していましたっけ?」。中味のある交渉などなかったのだ。

■核シェアリング発言  北方領土で虚構を振りまいた安倍元首相のはしゃぎぶりが止まらない。今度は「ニュークリア・シェアリング(核共有)」である。フジテレビの番組で橋下徹氏に問われ、「非核三原則があるが、世界の安全がどう守られているかという現実についての議論をタブー視してはならない」と語った(二月二七日、「日曜報道 THE
PRIME」)。米国が日本に置く核を、行使する時は日本と協議する、というのが「核共有」だが、前提がすでに「日本に核が持ち込まれている」ということだ。「持たず・作らず・持ち込ませず」ではなかったか。「議論をタブー視せず」ということは、「分かっているだろ、今さら知らぬふりをするな」と言うに等しい。本音が出た、と言われるが、首相を辞めても国会議員だ。真意を国会で説明しろと、メディアが迫るべきところだ。
 安倍発言を受け、日本維新の会代表の松井一郎大阪市長は、「非核三原則は戦後八〇年弱の価値観だ。昭和の価値観のまま令和も行くのか」と言い放った(二月二八日)。右派政治家は盛んに「議論しよう」と言う。議論とは「この方向で決めろ」と同義語である。議論の場に載せさえすれば、圧倒的な数で勝てると考えているのだろう。「憲法改正論議を」が典型だが、「敵基地攻撃能力」「武器三原則」も加わった。議論に乗るな、歴史に当たれ。なぜ今の決まりや仕組みが出来たのか。そこから議論を積み上げたい。

nice!(0)  コメント(0) 

神保太郎 メディア批評(173) (1)(1)ウクライナ危機・言葉の耐えられない軽さ 【世界】2022-05

2022年11月11日(金)

NHKで,ウクライナの「市民兵」とか,
なんだろう?と思い,
横目で見ていた.
ドンバス大隊とか言ったか,
アゾフ大隊と同類……であるらしいとか,
いまひとつ分からないな,と思う.

敵の敵は,味方とでもいうような,そんなメディアの報道,
あるいはそれだけでなく,右から左まで雪崩を打つような,
イヤな感じ……を拭い去れない.

北朝鮮のミサイル騒動も.
だれかが言っていたけれど,あのミサイルがどの辺を,どの高度で飛んでいるのか,
その上で,列島の安全との関係をちゃんと秤量すべきじゃないか,とか.
そりゃそうだな,と思う.
知り合いが,けたたましいスマホの警報でうんざりだと言っていた.
えっ,Jアラートなるものも,スマホを鳴動させるんだ,と知った.
困ったひとたちだ,あちらとこちらと.

そういえばケインズは,戦勝国の側の過大な賠償請求が,どのような結果をもたらすか,
その可能性について,心配していたんじゃなかったか.
そして,その心配は,現実のものとなったのではなかったか……と思い出す.
リアルポリティクスが求められる局面,というべきか.



―――――――――――――――――――――――――
【世界】2022年05月

メディア批評
神保太郎

メディアは決して戦争を煽ってはならない――。本欄ではそう記してから1ヵ月、ウクライナは戦場と化し、ゼレンスキー大統領はロシアへの徹底抗戦を国民に、世界に、呼びかける。戦争を止める「正義の戦争」の機運が作られるなか、正確な取材、歴史的厚みある解説、命に根ざす言葉はどこにあるのか。やはりメディアは戦争を煽ってはならない。

連載第173回
(1)ウクライナ危機・言葉の耐えられない軽さ
(2)ロシア制裁と「北方利権」


(1)ウクライナ危機・言葉の耐えられない軽さ

 二月二四日にロシアのウクライナ侵攻が始まってから、日本のメディアは「あの獰猛(どうもう)なプーチンがひ弱なウクライナに襲いかかっている」というステレオタイプを脱することができない。バイデン大統領が言うように、プーチン大統領が「人殺しの独裁者」なら、ゼレンスキー大統領は、オンライン演説で各国議会を操るポピュリストということになろう。ウクライナ問題は、ワイドショーにとっても格好の材料であり、役をふられた。“タレント”たちは「プーチンの目つきがおかしい」などと軽口を叩いている。それだけではない。双方の陣営が、相手の情報をフェイクと決めつけ、陰謀史観に呪縛(しば)られている。このままでは、メディアは傍観と二項対立を再生産するだけだ。
 じっさい、ウクライナが民族・宗教・言語のモザイク地帯であることを前提とした取材は稀である。ここで大量に生み出されている難民は、明瞭な国家の枠組みから逃れたというより、さまざまな民族の混住地帯からも追い出され[た]人々と言うことができる。およそ一〇〇年前、オーストリー=ハンガリー帝国出身の作家ヨーゼフ・ロートは書いた。
「この民族は、自分で統計を取ることが許されず、他の民族に支配され、数えられ、分類され、『処理される』という不幸を背負っている」(『ウクライナ・ロシア紀行』日曜社)。この理不尽は、何も変わっていない。

■地政学がテレビを乗っ取る  いま必要なのは自省的で正確な取材と解説である。去年一二月二二日、NHK「視点・論点」で、「ソ連邦崩壊から三〇年」と題して、下斗米伸夫神奈川大学招聘教授が的確な解説を行なった。全体の論調は、地政学より、歴史・文化に重点を置いたものだ。
 ウクライナ東部はロシア正教との親和性が高く、西部はポーランドに近くカトリック系である。ソ連邦崩壊でワルシャワ条約機構軍が消滅したとき、それへの対抗物であるNATO軍は自ら縮小し、ともに平和の配当に向かうべきだった。しかし、逆に東方への拡大を続け、プーチン大統領の大ロシア主義を追いつめた。同じころ、アメリカはバルカン半島でセルビアがアルバニア系住民を虐殺しているという「民族浄化」のプロパガンダに乗って、国連決議なきコソボ空爆を実行した。判断と行動の主体が同一という一国主義が九・一一テロを誘引したとも言われる。下斗米氏は、いくつものボタンの掛け違いを指摘した上で、「NATO、米口そしてEUを含めた戦略対話」の必要性を訴え、「二〇二二年に成果を期待する」と結んだ。しかし、ウクライナ侵攻がその期待を裏切った。
 三月二〇日、NHKの「日曜討論」は、ほかの放送局と同様にプーチン非難を基調とするものだった。しかし、下斗米氏と同じ神奈川大学の羽場久美子教授だけが、平和回復への思いと道筋を語った。「現在の報道の多くは、ロシア悪、ウクライナ善という二元的対立になっている。戦争はどちらかが悪というものではない。ゼレンスキーは国内の一八歳から六〇歳の男子に対する総動員令を出し、そこに外から来た武器を配っている。それが戦況を悪化させている」と指摘、日本がウクライナに「もっと戦え」とばかりに防弾チョッキを送ったことを示唆した。しかし、「日曜討論」の発言内容には明らかな偏りがあった。戦況や戦略を述べるものが大半を占め、平和を目指す中立論と難民救済に関わるものは合わせても三分の一程度だった。多くの放送で同様の傾向がある。それにつけても、最近は防衛省防衛研究所関係者のテレビ出演が目立つ。彼らは、ふだん自衛隊高級幹部の育成に当たっているので、話法を心得ている。ロシアのウクライナ侵攻以前には、中国の南シナ海進出、北朝鮮のミサイル実験、韓国の歴史認識などをもっぱら解説し、日米安保体制の代弁者の役を果たしてきた。視聴者は、あたかも囲碁将棋のライブ解説に聞き入るように、地政学的な発想(陣取り合戦)に馴らされていく。

■混沌の時間を圧縮する  ウクライナでいま起きている暴力の起源をどこに求めるか。その一つはベルリンの壁崩




壊から一〇年、一九九九年に米口関係の非対称性がピークを迎えたときである。アメリカがバルカンで単独行動をとっていたころ、プーチンはエリツィンから核のボタンと一五〇〇億ドルの対外債務を引きつぎ、カフカスのチェチェン武装勢力の掃討に邁進していた。アメリカは、ロシアの過度な膨張を抑えるために、ABM(弾道迎撃ミサイル制限)条約から一方的に撤退し、新大統領プーチンを苛立たせた。だが、彼は雌伏してG8参入を果たした。会見で「ロシアはきょう文明国の仲間入りをした」と苦渋の表情で語った。
 そこで、現在のロシアの「暴走の質」を知るためにも、あえて米国内の政権批判者の主張にも耳を傾けてみる必要があろう。オリバー・ストーン監督は「ウクライナ・オン・ファイヤー(ウクライナは燃えている)」で、映像の編集技術を駆使して、この地帯で生起した時間・空間を徹底的に圧縮し、歴史を「物質化」して見せることで、いまの混沌を体感させようとした。それを「仮想体験」すれば、地政学的な単純化の誘惑をひとまず回避できよう。
 その後の経緯を書く紙数はないので、先に進めば、プーチン大統領は「ロシアがドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国と結んだ友好と相互援助条約に従い、特別軍事作戦を行なっているだけだ」と言い切った。相互援助条約とは「ウクライナ・ロシア友好協力パートナーシップ条約」のことであり、「特別軍事作戦」は「戦争」ではないと言っている。日本で最初にウクライナ「侵攻」を「侵略」と明言したのは、岸信夫防衛相が、北のミサイル実験に抗議する会見においてだ。その直後、どんな力が働いたのか、岸田文雄首相も「侵略」と言い始めた。以後メディアも「侵略」を使い始めた。その使用頻度は、NHK、日テレ、TBS、フジ、テレ朝の順である。
 善悪二元論のなかで、オリバー・ストーン監督の「ウクライナ・オン・ファイヤー」に対して、内容の批判以前に、「戦場も知らないアメリカの監督が平和主義を訴えるのはナンセンス」という誹謗が溢れた。まさに「ウクライナ炎上」だ。言葉の「耐えられない軽さ」が随所に見え隠れする。しかし、メディアが一日も早い停戦を実現するという目標を見定めれば、取材すべき対象は世界中に見出せるはずだ。現場はウクライナだけではない。

■言葉の「重さ」と「軽さ」  ウクライナ問題が発生しまず想起したのは、評論家加藤周一の「言葉と戦車」である。一九六八年、プラハの街は「反帝国主義・反スターリニズム」を掲げて立ち上がった自由な市民で溢れていた。しかし、その高揚もつかの間、ソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)が街に入った。圧倒的な武力の前に言葉は無力である。しかし、人びとは戦車によじ登り、ソビエト兵たちに何をしに来たのかと詰め寄った。兵士たちは答えられず、泣き出す者もいた。モスクワは何を怖れたのか。言葉が容易に国境を越えるということだ。プラハは戦車に踏みしだかれたが、決死の地下放送局が、ドイツ語で世界に窮状を訴えた。
 SNSの現代は、言葉が国境を越えるのは当たり前である。ロシア軍に包囲されたウクライナの街々から市民が投稿した映像を自由に見ることができる。だが、それらはすぐにフェイクのレッテルを貼られる。一方のロシアでは、国営テレビの放送中に、「NO WAR」と書いた紙を持った放送局員がスタジオに乱入。なぜか手前でニュースを読む女性の表情が変わらない。さまざまな臆測が飛ぶ。放送局のなかに政権批判者がかなりいる。いや、これは表現の自由を装った当局のガス抜きだ、などなど。言葉がますます軽くなっていく。ネットの世界は思いのほか閉鎖回路だということか。
 ゼレンスキー大統領は、コロナ禍で多用されるオンライン形式で、各国議会にウクライナの窮状を訴えている。アメリカ議会では、「真珠湾攻撃」「九・一一テロ」「私には夢がある」(キング牧師の言葉)など、アメリカ人好みのキーワードを使い、スタンディングーオベーションまで起こった。しかし、批判も出た。NHK-BS1「キャッチ!世界のトップニュース」(三月二三日)は、ロシアの国営テレビがゼレンスキー方式を批判していると伝えた。イスラエル議会でゼレンスキー氏が、ホロコーストを引き合いに「ロシア人はウクライナ人に対して最終解決をしようとしている」と発言すると、ウクライナ人のなかにナチス協力者がいた歴史を書き換えるのかと、イスラエルの議員やメディアから批判が続出したという。
 日本の国会でもゼレンスキー大統領のオンライン演説が行なわれ、在京五社がライブ中継した。直前、ジャーナリスト鳥越俊太郎氏はこの演説に反対を表明した。アメリカで真珠湾攻撃にふれたのなら、日本では原爆に言及しなければなるまい。「そこを外したら奴は単なるアホだ!」とツイートした。しかし、原爆についての発言はなかった。日米の分断は何としても避けたかった。無意味かつ無惨。
 二〇一五年、ノーベル文学賞を受賞したジャーナリスト、ズヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏は、ウクライナ生まれの母とベラルーシ出身の父を持つ。いまベラルーシのルカシェンコ独裁を逃れてドイツにいる。デビュー作『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)にこんな一節がある。「わたしはただ録音し、書き取っているだけではない……話を集め、苦悩のおかげでちっぽけな人間が大きくなるときのその心の道筋をたどろうとしている。(中略)大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを捜している」。まさに、「ちっぽけな人々」はいまウクライナとベラルーシの国境を越えて暮らしている。TBSの「報道特集」(三月一九日)は、彼女が去ったベラルーシに向かい、ミンスクの街で住民の重い言葉を聞いた。「私は政治的な話には一切触れたくない。でも一人の人間として答えます。戦争は悲しみや涙や痛みを伴い、とても重いこと」。「逮捕される可能性もあり怖い。この国に民主主義は全くない。ウクライナやベラルーシについて世界の多くの人に知ってほしい。それが変化や進展につながるはずです」。国境を意識したとき人は難民となる。ベラルーシとウクライナの権力は敵対しているが、ここには難民同士の連帯がある。同番組で金平茂紀キャスターは、ジャーナリスト、アレクシエーヴィチのできないことを十分に引き継いだ。

nice!(0)  コメント(0)