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人口減なのに診療所続々 施設偏在、ベッド2割過剰 大病院では勤務医不足

2024年03月14日(木)

「医は仁術」
そんなことばがあったのは,いつのころ?

あるいは「医療」は,「市場」になじまないものなのかもしれない……,
いや,学校で「医療の経済学」などを見聞きしながら,
しかし「経済学」がどんな「市場」を思い描いているか,思い返してみると,
さて医療とか福祉とか,「市場」のメカニズムになじむことがらなのだろうか,
などと思ったことがあったか.

「教育」も,おなじように見える……か.

儲かるか,儲からないか――というのは,かならずしも「市場」のような仕組みによる分析になじむというわけじゃないだろう.
医療とか,教育とか,免許制度に守られていたり――まぁ,それによって一定の品質を保証しようということなんだろうけれど――,「市場」の外,公共からの大きな支援が与えられたり,
そもそも免許で品質保証というけれど,じっさいにはサービスを受けてみなければわからないことが多いし,あるいは,時間が経ってみないとわからないことが少なくないか…….

ひょっとすると国民皆保険の最大の受益者は,ひょっとすると医療関係だったりして,
まぁ,そんなこともなくて,アメリカなどを見ていると,「国民」の受益はとても大きいのだろうと思うが.

あるいは,「医師会」のパワーの源泉はどこにあるのだろうか?
お隣の国の騒ぎも,ちょっと気になるが.


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人口減なのに診療所続々
施設偏在、ベッド2割過剰 大病院では勤務医不足
2023/10/26付日本経済新聞 朝刊

大病院では少ない医師が入院患者の対応に追われ、人口の減り始めた地方自治体でも診療所が次々とできる。課題とされてきた医師や医療施設の偏在が改善しない。急な病気やケガで入院する患者のベッドは2025年時点で2割強が過剰となり、勤務医は足りないとみられる。

新型コロナウイルス感染症への対応を巡り、多くの病院で医師や看護師が足りず、入院が必要な患者を受け入れきれなかった。効率よく治療するには大病院に人材を集める必要がある。ただ、日本では小規模な病院が乱立し、医療従事者が薄く広く配置されている。


【図】受診延べ日数/診療所数


人口減によって患者は減り始めた。医療資源の偏在は医療費のムダを招きかねない。問題を象徴するのが「余るベッド」と「足りない医師」だ。

急な病気やケガの入院患者を治療する「急性期」の病床は22年時点で全国に69.1万床ある。現状の見通しでは25年に68.4万床とほぼ変わらない。病院は病床が減ると、手厚い診療報酬を得られなくなることが背景の一つとして指摘される。

厚生労働省が16年度末時点で推計した25年の必要数は53.1万床だった。2割強の15万床ほどが過剰になる恐れがある。

経済協力開発機構(OECD)のデータで見ると、日本のいびつさが浮かぶ。20年時点の人口1000人あたりの医師数は日本が2.6人で米国の2.6人、英国の3.0人、フランスの3.2人とほぼ同水準にある。

これを病床100床あたりで見ると、日本は20.5人で125.1人いる英国の6分の1にとどまる。病院1施設あたりでは39.7人で、ドイツの3分の1しかいない。



【表】
平均在院日数(急性期)/人口千人あたり病床数/人口千人あたり医師数/
病床100床あたり医師数/病院あたり医師数
日・独・仏・英・米比較



日本は急性期医療の入院日数が欧米の2~3倍と長い。多くの病床に患者が長くとどまり、少数の医師が診療に追われるという構図にある。

他の先進国並みにいる医師が大病院で足りないのは、小さな病院の数が多いうえに多数の勤務医が独立し、診療所を開業しているためだ。

診療所は22年に10万5182カ所と12年から5%増えた。新規の開設数を見ると、12年と13年は5000カ所程度で、その後は7000カ所程度で推移した。21年は1995年以降で最多の9500カ所まで増えた。

病院の勤務医が自由に独立開業することで、集約すべき人材が拡散している。2500の病院で組織する日本病院会の相沢孝夫会長は2022年の厚労省の検討会で「診療所の医師の一部が病院に勤めれば、勤務医の不足はかなり解消される」と指摘した。

診療所にかかる患者は減少傾向にある。外来の患者数を示す受診延べ日数(歯科を除く)は22年度に11.9億日だった。コロナ禍での受診控えが響いた20年度の10.9億日からは増えたが、19年度の12.2億日からは減った。人口減でこれからも減る可能性が高い。

こうした問題はコロナ禍前から指摘されていた。政府は14年から高齢者が急増する25年を目標に、需要にあわせた入院医療を整備するよう都道府県に促してきた。急性期病床を再編・統合し、散らばった医療資源を集約するのが狙いだった。

しかし自治体は規模の縮小による地域住民の反発を恐れる。病床の効率運用ができれば財政にも効果的とみられるが、判断するのは病院や各自治体で、国に権限はない。

国の医療費は増加が続く。22年度は46兆円で、21年度から4%増えた。コロナ禍で受診控えなどがあった20年度は前の年度から3.1%減ったものの、その後はコロナ禍前を上回る伸びが続く。

24年度に診療報酬は改定される。財務省は必要性の低い急性期病床を減らすため、患者の重症度などをより反映した報酬体系にすべきだと主張。医師の開業も抑制への「踏み込んだ対応が必要だ」と訴える。一方、日本医師会は慎重な立場だ。

政府は28年度にかけて医療や介護といった社会保障費の伸びを抑え、少子化対策の拡充に向けた財源の一部を捻出する考えだ。医療提供体制のあり方は歳出改革の論点になる見通しで、切り込めなければ少子化対策にしわ寄せが及びかねない。

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減税とか,現金給付とか……,この国は.

2023年10月26日(木)

減税?
現金給付?

いや,なんというべきか,乏しい知識を動員しながら考えて,
いつから,こんなばかげというべき政治家を抱くようになったんだろう.

いや,消費税の制度設計などもあったんだろうと思う.
さかのぼって,税制が所得再分配政策と関連付けられているという古い教えを思い出す.
そして,どうなったか,思い返す.
アメリカの俳優組合出身のレーガンの時代か,
サッチャーのイギリスか,
尻馬に乗る中曽根の時代か.

下って,ほんとうにばかげたふるさと納税だとか.
お金を恵んでやるから我慢してくれ……みたいな,
でも,そのお金はどこから出てきているか…….
いったい税とはなんだったのか,なんのために国家,自治体に支払ってきたのか.
なんとも,コトバを失いそうだ.

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指定管理者制度20年の功罪(下)多様化する「専門性」 図書館のあり方問い直す

2024年03月13日(水)



個人的には,いまさら……の感もあるのだけれど,
そもそも公共施設として,税金を投入してい整備された施設,よくいう箱物を,
どのように利用するのか,運営するのか,
きちんとした見とおし,目論見が,
設置主体である自治体にあるのだろうか,そう思い返す.

岩波書店だったか,ニューヨーク公共図書館に関する大判の本を出版したのは,
もう30年余もまえのことだったか,ちょっと忘れて岩波書店のHPを見たけれど,
ちょっとわからない.
記憶の間違いかな,いや,そんなことはないと思うのだけれど.

自治体で,
ぼくの偏見があるのだけれど,
最優先は,学校,小学校・中学校,ときに高校,まれに大学,
そして,公民館がつくられる.
公民館に図書室とか,図書コーナーが置かれる場合もあるのだろう.
公民館と銘打たなくても,似たような性格の施設が整備される.
公民館で,社会教育施設だとなると,文部省が色々な制約を課している……とかんがえると,
看板を変えて地区センターとか,名称を変えて,中身はよく似た施設がつくられる.
これが一巡して,
世の中も落ち着いてきて,学校整備の圧力が減少したこともあったのだろう,
博物館とか美術館,ならんで図書館の整備が議論されるようになったか.

ちょっと先をみたところでは,文書館などの構想を議論されたのだろう.

社会教育という言葉で思いだしたけれど,
松下圭一 社会教育の終焉
が1986年に出版されていた.おもしろかった.自分の実感からも納得できるように感じた.
すでに1970年代に,生涯学習だの,生涯教育だの議論されていたし,
OECDなどが,リカレント教育の議論をしていた.
で,このリカレントを,この国では社会教育の文脈で考えていたのではないか,
そんなふうに思った.

自治体で事情は異なるかもしれないけれど,
住宅開発などで郊外地域などで様々な遺跡が見つかる.
いや,都心部などでも同様なのだけれど.
そうするとそうした遺跡からの出土品などをどうするか,
それで博物館などの構想が議論されるようになる.

……などと振り返ってみると,なにか将来を見とおすようなビジョン,政策や計画があったのかな,
と思う.
行き当たりばったりとは言わないけれど,財政的な見通しなども含め,あるいは要員管理などの観点も含めて,議論がすすめられただろうか,
ちょっと疑問があり,そして疑問はまったく解消されなかったように思う.
自治体によって大きな違いがあったようだけれど,
図書館や博物館などのスタッフに,多くの非正規職員が充てられていたのではないだろうか.
アルバイトとか嘱託とか.
そのうち人材派遣が公認されてきた,
派遣スタッフが増加する.
もともと非正規職員が多かった箱物では,容易に派遣社員への転換が進んだかもしれない.

現場で働いているスタッフは,どんなふうに事態の推移を見ていたのだろう.
組合などの存在は,こうした推移に対して,歯止めになるとか,そんなことがあっただろうか.

図書館については,多くの地域に図書館整備を求める住民運動が見られた,
いま,どうなっているか,よくは知らない.
それでもそうした住民運動がじっさいの図書館に結実したところは少なくないのだろう.

いつだったか,そうした住民運動のメンバーとあったことがあった.
彼らは,総務省にして管理者制度について,もちろん反対というか,見直しの立場から,
陳情にいったのだという.総務省側の,実務者レベルでの対応だったようだけれど,だいたい理解できるようなことを回答したようだった.

よく理解できないのだけれど,
指定管理者による運営が,自治体の直営より勝っているのかどうか,ちょっと疑問があるのだけれど,
派遣スタッフの人数が,直営の場合より多くなるということは,あまり期待できないように見える.
しかも直営の場合よりふんだんに予算をつけるということも考えがたい.
そして,予算から支払われる運営委託経費から,指定管理者となる会社は,一定の利益を得るのだろうから,さていったいどのくらいの資金が,じっさいに現場で働くスタッフに支払われるのだろう?

図書館に限るはなしではなく,多くの指定管理者による運営施設で,同じようなことが考えられる.

そういえば,同一労働同一賃金という原則があった.いまどんなふうに考えられているのか知らない.
年配のスタッフの再雇用を見ると,みな大幅な収入ダウンが前提になっているようだ.
でも,分担している仕事は,その報酬に見合うものだろうか,と思うことが多い.

もうずいぶんむかしのことになってしまったけれど,
労働組合の活動家と,給与体系,昇級曲線のありかたとか,定年退職者の再雇用時の報酬のあり方などについて,議論をしたことがあったけれど,あまりいい反応は見られなかった.

あわせて専門的なスタッフの処遇,配置管理,昇級・昇任などの議論も,同様だったように記憶する.
自治体には,専門的なスタッフがいないわけではない.
地方の自治体で,なかなか人材確保がむずかしくなっているようだけれど,
業務上,組織の必要もあって,技術系のスタッフは,相応の学歴などを有するスタッフを雇用してきただろう.病院などを経営している自治体では,当然,医療系の専門スタッフを雇用しているわけだ.
教員なども同様か
ただ,その組織,自治体の中で,どんなふうに処遇されているか,配置のあり方や昇級・昇任などがどんなふうにデザインされているか,いろんな問題があるのだろうとみる.
国で,大蔵省の主計部門が力をもっていたと言われるけれど,そのなかにどれほど専門的業務分野,行政分野に理解を持った人がいただろうか,と思うことがある.
いや,それは,図書館であれば文部省の予算や人事などのスタッフの仕事だということかもしれないけれど,
じゃ,文部省はどうだったか.
同じようなことが自治体内部でも言えるのだろう.

別の見方をすれば,
つまりその程度にしか見ていないのだと,
役所全体としては,その程度の位置づけしか与えていないだろうな…….
民間企業でも同様だろう,違うかな.

それでいいのか?と言えば,やはり整備し,箱物をつくったのなら,
それなりの運営管理が求められるし,それなりの顧客というか,住民のニーズがあるのだと思う.
そこはむずかしいけれど,行政が,全体的に保守的,新しい取り組みについて,否定的と言うことではないけれど,あまり積極的ではなかったように思うけれど,
それは,それなりに理解しうるところもあったのかもしれない.
いったん整備した施設は,使わなくてならないし,使うためにさまざまな手当が必要だし,
つまり経常的に,一定水準の負担をしていかなければならない.
そのための資金的な見通しがあるのか,相応の検証が必要だということだろう.
しかも,ただ安くあげられればいい,というものでもないだろう.
スタッフの増員は,いっとき自治省によって厳しくチェックされていた.
いまでも同様かもしれない.

もうひとつ,専門的なスタッフの養成課程に,課題はなかっただろうか.
あるいは,法定の資格が定められる場合,
司書とか社会福祉士などがあるけれど,
その資格の内実は,現場でどのくらい役に立つのだろうか.
司書の場合,ほとんどの司書が文系,それも文学部などの人文系の出身ではないだろうか.
しかし,この国の出版は,じんぶん分野の本ばかりではない.
分量では理工系がかなりの点数を出していたはずだ.
しかし,ある時期,子ども本と,それからいわゆるベストセラーのような本ばかりが,
目立っていた.

ニューヨーク公共図書館から刺激を受けた……というわけでもなかったろうが,
図書館の役割,活動の中身について,いろいろ考えるべきことがあるのではないか……,
そんな動きがなかったわけではないし,具体的な試みがあり,続けられてきただろう.



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指定管理者制度20年の功罪(下)多様化する「専門性」
図書館のあり方問い直す
2023/10/25付日本経済新聞 朝刊

「数年で運営が変わるような制度では、共に歩めないという思いがあった」。ボランティア団体「守谷の図書館を考える会」代表の森本菊代氏は強調する。

[写真]図書館流通センターは運営する図書館に託児サービスの導入を進めている

茨城県守谷市の守谷中央図書館に指定管理者が入った2016年、この団体は「図書館と歩む会」から改称し、反対の声を強めた。図書館の実務にも混乱が起き、19年には市直営に戻った。

当時のことを森本氏はこう振り返る。「資料検索を頼んでも満足いく回答が得られず、職員の質が落ちたと感じた」

業務引き継ぎがうまくいかず新館長は2カ月で退職。3カ月でスタッフ5人が辞めた。窓口やレファレンス、書庫などの担当を2時間交代にしたのが原因という。指定管理者導入の合意形成も十分ではなく、マネジメントが混乱し、図書館機能が劣化したといえる。

一方、利用者の評価は悪くなかった。指定管理になって休館日は年51日減った。日々の開館時間は1時間半延長。利用中に子供を預けられる「育児コンシェルジュ」や本を消毒する「ブックシャワー」も評判が良く、直営切り替え後もサービスは続いている。

この図書館の運営に携わったのは、大日本印刷グループの図書館流通センター(TRC)だ。データベースや物流も手がけ、全国の指定管理図書館の半数以上を担う。谷一文子社長は「守谷は自治体から円滑に引き継げず、直営に戻ってしまった唯一の事例」という。

全国の約3300の公共図書館のうち、指定管理者制度を導入したのは約2割にあたる。20年間増え続けてきたが、この6年は伸びが鈍った。北九州市では6月、指定管理者として図書館の運営を担った会社が、本の貸し出し実績を水増ししていたことも分かった。

日本図書館協会は「図書館への指定管理者制度の導入はなじまない」とたびたび提言。同協会の植松貞夫理事長は「一貫したコレクションが構築されないなど、安定した図書館サービスが保証されない」と説く。運営期間が定められた指定管理では、レファレンスや資料収集にあたる職員の専門性を確保しづらいという懸念が根強い。

とはいえ指定管理者制度が始まって20年、図書館員のうち司書・司書補の資格を持つ人の数や割合は、委託・派遣で働く職員が、自治体の正規職員を上回るようになった。図書館と指定管理に詳しい尚絅大学の桑原芳哉教授は「柔軟に働ける指定管理の民間事業者の方に(有資格者が)集まりやすい」とみる。

さらに「指定管理者に一度選定されると更新されるケースが多く、ノウハウは蓄積する」(桑原教授)。TRCも10年以上にわたって働く社員は多く「専門性は高い」(谷一社長)という。「自治体直営=専門的」と単純には割り切れなくなっている。

図書館に求められる専門性も多様化している。本の貸し出しやレファレンスだけでなく、イベントによる文化の発信や、住民の居場所としての役割もある。もちろん長期的な資料の収集・保存などの重要性も失われるわけではない。

予算が限られる中、公共図書館数は20年前に比べて1.2倍に増えている。低賃金の非正規職員が日常業務を支える構図は、指定管理か自治体直営かという運営形態にはかかわらず問題になっている。その対応も含め、住民や利用者が図書館の役割とあり方をどう捉えるか。議論の行方により、指定管理者制度の有用性も変わって見えるだろう。

=おわり

佐々木宇蘭、西原幹喜、安芸悟、増田有莉、伊得友翔が担当しました。
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フリースクール あるいは東近江市長

2023年10月24日(火)

不登校や引きこもりなどの言葉が メディアで目立つようになったのは いつごろだったろうか.
じゃ むかしは不登校や引きこもりは 存在しなかったのだろうか などとちょっと首を傾ける.

田舎の学校から都会の学校に転校した. 都会 大都会の真ん中に近い小さな学校で
登校しない少年がいたらしい.あまり覚えていないのだけれど その存在自体が なんとなく秘密めいていたような気がする.ときおり登校してきていたか そのたび教師たちはたいへんだったようだ.
登校しないのか 登校してほしくないのか 知らないけれど.
とても暴力的な子だったか ふだんからそういう世界にいたのだろう.学校なんか どうでもよいというような.

まだ障害のある子たちも ふつうに登校していた.いや たぶん正確には 自力で登校できる子は.
そうでない子たちがどうしていただろうか.

それに振り返ってみれば 学校以外に行くべきところがあっただろうか.
とくに地方の小さな学校に通っていたころ 田んぼと畑 学校の近くに小さな雑貨屋さん
そんなところで どこに引きこもればいいのだろう.

などと思いながら 東近江市長の発言に関するニュースなどを聞いていた.
ただ 市長がどのような発言を どんな文脈でしたか ちょっとわからなかった.
そもそも 東近江市長が考える「国家の根幹」なるものがなになのか さっぱりわからなかった.

義務教育は 国民の義務である と市長は考えているようだは思った.
イヤでも学校に行け と尻をひっぱたくような親こそが そこで求められる国民の 親たるもののあり方だと考えているのだろう.
そんなふうに考える人は 存外に多いのではないかな と思うことがある.
もちろんもっと 青海市長のようなちょっとハードなもの言いではなく 
ソフトな外見をとる人も多いだろうが・
国民の義務を履行できないようでは 困ったことだと思ったのだろうか.
いや 学校という建物 制度 そこに「君臨する」教師たち あるいはそのバック?にいる教育委員会とか
制服とか校歌 運動会やら朝礼やら
むかしのことを思い出す.
言葉はちょっと気にはなるけれど 教室の王様王女様?

国民の義務か 懐かしい言葉……でもないけれど.

でも ちょっと気になって
気になりはじめると もうちょっと メディアとしては仕方ないのだろうけれど
もうすこし文脈も含めて知りたくはあった.

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「不登校、大半の責任は親」発言の東近江市長が取材に応じる「私は問題提起をした」
滋賀
2023/10/18 15:00 MBS毎日放送

「僕は文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに、がく然としているんですよ。」これは10月17日に滋賀県の会議で発言した東近江市の小椋正清市長の音声です。会議では、不登校の小中学生数が過去最多を更新して、国がフリースクールなどを支援する中、県独自の対応策に向けて各自治体トップらに意見が求められていました。

(小椋市長)「大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさそうとしているんです。」

「無理して無理して学校に行っている子に対してですね、『じゃあフリースクールがあるならそっちの方に僕も行きたい』という雪崩現象が起こるんじゃないか。」

「フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っているんです。」

このように持論を展開した市長。東近江市によりますと、会議後にも「不登校になる大半の責任は親にある」と発言していたといいます。

▼発言の真意は?東近江市長が取材に応じた

一連の発言の詳細について小椋市長は18日午前中、取材に応じました。市長はまず、昨日の会議で示された県の政策に『子どもが学びたいと思ったときに学べる環境を整えます』という一節があり、そこに意見したいと思ったのが発言の直接のきっかけと話しました。

(小椋市長)「子供の気分、感情で、『学校行く気になったから行くわ』、それで環境を整えないといけない、という解釈しかできない。(中略)。国がフリースクールの支援をしてくださいということになると、国がフリースクールに全部ゆだねる動きが出てきたときに、そもそも教育を受けさせる親としての責任や義務、教育基本法、学校教育法の枠組みが崩れるのではという危機感を持っている。」

フリースクールそのものに批判的なのではなく、フリースクールを認める文科省が『安易な判断』で無責任だ、という主旨だと話しました。

▼「フリースクールが国家の根幹を崩しかねない」発言の真意は

いっぽう『不登校と親との関係』については。

――大半の責任は親にある、フリースクールに対する財政支援を国が言うべきではないと、言いましたか?

(小椋市長)「全体の流れの中でそういうニュアンスのことは言ったとも、言わなかったとも明確に言わない。でも財政支援を安易にすべきではないと言っているし、大半は、と言っている。」

――フリースクールが国家の根幹を崩しかねないと言ったが、そこがどう国家が崩れることにつながるのか?

(小椋市長)「常識のある普通の人は無理しても『学校に行け』と言っている、努力しているわけですよ。ボーダーラインにいる子がフリースクールで楽しんでいる子供を見たら、雪崩現象を起こすかもしれないと。私はあえて問題提起をした」

”大半の責任は親”という発言については、「先生の問題もあるが(自身の)感覚的なもの、経験則に基づくと、やっぱり親が多い。」と引き続き持論を述べつつも、選んだ言葉については「短い会議の中で端的に思いを伝えようとすると、どうしても言葉足らずになり、アグレッシブな言葉を使ってしまう。極端に言い過ぎたかもしれない。」と釈明しました。
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〈汚染水〉問題について考える ――小出裕章氏に聞く(聞き手=佐藤嘉幸)

2024年03月13日(水)

13年目の3・11とか,テレビの画面に,あの時のシーンが繰り返される.
その後に発生したフクシマもまた,同様.

反原発?
原発推進?
で,何に反対し,何を推進しているんだろうか,と思うことがある.


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【読書人】2023-10-13FRI

小出裕章氏に聞く(聞き手=佐藤嘉幸)
〈汚染水〉問題について考える
管理できている放射能汚染水を意図的に海に流すことは犯罪である


 東京電力福島第一原発事故で生じた汚染水を〈浄化〉したとされる水の海洋放出が八月から始まった(第一回は九月一一日まで)。その第二回目が一〇月五日から実施されている。果たして、〈汚染水〉放出には本当に問題はないのか。また、危険性は一切ないのか。元京都大学原子炉実験所助教で原子力廃絶の研究をつづけている小出裕章氏にお話をうかがった。聞き手は筑波大学准教授の佐藤嘉幸氏にお願いした。(編集部)


科学ではありえない事態

佐藤 東京電力は、八月二四日に福島第一原発から、いままでタンクに貯蔵していた「ALPS処理水」の海洋投棄を開始しました。しかし、「ALPS処理水」は実際には、いまだ放射性物質が基準値を超えて残存する汚染水です。トリチウム以外は基準値以下まで処理するという東京雷力の方針が示されているとは言え、汚染水を海洋投棄するという行為について、どのように考えられるでしょうか。
小出 まず確認したいのですが、国と東京電力は今、福島原発に溜まっている一三○万トンを超える水を「ALPS処理水」と「処理途上水」の二つに分けています。このうち「処理途上水」は全体の約七割を占めており、文字通りまだ処理が終わっていない、れっきとした「放射能汚染水」です。残り三割を占める「ALPS処理水」は東京電力が「ALPS(改良型水処理システム)」と名付けた装置で処理し、トリチウムという放射性物質以外の放射性物質は国の基準値以下に取り除いたと言っている水です。しかし、トリチウムは別名「三重水素」と呼ばれる通り、水素の同位体で、水の構成要素になっています。そのため、どんなに水処理技術を駆使して水をきれいにしても、トリチウムは水そのものになっているため、決して取り除けないのです。現時点で溜まっている一三〇万トンの水の中には、そのトリチウムが国の基準の平均で一○倍含まれており、「ALPS処理水」はれっきとした「放射能汚染水」です。
 それを日本ではマスコミが率先して「処理水」と呼んできました。本来なら国がマスコミの暴走をいさめるべきでしたが、国はむしろマスコミの暴走を許してきました。そのうえ、「汚染水」と正しく呼んだ野村農林水産大臣をマスコミと国、それに野党も加わってバッシングし、謝罪させるという、およそ科学ではありえない事態になっています。
 人間には放射能を消す力がありません。自然にもありません。自分に力がないからと言って、放射能の始末を自然にゆだねることははじめから間違えています。放射性物質はそれぞれ固有の寿命を持っており、時間がたてば減っていきます。そのため、できる限り閉じ込めるというのが人間にできる最善の策です。トリチウムの半減期は一二・三年です。半減期の一〇倍閉じ込めておけるなら、放射能の量は一〇〇○分の一に減ります。今、福島原発に溜まっている「放射能汚染水」を海に捨てなくても済む現実的な方策は山ほどあります。
佐藤 東京電力は二〇一八年まで、「汚染水はALPSで処理すればトリチウム以外は基準値以下にできる」と明言していました。しかし、二〇一八年当時、「処理水」の八割以上で、墓準値を上回るトリチウム以外の放射性物質が検出されており、それを東京電力は意図的に隠していました。住民側の指摘でこの事実が発覚したわけで(hops://digitai.asahi.com/articies/ASL9X6HQ3L9 XULBJ014.html)、今後も情報公開の正当性に信頼がおける状況とは言えないと思います。今後海洋投棄される放射性物質の総量も不確定なままです。
小出 国や東京電力が自分に都合の悪い情報を隠すということは、昔からのことで、むしろ彼らの本質的な習性です。福島原発事故では、熔け落ちた二五〇トンの炉心の中に、代表的な核分裂生成物であるセシウム137を尺度にして測ると、広島原爆七九〇〇発分に相当する核分裂生成物が含まれていました。その一部が汚染水の中に溶けだしてきているのですが、事故など起きないと高をくくっていた国や東京電力からすると、猛烈な汚染水になっています。その汚染水を国の基準値を下回るまできれいにするという作業は容易なことでなく、一二年半たった今でも、すでに述べたように、二二〇万トン溜まっている水のうち七割には、取り切れない放射性物質がいまだに大量に汚染水の中に残っています。東京電力は、今後、「処理途上水」を再度ALPSで処理し、トリチウム以外の放射性物質は国の基準値以下になるまできれいにすると言っています。しかし、それが本当にできるかどうかも定かでありません。
 国と東電は、「ALPS処理水」という名の放射能汚染水を海に流す場合、トリチウムが法令の墓準値(一リットル当たり六万ベクレル)の四〇分の一の一リットル当たり一五〇〇ベクレルになるよう、海水で希釈すると言っています。そのことで、彼らはさも安全であるかのように装っています。でも、彼らがそうせざるを得なくなったのは、トリチウム以外のストロンチウム90、ヨウ素129、ルテニウム106などの放射性物質が、法令の基準値ぎりぎりまで含まれていて、その上にトリチウムを上乗せすればすぐに基準値を超えてしまうからなのです。今、福島原発の放射能汚染水は、あたかもトリチウムだけが問題であるかのように情報が操作されていますが、放射能汚染水に含まれている放射能はトリチウムだけではないことに注意し、それらのデータもきちんと公表させることが必要です。
佐藤 汚染水を漁業者のような「関係者の同意なしに処分しない」という政府の方針は、一体どうなったのでしょうか。漁業者が同意していない中での汚染水海洋投棄の決定は、民主的決定とは言えないのではないでしょうか。福島第一原発からは、過酷事故によって、これまでも大量の放射性物質が環境中に放出されてきましたし、いまも漏出が続いています(https://cnic.jp/47439)。それに加えて意図的に放射性物質を放出することは、倫理的に許される行為なのでしょうか。
小出 国や東京電力が自分に都合の悪い情報は極力外に出さないということは、彼らの習性ですが、それだけではなく、時に彼らは積極的に嘘もつきます。汚染水の海洋放出については、かつて石原伸晃さんが言ったように、「結局、カネ目でしょう」という程度にしか彼らは考えていませんでした。しかし、漁民が最後まで抵抗を続けたため、約束を反故にしました。
 先にお答えしたように、放射能は環境に捨ててはいけません。残念ながらフクシマ事故は起き、為す術なく大量の放射性物質を環境に放出してしまいました。でも、今福島原発に溜まっている放射能汚染水は管理できているものです。その管理を続けることも現実的で容易な方策がたくさんあります。それなのに、約束を破ったうえ、意図的に海に放出することは犯罪です。


補足できないままの放射性物質

佐藤 私には「ALPS処理水」という名称そのものが、露骨なイデオロギー的操作に見えます。「アルプスの水」のような清浄な水の印象を与えますが、実際には炉心溶融した放射性物質に地下水が流入した汚染水をフィルター処理しただけです。「ALPS(advanced liquid processing system、直訳すれば「高度液体処理システム」)という言葉自体、東電の和訳「多核種除去設備」(英語に反訳すれば、Multi-nuclide removal system)とはかけ離れています。浄化された水のように思わせる印象操作でしかありません。
小出 ご指摘の通りです。水処理とは、水の中に含まれている汚染物質を捕捉して取り除く技術です。しかし、先に述べたように、福島原発に溜まっている放射能汚染水は、猛烈な濃度であるため、大変な被曝源になっています。それが敷地の中にあるため、敷地境界を越えて、国の基準値を超えた放射線が飛び出していました。なんとか汚染水の中から放射性物質を捕捉し、取り除こうとALPSも作られましたが、国や東電の思惑通りには稼働せず、ようやく敷地境界での被ばく線量を国の基準値に納めることができたとは言うものの、いまだに汚染水の中に大量の放射性物質が捕捉できないまま残されています。
佐藤 小出さんが福島第一原発事故直後から指摘されていたように、地下水の流入を止めなければ、今後も汚染水は増え続けるだけだと思います。政府と東京電力の仮定では、現在タンクに溜まっている汚染水を放出するだけで三〇年以上かかるということですが、地下水が流入し続ければ、汚染水の海洋投棄は
終わりなく続くことになるのではないでしょうか。
小出 原発の原子炉建屋は、大量の放射性物質を取り扱うもので、もともと「放射線管理区域」です。そこに外部から地下水が流れ込んでくるなどということははじめから論外です。でも、二〇一一年三月一一日の東北地方太平洋沖地震によって福島原発の原子炉建屋地下は破壊され、大量の地下水が流れ込んでくることになってしまいました。原子炉建屋の中には、熔け落ちた炉心が存在しており、地下水がそれと接触すれば汚染水になってしまうことは当然です。そのため私は、事故直後の二〇一一年五月から、地下に遮水壁を作り、地下水の流入を止めなければならないと発言してきました。しかし、六月に株主総会を控えていた東電は、私が主張したような鋼鉄とコンクリートの遮水壁を作ろうとすると一〇〇〇億円の資金がかかり、株主総会を乗り越えられないとして、その案を採用しませんでした。そして国と東電は、二〇一三年になってから、凍土壁なる遮水壁を作ると言い出しました。原子炉建屋周辺に深さ三〇メートル、延長一・五キロメートルにわたって、土を凍らせて壁を作るという計画でした。私は、地下水の流れは複雑で、一か所を凍らせれば別の場所に流れていくので、全体を凍らせることなどできないと発言しました。そのうえ、四六時中凍らせておくためには膨大な電力が必要だし、地下に打ち込んだパイプが破損したり、詰まったりすれば壁が維持できなくなります。過去に経験のない壁だったため、国は、その壁の建設は実験だとして、国費で建設することにしました。国費とは私たちの税金のことです。もしその壁ができているなら、もう汚染水問題は解決しているはずですが、原子炉建屋への地下水の流入はいまだに止まりません。私は、今からでも地下にきちんとした遮水壁を作るべきだと言っていますし、それができなければ、今後も地下水の流入は止まらないでしょう。熔け落ちた炉心は、炉心を格納していた原子炉圧力容器を熔かし、周辺のコンクリートも熔かし、それらと混然一体となったデブリと呼ばれる塊になっています。原子炉建屋の中にあるそのデブリをつかみ出せれば、汚染水の増加は防げますが、デブリの取り出しなど、夢のまた夢です。〈2面につづく〉


関係者総無責任体制

〈1面よりつづく〉
小出 国と東電が強行を始めた汚染水の海への放出は、彼らの計画が仮に完壁に思惑通り進むとしても、すべての放流を終えるまでには今後四〇年かかります。もちろん私は死んでいますし、フクシマ事故に貴任のある国、東電の関係者も死んでいるでしょう。フクシマ事故被害者の多くも死んでしまっています。それほど大変な作業なのです。そのうえ実際には、今後ALPSが期待通り稼働することもないでしょうし、地下水の流入を止められなければ、汚染水は長期に亘って増えていくことになります。
佐藤 東電は、本格的な遮水壁の建設をコストがかかりすぎるとして真剣に検討せず、国費を使った凍土壁という中途半端な方法を選んだわけですね。そのため地下水の流入は止まらず、汚染水はいまだに増え続けています(コストを気にして本質的対策を怠るという東電の体質は、一五・七メートルの津波可能性を事前に試算しながら何の対策も行わず過酷事故を迎えた、福島第一原発事故前の態度と全く変わっていません)。そこで国と東京電力は、廃炉を行うためには汚染水の海洋投棄が不可欠だと言い出しました。しかし、廃炉とは何を意味するのでしょうか。現在までのデブリの取り出し状況を見ても、あの土地を完全に更地にすることはできないのではないでしょうか。
小出 国の事故処理に関する工程表、いわゆる「ロードマップ」によれば、デブリを取り出し、それを安全な容器に封入し、福島県外に持ち出すことを事故の収束と呼んでいます。しかし、そんなことをしたところで、デブリ自体が消えるわけではなく、仮にデブリを取り出せたとしても、今度はそれを一〇万年から一〇〇万年も管理しなければいけません。汚れきった原子炉建屋、放射能汚染水から捕捉した膨大な放射性物質も残ります。
 従来の廃炉という概念は、原子炉の中にあった使用済み燃料を取り出し再処理工場に移動させ、原子炉そのものは解体撤去し、敷地を更地に戻すことを廃炉と呼んでいました。それができた原発は日本にはありませんし、福島原発の場合はどのようなことができるか全く見通しすら立てることができません。もちろん敷地を更地に戻すまでには数百年、あるいはもっと長い年月が必要です。

海洋投棄以外の選択肢は

佐藤 東京電力と国は、汚染水の海洋投棄以外の選択肢を真剣に検討したと言えるのでしょうか。コスト的に海洋投棄が優位ということでこの方法が選ばれたようですが、実際には、海洋投棄のコストは一七-三四億円とされていたにもかかわらず、現在では一二〇〇億円とされています。処理期間も四年から七年とされていたのに、現在では三〇年以上とされています(https://www.greenpeace.org/japon/campaigns/story/2023/08/24/61694/)。現実的にはコストよりも、環境破壊を防ぐ方が重要なのではないでしょうか。コスト=ベネフィットで考えると、結局は環境汚染を許容する方向に流れるのではないでしょうか。
小出 国にとっては、汚染水はそのまま海に放出する以外の選択肢ははじめからありません。簡単な方法としては、先に述べた地下の遮水壁を作れれば、汚染水の増加は防げますし、なにがしかの増加があるというのであれば、タンクの増設をすれば済みます。国と東電は、もう敷地に余裕がないと言っていますが、福島第一原発の敷地に限っても、七、八号機の建設を予定していた広大な土地が余っています。国と東電は、そこを今後の廃炉作業で使うからそこは利用できないと言っています。しかし、廃炉の工程表すらが現実的なものになっておらず、今の段階でそのような配慮をすることは誤りです。百歩譲って福島第一原発の敷地内に用地が確保できないというのであれば、福島第二原子力発電所の敷地が手つかずに残っています。さらに言うなら、福島第一原発周辺には、国が除染残土の置き場として確保した中間貯蔵施設の土地が広大にあります。使用目的が違うなどというのであれば、特措法を変えればいいだけのことであって、国にとってはお手の物です。
 また、汚染水をコンクリートやモルタルで固めるという案もあります。私自身は、デブリの取り出しなど到底できないので、一九八六年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故の時にやったように、原子炉建屋全体を石棺(鉄骨とコンクリート)で覆うしかないと発言してきました。そのためには膨大なコンクリートが必要になりますので、それを作るために汚染水を使えばいいと発言していま
す。
 他にも、地下の空洞に圧入するという方法も提案されています。また、海は表層と深層が混じっておらず、深層に注入すれば千年単位で表層に出ないように閉じ込められると提案している人もいます。

IAEA最終報告書とは

佐藤 放射性物質による被曝には閾値がないわけですから、汚染水の海洋投棄によって健康影響が出ないとは言い切れないと思うのですが、現在では国が率先して「健康影響はありえない」と宣伝しています。メディアもそのプロパガンダに追随しているように思われます。水俣病被害者は、「希釈しても(放射性物質の)総量が減るわけではない。(食物連鎖によって濃縮する)生物濃縮でメチル水銀が人体に影響を及ぼした事実を私たちは水俣病で経験した。人体への影響が明確にならていない段階での放出は許されない」と指摘しています(https://mainichi.jp/articles/20210419/k00/OOm/040/252000c)。
小出 被曝はどんなに微量であっても危険があるということは学問の常識です。ただし、被曝によって生じる健康影響は「非特異的」と呼ばれており、普通に起きている健康影響と区別することができません。たとえば、被曝でがんが発生することはすでに学問的に確定していますが、がんは被曝以外の原因でも発生します。そうなると、仮に被曝が原因で発生したがんも、その原因が被曝であると立証することは容易でありません。そのため、これまでも被曝が原因で起きた健康被害の多くは、因果関係を証明できないまま闇に消されてきました。被曝により健康被害は必ずあるにもかかわらず、それが立証できないため、「健康影響はない」とすり替えられてきました。
 水俣病の場合には、はじめ原因がわからなかったため、患者の多い場所では感染症ではないかなど様々な原因が疑われました。長い年月の後、ようやくに有機水銀中毒であることが確定されました。でも、それまでの間にたくさんの悲惨な被害が出ました。福島の放射能汚染水の海への放出では、その影響は必ず存在します。でも、それを立証することに困難を伴います。
 フクシマ事故の「原発関連死」は認定されただけでも二千人を超えています。それ以外にも膨大な被害を出しながら、加害者である国と東京電力はいまだに誰一人として責任を取っていないし、処罰もされていません。彼らは、放射能汚染水を海に放出しても被害の立証すらできないし、被害はないと言って逃げおおせると思っています。
佐藤 汚染水の海洋投棄に「安全」とお墨付きを出したIAEAの最終報告書についてはどう考えれば良いでしょうか。IAEAの審査は日本政府の汚染水海洋投棄の決定後に行われたため、海洋投棄の正当性を検討していません。これは、被曝量を「合理的に達成可能な限り低く抑える」(ALARA)という彼ら自身の原則と矛盾しているように思われます。
小出 日本人は、権威に弱いです。国はそれを積極的に利用し、IAEAから「安全」のお墨付きもらったと大々的に宣伝し、多くの日本人が、それなら「安全」なのだろうと思ってしまいます。でもIAEAは「国際原子力機関」と呼ばれるように、原子力を推進するための国際的な中心組織です。原子力を利用する限り、放射性物質の生成は避けられません。そして生成した放射性物質のすべてを閉じ込めることはできませんので、IAEAは濃度さえ薄めれば環境に放出してよいと決めた張本人なのです。そして、日本政府はIAEAに対して、海に放流する以外の選択肢をすべて排除し、海に流す場合の安全性についてのみ諮問しました。そうなれば、濃度基準さえ守れば問題ないとIAEAが認めるのは当然のことです。でも、IAEAは報告書で、海に流すことを「推奨するものでも、承認するものでもない」ときちんと書いています。海に流す以外の方策がたくさんあるのに、それらを排除し、海に流すという決定をした後で、IAEAの判断を仰ぐという日本の国の汚いやり方が一番いけないことです。


単なる安全問題ではない

小出 もう一つ指摘しておくなら、今年八月に広島で開かれたG7の会議では、ドイツが福島原発の放射能汚染水を海に流すことに反対しました。もちろんG7の英文の公式声明では、海に流すことを不可欠と認めませんでした。しかし、日本政府がそれを日本語版の仮訳文書にした時には海に流すことは不可欠だと、強引で意図的な誤訳をして報道に流しました(http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-bc4644.htm1)。多くのマスコミが何の批判をすることもなく、それを流してきました。れっきとした「放射能汚染水」を率先して「処理水」と呼び続けている犯罪を含め、日本のマスコミは政府を監視するどころか、政府の顔色をうかがうだけの組織になってしまっています。
佐藤 最後に、汚染水海洋投棄と、核燃料再処理の関係について、小出さんのお考えを伺えればと思います。
小出 福島原発の放射能汚染水を巡っては、それが安全なのかどうかという議論に押し込められています。被曝は微量でも危険を伴うのですから、被曝に関しては「安全」という言葉を使うこと自体が間違いです。「危険」の程度が高いか低いかの違いでしかなく、被害は必ず発生します。それを防ぐためにも、少なくとも今現在は管理されている放射性物質を意図的に海に流すという選択はとるべきではありません。
 ただ、国にとっては、実は海に流す以外の選択がはじめからないのです。もし、フクシマ事故がなければ、正常運転して燃やした使用済み燃料は、青森県六ヶ所村に建設されている六ヶ所再処理工場に送られ、処理される計画でした。再処理工場とは、長崎原爆の材料となったプルトニウム239を取り出すことを目的にしています。プルトニウム239は原爆の材料にもなるし、原発の燃料にもなります。多くの人が誤解させられていますが、地球上のウラン資源は貧弱で、ウランを使うだけの原子力では未来のエネルギー源になりません。そのため国は「プルトニウム239を効率的に生み出す高速増殖炉を実現する。そうすれば原子力の資源は六〇倍に増える」と言ってきました。そうなったところで、原子力など、化石燃料にようやく匹敵する程度であって、未来の無尽蔵なエネルギー源にはなりません。でもプルトニウム239を利用できないとなると、日本が進めてきた原子力政策は根本で破綻してしまいます。そのため、日本としては、何としても六ヶ所再処理工場を動かそうとしますし、それを断念するとは決して言えないのです。
 その六ヶ所再処理工場は、一年間に原発の使用済み燃料八〇〇トンを再処理する計画です。原発の段階では曲がりなりにも燃料の中に閉じ込められていた放射性物質を、高温高濃度の硝酸に溶かし、様々な化学操作を施してプルトニウム239を取り出します。その過程で、大部分の放射性物質はガラスに固める計画になっていて、それが核のゴミと呼ばれる超厄介なゴミの本体になります。そして、その操作の中で、トリチウムは全く捕捉できませんので、全量を環境に流すことにされています。そして、六ヶ所再処理工場が計画通り運転されるなら、その作業を四〇年間続けることになっています。
 福島第一原子力発電所で熔けてしまった燃料の総量は二五〇トンです。そこに含まれていた放射性物質の始末に今苦闘しているわけですし、捕捉できないトリチウムを海に流し始めました。しかし、もし、フクシマ事故のトリチウムを海に流してはいけないということになれば、総量で三万二〇〇〇トンもの核燃料を処理し、その中に含まれていたトリチウムは全部環境に捨てるという六ヶ所再処理工場は、全く運転できなくなってしまいます。つまり日本の原子力政策が根本的に破綻してしまうのです。
 福島原発の放射能汚染水を海に流さないで済ませる現実的な方策はたくさんあります。しかし、それらをすべて排除し、海に流すのは、再処理という日本の原子力政策の根本と絡んでいるからです。福島原発の放射能汚染水の問題は単なる安全問題ではないことを、多くの人に知ってほしいと思います。
(おわり)


★こいで・ひろあき=元・京都大学原子炉実験所助教。著書に『原発ゼロ』など。一九四九年生。
★さとう・よしゆき=筑波大学准教授・哲学。一九七一年生

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ある日の「X」うえのやりとりなど

2023年10月15日(日)

「X」上でのやりとりを見ていて
ちょっと悲しいというか やりきれなさを感じる.
なんというか 
いや 年寄りになったといわれそうだけれど 松浦さんの指摘は ことを支持するしないにかかわりなく ある程度のcommon senseに近かったと思うのだけれど
どうもそうではないのだろう.

さいきん新聞などを見ていても 
「税」とはなにか そして どんな効果があるのか……といったことが ほとんど語られないように思う.
そして 「ふるさと納税」なんてものが 政治家のお手柄のように語られる.
そんなに住民税を払いたくなければ 即刻居住地の自治体の首帳をやめさせるのが当然だろう
あるいは消費税とか

そういえば どなたかが書いていたか
さいきん所得税の累進課税について 否定的な考え方の若い人が多くなっているのだという

新自由主義のもとで生まれ 育ち 学んできた人たちが多数になってきている ということなんだろうか.
大学で とまでいかなくても 高校あたりの政治・経済 公民というのだろうか あるいは倫理などの分野で どんなことが どんなふうに教えられているのか と不安になる.
もちろん だからといって 事態を反対側からみている人たちをなんとかしろとはいわない.
おなじ事態をみているけれど 価値判断の差があるということは ありえるのだから. 

それと 「家」あるいは「家族」 あるいは「親子」 やっかいなことかもしれない.
いつだったか デンマークの人と結婚した人が 
ここでは 子は18歳になったら家を出て行く
そんなことをおっしゃっていた.
列島の国ではどうだったか.自分のことを振り返ることもある.
個人の尊厳をいいつつ 「家」の名誉を語っていないか 考える.
で すこしばかり「歴史」を考えてみたりもする.

書かれたものを信ずれば 松浦晋也さんは とても真剣に母親の介護を考えていらしたと思う.
その上でのご意見だと.

なんとなくまとまらないまま…….


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松浦晋也@ShinyaMatsuura
間違い。社会保障をなくせば、必然的にその面倒は下の世代の親族、具体的には子の負担するところとなる。
引用
霞ヶ関女子@kasumi_girl·10月13日
「社会保障をなくしたら誰が親の面倒を見るんだ!」

これ言ってる人たち、自分で親の面倒を見たくなくて、若者や介護従事者を低賃金でこき使いたい準老人ですからね。 twitter.com/rougetgachihol…
午後10:23 · 2023年10月13日·5.3万 件の表示


Worsick Morrel@WorsickMorrel·10月14日
まさに受益者である「子の負担するところ」が社会の持続可能性に資する。という意見なんですが…
松浦さん、科学ライターとしての知識はあったのに社会知が少ないご自身を省みられなくなったのが残念ですね…

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教員試験、小学1.1倍 全体は1.6倍、初めて2倍切る 来年度採用 /東京都

2023年10月10日(火)

いつごろだったか 教育学部とか あるいは学芸学部とかの名称が変えられていった.
人間科学部とか なんかよくわからない いや 今風なのか そんな名称の学部が誕生していった.

さいきん芸能関係の業者が会社の名前を変えることになったそうだが
そのころの大学はどうだったのだろう.
そういえば 東京学芸大学は まだその名称を維持しているな.
しかし 東京教育大学は 筑波大学と名前と立地を変えた.もとは 東京高等師範か.
名前が変わってどうだったんだろう.
やはり名は体をあらわしたのだろうか.

団塊の世代のジュニアが年をとっていって 次第に義務教育年齢の子どもの数が減少していった.
学級の規模が問題とされていたのは ずいぶん前のことじゃなかったか.
教員の数に合わせたのだろうか 学級規模がすこしずつ小さくされていった……というのは
ぼくの偏見だったろうか.
そこに教師と学生の関係に対する なんらかの議論があったか あまり思い出せない.
海外の事例が取りあげられることもあったが じっさいの学校の運営に反映されただろうか.

人口減少 とりわけ子どもの出生数の減少の前に
たぶん教師はあまり必要なくなる そんな「気分」だったんだろう.

大学の教員養成学部には将来がないとでも思ったのだろうか. 

それにしても不幸なことだったように思った.
なぜ…… うまく言えないけれど
JNRについても ちょっとそう思ったのだったけれど なんというか
保守党の日教組嫌いを見ながら
日教組の 組合組織の端っこの方を見ながら
なんというか 不幸なというか ばかげたというか そんなことを思うことがあった.
……JNRについて さいきん亡くなった偉いさんご自身が 経営などの合理性からではなく
対組合の政治判断がもっとも大きかった と語っていたと思う.
列島の交通体系をどうしたらいいのか……なんて議論は ほとんど聞かれなかったな と思い出す.
だから 当時の国労などの幹部の発言が正しいなんて思わないけれど.
残念なことだった そう思っているが
さて 公立学校はどうなんだろう.

たとえば老朽化した校舎の建て替えが話題になることがある.
自治体再編や 児童数減少での統廃合などが契機になることもあるけれど
なかには数十年 老朽化した校舎が 考えてみれば 団塊の世代にあわせて あるいはそのジュニアにあわせて整備されてきた校舎が まとめて老朽化してきて どこから手をつけようか……なんてことになってきたのではなかった.
でも 自治体の庁舎は 立派な高層ビルに建て替えられていく.
足下には 老朽化して耐震工事の跡も痛々しいぼろ校舎が……なんて図がよく見られる.
古い校舎でもいいと思う.

そういえば高校は 団塊世代に備えて 各学年1クラスずつ増設されていた.
でも いま考えればひどいもので 元の屋上に3つの教室を増設していた.地震でも来たら たいへんだったかもしれない.
そうではあったけれど だから立派な見栄えの校舎がいいな……なんてちっとも思わなかった.
教師はどうだったんだろう.
教えることに熱心な人 むしろ管理者への道を望む人……よくは知らない.
印象に残る数少ない教師は ヒラ教員として 職業人生を終えていたように思う.
あるいは 熱心な担任だった人は 大学の教員に転じた.彼とそんなに親しく話したことはなかったけれど 印象に残る人 戦後 アメリカに留学した英語の先生 彼はなんとなく当時の学校の現場にうんざり あるいはがっかりしているような印象が残る.

いや 脱線しっぱなしだけど さて どんな人が教師になっていくだのだろう.
記事が伝えるように 1.1倍とか 1.6倍とか いや これでは競争試験にはならない.
試験のあり方自体を徹底して見直さないといけないのかもしれないけれど
とりあえず現行の採用の仕組みを前提として これはもう競争試験ではない.

なんだかな……と思い 先行きを考えてしまう.
もっと自由で もっと多様であるべき学校なんて考えたこともあったけれど
思いかえせば 多くの教師が 朝の朝礼とか みんなでがんばる運動会みたいなものには熱心だったことばかり思い出される.



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2023年09月30日 東京 朝刊 東京四域・1地方

教員試験、小学1.1倍 全体は1.6倍、初めて2倍切る 来年度採用 /東京都

 都教育委員会が実施した2024年度の教員採用選考について、小学校の受験倍率が1・1倍だったことが分かった。都教委が29日、発表した。小中高、特別支援学校を合わせた全体の倍率も1・6倍で、初めて2倍を切った。いずれも過去最低だった前年を下回り、教員の質の低下や人手不足がいっそう懸念される事態となっている。

 国語や数学など中学高校共通の倍率は1・8倍、特別支援学校は1・3倍。特に深刻なのが小学校で、2280人が受験し、2009人が合格した。受験者数は10年前より半減したが、「35人学級」の導入などで採用数を増やす必要があり、合格者数は約1・6倍に増えた。

 また、新たな人材の掘り起こしをめざした選考制度の結果も公表された。教員免許なしで受験できる社会人選考は、「40歳以上」だった応募年齢が今回から「25歳以上」に引き下げられ、前年の15人を大幅に上回る149人が受験。88人が合格した。教員経験者向けの「カムバック採用」には102人が受験し、83人が合格となった。

 都教委は新たな取り組みとして、「ペーパーティーチャー」向け研修などを予定する。担当者は「免許なしで合格した方に、確実に免許取得をしてもらえるよう働きかけるなど、合格者に確実に教壇に立ってもらえるようアプローチを続けていきたい」と話す。(本多由佳)

 【図】

東京都の教員採用選考の受験倍率の推移
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