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田中克彦 言語からみた民族と国家 もくじ/序

2024年03月02日(土)

ずっと後になって,ノモンハン戦争に関する論攷などを読みながら,
むかしのことをちょっと思いだしていた.
言語学に興味があった……というわけじゃなかったと思う.
多少の知識が必要だな,と思ってはいたのだろうけれど.

国語と国家,
ことばと国語,
ことばと民族.
国家と民族……,
ずっと気になっていたんだろう,
気になるだけで,そこからさらに……とはならなかったけれど.

……………

岩波現代選書,
1978年から1987年まで128冊が出版されたとあった.
その前,岩波全書があったなと思い出す.
何冊が書棚に眠っていると思うけれど.

―――――――――――――――――――――――――

言語からみた民族と国家

田中克彦

岩波現代選書 13

岩波書店
1978年8月25日 第一刷

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目次

序 ダンテにおける「高貴な俗語」  ……………1
I 恥の日本語           ……………31
Ⅱ 柳田国男と言語学        ……………67
Ⅲ エリートの国語         ……………95
Ⅳ カール・カウツキーと国家語   ……………139
Ⅴ ソ連邦における民族理論の展開  ……………189
  ――脱スターリン体制下の国家と言語――
Ⅵ 国家語イデオロギーと言語の規範 ……………239
Ⅶ 固有名詞の復権         ……………293

  あとがき            ……………337
  人名索引





自然は民族を創らずただ個々の人間を創るのみであり、個々の人間が言語、法律ならびに風習の相違によってはじめて民族に区別されるのである。
スピノザ『神学・政治論』
(畠中尚志訳、岩波文庫版)




〈1〉
序 ダンテにおける「高貴な俗語」

1 文法の奪取


人類が文字を用いてことばを記すようになってからの歴史は、ことばの全史の中でほんの一ページにも満たない。同じようにことばと言っても、それを話すことと、書くこととは、かなりちがった世界のいとなみである。人間であるかぎり、ふつうだれでもことばを話すのであって、話すということは、いわば人間にそなわった自然の一部である。しかし、書くことはそうではない。ほうっておけば人はいつまでも書くようにはならないのであり、話すことに比べれば、書くことはより自然から遠ざかる。
 さらに、人類のうちの絶対多数は、ごく最近まで、自分のことばあるいはそれに近いことばを書くことができなかったし、自分のことばで書こうなどとは思いもよらなかったのである。書くためのことばと
〈2〉
話すためのことばは、時代が古いほど離れている。二つのことばが近づけられたのは、言語的エリートの独占を排し、書くことをすべての人のものにしようとした、近代民主主義の願いによるものであった。日本人がはじめて漢字と、それによって書かれた言語と文章を学んだときに、かれらは、それが本家におけると同様なしきたりにしたがって書かれるよう細心の努力をつくしたのであって、いささかでも日本的な汚れが、そこに浸み込むことのないように神経をとがらせた。ところが本家の純粋性が守られるのは、文字を用いる、つまり、漢文の書ける人間が、せまい範囲のごくわずかな数のエリートに限られているばあいだけであって、その使用が非エリートにまで拡大されてくるにしたがって、しきたりの厳密さ、純粋さにはどうしてもにごりが出てくる。非エリートはこまかいしきたりを完ぺきにマスターする機会もとぼしく、ひまもない。じっさい、書く技術を身につけるには、どうしても相当な時間を肉体労働から解放されていなければならない。ところが、何かを書きたいと願う気持、書かねばならない必要は、エリートたちだけのものではない。むしろ、そうでない人たちにとってこそ、書きたいことが多いかもしれないのである。
 日本では、神聖であるべき漢字が、しばらくの間はそのままで使われていたが、やがて、それをもっと簡略にして、日本語、つまり我々の.ことばそのものを書きあらわすための道がひらかれるように
〈3〉
なった。漢字は音のみならず意味をあらわすのであったが、こうして、日本語の都合にあわせて、ねじまげられた文字は、もっぱら音だけをあらわすための、したがって、漢字から見て正式ではない仮りの文字と名づけられた。漢文から見れば仮りの文字であったが、我々のことばから見れば、これこそが、我々のことば、つまり話した発音を比較的そのまま表わせる、日本人のための文字であった。仮名は、女や子供、教養のない男に使われた非エリート専用文字であり、じつは、日本語が書けるようになったのは、こうした非エリートが、大挙して、読み書くいとなみに参加したからである。かれらの無教養こそが、漢文の支配を追い払って、今日のさかんな日本語への道をひらいたのであった。
 もともと、はじめから自分のことばで書くことのできた民族は、アジアでは漢族とか、インドのサンスクリット古典語を用いた民族くらいであり、ヨーロッパでは、ラテン、ギリシャ、ヘブライの諸語を話した民族くらいである。もちろんそれ以外にも、中世に入る以前に、りっぱな書きことぽを残したケルト系の民族もあるにはあった。しかし、中世の西ヨーロッパにかぎって言えば、そこの知的生活は、もっぱらラテン語の読み書きによって行われていたので、書くということはかならずラテン語で書くことを意味し、それを学ぶための文法は、もっぱらラテン語のためのものであった。逆に言えば、ラテン語には文法があるが、その他のことば、とりわけ、家の中で女や子供が日夜話している
〈4〉
ことばにも、また文法があろうなどと人々は考えてみもしなかったのである。したがって、当時の感覚からすればイギリス語文法、フランス語文法、ましてや日本語文法などという、ばけもののような文法は概念として存在しないはずであった。このような野蛮の言語についての文法はせいぜい、たとえとしてしか考えられなかったのであるが、たとえとしても、これはずいぶんゆがんだたとえであった。そういうわけで、すべての言語には、それぞれに固有の文法がそなわっているものだと人々が認識するようになってからほとんど時間がたっていない。ラテン語以外の「俗語における文法の発見」は、ヨーロッパ文化史の上で目をみはるできごとであった。そして、ほかでもない俗語=非ラテン語の文法を構想し、実行するという偉業は、一五世紀末のスペインにおいてはじめて実行にうつされたのである。
 ここで「文法」ということばについて考えたことが、やはり「歴史」についても言えそうである。というのは、まだ百年くらい前の一九世紀のヨーロッパでは、「歴史なき民族」ということばが使われていた。しかもそれは社会主義者――あるいは社会主義者であったればこそ――の愛用したことばであって、もとはエンゲルス(良知力「四八年革命における歴史なき民によせて」『思想』一九七六.一〇参照)から、新しくはオットー・バウアー(本書第Ⅳ章注16参照)に至るまで、いくらでも用例をあつめること
〈5〉
ができる。「反革命的な」「歴史なき民族」の中でも、ユダヤ人は最もたちの悪いものであって、かれらには「歴史がない」から、固有の民族として認めるにあたいしないというたちばは、オーストリアの社会民主主義者の間では一つの伝統となった。すべての民族には、いな民族にまで達しない前民族、すなわちロシア語でいうナロードノスチにも歴史があると人々が認識するには、文法のばあいと同様に、長い歴史があったにちがいなく、そのばあいですら、歴史なき民族にとっての歴史は、やはりたとえでしかなかったのである。社会主義の理論家の中で、このような「歴史なき民族」のドグマを真に破ったのはスターリンであった(本書第Ⅳ章参照)。このような意味で、歴史ということばと同様に、文法ということばもまた一つの歴史的概念であって、固有名詞の性質を帯びている。ところが、この固有名詞を一般化して、文法はラテン語だけのものではないということを実際に示した最初の例がイベリア半島のカスティーリャ方言であった。すなわち、ネブリーハという人物がこの有力な方言の文法をあらわして、イサベラ女王に捧げたときに、ラテン語による文法の独占はうち破られ、この方言はやがて他の諸方言を圧して国家語へと歩み、さらに海をこえて中南米地域で最も有力な言語となるための軌道が敷かれたのである。それが、ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発見した一四九二年であったということはあまりにも象徴的である。「女王様の支配下に入った野蛮人どもが、ちょうど
〈6〉
私たちがラテン語文法を学んだと同じように、私の文法でスペイン語を勉強するようになるでありましょう」と著者は述べている(本書第Ⅲ章参照)。そして、実際にその通りになったのである。
 中世ヨーロッパでは、ドナトゥスとかプリスキアヌスの文法を修得することが知的エリートになるための要件であったのであるが、それによって学ばれるラテン語は、誰にとっても生まれながらにして話していることばではなく、ひまのある人が特別に努力してやっと身につくことばであった。ラテン語を身につけ、それを自在に駆使できるという技能は、当時としては、知的議論に参加するための前提条件であった。そして、文法は発音の規則をも含むところの、ことばにおける正しい規則の法典を示すものであった。言語使用におけるいっさいの差別は、この規則の法典から現われる。だから、ある方言や言語の話し手が、あれこれの音が正しく出せないと言ってからかい、笑いものにする風習はずいぶん古くから、しかもラテン語のような人工的な言語についてもあったことは、次の聖アウグスティヌスの『告白』の一節からもうかがうことができよう。

  主よ、わたしの神よ、ごらんください。いつものように、忍耐をもってごらんください。いかに人の子らがさきに語った人びとから受けついだ文字や、音節の規則の遵守には実に熱心でありながら、あなたから受けた永遠の救いの永久にかわらぬ掟のほうをどんなに軽んじているかをごら
〈7〉
んください。それであの昔からの発音の規則を知り、あるいは教える人間が文法の規則に反して、「ひと」という語の第一音節の息をぬいて「いと」と発音しようものなら、ひどく人びとの感情を害し、同じ人間でありながら、他の人間を憎むばあいよりももっと人ぴとの反感を買うものである。(服部英次郎訳、岩波文庫版)

ここでは、ラテン語のホモhomoのh音を母語に持たないために発音できない人のばあいのことを言っている。ラテン語の血すじを引く今日のヨーロッパの言語では、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの諸言語は、いずれもhの発音をすててしまった、いわば「いと」語であるが、これらの言語が、それぞれフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語等々であるのは、「いと」とくずれ、乱れた発音を発達させたおかげであり、これらの言語でhを発音すれぽ逆に笑いものにされてしまうであろう。
 生まれおちて最初に身につけたことば、――そのことばを学ぶのに、どんな苦労をしたかという記憶のない、いわばひとりでにしゃべれることばについて、人はあらためて文法書を開いたりするはずはない。学校が文法のための文法を課するようになったのは、近年の奇妙な流行である。その奇妙さは、言語学の持つ奇妙な性質そのものとよく似たところがあるが(本書第I章参照)、とにかく、文法と
〈8〉
いうものはおかしなものだということをフリッツ・マウトナーは次のように言っている。

  文法というものは、そのことばをよく知っていて、そんなものを必要としない人たちだけにはほんとによくわかるようにできている。ところで外国語の文法とふつう呼ばれているものは、チロルの地図を持ってヒマラヤに登ろうとするようなものだ。(『言語批判のために』第一巻)

つまり、無用な文法だけが完全であり得、必要な文法は常に不完全だということになる。文法は、日常的でない言語、大ざっぱに言って外国語学習用に必要なことは言うまでもないが、じつは国内にむかっても、ことばの作法のしめしをつけるために、近代国家がひとしく持つ必要を感じている。文法とはヨーロッパではグランマ・ティケー、つまり文字(グランマ)の技術(テクネー)を授けるためのギリシャ人の発明であったが、それを日本語が文技とか文術ではなく、文法と訳したのは、この技術の役割を適切にとらえている。つまり、文法は法典にひとしいのであって、異族のみならず同族に対しても、ことばのしめし、規範をしめす役割をになって現われる。この規範は、単に技術の規範にとどまらず、趣味や倫理の規範という役割すら帯びるに至ったのである。
 ギリシャ語やラテン語の文法がどうしても必要であったのは、それらが日常のことばと離れ、ひたすら文字で書かれることばになっていたからである。だから、きまじめに語源的な解釈に従うならば、
〈9〉
文字で書かれない民族語や方言には、定義によって、文法は存在しないことになる。ところが、民族語や方言は、国家の言語になったとたん、まったく新しい資格づけをあてがわれる。何よりもまず、文字の使用と国家あるいはそれに類した政治的統一体の出現との間には深い関係がむすばれ、やがて国家語は文法を要求し、また文字(リテラ)で書かれた「文字言語作品」(リテラチュア=文学)を要求するであろう。このようにして、近代国家が非日常的な古典語をすてて、俗語つまり非古典語を国家語として採用したとき、俗語の文法は国家が当然所有すべき国有財産目録の一項目となり、さらに文学もまたそこに加わってくる。じじつ、文学も国家の観点から見れば、軍隊と並ぶ国家的整備の一つであることを、新興諸国家の例は教えてくれる。ネブリーハははじめて俗語=非古典語に文法をあてがってやるという、前人未踏の思いもかけぬアイディアによって、俗語の中に国家語イデオロギーを植えつけたのである。
 さまざまなかたちで進行していたラテン語に対する俗語(すなわち、文字で書かれない諸民族のことば)の主張は、俗語文法の出現によって決定的なくぎりをしるした。それまで、ラテン語のかげにかくれていたいろいろなことばがそれぞれに文字と文法と文学を所有する道をあゆみ、中にはこの三者をほとんど一挙にそろえた例もある。一九世紀はこのような運動が頂点に達した時代であった。一九
〈10〉
世紀に開花し、せかれるような情熱をもって組みあげられた「インド-ヨーロッパ語比較言語学」の背景には、言語的に分裂して行くヨーロッパ世界に、諸民族語の共通起源を仮設することで精神的な統一を維持しようという気分がはたらいていたことはまちがいのないことで、二〇世紀はじめの最も比較言語学者らしい言語学者アントワーヌ・メイエは、とどめようもなく進行して行くヨーロッパ世界の言語的分裂を一つの異常事態と見たのである(本書第Ⅵ章参照)。
 俗語の俗語たるゆえんは、そのとどめがたい流動性にある。ダンテもまた俗語が最も人間らしいことばであるとたたえながらも、俗語、つまり、生きたことばは、時間的にも空間的にもかぎりなく変化するため、この点でラテン語に一歩をゆずることを認めざるをえなかった。ことばは生きているかぎり変化する。つまり、ことばが変化するのは、それが生きていることのあかしである。生きているということはどういうことかといえば、人々が絶えず使っているということである。人々が使用をやめた言語はいつまでも変化することがない。人間は歴史の中で決して一か所に立ちどまっている動物ではないから、最も人間的な技術であることばが変らないわけはないのである。ところが、俗語がひとたび文法をそなえ、イベリア半島の諸王国のみならず、海の彼方の野蛮人にまで使わせようと考えられた瞬間、俗語文法という道具の発明者は、俗語から、その流動性だけは注意深くぬき去って、未
〈11〉
来永劫にわたる固定を願わずにはいられなかったのである。ネブリーハの次のことばに注意しよう。

  いまもこれからも、このことばで書いて行こうとする人は、時が続くかぎり同じ内容をまもりつたえ、たがいに理解しあえることになろう。ちょうどギリシャ語やラテン語は何百年を経ても、いまなお統一をたもっているように。

 注意すべきは、ラテン語から脱却するためのモデルはやはりラテン語だったということだ。つまり、考えられている図式というのは、統一的な規範、永続性、不変性、恒常性という、ラテン語の好もしい性質をそっくり温存しながら、それをまるごと手に入れた上で、新興文法がラテン語のあとがまにおさまろうというものであった。ネブリーハはこのようなかたちで、言語の本質を見ていた。そして、この基本線は、いまの諸国家の言語規範主義者たちの中に生きつづけ、ときには、俗語古典作家の遺産により、実際の必要をはるかにこえて強化されている。
 言語の研究は、永きにわたって、文法→規則→おきて→正しい用法→作法→礼儀→しつけという環からのがれることはできなかった。その環を破り、正邪の判断をこえた、ことばそれ自体の生命を知ろうというたちばに立ったとき、言語学は規範文法家、正しいことばの伝道者を任ずる正しいことば教室教師や作家、文章評論家等々の言語裁判官とは相いれないたちばに立つことになった。
〈12〉
 そのため、言語学は、意図せずとも、緒果としてはことば使いをせめられる被告の側に立って、なぜそのような誤用があらわれるかに注意を払うよう求める。誤用もまた、言語の自然の一部、いや、誤用にこそ言語の自然ないとなみが現われているのだと考えたアンリ・フレーは、遂に『誤用の文法』を書きあらわすに至った(小林英夫訳、みすず書房刊によって読むことができる)。この「文法」の意味を「文法」の出発点にたちもどってそれに重ねあわせてみるとき、ここでもまた、人間がみずからをしばったくさりを、みずからの手で破って行こうという、真に人間的な、けだかい活動のひとこまを見ることができよう。近代における言語の研究は、よくそう思われているように、単なる知識、技術、思弁としてあるのではなく、人間を最も深いところでしばっている、ことばの差別と規範の起源とその原理に気づく道を示す結果をともなっている。


2 なぜ俗語か?

 俗語文法の編さんという偉業の中に、我々は、一種の規範言語の政権交代とでも呼ぶべき現象を見る。それは、ネブリーハの考えかたにあらわれているように、規範としてのラテン語の座を奪取し、
〈13〉
俗語に、それと同じ役割をもたせて、そのあとがまにすえるという、外的な機能としてとらえた言語の入れ替えである。
 しかし、こうした政権交代にさきだって、では、なぜラテン語ではなく俗語でなければならないのか。思想の自立的で自由な手段(instrument autonome et Libre de la pensee――モールマンのことば)であり、民族をこえた伝達を可能にするヨーロッパ文明の伝統と精髄の結晶である、普遍言語ラテンをおさえ、その聖域を犯してまで、なぜ俗語を文学の領域にまで持ち込まなければならないかという、この問題を内面からとらえておく作業が必要であった。ネブリーハがそうした議論に踏みこむことがなかったのは、そこまで考えがおよばなかったからというよりはむしろ、当時すでに、俗語の要求は自明のことになっていたからかもしれない。それはまた、ひとつには、ネブリーハの文法に二百年も先立つ一三〇四年前後という早い時期に、ダンテという姿をとった一人の俗語イデオローグを介して、俗語の主張に理論的根拠が与えられていたからであったと言えるであろう。
 ダンテは西欧諸言語誕生の理論的根拠を示したその記念すべき『俗語論』にさきだって実際に俗語による『新生』を発表したが、その中で、「俗語ででなければ書かないというのが、そもそも私の最初からの考であった」(山川丙三郎訳)とたちばを表明している。場所は、ベァトリーチェの死のかなしみ
〈14〉
をあらわすのに、エレミア書からのわずかなラテン語の引用のあとを何故続けないかを説明したくだりである。
 その後、やはり俗語で書かれた『饗宴』の冒頭のかなりの部分は、これまた俗語で書くことの弁明にあてられているが、その中で、俗語の議論については、私は別に独立の書をものするつもりであると予告している。これが『俗語論』である。つまり、ダンテにおいては、創作という実際の作業と、創作の手段そのものである俗語で書くことの根拠づけとが、同時に並行してすすめられている。
 ところで、ここでどうしても「俗語」ということばの概念を明らかにしておかねばならない。ダンテの問題の著De vulgari eloquentiaを『俗語論』と訳した最初の日本人が誰であったかを私はいま明らかにできないのであるが、中山昌樹による大正十四年の翻訳は、すでにこの題名を帯びている。そして、vulgarisを「俗」と訳す慣行は、おそらく日本では当時すでに定着していて、特に工夫を要するほどでもなかったと考えていいであろう。この「俗語」の意味を間接的に明らかにするために、諸外国の訳語を参照してみよう。
 たとえば、英訳本ではくvernacularとなっている。ロシア語は、一九六八年のИ・Н・ゴレニシチェフ=クトゥゾフ訳では、書名全体はO 蔑§&ミ謡蓬Qミ竜馬§魯であり、また、興味を引かれるのは、
〈15〉
B・シクロフスキーによる訳がすでに一九二二年にあらわれていて、この方は直接見ることはできなかったがO ?apo?d?KOr pe?uになっているということである。いずれにせよ、「俗」にあたるところは「ナロード」という、これまた含みの多い語が用いられている。ドイツ語も同様に、文中で「俗語」をVolksspracheと訳しているのは、ロシア語のばあいと同様である。
 ところで日本語の「俗語」について、たとえば記述的にすぐれている「三省堂国語辞典』第二版は、「世間に広く使われている、くだけたことば」と言い、その例として「いけすかない」を挙げて、「この辞書では、卑語〔=ばかたれ〕・隠語〔=すけ〕などもふくむ」と説明しているように、俗語はある言語全体を指すのではなくて、ある言語の中の特定層の語彙をよぶもののようである。したがって、「俗語」ということばには野卑なののしりことばを連想させるところがあるのも不思議ではない。げんにいまある、このような俗語の語感を述べたものとしてはこの記述は全く適切であろうと思う。が、ダンテの言う「俗語」(とかりに日本語で訳されたことば)は『広辞苑』第二版が第一の意味としてかかげる「歌や文に用いられてきた文字言葉である雅語に対して、それと異なる話言葉」という意味の方により近い。もっと正確にいえば、話しことば全体を指す『広辞苑』の説明は、中山の翻訳があらわれた当時にまだ通用していた、「俗語」の意味に対応するところの古典的説明と言っていいかもしれない。
〈16〉
 もともと、ことばの社会的な存在様式をあらわす用語に、文脈抜きで適切な訳をあたえることは至難のわざである。なぜなら、その言語の置かれた社会的、文化的状況の中で、ある評価を表明し役割を求めて与えられるこれらの語は、こうした特定の状況をこえて普遍的ではなく、固有の歴史的概念を含んでいるからである。とにかくダンテの「俗語」は、「ばかたれ」、「すけ」のような、特定の個々の語彙をさしているのではなく、したがって、『俗語論』も、「ばかたれ」、「すけ」で文章を書こうというすすめではない。「俗語」は、一つのまとまりをもった言語全体のことであって、何よりも、「文字と文法と文学を持たない」ことを大きなめじるしとする。それはやがては文字を所有して、近代諸国家の国家語になるべき未来をもつことになるが、(内的)言語学のたちばからすれば、あることばが国家語になるかどうかの原因は、言語それ自体の中には宿されていないのである。
 「俗語」には、たとえばこのように、さまざまなニュアンスがあるが、しかし、文法をそなえ、文学のための、非日常的な雅なるラテン語に対する、日常の俗なることばという意味において、やはりこの「俗語」という表現は、ダンテの意図をよく示した日本語であるように思われる。それは、あとでみるように、俗語の俗なるところがすなわち高貴なのだという、ダンテの論の展開をたどって行くためにも、あえて「俗」の意味を保持しておきたい。そこでこの論に入るに先立って、じつは、ダン
〈17〉
テ自身による俗語の定義を見なければならない。

  俗語とは、こどもがことばを聞きわけられるようになるとすぐに、自分のまわりの者から身につけることばのことだ。もっと簡単にいえば、私たちがいっさいの規則によらず、乳母からまねしながら受けとったことばのことだ。(第一篇第一章)

さらに、同じく第六章では、俗語をmaterna locutio、つまり「母のことば」と言いかえ、中山もこれを「母語」と訳している。それを受けて、ドイツ語訳は、『俗語論』の書名として、Mutterspracheを採用しているのである。「母語」という性格、つけの中にはまた、ダンテの「俗語」のもう一つの側面、すなわち、育ての親から、口うつしに、いわば生物的に受けとられたことばという観念がたくみに表現されている。「母語」の「母」は「母国」の母のような単なるたとえではなく、ははそのものである(母語の概念については、なお拙著『言語の思想――国家と民族のことば』四九ページ以下を参照)。このような「俗語」の性格づけは、同時にグラマティカ、すなわち、ラテン語とは何ものであるかもはっきりと見せてくれるのである。すなわち、俗語のほかに、第二次的な言語があって、それをローマ入はグラマティカと呼んでいる。(同上)規範語を二次的とするこの認識は、母語の解放思想の先駆をなすものである。生まれてすぐに、「いっ
〈18〉
さいの規則なしに」はじめて身につけたことばこそが第一次的な本源のことばであり、文字と規則をそなえた技巧のことばは、それから派生し、それに従属するという考え方である。
 ダンテの認識の清新さと、事実そのものに即した冷静さに気づくためには、その六百年後に発されたある日本人作家のことば、「口語文とはあくまでも文語文のくづれだ」という、転倒した主張と対比してみるのがよかろう。人間が生まれながらにして「文語文」を話していたのならそうも言えるだろう。ことばを話すのは口であって、文字それ自体は決して話さないのである。こういう議論をいまあらためてやりなおすねうちはほとんどない。しかし、ことばには、いつでもこうした転倒した迷信がつきまとうものであって、この迷信こそは、言語の思想史を形成する要因であると知っておくことは無駄ではない。
 この迷信はまた、言語的エリートが、何らかの意味で危機を感じた際に、くり返し再生され、強調される。「文語文」の獲得のために費されたばく大な時間とかねと努力、その結果到達できたたのしみと優越感を考えるならば、かれらは、それを所有し得る特権階級の優位は決して失いたくはなく、それをおびやかすものに対しては、伝統と文化と趣味の名において悪罵をあびせかけるのである。そこで「口語文」は「文語文」にくらべて、いつでもくずれており、俗で野卑だと言いつづけずには居ら
〈19〉
れないのである。
 言うまでもなく、ことばがみだれており、くずれているのは、みだれないもの、くずれないものを仮定してのことである。このみだれていない由緒ただしいものは何かといえば、中世ではグラマティカ、つまり古典ラテン語であり、みだれているのは俗語であった。俗語にはみだれをしばる規則もなく文法もない。ところが、ダンテの『俗語論』は言う、

  これら二つの言語のうち(俗語=母語および文法=ラテン語)、より高貴なるもの(nobilior)は俗語である。(第一篇第一章)

このテーゼには、すぐその後につづけて三つの理由があげられている。すなわち、俗語は第一に、人類がはじめて用いたことばであること、第二に、発音や語彙を異にしてはいるが、全世界で用いられていること、第三に、グラマティカが人為的に作られたものであるのに対し、俗語は自然(naturalis)であること、これらである。
 ここに三つの項目に分けてあげられた理由は、一見してわかるように、じつは根本のところでは一つのことを言おうとしているのであるが、ダンテの『俗語論』の中では、それぞれ言語起源の問題、言語の多様性の問題、言語における自然(今日のことばで言う体系)と不自然(今日のことばで言う規
〈20〉
範)の問題とに対応している。そしてこれらの問題は、近代に至るまでの言語論の基本項目に対応してもいるのである。
 第一の理由、つまり、人類がはじめて用いた言語という意味での俗語は、さきに述べたように、母語の概念に対応している。ラテン語やその他どんな言語を習得するにも、はじめて身につけた母語を介するのでなければ行われないという意味においても、母語は他のいっさいの二次的言語に先行する。
 ダンテは、個人における言語の前後関係を述べているだけではなく、人類において最初にことばを口から発したのは誰であるか、それはどんなことばであったかなどについても論じているが、ここではそれには立ち入らないことにする。
 第二の理由にうつると、これはなかなか含みが深い。ダンテにおける世界の諸言語の多様性の認識にはじつに深いものがある。それはもしかして、かれの言語論の中核をなしているとさえ思われるほどである。そのせいか、少なくとも、今日まで『俗語論」がとりあげられてきた、そのしかたは、ダンテの方言観察と、一つ一つの方言への評価がどうであったかをたしかめようという関心から出ていたようである。その意味では、ダンテの方言観察は、イタリア方言学の先駆をなすものと言って言いすぎではないだろう。
〈21〉
ダンテは、イタリア半島を、まず南北に走るアペニン山脈によって東西に分ち、ティレニア海側とアドリア海側に方言領域を設定した後、単に「イタリアだけでも、少なくとも十四の俗語(<三σq⇔ユ鋤)がある」と数えあげただけでなく、それらは、さらにこまかい枝分れを示しながら、遂には「同じ町の中でさえちがっている」と指摘する。そして、「世界のこんな小さな一角だけでも、千、いやそれ以上の俗語の枝分れがあるのだ」(第一篇第一〇章)と感嘆してみせている。このような観察があらわれるのは、当時、まだ「イタリア語」すなわちイタリア国家語などというものが出現しておらず、国家語に従属する方言などという観念にしばられていないからであった。もちろん俗語と、それの枝分れという、俗語相互のヒエラルキーの考えはダンテの中に見ることができる。ここでは、むしろ、国家語的視野のせばめを受けない、限りなく分岐し、分立する諸俗語の並存的な関係に執拗なほどの注意がそそがれているのである。
 このような点からみると、ダンテの俗語というのは、ソシュールの言うidiome、あるいはそれ以前にさかのぼる、G・フォン・デア・ガーベレンツのEinzelspracheに相当する概念である。近代言語学の創始者たちは、イタリア語とか日本語とかの、超言語の虚構のくもりを取り去って、国語から解放された言語の概念にやっとのことでたどりつき、遂にはバーナード・ブロックによってイディオレ
〈22〉
クト(個人語)の底辺にまで降りてきたのであったが、このような認識は、またダンテのものでもあった。ただ、近代言語学は、国語を破る操作を経なければならなかったのであるが、ダンテの目の前には、いまだ国語は存在せず、無数の俗語の並存がむき出しのままあったのである。
 しかし、ダンテは、言語をこうして個人にまで達する窮極的な細分化へと追いやって、そこでとどまったのではなく、今日、いわゆるロマンス諸語における方言学的分類手段を適用する試みも行っていた。たとえば、「肯定の返事をするときに、ある者はオック(oc)、ある者はオイル(oil)、ある者はシ(si)と言い、これはすなわちスペイン人、フランス人、イタリア人である」(第一篇第八章)という風に。だが、このばあいダンテのもとづいた資料は訂正を要するのであって、オックは、プロヴァンス人とカタロニア人、シはスペイン人とイタリア人とすべきであった。これは、トゥルバドゥールからの影響を受け、俗語による詩作の霊感をそこから得たダンテとしては全くうかつと言うほかない。とはいえ、ここにはすでに、ラング・ドック(langue d’oc)とラング・ドイル(langue d’oil)との方言区劃が有効に利用されていることに注目しておきたい。
 こうして、異なる発音、異なる語彙は、かぎりなく俗語を分けへだてる。つまり、俗語はかぎりなく多様で異なっているという点が、それをグラマティカと分かつ根本的な特質となる。これらかぎり
〈23〉
なく異なる俗語は、またかぎりなく変化して行く性質をそなえている。

  同一民族の中でも、言語は時につれて変化し、決して静止できないものだから、相互に遠くへだたって住む者のもとではさまざまに変化する。それはあたかも、自然によっても共住によっても固定されておらず、人々の気分と土地の必要によって生じた風俗習慣が何通りにも変化するのに似ている。(第一篇第九章)

こう述べた直後に、ダンテは、「ここからグラマティカの技術(ラテン語)の発見者があらわれたのである。ラテン語は、時と場所のちがいをこえて変化しない言語の統一だからである」(同上)とつけ加えねばならなかった。
 求められるべき言語の統一と恒常性と、俗語の多様性と流動性という、この二律背反は、ダンテの俗語の主張にとって最も困難をはらむ点であり、また現代世界の俗語=民族語の主張者にとっても、最も困難な問題を課すものである。こうしてダンテは、不動の、しばりつけられたラテン語の存在の必然性を認めざるを得なかったのである。それにもかかわらず、ラテン語の恩恵に浴する者の数は極めてわずかであって、世界中どこでも、すべての人は、まず第一に、唯一のことばとして俗語を用いていて、それは生まれながらの、心のことばであるから、高貴なのであるとダンテは主張する。
〈24〉
 ダンテは、ラテン語を学ぼうとする者の動機が、貪欲さにあって、気高い心から出ているのではないことを次のように指摘している。

  ラテン語を知っているという者でも、それをきちんと使えるのは一○○○人のうち一人くらいしかいない。だからかれらはこのことばの恩恵を受けることもなく、貪欲に走り、そのため心の気高さ(nobilita d'animo)を失って、この種の食物を得ようとする。私は、この連中を文字知る人と呼ぶべきでないと言いたい。なぜなら、かれらが文字を手に入れるのは、それを使うためではなく、それを利用して金や地位(danari o dignita)を得んがためであるから。(「饗宴』第一の九)

 俗語、すなわちありのままの言語は、その概念じたいの中に、多様で、たえず変化するという性質を含んでいる。それはことばの本性=自然そのものに由来している。ここから、第三の、俗語の自然さについての論が生じてくるのである。
 ダンテの言う、グラマティカ(ラテン語)の人為性と俗語の自然さということを真に理解するためには、いくつかの予備的考察を加えておかねばならない。ここに言う人為的言語は、もっと進んだかたちをとると、人工言語といわれるものになる。そこで、近年、自然言語と人工言語という分類が行われることがあるが、これはちょっと考えてみると、奇妙なよび名である。
〈25〉
 まず第一に、自然とは人間の外にあって、人の手が加わっていないことを言うのだとすれば、言語は決して人間の外にある何かではない。人間が現われる以前からことばがあったと考えるものは誰もいない。じじつ、人々は、言語は文化の中心的部分であると言ったり、ことによると「言語それ自体が文化」(川本茂雄「言語と文化」『岩波講座 哲学』11)だとさえ言われたりもする。文化は人間に固有のものであって、人間なしに文化はない。ちょっとくどい言い方になってしまったが、ことばは決して自然に属することはないし、第二には、『ドイツ・イデオロギー』の中でマルクスとエンゲルスが言っているように(本書第Ⅳ章注30参照)、「生まれながらの姿のまま」今日につたわっている言語は一つもないのである。この点では自然言語などという形容矛盾は認められないのである。
 自然言語と対をなす人工言語は、もちろん、自然言語というモデルがないかぎり生じて来ない。ザメンホフがエスペラントを製造できたのは、かれが、かれ自身の母語のみならず、さまざまな自然言語を知っていたからである。いったい自分の母語しか知らない人間に、別の、全く架空の言語(符牒の体系ではなく)を製造しようという思いつきが生じるかどうかはうたがわしい。自分の身についた、ことばの「欠陥」は他のことばを見ることによって気づかれ、他のことばの「欠陥」の指摘は、常に自分のことばを基準にして行われるからである。
〈26〉
 いずれにせよ、どのことばを話す人にも学びやすく、どの特定のことばにもかたよらない中立のことば、このような理想言語の製造はたった一人の個人か、比較的少数の個人によって一挙に発表される。もちろん準備期間はあるとしても、せいぜい人の一生よりは短い時間でしかない。こうして一挙に生まれる人工語には歴史がない。じっさい、言語の平等のために、人はこの歴史なるものとたたかってきたのである。「長い、豊かな伝統の中で培われた文学語」などといって、その言語をかざるためにはすぐに伝統や歴史が引きあいに出される。だから、人工語の存在理由は、それが歴史を持たないところにもあるのである。つまり、一挙に、一瞬のうちに生まれ、いかなる私有財産(文学など)をももたない「歴史なき」言語こそが人類の平等のために求められねばならないのである。科学もまた、別の意味で、この「歴史なき」言語をたえず求めつづけてきた(本書第Ⅶ章参照)。
 「自然言語」は、たといそれが文字の記録を全く残していないばあいでも、一挙にして生まれたとは誰も思わないのである。文字の記録をもった「自然言語」の起源をたどれるかのように思いこむ人がいるが、たとえば、エスキモーの言語の起源と、それがいつ発生したかという設問は、一般に言語の起源論がそうであるように、解きほぐしがたい混乱を内にやどしながら、実証を拒否しつづけているのである。
〈27〉
 「自然言語」というよび名は、とにかく、人間の言語の性質を言いあらわすには適当でなく、この点ではたとえばE・コセリウの言語認識の基礎をなす「歴史(的)言語」というとらえ方のほうが、より人間言語の本質にせまっていると思われる。
 さて、こうしていま「歴史言語」という特徴づけの導入によっていわゆる自然言語、あるいは、言語の自然の重要な側面が現われ出ることになった。すなわち、それは言語の歴史性ということである。意図をもってしばりつけた、捕われの言語は変化しない。変化しない言語には歴史がない。変化とは規範の目から見れば、規範をのりこえて行くみだれである。ところで、規範とは言語そのものから生じたものではなく、人が言語の外から加えた選択、抑止である。規範の細部にわたっての知識をそなえているのは、文法によって、その一覧を得ることのできる言語的エリートであるが、素朴な話し手は、ただただ、話しやすさとか、気分にあっているとかによって、複雑なものを単純化し、不必要なものを廃棄し、一方では必要なものをとり入れたり強調したりしながら言語を変えていく。これらの過程は計画的、意図的ではなくて、いわば無意識のうちに行なわれる。規範への背反という意味では、みだれでしかないこの過程こそは、まさに言語を体系的に組みかえて行く、法則的活動である。そして、それが体系的で法則的であるということは、より自然な活動であることを意味する。
〈28〉
それにひきかえ、規範、ことばへのしばりは、体系をはるかにこえた、法則ではなく規則という意味において反自然の活動である。
 ダンテは俗語の中に、規範を破ってすすんで行く、より法則的で体系的なものを見てとった点で、プレスクリプションを排してデスクリプションのたちばに立った現代言語学の視点をさきどりしていたのである(本書第I章参照)。


3 俗語から国家語へ

 ことばが自然であるということは、そのことばの習得のために特別の時間を割く負担からまぬかれ、その集団のすべての人に理解されるということである。そのため、自然なことばは「金と地位」のためではなく、より「愛のためにふさわしい」とダンテは言う。『新生』の第二五節で、ラテン語ではなくて「オック語」や「シ語」でうたう「俗語詩人」が現われたのは、

  ラテン語の詩をよく理解しえない一婦人に自分の言葉を理解させようとの心からであった。そしてこれが愛以外の詩材を捉えて韻文を作る人達にとっては不利なのである、かかる表現の方法は
〈29〉
もともと愛を歌うために見出されたものであるから。(山川丙三郎訳)

と述べられているように、俗語は何よりも文学のために必要であった。
 だが、ダンテの俗語作品が永きにわたって手ひどい不評を買っていたことはよく知られている。俗語の敵は、ことに、古典に偏愛を示すル人文主義者[フマニスト]だった。ある人は、「ラテン語で書いてさえいれば、ダンテはギリシャ人やローマ人にもひけをとらなかっただろうに」と言い、ある人はまた、「ダンテの詩は、文壇とは全然関係がないのだから、いっそ革帯職人とかパン屋とか、この手の下司な連中の仲間に加えた方がいい」とこきおろしたという(Ph・ウォルフ『西欧諸言語の起源』)。ダンテの苦境は、『俗語論』そのものが、ほかでもない、ラテン語で書かれざるを得なかったということによくあらわれている。
 俗語文学が古典語文学を圧するには、まず圧倒的な数の俗語読者と、大量印刷手段の出現を待たねばならなかった。しかし、決定的な俗語の勝利は、俗語が俗語であることをやめて、民族語から国家語へと歩む段階においてたしかなものとなった。一九世紀から二○世紀にかけて、民族的独立と、諸民族による国家の所有の要求とは、絶え間ない国家語の分立と増殖をひきおこすと同時に、他方では俗語のすりつぶしと、規範俗語への吸収が行な
〈30〉
われた。ダンテとネブリーハは、ヨーロッパの文化的統一のかけがえのない要具であったラテン語を捨てさって、この行きつくところのない「諸言語の混乱」に道をひらいた人でもあった。
 こうして、苦闘の末、グラマティカのくびきを脱した一つ一つの母語、俗語は、やがては民族と国家の時代の中で規範を獲得し、あるいは規範によって排除され、規範俗語は国家語として、新たなグラマティカの番人を求めるに至ったのである。


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