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寺島実郎 脳力のレッスン(252) 二一世紀システムの宿痾としての金融不安 ――直面する危機への視座の探求(その3)

2023年10月06日(金)

世界のGDPの総和を,株式市場の株価の総和が上回ったのはいつだったか.
それで,なにかが起きるのか,ちょっと仲間うちで話題になったことがあったか.

そのもっと前,都市銀行が10行だったか,4大証券とかいっていたころ,
この国で語られていたのは,間接金融から直接金融へ……だったか.
なにが画期だったろうか.

そうか,この国は,アメリカの属国だった……と思わせる出来事があったか.

アメリカのシステムが,人々を幸せにするかどうか,多くの疑問があったはずだと思う.
それでも多くの要求が出されて,多くをのみ込んで,
たぶんたんなる要求ではない,何かがあったんだろうかとも思う.


21世紀後半には,アフリカの人口が世界の多数派となるだろう,と予測される.
とりあえず,アジアなんだけれど,すでに列島は人口減少の局面にあるという.
おとなりの半島の国は,子ども数を減らしていく.
大陸の国も,いずれそうなると予測され,現にそうなっている.

低開発国,第三世界,グローバルサウス……まぁ,いろんな呼び方があるのかもしれないけれど,
世界市場は,地球を覆い尽くしているわけではなかったんだと思う.
世界市場が外れた地域を,かつて低開発国とか,呼んでいたのだろう.
それで,それらの国がすこしずつテイクオフしていくのだろうか.あるいは,すでにテイクオフしつつあるのだろうか.

ただ,人口が減少すれば,衰退する国家になるかどうか,そんなに明らかでもないのだろうとは思う.

いま,教育機関の中で,たとえば税の問題とか,分配の問題とか,どんなふうに教えられているんだろう……と思う.身近に学生さんがいないのでよく知らないのだけれど,本屋に行ってもそれらしい本を見ることがないな,と思う.
それで,たとえば消費税の問題とか,ふるさと納税とか,わけのわからない話が多すぎるように思うけれど,それは,かつて学んだことが,もはやお払い箱になっているということなんだろうか.
……
まぁ,すこしは勉強しなおそうかなとは思う.

そういえば,寺島実郎さんが,横浜港のふ頭歳開発にかかわる検討メンバーに加わるとか,
なんだかな……,もっと語るべきこと,語ってほしいことがあるようにも思うのだけれど.
まぁ,そこでどんな議論がなされるのか,知らず,
それでもなにかおもしろい話が語られればいいか.

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【世界】2023年06月

脳力のレッスン(252)
寺島実郎

二一世紀システムの宿痾としての金融不安
――直面する危機への視座の探求(その3)


 二〇世紀システムの動揺と衰退を直視し、世界秩序の再生の道筋を探っている。二〇世紀の世界、とくに資本主義世界のシステムは、第一次大戦期以降の米国が主導する「国際主義」と「産業主義」を柱として成立してきたことを論じてきた。とくに第二次大戦後の米国は、国際連合、世界銀行・IMF体制などの国際秩序を主導し、大量生産・大量消費の産業社会を牽引した。そして戦後日本はそのシステムを享受して復興・成長という過程を突き進んだ。その秩序枠の動揺という局面を迎え、時代システムの本質を再考し、未来圏を主体的に構築しなければならない。
 そこで、二一世紀システムを考察する前提として、二○世紀システムが抱え込んだ危うさを確認しておきたい。その危うさは既に新たな金融危機の予兆として顕在化しているといえる。「累卵(るいらん)の危機」という言葉があるが、我々は二〇世紀が積み上げた矛盾の臨界点に立っているのかもしれない。

■二〇二三年春の余震――相次ぐ金融破綻の意味

 本年三月の米シリコンバレー・バンクの経営破綻は、世界的な金融恐慌に波及しないための政府・金融当局の必死の封じ込めによって、落ち着きを取り戻しつつあるとされる。西海岸のシリコンバレー・バンクは、スタートアップのベンチャー型企業に資金を提供する金融機関として急成長してきたが、昨年二月のロシアによるウクライナ侵攻を背景に進行したインフレ抑制のためのFRB(中央銀行)による相次ぐ金利の引き上げによって収益性が毀損して「信用不安」を引き起こした。特異な事例と説明されるが、本当にそうだろうか。
 続いて、東海岸のファースト・リパブリック銀行なども資金繰りの悪化と預金流出という事態に見舞われ、事態の鎮静化のために米大手一一行が四兆円規模の金融支援、FRBが「最後の貸し手」として二〇兆円を米銀に融資するなど、必死の対応をみせているが、金融技術革命による金融の変質、すなわちノンバンク金融仲介業の台頭と金融ビジネスの複雑化・無形資産化によって、金融セクター全体が新次元の構造問題を抱えており、沈静化したとは言い難い。
 同じく三月、経営危機に直面したクレディ・スイスはライバルのスイス金融最大手UBSにわずか三〇億スイスフラン(四三○○億円)で買収されることになった。経営危機の原因は口座情報の流出、マネーロンダリングなど「経営管理不全」で、米国の銀行への信用不安とは性格が異なるが、クレディ・スイス発行の劣後債(ハイリスク・ハイリターンの債券)たるAT1債一七〇億ドル(二・二兆円)が「無価値」とされ、潜在する危うい金融商品が露呈したのである。
 クレディ・スイスの危機に対しては、スイス政府が日本円で一・三兆円の信用保証、スイス中央銀行が一四・三兆円の緊急クレジットライン(融資限度)を設定することでUBSによる買収を支え、国家の威信をかけて金融不安の払拭に動いた。最悪の事態は、米欧ともに国と中央銀行が動いて回避されたとされているが、一連の春の嵐はコロナの三年間の超金融緩和が急速な引き締めに反転したことの軋みがもたらしたといえ、今後、世界金融が金利高、引き締め、規制・管理強化という基調を強めることによる景気後退局面に入るならば、金融不安のマグマは膨らむであろう。
 また、日本の金融は大丈夫なのかという問いに対し、金融機関の健全性を示す指標としての「自己資本比率」や「流動性比率」など表面指標からすれば、多くの金融機関が健全と判断されてよいのだが、アベノミクスなる「低金利、超金融緩和」の長期化で、利回りのよいハイリスクの金融派生型商品に引き寄せられてきた副反応が生じる可能性を潜在させていることは注意すべきである。破綻したクレディ・スイスが発行していたAT1債(二〇二二年発行分)の表面金利は実に九・七五%だった。運用に苦闘する中で、外資のファンドへの依存を高め、健全な産業金融(産業と事業を創生する「育てる資本主義」)への努力を疎かにした日本の金融機関の基盤能力が劣弱化しているのである。
 後述するごとく、「経済の金融化」という歴史潮流の中で、金融セクターは「金融工学の進化」を背景に複雑化、肥大化しており、もはや銀行を主役とする産業金融が主流ではなくなり、ノンバンク(シャドーバンク)といわれる存在が重くなり、様々な金融派生型商品を扱うヘッジファンドなどの金融仲介業が業容を拡大している。「ノンバンクが世界の金融資産の半分を保有」という推定もあり、この領域は正確に実態が掌握できないため、規制や管理強化の対象とし難いのである。今後予想される世界的な金融の引き締めは、ハイリスク資産が集中している「ノンバンク」の分野に軋みを生じさせると思われる。

■繰り返された金融不安の歴史とその構造

 米国の資本主義の投機的性格について、M・ウェーバーは一〇〇年以上も前に書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇五年)において、次のように指摘している。「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格を帯びることさえ稀ではない。将来この鉄の濫の中に住むものは誰なのか」と問いかけた後、ウェーバーは「最後に現れる『末人たち』」に対して、「精神の無い専門家、心情の無い享楽人、この無なるもの」というあの有名な言葉を残した。この洞察は、その後の米国の資本主義の展開、そして今日の状況を鋭く言い当てている。
 二〇世紀における「金融不安」を振り返り、二一世紀システムの基本的課題を確認しておきたい。一九二九年の大恐慌については、それが第二次大戦への導線になったとの反省の下に、多くの研究が積み上げられてきた。チャールズ・キンドルバーガーの『熱狂、恐慌、崩壊――金融恐慌の歴史』は一九七八年に初版、二〇〇〇年には第四版が刊行(邦訳、日本経済新聞社、二〇〇四年)され、多くの示唆を与えている。さらに、FRB議長を務めたべン・バーナンキも自らを「大恐慌マニア」と言って憚らないが、『大恐慌論』(原著二○○○年、邦訳二〇一三年、日本経済新聞出版)によって二〇二二年のノーベル経済学賞を受賞している。にもかかわらず、大恐慌の教訓が生かされたとは言えない。
 一九二九年の大恐慌の後、米国は金融不安を避けるため「銀行と証券の業務分離」を図るグラス・スティーガル法(一九三三年銀行法)を定めた。この規制は七〇年近く続いたが、冷戦後の「新自由主義・規制緩和」の流れの中で一九九九年に廃止され、銀行も証券子会社を通じて証券業務に進出可能となった。
 新たな不安の前兆は二〇〇一年のエンロンの崩壊であった。元々は天然ガス・パイプラインの運営会社だったが、「総合エネルギー企業」として「電力デリバティブ」なるビジネスモデルに踏み込み、電力という基幹インフラさえ先物取引の対象にするという虚構性が破綻をもたらした。だが多くのマネーゲーマーは反省どころか新たな虚構へと向かっていった。その典型がリーマンショックをもたらした「サブプライムローン」なる仕組みであった。与信リスクの高い低所得者への不動産ローンのことで、分かりやすく言えば、所得の低い黒人・ヒスパニックに住宅ローンを提供して不動産ブームを持続させようとするもので、当時「三年で倍の勢いで高騰していた不動産市場を背景に、その担保価値を高めて借り換えさせる住宅ローン」を登場させたのである。この基礎となったのはマイロン・ショールズとロバート・マートンの理論で、「貧困者に希望を拓く金融工学の成果」として一九九七年のノーベル経済学賞を受賞している。冷静に考えれば、三年で倍などという不動産ブームが永久に続くはずはないが、熱狂は怖いもので渦中では常識も忘却されるものなのである。
 名門リーマン・プラザーズの崩壊と世界金融危機をもたらした二○○八年のリーマンショックを受けて、二〇一〇年にオバマ政権下で金融規制改革法(ドッド・フランク法)が成立、「強欲なウォールストリートを縛る」という意図で金融取引の透明性を高める方向に舵が切られた。ところが、二〇一八年には「ウォールストリートの代理人」ともいうべきトランプ政権下でドッド・フランク法の緩和(骨抜き)がなされ、リーマンショックの教訓は霧消してしまった。
 金融セクターは、冷戦後の世界において、一段と肥大化、複雑化してきた。「金融工学」なる世界が広がり、金融は「資金仲介業務」の産業金融から、「リスク仲介業務」へと比重を移した。ジャンクボンド、ヘッジファンド、サブプライムローン、住宅ローン担保証券、ハイイールド債、仮想通貨などが次々と登場、どこまでを金融資産とするかの判断さえ難しくなっている。約一〇〇兆ドルとされる世界GDP(二〇二二年)の約五倍に迫る金融資産(株式時価総額と債券総額)の肥大化が進行していると推定される。
 本連載236「『新しい資本主義』への視界を拓く」において、冷戦後の資本主義の新局面として、情報技術革命(インターネットの登場)と金融技術革命(金融工学の進化)を背景に、産業資本主義を中核としてきた資本主義が核分裂を起こし、金融資本主義とデジタル資本主義が肥大化したことを論じた。デジタル技術に触発された金融の肥大化(「経済の金融化」)が進行し、これをどう制御するかが二一世紀システムの重い課題になってきている。
 視界に入れるべきことは、地球上の誰もが、この「経済の金融化」という潮流から逃れられない現実である。ロシア・中国の権威主義陣営対G7など民主主義陣営の二極対立という世界観が流布されがちだが、中国も上海総合指数、ロシアもMOEXという株式市場の動向に一喜二愛しながら動いている。中露の国民も金融資産の動向に躍起になる時代なのである。一例として、昨年のロシアにおける金地金(きんじがね)・金貨の需要が一前年の五倍になったという事実は、ウクライナ侵攻に踏み込んだプーチンへのロシア国民の支持は安定しているといわれるが、その深層心理は「不安」の中にあることを投影している。
 そこで、内在する金融不安を再考する時、その危険性を探る手がかり(指針)として、金価格の動向に触れておきたい。世に「炭鉱のカナリア」という言葉があるが、二一世紀に入ってからの金価格の動きが金融不安を象徴していると思われるからである。仮に、二一世紀に入る前年の二〇〇〇年に三人の日本人がそれぞれ一億円を、一人はタンス預金、一人は株式(東証プライム)、一人は金に投資したとする。二〇二三年三月現在、それぞれの価値はどうなったであろうか。タンス預金の一億円はそのまま一億円だが、実際の価値は物価動向により七%程度目減りしている。株式への一億円は異次元金融緩和を背景に一・六億円になっており、金への一億円は実に八・一億円になっているのである。
 これは金融不安への潜在意識を投影しているというべきであろう。「金本位制」からの離脱が、信用経済を拡大させた転機だったともいえ、信用不安が金への郷愁を刺激するのである。リスクに反応する「炭鉱のカナリア」は正直である。

■金融資本主義を制御する政策科学への視界

 こうした状況に米東海岸のアカデミズムはどう向き合っているのだろうか。MITのスローン経営大学院のアンドリュー・マカフィーは近著『MORE from LESS(モア・フロム・レス)――資本主義は脱物質化する』(原著二〇一九年、邦訳、日本経済新聞出版、二〇二〇年)で、「技術の進歩は経済の繁栄と脱物質化を両立させる。……人類と自然界のトレードオフは終わった」として、「テクノロジーの進歩、資本主義、市民の自覚、反応する政府という希望の四騎士がそろえば人類は繁栄し続ける」という相変わらずの技術楽観論を展開している。ウォールストリートの理論的支柱の役割を果たしてきた米東海岸の伝統的基調であり、欧州の論調とは対照的である。
 英オックスフォード大学のポール・コリアーとジョン・ケイは『強欲資本主義は死んだ――個人主義からコミュニティの時代へ』(原著二〇二〇年、邦訳、勁草書房、二○二三年)で、個人主義の行き過ぎが資本主義を混乱させているとして、コミュニティと中間組織の再生で「資本主義とコミュニティの共創を図ること」を模索している。また、フランスのセルジュ・ラトゥーシュが「消費社会のグローバル化がもたらす破局的結末」を語っている『脱成長』(原著二〇一九年、邦訳、白水社、二〇二〇年)やジャック・アタリの『命の経済』(邦訳、プレジデント社、二〇二〇年)の問題意識や、ドイツを主舞台とする「人新世」の思潮(地球規模の課題に「利他主義と連帯」をもって向き合う)など、欧州のアカデミズムは、資本主義の金融化がもたらす陥穽を提示し、国家という枠組みを超えた「コモンズ」の地平に希望を拓こうとしている。
 二一世紀の政策科学に求められるのは、金融資本主義を制御する国境を越えた新次元のルール形成である。本連載239(「新次元のルール形成の必要性」)で論じた如く、「国際連帯税からグローバル・タックス」まで、国境を越えた金融取引に広く課税し、国境を越えた諸課題(地球環境保全、格差と貧困、最貧国の医療・防災など)に対応するための財源とするなどを実現すべき段階にあることを再確認せざるをえない。欧州における「金融取引税」の動向などを注視し、過度なマネーゲームを制御する制度設計に立ち向かわねばならない。

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片山善博の「日本を診る」(163) 「大臣答弁にチャットGPT」の耐えられない軽さ 【世界】2023-06

2023年10月02日(月)

そういえばアメリカの大統領には,専属のスピーチライターがいるらしい.
列島の国の首相の場合はどうなんだろう.
いや,アメリカでも,大統領以外の高位高官の人の場合はどうなんだろう.

むかし,大蔵省の役人は,課長補佐クラスが国会議員の質問取りをしていたとか聞いたことがある.実態はどうだったか,知らないけれど,
ずいぶん分厚い「想定問答」をあらかじめつくっておくとか.
公務員のは働き方改革とかで,この質問のやりとりを合理化できないか,そんなメディアの報道もあるようだ.
どうなるのか知らないけれど,テレビの国会中継を観ていると(ほとんど見ないのだけれど),
答弁者が,なにやら原稿らしきものに視線を落として,マイクに向かって話をしている様子が映し出される.
ときおり後ろに控える,たぶんお役人が神の切れ端を差し出したりすることもあるようだ.
大臣のお仕事は,アナウンサーか……なんていってはいけないのだろうし,
なかには,ここぞと持論をまくし立てる人もいないわけではなさそうだ.

それで,外野としては,どう受けとめればいいんだろう,と思う.

質問のやりとりは,それぞれの知識や,思考,思いが試される場でもあるのだろう.
質問取りにも,そういう面がありそうには思う.


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【世界】2023年06月

片山善博の「日本を診る」(163)

「大臣答弁にチャットGPT」の耐えられない軽さ


 過日、西村康稔(やすとし)経済産業大臣が、国会答弁に対話型AI「チャットGPT」を活用する可能性を検討していると述べたことが報じられた。チャットGPTを使うことによって、国家公務員の業務負担を軽減するのが目的だという。
 西村大臣の発言をめぐっては、官僚の超過勤務の縮減につながるとの肯定的な反応がある一方で、政治家が責任を持つべき国会答弁をAIに任せるのは無責任だとか、もはや政治家はいらなくなるなどとする厳しい批判もあった。
 かつて大臣も官僚も務めた経験を持つ筆者の感想を言うと、国会答弁に関する官僚の事務負担を軽減すること自体には大いに賛成である。このところ、霞が関の若手官僚が何人も辞めている。先日ある役所の官僚に聞いたところ、同期入省者のうちの三分の一ほどが入省後一〇年もしないうちに辞めてしまったという。
 辞める理由の中で多いのが、毎日残業続きで帰宅が深更に及び、これではまともな家庭生活が送れないということのようだ。その残業を余儀なくさせている最大の事情が国会答弁関連事務にあるのだという。
 思い起こせば、西村大臣は役所の部下に対する要求がとても厳しくて、官僚の残業は多いし、大臣出張時用の「大臣対応マニュアル」までできているなどと批判されたことがある。そんな汚名を返上するねらいもあって、チャットGPTの活用を思いついたのかもしれない。

■官僚による大臣答弁作成自体が邪道

 官僚が大臣答弁を作成するには、質問に立つ議員からあらかじめその質問内容を聞きとっておかなければならない。時間的余裕がある段階で、議員が質問内容を知らせてくれればいいが、往々にして前日の夜になる。それには質問す
る議員の側にも事情がある。自分の質問が二番煎じになるのを避けるには、前日までの他の議員の質問を把握してからでないと、質問内容を決められないからだ。
 かくして、答弁作成は夜から始まり、出来上がるのが深夜になるのは当たり前で、明け方までかかることも珍しくない。しかも、何人かの職員は早朝の大臣レクに臨まなければならない。大臣レクとは、官僚が作成した答弁書を大臣に説明し、大臣がそのとおりに答弁するよう仕向けるための勉強会である。こんなことが連日続くのだから、官僚たちがへとへとになるのもむべなるかな、である。
 そこで、もしこの答弁作成にチャットGPTが活用できるなら、それなりに体裁が整っていて、しかももっともらしい内容の答弁書が瞬時にして作成されるだろうから、官僚たちの事務負担を大幅に軽減することができる。西村大臣の心中を察すれば、こんなことなのだろう。
 官僚の業務を軽減し、長時間労働を解消しようとする大臣の心がけは評価するとして、筆者にはその方向が間違っているように思われる。というのは、そもそも大臣の国会答弁とは、本来は大臣自らの考えと言葉で行うべきものである。ところが、多くの大臣(現実にはほとんどすべての大臣といっていい)にそれができないので、やむなく官僚たちが答弁作成を代行しているのが実態である。
 西村大臣には、国会答弁とはもともと官僚が作成し、それを読むのが大臣の役割だとの認識があるようだが、それは明らかに間違っている。大臣の国会答弁とは、大臣がその職責に応じた資質や知見を有しているか、政策などについて説得的に説明できるかどうかを試される場である。いわば口頭試問だといっても過言ではない。
 これを他に例えると、学生が大学で学んだことをちゃんと身につけているかどうかを問われる試験のようなものだ。学生はカンニングをしたり、論文を他人に書いてもらったりすることは厳に禁じられていて、もしそれが判明すれば直ちに失格となる。たとえ自分で論文を書いていたとしても、その中に剽窃(ひょうせつ)や盗用が見つかれば、それも失格となる。ちなみに、大学院生の論文審査における口頭試問では、書類などの資料の持ち込みも禁じられるのが一般的である。
 若い人たちにはこんなに厳しい基準で対処しているのに、国の政治を預かる大臣たちは他人が書いたものをあっけらかんと読んでいる。それはとても恥ずかしいことであるから、やむなく読まざるを得ないにしても、学生たちがカンニングをやる場合と同じく、本来はコソコソとなされてしかるべきことであるはずだ。
 西村大臣の発言に違和感を覚えるのは、例えていえば学生に課された論文について、それが代行作成されるのを当たり前のこととしたうえで、その代行作成者の労力軽減のためにチャットGPTを活用してはどうかと仕向けているようにしか聞こえないからである。

■答弁作成代行が不要な内閣に

 国会答弁について今なすべき改革は、官僚の事務負担軽減のためにチャットGPTを活用することではなくて、まっとうな学生たちが自分の実力で試験に臨んでいるように、大臣がその見識を自らの言葉で披瀝(ひれき)し、質問者と議論できるように改めることだと思う。そうなれば、官僚たちの答弁作成自体がなくなるので、彼らの長時間労働解消に確実につながる。
 これを実現するにはいくつかの基礎的改革が必要となるが、その中で最も重要なのは大臣の任命のあり方である。大臣にはその職責に必要な資質と知見を備えた人が任命されるべきである。現状では、議員歴は長いかもしれないが、所掌する事務についてほとんど素人のような人が大臣に任命されることが決して珍しくない。
 かつて、ITに疎くパソコンも使ったことがない人がIT担当大臣に任命され、内外の失笑を買ったことがある。ただ、これを笑い話で済ますわけにはいかない。今日深刻な問題となっているわが国のデジタル化の遅れは、こんな不適切な大臣任命に少なからず起因しているはずだからだ。
 昨今のまともな企業は役員などの幹部の任命に、ことのほか気を遣う。現社長の情実などの不正常な要因が人事に紛れ込まないよう、客観的な視点が備わった指名諮問委員会などを設けて厳重に吟味している。もし情実などによって、資質や見識を欠いた人が要職に就くと、その企業は市場から退出させられかねないからである。
 政府も例外ではない。各省のトップである大臣の人事を疎(おろそ)かにすると、確実に国力が低下するのは、ひとりIT分野にとどまらない。とかく大臣の人事が派閥の都合で決められるなどということが囁(ささや)かれるが、それは企業の情実人事と異ならない。
 「なんでこんな人が大臣に」と首を傾(かし)げている人が多いのに、総理が「適材適所の人事」だと言い張っているのを聞くと、国民としてとても物悲しくなる。同時に、それを任命した総理自身の見識すら疑わずにはいられない。
 政権の座に就き、それを維持するにはさまざまな配慮を必要とすることを察するに吝(やぶさ)かではない。ただ、時の総理には、「大臣答弁にチャットGPTを活用」などとする薄っぺらの似非改革案が出てきたのを奇貨として、この際本当の意味での適材適所による大臣人事に徹することによって、わが国政府を国際社会に通用する存在に変貌させるための改革に取り組んでもらいたい。

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(私の視点)ユーゴ空爆から24年 NATO軍に加担、自覚は 木村元彦

2023年10月02日(月)

もっと歴史や地理を知るべきだった,と思うこと多い.
最近特にそう思う.
ロシア-ウクライナもそうだし ウクライナ-ポーランドも,
また急に降ってわいたようなアゼルバイジャンとアルメニアとナゴルノカラバフ,
以前アフガンが問題となったとき,そういえばマルクスにアフガン戦争に関するジャーナリスティックな文章があったな,と図書館に探しに行ったこともあった.
アフリカについても,ほとんど何も知らない.
歴史の外側,地理の枠外…….
それでいいわけはなくて,やはり無知は,知識と情報で埋めていかないといけないな.

それにしてもつい最近のことですら,振り返ってみると,どこまで理解をしていたんだろうとは思う.

まぁ,すこしでも知る努力はしよう……と思うが,
さて,それにしても,アメリカって国は,戦争が好きなんだろうな,ともうことがあった.
建国以来,ずっと戦争をしているんじゃなかったか.

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(私の視点)ユーゴ空爆から24年 NATO軍に加担、自覚は 木村元彦
2023年4月21日 5時00分

 1999年、北大西洋条約機構(NATO)軍が当時のユーゴスラビアを空爆したことをどれだけの人が覚えているだろうか。

 この軍事行動は米国主導の下、国連安保理決議を経ないまま行われ、難民移送列車や病院、中国大使館が「誤爆」され、多数の民間人死傷者が出た。空爆はコソボ自治州の紛争解決のためとされ、ミロシェビッチ・ユーゴ大統領(当時)に自治権を剥奪(はくだつ)されたアルバニア系住民の人権保護を名目に行われたが、実際は和平交渉でユーゴ=セルビア側がのめない条件(領土内でのNATO軍の軍事活動の容認など)を米国から提示され、決裂したことで起こった。

 その後、コソボからセルビア治安部隊を撤退させた米国は友軍関係のアルバニア系武装組織KLA(コソボ解放軍)を政府中枢に置いてコソボの独立を承認し、領内に米軍基地を建設した。コソボを宗教的聖地とみなすセルビア人からすれば主権を踏みにじられ、暴力で魂の源を奪われたことになる。冷戦終結後、NATO軍がロシアを出し抜いた東方拡大である。

 あれから24年。ロシアのウクライナ侵攻を巡り、英国が劣化ウラン弾のウクライナへの提供を決め、岸田文雄首相はNATO基金を通じて殺傷性のない装備品(3千万ドル)を供与することを明言。今、日本はNATO陣営の戦略にのみ込まれ、世論もロシアの侵略行為に対する反作用から看過しているように見える。

 しかしNATO軍がかつて行った「戦争犯罪」を忘れてはならない。空爆の矛盾を指摘していたのが当時のユーゴ日本大使館で、西側の大使館がセルビアから逃げ出す中、最後まで留(とど)まった。セルビア人は感謝とともに語り継いできたが、今、日本への信頼は覆されている。

 またKLAは拉致したセルビア人から臓器を摘出する密売ビジネスに手を染めた事実を欧州評議会から指摘され、筆者も証言を聞いている。旧ユーゴ国際刑事法廷の検察はこの戦争犯罪の起訴へと動くが、米国に拒まれた。同法廷のデル・ポンテ検事は「米国はNATOの力を通してKLAに軍事支援をしていたから、犯罪が表に出ることを避ける。しかし民族紛争を裁く上での司法の不正は未来の戦争の種となる」と語る。

 NATO軍をロシアの侵略に対する有効な対立軸として考えがちだが、軍事同盟に歩調を合わすということは、そこが犯した戦争犯罪や歴史の修正に加担していると受け止められる恐れがある。侵略にあらがうつもりが、加害の側となって幾多の国を失望させることを知っておかねばならない。

 (きむらゆきひこ ノンフィクションライター)
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寺島実郎 脳力のレッスン(251) 二〇紀世紀システムにおける日本――戦後日本の繁栄とは何だったのだろうか 【世界】2023年05月

2023年10月02日(月)

時間だけ,確実に過ぎていって,
十五夜がちゃんと見えないな……と愚痴をこぼしているうちに,神無月.
ついでに長い夏も,ようやく終わろうとしているようだ.
いつごろまお月見をやっていたんだろう,あまり覚えていない.
田舎にいたころは,ススキに,母親の手造りの団子を供えたりしていた.
都会に引っ越してきて,もうお月見なんか……とは思わなかったと思うけれど,
でも,改めて今日はお月見だなんてことはなくなっていったか.

「豊かさ」ってなんだったろうか,
あるいはいま,豊なんだろうか.

上京してきたとき,地下鉄日比谷線が突貫工事でつくられていた.
板敷きの道路だった記憶がある.
引っ越しの荷物を,親について,汐留までとりに行った.
銀座に住んでいた友人が,まだそのころ,裏通りには未舗装の道路が残っていたんだよ,と教えてくれた.

年少のころのことが思い出される.
それで,豊かになったんだろうか……と.

ガルブレイスの「豊かな社会」は1960年には翻訳がでていた.
列島の人は,どんなふうに読んでいたんだろう.
1970年代になって,手にとって読んでみた.
そのころ,石油危機.
すでにベトナム戦争に疲弊したアメリカは,中国との国交を開くようになる.
たぶん学校のゼミで,「覇権国家」が話題になっていたか.

最近色々とむかしのことが思い出されることがある.
たんなる思い出なのかな,と思うけれど,
それだけではなくて,「高度成長」は「歴史」の一コマなのかもしれないな,
そんなところかなとも思う.


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【世界】2023年05月

脳力のレッスン(251)
寺島実郎

二〇紀世紀システムにおける日本――戦後日本の繁栄とは何だったのだろうか

――直面する危機への視座の探求(その2)


 一〇〇年前の第一次世界大戦がもたらした世界秩序の構造転換期との対照において、今我々が直面する世界秩序の構造変化の考察を試みている。日本の新たな進路の模索に向けて、二〇世紀の世界秩序の基本枠とは何か、そしてその中での日本の位相をどのように認識するかを確認しておきたい。

■「二〇世紀システム」を主導した米国――国際主義とフォーディズムという柱

 第一次世界大戦を機に、世界史を突き動かす中心に「理念の共和国」たる米国が胎動してきたこととロシア帝国の崩壊後に次元の異なる「社会主義」という理念を掲げるソ連邦が登場してきたことを論じてきた。
 ベルサイユ講和会議を経た一九二〇年代の米国は共和党政権の時代となった。一九二〇年の大統領選挙は共和党のハーディングが勝利し、ベルサイユを主導したW・ウィルソンの民主党政権とは異なる舵取りを始めた。米国大統領ウィルソンが提案した国際連盟に入ることを米国議会が拒否し、ウィルソンの国際主義と距離をとりつつも、資本主義陣営の新たなリーダーとして、社会主義革命に対抗して資本主義の再構築が迫られていた。
 この頃のアメリカは、台頭する産業力を背景とする「産業人の時代」であった。そして、それを象徴する存在がヘンリー・フォード(一八六三~一九四七年)であった。アイルランド系農民の子としてデトロイト郊外に生まれ、一九〇八年にT型フォードを産み出した彼こそ、大量生産・大量消費の大衆資本主義時代を拓いた人物であった。T型フォードは一九年間累計で一五〇〇万台以上も生産され、ツーリングタイプで最初の価格八五〇ドルを二九〇ドル(一九二四年)にまで引き下げていった。T型フォードの登場によって、一九〇〇年にわずか八〇〇〇台だった米国の自動車登録台数は、一九二一年には一〇〇〇万台を超し、一九二五年には二〇〇〇万台を超した。車は農民や労働者でも買えるものになったのである。
 T型フォードは生産工程と部品・工具類の標準化により大量生産方式(フォードシステム)を確立しただけでなく、ヒトとモノの大量移動という輸送革命を起こした。また、一日五ドル(年収換算一二〇〇ドル)という当時の平均賃金の倍の給与をフォード社は支払い、労働者の生活を豊かにし、それが車の購買力を高め、市場を拡大するという形で米国資本主義の好循環の基盤を創り出した。ローン販売という拡販システムは、フォードに対抗するために一九一六年にGM社が導入したものだったが、一九二四年には米国の新車販売の七五%はローン販売になっていた。
 ヘンリー・フォードの経営思想を集約したものがフォーディズムであり、産業躍進時代の自信に満ちた産業人の哲学の象徴ともいえるものであった。フォードの自伝ともいうべき『我が一生と仕事』(DOUBLEDAY,一九二二年)で主張されているのは、「努力して生活を向上させる勤勉な労働こそ米国社会の基本的倫理」であり、「良質で安価な商品を国民に提供する奉仕こそが重要」で、資本家対労働者の対立をもたらす労働組合は不要であり、「自由な労働」によって労働者の生活レベルを上げ、「豊かさの下でのビジネスと国民の共同体」を創ることこそ偉大なアメリカが目指すべき進路とした。この「フォーディズム」が米国資本主義の生産と分配における世界制覇の哲学であり、社会主義の挑戦に対する米国流の解答であった。
 再考するならば、このフォーディズムこそ、英国に始まった産業革命以降の産業人の基本思想ともいえる「産業的啓蒙主義」(INDUSTRLAL ENLIGHTENMENT)の米国版といえよう。科学技術への信頼と啓蒙主義に立ち、産業に科学イノベーションを持ち込み、産業が民衆を幸福にするという思い入れが込められており、世界のリーダーに躍り出たアメリカの産業人の自負が表出したものであった。
 一九二〇年代のアメリカはまさに大衆資本主義の潮流が渦巻く時代であった。大衆が豊かさを実感する装置として、セルフサービス式の大量安価販売の仕組みとして「スーパーマーケット」というチェーンストアが登場したのもこの時代である。「米国こそ骨の髄まで資本主義の国であり、欧州がユーロ社民主義やユーロコミュニズムへの誘惑に引き寄せられる歴史を繰り返してきたのと対照的に、社会主義政党が育ったこともない」という認識は、米国の特質を語る定番となってきた。それは、ロシア革命直後の一九二〇年代のアメリカにおいて大衆資本主義への自信が埋め込まれたためだといえ


〈158〉
よう。
 これまでの議論を整理するならば、米国が主導した二〇世紀システムは二つの柱から成り立ったことが分かる。一つは、ウィルソン流の国際主義であり、二〇年代に挫折したかに見えたが、フランクリン・ルーズベルト以降、再び蘇って、第二次大戦後の国際連合創設、ブレトンウッズ体制の確立という形で世界秩序の骨格を形成した。そして、もう一つがフォーディズムに象徴される産業主義である。この二つの柱の交錯の中で「アメリカの世紀」が演じられてきたのである。

■戦後日本の経済的成功の基本性格――二〇世紀システムのサブシステムとして

 ところで、このフォーディズムを再考するならば、この思想は戦後日本の産業リーダーであり、「経営の神様」とまでいわれた松下幸之助のPHPの思想(繁栄を通じた平和と幸福)に通底していることに気付く。松下が語った「水道哲学」(誰もが豊かさを享受できる経済)も「労使協調」も、基本はフォーディズムを引き継ぐものである。米国の一九二〇年代が、戦争を経て日本に憑依したといえる。
 そして、戦後復興から成長期の日本経済を凝視するならば、敗戦の屈辱の中から立ち上がった日本人の努力を否定するものではないが、日本が主体的に選択、創造しえた道程ではないことが分かる。戦勝国米国が主導したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本に対する“NATION-BUILDINGの(国造り)”政策を通じて、米国が主導する「二〇世紀システム」に組み込まれたことが「奇跡の復興」に繋がったのである。戦後日本の経済的成功は「奇跡」ではなく、大きな歴史潮流のサブシステムであったといえる。
 「アメリカの物量にねじ伏せられた」と敗戦を総括した日本は、ひたすら「物量の復活」(経済的豊かさ)を求めて大量生産・大量消費の大衆消費社会に突入した。一九五四年、敗戦後わずか九年で、「三種の神器」(電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機、のちに白黒TV)ブームを迎え、一九六六年には、「3C」ブーム(カラーTV、カー、クーラー)を迎えた。そして、一九七〇年の大阪万博は一八三日間で六四二〇万人が入場、戦後復興が一定の到達点に至った象徴となった。
 その背景には、原材料資材の効率的調達と製品の国際市場への参入という「通商国家日本の構想」を可能にする国際環境が存在したといえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議で国際社会に復帰した日本は、一九五二年にはIMF・世界銀行への加盟、一九五五年にはGATT(関税と貿易に関する一般協定)への加盟を実現、一九五六年にはソ連との国交回復を背景に国際連合に加盟と、国際主義プラットフォームに参入していった。一九六二年には、米国の日本への戦後援助は終了したが、日本は二〇世紀システム(開放経済と自由貿易体制)のメリットを享受して、復興・成長への道を走ったのである。
 一九五五年、日本生産性本部が経済界、労働組合、学界の参加の下に設立され、米国の先端的経営技法の導入、先行事業の研究のための海外視察団が結成され、高度成長期を通じ年五〇回以上も渡航し、この「現代の遣唐使」といわれた米国への視察を通じてスーパーマーケットなど新しいビジネスモデルが上陸してきた。「主婦の店ダイエー」としてスタートしたダイエーが、一九七二年に売上高で百貨店の雄たる三越を抜いたという象徴的なことが起こった。
 日本にコンビニとしてセブン-イレブンが上陸したのが一九七四年であったが、流通情報革命で業態を進化させ、弁当、惣菜のような「生もの」を販売できる店舗にし、全国に五・六万店(二〇二二年現在)のコンビニという生活インフラを配するまでになった。先行モデルに付加価値を付けて進化させ、親元をも凌駕するという戦後日本産業を象徴する展開である。
 改めて、二〇世紀初頭から今日に至る「世界史の中での日本」を整理するならば、「戦争」という悲惨な断絶を越えて、日本が生きてきた不思議なプロセスが見えてくる。二〇世紀初頭の一九〇二年から一九二三年まで、日本は英国との「日英同盟」によって、日露戦争から第一次大戦を超える期間の国際関係を生き延びた。極東の島国日本が世界史のセンターラインに「戦勝国」として躍り出た時代であった。その後、一九二一年のワシントン会議後の展開で、米国の思惑を背景に日英同盟を解消、遅れてきた植民地帝国として「先行していた列強への異議申立者」として戦争・敗戦の時代に突入する。そして、敗戦後の日本は新手のアングロサクソンの国たる米国との同盟関係を基軸に、一九五一年からの七二年間を歩んできた。つまり、二〇世紀に入ってからの一二二年間のうち実に九三年間をアングロサクソンの国との二国間同盟で生きたアジアの国ということで、そんな国は日本以外にない。しかも、日本人の多くはそれを「成功体験」だと認識している。
 二〇世紀システムとは「第一次大戦期以降の米国と英国の『特別の関係』(アングロサクソン同盟)を基盤に形成された世界秩序」ともいえ、日本は戦争・敗戦へと迷走した三〇年間を除いて、二〇世紀システムのサブシステムとして機能したのである。そこで、日本の進路にとっての課題は、この基本構図が今後も変わらないと認識するか否かということになるのだが、その前に、二〇世紀システムの中で日本の資本主義と民主主義が真に錬磨され、成熟してきたのかを考察しておきたい。

■日本資本主義の宿命的虚弱性――「総力戦体制」の継承と硬直

 第一次世界大戦の歴史遺産といえるのが「総力戦体制」である。この大戦が恐ろしい消耗戦になったことによって、戦争の意味が変わった。「戦場での軍隊による戦闘」(軍備と戦術)から、「銃後」の国力(経済・産業・国民)を総動員する総力戦になったのである。日本でも国家による「統制」が進み、一九二五年に重要輸出品工業組合法、一九三一年に重要産業


〈160〉
統制法、一九三七年には軍需工業動員法が適用、臨時資金調整法が制定されていった。軍事を中核にした産業化が加速し、一九三八年には、ついに国家総動員法という形で、物資の供出・配給の統制が図られた。
 注視すべきは、その国家総動員体制が戦後日本でも継承されたことである。このことは野口悠紀雄(『一九四〇年体制 増補版』東洋経済新報社、二〇一〇年)や山本義隆(『近代日本一五〇年』岩波新書、二〇一八年)が指摘してきたことであるが、日本の資本主義の性格を考えるうえで、重要である。表面的には、一九四五年の敗戦後、日本帝国主義の経済を支えた総力戦体制は米国によって徹底的に解体されたことになっている。GHQによる経済民主化政策が、「財閥解体、農地解放、労働改革」を三本柱として、市場経済化、非軍事化を目指して展開されたことも事実である。だが、戦後経済の混乱を制御する必要から官僚統制は残った。戦時経済の司令塔だった企画院と商工省は、「経済安定本部」と「通産省」という形で残り、大蔵省は財政金融政策の中核として「大蔵省護送船団」といわれるがごとく一九九〇年代まで機能し続けた。食糧管理制度も健康保険制度も形を変えて生き続けた。
 戦争のための総力戦から経済戦争・産業競争のための総力戦へと形を変え、日本は国家主導の資本主義を継承した。日本の復興・成長を見つめた戦勝国から、官民一体となって「工業生産力モデル」をひた走る日本に対し、「日本株式会社」批判が起こったのも頷ける点であった。
 一九八〇年代末の冷戦の終焉に向けて、世界を「新自由主義」といわれる潮流が突き動かし始めた。社会主義陣営の疲弊と硬直化を背景に、レーガン・サッチャーの米英同盟が主導し、「小さな政府を実現し、市場に任せろ」というM・ブリードマン流のシカゴ学派の主張に乗って、「規制緩和」が時代のテーマとなった。さらに、冷戦後の一九九〇年代には、米国の一極支配といわれた「米国流資本主義の世界化」ともいうべき潮流が生まれ、日本でも経済の国際化、グローバル化という掛け声が声高に叫ばれるようになった。「規制改革」がキーワードになり、「官から民へ」の潮流が生まれ、一九八七年の「国鉄民営化」(三七・一兆円の累積赤字の解消と二八万人の職員の人員整理)がなされ、極めつきが小泉構造改革であり、二〇〇五年の「郵政民営化」であった。
 だが、「規制改革」「官から民へ」という新自由主義の時代も続かなかった。二一世紀に入って、日本産業の国際競争力の低下と日本経済の埋没が顕著になると、円高圧力に耐え切れなくなり、「国がなんとかしろ」という声が高まり、登場したのがアベノミクスであった。結局、アベノミクスは「国家による金融主導の調整インフレ誘導策」であり、異次元金融緩和と財政出動によって「デフレからの脱却」を目指す国営資本主義の政策論であった。その結末が、中央銀行である日銀が「赤字国債を引き受けて国債の五三%を保有(二二年末)し、上場株式保有における筆頭株主(ETF買い)」という経済社会の歪みである。
 翻って、明治期以来の日本は「上からの近代化」を常態とし、官営工場の「払い下げ」の伝統の上に資本主義を成立させ、戦争時の「総力戦体制」を埋め込んできた。この国家依存の資本主義という性格は敗戦後も変わらなかった。その過程で日本の国民意識に「国家への依存と期待」が醸成されてきたといえる。上からの近代化、官主導の産業形成の宿命というべきか、日本資本主義の際立った特色として、愁嘆場に来ると「国が何とかすべきだ」という心理に回帰するのである。日本資本主義の最大の弱点がここにあり、国民も経済界も主体的に創造する意思に欠ける。結局、国が動かなければ何も動かない。「その筋のお達し」という権威付けが大切にされ、それが社会全体の重い同調圧力を生む。
 これは今日にも継承されており、アベノミクスも国家主導の異次元金融緩和と財政出動で意図的にインフレと円安を誘導し、経済を水膨れさせる手法なのだが、その易きに流れる政治に簡単に依存してしまうのである。補助金、助成金、給付金といったポピュリズム志向が根深く、「自主・自立・自尊」という気概こそが資本主義を支えるエトスであり、民主主義の基点でもあることを簡単に忘却するのである。
 寺西重郎が語る『日本型資本主義』(中公新書、二○一八年)が存在し、「ものづくり重視、強欲なマネーゲームへの嫌悪、人間関係と集団行動の重視」といった傾向を持っていることも確かであり、渋沢栄一がこだわった「論語と算盤」的な価値観を抱く経営者が存在してきたことも重視すべきだが、日本の資本主義がインナーサークルで自己完結的で、緊張感を生んでも他者に働きかけること(ルール形成)に消極的であるという限界を内包していることに気付かざるをえない。
 民主主義と資本主義の関係性については、世界史の脈絡の中で論究してきた(本連載240~248)が、基本的には資本主義と民主主義の「親和性」を確認してきたといえる。つまり、経済の基盤が市民の参画を支え、市民の主体的行動が資本主義の活力を促し、競争を通じた価値の実現をもたらすことが近代史の底流を形成してきたテーマである。「質の高い民主主義」と「人間的価値創造を促す市場経済」を探究することは、われわれの時代を創る車の両輪なのである。この点を忘れて、日本の再生はない。実は、「日本の埋没」は単に経済力の相対的低下ということではなく、民主主義を成熟させる努力を忘れ、国家主導のマネーゲームの肥大化を成長戦略と誤認し、健全な経済社会を見失っていることに本質的な原因があるのではないだろうか。
 二〇世紀システムを土壌とする日本の成功体験は、今、二〇世紀システムの動揺と構造変化という局面を迎え、新たな未来圏への創造的視界を求めている。その地平の彼方を見つめて、議論を深めていきたい。

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片山善博の「日本を診る」(162) 高市大臣が「捏造」だとした総務省文書から見えてくること 【世界】2023-05


「お役人」がどんなことをやっているのか,
多少の見聞から,偏ったことしか言えそうにないけれど,
改革でいつも公務員をやり玉にあげるのは,正しいことなんだろうかと思ってきた.
国で,公務員は,雇われ人だ,雇っているのは,フィクションとしては国民,
現在の仕組みでは,大臣が社長さんみたいなものだろうか.

大臣が頻繁に交代し,あるいは行政の経験がない(そういう場合が圧倒的に多い)のをいいことに,お役人が好き放題をしている……のだろうか.

ただ,お役人が,仕事についてやや保守的な方向に流れる――いや,そんなことはない,という話も聞くけれど――のは,お役人の立場に立てば,法令や,諸制度の由来を踏まえてのことだとも考えられなくはない,と思う.
その典型が,多くの公共施設.将来の運営管理のことを棚上げして,目新しく,かっこいい施設を建てたり,我田引鉄とかいわれていたじゃないか,と.
そんなとき,政治におもねる人もいただろうし,先行きをもっと慎重の検討すべきという人もいただろう.影響の大きさ,広がりを考えれば,どちらかというと保守に見えそうな「慎重な検討」となりそうだとも思う.
もともとお役人といっても,一色に染まっているわけではない.
元次官の方だって,面従腹背だなんていっていたじゃないか,と思う.それでいいじゃないか.
ただ,こじんの自己実現のためにお役人をやってもらっては,ちょっと困ることも多そうだなとは思う.全体奉仕者なんだから.

いや,いろいろ.
慎重に,前向きに,ちゃんと前後左右をよく見,よく聞いて……,か.

それで,雇い主の大臣は,政治家だった.
お役人の問題は,雇い主の問題でもありそうだと思うが.
よく知る人が,語っていた.


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【世界】2023年05月

片山善博の「日本を診る」(162)

高市大臣が「捏造」だとした総務省文書から見えてくること


 高市早苗国務大臣が捏造だと決めつけた総務省の文書に関する報道に接し、かつて自分自身が役所で体験したことに照らし合わせ、おそらくこんなことが進行していたのだろうと推察できるし、該当の文書は捏造されたものではなく、実際に官僚が作成したものに違いないと睨んでいる。

■問題の文書はどんな時に作成されるか

 筆者は、総務省の前身である自治省で官僚として勤務していた時、これに類する文書を自ら作成したことがあるし、後年総務大臣を務めていた時、当時の部下が作成した同じような文書をもとに報告を受けたこともある。
 では、どういう場合にこの種の文書は作成されるのか。それを理解してもらうために筆者自身の経験をここで取り上げておく。まず、官僚時代の経験からである。筆者は自治省税務局(現在の総務省自治税務局)で課長を務めていた。その頃、所管する事務に関して、ある国会議員から無理難題をふっかけられたことがある。それまでのルールを変えて、自分の関心事を特例扱いせよというのである。そんなことはできないので丁重に断ったところ、「お前のような融通の利かない役人は霞が関から追放してやる」とか、「自治省の法案は俺がつぶす。次官にそう言っておけ」などと凄んだのである。
 このたびの総務省文書では、放送法に関するやり取りの中で、首相補佐官から「俺の顔を潰すようなことになれば、ただじゃあ済まないぞ」、「首が飛ぶぞ」などと脅されたとのことだが、それと似た経験を筆者もしていたのである。
 筆者に凄んだ議員は、自分の要求が通らないと、実際に党の政策調整部門などの法案審議の場で、腹いせに嫌がらせをすることも実際にあったので、ほっておくわけにもい


〈178〉
かない。
 そこで議員とのやり取りの顚末を一枚の報告書にまとめ、次官や局長に報告しておいた。その際、次官か局長が「たちの悪い人から因縁をつけられたね」と感想を漏らしたことを記憶している。このたびの文書でも、総務省の高官が「変なヤクザに絡まれたって話ではないか」と述べたくだりがある。似たような事件には、似たような会話が交わされるものだと苦笑させられた。
 筆者が総務大臣を務めていた時、部下の課長がその当時の与党の実力者の息のかかった議員に呼び付けられ、軽油引取税に関して自治体に通達を出して、あることを指示せよと迫られたことがある。これは件の実力者の強い意向だということも仄めかされたという。
 二〇〇〇年の地方分権改革以来、国が自治体に指示や命令を発することができるのは法律に根拠がある場合に限られる。この件は法的根拠がないので、自治体に通達を出して指示することなどできない。しかも、当時の政権が金看板にしていた地域主権の理念にも甚だしく悖る。
 課長がそうした趣旨を述べて「それはできません」と断ったところ、「総務大臣の首をとってやる」と、息まいていたとのことだ。大臣の首がかかっていることを案じた課長は直ちに報告にきたが、その時に携えていたのが一枚紙であり、そこには議員とのやり取りが詳細に記されていた。
 ここで取り上げた例でおおよそのことは明らかだと思う。いずれも、役所が法令などのルールに基づいて行政を執行しているところに、それを変更したり捻じ曲げたりするように、ある程度の影響力を持つ政治家から横槍が入った時に、この種の文書は作成されているのである。
 なぜ文書化するかといえば、それを断った時に役所や役人に嫌がらせなどのしっぺ返しをされることが予想されるので、上層部も含めて役所内で情報を共有し、善後策を相談しておく必要があるからだ。その情報共有の際の資料がこの種の文書にほかならない。

■政治主導と卑怯な似非政治主導

 相談の結果、突っぱねようという方針を決めることもあれば、横槍を入れた政治家に対して影響力を持つ人に相談しようという場合もある。あるいは、やむなく政治家の主張を受け入れざるを得ないこともあるかもしれない。
 その場合には、先の文書化された報告書は、後々とても重要な意味を持つ。後年、なぜ役所はこんなルール変更をやったのかと批判されたとき、変更は決して役所側の意思によるものではなく、不当な政治的圧力に屈せざるを得なかったという事情が、その報告書によって説明できるからだ。このたびの放送法に関する案件は、首相補佐官が主張していたこととほぼ同じ内容の答弁を高市総務大臣(当時)が国会でしたことなど、その後の道行を見る限り、総務省は補佐官の主張を受け入れざるを得なかったのだろう。
 ちなみに、筆者が役人時代に無理難題を持ちかけられた案件は、次官と相談した結果、その議員を抑えることができる与党の実力派議員に相談することにした。かつて自治大臣も経験したことがあり、気心が知れていて信頼できる政治家だった。
 「実は○○議員のことで……」と筆者が話し始めたところ、即座に「○○が君たちに迷惑をかけているのか。よく言い聞かせておくから、心配しないように」という答えが返ってきて、一件落着となった。その当時は、脅したり凄んだりする議員がいる一方で、理非曲直を弁えている実力派政治家も少なくなかったのである。
 総務大臣の時の軽油引取税の案件では、報告を受けた折、課長に次のようなことを指示しておいた。自分は総理の要請で民聞人として大臣職を引き受けている。もしその議員や与党の実力者の策謀によって、総理が私の首を切るというのであれば、それに異を唱えるつもりはない。ただ、なぜ辞めるのかとマスコミから尋ねられたら、その時にはこの間の顚末をすべて話すので、その旨を先方の議員に伝えておくように、と。その後この件について、その議員から役所に対する働きかけは一切なかった。
 この件の後日談を披露すると、この議員や党の実力者は通達方式を諦めたものの、同じ趣旨のことを議員提案で立法し、法律に根拠をおくことによって目的を達成した。その内容には到底賛同できなかったが、実は彼らのこの取り組みを内心では評価していた。
 というのは、役所に対して凄んだり脅したりするのは、自分たちの思惑を役所の責任において実現させるところに狙いがある。本来、ルールを変更したいのなら自分たちが矢面に立って説明責任を果たすべきなのに、それをすると世論の批判を浴びたり、評判を落としたりする。そこで、都合の悪いことは役人に押しつけ、自分たちは後ろに隠れようとする。日頃、政治主導を標榜している政治家にしては、口ほどにもなく実に卑怯な態度である。放送法の解釈変更の強要などはその典型例だと思う。
 一方、軽油引取税に関する案件では、当初こそ卑怯な手法をとろうとしたが、役所側の言い分を聞き入れ、議員立法という形で自分たちが前面に出て目的を遂げる方式に切り替えた。法律の内容の是非はともかく、政治主導に関して言行が一致していることは評価していい。とかく問題となる政治と官僚との関係を考える上でとても参考になる事例だと考え、敢えて取り上げた次第である。

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末澤恵美 歴史の一部としてのロシア=ウクライナ戦争  【世界】2022-10

2023年10月06日(金)

なるべくちゃんと読んでおこうと思いながら,
テーブルに積まれる紙の束が増える一方のようで,ちょっと情けない.
読んでも,なかなか頭の中に入ってこない.
アルメニアは,このまえちょっと新書が出ていたな………とか,
ロシア,ウクライナあたりの歴史も同じ.

キエフは,いつの間にかキーウとなり,
しかし,本を読んでいたら,昔は,キエフだったのだとか.
そのうち,北京は,英国式にベイジンとか,よく知らないけれど,その国のふつうの発音でベイチンと呼ぶんだろうか.

なんだかご都合主義だな……とか思いながら,それにしても知らないことが多すぎるんだな,と思う.


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【世界】2022年10月

歴史の一部としてのロシア=ウクライナ戦争

末澤恵美

すえざわ・めぐみ 平成国際大学スポーツ健康学部教授。旧ソ連・中東欧研究。
    ウクライナに関する論文に「ウクライナの政治変動と外交政策」(名古屋大学出版会
    『黒海地域の国際関係』第七章、二〇一七年)、「民族の独立とレファレンダム――
    クリミアの事例」(『選挙研究』二〇一六年三二巻二号)など。



■はじめに

 ロシアがウクライナに侵攻してから半年が経とうとしている。停戦に向けた交渉が行なわれたこともあったが、解決への見通しがたたないまま犠牲者と避難民は増加し続けている。その一方で、ニュース・新聞・ネットでさかれるスペースは日に日に減っており、日本に避難してきたものの、言語の壁などによる生活への疲れがでてきた、との声も耳にする。五月には、戦争のさなか、独立ウクライナの初代大統領だったL・クラフチュクが他界した。
 ロシアによる攻撃が始まって間もない頃、ある番組で、ウクライナ国民は命を最優先に男性も国外退避すべきであり、命さえあればいつか国の再建はかなう、との主旨の発言をした橋下徹氏に対し、ウクライナの政治学者A・グレンコ氏が、ウクライナは三三〇年間ロシアに支配されてきたのであり、ここで再び独立を失えばプーチン後もそれが続く可能性があると反論した。
 このやりとりは番組を超えて注目されたが、筆者にとっては、ロシアの侵攻後、日々の報道のほとんどをロシア軍の動きや兵器などの軍事的な分析が占めるなか、グレンコ氏が数世紀にわたる歴史から現状と将来を見据えていたことが印象的であった。ロシアがウクライナに侵攻した時、筆者は「まさか」という思いと、「やはり」という矛盾する思いを同時に抱いたからである。ウクライナの長い歴史から見れば独立国家となってからの三一年はほんの「一瞬」に近い時間であり、独立と同時にロシアとのあいだで様々な問題が生じていたものの、二一世紀のこの時代に首都攻略まで目論む露骨な侵略戦争が起こるとは想像していなかった。しかしウクライナの人々にとっては、二〇二二年の侵略も数世紀にわたる歴史の一部なのであることを、グレンコ氏の言葉から改めて認識した。
 ロシアとウクライナ、ロシア人とウクライナ人の関係を対立の要素からのみ語るのはあまりに一面的であり、ロシアとウクライナの戦争は、歴史的要因と現代的要因が複雑に絡み合った結果ではある。しかしなぜウクライナがロシアの侵攻と戦い続けるのかを理解するには、歴史的な流れを踏まえる必要があるため、本稿はその経緯をたどることにする。

■ロシアにとってのキーウ

 ロシアのプーチン大統領が口にする「ひとつの民族」は、九世紀のキーウ(キエフ)・ルーシに遡る。現在のウクライナの国章はキーウ・ルーシの紋章であり、通貨フリヴニャもキーウ・ルーシ時代の通貨の名称である。キーウには、ルーシをキリスト教化(東方正教)したヴォロディーミル(ウラジーミル)聖公が十字架を背負ってドニプロ(ドニエプル)川を見下ろす像や、ヤロスラフ賢公の建立による聖ソフィア聖堂、東スラヴ最古の修道院などがあり、キリル文字化されたのも「ルーシ法典」が制定されたのもこの時代であるため、ロシア国家史ではキーウ・ルーシはノヴゴロドと並ぶロシア国家のルーツとされている。
 ゼレンスキー大統領は、ロシアがみずからルーシとの繋がりを焼き払おうとしたと批判したが、プーチンがクリミアや東部に住むロシア人の保護という大義名分を超えてキーウへの侵攻を試みたのは、ゼレンスキー政権の陥落と親露政権樹立という政治的目的だけでなく、キーウをロシア領に「取り戻した」英雄としてロシア史に名を残そうとしたのではないか。少なくとも、もし成功していれば、クリミア併合時とは比較にならないほど大統領への支持が高まると期待したのであろう。逆にいえば、そうするために「民族一体説」を強調する必要があった。

■キーウ・ルーシ後のウクライナ

 一三世紀前半にキーウ・ルーシがモンゴルに滅ぼされ、政治の中心がモスクワに移る一方、西からリトアニア、ポーランドの支配が及び、ザポリッジャ(ザポロージェ)を拠点にウクライナ・コサックが形成され独立闘争を展開した。ウクライナの国歌は「我らがコサックであることを示そう」と締めくくられており、ウクライナに行くとコサックの像やコサックをモチーフにしたグッズを土産店で目にする。人形の多くが思わず笑ってしまうコミカルな表情やモチーフで作られており、三〇年前に筆者が知人のウクライナ人にその理由をたずねたところ、「ウクライナの文化はユーモアの文化であり、それがなければウクライナという国はとっくに滅びていた」との答えがかえってきた。その一言に、ウクライナの歴史の重さ、ウクライナ人の内面的な強さを改めて実感したことを覚えている。
 ウクライナはロシアとポーランド・リトアニア、クリミア・ハン(後オスマン帝国)に囲まれ、一六六七年の「アンドルソフ講和」でロシアとポーランドに分断支配される。その後ロシア、オーストリア、プロイセンによるポーランド分割と対オスマン戦争での勝利によって一八世紀後半にはほとんどがロシア帝国領となり、クリミアには黒海艦隊が創設された(西ウクライナはポーランドからオーストリア領となった)。

■ソ連時代

 革命でロシア帝国が滅びると、中央ラーダ政権が独立を宣言し、東西ウクライナの統一を試みる。だが一九二二年には西ウクライナの一部を除きボリシェヴィキ政権のもとでソ連邦創設条約を締結し、独立政権は短命に終わった。ソ連建国直後は共和国におけるソヴィエト化を進めるための「土着化政策」の一環で、ウクライナでも民族言語による教育やウクライナ人の幹部登用が奨励されたものの、スターリン時代になると粛清、「ホロドモール(2)」、民族単位での強制移住、バンドゥーラ奏者への弾圧が始まった。ウクライナの民族楽器であるバンドゥーラは、キーウ・ルーシ時代のフレスコ画にその原型(コブザ)がみられ、ザポリッジャ・コサックの間で盛んに奏でられた。バンドゥーラ奏者は目の不自由な人が多かったが、民族主義をあおるものとしてスターリンに弾圧された。ポーランドの支配下や中央ラーダ政権時代に生まれたウクライナ独自の正教会も非合法化された。
 第二次世界大戦でウクライナは独ソ戦の激戦地となり、ドイツ軍にソ連からの解放を期待し対独協力についたソ連兵(および民間人)は粛清された。しかし反独・反共武装組織「ウクライナ蜂起軍」(UPA)は戦後も一〇年近く反ソ武力闘争を続けた。UPAは一九二九年に結成された「ウクライナ民族主義者組織」(OUN)を母体としており、プーチンがネオナチと呼ぶ「バンデラ主義者」とは、OUN、UPAの中心的人物だったS・バンデラを崇拝する人々のことだが、ウクライナでも五月九日は対独戦勝記念日である。ウクライナはソ連、ベラルーシ(白ロシア共和国)とともに国連の創設メンバーとなったが、これはソ連による民族自決権容認の一環ではなく、国連におけるソ連票を増すためであったことが投票行動の一致にあらわれている。
 クリミアはソ連建国当初ロシア共和国内の自治共和国であった。ところが一九四六年に自治州に降格となり、黒海艦隊基地のあるセヴァストーポリは一九四八年のロシア共和国最高ソヴィエト幹部会令によってロシア共和国の直轄市となった。その後一九五四年のソ連邦最高ソヴィエト幹部会令によって、クリミアそのものがウクライナ共和国に移管された。
 フルシチョフをはじめ指導部のクリミア移管をめぐる政治的思惑に関しては諸説ある。一九五四年はコサックのフメリニツキーがポーランドに対抗してロシアと締結した「ペレヤスラフ協定」から三〇〇年目にあたり、「ウクライナとロシアの再合同」三〇〇年を祝う数々の行事が行なわれた(3)。しかし協定の締結時からロシアの支援とコサックの自治をめぐる解釈にはズレがあり、「ペレヤスラフ協定」を記念すべき「再合同」とするのはロシア側の見方である。クリミア移管に関するソ連最高ソヴィエト幹部会令は、セヴァストーポリについては触れていない。だが、その後のロシア共和国憲法では共和国直轄市としてモスクワとレニングラードが、ウクライナ共和国憲法ではキーウとセヴァストーポリがあげられていることから、セヴァストーポリはクリミアの一部となったと理解されている。
 フルシチョフの「雪解け」によって、「六〇年代の人々」を意味する「シェスチデシャートニキ」による文化復興運動が起こり、一九七五年にブレジネフ下のソ連が欧州安保協力会議(CSCE)の最終文書いわゆる「ヘルシンキ宣言」に調印してからは、「ヘルシンキ宣言」の人権保障規定のモニタリングを目的とする「ヘルシンキ・グループ」がウクライナでも生まれたが、メンバーは反体制派として投獄された。彼らが解放されたのは、ゴルバチョフ時代になってからである。
 ゴルバチョフのペレストロイカは、共産党の一党独裁を終わらせ、一部市場経済の導入やグラスノスチ(情報公開、検閲廃止)によって社会が活性化され、街のいたるところで市民が議論する様子が見られるようになり、党の見解によらない独立系の新聞が次々と発行された。品不足を表す店頭の「行列」はソ連経済の代名詞としてアネクドート(政治的な風刺・小話)になっていたが、ゴルバチョフ以前には存在しなかった新聞を買う人々の行列が検閲廃止後見られるようになった。新聞がただ党の方針を伝える媒体から、真実を知るための手段と多様な意見を自由に闘わせる場になったからである。グラスノスチは、ゴルバチョフがトップに就任して間もなくウクライナで起きた、チョルノビリ(チェルノブイリ)原発事故での情報伝達の遅れと閉鎖性という、大きな犠牲と教訓のもとに促進された政策であった。
 改革遂行のための行政権強化と共産党に代わる統合の象徴として大統領ポストが設置されたが、議論はデモに、デモはストライキへとエスカレートしていった。バルト三共和国では、急激な政治的要求は潰されかねないため、チョルノビリ原発事故を受けて環境保護運動という形から始まり、ペレストロイカ支持運動、ソ連併合の原因となった一九三九年の独ソ不可侵条約秘密議定書に関する情報開示要求運動、そして政府による同秘密議定書の違法性認知を通じての独立復活運動へとつき進んでいった。独ソ不可侵条約秘密議定書は、ポーランドの東部とルーマニアの北ブコヴィナ、ベッサラビアの一部もソ連領に組み入れたため、現在のウクライナ領は段階的に形成されたこととなる。
 ウクライナでは、禁じられていたウクライナ語の文字「Г(ゲー)」や宗教の復活、ホロドモールに関する議論が起こり、バルト三共和国が独ソ不可侵条約秘密議定書の調印日(八月二三日)に実施した三国の首都を結ぶ「人間の鎖」運動にならって、中央ラーダ政権時代の「東西ウクライナ統一令」調印記念日にキーウとリヴィウ(リヴォフ)を結ぶ「人間の鎖」を実施した。
 エストニアを皮切りに他の共和国が次々と「国家主権宣言」を採択するなか、ウクライナも一九九〇年に共和国籍や共和国軍に関する規定を含む「国家主権宣言」を採択し、青と黄色の旗を掲げるデモが増えていった。ウクライナの運動において重要な役割を担ったのは、先述の「シェスチデシャートニキ」、解放された反体制派知識人、作家同盟のメンバーであり、人民戦線(「ウクライナ・ナロードヌィ・ルーフ」)の初代議長I・ドゥラチも作家同盟のメンバーであった。
 ソ連憲法ではもともと公用語や国語に関する規定はなかったが、非スラヴ語・非キリル文字であった民族言語を復活させ国語化しようとする共和国が出てくると、ソ連政府はロシア語をソ連の公用語とする言語法を制定した。また、民族の自決権とソ連邦からの離脱権を認めながらも手続き法がなかったため、連邦離脱法が制定されたが、離脱のための条件が厳しくバルト三共和国では「事実上離脱させないための法」と呼ばれた(4)。ゴルバチョフは同時に、ソ連を維持するための新しい連邦条約の策定を進めた。ウクライナは、「主権宣言」の時点では、「他のソ連共和国との関係は同権・相互尊重・内政不干渉を原則とする条約に基づいて構築される……主権宣言の諸原則は連邦条約の策定に適用される」との文言があるように、まだ独立をめざすとは明言されていなかった。
 ソ連では、住民の意思を確認し政府に対する主張の根拠となるレファレンダム(国民投票)が各地で実施されるようになり、クリミアでも一九九一年一月に自治州から自治共和国としてのステイタスをとり戻し、新しい連邦条約に参加するか否かを問うレファレンダムが行なわれた(賛成九三%)。その二カ月後、ソ連全土で「平等な主権共和国による刷新された連邦としてのソ連維持」を問うレファレンダムが行なわれ、ウクライナでは七〇%が賛成したが西部三州がボイコットした。
 しかし、リトアニアで「血の日曜日事件」が起こり、自由を求める人々の間でゴルバチョフに対する不信感が増すなか、ゴルバチョフ周辺でも保守派の要人の間で改革による混乱、連邦弱体化、軍縮による勢力圏縮小に対する不満が蓄積されていった。保守派は新連邦条約の調印を阻止しようと一九九一年八月に反ゴルバチョフ・クーデターを起こしたが、クーデターはエリツィンによって打倒されただけでなく共和国の独立を加速化させ、ウクライナ最高ソヴィエトは八月二四日に「独立宣言」を採択した。この宣言の起草者もL・ルキヤネンコやV・チョルノヴィルなど、かつて反体制派として投獄されていた人々であった。この二日後、キーウの「十月革命広場」は現在の「独立広場」となった。
 ソ連はバルト三共和国の独立回復を承認して三国は国連に加盟、ウクライナは一二月に共和国ソヴィエトの決定に関するレファレンダムと大統領選を実施し、独立が決定した。初代大統領となったL・クラフチュクは、ロシアのエリツィン大統領、ベラルーシのシュシケヴィチ最高ソヴィエト議長とともに「独立国家共同体」(CIS)の創設とソ連消滅を宣言し、バルト三国とグルジア(現ジョージア)を除く他の共和国もCISに加わり、ゴルバチョフは大統領を辞任してソ連は消滅した。通常の国家間組織であれば組織の名称に「独立」とあえてつける必要はない。CISは創設協定の中でソ連の消滅を宣言した、つまりソ連を消滅させることが目的だったため、あえて「独立国家共同体」と名付けたわけである。

■ソ連崩壊後

 数世紀にわたる悲願の独立を果たしたものの、国家建設のプロセスは多大な困難を伴うものであり、ウクライナは新憲法の制定が旧ソ連諸国で最も遅れた。「主権宣言」には、同宣言が「新しい憲法の土台となる」と書かれており、宣言採択の三カ月後には憲法準備委員会が設置されていた。だがウクライナの場合、大統領と議会の権限争い等だけでなく、ロシア語やクリミアの扱い、及びそれに関連して連邦国家とするか単一国家とするか、議会を一院制にするか二院制にするかという争点もあがり、左派と右派の合意に時間がかかったのである。
 クリミアに関しては、特別の地位と権利を与えることでロシア人の不満を緩和し分離を防ごうと、自治共和国としての地位復活が認められたが、これに対し西ウクライナ諸州から反発が生じるなど、当時の争点のほとんどは現在に通じる問題であった。つまり一九九六年に新憲法は制定されたものの、根本的な問題は解決されていなかったわけである。国内問題と外交問題が直結しているのがウクライナの難しさであり、クリミアにある黒海艦隊とその基地セヴァストーポリ、エネルギーをめぐるロシアとの対立は、ウクライナに残されたソ連の核兵器移送を遅らせた。アメリカの仲介と国際社会からの批判もあり、ウクライナは解体とロシアへの移送に合意したが、その条件として一九九四年にロシア、アメリカ、イギリスからとりつけたウクライナの安全を保障する「ブダペスト覚書」は役にたたなかったことが、二八年後の二〇二二年に明らかとなった。
 なお、新憲法によってかつての国旗、国章などの国家シンボルが復活したが、国歌「ウクライナいまだ死なず」については、二番の「シャン川からドン川まで、兄弟よ、血の闘いのために立ち上がろう。祖国は誰にも渡さない。黒海は微笑み、ドニプロ川は歓喜する。我らがウクライナに運命はやってくる」の傍線部分がポーランドとロシアにまで及ぶと問題になり、一番のみとなった(「ウクライナは未だ死なず。栄光も自由も。兄弟よ、運命は我らにまだ微笑みかけるだろう。我らの敵は太陽の下の露の如く滅び、兄弟よ、我らの地で栄えんと魂も肉体も我々の自由に捧げよう。そしてコサックの血が流れていることを示そう」)。
 ロシアとの問題は、エリツィン=クチマ時代の一九九七年に「友好・協力・パートナーシップ条約」と三つの「黒海艦隊協定」が調印されたことでいったんは解決し(5)、同年にはウクライナとNATOの「特別のパートナーシップ憲章」、ロシアとNATOの「基本文書」も調印された。しかしNATOが東方拡大を続け、さらに一九九九年のコソヴォ危機でNATOがセルビアを空爆したためNATOとロシアの関係は悪化、結果的にNATOがコソヴォの独立を助けたことはロシアがクリミアの独立を支援する口実を与えた。
 二〇〇四年の「オレンジ革命」を受け翌年に大統領になったユシチェンコは、黒海艦隊協定の延長を拒み、S・バンデラを英雄扱いしたことからロシアが猛反発したが、政権内の不和と失政から国民の支持を失いオレンジ政権は消滅した。二〇一四年の「ウクライナ危機」は、オレンジ革命で敗北したヤヌコヴィチがユシチェンコの次の大統領に就任した四年後に起こった。ヤヌコヴィチはロシアとの関係を修復し、黒海艦隊協定の延長、地方におけるウクライナ語以外の言語の使用に関する「国家言語政策基本法」の成立(6)、大統領権限の強化を試みた。ヤヌコヴィチは、NATOと異なりEUとの関係は維持していたが、EUがヤヌコヴィチの政敵であるティモシェンコの釈放や司法改革、汚職対策を再三要求し、それらを「連合協定」締結の条件としたことから、二〇一三年一一月、ヤヌコヴィチは直前になって調印を延期した。

■ウクライナ危機からロシアによる侵攻へ

 これに対してキーウでデモが起き、年明けに治安部隊との衝突で一〇〇名が死亡しヤヌコヴィチは所在不明のまま最高ラーダ(国会)によって解任された。ロシアにいたヤヌコヴィチは、自身の解任を「ファシストによる国家転覆」と訴え、プーチンはウクライナにおける混乱からロシア系住民を保護するとの名目で連邦軍の使用許可を上院に要請した。クリミアではロシアとの「再合同」かウクライナ残留かを問うレファレンダムが行なわれ(この時も「再合同」という文言が使われた)、その結果を根拠としてクリミアはプーチンとロシア連邦の一部となる条約を締結した。クリミアに続こうとウクライナ東部のルハンスク州とドネツク州も独立を宣言し、ウクライナ政府軍との衝突にいたってからの経緯は周知の通りである。
 新憲法制定の過程で議論になったウクライナの連邦化が、二〇年あまりを経て今度はプーチンから提案された。東部二州を事実上ロシアのコントロール下におくためである。ポロシェンコ大統領は、連邦化は拒みつつも和平達成のため東部二州に対する特別の地位付与には合意し、そのための憲法改正案を最高ラーダに提出した。しかし二州を特別扱いすることには国内(主に西部州)から反対の声があがり、「ミンスク合意」は頓挫した。特別の地位付与は解決策にならないことをクリミアの例から学んでいたからである。ポロシェンコ大統領以降、地方自治改革が本格的に進められているが、ミンスク合意が暗礁にのりあげた原因がウクライナ側にもあったことは、ロシアに侵攻の口実を与えたかもしれない。
 クチマは「ロシア寄り」とみられることが多いが、ロシアによる侵攻の二〇年近く前、まだ大統領としての現役時代に『ウクライナはロシアではない』という著書をあえてモスクワで出版している(7)。ロシアがウクライナをどう見てきたかを歴史家さながらに、しかし大統領としての目線で記しており、ロシアを批判することなく「ロシアの一部としてのウクライナ」から「ウクライナとロシア」という視点に立って共存することを呼びかけている。
 本稿は誌面の都合と冒頭に述べた理由から、危機後の経緯やロシアの侵攻に関する現状分析よりもロシアとウクライナの歴史的な関係に焦点をあててきたが、ウクライナは多民族国家であることを忘れてはならない。とりわけ、クリミア・タタール人の状況が危惧される。ロシア帝国によるクリミア併合でその地を追われ、スターリンによる強制移住と弾圧で多くの犠牲者を出し、ゴルバチョフ時代にようやく帰還できたものの二〇一四年に再び事実上の追放にあうという、歴史に翻弄されてきた人たちである。ニュースではなかなかとりあげられない犠牲者にも私たちは目を向けるべきである。


(1)二〇二二年三月三一日に日本政府はウクライナの固有名詞をロシア語ではなくウクライナ語の発音による表記に改めた。本稿では初出のみロシア語名も表記する。
(2)凶作に加え、過酷な穀物の調達、移動の自由禁止によりもたらされた「人為的飢饉」といわれている。
(3)ロシアとウクライナにいくつものフメリニツキー像がたてられ、クチマ元大統領やティモシェンコ議員が卒業したドニプロペトロフスク大学など「再合同三〇〇年記念」の名称が加えられた教育機関・施設もあった。
(4)共和国で三分の二の賛成があること、ソ連人民代議員大会の過半数の賛成を得ること及び否決された場合はその後一〇年にわたり同様の提案はできないこと、五年間の移行期間をおくこと等。
(5)友好条約の条項には領土保全・国境不可侵も含まれている。黒海艦隊はインフラを含め両国で折半し、ウクライナはその半分をロシアに売却、かつロシアとセヴァストーポリのリース契約をすることでエネルギー代金の未払いにあてた。
(6)しかし同法は地方における非ウクライナ語話者の便宜を配慮し、一八の言語をあげて多言語主義を奨励するものであるため、ロシア語だけを優遇する法ではない。
(7)Деoннд Кучма,《Украина――не Россня》,Время,Москва,2003




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マルチェロ・ムスト 戦争の起源、NATOの役割, ウクライナの将来シナリオ ―― バリバール、フェデリーチ、レヴィとの対話 【世界】2022-10

2023年10月02日(月)

うーん,去年読んだはずなんだけれど,
もういちど読みなおしてみよう.
いろんな見方がある……ということは,おさえておかないといけないよな,と思う

この戦争が,いったいどんな歴史的背景を持っているのか,
近隣地域でどのように受けとめられているのか,
どんな影響を近隣に与えているのか,
もうすこし広く,射程の長い議論,検討が必要ではないか,と思うけれど.


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【世界】2022年10月

戦争の起源、NATOの役割,
ウクライナの将来シナリオ

バリバール、フェデリーチ、レヴィとの対話

マルチェロ・ムスト

訳=斎藤幸平
解説=佐々木隆治

Marcello Musto
1976年イタリア生まれ。カナダ、ヨーク大学教授。社会学者。著書『アナザー・マルクス』(江原慶・結城剛訳,堀之内出版)ほか。


 はじめに   マルチェロ・ムスト

 ウクライナでの戦争が始まって四カ月。国連人権高等弁務官事務所によると、すでに四五〇〇人以上の市民が死亡し、約五〇〇万人が家から追い立てられて難民となることを強いられている。この数字には軍人の死者数は含まれていないが、ウクライナ側で少なくとも一万人、ロシア側ではおそらくそれ以上が亡くなっている。さらには、ウクライナ国内でも避難生活を送る人々が数百万人いる。ウクライナ侵攻によって、都市や民生インフラが大規模に破壊されており、その再建には数世代もかかる見込みだ。またそれと同時に、マリウポリ包囲の際にロシア軍が犯した犯罪を筆頭に、重大な戦争犯罪が引き起こされている。
 そこで私は、この戦争の開始以来なにが起きているのかを概観したうえで、NATOの役割についての考察を深め、これから起こりうるシナリオを考えていくことを目的として、座談会を開催した。参加者はマルクス主義の伝統を継ぐ、世界的にも名の通った三人の学者、エティエンヌ・バリバール(キングストン大学現代ヨーロッパ哲学研究センター記念議長教授)、シルヴィア・フェデリーチ(ホフストラ大学政治哲学名誉教授)、ミシェル・レヴィ(フランス国立科学研究センター名誉研究部長)である。以下の議論は、ここ数週間のEメールや電話による数多くのやりとりをまとめて組み上げたものである。
(2022・7)


ムスト  ロシアによるウクライナ侵攻は、戦争という残虐さをヨーロッパに呼び戻すと同時に、ウクライナの主権に対する攻撃にどう対応するのかというジレンマを世界に突きつけていますね。
レヴィ  プーチンがドネツク地方のロシア語を話すマイノリティを保護しようとしていた限りでは、彼の政策にはまだ多少なりとも合理性があったと言えるでしょう。NATOの東欧への進出に反対していたことについても同様です。しかし、ウクライナへのこの侵攻は、都市への一連の爆撃や数千人規模の民間人の犠牲者をともなう残虐なものであり、犠牲者には老人や子どもも含まれている。これはいかなる正当化もできません。
バリバール  いま眼前でくり広げられている戦争は「総体的」なものであり、非常に強力な隣国の軍隊によって行われる破壊と恐怖の戦争です。そして、ロシア政府はこの戦争をきっかけに、後戻りのできない危険を冒しながらも帝国主義を推し進めようとしている。ただちになすべきことは、ウクライナ人が抵抗を続けられるようにすること、そして抵抗を支援することです。その際には、感情的に支援表明するにとどまらず、行動をともなうことで、ウクライナ人が現実的に支援を受けていると感じられるようにする必要があります。求められているのはどのような行動なのか? これが戦術的な議論の出発点となり、「防衛面」と「攻撃面」の有効性と危険性を見極めていくことになります。とはいえ「ひとまず静観する」というのは選択肢にはなりません。
ムスト  ウクライナの抵抗の正当性を認める一方で、同じく決定的な問題となっているのは、ヨーロッパが戦争の当事者とみなされるのを回避し、第三者の立場から武力紛争の終結に向けた外交的イニシアティブにどれほど貢献できるか、というものです。それゆえ、ここ三カ月間は好戦的なレトリックが展開されていたにもかかわらず、世論は、ヨーロッパは戦争に参加すべきではないという方向に傾いています。その第一のポイントは、ウクライナ国民がこれ以上苦しむ状況を作り出さないことです。
 危惧すべきは、すでにロシア軍の迫害を受けているなかで、ウクライナがNATOから武器を受け取り、駐屯地と化してしまうことでしょう。ワシントンの面々はロシアの恒久的な弱体化とヨーロッパのアメリカに対する経済的・軍事的依存の拡大を望んでいるのであり、駐屯地化したウクライナはワシントンのために長期の戦争に従事することになる。もしそうなれば、紛争はウクライナの主権を完全かつ正当に防衛するという目的は達成されません。当初からウクライナへの重火器輸送が戦争の危険なスパイラルを引き起こすことになると非難していた人々は、現地で毎日発生している暴力を知らないなんてことは絶対にないし、ロシアの軍事力に屈してウクライナ住民を見捨てることを望んでいるわけでもないでし


〈154〉
ょう。
 「非同盟」は、中立性や等距離の確保を意味するものとして風刺されますが、そうではありません。「非同盟」は原理上の平和主義という抽象的な問題ではなく、外交的オルタナティヴという具体的な問題なのです。このことが示唆しているのは、現状において鍵となる目標、つまり平和を回復するための信頼できる交渉を開始するという目標に近づけるのかという観点から、あらゆる行動や宣言を慎重に検討する必要があるということです。
フエデリーチ  ジレンマなんてありません。ロシアのウクライナに対する戦争は非難されなければならないのです。町を破壊し、罪のない人々を殺害し、何千人もの人々に恐怖の中で生活することを強いているという事実はなにをもってしても正当化できません。この侵略行為によって侵害されたものは、主権にとどまらずそれをはるかに超えています。しかし私は同時に、アメリカとNATOによる多くの作戦がこの戦争を醸成するのに貢献したこと、そしてアメリカとEUがウクライナに武器を送ることを決定して戦争を延々と長引かせていることも非難する必要があると思います。アメリカが、ロシアに対してNATOが国境を侵略しないことを保証していればロシアの侵攻を阻止できたことを考えれば、ウクライナへの武器供与には特に異議を申し立てるべきです。


戦争に対し、私たちはどのような「援助」をするのか

ムスト  戦争が始まって以来、主要な論点の一つとなっているのがどういう種類の援助をするかという問題です。ウクライナ入がロシアの侵略から身を守ることができる一方で、しかしウクライナのいっそうの破壊と国際的な紛争拡大につながることがないような援助はどのようなものか。この数カ月、この問題が論争の的になってきましたが、ゼレンスキーが要求しているのは、ウクライナ上空の飛行禁止区域の設定、ロシアへの経済制裁の水準、そして何よりウクライナ政府への武器供与の妥当性を認定することでした。ウクライナの犠牲者を最小限にとどめ、これ以上のエスカレーションを防ぐために、どのような決断が必要だとお考えでしょうか。
レヴィ  現在のウクライナには、民主主義の欠如、ロシア語を話すマイノリティの抑圧、「西洋崇拝」などに関して多くの批判が浴びせられています。しかし、ロシアの侵略が残虐かつ犯罪的な方法で国民の自決権を蔑(ないがし)ろにするなかで、ウクライナの人々が自分たちを守る権利を否定することは誰にもできません。
バリバール  私は、ロシアの侵略に対するウクライナの戦争は、強い意味での「正しい戦争」であると言いたい。この用語が問題含みなカテゴリーであり、西側諸国ではごまかしや偽善、あるいは悲惨な妄想と切っても離せない長い歴史を持



〈156〉
っていることは承知の上ですが、それでもこれ以外にふさわしい用語はないと思うのです。そのため、私が「正しい」戦争という用語を採用するときにはっきりさせておきたいのは、「正しい」戦争とは、侵略から自分たちを守る人々の正当性を国際法の基準に照らして認めるだけでは不十分であり、被侵略側にコミットする必要がある戦争であるということです。そしてそれは、あらゆる戦争――あるいは現在の世界状態において起こるあらゆる戦争――を容認しない私のような人々や、その戦争から甚大な被害を被る人々でさえ、積極的に関与しないままでいるという選択肢を持たないような戦争なのです。というのも、関与しないという選択肢によって事態はなおさら悪化するからです。そのため、熱烈にではないとはいえ、私が選ぶのはプーチンに抵抗するという立場です。
ムスト  いまおっしゃった精神は理解しますが、私は衝突の全面化を回避する必要性、つまり和平合意に至る緊急性をより重視しています。和平まで時間が長引くほど、戦争がさらに拡大する危険性が高まります。ウクライナで起きていることから目をそらし、無視しようと思う人はいません。しかし、ロシアのような核保有国が当事者となっている状態で、かつ同国内で大規模な平和運動が活発になっていない以上、プーチンとの戦争に「勝利」できると考えるのは幻想であると認識しなければならないでしょう。
バリバール  核を含む軍事的エスカレーションは非常に懸念すべき点です。それは恐ろしい事態であり、考慮外に置くことができないのは明らかです。しかし、平和主義というのは選択肢にはない。目下求められているのは、ウクライナ人の抵抗を支援することです。「不干渉」の立場を再び演じようとするのはやめましょう。いずれにせよEUはすでに戦争に巻き込まれています。軍隊は派遣していないとしても、武器は提供しているのであり――私はそうすべきだという立場です。こうした行為は介入の一形態でしょう。
ムスト  五月九日、バイデン政権はウクライナ民主主義防衛・レンドリース法を承認し、四〇〇億ドル以上の軍事・財政支援パッケージがウクライナに提供されることになりました。これにEU諸国からの援助を加えると途方もない金額となり、戦争を長引かせるために必要な資金提供を意図しているようにも思えます。六月一五日、バイデン自身がアメリカからさらに一〇億ドル相当の軍事支援を提供すると発表したことで、この印象は強められました。アメリカとNATOからハード面におけるかつてないほど大量の供給を受けたことで、ゼレンスキーは一番必要であるロシア政府との対話を先延ばしにし続けている。さらに、過去の戦争では供給された兵器が後に他者によって別の目的のために使用されたことも多く、それをふまえれば、武器の輸送はウクライナ領土からロシア軍を追い出すためだけに役立つという見解に疑問を呈するのは一理あると思います。
フエデリーチ  私は、アメリカとEUがロシアに対して、ウクライナをNATOに加盟させないことを保証することが最善策だと考えています。これはベルリンの壁崩壊の際にゴルバチョフに対して約束されたことですが、文書化はされていない状態です。しかし残念ながら、アメリカが解決策を模索するメリットはありません。アメリカの軍事・政治権力機構の大部分は、何年も前からロシアとの衝突を提唱し、その準備を進めてきました。そしてこの戦争はいまや、石油採掘の大推進を正当化し、地球温暖化に対するあらゆる懸念をそっちのけにするのに都合よく利用されています。バイデンはすでに、アメリカ先住民の土地での採掘を中止するという選挙公約を反故(ほご)にしている。私たちはまた、何十億ドルものお金が、何千人ものアメリカ人の生活を改善するために使われることもできたのに、そうではなくアメリカの軍産複合体に送金されるのを目撃しています。軍産複合体はこの戦争における圧倒的な勝者の一員です。戦闘をエスカレートさせても平和が訪れることはありません。

ロシアの侵攻に対して左派はどう反応したのか

ムスト  ロシアの侵攻に対する左派の反応に議題を移していきましょう。少数派で規模も小さいとはいえ、ロシアの「特別軍事作戦」を明確に非難することを拒んだ一部の組織は、大きな政治的過ちを犯しました。なによりもこの過ちによって、NATOやその他の国々によって将来引き起こされるかもしれない侵略行為を非難する際の信憑性が低下してしまいます。ここには、政治を一面的にしか捉えることができない、イデオロギー的に視野の狭い見方が映し出されています。まるで、すべての地政学的な問題は、アメリカを弱体化させるという観点だけで評価されるべきだと考えているかのようですね。同時に、その一部を除いたとしても、あまりにも多くの左派がこの戦争において協同戦者となる誘惑に多かれ少なかれ、屈しています。私は、社会主義インターナショナルやドイツの緑の党、アメリカ民主党の数名の進歩的代表者が表明した立場に驚いたわけではありません――とはいえ、つい先日まで平和主義者であると宣言していた人々が突如として軍国主義に転向するのは、つねに耳障りで不快なものです。私が念頭に置いているのはそれらの勢力ではなく、いわゆる「ラディカルな」左派の多くの勢力であり、それらの勢力はここ数週間、ゼレンスキー支持の大合唱のただなかで、はっきりとした表明を一切していない。進歩的な勢力は、戦争に反対しないのであれば自らの存在理由のうちの本質的な部分を失ったことになり、反対陣営のイデオロギーを飲み込むという結末を迎えることになってしまったのです。
レヴィ  まず、プーチンによるウクライナ侵攻の「正当化」の一つが反共の議論であったことを思い起こすところから始


〈158〉
めたいと思います。開戦前の二月二一日に彼が行った演説で、ウクライナは「すべて、ボリシェヴィキと共産主義のロシアによって創られた」、またレーニンはこの国の「作者であり建築家」だと述べました。プーチンはウクライナを併合することで、ボリシェヴィキ以前の「歴史的ロシア」、つまりツァーリズム時代のロシアを復活させるという野望を表明したのです。
バリバ-ル  レーニンはウクライナのナショナリズムに破滅的な譲歩をしたのであり、もしそうしなければ独立したウクライナは存在しなかったはずだ、なぜならばウクライナの土地はそこに住む人々からロシアの一部と見なされていたからだ、とプーチンは言っています。それは、レーニンに対抗してスターリン支持の立場に立つということです。もちろん、よく知られている「民族」問題については、私はレーニンが正しかったと思います。
ムスト  レーニンが書いているのは、ある民族が帝国主義の権力から自らを解放しようとする闘争は、他の帝国主義権力によってその国の利害のために利用されるかもしれないが、そのことを理由に民族自決権を支持する左派の方針が変わることがあってはならない、ということです。進歩的な勢力は歴史的にこの原則を支持し、それぞれの国家が住民の示した意志に基づいて国境を設定する権利を擁護してきました。
レヴィ  ギリシャやチリの共産党のようにソ連社会主義に最もノスタルジーを感じる政党も含め、世界の「ラディカルな」左派政党の大多数が、ロシアによるウクライナ侵攻を非難しているのは偶然ではないでしょう。残念ながらラテンアメリカでは、左派の重要な勢力やベネズエラ政府をはじめとする複数の政権はプーチンの側につくか、あるいはブラジル労働者党のルーラ党首のようにある種の「中立」の立場にとどまっています。左派にとっての選択は、レーニンが主張したような人々の自決権を取るか、他国を侵略し併合しようとする帝国の権利を取るかのどちらかです。両方を選択することはできません。それらは相容れない選択肢なのです。
フエデリーチ  アメリカでは、コードピンクをはじめ社会正義運動やフェミニスト組織のスポークスパーソンがロシアの侵略を非難しています。しかし指摘しておくべきなのは、アメリカとNATOが民主主義を擁護するというのは、アフガニスタンやイエメンでの、またサヘルにおけるアフリコムの作戦での記録を踏まえると、かなり都合のよい話であるということです。そしてその記録のリストはまだまだ長くなるでしょう。
 ウクライナにおけるアメリカによる民主主義擁護が偽善であるということは、イスラエルが残忍な方法でパレスチナを占領し、パレスチナ人の生活を絶え間なく破壊している事態に直面したアメリカ政府が沈黙を貫いていることも考慮すれば明らかです。同時に指摘しておきたいのは、アメリカはラテンアメリカからの移民に門戸を閉じた後にウクライナ人に門戸を開くという動きをしていますが、どちらの国かに関係なく、多くの人にとって自国から逃げることは生死にかかわる問題であるということです。
 左翼について言えば、オカシオ=コルテスを筆頭に議会の左派がウクライナへの武器送付を支持したことは間違いなく恥ずべきことです。また、ラディカルなメディアには、議会レベルで語られることについてもっと探究心を持ってほしいと思います。たとえば、なぜウクライナの戦争によって「アフリカが飢えている」のか? アフリカの国々がウクライナの穀物に依存するようになったのは、どのような国際政策によるものなのか? 「アフリカをめぐる新たな争奪戦」として人々の話題にのぼるようになった、多国籍企業の手による大規模な土地収奪になぜ触れないのか? もう一度、問いかけます――誰の命に価値があるのか、そしてなぜ一定の種類の死だけが憤りを引き起こすのだろうか。

NAT0は世界の安全保障問題の「解決策」にはなリ得ない

ムスト  ロシアによるウクライナ侵攻を受けてNATOへの支持が高まるなかで――フィンランドとスウェーデンの正式な加盟申請がそのことを明白に示していますね――、世論がその流れに反して世界最大かつ最も攻撃的な戦争機械(NATO)は世界の安全保障の問題に対する解決策ではないとみなすような状態に持っていくためには、さらなる努力が必要です。しかし、NATOはこうした話のなかで再び自らが危険な組織であることを示している。自身の拡大と一極支配の推進により、世界中で戦争につながる緊張を高めているからです。
 しかし、ここにはパラドクスがあります。この戦争が始まってほぼ四カ月が経過したいまだから明確に言えますが、プーチンは軍事戦略を誤っただけでなく、影響力の及ぶ範囲に制限をかけたかった敵であるNATOを、国際的なコンセンサスの観点からみたときでさえ強化してしまうという事態を招いているのです。
バリバール  私は、NATOは冷戦終結時、ワルシャワ条約の解体と同時に消滅すべきだったと考えている一人です。しかし、NATOは対外的な機能を持つだけではありません。おそらくこちらがメインの機能ですが、西側陣営を、家畜化するとまでは言わないまでも馴致(じゅんち)する機能も持っていました。これらはすべて、帝国主義と間違いなく結びついています――NATOとは、広義のヨーロッパがアメリカ帝国に対して真の地政学的自律性を持たない状態を保証する道具の一部なのです。これが、冷戦後もNATOが存在し続けた理由の一つです。そして、その結果は世界全体にとって厄災であり続けているということに異論はありません。NATOは自身の勢力圏でいくつかの独裁政権を強化しました。また、あらゆる種類の戦争を庇護し、あるいは容認しました。そのなか


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には、人道に対する罪を含む醜悪な殺人が行われたものもあります。現在のロシアを起点とする事態によって、NATOに対する私の考えが変わることはありません。
レヴィ  NATOはアメリカが支配する帝国主義組織であり、数え切れないほどの侵略戦争に対する責任を負っています。冷戦によって生まれたこの政治的・軍事的怪物を解体することは、民主主義にとっての根源的な必要条件です。近年は弱体化しており、新自由主義者であるフランス大統領マクロンは二〇一九年、同盟は「脳死状態」であると宣言しました。残念なことに、ロシアによる犯罪的なウクライナ侵攻によってNATOは蘇生してしまった。スウェーデンやフィンランドといったいくつかの中立国は、いまやNATOへの加盟を決定しています。ヨーロッパに駐留している米軍も大規模です。二年前、トランプからの激しい圧力に抗して軍事予算の増額を否決したドイツは最近、再軍備のために一○○○億ユーロの支出を決定しました。緩やかに衰退していき、もしかしたら消滅してしまったかもしれない状態からNATOを救ってくれたのは、プーチンなのです。
フェデリーチ  ロシアによるウクライナ戦争によって、NATOにおける拡張主義や、EUとアメリカの帝国主義政策に対するNATOの支援に関して、大きな記憶喪失が生み出されてしまったことは懸念すべきポイントです。より最近の作戦に言及するために、いまこそダニエル・ガンサー著『NATOの秘密部隊』(NATO's Secret Armies)を読み直し、NATOによるユーゴスラビア爆撃、そのイラクでの役割、リビア爆撃と崩壊を主導したことについて、記憶を呼び起こすべき時です。NATOが擁護するふりをしている民主主義を完全にまた生来無視している例は、数え上げればきりがありません。私は、ロシアがウクライナに侵攻する前の時点でNATOが衰弱していたとは思っていません。むしろ、反対でしょう。東ヨーロッパを超えてアフリカまで進出していることは、衰退とは真逆の事態を示しています。
ムスト  この記憶喪失は、政府内の左派勢力の多くに影響を与えているようですね。フィンランドの左翼同盟は最近自身の歴史的原則を覆し、議会内の多数派がNATOへの加盟に賛成票を投じました。スペインでは、ポデモス連合の多くが議会全体に広がるウクライナ軍への武器供与賛成の合唱に加わり、六月二九日から三〇日にかけてマドリードで開かれるNATO首脳会議に伴う軍事費の大幅増額を支持しました。もし政党が勇気を持ってこのような政策に対して大声で反対しなければ、ヨーロッパにおけるアメリカ軍国主義の拡大に自ら貢献することになる。左派政党は過去に幾度となく、機会が生じればただちに、このような従属的な政治行為によって弾圧されてきました。それには、投票所の封鎖も含まれます。
バリバール  ヨーロッパにとって最善なのは、自分たちの領土を守れるだけ強力になり、かつその領土にとって有効な国際安全保障のシステムが存在すること、つまり国連が民主的に組織し直され、国連安全保障理事会の常任理事国は持つ拒否権から解放されることでしょう。しかし、NATOが安全保障システムとして台頭すればするほど、国連は衰退していく。コソボ、リビア、そしてなにより二〇一三年のイラクにおいて、アメリカとNATOの目的は当初から、国連の調停能力、規制能力、そして国際司法能力を低下させることにあったのです。
ムスト  メディアが語るストーリーはまったく違っていて、NATOが暴力や政情不安に対する唯一の救世主であるかのように描かれていますね。ここでもう一つ指摘しておくべき点として、ロシア恐怖症がヨーロッパ全域に広がり、ロシア市民が敵意と差別を経験しているという事態もあります。
バリバ-ル  大きな危険性は、おそらくクラウゼヴィッツが戦争における「道徳的要素」と呼んだものに関する危険性が主要になるでしょう。それは、ウクライナ人に対して当然に抱く同情的な世論を、一種のロシア恐怖症支持へと動員する誘惑です。メディアは、ロシアとソ連の歴史に関する中途半端な真実でこの誘惑を援護し、ロシア住民の感情と現在の寡頭政治体制のイデオロギーを意図的にあるいは無意識に混同してきました。体制側や指導者とのつながりが証明された芸術家や文化機関・学術機関に対する制裁やボイコットを求めるというのも一つの方法でしょう。しかし、戦災を逃れる数少ないチャンスの一つがロシアの世論そのものにかかっている、というのが事実だとすれば、ロシア文化自体に汚名を着せるのはやり過ぎでしょう。
ムスト  個人に対する制裁の多くは、特に厳しく、逆効果です。ロシア政府の政策に支持を表明したことのない人々も、戦争に対する実際の意見はどうであれ、ロシアに生まれたというだけの理由で標的にされています。こうした措置は、ナショナリズムを煽るプーチンのプロパガンダにさらなる燃料を供給し、ロシア市民を政府支持の列に並ばせることになりかねません。
バリバ-ル  プーチンのロシアのような警察国家・独裁国家の市民に対して、もし私たちの「民主主義」に歓迎され続けたいのなら「立場を選べ」と要求するのは、率直に言って非道です。
レヴィ  その通りですね。ロシア恐怖症は拒絶されなければなりません。それは、他の形態の排外主義的ナショナリズムと同様、深刻な反動的イデオロギーです。加えて、左派インターナショナリストであるならば、ロシアによる侵略に対するウクライナ住民の抵抗を支持するのみならず、プーチンのウクライナに対する犯罪的な戦争に反対する多くのロシア人――個人、新聞社、組織――に対して連帯を示すことも重要です。ロシアのさまざまな政治団体や政党が左派であること


〈162〉
を主張し、最近ではウクライナに対する侵略戦争を非難する宣言を発表していますが、まさにこのようなケースにおける連帯が求められます。

私たちが目指すべき「もうひとつの」世界

ムスト  最後にお聞きしたいのですが、戦争の行方は今後どうなり、また将来起こりうるシナリオはどのようなものになると考えますか。
バリバール  これからの展開については、ひどく悲観的になるほかないでしょう。私自身もそうですが、戦災を回避できる可能性はごくわずかだと思っています。その理由は、少なくとも三つあります。第一に、エスカレートする可能性が高いこと。とりわけ侵攻への抵抗がなんとか続いた場合には、使われるのは「通常兵器」だけにとどまらなくなるでしょう。「通常兵器」と「大量破壊兵器」との境界は非常にあいまいになっているからです。第二に、もし戦争がある「結末」を迎えたとして、それはどんなものであれ凄惨なものとなること。もちろん、プーチンがウクライナの人々を粉砕し、それをバネに同様の企みをくり返すことで彼の目的を達成できたとすれば凄惨であるし、あるいはまたプーチンが停戦と撤退を強いられ、ブロック政治が復活し、世界が冷戦状態に陥ることになったとしても同様です。いずれの結果もナショナリズムと憎悪を再燃させ、それが長期にわたって続くことになります。第三に、この戦争とその後の展開は、気候危機に対して地球規模の動員を行うための足かせになること。実際、現在の戦況は気候危機を加速させているし、多すぎる時間が無駄に費やされてしまっています。
レヴィ  私も同じ考えで、特に気候変動との闘いの遅れを懸念しています。戦争に関わるすべての国は軍備競争に走るばかりで、いまや気候変動との闘いは完全に周辺化されているからです。
フェデリーチ  私も悲観的です。アメリカを筆頭にNATO諸国は、NATOがロシアの国境に至るまで拡大しないことをロシアに保証するつもりはないでしょう。そのため、この戦争はウクライナとロシアにとっても、それ以外の国々にとっても凄惨な結果をもたらし続けるでしょう。これから数カ月で他のヨーロッパ諸国がどのような影響を受けるかがわかってくると思います。私は、世界の多くの地域ですでに現実となっている恒久的な戦争状態の拡大と、これはもう一度言いますが、社会の再生産を支えるために必要な資源が再び破壊的な目的のために転用される、という以外の将来シナリオを想像できません。街頭に出てストライキを行い、あらゆる戦争に終止符を打とうとする大規模なフェミニスト運動がないことに心を痛めています。
ムスト  私も、戦争はすぐには終結しないと感じています。「不完全」であっても即時の和平を結ぶのが敵対行為を長引かせるよりも望ましいのは確かですが、現場ではあまりにも多くの勢力がそれぞれ異なる結果を求めて動いている状態です。国のトップが「ウクライナが勝利するまで支援する」と宣告するたびに、交渉の展望はさらに遠のいてしまう。しかし私は、NATOから追加補給を受け間接的に支援されているウクライナ軍にロシア軍が対峙したまま、戦争が終わりなく継続する方向に向かっていく可能性が高いと思います。左派は外交的解決を求めて、そして軍事費の増加に反対して力強く闘うべきです。軍事費の代償は労働界に降りかかり、さらなる経済的・社会的危機をもたらすでしょう。もしこれが将来起こるとすれば、利益を得るのは極右政党です。極右政党は最近、これまで以上に攻撃的かつ反動的なやり方でヨーロッパの政治討論に自らの刻印を刻み込んでいます。
バリバール  前向きな展望を推し進めるためには、私たちの目標はロシア人とウクライナ人、そして私たち自身に利するような形でヨーロッパを再編することでなければならず、その際、複数のネイションとナショナリティについての問題を完全に再考しなければなりません。さらに野心的な目標は、世界に開かれた多言語・多文化の大ヨーロッパを創出し、発展させることでしょう。EUの軍事化は短期的には避けられないと思われますが、軍事化に代わって私たちの未来の価値を創り出していくのです。大ヨーロッパの狙いは、現状のままでは私たちの行動が震源となって発生するであろう「文明の衝突」を回避することにあります。
レヴィ  それ以上にポジティブな意味で野心的である目標として、資本主義の寄生的な寡頭政治から脱却した違う形のヨーロッパとロシアを想像すべき、という提案をしましょう。ジャン・ジョレスの格言「雲が嵐を運んでくるように、資本主義は戦争を運んでくる」がかつてなく的を射ているのが現在です。大西洋からウラル山脈までの地域におよぶ、もう一つのヨーロッパにおいてのみ、社会的でエコロジカルなポスト資本主義が実現し、平和と正義が確かなものになるのです。このシナリオは実現可能でしょうか? それは私たち一人ひとりにかかっているのです。



〈155〉
 解説   佐々木隆治

 本座談会の主催者であるマルチェロ・ムストは、有名なマルクス研究者であるとともに、種々の国際カンファレンスや国際研究プロジェクトのコーディネーターとしても知られている。日本のマルクス研究者とも交流があり、ムスト自身が企画した本座談会の原稿が訳者の斎藤幸平氏と筆者のもとに送られ、日本語での紹介に至ったものである。アメリカの『ジャコビン』誌ほかでも掲載されている。この座談会の発言が示唆しているように、彼は一貫して古典的マルクス主義のインターナショナリズムの立場からの発信を続けている。
 座談会参加者の三人は、ムストも書いているとおり、いずれも世界的に著名な研究者である。エティエンヌ・バリバールはフランスのマルクス主義哲学者であり、日本でも多くの著作が翻訳されている。『マルクスの哲学』(法政大学出版局)やアルチュセールらとの共著『資本論を読む』(ちくま学芸文庫)などの哲学的な著作だけではなく、『ヨーロッパ、アメリカ、戦争』(平凡社)などの政治学著作でも知られ、EUにおけるレイシズムや移民にかんする諸問題にたいして積極的な発信を行っている。
 シルヴィア・フェデリーチはイタリア出身のマルクス主義フェミニストであり、『キャリバンと魔女』(以文社)などの著作で知られる。「家事労働に賃金を」運動を組織するなど社会運動にも精力的に携わり、今般のウクライナ侵攻にたいしても、ロシアのフェミニストが起草した「戦争にたいするフェミニストのレジスタンス」というマニフェストに署名している。八〇年代には三年間ナイジェリアで教鞭をとっており、このときの経験が明確な植民地主義批判の視点を与えていることは、本座談会からも見て取ることができる。
 ミシェル・レヴィはフランス在住のマルクス主義社会学者であり、日本では『世界変革の政治哲学』や『エコロジー社会主義』(いずれも柘植書房新社)などの著作で知られている。レヴィはフランスのトロツキスト政党(LCR)に関与する一方で、ウィーンから移住したユダヤ人の子孫としてブラジルのサンパウロで育つというバックグランドをもち、土地なし農民運動(MST)をはじめとして、ブラジルの左派運動を支援し続けている。また、近年では、エコ社会主義のための闘争にも参加しており、この座談会でも気候危機対策への悪影響についての懸念を表明している。
 本座談会の読みどころは、なんと言っても、ロシアのウクライナ侵攻への対応をめぐるマルクス主義者のあいだでの見解の相違ないし対立であろう。フェデリーチのように、戦争の主要な原因を米国及びNATOの拡大政策に求め、ウクライナへの武器供与に反対する立場にたつのか、それとも、バリバールのようにNATOを批判しつつもヨーロッパ左翼がその発展に寄与してきた「ヨーロッパ的価値」を重視し、ウクライナの抵抗戦争を軍事的に支援すべきとする立場にたつのか。あるいは、レヴィのように反植民地主義および反帝国主義の立場にたちながらもレーニン的な民族自決権の論理をウクライナに適用し、国家主権に依拠した軍事的抵抗を擁護するのか、それとも、ムストのように、原則的なインターナショナリズムの立場から反戦を貫き、国際的な民衆運動の連帯をつうじて平和への展望を見出そうとするのか。
 日本ではそもそもマルクス主義者による意見表明そのものが少なく、相互の論争はほとんどなされていないだけに、これらの論点から多くの示唆を得ることができるはずである。深刻化するウクライナ情勢について改めて再考するための材料となれば幸いである。
(立教大学経済学部准教授)


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報道の自由、日本は68位 主要7カ国で最下位

2023年09月26日(火)

そういえば安田純平さんについて,NHKがx何か放送していたとか,
番組を見ていないので,なんともいいようがないけれど,
ご本人が,NHKからまったくコンタクトがなかったと「X」に投稿していた.

しかも,安田さんは,いまだにパスポートを支発給されないのだとか.

しかし,福島第一から列島の国のメディアは皆退散し,
海外メディアのスタッフは,クルマに取材道具を積んで福島に向かったとか.

海外の戦争,紛争についても,多くは安田さんのようなフリーのジャーナリストが取材しているようだが,
多くの制度化されたメディアのスタッフがどんな活動をしてるんだろう……と思わせる.

じっさい,新聞紙面に特ダネを見ることはほとんどない.
ていねい?な解説記事はよく見るけれど,でもその多くは,なんというか綿菓子で包まれたような印象を受ける.

テレビは,ジャニーズには熱心だけれど,さて,どう受けとめようかと思い惑うこともある.

許された範囲での取材……となるんだろうか,
では,誰が許しているんだろう,と思う.

むかし,新聞記者を高等ヤクザなんていってなかったか,
それは,やっぱりちょっと世の大きな道から外れて,なかなか世人の見ることのできない世界を探索する琴と無縁じゃなかったんだと思うが.

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報道の自由、日本は68位 主要7カ国で最下位
2023年5月4日 5時00分

 国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は3日、2023年の「報道の自由度ランキング」を発表した。調査対象の180カ国・地域のうち日本は68位(昨年71位)で、昨年よりは順位を上げたものの、主要7カ国(G7)の中で依然、最下位だった。

 日本の状況について、「メディアの自由と多元主義の原則を支持している」としたものの、政治的圧力やジェンダー不平等などにより、「ジャーナリストは政府に説明責任を負わせるという役割を十分に発揮できていない」と批判した。

 1位は7年連続ノルウェーで、2位にはアイルランド(昨年6位)が入った。ロシアは昨年より九つ順位を落として164位、中国は四つ順位を落として179位、最下位の180位は北朝鮮だった。(植松佳香)
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パリ市民、電動キックボードに「ノン」 事故多発、レンタル5年で幕

2023年05月01日(月)

買い物に下り坂を歩いていた.
反対側の歩道,年配の女性が,立ち止まっていた.
なぜかな……と思って周りを見たら,下り坂を子どもらが自転車で疾走してきていた.

こどもが悪い,とは言うまい.
同じ道を,大人たちが電動自転車で行き来しているのだから.
同じ道,車道ではない,歩道を.

もうずいぶん昔,いや大昔か,都内の幹線道路を自転車で走っていて,
前方青信号だったと思う,こちら側は下り坂,交差点に右折のタクシーが停まっていた.
前が詰まっていたのだったか.
で,減速しようとしてブレーキをかけるけれど,お尻を振ってうまくいかず,
タクシーに接触して倒れてしまったことがあった.
中学生のころだったか.
そんなことがあったけれど,いつも車道を走っていたと思う.
歩道に乗り上げることは,ほとんどなかったと思う.
だんだん自転車には乗らなくなっていったのだけれど.

それにしても,この国では,歩くことは,まるで下等民のすることででもあるような扱いを受ける.

いや,デンマークだったか,コペンハーゲンで自転車専用道も整備をすすめているとか.
小さな国の,小さな都市での話だ……といわれそうだけれど.

この国で,道路整備といえば,とにかくクルマが円滑に流れるように,ということだったんだろう.
道は,でも,人が歩くためにできたのではなかっただろうか.
車道が危なっかしいからと,自転車が歩道に乗り上げてきた……,ときにクルマが歩道を占領して駐車していたり,交差点にある駐車場を突っ切って,赤信号待ち時間を節約しようとか.
それで,道を歩く歩行者はどうすればいいんだろう.
もともと首を掲げて歩いたところが道だとか,いまは歩行者が生け贄か?

いや,自分もまた,褒められた運転手ではなかった……,自戒.

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パリ市民、電動キックボードに「ノン」 事故多発、レンタル5年で幕【地球コラム】
2023年04月30日11時00分

 フランス・パリ市で2023年4月、電動キックボード貸し出しサービスの存廃を問う住民投票が行われ、即日開票の結果、「ノン」が有効投票総数の89.03%を占めた。歩行者と接触する事故の多発に業を煮やした市民の意思が、圧倒的多数の割合で示された。投票結果に法的拘束力はないが、アンヌ・イダルゴ市長はサービスを廃止すると表明。約5年にわたって親しまれてきた電動ボードのレンタルは、8月末で幕を閉じることとなった。(時事通信社パリ支局 妹尾優)

電動キックボードに乗る人々=2018年10月、パリ(EPA時事)

市内全域に1万5000台展開

 電動ボードの貸し出し事業が欧州で本格化したのは18年。「ライム」ブランドを展開する米新興企業ニュートロン・ホールディングスは、同年6月にパリ進出を果たした。市民の健康志向や環境問題に対する意識の高まりにマッチして需要が膨らんだほか、パリ市も当初は「排気ガスを出す自動車の有効な代替手段だ」と歓迎した。

レンタルの電動キックボード=2023年4月、パリ(EPA時事)

 他ブランドの参入が相次ぐと、市は事業を認可制に移行。21年9月から2年間にわたり、計1万5000台のレンタル運用を認める契約をニュートロンなど3社と交わした。パリの面積は約105平方キロと、東京都港区、品川区、大田区を合わせたほどの広さで、市内全域に2200カ所以上の駐輪スペースも確保された。

 レンタル方法は各社で多少異なるが、まずスマートフォンに専用アプリをダウンロードし、利用者登録を行う。次に、アプリの地図で現在地付近に駐輪されている電動ボードを見つけ、予約。電動ボードごとのバッテリー残量もアプリで確認できる。

 目的地に到着した後は、アプリの地図に「P」マークで表示された駐輪スペースに移動し、アプリでレンタル終了を連絡。料金は基本料と、使用時間に応じた従量料金の合算で、カード決済される仕組みだ。
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