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異説 遠山啓伝 [森毅 ベストエッセイ]

2019年9月18日(水)

『森毅ベスト・エッセイ』
のつづき.

遠山啓さんが亡くなって,すぐに書かれたのだろう.
編者の池内紀さんは,このえっせいについて,
「やや異色の一篇」で,
「深い敬愛ととともに,ナマの森さんがひそんでいる」
と書く.

小針晛宏さんへの追悼の文章といい,
いいなぁ,と思った.

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異説 遠山啓伝


なんとも、遠山(とおやま)さんの死がなまなましすぎて、どうも歴史的に伝記を書けそうもない。それになにより、当の遠山さんが、ぼくの『数学の歴史』を「これまでの数学史はおしなべて数学者という人種をいかめしいマジメ人間としてあつかってきたが、この本はかれらをまのぬけた喜劇的な人間として描きだしている」と褒めてくれたのだった。喜劇には距離がほしい。
 おそらく、これからの半年ぐらい、遠山さんの思い出を多くの入が語り、いろんなことがわかるだろう。それぞれの時代をよく知っている人もあるだろう。もっとも、それらの人はぼく以上に距離がとりにくいかもしれないが。

父のない子

遠山啓(とおやまひらく)の生まれたのは一九〇九年(明治四二年)、朝鮮の仁川(インチョン)だが、すぐに母と郷里の熊本へ帰っている。それで、彼のふるさとというと、熊本である。人吉でいっしょにな
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ったとき、やっぱり球磨川の鮎はうまいと、二匹半(半は頭とはらわただけ)食うのを見たことがある。
 その父は、朝鮮にとどまって、五歳のときに帰国を待ちかねていたところへ、腸チフスで死亡のしらせが来た。したがって、遠山は父を知らない。
 その衝撃で神経症になった。ある所では一年間ぐらい尿が出なくなったと書いているが、別の所では三十分ごとに尿意をもよおして小学校の入学式で泣きだしたことを、学校にまつわる暗い出発の記憶として記している。ともかく、父の不在が彼の少年期を支配した。
 それで、母と子の生活が続くわけだが、幼時はむしろおじいさん子だったらしい。この祖父というのは、西南戦争と政治道楽で家産をつぶしたらしく、父が朝鮮へ行ったのもそのためかもしれない。もともとは、肥後の刀鍛冶のボスの家柄だったらしい。反体制的な気質をこの祖父から受けついだ、と遠山は語っている。
 彼は、幼時から、わがままで意地っぱりでへそ曲がりだった、と自ら語っている。晩年の外見はむしろ温厚さの方が表面に出ていたが、たしかにそうした「三つ子の魂」が片鱗を覗かせもした。
 一九一八年(大正七年)に小学校三年で東京に移っている。このあたりの事情は、遠山はなにも記していない。その前年に父方の祖母が死んでいて、母方の祖母と母との三
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人で東京へ出たらしい。将棋の好敵手となった、大学の講師をしている叔父の話があるから、そうした伝手(つて)があったのかもしれない。
 ともかく、熊本から東京へと移ったわけだが、遠山が懐かしさをこめて語るふるさとは、いつでも熊本だった。東京にはなじめなかったらしい。
 その熊本の生活も、本などない家庭と言っているが、晩年に立川文庫の記憶をさかんに持ちだしたところからすると、むしろ熊本の山野への愛着を強調していたのかもしれない。貧しかったと書いているが、知的職業を志向するといった動機が上京にはあったのだろう。
それで、東京一中(いまの日比谷高校)に入っている。当時としてのエリート・コースには違いない。もっとも、一貫して学校ぎらいだったらしい。自分の興味に熱中するたちで、授業の流れに身をゆだねることができなかったのである。中学二年のときの関東大震災に死にかかった体験から、死についての考えにふけるような、そうした少年だった。
 中学三年のときには、幾何に熱中して、ほかの教科は全部投げてしまった。後年に、数学教育でユークリッド批判者となったのは、奇妙なめぐりあわせだった。もっとも晩年になっても、幾何のおもしろさには荷担していたのであって、楽しむのはよいが試験をしたりする必要はない、という意見だったのである。数学教育こ関しては、初等幾何
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よりは初等整数論を、と主張したのだが、これにしても、性格は少し違っても、数学少年の遠山が幾何の次に熱中した対象だったのだろう。
 そうしたことで、学校の成績はクラスで四分の三ぐらいだった。受験勉強を一年問だけ猛烈にやって、四年修了で福岡高校(いまの九大教養部)に入っている。ものごとに集中するタイプだったのだろうが、内申書反対にはこうしたこともあったろう(事実、「内申書があったら、ぼくなんか高校に入れなかったよ」と言っていた)。
 幼時は病弱だったというが、晩年はひどく頑健だった。このころからの冷水摩擦の故か。冷水摩擦といい、日記といい、自らに課したことに関しては厳格な人だった。この一年間の猛勉強というのも、そうした自らに課したものだったろう。晩年にいたっても、そうしたことがよく見られる。
 福岡へ行ったのはなぜだろう。一高を避けたへそ曲がりはわかるような気もするし、九州へ行ったのもわかるが(母と子の間借りぐらしからの脱出も含めて)、熊本の五高ではなくて福岡にしたのは、少し「ふるさと」と距離をおきたかったのだろうか。その高校時代を、何よりすばらしい時代と回顧している。文学に開眼し、宇宙の神秘に憧れ、詩心にとらえられていた時代だった。
 大学は東大の数学科へ入るのだが、坂井英太郎の講義に失望し、ドロップアウトして文学青年となる。当時の文学青年というと、このごろの翻訳文化の時代でないので、ブ
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レークの詩を英語で歌ったり、『ファウスト』をドイツ語で語ったりという有り様で、ぼくなどは太刀打ちできない。チェホフやトルストイは英訳だったらしく、晩年にロシア語を勉強していた(もちろん数学のロシア語は読んでいたが)の原書が読みたかったのかもしれない。バルザックにもくわしかったが、これはフランス語なのか英訳だったのか、聞きもらした。
 高木貞治だけは尊敬していて、数学をやめますと言いに行ったとき、計算力の重要性を聞かされたので、ポーヤとシェゲのあの難しい問題集で実力をつけたという。ドロップアウトといってもファンデルベルデンやワイルに感激したと言っている年代を調べると、この時期になる。
 それは昭和初期の大不況期、のちに遠山が、大学なんて出ても就職できないほうが自然、とうそぶいたのはこの青年期の体験による。貧乏というのも、この時代の印象が大きいと思う。苦境をすら楽しんでしまう、遠山の一種の図々しさとでもいったものは、こうした青年期に由来するようだ。
 それでも、楽な大学をというわけで、東北大に再入学、将棋ばかりしていたという。彼の好きなゲームは将棋であって、一手で逆転するスリルを好んだ。江戸時代の棋譜なども研究したという凝りようで、将棋のために試験を受けるのを止めたこともある。十分に読んだあとは勝負手に賭ける、そうした勝負師根性が遠山にふさわしい。
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 それで、東北大を卒業したのは二十八歳、一九三八年(昭和十三年)で、すでに日中戦争が始まっていた。就職したのは、霞ヶ浦航空隊の海軍教授、まったく遠山にふさわしくない職場で、敗戦も近い一九四四年(昭和十九年)までいたのだが、軍服を身につけないことがせめてもの意気地だった。それでも、そうしたなかで暮らす要領やら、兵卒と仲よくなる方法やら、いやな時代のいやな職場でそれなりに人生訓練を楽しんでいたのかもしれない。それに、代数関数論という、避難所もあった。
 遠山の戦後は一年早く来ていたのかもしれない。海軍から離れて東京工大の助教授になったのは三十四歳のときで、空襲で死にかけたり、せっかく親友となった同僚の天野清を失ったりしているが、彼の心ではすでに戦争が終わっていたのだろう。八月十五日には、勤労動員のつきそいで信州にいたが、泣きだしたりする学生を見て、少ししらけながらも後ろめたく思ったという。

左翼的文化人

 戦後の東工大の文学好きの学生たちは、文学青年くずれの遠山のまわりに集まった。吉本隆明や奥野健男などである。愛国少年だった吉本は敗戦に衝撃を受け、遠山が平然と量子力学の自主ゼミを始めたのに感動しているが、遠山にしてみればあたりまえのことだったのだろう。
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 この窮乏(六畳間に五人で暮らした)と解放の戦後五年間は、遠山にとってのアカデミスト期に属する。学位論文は「代数関数の非アーベル的理論」、四九年に教授、六十歳の定年までを東工大で過ごす。
 しかし、朝鮮戦争下の日本は、遠山を文学と数学に埋没させてはおかなかった。遠山が社会性から距離をおいて時代にたいして透徹した眼をもてたぶんだけ、時代がその社会的活動を要求していた。この頃、東工大の組合の委員長もしている。遠山自身が政治活動に身を挺したことはなかったが、家宅捜索を受けたときに小学生だった娘が非合法文書を座布団の下にかくして蜜柑を食べていたとか、遠山の身代わりに夫人が一晩留置されたとか、その種のエピソードが多い。
 一九五二年(昭和二十七年)の遠山四十二歳のときの最初の著書『無限と連続』は、当時の国際派全学連に所属した東大の学生たちの人気を呼んだ。その合評会が、新数学人集団(SSS)の出発点になり、学生運動くずれの数学科学生の駈けこみ寺が遠山研究室となった。
 当時の遠山研究室の梁山泊(りょうざんぱく)的雰囲気から、さまざまのエピソードが生まれ、晩年の遠山がよくその頃を懐かしげに語ったものだ。メーデー事件で指名手配された丸山滋弥が東工大内に潜伏した話とか、レッドパージ闘争で一度は東大を退学になった銀林浩を大学院に入れるのに苦労した話とか、なかでも傑作は倉田令二朗の留置をもらいさげた話
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だろう。彼は酔っぱらっての軽犯罪で留置されたのだが、学生運動への弾圧と勘違いしたため、三週間の完全黙秘を貫いたのだった。
 一九五一年(昭和二十六年)に、四十一歳の遠山は、小倉金之助などとともに数学教育協議会(数教協)を結成して、当時流行の生活単元学習を批判する活動を開始している。それからのほとんどの期間、数教協は遠山を委員長に持った。その頃に始まった日教組の教育研究集会でも、中央講師団の中心的メンバーとなる。教育運動のために、あちらこちらと走りまわるようになったわけだ。
 もっとも、遠山は乗りものに強かった。そして、最晩年にいたるまで、折りたたみの腰かけを用意して、行きあたりばったりの特急列車に飛びのるのを常とし、指定券を買って座席を予約することを嫌った。「予約された座席」というのは、遠山のもっとも忌み嫌ったものだったのである。
 案外に遠山が政治上手(そして商売上手でもあった)なのが、こうした運動のなかに彼をまきこんで行ったのだが、遠山自身は彼の自己をその端然とした姿勢の蔭に守りぬいていた。じつのところは、遠山自身は運動組織とか国家体制とかいったものが向かず、自らに課したものだけを守りぬく自由の魂の持ち主だった。晩年の日記のなかにも、社会主義国家体制といったものにたいし、人間をホモ・エコノミクスとして処理することへの批判が見られる。
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 反社会的アカデミストから教育運動家への転身に関しては、娘の学校ぎらいを怒って彼女を庭の松の木に縛りつけたりしたが、教科書を見るにおよんで罪は学校体制のほうにこそあるのを認識し、自己批判して教育運動に向かった、という伝説がある。もっとも、自由人としての遠山が左翼として位置づけられ、運動家となっていくというのは、当時の時代状況でもあったろう。もともとがアカデミストとしての枠に入るよりは、夜行列車で折りたたみ椅子にすわり、全国の見知らぬ教師たちの声を聞くほうが性に合っていたのである。
 遠山梁山泊の住人たちは、彼をゲンスイと呼んでいた。一見はムスッとして近よりがたく思える外見の故か。後年に、いたずらな男が晩年の遠山の似顔絵に髭をつけ加えたら、スターリン元帥に似た顔になったが、それと関係があるかどうか知らない。少なくとも、遠山はスターリンには批判的だった。毛沢東に関しては、訪中で面会したときの印象として、目つきに政治的陰険さがあるのが気にくわないと語っていた。当時の共産党の指導者の徳田球一に関しては、会えば陽気で面白い男だが前衛党の責任者には向かないね、と語った。
 梁山泊の解体したのは五七年(昭和三十二年)ごろだろうか。若者たちが、遠山にアカデミズムへの復帰を進言したのが、この誇り高き男の逆鱗に触れた、というのが当時での噂だった。
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 遠山のエッセーに、「犬好きと猫好き」というのがあって、彼は忠実な犬よりは気ままな猫を好んだ。遠山への心酔者が、ある程度以上に接近したあたりで逆鱗に触れて殿の不興をかう、なんて法則を唱えたものもいるが、もともと彼は、ある程度の距離をおいての猫的なつきあいのほうを好んだのではなかろうか。
 それは戦後のひとつの区切りの時代だった。そして遠山は、本格的に数学教育へと足をふみ入れようとしていたのだった。

数学教育の教祖

 数教協の初期というと、生活単元学習に批判的な良心派文化人グループを中心としたもので、いわば官製の数学教育体制にたいしてのネガティブな性格が表面的だったが、それが五〇年代末からは新しい数学教育を創出するといったポジティブなものに変わっていく。遠山は藤沢利喜太郎を批判的に読みながら、そうした道を模索していたのだが、ピアジェを読んだのがひとつのヒントになったと語っている。五七年(昭和三十二年)ごろから、小学校の教科書作りを試みるなかで、量の体系と水道方式が生み出される。それは六〇年代のはじめに、実践過程での成功からブームを呼ぶと同時に、既成権威の崩壊をおそれた体制側から弾圧され、その教科書は広域採択制度によって葬られる。
 教育界には、なにやら美しげな情念を修飾する風習があるものだが、それは遠山の嫌
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いなものだった。左翼にも、進歩派なりの感動を讃美したがる空気のあるもので、遠山はそうした空気にも冷たかった。むしろ、教育において遠山が主張したのは、かわいた分析的知性だった。教育において科学性を主張する者たちは、つねに遠山をかついだものだ。
 のちに文部省によって矮小に唱えられる「数学教育の現代化」は、このときは遠山によって唱えられ、いくぶんは戦闘的で反体制的なスローガンであった。それは、過去の遺物としての「科学のカリキュラム」ではなく、いま現在に生きている〈現代〉の数学そのものとして、数学教育を位置づけるものとしてあった。水道方式も量の体系も、そうしたなかで生まれたのだった。
 これらの成功は、現場の教師の授業の中で作られたものが、上から定められたものを凌駕することで、画期的だった。六〇年前後、勤評闘争から学テ闘争にいたる時期というのは、文部省vs.日教組という図式のもっとも鮮明であった時期であって、文部省はカリキュラム統制の秩序で現場管理を貫こうとし、日教組は自主編成運動で対抗していた。こうした運動を政治的にだけ進めることは不可能なことから、多くの教師が数教協に参加し、数教協は現場教師の団体へと変質していった。
 いまになって、それが技術革新の高度成長の波のもとで闘われていた、というは易しい。むしろ、そうした状況において、その状況にふさわしく、こうした運動が発展して
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いたというべきだろう。
 五九年から六〇年にかけて、遠山五十歳のときの「数学入門』は、こうした時代にふさわしくも、科学性への確信に裏づけられている。しかし、一九六〇年の教育界で科学主義を語ることは、一九七〇年に反科学主義を語る以上にラジカルなことだった。
 水道方式に関して、後年の遠山は、あまりに体系をきっちり作りすぎたかもしれないが、体制との緊張関係がそれを余儀なくさせた、ともらしたものだった。科学性に依拠しての体系性だけが戦闘性を維持しえた。そうした時代だったのである。そして遠山は、なによりも時代の状況性に忠実だった。
 こうした状況にあって、遠山はかなり攻撃的だった。本筋からすればたいしたことでないような細部にでも、無視してよさそうな小犬の遠吠えにさえ、かならず的確に石を投げて犬どもを打ちたおした。そうした遠山に、一九六〇年(昭和三十五年)に初対面のぼくは、わりと気楽に疑問をぶちまけたものだが、そのときの遠山の対応はむしろソフトだった。おそらく、ぼくの態度が、犬が吠えるというより、猫がじゃれつくほうだったからだろう。
 遠山が数学教育においてなしたことは、教育全体に大きな波紋を投げかけていた。遠山は神格化され、全国に大きな影響をもたらした。もっとも、そのころに近畿に現れたときは、夜中にごろごろと無礼に寝そべったぼくなどと、気楽におしゃべりをすること
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のほうを好んでいたようだ。それは深夜に及んだ。とくにだれかれの人物月旦、というより悪口になると早朝まで楽しんだものだ。ただし、悪口を言われる相手というのは、遠山の前に権威ぶってたちふさがっている連中にかぎられていた。
 こうしたなかで、数教協の組織は拡がっていった。教科書がつぶされたあとには、自主教科書としての『わかるさんすう』が全国に普及していった。
 一方、数学ジャーナリズムの必要に眼をつけたのも遠山であった。矢野健太郎とともに『数学セミナー』の編集にあたる。それは、高度成長下の「数理科学ブーム」と理科系大学生の増加といった状況に対応していた。
 いまから考えると、当時の遠山の発言の中から、時代に少し悪ノリしているものを探すことは可能である。それは一面では、そうした時代を利用する商才ないしは政治性でもあった。芸能プロデューサーになっても、政治家になっても成功しそうな、不思議な才能の持ち主だったわけだ。
 東工大の最終期は、理学部長として、一方では事務当局と渡りあい、他方では中核派の学生とやりあったものだ。教授会の中に、わかりもしないのに小政治家ぶった連中がいて小賢しいことを言って困る、と言っていたのもその頃だ。あんな学部長を相手に団交をしなければならなかった、当時の学生は気の毒だったと思う。
 六〇年代後半の著書には、どちらかというと啓蒙的な性格のものが多い。比喩のたく
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みな彼は、数学をやさしく、その本質を語ることができた。それは彼の数学への洞察力に支えられていたが、ぼくには別の注文があった。フルヴィッツあたりの古典代数を知り、それをネター以後の現代代数と結合させることの可能な、遠山にしかできないことを書いてほしかったのだ。残念ながらその注文に応えてもらう前に、彼は死んだ。時代の要求に誠実に応えることが、「わがままでへそ曲がり」のはずの彼の一面でもあった。
 でも、大学教授、管理者、政治運動家、ジャーナリスト、啓蒙家、教祖、それらのすべての役柄を彼の才能がこなしえたからといって、ぼくはそれらが彼の本質であったとは思っていない。

オールド・ラジカル

 大学を定年になったとき、元気をなくす人と、元気づく人とがある。「大学教授であること」が彼の人間的本質とかかわっている度合によるのだろう。遠山の場合、定年になって彼のラジカルな本質が光彩をはなつようになる。以後は就職することなく、多摩美大の美術家の卵に幾何を教えたり、明星学園の中学生におよそ学校の規格から外れた数学や英語を教えたのだけが、学校とのかかわりだった。六十歳の遠山は、四十年前の東大をドロップアウトしたときの若者の心に戻ったのである。
 もっとも、東工大にいた最後の頃と、それが断絶していたわけではない。一九六八年
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(昭和四十三年)、五十八歳で八王子養護学校に最初に行ったときのおどろきを、彼は語っている。そして、何をしても反応のないなかで、モンテッソリにヒントをえて試みた〈原数学〉の授業で、人間の根源に備わっている知を確信するようになった。人間にとって根源的な知の解放、それは遠山にとっての人間開眼とでもいった転機となっていた。
 また六〇年代末の動乱の大学、そこでの心情全共闘風の熱狂にはもともと無縁な人であったが、文化現象としてのそれには深い共感を持っていた。アメリカのヒッピーたちにも共感を惜しまなかった。そういえば、定年後の遠山には、どことなくオールド・ヒッピーといった風格がある。
 学校ばなれをした遠山が、定年後にした最初の活動は、学校と無関係に進めることのできる数学の本を、幼児用から出しはじめることだった。ほるぷ出版からのその仕事を通じて、安野光雅と意気投合する。同時に、「ほるぷ教室」という塾を全国に拡げている。
 さらに、一九七三年(昭和四十八年)から、板倉聖宣や遠藤豊吉などと始めた雑誌『ひと』が、七〇年代の遠山の中心的な活動となった。それは、七〇年代初頭の市民運動的な雰囲気に適合して、学校という枠をこえて、母親たち自身の運動に成長した。「落ちこぼれ」の子どもたちを集めた遠山塾は、さらに母親たち自身が数学を楽しむための塾にまで溌展する。子どもや母親たち自身の、人間としての楽しみのレベルにまで、
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遠山の教育運動は進んだのだった。当時学齢期に達していた、同居している孫たちへの思いと、それは同質でもあった。
 このころ、遠山は自分を「数楽者」と呼んでいる。音楽になぞらえての数ガクだったのだが、数ラクと呼ぶ人間が出てきたので、なるほど道楽に通ずると、そちらに鞍がえしたらしいから、たぶんスーラクモンと読むのだろう。教育といっても、このころの彼の境地に、上から子どもを引きあげようという姿勢はない(そこが六〇年代と違うところだ)。子どもという、こんなおもしろい動物をタダで貸してくれるんだから、教師というのはいい商売だ、というのが彼の口癖だった。
 数学教育にしても、六〇年代と違って、どちらかというとカリキュラムの枠からはみだそうとする。遠山塾で、授業をゲーム化して、子どもにこれはベンキョーかアソビかと聞いたところ、こんなにおもしろいんだからアソビだ、と子どもは答えた。数教協が、楽しい授業を志向する新しい作風を獲得したのも、この結果だった。
 そうした過程で、序列主義を批判して競争原理を根源的に否定していた彼は、最晩年の六十九歳、一九七八年(昭和五十三年)に明星学園理事となり、この学校を〈点数のない学校〉とするべく、新しい授業の道をみずから試みていた。中学生が喜んでくれていると、ニコニコしていたものだが。
 一九七九年(昭和五十四年)、咳がとまらず、七月には入院、八月二十一日の日記には、
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「70回の誕生日。もっともみじめな誕生日」とある。見舞いへの面会を断り続け、銀林すら死の一時間前までは会うことを許されなかった。病人としての自分を見られるのがイヤと、最後の「意地っぱり」でもあったろう。九月十一日死す、肺癌であった。
 遠山の本をなにか一冊というなら、ぼくは『水源をめざして』をあげたい。そこには、
「敗戦のまえまではいちばん非人間的な数学を研究する隠遁者だったのが、敗戦をきっかけに、しだいにというより、ごく緩慢なテンポで人間のほうに向きなおり、とくに人間のなかの子どもに興味をもつようになり、そこから知恵おくれの子どもまでさかのぼっていく、ということになってしまった。それは人生という河を、河口から逆にさかのぼって水源のほうに向かって歩いていったようなものかもしれない。そういえば、私にはなんでも水源にまでさかのぼって、そこをさぐってみたいという欲望が生まれつきあったのかもしれない」
 とある。
 なによりも人間を愛し、そして人間を楽しんだ人であった。口許には、いつもいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
(一九八〇年)

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