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「劣化ウラン弾」

2023年04月20日(木)

ウクライナの戦争が.どこまで行くのか,わからない.
当事者が倒れるまで……だろうか?

イギリスが劣化ウラン弾をウクライナに供与する、というニュースがあった.
湾岸戦争を思い出す.
湾岸戦争後,じっさいに劣化ウラン弾が使用された地域の、土壌などの汚染が指摘されていた.
今回と同じような見解も示されたが,そうではない,との議論,それなりの根拠のある議論があったように記憶する.

現地を取材したレポートを、さいきん,見ない.

ウクライナにさまざまな武器が供与され,
まるで兵器の実験場のようではないのか……とも思った.
あるいは,一種の代理戦争.

何百年か後,人びとはどのようにこの戦争を振り返るのだろうか……,
そう,歴史に学ぶ、ってどんなことをいうんだったろうか.


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劣化ウラン弾、過去に日本でも ロシアの批判は「どの口が言うのか」
ウクライナ情勢

牧野愛博2023年3月25日 17時00分

[写真]2001年1月、北大西洋条約機構(NATO)の空爆で破壊された旧ユーゴスラビア軍の戦車の近くで遊ぶ子ども。若い兵士にがんが見つかったとの報告が相次ぎ、懸念が高まった。米軍は大量の劣化ウラン弾を使った=ロイター

 ロシアによるウクライナ侵攻をめぐり、英国がウクライナへの提供を明らかにした劣化ウラン弾は、戦車などの装甲板を貫通させる徹甲弾などに使われる。過去の戦闘で用いられた際、健康被害との関連を疑われてきた兵器だが、実は日本でも使われたことがあった。

 ウランを濃縮する時の副産物である劣化ウランは、硬くて重いため、弾芯に使うことで破壊力が高まる。核分裂しやすいウラン235の濃度は低いが、わずかながら放射能を帯びている。自衛隊は安全などを考慮し、希少金属のタングステンを使っている。

 米軍は1991年の湾岸戦争などで劣化ウラン弾を使った。当時、健康被害を訴えた米軍兵士がいたが、米大統領の諮問機関、湾岸戦争復員軍人疾病諮問委員会は1997年1月、「復員軍人の病気の原因が、劣化ウランにさらされたためだとは考えにくい」という最終報告書を提出した。

イラク派遣、線量計を持ち込んだ陸上自衛隊

 陸上自衛隊の第3次イラク復興支援群長として2004年8月から12月までイラク・サマワに派遣された松村五郎・元東北方面総監は「残存する劣化ウラン弾汚染による被害の可能性も考慮し、(放射線の線量を測定する)線量計を持参した」と語る。

 派遣部隊の調査では、破壊された建物などで、通常より高い線量が測定された。日本における許容被曝(ひばく)線量よりも低い数値だったが、念のために、こうした地域を避けて活動したという。

 また、米海兵隊岩国基地所属の垂直離着陸攻撃機が1995年末から96年初めにかけて、沖縄本島西約百キロの鳥島射爆撃場で訓練中、同射爆撃場での使用が禁じられている劣化ウランを含む徹甲焼夷(しょうい)弾計千五百二十発を誤って発射していたことが97年2月に明らかになった。米政府は当時、「劣化ウランは、摂取されない限り健康への危険はない」と説明する一方、反発する日本側に対し、「深い遺憾の意」を表明した。

 外務省の元幹部は「当時は、沖縄少女暴行事件(95年9月)の影響が残るなか、米軍や日本政府の沖縄に対する姿勢を非難する事件として取り上げられていた」と語る。同時に「劣化ウラン弾は核兵器とは全くの別物だ。(日本でもある程度理解されたため、)日本人の核アレルギーの観点から劣化ウランの安全性について反発を呼んだ度合いは、それほど大きくなかったのではないか」と指摘する。

ロシア軍撃破の成果と巻き添え被害を考え合わせ、使用の是非を判断か

 今後のウクライナ軍の劣化ウラン弾の使用について、松村氏は「飛び散った劣化ウランの粉じんを吸い込み、経度の内部被曝を起こす可能性はある。劣化ウラン弾を使ってロシア軍を撃破することで得られる成果と、それに伴う巻き添え被害を踏まえて、使用の是非を判断するのではないか」と語る。

 同時に、松村氏は「ロシアは湾岸戦争でもイラク戦争でも、劣化ウラン弾の危険性を指摘していない。ウランという言葉を使い、世界に(英国やウクライナの)悪印象を振りまく印象操作をしている」と指摘する。

 外務省の元幹部も「核使用をほのめかしたり、ザポリージャ原発を攻撃したりしているロシアが、劣化ウラン弾について核と絡めて反発しているのは、ある意味滑稽であり、どの口が言うのかと思う」と語った。(牧野愛博)
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伊藤昌亮 ひろゆき論 を読んでみた

2023年08月16日(水)

「ひろゆき」さんについては 知らなかった
いまでもあまりよく知らない
おもしろそうだな と ちょっと思った
むかしから そんなふうな人がいたんじゃないか と思った
ただ メディアが変わったってことだろうか と思った

茶化す……というのではないけれど
揚げ足をとる……というのでもないようだけれど
ちょっとイヤだな……と感じて
それで ちょっと距離を取ってみれば なんだ……ってことになるような

でも メディアの進化は ちょっと考えておかないといけないんだろうな と思った


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【世界】2023年03月

ひろゆき論
なぜ支持されるのか、
なぜ支持されるべきではないのか

伊藤昌亮

いとう・まさあき 一九六一年生まれ。成蹊大学文学部現代社会学科教授。メディア研究。著書に『炎上社会を考える』(中公新書ラクレ)、『ネット右派の歴史社会学』(青弓社)、『デモのメディア論』(筑摩選書)、『フラッシュモブズ』(NTT出版)など。


 はじめに

 ネット上の匿名掲示板サイト「2ちゃんねる」(現在は「5ちゃんねる」)の創設者、ひろゆき、こと西村博之が人気を博している。
 一九九九年五月にスタートした2ちゃんねるのほか、二〇〇七年一月にスタートしたニコニコ動画など、ネットの普及期にいくつかのサービスの立ち上げに関わり、起業家として成功した彼は、二〇一〇年代後半からユーチューバーとして活動し、視聴者からの相談に答えるライブ配信番組を通じて人気を博した。さらにその間、ビジネス書や自己啓発書を次々と出版し、ベストセラーライターとして名はを馳せるかたわら、テレビ番組にコメンテーターとして出演するなど、マスメディアでも広く活躍するようになる。
その人気はとくに若い世代に顕著で、若者や青少年を対象とする調査では、憧れる人物などとして頻繁にその名が挙げられるほどだ。その配信番組でも、スーパーチャットと呼ばれる投げ銭機能を用いて有料の相談を受けようとする者があとを絶たない。今やその存在はネット上のインフルエンサーの域を超え、若い世代のオピニオンリーダー、それもカリスマ的なそれとして広く認知されていると言えるだろう。
 しかしその一方で、その振る舞いや発言が物議をかもすことも多い。2ちゃんねるの管理人時代に誹謗中傷の書き込みに対処することを怠ったため、多くの訴訟を起こされ、多額の損害賠償を請求されているにもかかわらず、裁判所に出頭せず、「踏み倒し」を続けていることから、その倫理観の欠如を指摘する声も多い。また、二〇二二年一〇月には沖縄県名護市辺野古を訪れ、米軍基地建設反対運動を中傷するツイートを投稿したことから、大きな社会問題となった。市民運動を小馬鹿にしたようなその態度にリベラル派は一斉に反発し、批判の論陣を張ったが、しかし彼が態度を改めることはなかった。
こうしたことから彼は、良識派、とりわけリベラル派のメディアや知識人などからすこぶる評判が悪い。その倫理観の欠如や政治思想の浅はかさなどの点ばかりでなく、「冷笑」と呼ばれる、人を小馬鹿にしたようなからかい方や、「論破」と呼ばれる、揚(あ)げ足取りまがいのディベート術など、その独特の態度が批判の対象とされることが多い。
 しかし彼自身はそうした批判を意に介することもなく、面白おかしくリベラル派を冷笑し、論破し続ける。するとその「信者」は彼のそうした態度に一斉に喝采(かっさい)を送り、彼にならってリベラル派に反駁(はんばく)する。辺野古のツイートには多くの批判があったにもかかわらず、二八万件もの「いい
ね」が付けられ、彼の人気を一段と高めることになった。
 こうした「ひろゆき人気」の背後に何があるのだろうか。

 プログラマーとして世界を見る

 現在のひろゆきの活動の基軸となっているのは、とくに若い世代に向けて生き方や考え方の指南をすることだろう。しかし通常の論者のように、そこで彼は努力の大切さなどを説くわけでは毛頭ない。逆に「一%の努力」で「ラクしてうまくいく生き方」、そのための「ずるい問題解決の技術」や「人生の抜け道」を示そうとする。そこでは「全部うまくいくサボり方の極意」として、「パクる・逃げる・丸投げする」ことなどが推奨される(文献2、3、6、9)。
 こうした考え方はいわゆる逆張りとして、「努力しても報われない」と感じることの多い若者などには魅力的に映るものだろうが、しかしそれだけで彼が支持されているとも思われない。そこには単なる逆張り以上の、より具体的な説得力があるのではないだろうか。
 彼は自らを「プログラミングというスキルを持つ実業家」と規定している。そうした観点からすると、「パクる・逃げる・丸投げする」ことは単なる「サボり方」ではなく、むしろ有効な「問題解決の技術」ということになる。プログラマーや実業家からすれば、他者の優れたソースコ

〈182〉
ードやビジネスモデルを真似ること、効率の悪いプロジェクトから撤退すること、開発や運営をアウトソーシングすることなどは当然のことだからだ(文献3、4)。
 彼によれば今日、「世界のトップ層」は彼と同様の「プログラマー出身者」で占められているという。イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、ビル・ゲイツ、マーク・ザッカーバーグなどのIT起業家たちだ。
 そうした状況になっているのは、「プログラミングを身につけることで副産物的に得られ」る能力が、プログラミング以外の領域でもさまざまに役立つからであり、それが彼らの成功の一因となっているという。
 そうした能力とは、「論理的思考力、創造性、問題解決能力」などだが、より具体的には、「情報整理術、俯瞰(ふかん)で物事を見る目、相手に合わせて指示するやり方、物事を効率化する方法、数値化する力、優先順位を見極めること、仮説を立てる癖、論破力、シミュレ一ションカ、仕事を熟練させる方法、アイデアを形にする能力、模倣するショートカット術」などだという(文献10)。
 これらの能力を駆使し、いわばプログラミング思考に基づいて生き方や考え方を改善するよう勧めることが、彼の提言の眼目となっていると言えるだろう。言いかえればそれは、「プログラマーとして世界を見る」という態度を指南することだ。
 そこでは世界を、いわばデータとアルゴリズムから成り立つものとして見ることが目指される。そのためとりわけ、データとして数値化された事実性と、アルゴリズムとして図式化された論理性が重視される。その結果、それらに準拠せずに行われる議論は、「それってあなたの感想ですよね」と「論破」されてしまう。
 こうした思考法は今日、彼に限らず、とくに若い世代のオピニオンリーダーとして活躍している何人かの論者に特徴的に見られるものだろう。堀江貴文、落合陽一、成田悠輔などだ。彼らはいずれもプログラマーや実業家としての素養を持ち、ある種のプログラミング思考を通じて社会を論評することで人気を博している。彼もそうした中の一人として位置付けられるだろう。
 だとすれば彼の逆張りは、単なる良識へのそれではない。文系的な、とりわけ人文的な、これまでの日本の知のあり方へのオルタナティブであり、さらに言えばそのヘゲモニーへの異議申し立てだと見ることができるだろう。
 そこでは従来のメディアや知識人などの言説が、どこか権威主義的な、それでいてさしたる根拠もないものとして提示され、それとの対比で新種のプログラミング思考が、より実証的で実効的なものとして持ち出される。
 そこに新しさを感じ、いわば斜め下から権威に切り込むようなその姿勢に反権威主義的なカッコよさを見ることが、人々が彼を支持する理由の一つとなっているのではないだろうか。

ライフハックによる自己改造と社会批判

 プログラミング思考に基づいて生き方や考え方を改善しようとするひろゆきの発想は、「ライフハック」と呼ばれる手法に特有のものでもある。ITを使いこなすためのちょっとしたコツやテクニックを日常生活に応用し、仕事や日々の暮らしを効率よく営もうとする考え方で、二○○○年代半ば以降、IT業界を中心に広まってきたものだ。
 そこではアプリケーションやデジタル機器の活用術の応用として、さまざまな「仕事術」や「生活術」が考案されるが、そのためのコツやテクニックは「裏ワザ」「ショートカット」などと呼ばれることが多い。
 彼はその提言の中で、「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」などという言い方をしばしば用いる(文献6、3)。そうした言い方は、その不真面目な印象のゆえに物議をかもすことも多いが、しかしこの点もやはり単なる逆張りではなく、ましてや彼の倫理観の欠如を示すものでもなく、むしろ「裏ワザ」「ショートカット」などの言い方に通じるものであり、ライフハックの流儀に沿ったものだと見ることができるだろう。
 ただし彼のライフハックは、一般のそれとはずいぶん異なるものだ。一般のそれが日常生活の細々とした営みを改良しようとするものであるのに対して、彼のそれは、生き方や考え方の根幹を改造しようとするものであり、社会全体の成り立ちを批判しようとするものでもある。つまり自己改造と社会批判という二つのラディカルな論点を、ライフハックという軽妙な手法で同時に扱おうとするものだ。
 これら二つの論点をうまく噛み合わせることで、彼のライフハックはその信者に独特の効果をもたらすことになる。
 まず自己改造という点では、あたかもアプリケーションを効率化するかのごとく、ちょっとしたコツやテクニックで生き方や考え方を改善することが可能だという印象、いわば人生のショートカットキーがどこかに存在するという錯覚が与えられる。
 一方で社会批判という点では、高度にデジタル化されたIT業界から捉えられた社会像が、いつまでもアナログ体質なままの日本社会の現実と対比されるため、その古さや非効率性が強調され、いわば日本は「オワコン」だという断定が与えられる。
 その結果、「(日本の未来は暗いけど)あなたの未来は明る

〈184〉
い」という診断がもたらされることになる(文献5)。そのため彼の信者は、「日本はいつまでも変われないが、自分はいつでも変われる」という思い込みを抱くようになる。そうした思い込みは、もろもろの不満や不安を抱える者にとってはどこか心地よいものだろう。一方では「オワコン」の日本を「ディスる」ことで、社会への憤懣(ふんまん)を安直に晴らすことができ、他方では自己改造の可能性を信じるこどで、自己への承認を安直に満たすことができるからだ。
 つまり自分がこれまでうまくいかなかったのは、このどうしようもない社会のせいだが、しかし便利なショートカットキーが見つかったので、これからはうまくいくだろうというわけだ。
 こうした安直な思い込みが広く受け入れられてしまうのは、「いつまでも変われない日本」への苛立ちが、とくに若い世代の間に広がっているからだろう。「自分だけはいつでも変われる」と思い込むことの中にしか希望が見つからないほど、彼らの展望は閉ざされているのではないだろうか。

「ダメな人」のためのネオリベラリズム

 ここであらためて考えてみよう。「日本の未来は暗い」にもかかわらず、なぜ「あなたの未来は明るい」とひろゆきは言うことができるのだろうか。通常の考え方では、日本の未来が暗ければ、そこに住む人々の未来も暗くなるはずだ。しかし彼はそう考えない。
 彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような「横並び」の体制で、「みんながトクする」という構造を大事にしてきた。しかし昨今ではとくにIT産業に見られるように、二人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」というビジネスモデルが増え、「ほかの人にも分配する必要がなく」なった。その結果、「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことが可能になったという。
 だからこそ、「日本が「オワコン化」しても大丈夫」だと彼は断じる。「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」なのだから(文献1〉。ここに見られるのは、ネオリベラリズム、もしくはリバタリアニズムに特有の考え方だと言えるだろう。公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ。そもそも彼は成功した起業家であり、さらにマスクやベゾズなど、桁外れの大富豪の名をしばしば挙げていることからも窺われるように、ネオリベラルな考え方の持ち主であるこどは、とくに不思議なことではない。
 では彼は典型的なネオリベラルなのだろうか。実はそうではない。その議論には、むしろそこからはみ出るようなところが多く見られる。一般にネオリベラリズムとは「弱肉強食の論理」だとされる。とりわけIT業界ではいわゆるネットワーク経済の法則から、“winner-take-all”、すなわち勝者総取りの原理が働き、強者はどこまでも強くなっていく。
 そうした世界でネオリベラルな論者であろうとすれば、その視線は強者に向けられるのが普通だろう。しかし彼の議論は、むしろ弱者、それも彼なりの見方に基づく弱者としての、いわば「ダメな人」に向けられることが多い。
 たとえば「コミュ障」「ひきこもり」「なまけもの」などがその代表格だが、さらに彼が生まれ育った東京・赤羽の団地には、「社会の底辺と呼ばれる人たち」がたくさんいたという。「生活保護の大人」「子ども部屋おじさん」「二ート」「うつ病の人」などだ(文献2、5、4)。
 昨今の若者は「いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前」だという「成功パターン」から外れると、「もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない」などと思い込みがちだが、しかしこうした「ダメな人」は「太古からずっといた」のだから、気に病む必要はない。むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスを摑(つか)む人」になるべきだと彼は言う(文献6、2)。
 というのもこれまでの日本では、「ダメな人」は「横並び」の体制についていくことができなかったが、しかし昨今では、「会社で働けないタイプの人」でも「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」ことが可能になったため、プログラマーやクリエイターとして成功することができる。実際に彼自身も「コミュ障」だったが、「プログラミングという武器がある」ことでうまくいったという(文献1、6、8、3)。
 だからこそ彼はそうした人々に、プログラミング思考によるライフハックを勧めるのだろう。マスクやペゾズの名を挙げてはいるものの、彼にとってのその本質は、むしろ「自分の人生は自分で守る時代」の「弱者の生存方法」なのだろう(文献2)。
 そうした見方からすると、デジタル化によって駆動される今日のネオリベラリズムは、決して過酷なだけのものではなく、とくに「ダメな人」にとってはむしろ優しいもの、その「生きづらさ」を減じてくれるものということになる。たとえ「子ども部屋おじさん」や「二ート」だろうと、ちょっとした副業のノウハウさえつかめば、それなりに稼ぐことができ、社会参加が可能になるからだ。
 たとえばさまざまなクラウドソーシング業務のほか、アフィリエイトビジネスから株式投資に至るまで、やり方は

〈186〉
いくらでもある。うまくいけばそこから起業したり、デイトレーダーとして一攫(いっかく)千金をねらったりすることも可能だろう。そうした可能性に目を向けることで「チャンスを?む人」になるよう勧めることが、ある種の逆転の発想として、彼の提言の眼目となっていると言えるだろう。
 こうした彼の見方は、今日のネオリベラリズムを捉え直し、「ダメな人」のために再定義しようとするものだと見ることもできるだろう。それは「弱肉強食の論理」を推し進めるものでありながら、一方で「弱者の論理」を活かすものでもあるという見方だ。
 今日、ネオリベラリズムの強力な論理の中に否応なく巻き込まれ、それに適応せざるをえなくなっている人々は、それを「強者の論理」から「弱者の論理」へとこうして優しく転倒してくれる彼の議論に、慰(なぐさ)めや励ましを感じ取っているのではないだろうか。

なぜリベラル派を嫌うのか

 ではそれは、なぜ「ダメな人のためのネオリベラリズム」であり、「リベラリズム」ではないのだろうか。本来はむしろリベラリズムこそが「弱者の論理」として持ち出されるべきものだろう。それなのにひろゆきは、そしてその信者はリベラル派を嫌い、さまざまな局面でその立場に反対している。それはなぜなのだろうか。
 その背景にあるのは、とくに「弱者観」の違いという問題だろう。弱者とは誰か、そしてどうあるべきかという見方に関わる問題だ。それぞれについて考えてみよう。
 まず弱者とは誰かという点では、一般にリベラル派は、とくに二つの立場に沿った見方をしてきたと考えられる。その一つは従来の福祉国家論の立場であり、そこでは社会保障や公的扶助の主たる対象者として、高齢者、障害者、失業者などが想定されている。もう一つは近年のアイデンティティポリティクスの立場であり、そこではとりわけジェンダーとエスニシティに関わるマイノリティとして、女性、LGBTQ、外国人などが想定されている。
 加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含まれることになった。
 これらの存在、すなわち高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていない。「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」などだ。そうした人々は、リベラル派のプログラムでは救済されることがない。そのため、それに従っても意味がないと考えてしまうのだろう。
 次に弱者とはどうあるべきかという点では、一般にリベラル派は、とくにマルクス主義の伝統に親和的な見方をしてきたように思われる。弱者とは搾取されるばかりの存在であり、したがって連帯し、運動し、集団として権利を主張しなければならないとする見方だ。
 こうした見方は、しかし「ダメな人」を力づけるものではない。そこでは弱者が、搾(しぼ)り取られる側の存在として規定されてしまっているからだ。また、そもそも「横並び」が苦手な「ダメな人」たちに連帯するよう説いても、あまり現実的ではないだろう。
 一方で彼の議論では、各自が稼ぎ取る側の存在になるよう勧めてくれ、そのためのやり方も教えてくれる。だとすれば、集団としての権利よりも個人としての利益を得るために立ち上がるほうが、やる気も出るし、現実的だということになる。
 こうしたことから「ダメな人」たちは、そしてそのオピニオンリーダーとしての彼は、リベラル派の見方を拒否することになる。その「弱者観」は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ。
 しかしリベラル派はそうした見方にこだわり、自らの「弱者リスト」の構成員にばかり福祉を分配しようとする。一方で彼らは分配の対象にされないばかりか、その原資を拠出するための徴収の対象にされてしまう。彼らの目にはそう映っているのではないだろうか。
 そのため彼らは、そうした分配の仕方に異議を申し立てるとともに、その根底にある分配の原理、つまり福祉国家という体制そのものに疑義を呈する。その結果、「大きな政府」を否定し、ネオリベラリズムを支持することになる。こうした考え方が、「ダメな人のためのネオリベラリズム」を支える一つの政治思想となっているのだろう。
 そこではリベラリズムが、彼らにとっての「弱者の論理」としてほとんど機能していないことがわかるだろう。それどころかそれは、特定の「弱者の論理」を押し付けてくるという意味で、むしろ「強者の論理」なのではないかと、彼らの目には映っているのではないだろうか。
 しかもそこで提示される弱者、つまりリベラル派の「弱者リスト」の構成員は、そうした「強者の論理」に守られている以上、もはや「真の弱者」ではなく「偽の弱者」なのではないかと、やはり彼らの目には映じるのだろう。というのも彼ら自身が「真の弱者」なのだから。
 こうした見立てに基づいて彼らは、「強者」としてのリベラル派と、「偽の弱者」としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが「真の弱者」としての

〈188〉
彼らの階級闘争となるからだ。
 たとえば辺野古をめぐる騒動のきっかけとなったのは、米軍基地建設反対運動の現場で、「座り込み抗議が誰も居なかったので、○日にした方がよくない?」と彼がツイートしたことだった。彼がそうした行動に出たのは、リベラル派の「弱者リスト」に含まれる戦争被害者の一部としての沖縄の人々が、運動するポーズを取っているだけの「偽の弱者」にすぎないという見解を示したかったからだろう。
 その後、リベラル派との間で論戦が繰り広げられ、さまざまな事実を突き付けられたにもかかわらず、彼は断固として態度を変えようとしなかった。彼がそうした行動を取ったのは、特定の「弱者の論理」をあくまでも押し通そうとするリベラル派の「強者の論理」に、あくまでも対抗するという姿勢を示したかったからだろう。
 それらの行動はいずれも、彼に「いいね」を贈った二八万もの「真の弱者」の階級闘争が、その背後で繰り広げられていることを意識してのものだったのではないだろうか。

情報強者の立場からのポピュリズム

 こうしたひろゆきの振る舞い方は、弱者の味方をして権威に反発することで喝采を得ようとするという点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ。しかもリベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威と見なされている立場に強く反発するという点で、ポピュリズムに特有の、反知性主義的な傾向を持つものでもあると言えるだろう。
 実際、彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠いものだ。
 しかしその信者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。
 そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる。ネットでのコミュニケーションを介した情報収集能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長(た)けた者であることが強調される。
 そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱(じょうじゃく)」に類する存在のように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の信者をさらに熱狂させることになる。
 このように彼のポピュリズムは、「情報強者」という立場を織り込むことで従来のヒエラルヒーを転倒させ、信者の喝采を調達することに成功している。しかしそうしたやり方は、ポピュリズムの危険性を増幅させかねないものなのではないだろうか。とくに二つの点から考えてみよう。
 第一に、差別的な志向の増幅という点だ。つまりそこでは分断に基づく憎悪が、ある種のデジタルデバイド、それも恣意的に設定されたそれに基づく「情弱」への軽蔑として提示されるため、高齢者や障害者など、より本来的な意味での弱者が差別のターゲットとされやすい。
 そもそもそうした存在は、福祉の分配先として大きな位置を占めているため、憎悪を向けられやすいうえ、とくにデジタル化を無条件に是(ぜ)とするようなイデオロギーの中で、「情弱」への対処として差別が正当化されてしまいがちだ。
 その結果、弱者の味方をしているつもりが、より本来的な意味での弱者いじめを堂々としている、しかもそのことに気付いていない、ということにもなりかねない。
 第二に、陰謀論的な思考の増幅という点だ。かつて2ちゃんねるがスタートした当初、その利用者の資質について彼は、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」と語っていた。そこには「情報強者」の条件が端的に示されていたと言えるだろうが、しかしこの条件を完全に満たすことのできる者は、実際には存在しないだろう。
 ところが彼の信者はそうした存在になろうと努め、何事にも騙されないよう、何でもかんでも疑ってかかるようになる。その結果、ニヒリスティックな価値相対主義の考え方に基づき、何事も信じないという態度を共有する集団ができあがってしまった。
 しかし実際には彼らは、何事も信じないという考え方を疑いもせず信じ込んでいる集団にすぎない。つまり価値相対主義の立場を絶対化している集団であり、したがって本質的には「信じにくい」集団ではなく、むしろ「信じやすい」集団だということになる。
 そうした集団にあっては、疑うことと信じることとの間に独特の偏りが生じる。他者から示された情報はことごとく疑いながら、一方で自らが見出した情報は盲目的に信じ込んでしまうという偏りだ。
 その結果、彼らは自らに都合よく情報を加工し、ときに捏造しながら、自らが見たいように世界を見るようになる。そこからもたらされたのが、恣意的にねじ曲げられた解釈に基づく陰謀論的な言説の数々だ。

〈190〉
2ちゃんねると同様にやはり彼が管理人を務めていたアメリカの匿名掲示板サイト「4chan」は、危険極まりない陰謀論的な思考の温床となり、数々の過激思想や暴力犯罪を生み出したことで知られている。彼の信者の態度はそうした場にまで広がっていったのだろう。
 このように彼のやり方は、ともすれば差別的な志向と陰謀論的な思考に拍車をかけることで、ポピュリズムの危険性を増幅させかねないものだ。差別的なヘイトスピーチと陰謀論的なフェイクニュースに溢れ返っている今日のネット環境を、それはさらに悪いものにしてしまいかねないだろう。
 元来、プログラミング思考を追い求めていけば、いわゆるシステム思考に行き着くはずであり、そこではシステム論的な複雑さをいかに処理するかという点が眼目になってくるはずだ。その結果、自己や社会の複雑さに目が向けられるとともに、自らの思考法による再帰的な影響関係にも検討が加えられ、その制御と修正が行われることになるはずだ。しかし彼の思考はそうした発展性を持つものではなく、あくまでも未熟なレベルに留まっている。
 今日、日本社会が長く低迷を続け、一方で情報社会が飛躍的な発展を見せるなか、その狭間で多くの若者が、彼のこうした未熟なプロダラミング思考、そして安手の情報知に取り込まれてしまっている。
 それはもちろん憂(うれ)うべきことだが、しかしそうした状況を招来してしまったことの責任の一端は、現在の日本の知のあり方にもある。新たな情報知に対して人文知はどう向き合うべきなのか、そして今日のネオリベラリズムに対してリベラリズムはどう取り組むべきなのか、それらの点が現在、あらためて問われているのではないだろうか。


【引用文献(ひろゆきの著書)】
1 『自分は自分、バカはバカ。他人に振り回されない一人勝ちメンタル術』SBクリエイティブ、二〇一九年
2 『1%の努力』ダイヤモンド社、二〇二〇年
3 『ラクしてうまくいく生き方自分を最優先にしながらちゃんと結果を出す100のコツ』きずな出版、二〇二一年
4 『無敵の独学術』宝島社、二〇一二年
5 『誰も教えてくれない日本の不都合な現実』きずな出版、二〇二一年
6 『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』プレジデント社、二〇二二年
7 『なまけもの時間術 管理社会を生き抜く無敵のセオリー23』学研プラス、二〇二〇年
8 『無敵のコミュ術』宝島社、二〇二二年
9 『無理しない生き方 自由と快適さが手に入る37のアドバイス』きずな出版、二〇二二年
10 『プログラマーは世界をどう見ているのか』SBクリエイティブ、二〇二二年

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片山善博(161)日銀総裁人事をめぐる国会審議――地方議会はこれを見習うべき 【世界】2023-04

2023年08月04日(金)

暑い夏……,で,新聞記事の伝えるところでは,しかs,1978年7月もまた,今夏に匹敵するほどの平均気温だったとあった.
いろいろ覚えておいてもいい年だったのだけれど,そんなに暑い夏だったかな,と思う.
家にエアコンなどなかったな,それで,仕事場に出ている方がいいと思っていただろうか.
休みの日などは,喫茶店に居座って本を読んだりしていたな,とは思い出す.

そういえば地方自治体の統治体制は,どの国でも同じようになっているわけではないらしい.
議院内閣制みたいに,議員が,自治体の行政部門の各部の責任者になっているようなところも少なくないらしい.
いや,どんな形式がいいんだろう,というのではなく,
いろんなやり方があって,さて,自治体の規模とか,置かれている状況,政治的,経済的,あるいは地理的……などによって,どういう仕組みが,より民主的というか,市民の意思を吸い上げ,また市民のためになるんだろう,と考えること,と思うが,
そもそも現状がどうだったっけ?
テレビの国会中継,
そのものまねのような自治体の議会……というのは言いすぎだと思うけれど.
ときどき思うけれど,だれも傍聴になんか来ないのかもしれないけれど,
傍聴席をもっと増設し,もっと待遇をよくしたらどうなんだろう.
後楽園球場のグラウンドに議場を設えて,観客席から,わいわいガヤガヤやりながら,議員と大臣,官僚のやりとりを見,聞くというのは.

そういえばどこかで,だれかが議論していたか,議員というのは,仕事じゃなくて,商売じゃなくて,いっしゅ市民の義務みたいなものじゃないか,と.


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【世界】2023年04月

片山善博の「日本を診る」(161)
日銀総裁人事をめぐる国会審議――地方議会はこれを見習うべき

 わが国の地方自治の質を向上させるには、地方議会のありようを変えなければならない。長らく地方自治に携わってきての感想である。
 日本の地方自治制度は二元代表制を採用している。一方に住民から直接選ばれた議員で構成される議会があり、他方に同じく住民から直接選ばれた首長がいる。議会は立法機関として自治体の条例や予算などの重要事項を決定する。首長は議会が決めた条例や予算を執行する。それを議会が
点検し、チェックする。議会と首長は互いに独立した存在であり、緊張関係を保っていることが前提とされる。
 では地方自治の現状はどうかといえば、議会と首長はここで述べたような関係に立っていない。大半の議会では多数会派が首長に寄り添う。首長が提出する議案はすべて無傷で通すことが自分たちの責務だと勘違いしている議員も多い。二元代表制が前提としている運用方式とは大きく異なっているのである。どうしてこんなことになっているかといえば、地方議会が国会を見習い、まるで議院内閣制であるかのように議会を運営しているからである。
 先の多数会派に属する人たちは、日常的に自分たちのことを与党といい、多数会派に属さない会派のことを野党という。本来、二元代表制の下では首長対議会という構図はあっても、与党対野党の対立はないはずなのに、である。

■総裁人事をめぐる国会のやり取りは地方議会の範となる

 筆者はかねがね地方議会はいい加減に国会の真似をするのをやめてはどうかと、地方議会関係者に勧めてきた。一般的にはそうであるが、例外的にこの点だけは国会を見習うべきだと推奨していることもある。それは日本銀行の次期総裁及び副総裁の人事をめぐる国会のやり取りである。日銀総裁及び副総裁は内閣が任命するが、それには衆議院及び参議院の同意を必要とする(日本銀行法二三条一項)。この同意を求める議案を国会はちゃんと審議していて、それを地方議会も見習ってほしいのである。
 政府は黒田東彦現総裁の後任に植田和男氏を充てるなど、日銀の新しい総裁及び副総裁の人事について同意を求める議案を国会に提出した。これを受け、国会ではこの人事案をめぐって、すでに衆議院子算委員会で岸田首相に対して質疑が行われた。
 そこでは、日銀総裁の条件や、政府と日銀との基本的関係などを質したりしている。これは任命権を持つ首相に対して説明責任を果たすことを求めるもので、とても大切なプロセスである。首相に対する同様の質疑は、参議院予算委員会でも行われる。
 一方、この号が書店に並ぶ頃にはすでに終了していると思われるが、衆議院及び参議院の議会運営委員会では、候補者からそれぞれ所信を聴取し、それについて質疑を行うことが予定されている。これは、わが国の金融政策を主導する日銀を切り盛りする人たちの見識や人となりを国民に明らかにする上でとても貴重な機会となる。
 中には、与党が絶対多数を占めている国会の現状からして、こんな手続きを踏んだからといって結論が変わるわけはないので、時間のムダではないかという人もいる。たしかに、自民党の中で人選に異論が出て大騒ぎになるようなことでもない限り、結論が変わることはあるまい。
 ただ、たとえそうだとしても、首相や候補者本人に公の場で問い質す機会を持つことはとても重要である。その理由の一つは、こうした公の場で問い質されることがあらかじめわかっていると、任命権者が身びいきや思いつきで人選を行うことを抑止する効果が期待されるからである。
 また、例えばこのたびの日銀の例で言えば、かつて「日本銀行は政府の子会社」などと中央銀行の独立性をないがしろにする発言をした首相がいたが、岸田首相も同じような考えを持っていないことを確認しておく必要がある。総裁人事を国会で質すのはその絶好の機会となる。
 さらに、肝心の植田氏をはじめとする各候補者の見識や人となりだけでなく誠実度や責任感、説明能力や冷静沈着度などを検証する機会になることである。これらの資質は、今や崖っぷちに立たされている日銀の困難な舵取りをする上で必須だと思うが、それを深く見定める機会となる。

■地方議会は教育委員会人事を丁寧に審議せよ

 国会と同じように地方議会でも人事についての同意案件が議案として提出される。それは例えば教育委員会の教育長及び教育委員だったり、人事委員会の委員だったりする。これらの議案を地方議会がどう処理しているか。実は、ほとんどの議会は実質的に何も審議しないで右から左へと可決しているのである。
 現在小中学校の教員の多忙化が問題となっている。学校現場がブラック化しているとまで言われるほどだ。それを反映して優秀な教員志願者が減っていて、とうとう合格者が採用見込み数を下回る県も出てきているという。
 こうした深刻な事態を解消する役割と責任を持つのはもっぱら教育委員会であり、それは教育長と四人ないし五人の教育委員によって構成される合議機関である。教育長や教育委員にどんな人が就くかはとても重要であり、その人選はよく吟味されなければならない。その吟味の役割と責任を負っているのが選任同意権を持つ地方議会である。
 その地方議会は、首長が提案した教育長及び教育委員の選任同意議案について、委員会への審議付託を省略し、直ちに採決に付し可決するのが通例である。他の議案は必ず常任委員会に付託するのに、選任同意議案だけ手抜きしているのである。これでは教育長と教育委員の「品質管理」
は何もなされていないに等しい。こんなことだから、教育委員会が責任を持つべき学校現場の諸課題が一向に解決しないのではないか。これが長年地方自治に携わってきた筆者の見立てである。
 そこで、かねて教育長と教育委員だけでもいいから選任同意案件について丁寧に審議してほしいと地方議会関係者に説いてきた。それを受け止めてもらえたからかどうかわからないが、他の範となる取り組みをしている議会も散見されるようになった。京都府京丹波町議会はその一例であ
る。ここでは教育長及び教育委員の選任同意に当たり、任命権者である町長との間で質疑が行われる。似補者を選んだ理由、教育長にはどんなことを期待しているかなどについて町長に質し、それに対して町長が説明責任を果たす機会になっている。
 今のところ質疑の相手は任命権者だけであり、候補者本人にまで及んでいないところはまだ改善の余地がある。ただ、他の地方議会の実におざなりなやり方と比較すると特筆に値する取り組みだと評価している。今後できれば国会と同じように、候補者本人を町議会に招致し、その所信を
聴いたうえで質疑を行うなど、いっそうの改革を期待したい。人事同意案件について何も審議していない地方議会には、まずは京丹波町議会がやっていることから取り掛かることをお勧めしたい。
 地方議会は漫然と国会のまねごとをするのはやめるべきである。ただ、そのよいところは大いに見習って、議会改革に取り入れてほしい。

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ちょっといまさら……だけれど,まぁきちんと議論すべきではあるか――〔大機小機〕年金支給年齢の引き上げを



高齢化社会,
65歳以上人口が、全人口の7%を超えた社会,
ということで,
列島の国は,1970年の国勢調査で,高齢化社会へ…….
(1970年国調で7.1%)
さらに,65歳以上人口が14%を超えると,高齢社会というのだそうだ.
そして,列島の国は,1994年に高齢社会へ.
(1995年国調で14.6%)
この65歳以上人口が,21%を超えると,超高齢社会というらしい.
列島の国は,2005年に超高齢社会になったとされる.
(2005年国調では20.2%,2010年国調で23.0%)

それで,では,これはそのときにはじめて認識されたことかといえば,
そんなことはない.
人口学が予測したとおりに,人口構成は変化してきたといえそうだ.
あるいは,ひょっとするとどちらかというと「悲観的な」方向にずれながら,
趨勢的に予測どおり,というところだろうか.

書名など忘れてしまったけれど,1970年前後の計量モデルの推定で,
遠くない将来における高齢社会,そこにおける年金財政問題など,だいたい現実を先取りするようなレポートが出ていたはずだ.

多産多死から,多産少死へ,そして少産少死へ……
ほとんどの国,地域が,同じような道をたどってきているのだろう.
ただ,先進国が,かなり長い時間をかけてその道を歩んできたのに対して,
後発の国ほど,急速な変化を描いているようだ.
列島の国もその典型なのだろうが,これから,たとえば中国など,たいへんな社会の変動に見舞われる可能性があるのだろう.
さらに,インドが控えているようだ.

アメリカなどが,相応の人口構成を保っているのは,移民の影響だろうと言われる.
たぶんそのとおりなのだろう.
白人に限れば,ヨーロッパ諸国とあまり変わりがないのだろう.

ほぼほぼ確実に予測されていた社会が到来しただけではないか……,
さいきんの高齢化にかかる政策課題の議論を聞くたびに,
この国は,いったい何を見,何をしてきたのだろうと思う.


それから,誰が言っていたか,
江戸時代に戻ろう,とか.
人口3000万人ぐらいだろうか.
列島が養いうる人口の規模は,こんなところじゃないのか,とか.
現在の食糧自給状況などをかんがえると,
本気で,もっと子どもを,なんて言っているのかと思ったりする.
いつごろまでだったろうか,産児制限の運動が盛んだった.
無理矢理堕胎を強いたりした国ではなかったか.

振り返ってみる.
仕事の関係もあって,1990年頃,特別養護老人ホームの整備水準をどうするか、などと議論したことがあった.
素人なりにデータを集めてみて,援護の必要な高齢者がどのくらいになるのだろうか,とか,
もちろん援護の程度がどうなのか,支援のシステムの全体像が描かれないといけないのだけれど,
メディアをつうじて流される情報,あるいは,人びとの不安を煽るような保険や医療関係のコマーシャルなどの根拠をたどっていくと,ちょっとどうなんだろう、と思ったけれど,
同時に,そもそも高齢者にとって必要な支援とは,どんなもの,ことなのだろうか,
そこの議論が不足しているのではないか,とも.

今回のCOVID-19への対応で,とくに北欧の国などの、列島と比べるとドライともいえそうな対応(公衆衛生,医療)の背景について,市民の健康観,死生観などの違いを指摘する議論があったと記憶する.
たんなる効率の問題としてではなく,どのように最後の時を迎えるのか,そこにいたる高齢者の生活のあり方も含めて,相当の議論があったのではないか……と.
1970~80年代にスウェーデンなどで地方自治改革が検討され,実施されたようだけれど,
医療や福祉についても,おおきな政策的な変化があったのではなかったか.
もちろん彼の国々は,バラ色だなんて思わない.老人ホームは,あちらもこちらも,たいした差はないのだろう.
それでも,来るべき大きな社会の変化への対応を,すでに変化しつつある時代に、相応の政策対応に向けた議論をしてきた、ということは,列島の国と比べると,やっぱりちゃんとおさえておいてよいことのように見える.

それから,フランスで年金改革への反対が,高齢者だけでなく,若い人たちも巻き込んで議論になっている,というか,年寄りも若いのも,いっしょに政府の動きに反対している、と報じられている.
この列島の国の,年寄りと若い人との「分断」を煽るような議論と比べて.なんと健全な!と思ってしまう.
年寄りのために若い人が犠牲になる……とでもいうような目先の議論は,その若い人が年をとったときに,一層極端なかたちで繰り返されかねない,
いや,現実はそうなるであろう、と思われる.
とすれば,若い人と年寄りの利害は,長期についてみれば,対立ではなく,調停されるべき課題なのだろう.

なんだか,でも,すべてが終わりに向かっているのではないか,とちょっと暗くなることがある.
それでいいわけではないけれど.
一夜漬けの受験勉強は,そのうち取り返しがつく、なんとかなる,でよかったけれど,
高齢社会をめぐる諸課題を,いまごろ議論している姿は,ちょっと一夜漬けにもならないな,と思う.
教育をめぐる議論も同様.
防衛とか,さらに.

なんだか何十年も前……と,まるで夢を見ているようにも思う.


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〔大機小機〕年金支給年齢の引き上げを
2023/3/9付日本経済新聞 朝刊

「異次元の少子化対策」が話題になっているが、人口減よりも深刻なのが高齢化だ。2050年ごろに人口が1億人を下回るとみられるが、1960年代の水準に戻るだけだ。しかし、当時の高齢者比率は6%程度で、50年の約38%との差は著しく大きい。

高齢者の増加で自動的に増えるのが年金だ。政府は20年ほど前の100年安心年金の看板に固執している。だが働き手が減るなか、膨張する年金受給者をどう支えるのか。

04年に改正された年金制度では、年金保険料に上限を定めた。受給者の寿命が延びることでの給付増加分は、毎年の給付額の削減で賄うという厳しい方式を選択した。

しかし年金額が持続的に減っては、生活できない高齢者が続出する。このため物価上昇にスライドする範囲内でしか年金給付を削減しないこそくな仕組みを導入したが、デフレ時には機能しない。

保険料は上げられず、給付も十分には削減できない。後は年金積立金の運用益に期待するしかない。過去の年金試算では、将来の年金積立金がなぜか急速に積み上がり、100年間維持できるような、都合のよい運用利回りと賃金の見通しが描かれている。

無理な将来試算をするより、長生きする分だけ年金を受け取れる時期を先送りするのが合理的だ。生涯ベースの年金受給額を増やさなければ、年金制度は安泰になる。

高齢で働けなくなった後の強制的な年金削減ではなく、あらかじめ長く働き続けることを基本とする。低めの年金額でもよければ早めに引退という選択肢もある。65歳以上への支給開始年齢の引き上げが、なぜ日本では検討もされないのか。他の先進国はほぼ67歳が支給開始年齢となる。

厚生労働省は、国民の反発が予想される支給開始年齢引き上げを「政治的に可能ではない」とタブー視する。しかし、巨大な年金保険の運営に責任を持つ官僚は、国民に嫌われる事実でも正しく示す英国型の「行政職人」に徹し、後は政治に委ねるべきだ。

次期24年の財政検証に備えた社会保障審議会での議論が始まった。持続可能ではない年金給付の削減方式にこだわり、積立金が自動的に膨らむような大本営発表を繰り返すべきではない。成算なき戦いに突入した過去の歴史に学ばなければ、高齢化との戦いにも敗戦を喫する。

(吾妻橋)
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