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田中克彦 言語からみた民族と国家 もくじ/序

2024年03月02日(土)

ずっと後になって,ノモンハン戦争に関する論攷などを読みながら,
むかしのことをちょっと思いだしていた.
言語学に興味があった……というわけじゃなかったと思う.
多少の知識が必要だな,と思ってはいたのだろうけれど.

国語と国家,
ことばと国語,
ことばと民族.
国家と民族……,
ずっと気になっていたんだろう,
気になるだけで,そこからさらに……とはならなかったけれど.

……………

岩波現代選書,
1978年から1987年まで128冊が出版されたとあった.
その前,岩波全書があったなと思い出す.
何冊が書棚に眠っていると思うけれど.

―――――――――――――――――――――――――

言語からみた民族と国家

田中克彦

岩波現代選書 13

岩波書店
1978年8月25日 第一刷

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目次

序 ダンテにおける「高貴な俗語」  ……………1
I 恥の日本語           ……………31
Ⅱ 柳田国男と言語学        ……………67
Ⅲ エリートの国語         ……………95
Ⅳ カール・カウツキーと国家語   ……………139
Ⅴ ソ連邦における民族理論の展開  ……………189
  ――脱スターリン体制下の国家と言語――
Ⅵ 国家語イデオロギーと言語の規範 ……………239
Ⅶ 固有名詞の復権         ……………293

  あとがき            ……………337
  人名索引





自然は民族を創らずただ個々の人間を創るのみであり、個々の人間が言語、法律ならびに風習の相違によってはじめて民族に区別されるのである。
スピノザ『神学・政治論』
(畠中尚志訳、岩波文庫版)




〈1〉
序 ダンテにおける「高貴な俗語」

1 文法の奪取


人類が文字を用いてことばを記すようになってからの歴史は、ことばの全史の中でほんの一ページにも満たない。同じようにことばと言っても、それを話すことと、書くこととは、かなりちがった世界のいとなみである。人間であるかぎり、ふつうだれでもことばを話すのであって、話すということは、いわば人間にそなわった自然の一部である。しかし、書くことはそうではない。ほうっておけば人はいつまでも書くようにはならないのであり、話すことに比べれば、書くことはより自然から遠ざかる。
 さらに、人類のうちの絶対多数は、ごく最近まで、自分のことばあるいはそれに近いことばを書くことができなかったし、自分のことばで書こうなどとは思いもよらなかったのである。書くためのことばと
〈2〉
話すためのことばは、時代が古いほど離れている。二つのことばが近づけられたのは、言語的エリートの独占を排し、書くことをすべての人のものにしようとした、近代民主主義の願いによるものであった。日本人がはじめて漢字と、それによって書かれた言語と文章を学んだときに、かれらは、それが本家におけると同様なしきたりにしたがって書かれるよう細心の努力をつくしたのであって、いささかでも日本的な汚れが、そこに浸み込むことのないように神経をとがらせた。ところが本家の純粋性が守られるのは、文字を用いる、つまり、漢文の書ける人間が、せまい範囲のごくわずかな数のエリートに限られているばあいだけであって、その使用が非エリートにまで拡大されてくるにしたがって、しきたりの厳密さ、純粋さにはどうしてもにごりが出てくる。非エリートはこまかいしきたりを完ぺきにマスターする機会もとぼしく、ひまもない。じっさい、書く技術を身につけるには、どうしても相当な時間を肉体労働から解放されていなければならない。ところが、何かを書きたいと願う気持、書かねばならない必要は、エリートたちだけのものではない。むしろ、そうでない人たちにとってこそ、書きたいことが多いかもしれないのである。
 日本では、神聖であるべき漢字が、しばらくの間はそのままで使われていたが、やがて、それをもっと簡略にして、日本語、つまり我々の.ことばそのものを書きあらわすための道がひらかれるように
〈3〉
なった。漢字は音のみならず意味をあらわすのであったが、こうして、日本語の都合にあわせて、ねじまげられた文字は、もっぱら音だけをあらわすための、したがって、漢字から見て正式ではない仮りの文字と名づけられた。漢文から見れば仮りの文字であったが、我々のことばから見れば、これこそが、我々のことば、つまり話した発音を比較的そのまま表わせる、日本人のための文字であった。仮名は、女や子供、教養のない男に使われた非エリート専用文字であり、じつは、日本語が書けるようになったのは、こうした非エリートが、大挙して、読み書くいとなみに参加したからである。かれらの無教養こそが、漢文の支配を追い払って、今日のさかんな日本語への道をひらいたのであった。
 もともと、はじめから自分のことばで書くことのできた民族は、アジアでは漢族とか、インドのサンスクリット古典語を用いた民族くらいであり、ヨーロッパでは、ラテン、ギリシャ、ヘブライの諸語を話した民族くらいである。もちろんそれ以外にも、中世に入る以前に、りっぱな書きことぽを残したケルト系の民族もあるにはあった。しかし、中世の西ヨーロッパにかぎって言えば、そこの知的生活は、もっぱらラテン語の読み書きによって行われていたので、書くということはかならずラテン語で書くことを意味し、それを学ぶための文法は、もっぱらラテン語のためのものであった。逆に言えば、ラテン語には文法があるが、その他のことば、とりわけ、家の中で女や子供が日夜話している
〈4〉
ことばにも、また文法があろうなどと人々は考えてみもしなかったのである。したがって、当時の感覚からすればイギリス語文法、フランス語文法、ましてや日本語文法などという、ばけもののような文法は概念として存在しないはずであった。このような野蛮の言語についての文法はせいぜい、たとえとしてしか考えられなかったのであるが、たとえとしても、これはずいぶんゆがんだたとえであった。そういうわけで、すべての言語には、それぞれに固有の文法がそなわっているものだと人々が認識するようになってからほとんど時間がたっていない。ラテン語以外の「俗語における文法の発見」は、ヨーロッパ文化史の上で目をみはるできごとであった。そして、ほかでもない俗語=非ラテン語の文法を構想し、実行するという偉業は、一五世紀末のスペインにおいてはじめて実行にうつされたのである。
 ここで「文法」ということばについて考えたことが、やはり「歴史」についても言えそうである。というのは、まだ百年くらい前の一九世紀のヨーロッパでは、「歴史なき民族」ということばが使われていた。しかもそれは社会主義者――あるいは社会主義者であったればこそ――の愛用したことばであって、もとはエンゲルス(良知力「四八年革命における歴史なき民によせて」『思想』一九七六.一〇参照)から、新しくはオットー・バウアー(本書第Ⅳ章注16参照)に至るまで、いくらでも用例をあつめること
〈5〉
ができる。「反革命的な」「歴史なき民族」の中でも、ユダヤ人は最もたちの悪いものであって、かれらには「歴史がない」から、固有の民族として認めるにあたいしないというたちばは、オーストリアの社会民主主義者の間では一つの伝統となった。すべての民族には、いな民族にまで達しない前民族、すなわちロシア語でいうナロードノスチにも歴史があると人々が認識するには、文法のばあいと同様に、長い歴史があったにちがいなく、そのばあいですら、歴史なき民族にとっての歴史は、やはりたとえでしかなかったのである。社会主義の理論家の中で、このような「歴史なき民族」のドグマを真に破ったのはスターリンであった(本書第Ⅳ章参照)。このような意味で、歴史ということばと同様に、文法ということばもまた一つの歴史的概念であって、固有名詞の性質を帯びている。ところが、この固有名詞を一般化して、文法はラテン語だけのものではないということを実際に示した最初の例がイベリア半島のカスティーリャ方言であった。すなわち、ネブリーハという人物がこの有力な方言の文法をあらわして、イサベラ女王に捧げたときに、ラテン語による文法の独占はうち破られ、この方言はやがて他の諸方言を圧して国家語へと歩み、さらに海をこえて中南米地域で最も有力な言語となるための軌道が敷かれたのである。それが、ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発見した一四九二年であったということはあまりにも象徴的である。「女王様の支配下に入った野蛮人どもが、ちょうど
〈6〉
私たちがラテン語文法を学んだと同じように、私の文法でスペイン語を勉強するようになるでありましょう」と著者は述べている(本書第Ⅲ章参照)。そして、実際にその通りになったのである。
 中世ヨーロッパでは、ドナトゥスとかプリスキアヌスの文法を修得することが知的エリートになるための要件であったのであるが、それによって学ばれるラテン語は、誰にとっても生まれながらにして話していることばではなく、ひまのある人が特別に努力してやっと身につくことばであった。ラテン語を身につけ、それを自在に駆使できるという技能は、当時としては、知的議論に参加するための前提条件であった。そして、文法は発音の規則をも含むところの、ことばにおける正しい規則の法典を示すものであった。言語使用におけるいっさいの差別は、この規則の法典から現われる。だから、ある方言や言語の話し手が、あれこれの音が正しく出せないと言ってからかい、笑いものにする風習はずいぶん古くから、しかもラテン語のような人工的な言語についてもあったことは、次の聖アウグスティヌスの『告白』の一節からもうかがうことができよう。

  主よ、わたしの神よ、ごらんください。いつものように、忍耐をもってごらんください。いかに人の子らがさきに語った人びとから受けついだ文字や、音節の規則の遵守には実に熱心でありながら、あなたから受けた永遠の救いの永久にかわらぬ掟のほうをどんなに軽んじているかをごら
〈7〉
んください。それであの昔からの発音の規則を知り、あるいは教える人間が文法の規則に反して、「ひと」という語の第一音節の息をぬいて「いと」と発音しようものなら、ひどく人びとの感情を害し、同じ人間でありながら、他の人間を憎むばあいよりももっと人ぴとの反感を買うものである。(服部英次郎訳、岩波文庫版)

ここでは、ラテン語のホモhomoのh音を母語に持たないために発音できない人のばあいのことを言っている。ラテン語の血すじを引く今日のヨーロッパの言語では、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの諸言語は、いずれもhの発音をすててしまった、いわば「いと」語であるが、これらの言語が、それぞれフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語等々であるのは、「いと」とくずれ、乱れた発音を発達させたおかげであり、これらの言語でhを発音すれぽ逆に笑いものにされてしまうであろう。
 生まれおちて最初に身につけたことば、――そのことばを学ぶのに、どんな苦労をしたかという記憶のない、いわばひとりでにしゃべれることばについて、人はあらためて文法書を開いたりするはずはない。学校が文法のための文法を課するようになったのは、近年の奇妙な流行である。その奇妙さは、言語学の持つ奇妙な性質そのものとよく似たところがあるが(本書第I章参照)、とにかく、文法と
〈8〉
いうものはおかしなものだということをフリッツ・マウトナーは次のように言っている。

  文法というものは、そのことばをよく知っていて、そんなものを必要としない人たちだけにはほんとによくわかるようにできている。ところで外国語の文法とふつう呼ばれているものは、チロルの地図を持ってヒマラヤに登ろうとするようなものだ。(『言語批判のために』第一巻)

つまり、無用な文法だけが完全であり得、必要な文法は常に不完全だということになる。文法は、日常的でない言語、大ざっぱに言って外国語学習用に必要なことは言うまでもないが、じつは国内にむかっても、ことばの作法のしめしをつけるために、近代国家がひとしく持つ必要を感じている。文法とはヨーロッパではグランマ・ティケー、つまり文字(グランマ)の技術(テクネー)を授けるためのギリシャ人の発明であったが、それを日本語が文技とか文術ではなく、文法と訳したのは、この技術の役割を適切にとらえている。つまり、文法は法典にひとしいのであって、異族のみならず同族に対しても、ことばのしめし、規範をしめす役割をになって現われる。この規範は、単に技術の規範にとどまらず、趣味や倫理の規範という役割すら帯びるに至ったのである。
 ギリシャ語やラテン語の文法がどうしても必要であったのは、それらが日常のことばと離れ、ひたすら文字で書かれることばになっていたからである。だから、きまじめに語源的な解釈に従うならば、
〈9〉
文字で書かれない民族語や方言には、定義によって、文法は存在しないことになる。ところが、民族語や方言は、国家の言語になったとたん、まったく新しい資格づけをあてがわれる。何よりもまず、文字の使用と国家あるいはそれに類した政治的統一体の出現との間には深い関係がむすばれ、やがて国家語は文法を要求し、また文字(リテラ)で書かれた「文字言語作品」(リテラチュア=文学)を要求するであろう。このようにして、近代国家が非日常的な古典語をすてて、俗語つまり非古典語を国家語として採用したとき、俗語の文法は国家が当然所有すべき国有財産目録の一項目となり、さらに文学もまたそこに加わってくる。じじつ、文学も国家の観点から見れば、軍隊と並ぶ国家的整備の一つであることを、新興諸国家の例は教えてくれる。ネブリーハははじめて俗語=非古典語に文法をあてがってやるという、前人未踏の思いもかけぬアイディアによって、俗語の中に国家語イデオロギーを植えつけたのである。
 さまざまなかたちで進行していたラテン語に対する俗語(すなわち、文字で書かれない諸民族のことば)の主張は、俗語文法の出現によって決定的なくぎりをしるした。それまで、ラテン語のかげにかくれていたいろいろなことばがそれぞれに文字と文法と文学を所有する道をあゆみ、中にはこの三者をほとんど一挙にそろえた例もある。一九世紀はこのような運動が頂点に達した時代であった。一九
〈10〉
世紀に開花し、せかれるような情熱をもって組みあげられた「インド-ヨーロッパ語比較言語学」の背景には、言語的に分裂して行くヨーロッパ世界に、諸民族語の共通起源を仮設することで精神的な統一を維持しようという気分がはたらいていたことはまちがいのないことで、二〇世紀はじめの最も比較言語学者らしい言語学者アントワーヌ・メイエは、とどめようもなく進行して行くヨーロッパ世界の言語的分裂を一つの異常事態と見たのである(本書第Ⅵ章参照)。
 俗語の俗語たるゆえんは、そのとどめがたい流動性にある。ダンテもまた俗語が最も人間らしいことばであるとたたえながらも、俗語、つまり、生きたことばは、時間的にも空間的にもかぎりなく変化するため、この点でラテン語に一歩をゆずることを認めざるをえなかった。ことばは生きているかぎり変化する。つまり、ことばが変化するのは、それが生きていることのあかしである。生きているということはどういうことかといえば、人々が絶えず使っているということである。人々が使用をやめた言語はいつまでも変化することがない。人間は歴史の中で決して一か所に立ちどまっている動物ではないから、最も人間的な技術であることばが変らないわけはないのである。ところが、俗語がひとたび文法をそなえ、イベリア半島の諸王国のみならず、海の彼方の野蛮人にまで使わせようと考えられた瞬間、俗語文法という道具の発明者は、俗語から、その流動性だけは注意深くぬき去って、未
〈11〉
来永劫にわたる固定を願わずにはいられなかったのである。ネブリーハの次のことばに注意しよう。

  いまもこれからも、このことばで書いて行こうとする人は、時が続くかぎり同じ内容をまもりつたえ、たがいに理解しあえることになろう。ちょうどギリシャ語やラテン語は何百年を経ても、いまなお統一をたもっているように。

 注意すべきは、ラテン語から脱却するためのモデルはやはりラテン語だったということだ。つまり、考えられている図式というのは、統一的な規範、永続性、不変性、恒常性という、ラテン語の好もしい性質をそっくり温存しながら、それをまるごと手に入れた上で、新興文法がラテン語のあとがまにおさまろうというものであった。ネブリーハはこのようなかたちで、言語の本質を見ていた。そして、この基本線は、いまの諸国家の言語規範主義者たちの中に生きつづけ、ときには、俗語古典作家の遺産により、実際の必要をはるかにこえて強化されている。
 言語の研究は、永きにわたって、文法→規則→おきて→正しい用法→作法→礼儀→しつけという環からのがれることはできなかった。その環を破り、正邪の判断をこえた、ことばそれ自体の生命を知ろうというたちばに立ったとき、言語学は規範文法家、正しいことばの伝道者を任ずる正しいことば教室教師や作家、文章評論家等々の言語裁判官とは相いれないたちばに立つことになった。
〈12〉
 そのため、言語学は、意図せずとも、緒果としてはことば使いをせめられる被告の側に立って、なぜそのような誤用があらわれるかに注意を払うよう求める。誤用もまた、言語の自然の一部、いや、誤用にこそ言語の自然ないとなみが現われているのだと考えたアンリ・フレーは、遂に『誤用の文法』を書きあらわすに至った(小林英夫訳、みすず書房刊によって読むことができる)。この「文法」の意味を「文法」の出発点にたちもどってそれに重ねあわせてみるとき、ここでもまた、人間がみずからをしばったくさりを、みずからの手で破って行こうという、真に人間的な、けだかい活動のひとこまを見ることができよう。近代における言語の研究は、よくそう思われているように、単なる知識、技術、思弁としてあるのではなく、人間を最も深いところでしばっている、ことばの差別と規範の起源とその原理に気づく道を示す結果をともなっている。


2 なぜ俗語か?

 俗語文法の編さんという偉業の中に、我々は、一種の規範言語の政権交代とでも呼ぶべき現象を見る。それは、ネブリーハの考えかたにあらわれているように、規範としてのラテン語の座を奪取し、
〈13〉
俗語に、それと同じ役割をもたせて、そのあとがまにすえるという、外的な機能としてとらえた言語の入れ替えである。
 しかし、こうした政権交代にさきだって、では、なぜラテン語ではなく俗語でなければならないのか。思想の自立的で自由な手段(instrument autonome et Libre de la pensee――モールマンのことば)であり、民族をこえた伝達を可能にするヨーロッパ文明の伝統と精髄の結晶である、普遍言語ラテンをおさえ、その聖域を犯してまで、なぜ俗語を文学の領域にまで持ち込まなければならないかという、この問題を内面からとらえておく作業が必要であった。ネブリーハがそうした議論に踏みこむことがなかったのは、そこまで考えがおよばなかったからというよりはむしろ、当時すでに、俗語の要求は自明のことになっていたからかもしれない。それはまた、ひとつには、ネブリーハの文法に二百年も先立つ一三〇四年前後という早い時期に、ダンテという姿をとった一人の俗語イデオローグを介して、俗語の主張に理論的根拠が与えられていたからであったと言えるであろう。
 ダンテは西欧諸言語誕生の理論的根拠を示したその記念すべき『俗語論』にさきだって実際に俗語による『新生』を発表したが、その中で、「俗語ででなければ書かないというのが、そもそも私の最初からの考であった」(山川丙三郎訳)とたちばを表明している。場所は、ベァトリーチェの死のかなしみ
〈14〉
をあらわすのに、エレミア書からのわずかなラテン語の引用のあとを何故続けないかを説明したくだりである。
 その後、やはり俗語で書かれた『饗宴』の冒頭のかなりの部分は、これまた俗語で書くことの弁明にあてられているが、その中で、俗語の議論については、私は別に独立の書をものするつもりであると予告している。これが『俗語論』である。つまり、ダンテにおいては、創作という実際の作業と、創作の手段そのものである俗語で書くことの根拠づけとが、同時に並行してすすめられている。
 ところで、ここでどうしても「俗語」ということばの概念を明らかにしておかねばならない。ダンテの問題の著De vulgari eloquentiaを『俗語論』と訳した最初の日本人が誰であったかを私はいま明らかにできないのであるが、中山昌樹による大正十四年の翻訳は、すでにこの題名を帯びている。そして、vulgarisを「俗」と訳す慣行は、おそらく日本では当時すでに定着していて、特に工夫を要するほどでもなかったと考えていいであろう。この「俗語」の意味を間接的に明らかにするために、諸外国の訳語を参照してみよう。
 たとえば、英訳本ではくvernacularとなっている。ロシア語は、一九六八年のИ・Н・ゴレニシチェフ=クトゥゾフ訳では、書名全体はO 蔑§&ミ謡蓬Qミ竜馬§魯であり、また、興味を引かれるのは、
〈15〉
B・シクロフスキーによる訳がすでに一九二二年にあらわれていて、この方は直接見ることはできなかったがO ?apo?d?KOr pe?uになっているということである。いずれにせよ、「俗」にあたるところは「ナロード」という、これまた含みの多い語が用いられている。ドイツ語も同様に、文中で「俗語」をVolksspracheと訳しているのは、ロシア語のばあいと同様である。
 ところで日本語の「俗語」について、たとえば記述的にすぐれている「三省堂国語辞典』第二版は、「世間に広く使われている、くだけたことば」と言い、その例として「いけすかない」を挙げて、「この辞書では、卑語〔=ばかたれ〕・隠語〔=すけ〕などもふくむ」と説明しているように、俗語はある言語全体を指すのではなくて、ある言語の中の特定層の語彙をよぶもののようである。したがって、「俗語」ということばには野卑なののしりことばを連想させるところがあるのも不思議ではない。げんにいまある、このような俗語の語感を述べたものとしてはこの記述は全く適切であろうと思う。が、ダンテの言う「俗語」(とかりに日本語で訳されたことば)は『広辞苑』第二版が第一の意味としてかかげる「歌や文に用いられてきた文字言葉である雅語に対して、それと異なる話言葉」という意味の方により近い。もっと正確にいえば、話しことば全体を指す『広辞苑』の説明は、中山の翻訳があらわれた当時にまだ通用していた、「俗語」の意味に対応するところの古典的説明と言っていいかもしれない。
〈16〉
 もともと、ことばの社会的な存在様式をあらわす用語に、文脈抜きで適切な訳をあたえることは至難のわざである。なぜなら、その言語の置かれた社会的、文化的状況の中で、ある評価を表明し役割を求めて与えられるこれらの語は、こうした特定の状況をこえて普遍的ではなく、固有の歴史的概念を含んでいるからである。とにかくダンテの「俗語」は、「ばかたれ」、「すけ」のような、特定の個々の語彙をさしているのではなく、したがって、『俗語論』も、「ばかたれ」、「すけ」で文章を書こうというすすめではない。「俗語」は、一つのまとまりをもった言語全体のことであって、何よりも、「文字と文法と文学を持たない」ことを大きなめじるしとする。それはやがては文字を所有して、近代諸国家の国家語になるべき未来をもつことになるが、(内的)言語学のたちばからすれば、あることばが国家語になるかどうかの原因は、言語それ自体の中には宿されていないのである。
 「俗語」には、たとえばこのように、さまざまなニュアンスがあるが、しかし、文法をそなえ、文学のための、非日常的な雅なるラテン語に対する、日常の俗なることばという意味において、やはりこの「俗語」という表現は、ダンテの意図をよく示した日本語であるように思われる。それは、あとでみるように、俗語の俗なるところがすなわち高貴なのだという、ダンテの論の展開をたどって行くためにも、あえて「俗」の意味を保持しておきたい。そこでこの論に入るに先立って、じつは、ダン
〈17〉
テ自身による俗語の定義を見なければならない。

  俗語とは、こどもがことばを聞きわけられるようになるとすぐに、自分のまわりの者から身につけることばのことだ。もっと簡単にいえば、私たちがいっさいの規則によらず、乳母からまねしながら受けとったことばのことだ。(第一篇第一章)

さらに、同じく第六章では、俗語をmaterna locutio、つまり「母のことば」と言いかえ、中山もこれを「母語」と訳している。それを受けて、ドイツ語訳は、『俗語論』の書名として、Mutterspracheを採用しているのである。「母語」という性格、つけの中にはまた、ダンテの「俗語」のもう一つの側面、すなわち、育ての親から、口うつしに、いわば生物的に受けとられたことばという観念がたくみに表現されている。「母語」の「母」は「母国」の母のような単なるたとえではなく、ははそのものである(母語の概念については、なお拙著『言語の思想――国家と民族のことば』四九ページ以下を参照)。このような「俗語」の性格づけは、同時にグラマティカ、すなわち、ラテン語とは何ものであるかもはっきりと見せてくれるのである。すなわち、俗語のほかに、第二次的な言語があって、それをローマ入はグラマティカと呼んでいる。(同上)規範語を二次的とするこの認識は、母語の解放思想の先駆をなすものである。生まれてすぐに、「いっ
〈18〉
さいの規則なしに」はじめて身につけたことばこそが第一次的な本源のことばであり、文字と規則をそなえた技巧のことばは、それから派生し、それに従属するという考え方である。
 ダンテの認識の清新さと、事実そのものに即した冷静さに気づくためには、その六百年後に発されたある日本人作家のことば、「口語文とはあくまでも文語文のくづれだ」という、転倒した主張と対比してみるのがよかろう。人間が生まれながらにして「文語文」を話していたのならそうも言えるだろう。ことばを話すのは口であって、文字それ自体は決して話さないのである。こういう議論をいまあらためてやりなおすねうちはほとんどない。しかし、ことばには、いつでもこうした転倒した迷信がつきまとうものであって、この迷信こそは、言語の思想史を形成する要因であると知っておくことは無駄ではない。
 この迷信はまた、言語的エリートが、何らかの意味で危機を感じた際に、くり返し再生され、強調される。「文語文」の獲得のために費されたばく大な時間とかねと努力、その結果到達できたたのしみと優越感を考えるならば、かれらは、それを所有し得る特権階級の優位は決して失いたくはなく、それをおびやかすものに対しては、伝統と文化と趣味の名において悪罵をあびせかけるのである。そこで「口語文」は「文語文」にくらべて、いつでもくずれており、俗で野卑だと言いつづけずには居ら
〈19〉
れないのである。
 言うまでもなく、ことばがみだれており、くずれているのは、みだれないもの、くずれないものを仮定してのことである。このみだれていない由緒ただしいものは何かといえば、中世ではグラマティカ、つまり古典ラテン語であり、みだれているのは俗語であった。俗語にはみだれをしばる規則もなく文法もない。ところが、ダンテの『俗語論』は言う、

  これら二つの言語のうち(俗語=母語および文法=ラテン語)、より高貴なるもの(nobilior)は俗語である。(第一篇第一章)

このテーゼには、すぐその後につづけて三つの理由があげられている。すなわち、俗語は第一に、人類がはじめて用いたことばであること、第二に、発音や語彙を異にしてはいるが、全世界で用いられていること、第三に、グラマティカが人為的に作られたものであるのに対し、俗語は自然(naturalis)であること、これらである。
 ここに三つの項目に分けてあげられた理由は、一見してわかるように、じつは根本のところでは一つのことを言おうとしているのであるが、ダンテの『俗語論』の中では、それぞれ言語起源の問題、言語の多様性の問題、言語における自然(今日のことばで言う体系)と不自然(今日のことばで言う規
〈20〉
範)の問題とに対応している。そしてこれらの問題は、近代に至るまでの言語論の基本項目に対応してもいるのである。
 第一の理由、つまり、人類がはじめて用いた言語という意味での俗語は、さきに述べたように、母語の概念に対応している。ラテン語やその他どんな言語を習得するにも、はじめて身につけた母語を介するのでなければ行われないという意味においても、母語は他のいっさいの二次的言語に先行する。
 ダンテは、個人における言語の前後関係を述べているだけではなく、人類において最初にことばを口から発したのは誰であるか、それはどんなことばであったかなどについても論じているが、ここではそれには立ち入らないことにする。
 第二の理由にうつると、これはなかなか含みが深い。ダンテにおける世界の諸言語の多様性の認識にはじつに深いものがある。それはもしかして、かれの言語論の中核をなしているとさえ思われるほどである。そのせいか、少なくとも、今日まで『俗語論」がとりあげられてきた、そのしかたは、ダンテの方言観察と、一つ一つの方言への評価がどうであったかをたしかめようという関心から出ていたようである。その意味では、ダンテの方言観察は、イタリア方言学の先駆をなすものと言って言いすぎではないだろう。
〈21〉
ダンテは、イタリア半島を、まず南北に走るアペニン山脈によって東西に分ち、ティレニア海側とアドリア海側に方言領域を設定した後、単に「イタリアだけでも、少なくとも十四の俗語(<三σq⇔ユ鋤)がある」と数えあげただけでなく、それらは、さらにこまかい枝分れを示しながら、遂には「同じ町の中でさえちがっている」と指摘する。そして、「世界のこんな小さな一角だけでも、千、いやそれ以上の俗語の枝分れがあるのだ」(第一篇第一〇章)と感嘆してみせている。このような観察があらわれるのは、当時、まだ「イタリア語」すなわちイタリア国家語などというものが出現しておらず、国家語に従属する方言などという観念にしばられていないからであった。もちろん俗語と、それの枝分れという、俗語相互のヒエラルキーの考えはダンテの中に見ることができる。ここでは、むしろ、国家語的視野のせばめを受けない、限りなく分岐し、分立する諸俗語の並存的な関係に執拗なほどの注意がそそがれているのである。
 このような点からみると、ダンテの俗語というのは、ソシュールの言うidiome、あるいはそれ以前にさかのぼる、G・フォン・デア・ガーベレンツのEinzelspracheに相当する概念である。近代言語学の創始者たちは、イタリア語とか日本語とかの、超言語の虚構のくもりを取り去って、国語から解放された言語の概念にやっとのことでたどりつき、遂にはバーナード・ブロックによってイディオレ
〈22〉
クト(個人語)の底辺にまで降りてきたのであったが、このような認識は、またダンテのものでもあった。ただ、近代言語学は、国語を破る操作を経なければならなかったのであるが、ダンテの目の前には、いまだ国語は存在せず、無数の俗語の並存がむき出しのままあったのである。
 しかし、ダンテは、言語をこうして個人にまで達する窮極的な細分化へと追いやって、そこでとどまったのではなく、今日、いわゆるロマンス諸語における方言学的分類手段を適用する試みも行っていた。たとえば、「肯定の返事をするときに、ある者はオック(oc)、ある者はオイル(oil)、ある者はシ(si)と言い、これはすなわちスペイン人、フランス人、イタリア人である」(第一篇第八章)という風に。だが、このばあいダンテのもとづいた資料は訂正を要するのであって、オックは、プロヴァンス人とカタロニア人、シはスペイン人とイタリア人とすべきであった。これは、トゥルバドゥールからの影響を受け、俗語による詩作の霊感をそこから得たダンテとしては全くうかつと言うほかない。とはいえ、ここにはすでに、ラング・ドック(langue d’oc)とラング・ドイル(langue d’oil)との方言区劃が有効に利用されていることに注目しておきたい。
 こうして、異なる発音、異なる語彙は、かぎりなく俗語を分けへだてる。つまり、俗語はかぎりなく多様で異なっているという点が、それをグラマティカと分かつ根本的な特質となる。これらかぎり
〈23〉
なく異なる俗語は、またかぎりなく変化して行く性質をそなえている。

  同一民族の中でも、言語は時につれて変化し、決して静止できないものだから、相互に遠くへだたって住む者のもとではさまざまに変化する。それはあたかも、自然によっても共住によっても固定されておらず、人々の気分と土地の必要によって生じた風俗習慣が何通りにも変化するのに似ている。(第一篇第九章)

こう述べた直後に、ダンテは、「ここからグラマティカの技術(ラテン語)の発見者があらわれたのである。ラテン語は、時と場所のちがいをこえて変化しない言語の統一だからである」(同上)とつけ加えねばならなかった。
 求められるべき言語の統一と恒常性と、俗語の多様性と流動性という、この二律背反は、ダンテの俗語の主張にとって最も困難をはらむ点であり、また現代世界の俗語=民族語の主張者にとっても、最も困難な問題を課すものである。こうしてダンテは、不動の、しばりつけられたラテン語の存在の必然性を認めざるを得なかったのである。それにもかかわらず、ラテン語の恩恵に浴する者の数は極めてわずかであって、世界中どこでも、すべての人は、まず第一に、唯一のことばとして俗語を用いていて、それは生まれながらの、心のことばであるから、高貴なのであるとダンテは主張する。
〈24〉
 ダンテは、ラテン語を学ぼうとする者の動機が、貪欲さにあって、気高い心から出ているのではないことを次のように指摘している。

  ラテン語を知っているという者でも、それをきちんと使えるのは一○○○人のうち一人くらいしかいない。だからかれらはこのことばの恩恵を受けることもなく、貪欲に走り、そのため心の気高さ(nobilita d'animo)を失って、この種の食物を得ようとする。私は、この連中を文字知る人と呼ぶべきでないと言いたい。なぜなら、かれらが文字を手に入れるのは、それを使うためではなく、それを利用して金や地位(danari o dignita)を得んがためであるから。(「饗宴』第一の九)

 俗語、すなわちありのままの言語は、その概念じたいの中に、多様で、たえず変化するという性質を含んでいる。それはことばの本性=自然そのものに由来している。ここから、第三の、俗語の自然さについての論が生じてくるのである。
 ダンテの言う、グラマティカ(ラテン語)の人為性と俗語の自然さということを真に理解するためには、いくつかの予備的考察を加えておかねばならない。ここに言う人為的言語は、もっと進んだかたちをとると、人工言語といわれるものになる。そこで、近年、自然言語と人工言語という分類が行われることがあるが、これはちょっと考えてみると、奇妙なよび名である。
〈25〉
 まず第一に、自然とは人間の外にあって、人の手が加わっていないことを言うのだとすれば、言語は決して人間の外にある何かではない。人間が現われる以前からことばがあったと考えるものは誰もいない。じじつ、人々は、言語は文化の中心的部分であると言ったり、ことによると「言語それ自体が文化」(川本茂雄「言語と文化」『岩波講座 哲学』11)だとさえ言われたりもする。文化は人間に固有のものであって、人間なしに文化はない。ちょっとくどい言い方になってしまったが、ことばは決して自然に属することはないし、第二には、『ドイツ・イデオロギー』の中でマルクスとエンゲルスが言っているように(本書第Ⅳ章注30参照)、「生まれながらの姿のまま」今日につたわっている言語は一つもないのである。この点では自然言語などという形容矛盾は認められないのである。
 自然言語と対をなす人工言語は、もちろん、自然言語というモデルがないかぎり生じて来ない。ザメンホフがエスペラントを製造できたのは、かれが、かれ自身の母語のみならず、さまざまな自然言語を知っていたからである。いったい自分の母語しか知らない人間に、別の、全く架空の言語(符牒の体系ではなく)を製造しようという思いつきが生じるかどうかはうたがわしい。自分の身についた、ことばの「欠陥」は他のことばを見ることによって気づかれ、他のことばの「欠陥」の指摘は、常に自分のことばを基準にして行われるからである。
〈26〉
 いずれにせよ、どのことばを話す人にも学びやすく、どの特定のことばにもかたよらない中立のことば、このような理想言語の製造はたった一人の個人か、比較的少数の個人によって一挙に発表される。もちろん準備期間はあるとしても、せいぜい人の一生よりは短い時間でしかない。こうして一挙に生まれる人工語には歴史がない。じっさい、言語の平等のために、人はこの歴史なるものとたたかってきたのである。「長い、豊かな伝統の中で培われた文学語」などといって、その言語をかざるためにはすぐに伝統や歴史が引きあいに出される。だから、人工語の存在理由は、それが歴史を持たないところにもあるのである。つまり、一挙に、一瞬のうちに生まれ、いかなる私有財産(文学など)をももたない「歴史なき」言語こそが人類の平等のために求められねばならないのである。科学もまた、別の意味で、この「歴史なき」言語をたえず求めつづけてきた(本書第Ⅶ章参照)。
 「自然言語」は、たといそれが文字の記録を全く残していないばあいでも、一挙にして生まれたとは誰も思わないのである。文字の記録をもった「自然言語」の起源をたどれるかのように思いこむ人がいるが、たとえば、エスキモーの言語の起源と、それがいつ発生したかという設問は、一般に言語の起源論がそうであるように、解きほぐしがたい混乱を内にやどしながら、実証を拒否しつづけているのである。
〈27〉
 「自然言語」というよび名は、とにかく、人間の言語の性質を言いあらわすには適当でなく、この点ではたとえばE・コセリウの言語認識の基礎をなす「歴史(的)言語」というとらえ方のほうが、より人間言語の本質にせまっていると思われる。
 さて、こうしていま「歴史言語」という特徴づけの導入によっていわゆる自然言語、あるいは、言語の自然の重要な側面が現われ出ることになった。すなわち、それは言語の歴史性ということである。意図をもってしばりつけた、捕われの言語は変化しない。変化しない言語には歴史がない。変化とは規範の目から見れば、規範をのりこえて行くみだれである。ところで、規範とは言語そのものから生じたものではなく、人が言語の外から加えた選択、抑止である。規範の細部にわたっての知識をそなえているのは、文法によって、その一覧を得ることのできる言語的エリートであるが、素朴な話し手は、ただただ、話しやすさとか、気分にあっているとかによって、複雑なものを単純化し、不必要なものを廃棄し、一方では必要なものをとり入れたり強調したりしながら言語を変えていく。これらの過程は計画的、意図的ではなくて、いわば無意識のうちに行なわれる。規範への背反という意味では、みだれでしかないこの過程こそは、まさに言語を体系的に組みかえて行く、法則的活動である。そして、それが体系的で法則的であるということは、より自然な活動であることを意味する。
〈28〉
それにひきかえ、規範、ことばへのしばりは、体系をはるかにこえた、法則ではなく規則という意味において反自然の活動である。
 ダンテは俗語の中に、規範を破ってすすんで行く、より法則的で体系的なものを見てとった点で、プレスクリプションを排してデスクリプションのたちばに立った現代言語学の視点をさきどりしていたのである(本書第I章参照)。


3 俗語から国家語へ

 ことばが自然であるということは、そのことばの習得のために特別の時間を割く負担からまぬかれ、その集団のすべての人に理解されるということである。そのため、自然なことばは「金と地位」のためではなく、より「愛のためにふさわしい」とダンテは言う。『新生』の第二五節で、ラテン語ではなくて「オック語」や「シ語」でうたう「俗語詩人」が現われたのは、

  ラテン語の詩をよく理解しえない一婦人に自分の言葉を理解させようとの心からであった。そしてこれが愛以外の詩材を捉えて韻文を作る人達にとっては不利なのである、かかる表現の方法は
〈29〉
もともと愛を歌うために見出されたものであるから。(山川丙三郎訳)

と述べられているように、俗語は何よりも文学のために必要であった。
 だが、ダンテの俗語作品が永きにわたって手ひどい不評を買っていたことはよく知られている。俗語の敵は、ことに、古典に偏愛を示すル人文主義者[フマニスト]だった。ある人は、「ラテン語で書いてさえいれば、ダンテはギリシャ人やローマ人にもひけをとらなかっただろうに」と言い、ある人はまた、「ダンテの詩は、文壇とは全然関係がないのだから、いっそ革帯職人とかパン屋とか、この手の下司な連中の仲間に加えた方がいい」とこきおろしたという(Ph・ウォルフ『西欧諸言語の起源』)。ダンテの苦境は、『俗語論』そのものが、ほかでもない、ラテン語で書かれざるを得なかったということによくあらわれている。
 俗語文学が古典語文学を圧するには、まず圧倒的な数の俗語読者と、大量印刷手段の出現を待たねばならなかった。しかし、決定的な俗語の勝利は、俗語が俗語であることをやめて、民族語から国家語へと歩む段階においてたしかなものとなった。一九世紀から二○世紀にかけて、民族的独立と、諸民族による国家の所有の要求とは、絶え間ない国家語の分立と増殖をひきおこすと同時に、他方では俗語のすりつぶしと、規範俗語への吸収が行な
〈30〉
われた。ダンテとネブリーハは、ヨーロッパの文化的統一のかけがえのない要具であったラテン語を捨てさって、この行きつくところのない「諸言語の混乱」に道をひらいた人でもあった。
 こうして、苦闘の末、グラマティカのくびきを脱した一つ一つの母語、俗語は、やがては民族と国家の時代の中で規範を獲得し、あるいは規範によって排除され、規範俗語は国家語として、新たなグラマティカの番人を求めるに至ったのである。


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田中克彦 言語からみた民族と国家 あとがき

2024年03月02日(土)

本棚の奥から,田中克彦さんの本がでてきた.
ちゃんと読んだかな,自信はないけれど.

モンゴル語……,
そういえば司馬遼太郎さんも,モンゴル語の専攻ではなかったか.
ユーラシアを横断する大帝国だったんだな,と思い返す.

ようやく職を得て,働きはじめた頃の出版,
二度のオイルショックを経て,たぶん大きく経済のトレンドが変わっていくころだったんだな,
と思い返す.


―――――――――――――――――――――――――

言語からみた民族と国家
田中克彦

岩波現代選書

―――――――――――――――――――――――――



〈337〉

  あとがき


 ことばは人類に恵まれた、つきることのないちからであるとともに、その根源には、人々に越えがたい不平等と差別を刻みつけるはたらきをやどしている。それは、ことばというものが、一方において、自然や論理の法則にも似たしくみにもとづく合理的な組織体でありながら、他方では特定のことばだけをよしとして、それに批判を許さず、一方的な服従を強いるおきてにさせられるからである。そこで、むかしも今も、大多数の人々が思ってきたように、ことばが単におきてであるとすれば、そこには、「なぜ」という問いを発する余地はないし、また、なぜの問いが無意味なところに科学が生まれる必要はなかったのである。必要なのは規則であり、規則の理想は決して変ることのない文法であればよかった。
 通常のことがらだと、規則にはその規則の理由を説明できる背景があるが、ことばにはそれがない。つまり、ことばの規則は、ことばそのものの外にある何かに動機づけられていないから、ことばの規則には理由がないのである。理由のない規則は決して批判を許してはならず、そのような規則は超越
〈338〉
的な権威なくしては維持することができない。超越的な権威にささえられた、対象との関係で理由づけを持たない規則を、いま規範と呼ぶならば、ことばにはひたすら規範を求めるのが、ことばの学問、ことばのものしり学だと思われてきた。
 ところが、近代は地上のすみずみからさまざまな言語や方言の知識をもたらしたため、言語すなわち規範とは多様であり、かぎりなく変化する、相対的なものだということが知られた。また近代民族、近代国家の形成によって、既存の規範は新しい規範によって追放され、非規範が規範の座にとって代った。はじめて読み書きという習慣に参加しはじめた民衆――すなわち我々――は規範の最大の攪乱者であったのだ。近代言語学は、まさにこのような社会史的背景がなければ生まれるはずがなかったのである。つまり、言語学を科学にしたのは、不変の規則ではなく、言語が生きていて、とても規則などではおさえられないという、その度しがたい民衆的な性質の方である。規則は科学を必要としないし、むしろそれを拒む。
 「生きた言語」が「ミイラの文学語」を押しのけて、言語研究の首座についた一九世紀の雰囲気は、 たとえば次に掲げるフリートリヒ・ミュラー*の文章がよく伝えている。

  今や言語研究者のあいだには、次のような一般的な考え方で一致がある。つまり言語〔の本質〕と
〈339〉
いうものは、ちから萎えた文学語(いわんや辞書だの文法書だのの中でミイラにされてしまった文学語)の中にではなく、生み出すちからをもって話されるところの、民衆語の中によりよく現われるものであること。その民衆語は、きゅうくつな書物の中にではなく、刻々と、絶えず新しいちからをもって作り出される民衆精神のこころの中にやどるものであると。(『言語学入門』ウィーン、一八七六年)

ふつう学ぶねうちのあることばといえば、その知識を身につけていれば人から尊敬されもし、出世のたすけにもなる古典語、中央規範語、有力な文学をそなえた大言語であると思われているのに、名も知れない小さな種族のことばや、ささやかな方言に好んで接近する言語学の底には、一九世紀以来のこのような伝統がやどっているのである。それは、「植物学者の目には有用植物と雑草の区別はなく、動物学者には、有用家畜と野獣の区別はない」(F・ミュラー前掲書)という、生物学的自然主義をもしたじきにしていた。
 以上のような、外的価値判断から自由な言語という考えかたは、一面においては言語の非社会化を意味したのであるが、二〇世紀に入ると、ソシュールは言語を歴史という反民衆的既得財産から解放することにも成功した。その時のモデルは心理学であって、「話す大衆にとって、時間における継起
〈340〉
――〔つまり歴史〕――は存在せず」、時間を抜き去った共時態こそが、「真正にして唯一の実在」であるからだ。非社会化、脱歴史モデルの言語学は、心理主義に無効宣言をくだした北米諸学派によって、新たに行動主義の基盤の上にすえられた。以上のような言語学のあゆみは、それ自体としての言語を発見するという、するどい知的な冒険によって言語の本質に肉迫し、規範と偏見のくもりを人々の眼から拭い去るうえで大いに役立った。それは革命的とさえ言える達成であった。
 しかし、現実の言語は規範の支配下にあり、規範からはずれた地域や階層の出身者は、そのことでうむを言わさぬ差別を受けている。この差別は、「それ自体としての言語」のあずかり知らぬところではあっても、言語を契機として生まれた差別にほかならない。こうした現実を見て見ぬふりをする「それ自体としての言語」の学をのりこえて、社会現象としての言語をとらえる作業が、最近になって意識的にすすめられてきた。その背景には、話す生物としての人間に普遍的な言語能力を認めるにとどまり、その発露が社会的要因によっていかに差異をうけているかには目もくれない、またもや生物学モデルのチョムスキー理論への批判もあった。
 社会言語学と称されるこの学問運動は、しかしわが国に輸入されたとき、それ自身の中に、陳腐で迎合的な、はてしのない、どうとでも言いっぱなしの評論家用言語学、つまり、個人的な趣味の上に
〈341〉
偏見を繁茂させることば談義におちいるたねをいくつもやどしていた。だからこの新しい学問運動が充分にそのするどさを発揮するためには、「それ自体としての言語」の学が、あの過激な諸テーゼをたずさえて、かつて規範とたたかった、そのあしあとを見失なわぬよう心していなければならないのである。そのためには、言語学というものを技術としてではなく、思想史の脈絡のなかで、しっかりととらえておく必要があるのである。
 日本において、言語学は高度な知的関心の一項目になっているように見うけられるが、そこは、めずらしい知識や気のきいた分析術の開陳の場という域を出ていない。それに乗じてか、最近の物質的繁栄による充足感に酔って、水ぶくれした知的鈍麻が、偏見とたたかってきた言語学の、そのするどいきばを抜きにかかっているように思われる。
 本書を執筆した動機は、言語学を学界的に死蔵しておくのではなく、生きた科学として、それにふさわしい意味を帯びさせたいという私の年来のねがいから発している。いま私がせつに願うことは、まじめな言語研究が、ことばについての偏見の由来を歴史の種々相においてあきらかにし、それを打ち破り、疎外された人々の解放にむかう回路を発見することである。それは、研究という、極めて人間的ないとなみが、かならずそこに到達しなければならない地点でもある。言語や言語学そのものは
〈342〉
中立的であっても、それを使う人間や、使わせる社会だの国家だのは決して中立ではない。また、学問はそれを生かす人がいないかぎり、生きたちからを発揮しないのである。

   *ちなみに、一九世紀の言語学史には、二人のミュラーが登場する。シューベルトを数々の曲想にさそった、冬の旅、水車屋の娘の原詩作者ウィルヘルム・ミュラーの子、フリートリヒ・マックス・ミュラーは、サンスクリット学者として、また広く読まれた言語学の著作によってよく知られているが、ここに述べるフリートリヒ・ミュラーは、それほど知名の人ではないとは言え、未開の諸種族の小さな言語の探求に深くわけいった、当時としては勇敢な研究者であった。かれの評価については手きびしいソシュールも、「地球上のほとんどすべての言語をものにしている」と驚嘆している。


 序章を除くすべての章は、主として雑誌『思想』と『展望』に発表したものである。その一つ一つの成立には、それぞれの掲載誌の編集者からの、心あたたまる励ましがあったことを忘れるわけには行かない。いまそのことを記憶によみがえらせながら、以下にそれらの初出を示す。

I 恥の日本語  『展望』一九七六年九月
Ⅱ 言語学としての柳田学  『現代思想」一九七五年四月
Ⅲ エリートの国語  『展望』一九七七年一一月
〈343〉
Ⅳ 言語から見た民族と国家  『思想』一九七四年一〇月
   ――カウツキー再読――
Ⅴ ソ連邦における民族理論の展開  『思想』一九七五年五月
   ――脱スターリン体制下の国家と言語――
Ⅵ 国家語イデオロギーと言語の規範  『思想』一九七七年九月
Ⅶ 固有名詞の復権  『展望』一九七七年三月


 以上の諸篇を一冊にまとめるにあたって、かなりの部分を新たに書き加え、さらにダンテの俗語を書きおろして序章とした。したがって、本書中ではこれが最もあたらしい到達点を示しており、ロマニストでもない私が、どうしても視野にとりこみたいテーマであると考えて、無理をしたところである。これら諸章のうちから第Ⅳ章の原型となった論文の題名をとって、本書全体の題名にしたのは編集担当者、大塚信一さんの発案によるものである。
 『思想』と『展望』では、扱った材料もちがうし、論述のすすめかたもちがう。しかし両者は相補う性質のもので、著者の考えを理解する上できりはなせないものだと強く主張したのは、『思想」編集部の合庭惇さんであった。本書において、その趣旨が充分に効を奏するよう願っている。その際、常に私を挑発して書かせた『展望』の編集者が、この趣旨を汲んで収録を許されたことに深くお礼を
〈344〉
申しあげねばならない。
 本書の中には、いまげんに、ことば議論の主役、端役である、さまざまな方々に登場していただいた。それをたびたび引用させていただいたのは、現代日本における知的世界の代表者たちの言語意識を知るためのモニュメンタルな見本であると評価したからである。これらの論著は、著者がさまざまな方向に思索をのばして行く動機を作ってくれたのであった。巻末には人名索引のみを付した。それは、私がもしかして外国人名をただしく読んでいないばあいを考えて、もとの綴りを知っていただくためでもある。
 最後に、モンゴル研究者として出発した私が、なぜ言語のこのような側面に深い注意をむけるようになったかというしだいは、本書にもたびたび引用した『言語の思想――国家と民族のことば』(日本放送出版協会)に一端が述べられているので、それをも併せ読んでいただけたらと思う。

一九七八年六月二二日
著者

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満開の桜並木、今年はさっぱり 「切りすぎ」の苦情に名古屋市は?……

2024年02月28日(水)

朝,うるさいな,と思ったら,
造園業者が入って,樹木の剪定をやっていた.

買い物に行く道の街路樹は,いつからだろうか,葉を落とした秋冬,まるで電信柱のような姿を見せる.こんな強い剪定をするようになったのは,そんなむかしのことじゃないように思い返す.

いや,そうでもないだろうか,
もう30年以上前だったか,仲間うちの議論のなかで,街路樹の剪定が話題になったことがあった.
そのころ,豊橋だったか,市長が街路樹の「無剪定」を市の方針として打ち出していた.
(あるいは,別の自治体だったろうか.)
街路樹が枝を伸ばしすぎて,電線類の邪魔になるとか,信号が見にくくなるとか,そんな理由から街路樹の剪定が行われていたわけだ.それでも,今のような強い剪定があったか,あまり記憶にない.
で,その自治体の場合には,必要なら,電線類の設置をもう少し高い場所にするとか,信号機の設置場所を再検討するとか,そういうことを話されていたように記憶する.

近くの街路樹,たぶんユリの木らしいけれど,太い幹が途中からチェーンソーで切り取られ,しばらくすると,切りとられた付近から蘖(ひこばえ)のような小枝がたくさん生えてくる.
夏に向かって,さかんに葉を茂らせるようになると,秋冬の電信柱のような樹形は見えなくなるのだけれど,なんだかなぁ,ちょっと切なくるとともに,じつはひとの背丈のぐらいの枝が払われていないことに気づく.

街路樹は,たんなる装飾ではなかったのだと思う.
街並みの景観のためにだけ,街路樹があるわけじゃないだろう?
夏の熱い日差しを和らげ,ちょっとした雨ならば,すこしばかり雨の勢いを殺してくれる.
とくに地表がどんどんアスファルトやコンクリートに覆われてきた都市部にあっては,やはりとても貴重な「自然」じゃないかと.

さいきんテレビの番組で,庭師の仕事を取りあげていた.
足立美術館の造園の考え方とか,桂離宮だったか,それぞれの庭園整備の考え方が語られていたけれど,いずれも,街路樹のあの太い枝すら切り落としてしまうような,そんな剪定はやっていなかったな,と思い返す.
どうしてこんなふうになったんだろう,と.

神宮外苑の街路樹伐採問題とか,千代田区の道路整備にともなう街路樹伐採とか,
なんだかな,と思う.

記事のなかに,落ち葉などの処理の苦情も出てくる.
多少の理解をしたいとは思うけれど,道路管理者の責任でやらせるべきじゃないのか,と思う.
金がかかる,というのだろうな.しかし,街路樹を整備するということは,長期的にそういうコストが生じるということでもあったはずだ.
剪定作業にかかる経費のいくぶんかを,そうした道路環境の維持に振り向けるとか,そんなことは考えられないだろうか.

こんな強い剪定で電柱のような街路樹をつくるんだったら,いっそ,電柱を緑に塗りたくってしまえばいいじゃないか……とか,
いや,ビッグモーターこそが先駆者だったりとか,ちょっと悪態をつきたくなることもあるのだけれど.
そういえば,街路樹だけでなく,公園や緑地の樹木まで強く剪定されているのを目にすることもある.なんなのだろう

谷口ジローさんの漫画に,街路樹じゃないけれど,ある空き地になった宅地の大きな木が出てくる.
その木の,木陰に横になっていると,むかしの記憶が呼び起こされるような,そんなストーリーじゃなかったかと思うけれど,
樹木の,そこだけちょっと自然を感じさせるようなところを思うことがある.

そういえば,国立市で,学校の建て替えで,それまでのさくらの木が伐採,除却されるということが話題になったのだそうだ.
運動場なんか狭くたっていいから,もっとたくさんの樹木や草花を植えたらどうか,などと思ってしまう.


―――――――――――――――――――――――――

満開の桜並木、今年はさっぱり 「切りすぎ」の苦情に名古屋市は?
土井良典2023年3月15日 19時30分

 早咲きのオオカンザクラで有名な名古屋市東区の並木道。例年は見物客で渋滞が起きるほどだが、今年は落胆の声が聞かれる。道を覆うほどの枝ぶりがすっかり払われたからだ。桜を管理する市は「往来の安全確保のため」というが、見る者の心は花盛りとはいかないようで……。

 並木は、東区の泉・白壁地区を南北に走る市道約1・4キロの両側に、約140本が植わっている。例年、満開の桜がアーチのように見る人を出迎え、区も開花情報をSNSで発信してきた。

 「名古屋で一番早く咲く桜を植えてほしい」。区によると、1961年春に地元から要望が寄せられた。並木は市の所有だ。

 しかし、時の経過とともに状況は変わった。東土木事務所維持係によると、伸びた枝が背の高いバスやトラックなどに当たっていたという。そのため、「桜を傷つけず、倒木を防ぐためにも剪定(せんてい)が必要」と判断した。

 昨夏、140本のうち樹齢が長い南側の47本の枝を落とし、生育の悪い数本は抜いた。どの枝をどう切るかは市の職員が判断し、剪定後に樹木医にみてもらった。土木事務所には、ここまで本格的な剪定の記録は残っていないという。

 今年の花の量は例年の2~3割ほどの印象だ。枝と枝の間からは空が見通せる。

 14日、並木を訪れた人はみな驚いていた。「えー、と思った」「サクラは伸び放題だからきれいなのに」「一番見どころの場所を切った」「邪魔になっている所だけ切るとか、もう少し段階的に切るとか、別の切り方があったのでは」

 区役所にも毎日のように苦情が届くという。区役所のある職員も「木がさっぱりしすぎてびっくりした」と言う。

 土木事務所の担当者は「地元で愛されているのは承知している。切らないで済むなら私たちもそれが一番」とした上で、「道路脇にある以上は剪定のタイミングが来る。ご理解いただくほかない」と話す。

 近隣の住民の中には剪定を歓迎する人もいた。ある男性は、落ち葉や散った花びらが排水溝にたまって詰まらないようにボランティアで掃除をしているという。その量は半年ほどでゴミ袋で約50袋。「落ち葉は本当にすごい。文句は言わなかったけど我慢の限界に来ていたのは事実。景観か? 暮らしか? それは賛否両論だよね」

 別の樹木医の男性は、並木の写真を見て、「管理者として切るのはわかる」とした上で、「切るタイミングは葉の茂った夏ではなく、木にエネルギーがある芽吹く前か、花が咲いた後がいい。他の街路樹のように樹幹からばっさり切るよりも、もっと枝を選んで切るやり方はあった」と話す。見る側にもこう呼びかける。「花を管理するのは大変。見る側もただで楽しむのではなく、市や周辺住民の苦労に関心を寄せて、みんなで桜を育てる視点が大切ではないか」。肥料をしっかりと施せば、2、3年で樹勢は回復するとみる。(土井良典)

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テレビ時評 いつか迎える最期をありのままに ドラマ『お別れホスピタル』 西森路代







いつか迎える最期をありのままに ドラマ『お別れホスピタル』
2024年2月10日 6時00分

テレビ時評 西森路代

 「お別れホスピタル」(NHK)は、一度来たら元気になって退院する人はほとんどいないという療養病棟が舞台のドラマである。原作・沖田×華(ばっか)、脚本・安達奈緒子というコンビは「透明なゆりかご」と同じ組み合わせで、音楽の使い方や演出にも共通する空気感がある。

 ドラマの冒頭、主人公で看護師の辺見歩(岸井ゆきの)が明け方の海辺でひとり煙草(たばこ)を吸おうと車を止めるが、強い風によって持っていたチラシが吹き飛ばされてしまう。そこにいたのが、古田新太演じる本庄昇であった。後日、本庄が末期がんの患者として病棟にやってくる。

 若い頃は会社を経営し豪快な人生を歩んできた本庄は、自分が末期がんであることが受け入れられず、病院でも煙草を吸ったりするお騒がせな患者だった。そんな彼は、最後にモルヒネで自分のことがわからなくなっていくことに不安を感じていた。彼が言う「自分の人生は自分で決める。それは健康だからできてたことなんだよな」という言葉が心に残る。

 一方、辺見の実家には心を病んで引きこもっている妹がいる。彼女は姉に「生きたくても生きられない人もいるって」「でも、生きるのがつらい人間にとっては、楽になれてうらやましい」と話す。

 誰もがいつかは受け入れないといけない死について、ありのままを描いているこのドラマには、答えが明確にあるわけではないが、はっとするセリフがたくさんある。それと同時に、人生の最後に濃くなっていく感情や、人間同士の深い部分が繫(つな)がったような瞬間が刻まれていて、見終わった後にしばらく動けなくなるほどの力があるのだ。(ライター)
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鉄道旅行?……(歴史のダイヤグラム)見直される夜行列車、復活を 原武史

2024年02月10日(土)

いろいろ思い出しながら記事を読む.
長崎本線各駅停車で,よく父親の実家に行った.
地図で見ればわずかな距離じゃないか,問いまでは思うけれど,
小さなこどもにとっては,学校の遠足どころじゃないのだから…….
途中にスイッチバックの駅があったり,
蒸気機関車に煙でたいへんなトンネルがあったり,そう,記憶が間違えているかもしれないけれど,トンネル内に勾配があって,それもトンネルのなかにピークがあるとか,そんな話を聞いていた.列車がトンネルにさしかかると,乗客は急いで窓を閉めるのだった.

中学に入ってまもなく,父親の転勤で,東京に転居することになった.
たぶん,急行雲仙に乗った.2等の座席,ケチだな,なんて思わなかったが,
しかし,いまから考えれば,東京までむかしのあの座席だ.
たまたま父親の知人が寝台車に乗っていて,しばらくそのベッドを借りて眠った,たぶん.
当時,どのくらいかかっただろうか,
丸一日,ネットでむかしの時刻表を見ると,夕方6時ころ長崎発,6時半頃東京着とある.
東京着がそんなに遅かったか……,もう少しはやく到着したような感じが残っていたのだけれど.

中学校の修学旅行は,京都,奈良.品川発の修学旅行専用列車だった.座席は3人掛け,2人掛け.新幹線ではなく,在来線.
床の上にひっくり返って寝たりしていたか.

祖父が死んで,両親が長崎に行った.特急さくらにでも乗ったのだろうか.記憶にない.
親のいないあいだに,好き勝手をしたかどうか,覚えていない.

伯父と長崎に行ったことがあった.いつ頃だったか,新幹線で博多まで行った記憶があるから,1970年代の終わり頃,けっこう時間がかかるな,と思い,そして座席が狭いな,と思った.座席の横幅はいまと変わらないだろう。とすると,前の席とのあいだがいまより狭かっただろうか.
博多で特急に乗り換えて長崎に向かった.朝,東京を出て,夕方,長崎に到着.速くなったな,と思うが,それ以上の感慨があったかどうか.たぶん叔母の結婚式だったと思う.浦上天主堂で挙式.神父が関西弁で説教,相手がカトリック信者ではなかったと思う.聖歌隊はいなくて,ラジカセから聖歌が流れてきたか.

その前後,いつごろだったか,当時宮崎に住んでいた叔母を訪ねた.
長崎に里帰り,それから宮崎に向かったが,鉄道のダイヤがうまくいかない,まぁ当然か,それで長崎から博多へ行き,宮崎までは飛行機を使う.
帰路,宮崎から特急富士を使う.ちょっとあいまいな記憶だけれど,2段ベッドだった.ベッドの幅も少し広く感じられた.

就職する前だったか,あるいは就職して間もない頃だったか,こちらは留年していたので,前後関係がちょっとあいまいだけれど,東北に旅行した.
先に就職したゼミ仲間が札幌勤務になっていて.青森で,彼に連絡したのだったか,青函連絡船で北海道へ.
だいぶん記憶があいまいだけれど,札幌でゼミ仲間に会い,そのあと稚内行きの夜行急行だったか,寝台車に乗った.朝,稚内に到着したのだったか,とても記憶はあいまい.しばらく稚内に滞在して,そのまま今度は旭川へ.
どんなふうに帰ってきたか,あまり覚えていない.
まだ長距離の列車が走っていた,当然それを使っただろう.各駅?急行?特急? たぶん急行かな.

就職した頃から,国鉄の民営化に向かって?ダイヤから優等列車が減っていった,新幹線に置き換えられた?
90年頃,広島に出張することになって,同行するスタッフに無理を言って,急行銀河だったか,夜東京をたって,朝新大阪着,そこで新幹線に乗り換えて広島.

在来線を使う鉄道旅行や出張はなくなっていった.
周遊券なんてのも,いつごろだろうか,なくなってしまった.

内容は忘れてしまったけれど,台湾の鉄道事情に関する新書を読んだ.
面白かった.
同じころ,どこから仕入れたか,ヨーロッパで鉄道の営業距離が伸びているとか…….

テレビの旅物の番組に,鉄道がよく登場するようになったな,と感じるようになったのは,いつごろだったろうか.その前からあったのかもしれないが,「遠くへ行きたい」なんて歌があり,そんなテレビ番組もあったのだから.
……

そうだ,1969年秋,みんな終わってしまったような気分で,山陰にいった.
ちょっと思いだしてみよう.


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(歴史のダイヤグラム)見直される夜行列車、復活を 原武史
2023年12月23日 3時30分

[写真]西鹿児島発東京行きの寝台特急「富士」=1979年4月23日、東海道本線の三島―函南間、原武史氏撮影

 5月25日にベルギーの首都ブリュッセルとドイツの首都ベルリンを結ぶ夜行列車が走り始めたのに続き、12月11日にはフランスの首都パリとベルリンを結ぶ夜行列車が9年ぶりに復活した。

 欧州では、格安で乗れる航空機が増えたことでいったん廃れた夜行列車が、見直されつつある。2021年12月には、パリ―ウィーン間に14年ぶりに復活した。いまではウィーンから欧州20都市に向けて走っている。

 背景にあるのは、「飛び恥」(フライト・シェイム)という意識の広がりだ。温室効果ガスを多く排出する航空機での移動を恥じる一方、排出量が少なく、ゆったりと移動できる夜行ならではの旅が見直されているのだ。

 日本ではどうか。現在走っている定期の夜行列車は、東京と高松・出雲市を結ぶ特急「サンライズ瀬戸・サンライズ出雲」しかない。東京や大阪から九州、東北、北海道などに向かっていた夜行は、全廃されてしまった。

 東京と九州を結ぶ夜行として最後まで残っていたのは、東京―熊本・大分間に走っていた特急「はやぶさ・富士」だった。この特急が09(平成21)年3月のダイヤ改定で消えることが発表されると、NHKのニュースにも取り上げられた。

 驚いたのは、熊本県八代市出身の八代亜紀さんが、ニュースで夜行の思い出を語っていたことだ。ぜひともお会いして、直接話をうかがいたいと思った。その願いは、「夜汽車と演歌と人の情……」(『中央公論』10年11月号)でかなえられた。

 八代さんは、地方コンサートのため乗った夜行で過ごした時間がいかに豊かだったかを力説されつつ、「東京―九州間の寝台特急を、もう一度走らせることはできないものでしょうか?」「これからは“リタイア組”がどんどん増えるわけでしょう。寝台特急で九州に旅したいという人は、たくさんいるんじゃないですか」などと夜行復活への思いを語られた。

 それから13年が経ち、八代さんの言葉はいよいよ現実味を帯びている。時代がようやく、スピードだけを売りにしないサービスを求めるようになってきたからだ。

 インバウンドが拡大すれば、「リタイア組」ばかりか外国人にも夜行列車が広く受け入れられるだろう。いや日本人の出張族にも、夜行復活は朗報になる。

 なぜならいまや、東京でも地方でもホテル代が高騰しているからだ。欧州のように車内設備を充実させれば、夜行列車のイメージが変わる可能性は十分にある。あとは鉄道会社がいかにスピード一辺倒を脱し、時代の変化に応じたサービスができるかどうかにかかっている。(政治学者)
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羽田空港の航空機同士の衝突事故……国交労組「管制官大幅増を」 羽田の事故受け声明

2024年02月07日(水)

新聞の社会面に,小さな記事があった.
ちょっと気になっていた,事故のあと,ひとつはJALの人員配置に言及する記事があった.
「非常口+1」人の客室乗務員の配置,とあった.
そのときに,管制官の要員配置に問題がなかったか,そんな問題提起の記事があったか.
あるいは,赤旗あたりの引用だったか.
その後,飛行ダイヤの増加に対応する航空管制官の配置に疑問を投げかける記事があったか,と思う.
デジタル化で凌ごうとか,それはそれでまた別の問題を引き起こしそうにも思う.

保育施設での乳幼児の事故が報じられると,きまって保育要員の頭数が問題になる.
ついで保育士資格の保有者不足が報じられる.
有資格者がいればいいわけでもなさそうだな,と思う.
が,その議論の前に,そもそも要員の配置に問題があるのだろうが,
設置者側にとっては,人件費は,頭の痛いコストなのだ.できるだけ減らしたいと思っているのだろう.
別に保育に限定しない.
上の管制官でも同じだろう.

製造業の現場などがどうなっているか,よくは知らない.
それでも,デジタル化で対応可能なことがすべてではないだろう,と思う.
資格があれば,それだけで熟練工になるわけではないだろう.
対人サービスでも,同様なのだろう.

記事だけを読めば,労働組合の要求は,相応の妥当性を持つように思う.
それで,平素から労働組合がどんな要求を掲げ,
それとどうじに現場で,どんな取り組みをしてきたか,あるいは「当局」とどんな関係を作ってきていたか,現場の職制と現場の組合活動は,どんなふうになっていたか……,
まぁ,当たり前のことが気にはなる.


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国交労組「管制官大幅増を」 羽田の事故受け声明
2024年2月7日 5時00分

 東京・羽田空港の滑走路で日本航空(JAL)と海上保安庁の航空機同士が衝突、炎上し5人が死亡した事故を受け、国土交通労働組合は6日、安全体制を強化するために「早急に航空管制官の大幅な増員を実現するよう強く求める」との声明を出した。

 声明は、羽田空港などを発着する航空機の数が急増している一方で、全国の航空管制官の人数が2千人前後から増えていないことから、「1人当たりの業務負担が著しく増加している」と指摘した。

 事故を受け、国交省が、滑走路への誤進入を常時レーダー監視する人員を配置することにしたが、増員はなく役割分担で対応する点について「管制官の疲労管理の側面から問題視している」とした。

 また、刑事責任を追及することによって事故当事者が黙秘権を行使すれば、真実が明らかにされないとして、同労組の山崎正人・中央執行委員長は「再発防止に寄与しない結果となり、悲惨な事故が繰り返されかねない」と懸念を示した。(矢島大輔)
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立岩眞也 1960-2023  現代思想 2024年3月臨時増刊号







現代思想
2024年3月臨時増刊号


総特集 立岩眞也 1960-2023

目次

学問と研究に求めること   
8 立岩真也  生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

遡り、探し、辿ること  
  18   栗原彬     はやく、ゆっくりの「唯の生」
     23   山田真     立岩さんの思い出つれづれ
     29   大澤真幸    私たちは同じところをめざしてきた――違う道から
     35   川本隆史    文体の革命と生存の肯定――立岩真也から“もらったもの”
    52   森岡正博    抗して生きる意志としての生存学――立岩真也を追悼する
    57   酒井隆史    立岩真也さんのそう多くはないおもいで
――二〇〇三年-二〇〇七年頃

「正しい」とされることを問うこと
    62   稲葉振一郎   『私的所有論』再読
    79   中倉智徳    私的所有と相互所有
    85   島薗進     困難な生から学ぶいのち尊重の洞察
                  ――立岩真也と日本の生命倫理論
    91   杉田俊介    凌駕不能的自然、あるいは、他者にとってもまた
                  私自身にとっても他者であるような自己
    99   福島智     立岩は、一〇〇年後も読まれる
     106   渡邉琢     立岩さんの「他者論」と自立生活運動の課題
                  ――『私的所有論』を軸に

生の技法から考えること   
  114   岡原正幸    立岩へ、早いじゃないか
                  ――『生の技法』という生の技法を生きる
    120   尾中文哉    立岩真也を「生の技法』で語ることができるのか
    127   島影圭佑    生の技法としてのデザイン、そしてデザインアクティビズムへ

書くこととことばをつくること
    137   小川さやか   立岩文体の感染力――生きて在る運動の基盤として
    144   福嶋聡     立岩真也の、納豆のような文体
    149   やまだようこ  あの一言を語り直す
    152   長見有人    誰の、は本当はたいしたことじゃない
    159   高橋淳     〈私が〉もらったものについて
    165   天畠大輔    お前そんなことで悩んでんじゃねえよ

介助/ケアを行うこと、そして働くこと
    171   岡本晃明    京都の路地――透けゆく声と立岩さん
    179   長谷川唯    人と人の間の日常をつないで生存の方途を照らす
    185   桐原尚之   立岩真也について――京都での一〇年間を振り返る
    192   葛城貞三   志を継いで歩み続けます
    200   土屋葉     家族と愛とケアについて
    206   美馬達哉    ケアから労働をみる――解釈労働論のためのメモ
    213   堀田義太郎   反差別と分配――『私的所有論』第八章によせて

生きて存るを学ぶということ     
    223   大谷いづみ   立岩真也さんと生存学のこと
    229   田島明子    立岩真也先生の文章は残り続ける
    235   勝村久司   「優しすぎた改革者」が変えようとしていたものは何か
――立岩真也氏を偲ぶ
    242   橋口昌治+坂井めぐみ 
ありがとうございました。

フェミニズム/ジェンダーから問われること
    247   安積遊歩    アルコールの魔界にのみこまれ、逝ってしまった君へ
    254   山森亮     忘れられたフェミニズムの歴史のなかのベーシックインカム
    261   村上潔     立岩真也のフェミニズム批判は何に起因していたのか
――初発の段階からの小考
    268   吉野靫     立岩真也がそこにいた

記録と記憶をつなぎ、手渡すこと
274   田中恵美子   立岩真也の仕事
――障害者運動を“つなぎ”、歴史を築く。そして人を“育てる”
281   大野光明    交差と流動
――一九六〇・七〇年代の障害者・病者の運動史/運動論をめぐ
って
289   山本崇記    差別を論じる現代史へ
295   荒井裕樹    運動史の損失――立岩真也のいない世界
301   池田光穂    しんや君との真夜中の対話

ともに生きること、その先を生きること
309   青木慎太朗   情報保障――立岩真也の/と歩んだ途
315   小林一三    楽園づくりの途中で
319   鄭喜慶     日・韓共同で世界障害学大会開催を夢見ていた立岩真也先生
322   伊東香純    アフリカの精神障害者の社会運動を詳しく調べることの意義
328   猪瀬浩平    防波堤のなくなった、生の溢れる世界で立岩真也さんの死を悼む

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ローカル線の経営?いや,廃線?…… 「芸備線「再構築協議会」3月に」とか

2024年02月04日(日)

昨日の新聞記事.
また,一つ消える?
あるいは,第3セクター?
いずれにせよ…….

いまでも,国鉄民営化の争論を思い出す.
なんだろう,戦後,電力でもあったらしいけれど,
そう,発送電分離.
鉄道ではどうだったか,忘れた.
上下分離,あったように思うのだけれど.
JR東海の葛西敬之さんがどこかで語っていなかったか,
とにかく組合対策が最優先だった,とか.

ヨーロッパで,鉄道の線路が延伸されているとか,
そんなことを聞いたのはいつごろだったか.
実際のところはどうなんだろう,とは思ったけれど,
そのときの解説は,上下分離方式だったように記憶するが.

北海道や四国など,
いや東海だって,新幹線をのぞけば,
商売としてはとても難しいとわかっていて,それでも分割民営化が強行される.

労働組合が正しかったなどとはまったく思っていないけれど,
「交通」が,どれほどの重みを持つものか,とは思う.
そういえば,郵政民営化でも,とても心配だった.
来年の年賀状はどうしよう,なんて思ってしまうが.
新聞記事をちゃんと読んでいないのだけれど,NTTもちょっと気になるな…….
国が,3公社などの「経営」を,ただ放棄しただけだったのではないか,とも思う.

どうだったろうか.

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芸備線「再構築協議会」3月に
2024年2月3日 5時00分

 広島・岡山両県を走るJR西日本・芸備線の一部区間(備後庄原―備中神代間)の存廃などを話し合う「再構築協議会」の第1回協議会が広島市内で3月26日に開かれることが決まった。国土交通省が2日に発表した。ローカル線をめぐって、「再構築協議会」が設置されたのは全国で初めて。

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