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<卓上四季>愛国者

2023年07月07日(金)

そんなこともあったな,と思い出す.
小さなバリケードをつくって,立てこもった,というより,校門の飾りみたいだったか.
学生服の小柄な男性に呼び止められて,「○○はいるか」と聞かれた.
えっ,それ俺のことだな,と思い,ちょっと怪しそうだな,と思い,
それで,「いま,どこにいるか知らない」とでも答えたのだったか,
そうしたら,ひとりで校庭に入っていった.
ちょっと怖い,というか,背筋に一筋小さな汗が流れるような感じだったか.
ちょっと経って校庭に行った.
人の輪ができていて,そのなかで学生服の男性がいて,友人と話していた.
どんなやりとりをしていたか,覚えていない.
しばらくして,おとなしく帰って行ったのだろうか.
友人に聞くと,彼が持っていたのは,ノコギリだったという.
……あれで切りつけられると,傷口が面倒くさくて,たいへんなんだよ,
などと教えてもらった.

鈴木さんのお話とはまったく関係がないか.
いや,この小柄な学生服もまた,「愛国者」だったのだろうか.
じゃ,僕の友だちは,「反・愛国者」だったろうか.

レッテルを貼るのはやめよう……ということだったかもしれない.

そういえば,唐牛健太郎さんは北海道の産,
そしてん,西部邁さんも北海道の産だった,
だから? というわけでもないけれど.

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<卓上四季>愛国者
【北海道新聞】2023年1月31日 05:00

忌野清志郎さんのパンク風「君が代」が物議を醸した時、評価したのが先日亡くなった民族派団体一水会の元代表鈴木邦男さんであった。国の愛し方は一つではない。むしろ上から強制して一つの型にはめる方が危ういというわけだ▼君が代のメロディーには五つの試案があった。中には賛美歌風のものもあった。君が代や日の丸がなくても国は愛せる。戦渦の血で汚されたうしろめたさを持っているくらいの方がちょうどいいと、音楽家坂本龍一さんとの対談で話していた▼血気盛んなころには抗議行動で逮捕されたこともあったが、筋を通す憂国の志だった。だから、国土を破壊する原発に反対し、人権の観点から慰安婦問題を論じた。むやみに敵対心をあおり、やたらと武力を信奉するまがいものとは対極にあった▼賛否が割れる法案が次々と成立する中で懸念したのが米国への隷属を強める国の行方だ。対米協力の軍事力を増大させ、いつか米国のための改憲に突き進むのではないか。その懸念は現実のものになりつつある▼「真に国を愛するということが、たとえ最後の一人になっても勇気をもって真実を語り、理想を述べることにあると信じる点では私たちは完全に一致している」。東日本大震災後、脱原発集会で鈴木さんに出会った坂本さんの言葉だ▼この国はどこへ流れていくのか。「愛国心」があふれる社会に一層募る不安である。2023・1・31
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〔私見卓見〕 アルコール依存症からの脱出法 会社員 松本雄三

2023年07月07日(金)

ようやく就職して,しばらくして高校時代の同級生が別の部署にいることを知った.
これもちょっともおもしろかったのだけれど,ある部署に、彼もふくめて3人,
そう,ひとりは高校の同級生,ひとりはちょっと年上の大学のゼミの先輩,もうひとり,高校の先輩で,かつ大学の先輩,ゼミなどの関係はなかったけれど,偶然ではあったけれど,
その彼と,会うことがあった.そのころ,まったく知らなかったのだけれど,彼はお酒を切らせることができなくなっていたらしい.
なぜお酒を縁を切ることができなくなっていたのか,知らなかった.
それでも,なんとかアルコールと縁を切る努力をはじめた.なにかきっかけがあったかもしれない.

人のことは言えない,お酒とは縁を持つまい,と思っていた.父親は酒乱の気配があった.若いころ,いろいろお酒で問題を起こしたことがあったようだ.
その父親を鏡として,酒は駄目,と思っていた.
でも,高校に通い始めて,たぶん2年生になってからか,お酒を飲むようになった.
その前にタバコも覚えた.さいしょ安くて軽いタバコを吸い始めた.そのうち,安くてちょっと強いタバコを吸うようになった.周りにも喫煙者が多かった.学校の校庭で片隅に,いつもタバコの吸い殻がたくさん落ちていて,気の優しい体育の教師がほうきを持って片付けていた.
お酒に溺れそうになったことがあった……そんな時期があった。
仕事にありついてからも,お酒で大失敗しそうになったことがあった、と記憶する.
首になってしまいそうな,そんな危ない道を歩きそうになって,
それで,すこし自制するようになっていった.
そんなころ,彼のアルコール依存について,ちょっと考えていた.
知り合いの管理職のもとに異動したので,その人に面倒を見てくれるようにたのんだ.
そのころから断酒会に通うようになった.いや,断酒会に通う,ということで,地理的にその職場を選んだのかもしれない.上司は、それなりに配慮してくれいるみたいだった.
そして,なんとかお酒を断つところまでったようだった.
職場を変わっても,お酒を断っていた.そして,断酒会のお手伝いをしている,と聞いた.
しかし,たぶんお酒の影響は彼のカラダに深く刻み込まれていたのだろうと思う.

元気にしているものとばかり思っていたら,訃報が届いた.
通夜に行って,はじめて彼が老いた母親とふたりで生活していたことを知った.
高校のころからそうだったのか,知らない.個人の事情に深入りしない……ということでもなかったけれど,彼から、自身のことを聞くことはあまりなかったように記憶する.
校内雑誌の編集部にいて,ちょっと理屈っぽい印象はあったが,
彼よりもアルコールと親しい奴はもっとほかにいたし,理屈っぽさじゃ負けないような多くがいると思っていた.

その後,老いた母親がどうしたか,知らない.
通夜の後,しばらくして届いた挨拶状だけが残っている.


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〔私見卓見〕 アルコール依存症からの脱出法 会社員 松本雄三
2023/1/27付日本経済新聞 朝刊

私はアルコール依存症者であり、酒をやめて20年近くになる。きっかけは自助会への参加だ。

自助会とはアルコール依存症者が酒をやめるために集まる会。参加することで自分がアルコール依存症者であることを認め、同じ病気で苦しむ人を助けることができる。独りで酒を断つのは厳しい。同じような経験を持つ人同士で一緒に酒をやめた方が長く続く。

自助会に参加して気付くことがある。多くが多量の飲酒を長年続け、精神科病院への入退院を繰り返している。それを本稿では「重度」のアルコール依存症者と定義する。重度になって初めて、独りでは酒をやめられないことを理解する。そして自助会を訪れる。自助会の存在自体すら知らず、参加がさらに遅れるケースもある。

多量の飲酒は体に悪く、悪影響は酒をやめた後も長年続く。糖尿病、脳の萎縮、がんなど。だからできるだけ初期の段階で参加してほしい。私の場合は妻が飲酒問題に気づき、医者にいくように促してくれた。1年ほど通い、アルコール依存症と診断された。その後の治療を尋ねると「自助会に通って酒をやめ続けてください」と言われた。妻からは「酒をやめないと離婚する」とされていたので、通った。「酒が飲めない」つらさはあったが、初期の段階だったからか、入院をせずに済んだ。

自助会では飲酒にまつわる経験や現在の自分の状態を話す。参加者同士、黙って話を聞く。最近はオンライン参加もある。自分の顔を画面から隠し、参加者の経験を聞くだけでもいい。

一方、自助会に通って酒をやめることができる科学的根拠はない。それも自助会が浸透しない原因の一つだろう。しかし同じ問題を抱える人の中にいて分かち合っていると、不思議と酒をやめることができるのも確かだ。酒をやめられることだけではない。人生の苦しみを共有できたり、希望を見いだせたり、ときには生きる力を得ることもできる。

アルコール依存症は否認の病気ともいわれる。本人の意思もあるから難しいかもしれないが、医師や行政、飲酒問題に携わる方々はぜひ、自助会への早期参加を促してほしい。酒をやめ続けられる原動力を実感できると信じて。 
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(ぶらりふらり)港区 タモリさんの「推し坂」、映す今昔 /東京都

2023年07月07日(金)

坂の街……だったかな.地方都市から,親に連れられて上京し,最初に住んだのが港区だった.古川沿い,しかし川の上に首都高速が突貫工事で整備され,川沿いに住んでいた人たちは,皆,よそに引っ越しを迫られたらしい.いま,一の橋に都営住宅があったか.
中学校は,芋洗坂にあった.いま,名称が変わった……というより,廃校になり,隣の学区と一緒になって,別の中学校になったというところなのだろうか.
隣の大きなビルの上の階から,下を眺めると,芋洗坂と,都道319号(?)に挟まれた中学校が見える.このあたりにむかしのニッカウヰスキーでよかったか,古い建物があった.都道はまだ開通していなかった.

ひっこして十番をとおって芋洗坂を上っていった.
しばらくして,引っ越した.もう転校するのはイヤだな,と.こんどは,地下鉄六本木駅から,アマンドの角を曲がって,芋洗坂を下って通ったのだった.
お上りさんには,坂の名前の由来とか,知らないことばかりだった.
そういえば,力道山の最後の場所とか,聞かされたことがあった.
都市計画道路の整備でかなり街並みが変わり,そして大きな高いビルが整備されるにおよんで,街はまったく変わってしまったようだった.
お寺やお墓もあったし,都営住宅があったり,庶民的な街,とくに坂の下の方はそうだった.
鯛焼きだとか豆菓子とか,庶民の食べ物だったのだと思う.

でも,懐かしく思い出すことがある.

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2022年12月06日 東京 朝刊 東京B・地域総合
(ぶらりふらり)港区 タモリさんの「推し坂」、映す今昔 /東京都

 タレントのタモリさんには「坂道写真家」という別の顔がある。愛用のカメラを携え、出没したのは、23区屈指の坂スポットの港区。区によると、名前がついた坂道は86。タモリさんの「推し坂」を歩いてみた。

     *

 六本木駅を出て、六本木交差点にある喫茶店「アマンド」の脇に「芋洗(いもあらい)坂」がある。かつて芋問屋があったことが由来という。この坂に合流するのは「饂飩(うどん)坂」。こちらは1788(天明8)年ごろまであった「松屋伊兵衛(いへえ)」という、うどん屋にちなむとされる。

 二つの坂が交わる三差路の西にあるのは、940(天慶3)年にできたと伝わる朝日神社。禰宜(ねぎ)の綿引崇さんによると、昔は山だった六本木の水源地に千年以上前、水の神様を祀る祠を建てたのが始まりという。その水源地から川ができ、その川筋が現在の麻布十番商店街の原形という。

 今では明け方まで人が行き交う繁華街だが「川の水脈がぶつかった地点とされる芋洗坂と饂飩坂の周辺には田畑が広がり、水が豊かな土地だったんです」。

 往時の雰囲気を伝える名前が、近くの坂に付いていた。芋洗坂を下った先の鳥居坂下交差点の近くにある「暗闇坂」。かつては木が茂り、昼でも暗かったことに由来するとされる。暗闇坂という名前の坂は都内に複数あるが、タモリさんが司会の番組「タモリ倶楽部」が以前調べたところ、麻布の暗闇坂がその時点で最も暗いとの結果が出たこともあったという。ただ実際に行ってみると、マンションや大使館などが立ち並び、特に暗さは感じなかった。

 暗闇坂のある周辺は坂に加え、歴史的なスポットや寺社が集まる地区でもある。暗闇坂を上った先にある一本松は、939(天慶2)年に、清和源氏の祖とされる源経基(つねもと)が立ち寄ったとの伝承がある。

 「現在の松で5代目。以前の松は1772年に失われたとの記録がある」。坂道に関するタモリさんの本の監修も務め、坂道研究家としても活動する山野勝さんが教えてくれた。長谷川雪旦の『江戸名所図会 麻布一本松』にも描かれ、山野さんは「当時の絵から坂道を輿(こし)や町人が行き交う姿、寺院や茶屋が並ぶ街のざわめきが伝わる」という。

 また面白いのは、ここは坂道が集まる場所でもあるということ。暗闇坂に加え、「一本松坂」「大黒坂」「狸(たぬき)坂」と四つの坂がぶつかり、タモリさんと山野さんはここを「名坂スクランブル」と呼ぶ。近くには徳川将軍の信仰もあつかった麻布氷川神社があり、そのそばには、要塞(ようさい)のような外観の安藤記念教会がある。

 同教会の長山信夫牧師によると、建設は1917(大正6)年。6年後の関東大震災や、太平洋戦争中の東京大空襲もくぐり抜けた。礼拝堂のステンドグラスは日本に米国様式のステンドグラス技法を持ち込んだとされる小川三知(1867〜1928)の作。長山さんは「今も多くの人が見学に来るんです」。

     *

 付近では現在、高層ビルの建設など再開発が進む。

 そんな様子を写し取ったのが、建設中の高層ビルを背景に「狸穴(まみあな)坂」にレンズを向けたタモリさん撮影の1枚だ。坂と最先端の建物が対になり、「再開発で激変する港区の今と、江戸の坂がガチでせめぎあう瞬間を残せた」とタモリさん。

 芋洗坂、饂飩坂、暗闇坂、狸穴坂……。どれも趣深い名前ばかりだ。山野さんは「坂の名前はもともと、商人が目印でつけた土地の記憶。ビルを建てるのはいいが、歴史は壊さないでほしい」と願う。

 かつての江戸の姿と東京の今。対比させながら坂道を歩くと楽しく、奥深い。(森下香枝)

 ◆朝日新聞デジタルでは、タモリさんが撮影した坂の写真などを紹介しています。こちらのQRコードからご覧いただけます。

 【写真説明】

(上)建設中の高層ビルを背景に狸穴坂を写したタモリさん撮影の1枚

(下)談笑するタモリさん(左)と山野勝さん=いずれも「お江戸・東京 坂タモリ」(ART NEXT刊)より

タモリさんと同じ構図で記者も芋洗坂を撮影。多くの人や車が絶え間なく行き交っていた=港区六本木
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アムネスティ通信 メリリャノ悲劇――責任を拒み続ける両国政府

2023年07月08日(土)

まったく知らない問題,
全国紙2紙の記事を検索したけれど,出てこなかった.

つまり,そういうことなんだろうな,と思い知る.
Googleで検索すると,観光情報の他に,1件,arab.newsに記事があった.APの記事だろうか.

……そこまで網羅的に情報を拾いきれない,ということなんだろうとは思うけれど,
知らないのは仕方ないとして,しかし,それは想像力を制約しないだろうかと,自分のことを振り返る.

戦争に関する報道を見ていて,
お前はどう考えているんだと,ちょっと振り返る.
先日,テレビでウクライナ戦争に関連した番組だったか,大学教師などの「専門家」のインタビューがとりあげられていたか.
ただひとり,第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議での,ドイツへの賠償に触れていた.
ドイツに過大な賠償責任を負わせることに,
というかそういう表現自体が,ある種の価値観を示してはいるのだけれど,
政治,経済などの面で問題があったのではないか,と.
それは,じつは,ソ連邦崩壊時の問題と重なるところがあったのではないか,という指摘につながるのだけれど,
あまりに理不尽な,と見えるロシアの仕掛けた戦争のゆえに,
歴史的な背景,この30年余の政治,経済などの変遷についてのきちんとした情報提供が,
ちょっとおろそかになっていないか,と感じる.

そして,この北アフリカの小さな領域での事件が,
小さなメディアに掲載されていた.

まぁ.不勉強な自分が問題ではあるのだけれど.


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【世界】2023年02月

アムネスティ通信

メリリャノ悲劇
――責任を拒み続ける両国政府


 北アフリカには、モロッコと国境を接する二つのスペイン飛び地領がある。その一つがメリリャだ。二〇二二年六月二四日、この国境を越えてモロッコからメリリャに渡ろうとした移民・難民が命を落とした。その数は少なくとも三七人に上る。そして今も、七七人が行方不明だ。
 この日、約二〇〇〇人が国境に押し寄せたが、何も突然、事が起きたわけではない。何週間も何カ月も前から、メリリャ周辺では移民・難民(ほとんどがスーダン出身者)が、モロッコ治安当局に手酷い扱いを受けていた。それから逃れようとスペイン領との国境に向かったのだ。しかし国境では、モロッコ当局もスペイン当局も、これを力で阻止しようとした。
 モロッコの国境警備隊員は彼らに石を投げつけ、警棒で殴りつけた。けがを負い地面に倒れている人たちに、殴る蹴るの暴行を加えた。国境フェンスに囲まれた狭い場所に追い込み、けがをしていようが死んでいようがお構いなしに、倒れた人たちの上に人を放り投げた。スペイン側も入国させまいと、警棒、ゴム玉、発煙筒、催涙ガス、唐辛子スプレーを使って押し返した。暴力は制圧後も続いたという。難民・移民は、国境の囲いの中に閉じ込められ、双方から二時間にもわたって四方八方から攻撃を受けたのだ。アムネスティが調査で得た映像は、目を覆いたくなるほどショッキングなものだった。
 モロッコもスペインも、今に至るまで惨劇の責任を否定し続けている。スペインの内務大臣は、わが領土では死者は出ていないと主張する。しかし証拠や証言は、別の事実を指し示す。内部大臣は負傷者に手当を受けさせなかったという批判も否定したが、傷口が開き血を流している人たちをモロッコ側に引き渡したという証言がある。調査を行うオンブズマンによれば、スペインは約四七〇人をモロッコ側に押し返した。押し返された移民・難民は刑務所でさらに暴力を振るわれ、多くが実刑を受けた。バスで遠方に連れて行かれ、所持品を取り上げられて、その場で置き去りにされた一団もいるという。人種差別に関する国連特別報告者はこの悲劇を、「アフリカや中東系その他の非白人の人びとに対する人種的排除と暴力という、欧州連合の国境管理体制を浮き彫りにするものだ」と述べる。両国政府は隠蔽をやめ、真相解明と責任追及に取り組まなければならない。そして欧州は移民・難民政策を、人命・人権尊重へと転換すべきだ。

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片山善博 日本を診る(159)辺野古埋め立て承認の撤回をめぐる最高裁判決の時代錯誤

2023年07月08日(土)

そういえば,
神々の深き欲望
もうすっかり忘れてしまった.沖縄は遠かった……か.

先島に自衛隊の基地が整備されていく.
それで,彼らは,島を守るのだろうか?


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【世界】2023年02月

片山善博の「日本を診る」(159)
辺野古埋め立て承認の撤回をめぐる最高裁判決の時代錯誤


 沖縄県宜野湾市にある米軍普天間飛行場を同県名護市辺野古地区に移設する計画について、埋め立て承認を知事が撤回し、それを国交大臣が取り消したことをめぐる訴訟で、最高裁判所は沖縄県の上告を棄却する判決を下した。
 いささかややこしい行政事件訴訟なので、念のためごく基礎的な事実関係だけを整理しておく。まず、埋め立てを行う主体は防衛省沖縄防衛局である。防衛局のような国の機関が公有水面を埋め立てる場合、公有水面埋立法に基づき知事の承認(国以外が主体の場合には承認ではなく免許という)を受けなければならない。沖縄防衛局は二〇一三年に当時の仲井眞弘多(なかいまひろかず)知事からこの承認を受けている。
 その後さまざまな経緯があったが、このたびの裁判に関することでいえば、埋め立て予定海域で軟弱地盤が見つかったことを理由に、仲井眞知事時代になされた承認を玉城デニー現知事が撤回した。沖縄防衛局はこれを不服とし行政不服審査法に基づき国土交通大臣に審査請求し、大臣が県の撤回処分を取り消す裁決を行った。沖縄県は、国交大臣のこの裁決が違法だとして訴訟を提起したものである。
 知事が行った撤回処分をなぜ国交大臣が取り消すことができるのかといえば、公有水面埋立法による承認ないし免許を与える事務はもともと国の事務だとされ、それを県に委任する仕組みだからである。地方自治法ではこれを法定受託事務と呼んでいる。
 法定受託事務とされている埋め立て承認ないし免許の事務については国(国土交通大臣)が知事のいわば上級官庁という位置づけになる。一般に、下級官庁が行った処分(許可、認可、同意などをいい、今回の撤回もこれに該当する)に不服のある者は、行政不服審査法に基づき上級官庁などに審査請求をすることができる。
 県知事の撤回処分に不服のある沖縄防衛局も、この事務に関して知事の上級官庁に当たる国交大臣に審査請求を行い、それを受けた大臣が県知事の撤回処分を取り消す裁決を行った。
 そこで県は国交大臣の裁決の取り消しを求めて訴訟を提起していたが、最高裁は、県にはこの種の裁決の取り消しを求めて「訴訟を提起する適格を有しないものと解するのが相当」だとして県の主張を退けたものである。

■身内の肩を持つ不公正な裁決

 最高裁の判決は一見もっともらしい。国から委任を受けた県の代表である知事が処分(承認の撤回)をした。これに不服のある者が法に基づいて国交大臣に審査請求をした。大臣はその請求を受け入れ、知事の処分を取り消す裁決を行った。県は大臣の裁決内容に不満があっても、その事務のもともとの処理権限を持つ国が最終判断をしたのだから、それに従わなければならないという理屈である。
 これを税務行政になぞらえると、税務署長が行った処分(課税処分、差し押さえなどの滞納処分など)に不服のある納税者は国税不服審判所長に審査請求することができる。不服審判所長は第三者的機関だとされているが、不服申し立て制度の中では税務署長のいわば上級官庁的存在でもある。
 仮に不服審判所長が納税者の言い分を認めて税務署長の処分を取り消す裁決を行ったとする。税務署長はたとえその裁決に不満があったとしても、それを取り消すよう裁判所に訴訟を提起することは認められない。行政不服審査に関する最高裁の判断が、こんな一般的な事件に関して示されたのであれば、まったく異論はない。
 ただ、このたびの埋め立てをめぐる事件は、いささか様相を異にしている。というのは、不服を申し立てて審査請求をしてきたのは、防衛局という国に属する機関である。いうなれば県知事の処分(撤回)に対して国が文句を言い、それに対して国(国交大臣)が身内の肩を持ったという構図にほかならないからである。
 そもそも行政不服審査法は国や自治体の公権力の行使に対して、国民が不服を申し立てることができる道を開いたものだから、防衛局のような国の機関にはこの法律を援用する資格がないとの立論もある。ただ、法律の条文には、不服を申し立てられる主体から国ないし国の機関を除外する規定がないことから、これまで国ないし国の機関にも不服申し立ての資格があると解釈されてきた。ただ、このたびのように国の見解と県の見解とが真っ向から対立するような場合に、その見解の相違を、一方の当事者である国が裁定するのは明らかに不公正である。これを先の税務行政になぞらえると、不服審判所長の親族が行った不服申し立てについて、審判所長がそれを容認する裁決を行ったようなものである。こうした場合、当事者の身内や利害関係者はそれを裁定する立場から除斥されたり、忌避されたりするのが通例であり、制度の公正さを担保する上からはそれが理に適っている。

■地方分権改革以前の時代錯誤的判決

 国は、行政不服審査法にはそうした除斥や忌避の規定がないというのだろう。ただ、こんな重大な不公正を抱えていること自体が、そもそもこの法律が国や国の機関による援用をまったく想定していなかったことを推定させ、それは先の立論に強い説得力を与えることになる。
 最高裁が、行政不服審査法がこうした不公正や矛盾を内包していることに触れることなく、行政不服審査法には「都道府県が審査庁(この裁判の場合には国交大臣)の裁決の適法性を争うことができる旨の規定が置かれていない」ことなどを理由に、「(県には)訴訟を提起する適格を有しない」としたのは、いかにも皮相だというほかない。
 しかも、それを補強する論拠として、もしこの種の訴訟を認めた場合には、「処分(この場合には埋め立て承認の撤回)の相手方を不安定な状態に置き、当該紛争の迅速な解決が困難となる」ので、これを認めるべきでないとの趣旨のことを述べている。
 なるほど、一般に争訟を迅速に処理することは大切なことである。ただ、だからといって、直ちにこれに同意し、納得するわけにはいかない。というのは、最高裁を含む裁判所が、訴訟当事者を不安定な状態に置くことを防ぐベく、これまで迅速に訴訟を終結させてきたかといえば、決してそうではないからである。俗に長期裁判といわれる裁判は枚挙に暇(いとま)がない。
 にもかかわらず、この裁判の判決の中でとってつけたように、当事者を不安定な状態に置いてはならないと強調するのは、どう見ても辺野古移設を急ぐ国の立場を踏まえているからだろうと、つい苦笑してしまう。このたびの判決は、身内に肩入れした国交大臣の裁決を裁判所が裏書きするような不公正さを孕んでいる。
 二〇〇〇年の地方分権改革によって、国と自治体とは対等の立場にあることが確認された。その改革以前にはいわゆる機関委任事務制度を通じて国と自治体は名実ともに上下の関係にあった。この判決が機関委任事務廃止以前の時代のものであれば、違和感はなかっただろう。最高裁が地方分権改革の意義を理解せず、いまだに機関委任事務制度が存続しているかのような時代錯誤に陥っていることに深く失望させられている。

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寺島実郎 脳力のレッスン(248)議会制民主主義の再生のために――資本主義と民主主義の関係性(その6)

2023年06月30日(金)

民主主義……ってなに?
と思うことがある,いや,ずっとよく分からない.
というか,いま,そこにある制度を,民主主義というとして,
なんだかつかみ所がないな,と思う.

よくとりあげられるコトバ,ウィンストン・チャーチルが語ったとか,
「民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試みられてきた他の政治形態を除けば」
まぁ,これは,民主主義礼賛のコトバだと思うけれど,
熟議,意志決定,合意形成……のための人の集まりのサイズに,
なにか問題はないんだろうか,とも思ったこともあるけれど,
さて,どう考えていけばいいんだろう.


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【世界】2023年02月

連載 248 本質を見抜く眼鏡で新たな時代を切り拓く
脳力のレッスン
寺島実郎

議会制民主主義の再生のために――資本主義と民主主義の関係性(その6)


 民主主義は、基本的に「人間賛歌」によって成立する。人間が自分の進路を主体的に意思決定する潜在能力を評価し、人間の自己決定力に対する信頼によって成立する統治形態である。約二五〇〇年前の古代アテネの民主制も「神々の声」に基づく行動からの「人間の意識」の自立によって突き動かされ、一七世紀欧州での近代民主主義の胎動もローマ・カトリックという中世宗教的権威からの「人間の解放」という面があり、王権の専制からの人間としての主体性の覚醒でもあった。
 それ故に、現代に至る民主主義の抱えるあらゆる危うさ、例えば衆愚制への堕落もポピュリズムへの傾斜も、詰まるところ「人間中心主義」の陥穽(かんせい)に由来するものである。今日、直面している問題を正視するならば、戦争にせよ、地球環境問題にせよ、格差と貧困にせよ、「人間中心主義」に依る世界観の限界が露呈していることを自覚せざるをえない。
 思えば、冷戦の終焉後の時代、我々は「資本主義が勝利した」という認識のもとに、資本主義と民主主義の親和性を確信した。民主主義は開放性、多様性に満ちた平等な世界を可能にする制度であり、自由な市場競争に支えられた資本主義こそが民主主義を担保するのだという楽観が世界を席巻していた。

■冷戦後のデジタル資本主義と直接民主主義への予感

 冷戦後の社会主義陣営の崩壊を目撃し、資本主義の優位性を確信した視界から「新自由主義」への傾斜が生まれた。シカゴ学派のゲーリー・ベッカーは、「自由な市場を伴う資本主義は、経済的福利と政治的自由の両者を高めるために、これまで考案されたなかで最も有効なシステム」とまで発言していたが、これこそが冷戦後の資本主義の過信ともいえる空気を象徴するものであった。
 世界が新自由主義的なパラダイム転換に向かう中、日本もそうした潮流へど飲み込まれていった。一九九〇年代、戦後日本における特筆すべき「政治改革」が繰り広げられた。一九九四年、細川護煕内閣の下で衆院への小選挙区比例代表並立制導入の政治改革関連四法が成立、施行された。次いで、一九九八年には中央省庁等改革基本法が成立、二〇〇一年から一府二二省庁を一府一二省庁に再編、内閣機能強化を目指す「行政改革」がなされた。また、一九九九年には地方分権一括法が成立、「地方分権改革」が実行された。
 注目すべきは、一連の政治改革は日本経済がピークだったタイミングと同時化していることである。世界GDPに占める日本の比重がピークだったのは一九九四年で、一八%を占めていた(二〇二二年、日本の比重は約四%にまで下落)。また、勤労者世帯の所得や家計消費支出がピークだったのも一九九〇年代央であり、政治は経済と相関していることが分かる。政治改革を主導する力として、経済界が存在感を持っていたわけで、「土光臨調」などといわれたごとく、政治に睨みを利かせていたのである。今日、全く隔世の感があり、「政治主導、官邸主導」の下に、経済界が受け身で政治依存に浸っていることに気付く。
 二一世紀に入っての「郵政民営化」を本丸とする小泉構造改革、そして政権交代期を経て、日本は「改革疲れ」「改革忌避」というべき局面に入る。さらに、東日本大震災の衝撃を受け、国民意識は内向、変革意思を喪失したままアベノミクスの時代に入る。当初、アベノミクスは「異次元金融緩和」を第一の矢、「財政出動」を第二の矢、そして第三の矢として「構造改革」を掲げていたが、次第に政府主導の「調整インフレ政策」に堕し、株高、円安、補助金を期待する心理を誘発していった。改革は停滞・頓挫し、硬直したまま放置された。コロナ禍の不幸も重なり、全国民に一〇万円を配布する究極のポピュリズム政策に象徴される迷路に入り込み、公的債務一二五五兆円(二〇二二年六月末)を抱える国になってしまった。
 この間、日本の代議制民主主義は急速に萎(な)えていった。官邸主導の名の下に「閣議決定」が常態化した。集団的自衛権容認や教育勅語の副読本化、安倍国葬に至るまで閣議決定でことが運ぶ国になった。国会の空洞化と国会議員の次元の低いスキャンダルが続き、戦後民主主義の基軸であったはずの議会制民主主義は色褪せ、国民の信頼を失っていった。
あの政治改革ブームから四半世紀、民主主義を突き動かす要素として明らかに重要性を高めたのはデジタル情報技術革命である。IT革命からDX、そしてWEB3.0時代といわれる情報環境の変化の中で、誰もが情報にアクセスできるだけでなく、発信者となりうる情報環境が整い、民主主義の基盤が根底から変わり始めた。一言でいえば、限りなく直接



民主主義への予感とでもいおうか、民主主義が正確な民意の反映を希求するならば、直接、国民の意思を確認する情報技術基盤(例えば、本人確認技術を活用したネット国民投票)が確立されつつあるということである。
 ベルリン芸術大学教授だったビョンチョル・ハンが『情報支配社会――デジタル化の罠と民主主義の危機』(花伝社、二〇二二年)で論ずるごとく、デジタル情報体制の主体は、自分が自由であり、クリエイティブであると思い込んでいるが、現実は「人間が情報に囚われ」ており、「支配は、自由と監視が一体となった瞬間に完成する」という指摘は正しい。我々はそうした問題意識を共有しながら、デジタル時代の民主主義を構想すべき局面にある。

■それでも、代議制を大切にすべき理由

 民主主義のあるべき姿を「民意の反映」とするなら、直接民主主義、つまり人民投票が正しいことになる。だが、「意思決定に最大多数の国民を参加させることは難しく、代議者を通じた政治参画はやむを得ない」という了解のもとに代議制民主主義が成立してきた。だが、歴史の教訓は、直接民主制が陥りがちな「民主主義の倒錯」を示している。ナポレオンやナポレオン三世、そしてヒトラーの人民投票的支配(専制の正当化)を想い起こすならば、人民投票こそ「敵愾心(てきがいしん)」を駆り立て、国民の一致結束を誘導するナショナリストの常套手段であることに気付く。民主的手続きを経た専制を避けるためにも、代議者というリーダーを通じた国民の啓蒙が大切であり、議会は民意の投影だけでなく国民の叡智を磨く装置でなければならないのだ。
 結局、民主主義という統治形態は指導者によって動かされる。古代アテネの民主制から近代民主主義まで、指導者のレベルを超す政治システムにはならないのである。民主主義の手続きを踏んだ専制も、ポピュリズムに突き動かされる民主制も、それを制御するリーダーの質と器が問われるのである。つまり、民主主義を機能させる基本要件はリーダーの叡智であり、民衆の望むものに合わせるだけではなく、実現すべきものを提示してリードする力である。そして、民主主義の指導者は議会での議論と向き合って錬磨され、指導者としての真価を試されるのである。
 民主主義と格闘した指導者でもあったウィンストン・チャーチルは「民主主義は、これまでに試みられてきた他の統治形態を除けば、最悪の統治形態である」という発言(一九四七年、英国議会議事録四四四)をしているが、この屈折した表現に、民主主義と格闘した指導者の真骨頂がみてとれる。
 また、民主主義は民衆の側にも、時代認識と歩むべき針路への問題意識を深める不断の努力を求める政治システムでもある。戦後民主主義の担い手となるべき都市新中間層、すなわち、戦後日本の産業化の中で生まれたサラリーマン層(階級意識なき労働者)が、高齢化とともに次第に「生活保守主義」に転じ、異次元金融緩和で株高を誘導するアベノミクスに拍手を送る存在に堕してきたことは既に論じた(本連載247)。
 戦後日本は敗戦によって「与えられた民主主義」を受け入れ、しかもいきなりの大衆民主主義に突入した。だからこそ、主体的に民主主義を鍛え上げる意思を試されているのである。とくに、中国やロシアが「専制」的政治体制を際立たせている中で、民主主義の側に立つというのであれば、自らの政治において民主主義を成熟させる不断の努力が求められるのである。

■代議制民主主義の錬磨――代議者の削減

 代議制民主主義の機能不全は臨界点に達しつつある。それが政治不信の震源となり、国民の閉塞感を生み出している。原点に還り、代議制民主主義の再建の起爆剤として代議者の削減を提案したい。本当にこの国に七一三人の国会議員が必要なのだろうか。硬直した代議制を柔らかく再設計すべき時代である。
 市区町村議会の議員については、市町村合併等の進捗もあり、一九九八年末の五万九三一四人から二〇二一年末の二万九四二三人と五割以上削減された。また、都道府県議会の議員数は、九八年末の二八三七人から二一年末の二五九八人と八・五%削減された。地方議員は三万人以上減ったことになる。問題は国会議員である。二〇一二年一一月、民主党野田政権下で衆議院解散となった時、与野党間の政策課題は議員定数と歳費の削減であった。二〇一三年に、政権に復帰した自民党は「衆議院の議席を比例区で三〇削減」という案を提示していたが、衆院選挙制度調査会は一六年一月「定数一〇削減(小選挙区七増一三減、比例一増五減)」と答申、これを受けた自民党は同年二月「定数削減先送り」を決定、さすがにまずいと判断した安倍首相の「削減実施」の指示で再検討となったが、紆余曲折を経て、二〇二二年、一票の格差是正を論点として「一〇増一〇減」を決定したのである。政治家という人たちが、自らがメシを食う基盤たる議員定数については、岩盤権益を死守することを目撃してきたことになる。
 戦後日本の国会議員定数の推移を振り返るならば、一九四六年の戦後初の衆院選は、中選挙区制で定数四六六人として実施された。その後、一九六四年の公職選挙法改正で定数四八六人となり、沖縄返還後は定数が四九一人となった。そして先述の九四年の政治改革関連四法の成立により、衆院は「小選挙区比例代表並立制」となり定数は五〇〇人(小選挙区三〇〇、比例区二〇〇)となった。さらに、二〇〇〇年の改正で、衆議院は四八〇人、二〇一二年の改正で四七五人、二〇一六年の改正で四六五人となった。少しは削減したようにみえるが、一九四六年のままともいえるのである。
 大統領制の米国と議員内閣制の日本では政治の基本システムが異なるとはいえ、日本の国会議員数(衆院四六五、参院二四八)は、人口比で米国(下院四三五、上院一〇〇)の三・五倍で



ある。二〇五〇年までにピークだった二〇〇八年比、人口が二割減ると予想される日本において、議員定数の半減は非現実的としても、少なくとも三割の削減を実現すべきである。試案としては、衆議院の一一五議席、参議院の一〇〇議席削減を提案したい。衆議院については、中選挙区制(もしくは大選挙区制)にし、比例復活を止めるべきである。また、参議院については、都道府県ごとに二人(人口の多い都道府県は人口比で若干増枠)とし、うち一人は都道府県知事が兼務し、採決にはDXを駆使したリモート参加できる制度を導入すべきである。全国区は、職能、団体、組合の代表の意思決定参画という意義を認識した枠組みとすべきであろう。

(注)議会制の母国たる英国も二院制であるが、上院(貴族院)は定数なし、宗教議員を除き終身任期で、二〇二二年現在七七八人、原則無給である。下院は六五〇人、任期五年であるが、歴史的経緯の中で、政治制度が硬直化・肥大化しているといえる。

 防衛費の大幅増額と国民負担増という動きがあるが、前提は政治の「身を切る改革」であるべきである。「政治で飯を食う人の極小化」が民主主義の目標であり、そのためには代議者と代議制のコストを厳しく吟味することが不可欠なのである。議員定数の削減とともに国会議員の歳費についても問題提起しておきたい。日本の国会議員の報酬(直接歳費)は、国際比較でみても高く、為替レートを一ドル=一一○円として、米国の一・七万ドル、ドイツの一・三万ドルに対し、日本は一・九万ドルである。その他、議員秘書手当、調査研究広報滞在費などのほか政党助成金や衆参全体の予算(令和四年度ベース)で試算すると議員一人当たり約二億円の国費を投入しており、代議制のコストの適正化という筋道で見直しをすべきである。厳しいハードルが代議制の質を高める。政治を「おいしい家業」にしてはならない。
 オーストラリアの政治学者で欧米の大学で教壇に立って「民主主義」を論じてきたジョン・キーンは、「民主主義の倫理」として「民主主義は傲慢な愚者を甘やかさない。人々が屈辱や侮蔑を受けることを許さない。過度な権力をけっして容認しない」(『民主主義全史』ダイヤモンド社、二〇二二年)と語る。心動かされる言葉ではあるが、歴史の必然として民主主義が機能するわけではない。それを支える人間が主体的な行動によって民主主義を守るのである。その意味でこそ、民主主義は「人間賛歌」なのである。二〇二〇年、九六歳で逝去した外山滋比古は最後の著書『90歳の人間力』(幻冬舎新書、二〇二二年)の最後のページに「デモクラシーで政治が良くならないのは名前だけで政治家を選ぶからだ」と書き残している。先達の絶筆である。

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労働組合,あるいは石垣りんさんら

2023年06月30日(金)

このまえ学生時代の仲間との小さな宴,
石垣りんさんの新著の話をしたら,
石垣りんという名前を知っている仲間が多かった.
そうか,業界では知られていたのかな……,
どうだったのだろう.

働いていたころ,職掌上,労働組合の活動家と話をする機会が少なくなかった.
立場で見れば,反労働組合みたいに見られていたか,
いや,そんなことはなかったか,
まぁ,そんなことは置いて,振り返れば,労働組合は,自ら組織率低下への道を切り開いてきたのではないか,と思うことがある.
組合と政党の関係がどうだったか,いまさらではあるか.

そういえば石垣さんは,定年の前に退職されたようだけれど,1970年代,
振り返ると大きな転換のころだったのかもしれない.
ベトナム戦争は,あるいはアメリカの「覇権」の衰退への道の始まりだったのかもしれない.
かわるべき「覇権」がどのようになるんだろう,そんな話が,学生の時の恩師との会話に出てきていたか.
その恩師は,定年のずっと前に,他の大学に移っていった.若いころから,そんな話を同僚としていたのだと語っていた.同僚の方は,政治家に転じていったのだったか.
教員もまた,勤め人ではある,として,若い人がどのように職を得るだろうか,
そんな議論だったかもしれない.

そういえば銀行は,むかし,それなりに活動的な労働組合が存在していたらしい.
そして,石垣さんの発表の場のひとつが,組合の機関誌だったしていたそうだから.


石垣りん
朝のあかり 石垣りんエッセイ集
中公文庫 2023.2.25

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春秋
2023/1/7付日本経済新聞 朝刊

石垣りんは銀行に勤めながら、たくさんの詩を書いた。当初の発表の舞台は労働組合の機関誌である。壁新聞の原爆忌の写真に添える詩を1時間ほどで書きあげたこともあったという。全国から集まったそんな作品を、組合は毎年「銀行員の詩集」として出版していた。

▼「ほうぼうの職場で、多かれ少なかれこうした詩の出来事があったのでしょう」とりんは回想している(「ユーモアの鎖国」)。1950年代、労働運動が盛り上がり、社会に影響力を発揮していた時代の話だ。賃上げや処遇改善を求め、反戦平和を訴え、文芸活動にも力を入れる。組合というものの存在感は抜群だった。

▼時は流れ、厚生労働省によれば昨年6月時点の労働組合員数は1千万人を割り、推定組織率は過去最低の16.5%に落ち込んでいる。かたや11月の毎月勤労統計調査では実質賃金が前年同月比で3.8%減。物価上昇に賃金の伸びが追いついていない。けちん坊な経営者だけでなく、すっかり弱った労組にも責任はあろう。

▼デモだストだとは言わないが、働き方が変わっても組合の役割は大きいはずだ。やはり労働運動を体験した吉野弘の詩に、こんな一節がある。「誰も苦しみをかくしている。/誰も互いの苦しみに手を触れようとせず/誰も互いの苦しみに手を貸そうとしない。/そうして 時に/苦しみが寄り合おうとする。」(「挨拶」)
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ユリイカ 総特集 ジャン=リュック・ゴダール 1930-2022 (もくじ)

2023年01月06日(金)


新書にとても分厚い本がでてきて,
文庫にもとても分厚い本がでてきて,
雑誌も.
ジャン=リュック・ゴダールさんが自死して,
特集を組んで出された……と.本文573ページか,と思いながら,
執筆者のほとんどを知らない.


1971年か,ゴダール全集が出ている.
たぶん書店に並んで、すぐに手にした.
家が燃えたとき,ちょっと焼け跡は残ったけれど,生きながらえた.
書棚のどこかに眠ったまま.

でも,ゴダールの映画を見ることは,なくなっていった.
1960年代とともに.

……問題はあるけれど,問題とならないなら,
せめてアンヌ・ヴィアゼムスキーさんの話はテキストに起こしておきたいな.


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【ユリイカ】2023年1月臨時増刊号
総特集 
ジャン=リュック・ゴダール
1930-2022



批評による追想
フレドリック・ジェイムソン 訳=山本直樹 ゴダールについて
中条省平 ゴダール 回顧的断章
佐々木敦 ゴダールについて,私はまだ何も知らない――引用と回想によるモノローグ
丹生谷貴志 ゴダールを巡る余白の余白の余白……
赤坂太輔 追悼という名のスタートライン

「考古学者」たち――インタビュー
ニコラ・ブルネーズ 訳=槻舘南菜子・堀潤之 ジャン=リュック・ゴダールを巡って

来るべき書物
堀潤之 空間,イメージ,書物――ゴダールの展覧会(感情,表徴,情念)の余白に
持田睦 ゴダールによる引用は本当にどのようにあるのか――『イメージの本』の最後の引用を中心に
竹崎義和 ゴダールにおけるいくつかのベンヤミン的モティーフについて
森元庸介 こだまをめぐる覚書――ゴダール『言葉の力』の傍らに
高山花子 イマージュの海,第二の死
柴田秀樹 作家になりそこねた男

詩において
松本圭二 偉大なるアーキヴィストの死

触る,切る,繋ぐ
伊津野知多 手で見る世界――ゴダールのモンタージュ「リアリズム」
高村峰生 ゴダールにおける手の表象と「死後の生」――出来事とマシンの結び目をめぐって
常石史子 明暗の継起,あるいは映画の輪郭について
小河原あや 光と「ウィ」――ゴダールの「エリック・ロメールへのオマージュ」に導かれて
難波阿丹 空隙を撃つ――ゴダールのNo Thingと手のないアーキビスト
石橋今日美 Instant Godard――ゴダールのインスタライブをめぐって

見出された時
黒田硫黄 JLG ET MOI

シネマをめぐって
七里圭 ゴダール以後,映画以後について
中村佑子 ゴダールと切断――生の似姿として
清原惟 ゴダールは決して笑わない

存在のためのレッスン
角井誠 人間の探求と発見――ゴダールと俳優演出をめぐる覚書
敷藤友亮 中庸の人間,ゴダール――ジャン=リュック・ゴダールの「ドラマ上の理由」による編集について
大野裕之 チャップリンとゴダール――シネマ・ヴェリテの創出
田村千穂 悲しみのミリアム・ルーセル――ゴダールの女優史
柳澤田実 像を産む処女――『こんにちは,マリア(Je veux salue,Marie)』に寄せて
原田麻衣 ゴダールによるシナリオのためのささやかな覚書

それぞれのこと
斉藤綾子 長いお別れ――ゴダールをめぐる私的な回想
魚住桜子 ゴダールの死を受けてのフランス
尾崎まゆみ 『イメージの本』が手渡してくれたもの

理論という反語
武田潔 二重性の徴のもとに――ゴダールと映画理論
伊藤洋司 ゴダールの才能とは何か
畠山宗明 ゴダールとエイゼンシュテイン――「つなぎ間違い」から「重なり合い」へ
久保宏樹 映画,批評,世界――三位一体の伝統

記憶とともに
アンヌ・ヴィアゼムスキー 聞き手・訳・構成=大野裕之 ドキュメンタリーの詩人,ゴダール――アンヌ・ヴィアゼムスキー,京都学生と語る

SON-IMAGEふたたび
小沼純一 ここで,よそで,いたるところで――Joindre Longtemps ses Grimaces
細馬宏通 ゴダールの音を遡る
長門洋平 ゴダール映画のサウンドトラック――ジョン・ゾーンの初期作品をネガとして
荒川徹 カメラ+レンズの音楽
新田孝行 ないがしろにされた演奏――ジャン=リュック・ゴダールの「メタフィルム・ミュージック」をめぐって
行田洋斗 男性・女性,音楽・声――『アルミード』における音と映像

闘争=逃走線に向かって
佐藤雄一 黒
山崎春美 「死んでもいい」
渥美喜子 開いている店は開いている



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森本あんり 政治的神話と社会的呪術 ――なぜ人はファクトよりフェイクに惹きつけられるのか

2023年06月30日(金)

森本あんりさんのいい読者というわけではないけれど,

不寛容論
新潮選書

2020年の暮れに本屋の棚にならんでいたのを入手して,読んでいた.
年が改まって,中学時代の先生からの年賀状に,新聞に投稿した投書のコピーがあった.
フランスでのイスラムの話だった.

宗教的な寛容/不寛容……,
答えは宙ぶらりんのまま.

それと,アメリカという国.
また,ヨーロッパの東部での戦争,
以前,ポーランドで仕事をしていた友人が,小さな声で,
スラブが勝手にやっているんだとささやいているんだよ,西の方では,
と.
ときおりメディの片隅に,正教のあり方に言及する記事を見ることもある.

森本さんは,コラムニストの小田嶋隆さんの友人だったのだそうだ.
活字でしか知らないけれど,ちょっと和むような,そんな印象があった.
それで,回答が与えられているわけではないけれど,
たしかに,そういう課題でもあるんだろうと思う.

―――――――――――――――――――――――――

【世界】2020年2月


政治的神話と社会的呪術
なぜ人はファクトよりフェイクに惹きつけられるのか

森本あんり

もりもと・あんり 国際基督教大学教授(哲学・宗教学)・学務副学長。
     一九五六年生まれ。著書に『反知性主義』(新潮社、二〇一五年)、
     『異端の時代』(岩波新書、二〇一八年)、『キリスト教でたどる
     アメリ力史』(角川ソフィア文庫、二〇一九年)ほか。


シンボルの世界に生きる人間

「人間を不安にし、驚かすものは、「物」ではなくて、「物」についての人間の意見と想像である」――これは、エルンスト・カッシーラーが最晩年の著書『人間』(原著一九四四年)で引用したエピクテトスの言葉である。これを現代の文脈で言い換えると、「人間を不安にし、驚かすものは、「ファクト」ではなく、「ファクト」についての人間の意見と想像である」となろう。
 なぜ現実、政治がフィクション化するのか。なぜ冷静で客観的なファクトチェックにもかかわらず、それをあざ笑うかのようにフェイクニュースが流され続け、大統領や首相といった立場にある人びとからも良心的な報道機関を蔑視する発言が繰り返されるのか。そしてなぜ、人びとは事実よりも妄想や陰謀を進んで受け容れるのか。
 こうした問いに少し遠回しの答えを求めようとして、人間のシンボル機能を論じたカッシーラーを読んでいたら、いつのまにかローマ時代のエピクテトスにまで連れて行かれてしまった。エピクテトスが語ったのは、具体的には死に対する恐れである。人が死を恐れるのは、死そのものというより、死についての想像やその可能性の予感が怖いからである。もしこのような線の引き方が正しいなら、事実よりその意味や解釈を求めるのは、少なくともここ二〇〇〇年ほどは変わらない人間のごく基本的な性格の一部だと言えるかもしれない。そこまで遡らずとも、前世紀の巨大な政治的虚構を眼前に据えて論考を重ねたカッシーラーを読むことは、今世紀に築き上げられつつあるポスト真実の仮構世界を読み解く力を与えてくれるように思われる。
 カッシーラーは、人間を「象徴を操作する動物」.(animal symbolicum)と定義し、言語・神話・芸術・宗教・科学といった文化現象をいずれもこの観点からひとつづきに解釈した。すべての生物には、感受と反応という二つの系統が備わっており、その相互的な影響が機能的な円環を形成している。だが人間がもつこの機能的円環には、感受と反応の間に象徴系という第三の連結が存在する。この象徴系の介在は、反応の遅延を招くため、生物学的には「衰退」であり「欠陥」であり「堕落」なのだが、まさにそこに人間に固有の経験と思想の展開する空間が生まれる。人間は、「ただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる」のである。
 われわれはこのシンボルの介在を、時と好みによって自由にバイパスすることはできない。無媒介のファクトに接することは、カントに倣えばそもそものはじめから不可能なのである。われわれは、世界を言語的形式、芸術的形象、神話的象徴、宗教的儀式、あるいは科学的抽象化において認識するほかない。つまり人間は、「固い事実の世界に生活しているのではなく……希望と恐怖に、幻想と幻滅に、空想と夢に生きている」。これが、冒頭のエピクテトスの引用へと続くのである。動物なら、危険が差し迫った時には反射的な行動で身を護ることができるし、フェイクニュースに踊らされることもないだろう。だが人間は、その一瞬にさまざまな可能性を思い描いて立ち竦む。いわばそこで全宇宙を象徴的に解釈し、自分自身で創出した世界に自分を嵌め込んでしまうのである。

真理の最終審級としての個人

同じことを、ハンナ・アーレントからの引用で言い直すこともできる。戦後すぐに書かれた彼女の全体主義論には、大衆は「階級」や「国民」という総体的な利害には心を動かされない、と書かれている。これは昨今の選挙でも立証ずみである。だとえば、高所得層への減税と福祉予算の削減を唱える政治家が、なぜか低所得者の支持を集める。あるいは、将来世代にツケを回すような政策を掲げる政治家が、なぜか若者の支持を受ける。こうした投票行動の不思議は専門家たちを悩ませるが、実のところ個々の有権者にとっては、階級や国家という政治体系上の括りは大きすぎ、自分の利害と直結させて考えることが難しい。だからいくらそういう集団的な利害に訴えても、投票ブースに入る個々人の心には響かない、ということである。アーレントは、「事実というものは、もはや大衆への説得力を失ってしまった」とも書いている。われわれが今になって「ポスト真実」だ「フェイクニュース」だと騒いでいることは、すでに第二次大戦前から始まっていた大衆化の帰結だ、というわけである。
 では、事実でなければ、人びとは何を求めているのか。アーレントによれば、それは「一貫した世界観」である。身の回りに起きる個々のばらばらな出来事を、自分に納得のゆくしかたで説明してくれる世界理解の方法である。かつてそれは宗教であった。たとえ自分が苦難に遭っても、「この不条理や苦しみは、神や仏のご計画の中で何かしら意味があるのだろう」と考えることで納得することができた。しかし、既成宗教が弱体化した今日、それに変わる説明原理を提供してくれるのは、陰謀論である。一見無関係と思われるような遠くの出来事のあれこれは、実はみな繋がっているのだ、その背後にはこういう原因があって、それがすべての現象を動かしているのだ、という説明原理である。自分が失業して苦しんでいることと、中国やメキシコで起こっていることが、実は深いところで繋がっている、そしてそれは誰かの陰謀なのだ、という一貫した説明原理である。それが事実かどうか――それはさして重要ではない。人は、正しいと思うから納得するのではなく、納得するから正しいと思うのである。精神史の大枠からすると、こうした内面的で主観的な確信のもち方は、近代リベラリズムが個人の至高性を尊重してきたことの当然の結果とも言える。宗教学的には、これは「信憑性構造」の問題、つまり社会がおのずと当然のように前提している権威や正統性の所在、という問題である。ここ一〇〇年ほどの間に、人びとが信頼を寄せ判断の規準とするものは、少しずつ組織や集団から個人へと転移してきた。その端緒は、アメリカではR・W・エマソンやW・ジェイムズらの思想に見てとれる(拙著『異端の時代』参照)。彼らの言う「宗教」とは、個人が内心で感じる原初的な情熱のことである。教会や寺院などへと組織化された既成宗教は、すべてその頽落(たいらく)形態なのであって、そもそも信用するに値しないものとされるのだ。
 このような宗教観の変容は、今日起こっている真理観の変容を先取りしている。かつて人びとは、新聞を読んだり専門書を調べたりして、何が事実であるかを判断していた。信頼できる組織の裏付けや論理的な整合性といった仲立ちを得ることが、真偽の判断を支える根拠だったのである。しかし今日、真理の最終審級は個人の内面であり、そこに散る感情の火花である。他人が何と言おうと、権威筋の偉い人が何と言おうと、「自分がそれをほんものと感じられるかどうか」「それが自分の心をふるわせて感動させてくれるかどうか」がものごとの真偽を決するのである。こうした仲介者の不要な直接体験に根ざす宗教性を、「神秘主義」と呼ぶ。それは、祭儀や制度の客観性に満足しない感情の内面性を尊重する宗教性類型のことで、その結果生まれたのが「ラディカルな無組織の個人主義」(E・トレルチ)である。かつてそれは、宗教的な感受性の豊かな少数の天才にのみ見られたのだが、現代社会ではこれが「もっともありふれた宗教形態」(R・N・ベラー)となった。ファクトよりもフェイクを受け容れる現代人の傾向は、こうした信憑性構造の時代的な変容に相即している。

機能しないファクトチェック

 では、そういう世界観や真理観に生きる人に、ファクトチェックを提示すると、どのような反応が返ってくるだろうか。
 三年ほど前、日本経済新聞に「偽ニュースとどう戦うか」を主題にした三者インタビューが掲載された(二〇一七年六月一七日)。ちょうどロシア発のフェイクニュースがアメリカ大統領選挙に影響を与えたことが報じられた頃で、一人目はキエフ大学のジャーナリズム部長であった。彼は、偽ニュースを告発する組織を創設して活動中で、メディアの監視を続けることの重要性を説いた。二人目はルモンド紙のニュース検証班リーダーで、こちらはフェイクニュースが拡散する前にその信用度を検証することに努めている。ウェブごとの信頼度を表示するソフトも配布しているが、偽ニュースの伝播速度は速く、信頼できるメディア機関は逆に検証を重ねた上で動くので、対応が後手に回ってしまうという。三人目はわたしで、フェイクニュースが関東大震災やルワンダ内戦のような非常時の流言飛語として古今東西に存在すること、現代ではリベラリズムの相対主義やポストモダンのパースペクティヴィズム、さらにアメリカでは機能主義的な真理観をもつプラグマティズムの伝統が背景にあることなどを説明した。
 しかし、この記事に「真実を丁寧に提示せよ」というタイトルがつけられたのを見て、ようやく自分の失敗を悟った。問題の核心は、いくら丁寧に真実を提示しても、それが既存メディアのニュースである限り、けっして額面通りには受け取られない、という点にあったからである。
 偽ニュース問題の底には、「自分たちは権力者に騙されている」という基本感情がある。事実、大手メディアで発言しているのは、米国でも日本でも、体制側でも反体制側でも、一握りの知的エリートである。アメリカに深く根付いている「反知性主義」の伝統によれば、そういう権威ある人の言うことは、まずは疑ってかかるのが正しい態度なのである。逆に、ツイッターなどのソーシャルメディアは、学歴や肩書きにかかわりなく誰でも情報を発信し拡散できるという点で、実に平等で民主的である。新しいツールの登場により、これまでは出版社や編集者という制度のフィルターを通して曲がりなりにも選別され検証されてきた情報が、ファクトとフェイクの区別もなく一挙に溢れかえることになった。
 こうした土壌に増殖したフェイクニュースは、たとえファクトチェックで誤りを指摘されても、簡単には消滅しない。そこで提示されたのは「うわべだけの事実」で、自分はより深いところにある「真のストーリー」を知っている、と信じられているからである。そして、いったんそう信じた人は、もはやどんな反証も受け付けない。結局あれこれの「事実」はどうでもよいのであって、それらの全体を通してある種の「納得感」が得られるかどうか、つまりアーレントの言う「一貫した世界観」があるかどうか、が問題なのである。新聞やテレビの解説者の説明は(残念だがおそらく本誌やこの論攷(ろんこう)も)、そういう納得感を与えない。
 ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』(原著二〇一六年)には、CNNではなくFOXニュースこそがファクトだ、と考えるルイジアナのティーパーティ支持者が紹介されている。彼女は、「CNNは客観性がまったくない」と断言する。ニュースを見たくてチャンネルを合わせるのに、意見しか聞けないからである。CNNは、たとえばアフリカの病気の子どもを映し出して、視聴者の同情と責任に訴えかける。まるで「この子をかわいそうだと思わないなら、あんたは人でなしだ」と言われているようで腹が立つ、というのである。誰を気の毒に思うべきとか、サラダを先に食べうとか、電球はLEDを買えとか、そんなことを指図されるのはまっぴらご免だ。彼らは、リベラルな知識人から「無知で時代遅れで無教養な貧しい白人」という侮辱的な視線を浴び続けることにうんざりしているのである。その嫌悪感は、トランプの一人や二人がいなくなっても、そう簡単に消えるものではないだろう。だから人びとは、単にあれこれの事実や良識の示すところではなく、自分が心で真実と感じられる物語「ディープストーリー」を生きるのである。

世界は五分前に始まった?

 ついでにもう一つ面白い話を付け加えておく。アメリカでキリスト教原理主義の影響力が強いことは、よく知られている通りである。聖書の創造説を盾に進化論を否定する人は、国民の四割にも及ぶ。「世界が六〇〇〇年前に創造された」などという主張を聞いて、あきれる人は多いだろう。
 だが、六〇〇〇年前はおろか、「世界は五分前に創造された」という主張ですら、論理的に反証することが困難なのはご存じだろうか。「そんなはずはない、現に自分はもっと前の記憶をもっているし、役所に行けば記録も残っている」などという素朴な反論は、「その記憶や記録も五分前に造られたのだ」という一言で片付けられてしまう。地層も化石も放射年代測定も、すべてがその通りに五分前に創造されたのだ、と論じられれば、それ以上はどんな反論も通じずにお手上げとなる。聖書の創造説を信ずる原理主義者も、同じである。科学的な反証として六〇〇〇年前よりも古い化石が示されれば、それは単に、神が六〇〇〇年前にそのような化石をそこに置いた、ということを示すにすぎない。
 「五分前創造説」は、一九二一年に数学者バートランド・ラッセルが提示した仮説だが、不可知論者であったラッセルのことだから、もちろん聖書的な創造説を擁護するのが目的だったわけではない。彼が示したかったのは、われわれが過去の事実として知っていると思い込んでいることが、実は過去そのものとは論理的につながっていない、ということである。過去の事実は、記憶にとって何ら論理的な必然性をもたない。かりに過去が何も存在しなかったとしても、現在における想起はまったく整合的に分析され得るのである。
 ラッセルはまた、記憶が構成されるには、単なるイメージだけでは不十分で、そこに信念が含まれねばならない、とも言っている。コロンブスが一四九二年に大西洋を横断した、という「事実」は、実はわたしの「信念」にすぎない。それはわたしが見たこともなく、想起することもない出来事だからである。そう考えてゆくと、ファクトとフェイクとの境界線は、さほど簡単に見分けのつくものでないことがわかってくる。その境界線上に、妄想と虚偽と陰謀論とが花を咲かせるのである。
 われわれの認知構造がひとたび大きく変化すると、個々のファクトはすべてそのフレームに合致するように解釈される。もし人びとの思い込みを正そうとするなら、個々のファクトでなくそのフレーム全体に関わるような価値観や世界観のシフトが起きなければならない。それは、宗教的な「回心」にも似た経験になるだろう。人間の文化的営為をすべて神話や宗教と地続きの象徴作用と見なしたカッシーラーの批判的考察も、ここからそう遠くない。

シンボルに真偽はあるか

 カッシーラーのシンボル論に戻ろう。なぜ今、とりわけリベラルな民主主義を掲げる国々で、普遍的なはずの人間本性がフェイクへと傾斜して発現しているのか。人間にシンボル機能が本来的に備わっているとしても、その働きがすべてフェイクを結果するわけではないだろう。というより、人間が不可避的に関わらざるを得ないシンボルには、正しいものとそうでないものがあるのだろうか。もしシンボル機能が真偽の判断になじむものであるなら、誤ったシンボルはどのようにして生まれ、伝播し、共有されてゆくのだろうか。
 カッシーラーが最晩年にナチズムを正面に見据えた『国家の神話』(原著一九四六年)に取り組んだのも、そういう問いがあってのことだろう。その論述はいつもながら浩瀚(こうかん)だが、古代ギリシアから中世哲学と啓蒙主義を経てロマン主義に至る概観は、その最終的帰結として「二十世紀の神話」を分析するための準備作業であったように見える。神話を人間の本来的なシンボル機能の一部とみた彼にとり、現代に蘇った政治的神話がなぜあれほどまでに破壊的な特殊性を帯びたのかを理解することは、避けることのできない課題の一つであった。
 彼の分析によれば、現代のこの神話は、人間の本来的な想像力の発露ではなく、特定の目的に沿って政治的に作り出された人工物である。無意識の深みから湧出する自然の奔流は、巧妙に築き上げられた堰堤(えんてい)と運河に導かれ、具体的な到達点へと至るように統制され利用された。いわばそれは覚醒夢のごとく、「完全に合理化された非合理」となった。ナチズムが成功した秘訣は、言語から儀式に至るまで、明瞭な技術と目的意識をもってこの神話を作り上げていったことにある。おそらくそれは、日本にもあてはまることだろう。いにしえの和人たちが生活の中で自然と紡ぎ出し語り継いできた神話や宗教は、ひとたび国家の軍事目的のために計画動員されるようになると、グロテスクな政治的工作物と化した。
 では、その制作者たちは、自分たちが作り出した物語が真理であると信じていたのだろうか。カッシーラーはこのような問いをばっさりと切り捨てる。「客観的真理」などというものは「ただの幻想」にすぎない。政治的神話が真理であるかどうかを問うのは、「機関銃」や「戦闘機」が真理であるかどうかを問うのと同様に無意味である。なぜなら、これらはみな「兵器」だからである。政治的神話が真理かどうかは、その効力によって証明される。

現代の社会的呪術

 そして、その効力を最大限に高める技術として使われたのが、言語や儀礼である。ナチ政権は、「最終的解決」「ジークハイル」など多くの特殊な新語を作り、これを発話行為として呪文のように用いた。また、生活のあらゆる局面に挟み込まれるべき儀礼を作り、友人との挨拶すらそれなしにはできないようにした。これらはみな呪術的な作用をもつ。現代人は、自然を支配する力としての呪術は信じない。だが、社会的な集団化を支配する「社会的呪術」については、いまだその効力を深く信じている、というのがカッシーラーの診断なのである。
 われわれは今日、この社会的呪術の効能を現在進行形で目撃している。政治は本来、特定問題を交渉し解決するための知恵であり、その意見集約と実務遂行を担う団体が「党派」であった。しかし、いま人びとが属しているのは「党派」ではなく「部族」である。彼らは、生のあらゆる局面にわたって敵と味方を峻別する。車や食べ物からテレビ番組にいたるまで、同じ価値観を共有する。彼らの祭典では、みな「アメリカを再び偉大に」と書かれた同じ赤い帽子をかぶり、彼らの偉大な祭司の登場を歓呼して迎え、その口から発せられる単純な呪文の繰り返しに酔う。その式場に異分子が紛れ込もうものなら、ほとんど宗教的な禁忌を犯したかのように過激な反応が起こり、「つまみ出せ」という興奮した暴力的な声が渦巻く。神話の中に現れる人物は、しばしば雷鳴や大水などの自然現象を人格化したものと考えられてきたが、研究者たちによれば、それはむしろ社会的な力の人格化である。トランプ現象は、「人格化された集団的願望」なのである。
 神話の技術でもう一つ重要なのは、「予言」である。大衆は、「単なる物理力」よりも「想像力」によって動かされる。その大衆の想像力を強く刺激するのが「予言」だからである。歴史的運命に関する予言は、当代に不可欠の新たな統治技術となった。カッシーラーは、シュペングラーの『西洋の没落』が現れたとき、たまたまルネサンス期の占星術の論文を読んでおり、両者が酷似していることに気がついたという。シュペングラーの書は、著者自身も認めるように、厳密な歴史学というよりは、古今東西の文明を形態学的に類推する詩的な「観相学」であった。それは、あらゆる文明が自然法則や因果関係を超えた「運命」の力によって定められた行路をたどり、やがて老衰して死に至る、という予言であった。同書は、あたかも日蝕や月蝕を予言するように、西洋文明が辿り行く確実な没落を予言したのである。第一次大戦の終わりに出版されたシュペングラーの予言は、西洋文明の瓦解という危機を感じていた大衆の想像力に一挙に火をつけることになった。
 全体主義国家においては、指導者は現在の世界秩序に絶対的な支配権をふるう魔術師であるばかりでなく、将来の運命を司る予言者でもあることが求められる。そこでは、「不可能でさえある約束がなされ、千年王国が繰り返し告知される」。これも最近のアメリカでよく耳にする話である。例えば、夢物語のような白人だけのアメリカを建設するとか、気候変動も地球温暖化も起きない富裕者の楽園が到来するとか、構造的に斜陽となった石炭や鉄鋼などの産業が新たに日の目を見るとか、あるいは国際社会がアメリカの独善を「偉大な国家」として歓迎するとか。大事なことは、それらが実現可能かどうかではない。こうした説話は、部族の結束意識を高めるための予言なのであって、内容ではなく発話自体が呪術的な遂行行為なのである。

理念の破壊の後に

 歴史上の専制体制は、外的な行動に枷(かせ)をはめることで足れりとしてきたのであって、人びとの感情や思考に介入しようとまではしなかった。そのような試みは反発を強めるだけで、人びとの人格的自由や意志の独立という理念を奪うことはできない、ということを知っていたからである。ところが、とカッシーラーは警告している。現代の政治的神話は、これと逆の方向を辿った。ちょうど蛇が獲物をまず麻痺させてから食べるように、先に自由や平等や人権といった「理念」と「理想」をすべて破壊したのである。だから人びとは、実際に何か起こったかを自覚する前に、すでに征服され服従させられてしまっていた。現代社会が目撃しているあからさまな人権無視や民主的正統性への侮蔑、平和や正義といった理念の無効化の次には、何が来るのだろうか。
 一方、彼自身を含む知識人たちは、その神話があまりに不合理で空想的で馬鹿げているのを見て、誰もそれを真面目に取り上げようとしなかったという。振り返ってみれば、それは大きな誤りであった。その同じ過ちを繰り返すまいとして、カッシーラーは政治的神話の起源と構造、それが用いた言語と技術を問い直すことに最晩年の精力を注いだのである。
 われわれが直面する問いに容易な解答は存在しない。だが、今われわれが目にしている現象が、一過性のものというよりはもう少し根深いものであることを知るのは、腰を据えて今後の戦略を練り、忍耐と希望を錬磨するために、多少の意義があるかもしれない。

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