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鉄道旅行?……(歴史のダイヤグラム)見直される夜行列車、復活を 原武史

2024年02月10日(土)

いろいろ思い出しながら記事を読む.
長崎本線各駅停車で,よく父親の実家に行った.
地図で見ればわずかな距離じゃないか,問いまでは思うけれど,
小さなこどもにとっては,学校の遠足どころじゃないのだから…….
途中にスイッチバックの駅があったり,
蒸気機関車に煙でたいへんなトンネルがあったり,そう,記憶が間違えているかもしれないけれど,トンネル内に勾配があって,それもトンネルのなかにピークがあるとか,そんな話を聞いていた.列車がトンネルにさしかかると,乗客は急いで窓を閉めるのだった.

中学に入ってまもなく,父親の転勤で,東京に転居することになった.
たぶん,急行雲仙に乗った.2等の座席,ケチだな,なんて思わなかったが,
しかし,いまから考えれば,東京までむかしのあの座席だ.
たまたま父親の知人が寝台車に乗っていて,しばらくそのベッドを借りて眠った,たぶん.
当時,どのくらいかかっただろうか,
丸一日,ネットでむかしの時刻表を見ると,夕方6時ころ長崎発,6時半頃東京着とある.
東京着がそんなに遅かったか……,もう少しはやく到着したような感じが残っていたのだけれど.

中学校の修学旅行は,京都,奈良.品川発の修学旅行専用列車だった.座席は3人掛け,2人掛け.新幹線ではなく,在来線.
床の上にひっくり返って寝たりしていたか.

祖父が死んで,両親が長崎に行った.特急さくらにでも乗ったのだろうか.記憶にない.
親のいないあいだに,好き勝手をしたかどうか,覚えていない.

伯父と長崎に行ったことがあった.いつ頃だったか,新幹線で博多まで行った記憶があるから,1970年代の終わり頃,けっこう時間がかかるな,と思い,そして座席が狭いな,と思った.座席の横幅はいまと変わらないだろう。とすると,前の席とのあいだがいまより狭かっただろうか.
博多で特急に乗り換えて長崎に向かった.朝,東京を出て,夕方,長崎に到着.速くなったな,と思うが,それ以上の感慨があったかどうか.たぶん叔母の結婚式だったと思う.浦上天主堂で挙式.神父が関西弁で説教,相手がカトリック信者ではなかったと思う.聖歌隊はいなくて,ラジカセから聖歌が流れてきたか.

その前後,いつごろだったか,当時宮崎に住んでいた叔母を訪ねた.
長崎に里帰り,それから宮崎に向かったが,鉄道のダイヤがうまくいかない,まぁ当然か,それで長崎から博多へ行き,宮崎までは飛行機を使う.
帰路,宮崎から特急富士を使う.ちょっとあいまいな記憶だけれど,2段ベッドだった.ベッドの幅も少し広く感じられた.

就職する前だったか,あるいは就職して間もない頃だったか,こちらは留年していたので,前後関係がちょっとあいまいだけれど,東北に旅行した.
先に就職したゼミ仲間が札幌勤務になっていて.青森で,彼に連絡したのだったか,青函連絡船で北海道へ.
だいぶん記憶があいまいだけれど,札幌でゼミ仲間に会い,そのあと稚内行きの夜行急行だったか,寝台車に乗った.朝,稚内に到着したのだったか,とても記憶はあいまい.しばらく稚内に滞在して,そのまま今度は旭川へ.
どんなふうに帰ってきたか,あまり覚えていない.
まだ長距離の列車が走っていた,当然それを使っただろう.各駅?急行?特急? たぶん急行かな.

就職した頃から,国鉄の民営化に向かって?ダイヤから優等列車が減っていった,新幹線に置き換えられた?
90年頃,広島に出張することになって,同行するスタッフに無理を言って,急行銀河だったか,夜東京をたって,朝新大阪着,そこで新幹線に乗り換えて広島.

在来線を使う鉄道旅行や出張はなくなっていった.
周遊券なんてのも,いつごろだろうか,なくなってしまった.

内容は忘れてしまったけれど,台湾の鉄道事情に関する新書を読んだ.
面白かった.
同じころ,どこから仕入れたか,ヨーロッパで鉄道の営業距離が伸びているとか…….

テレビの旅物の番組に,鉄道がよく登場するようになったな,と感じるようになったのは,いつごろだったろうか.その前からあったのかもしれないが,「遠くへ行きたい」なんて歌があり,そんなテレビ番組もあったのだから.
……

そうだ,1969年秋,みんな終わってしまったような気分で,山陰にいった.
ちょっと思いだしてみよう.


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(歴史のダイヤグラム)見直される夜行列車、復活を 原武史
2023年12月23日 3時30分

[写真]西鹿児島発東京行きの寝台特急「富士」=1979年4月23日、東海道本線の三島―函南間、原武史氏撮影

 5月25日にベルギーの首都ブリュッセルとドイツの首都ベルリンを結ぶ夜行列車が走り始めたのに続き、12月11日にはフランスの首都パリとベルリンを結ぶ夜行列車が9年ぶりに復活した。

 欧州では、格安で乗れる航空機が増えたことでいったん廃れた夜行列車が、見直されつつある。2021年12月には、パリ―ウィーン間に14年ぶりに復活した。いまではウィーンから欧州20都市に向けて走っている。

 背景にあるのは、「飛び恥」(フライト・シェイム)という意識の広がりだ。温室効果ガスを多く排出する航空機での移動を恥じる一方、排出量が少なく、ゆったりと移動できる夜行ならではの旅が見直されているのだ。

 日本ではどうか。現在走っている定期の夜行列車は、東京と高松・出雲市を結ぶ特急「サンライズ瀬戸・サンライズ出雲」しかない。東京や大阪から九州、東北、北海道などに向かっていた夜行は、全廃されてしまった。

 東京と九州を結ぶ夜行として最後まで残っていたのは、東京―熊本・大分間に走っていた特急「はやぶさ・富士」だった。この特急が09(平成21)年3月のダイヤ改定で消えることが発表されると、NHKのニュースにも取り上げられた。

 驚いたのは、熊本県八代市出身の八代亜紀さんが、ニュースで夜行の思い出を語っていたことだ。ぜひともお会いして、直接話をうかがいたいと思った。その願いは、「夜汽車と演歌と人の情……」(『中央公論』10年11月号)でかなえられた。

 八代さんは、地方コンサートのため乗った夜行で過ごした時間がいかに豊かだったかを力説されつつ、「東京―九州間の寝台特急を、もう一度走らせることはできないものでしょうか?」「これからは“リタイア組”がどんどん増えるわけでしょう。寝台特急で九州に旅したいという人は、たくさんいるんじゃないですか」などと夜行復活への思いを語られた。

 それから13年が経ち、八代さんの言葉はいよいよ現実味を帯びている。時代がようやく、スピードだけを売りにしないサービスを求めるようになってきたからだ。

 インバウンドが拡大すれば、「リタイア組」ばかりか外国人にも夜行列車が広く受け入れられるだろう。いや日本人の出張族にも、夜行復活は朗報になる。

 なぜならいまや、東京でも地方でもホテル代が高騰しているからだ。欧州のように車内設備を充実させれば、夜行列車のイメージが変わる可能性は十分にある。あとは鉄道会社がいかにスピード一辺倒を脱し、時代の変化に応じたサービスができるかどうかにかかっている。(政治学者)
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