佐藤純|慰安婦がいた時代 第2回 奴隷 売買春システムの腐敗
2019年8月13日(火)
慰安婦問題.
連載2回.
そもそもこの国の売買春がどんなふうに行われていたか、というところ.
コメントのしようがない,なんというか.
横浜・黄金町のまちづくりにすこしばかりかかわりがあった.
なごりのちょんの間を見にいったりした.
その前,ちょっと好奇心もあって,裏の路地はちょっと遠慮したけれど,
川沿いを歩いたことがあった.
夜だった.
で,いつだったか,知人が訪ねてきたので、昼間,ちょっと見学に,その知人と歩いた.
まちづくりにかかわるようになってから聞いたのだったか,
朝から営業しているところもあるのだと.
黄金町が「浄化」されて,それでどうなったか.
近隣に拡散していったように見えた.黄金町の路地から,小さな飲み屋はいなくなった.
ちょんの間などは残っていたけれど.
伊勢佐木町の裏通りなどに、新規開店のお店が増えたように見えた.
昼間,付近を歩くと,営業中のお店がたくさんあった.
現在,どうなっているか,知らない.
もちろんそれが売買春であったか,しらない.
さらには,この国には,とっくに公娼制度はない.
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【世界】2019.9月 228-236
慰安婦がいた時代
新資料とともに改めてたどる
連載第2回 奴隷 売買春システムの腐敗
佐藤純
[写真──公娼制度批判を掲載した長崎県の警察官向け雑誌『警鼓』]
旧日本軍の慰安婦制度は日本社会の売買春を背景にして生まれた。両者の関係に分け入っていく前に、まず戦前・戦中の日本社会の売買春と取り締まりについて見ておきたい[1]。政策を担当する内務省とその官僚、取り締まりに当たる各地の警察と警察官たちによって書かれた資料を中心に検討する。
■年間二二七八万人が買春
江戸時代に成立した各地の遊廓は、明治維新後も維持された。貧しい家庭の女性たちが前借金と引き換えに身売りされ、売春を強いられた。明治政府は一八七二年に芸娼妓解放令を出し、女性たちを奴隷のように拘束することを禁じたが、実効性がなかった。逆に、一九〇〇年の内務省令「娼妓取締規則」で公娼制度が確立し、敗戦後の四六年二月まで続いた[2]。娼妓になることができたのは一八歳以上の女性で、警察署に出向いて登録し、警察の監督を受け、警察の許可を受けた貸座敷でのみ営業を許された。健康診断を受ける義務があった。建前上は他人が娼妓の通信や面接の自由、廃業を妨害することが禁じられていた。
業者と娼妓は互いに独立し、雇用関係になく、明治以来、人身売買は禁止されているので、公娼制度は人身売買の弊害を生まない、というのが一九二〇年代半ばの内務省の公式見解だった[3]。
具体的な運用は地方に任され、一九三〇年代に公娼制度廃
<229>
止に踏み切る県が相次いだ[4]。ただし、売買春が根絶されたわけではなく、公娼制度に基づかない「私娼」は残った。
一九三一年二月に内務省警保局がまとめた「公娼と私娼」は、全国の警察からの報告をもとに貸座敷と娼妓、私娼の状況を四一五ページにわたって詳述している。戦争の時代に突入する直前の日本の売買春の全体像を大づかみに知ることができる貴重な資料だ[5]。
それによれば、貸座敷指定地は全国に五四一カ所あり、業者が一万一一五四人いた。娼妓は二九年に五万五六人、貸座敷を利用した客は二二七八万四七九八人。娼妓一人あたり四五五人を相手にし、二〇~五〇歳の男性が一人平均一・九回利用した計算になるとしている。大都市の娼妓は楼主に対して平均一四〇九円の借金があった。当時、有名大学から大手商社に入った人の初任給が七三円程度だったから、その二〇倍近い。稼業期間を四~六年に制限している地方が多かった。娼妓になってからも、衣装や身のまわりの品など様々な名目で追加の借金を負わされ、最初の契約期間内に返済を終えられずに売春を続けさせられる女性も多かった。
私娼は娼妓以外で売春をさせられる女性のことをいう。私娼窟の女性たちのほか、芸妓、酌婦、仲居、カフェーの女給などの中にいた。本来は違法だが、いくら取り締まってもなくならないので、内務省・警察は地域を限定して黙認していた。野放しだったわけではなく、警察は性病対策や営業の監督という名目で関与した。借金を背負わされ、抱え主の下で売春を強いられる構図は、公娼と同じだった。娼妓になることができない一八歳未満の女性が、私娼の一七%を占めた。東京の玉ノ井、亀戸のような私娼窟が全国に二〇七カ所あり、一万二一八一人の女性がいた。
女性と、女性に売春をさせる貸座敷や料理店、置屋などとの間を取り持つ紹介業者が全国に五六三〇人いた。
■「売春を奨励する国家」
公娼制度に対する批判が高まり、制度の廃止を求める世論が盛り上がっていた一九三二年九月~三三年二月、全国の警察幹部らでつくる警察協会の雑誌『警察協会雑誌』に内務事務官・小菅芳次が書いた「公娼制度再検討」という記事が連載された[6]。小菅は警視庁保安課長などを務めた内務官僚だ。
小菅は連載の一回目で公娼制度の歴史を振り返り、二回目で制度と実態に斬り込んでいく。人身を拘束することを目的とする契約が民法の規定に照らして無効であることを指摘したうえで、小菅は、貸座敷業者と娼妓は独立、対等の事業者であって主従関係はないという、政府が掲げる建前を、「表面を糊塗した苦しい弁解にすぎない」と批判した。
娼妓がつらい毎日に耐えられずに廃業を決意し、貸座敷から逃げ出した場合、警察が女性を取り押さえて業者に引き渡すことが相次ぎ、警察への批判が高まっていた。警視庁は、
<230>
小菅が保安課長を務めていた一九三一年六月、廃業を申請する娼妓と業者との間に警察が介入することは、娼妓取締規則の趣旨に反するおそれがあるとして、問題のない申請はすぐに受け付けて廃業させるよう各警察署長に通牒を出した。娼妓取締規則では、警察は申請を受理したらただちに廃業させる、何人(なんびと)も廃業を妨害してはならない、と定めていた。
内務省に戻り、全国の風俗取り締まりを主導する立場になった小菅は、論文の中で、警視庁管内で規則に反する実態があったことを認めたうえで、そうした業者寄りの対応を「不必要であり不合理」と批判し、「今もって漫然その遺風を踏襲しておる地方もある」と暴露し、業者に捕えられた女性に対し、「有形無形の私刑もある」と指摘した。さらに、規則が保障する通信、面接などの自由の恩恵を受けている娼妓は少ないと述べ、制度が形骸化していることを認めた。
小菅は三回目で批判の矛先を国家に向けた。
国家が公娼制度を認めることは、結局国家が人身売買を認めるということになる。〔略〕現在の公娼制度を維持する限り、日本の国家は売淫を奨励するものであるかのごとき観を呈する結果になる。
小菅は私娼も公娼と同様の弊害をかかえていると指摘した。公娼制度を廃止すると、私娼が増えたり性病が蔓延したりするという理由で制度の存続を求める勢力に対して、その根拠が当を得ていないことを説いた。
最終回の四回目、小菅は公娼制度廃止を唱える大阪・東京朝日、報知、国民の各新聞の論調や、世界的な公娼廃止の流れを紹介し、「大勢はすでに決しておる」と結論づけた。
現役官僚と思えないような厳しい言葉をつづった小菅は、後に広島県、長崎県、京都府の警察部長、香川県知事などを務めた。その経歴からすると、連載の論調は、ただちに役所を追われるほど内務省・警察内部の空気からかけ離れていたわけではなく、その時点では一定の共通認識が広がっていたと見るべきだろう。
ただ、連載後の一九三四年一一月一二日、日本性病予防協会が開いた座談会に出席した小菅は、公娼廃止が「実現性を帯びて来た」と述べながらも、公私娼の女性たちが人身売買されているかどうかについて、「かなり苦しい説明ではありますが、人身売買ではないということになっています」と答えている[7]。連載の歯切れの良さに比べて後退した印象があるが、そのあたりの事情を解明するのは今後の課題としたい。
小菅と同じ座談会に出た警視庁医務課長の加藤寛二郎は、芸妓の性病検査をしている医師から聞いた話として、実際には一〇人中おおむね四、五人が性病に感染しているが、女性たちが働けなくなると気の毒なので、一~二人しか報告しない実態があると明かしている。警視庁は私娼の性病対策にも
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乗り出していたが、実際には当時の標準的な医療水準に及ぼない恣意的な運用がなされていたと考えられる。
『警察協会雑誌』には、同じ内務省の社会局事務官・武島一義も一九三五年七~八月に「子女の身売防止と警察」と題して寄稿している。小菅がいた警保局が全国の警察の元締めであるのに対し、社会局は労働・福祉を所管する部署だった。武島は東北の貧しい農漁村から女性たちが芸娼妓、酌婦などとして身売りされている実状を訴え、国レベルで有効な対策を打ち出していない状況を批判したうえで、「人身売買の弊風が依然として容(ゆる)されていいことか悪いことか、喋々するのは愚の骨頂である」と断じた[8]。
■違法行為が横行
国立公文書館は内務省の内部資料を大量に所蔵している。丹念に読んでいくと、警保局が組織として公私娼の問題点を認識し、公式に記録していたことがわかる。
一九二六年五月の「公娼の概況」では、貸座敷業者と娼妓の関係について、「貸座敷業者の下に隷属関係に立つを常とす」と述べ、独立、対等、自由意思という制度の建前が虚構に過ぎないことを認めている。業者と娼妓側が交わした契約に盛り込まれた好ましくない規定として、業者の合意なしに廃業しない(山口県)、面接制限(警視庁)などのケースを挙げている。これらの規定が実行に移されれば、娼妓取締規則に違反する可能性が出て来るだろう。岐阜県の調査では、業者が娼妓の売上・支出の計算をごまかして不正な利得を得たり、業者が負担すべき組合費や税金を娼妓に出させたり、虐待したりといった違法の疑いがある事例が多数見つかった。福井県、高知県でも同様な問題が見つかっていた[9]。
先に紹介した「公娼と私娼」に、もう一歩踏み込んで建前と実態の乖離を率直に認めた記述がある。
法制の立前からいえば、金銭の消費貸借と娼妓稼業とは別個の問題ではあるものの、事実上においては、遺憾ながら必ずしも否(しか)らずといわざるを得ない。
<232>
互いに無関係であるはずの金の貸し借りと売春は実のところ一体だと内務省は認めていたのだ。民間人同士の契約に警察権力がどこまで介入することができたかどうかは置くとしても、公娼制度がいかに詭弁の上に成り立っていた仕組みだったかということが分かる。
「公娼と私娼」も違法・不当の疑いがある契約の事例を挙げている。さらに、三二府県が公私娼の紹介業者の問題行為を報告していて、このうち一〇府県は誘拐や詐欺、私文書偽造、猥褻(わいせつ)といった犯罪の疑いがある事例があることを報告している。ここまで来ると、もはや詭弁というレベルではなく、日本の売買春システムは犯罪と深く結びついていたと言うべきだろう。
公娼制度の存廃問題は帝国議会でしばしば取り上げられた。内務省はその都度、考え方を整理した資料を用意していた。一九三三年から三八年にかけての資料から[10]、国レベルで即刻廃止には踏み切らないという基本的姿勢を維持しながらも、スタンスが微妙に変化していったことが読み取れる。
一九三三年一二月~三四年三月の第六五回帝国議会の資料では、公娼制度存続にこだわっているわけではないとしつつ、「公娼制度を人身売買による奴隷制度とみるは誤れり」としているが、六六回(三四年一一~一二月)では、「もし政府が公娼を廃止するとせば」と回りくどい言い回しながら廃止の方向性をにじませた。六七回(三四年一二月~三五年三月)では、「売淫を公許するは〔略〕婦女売買を促し」とさらに踏み込んだ。日中戦争が始まり、慰安婦が続々と中国に送り込まれていた時期の七三回(三七年一二月~三八年三月)で、公娼制度に対していっそう強い表現が登場する。
かかる存在はかえって国民風紀の紊乱を招き、人身売買を促進し〔略〕政府においては公娼制度の廃止、すなわち法による売淫制度の公認の撤廃を庶幾し〔略〕
内務省は一九三四年から三五年にかけて、水面下で、東京を含む府県単位で公娼制度をなくしていき、料理屋や酌婦に転向させるなどして売春を黙認する方向で検討していたようだ[11]。『富山県警察史 上巻』は三五年四月にそうした方針が内務省から伝えられたと記録しているが、詳細は不明だ。内務省・警察の内部で、どんな議論を経て、何が決まり、実態にどう影響したのか。さらに踏み込んだ解明が待たれる。
■やくざと結託する業者
売春の取り締まりを直接担当した地方の警察が主に戦後にまとめた公式資料の中にも、戦前・戦中の公娼制度や私娼の問題点に言及した記述が多数ある。
福岡 娼妓は前借金で縛られていて全く自由はなく、籠
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の鳥といわれていた[13]。
兵庫 自由意思の尊重という建前も、実質上は前借金という形で有名無実化してしまった。〔略〕公娼制度は女性の人権無視の上になり立っている[14]。
高知 娼妓は業者の完全な金縛り状態におかれ、厳しい監督を受けて娼妓稼業に従事していた[15]。
ちなみに、奇妙なことだが、兵庫の記述とそっくりの表現が育森にある。岐阜にも福岡、兵庫と似た言い回しがある。似た表現の組み合わせは他にもある。他県の記述の引き写しが横行していたか、誰かがベースとなる文章を用意していたと考えるのが自然だ。
紹介業者による犯罪や不正があったことを、青森、秋田、山形、福島、鹿児島各県の警察が明記している。山形県では、貸座敷を経営する暴力団の親分が摘発され、恐喝、横領などの罪で起訴、一九三一年に有罪判決が確定した[16]。
一九四三年に刊行された『大分県警察史』によれば、三八年一〇月、県警察部は、貸座敷と同様の商売をしている料理屋や飲食店に雇われた芸妓や酌婦が、容易に借金を返せないばかりか、かえって残高が増えて売春をやめられず、「人道上容認し得ざる幼少婦女子に醜業を強い」、性病に感染させたり、虐待したりする弊害が長年続いているとして、女性の年齢や契約内容、追加の借金などを規制して取り締まるよう通牒を出した[17]。戦後、時間がたってから編まれたのではなく、ほぼリアルタイムで書かれた警察資料の中で、芸妓・酌婦の悲惨な状況が記録されていたことになる。
警視庁職員らでつくる自警会や、警察協会の東京以外の各地の支部は、それぞれ会員向けの雑誌を発行していた。そこには、具体的な体験に基づいて売買春と取り締まりの問題点を指摘する記述や生の動きが多数記録されている。より現場に近い警察官たちの肉声と言えるだろう。
一九三四年八月の『自警』は、警視庁が、公娼制度廃止をにらんで、すでに制度を廃止した群馬、秋田両県に担当者を派遣して調査させたほか、吉原や亀戸など遊廓や私娼窟がある地域の警察署長たちを集めて初めて話し合いを持ったこと
<234>
を伝えている。同じ号には、「公娼廃止と将来に於ける売淫問題」というテーマで募集した懸賞論文の入選作品が掲載されている。一~三等の警察官六人全員が公娼制度が廃止される前提に立って論文を書いている。三等の巣鴨署巡査・佐藤春雄、同じく上野署巡査・成智英雄は公娼制度を「人身売買」「婦女をあたかも商品のごとく実質的に売買」と表現し、成智はさらに、私娼窟に略取、誘拐、人身売買、自由剥奪(はくだつ)、暴行、傷害、恐喝、脅迫をして生活する者がはびこっていると警鐘を鳴らした[18]。
一九三〇年一二月には、警視庁保安課の担当者が、紹介業者の従業員の中に、女性に対する猥褻行為、詐欺、誘拐などの犯罪を犯す者がいると寄稿している[19]。当時の課長は、後に公私娼の問題を指摘する論文を書く小菅芳次である。
『自警』は一九三〇年代に入って三四年までは公娼廃止にまつわる主張や動きを積極的に掲載していたが、翌年は一気にトーンダウンし、三六年には公娼制度存続論が掲載された。公娼制度の存廃をめぐって警察内部の空気が揺れていたことをうかがわせる。三五年前後の公娼存廃問題をめぐる動きについては、改めて触れる。
長崎県は一九三四年七月に公娼制度を廃止した。売春を全面的に禁止したわけではなく、私娼は残った。直後の八月、警察協会長崎支部の『警鼓』は、県警察部警務課・藤岡章男の「公娼廃止論」と題した連載を始めた。藤岡はこの中で、娼妓になる女性たちは前借金という経済的な理由で娼妓になることを強いられたのであって、自発的な意思に基づいているわけではないとして、公娼制度を「人身売買に類似」「奴隷的待遇」と批判し、廃止すべきだと訴えた[20]。やくざ者が遊廓に出入りし、貸座敷業者と結託して娼妓の廃業を妨害しているとも指摘した[21]。山形の事件や東京の『自警』の記述と合わせて考えれば、貸座敷業界とやくざ、暴力団との密接なつながりは全国に広がっていた可能性があると言えるだろう。
一方で藤岡は、私娼の女性が客を選んだり、客からのセックスの求めに応じるかどうかを自分の意思で決めたりすることができ、この点が公娼との根本的な違いだと指摘する。公娼を廃止して私娼を残した県の政策に沿う主張と言える。ただし、藤岡は、「私娼の場合においても、時にあるいは抱え主または雇い主のために淫行を強制せらるることもなきにあらざるべし」とも述べていて、売春を強制される私娼の女性がいることも認めている。
■なくせぬ理由
公娼制度の廃止を求める世論が盛り上がり、内務省や警察の内部からもこれだけたくさんの声が上がっていたのに、なぜ政府は抜本的な対策に踏み込まなかったのか。貸座敷で女性に売春をさせて返済させることを前提に金を貸す契約を有効と認めた判決が多く出ていたことが、しばしば引き合いに
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出されるが、警察が目の前の犯罪被害者を見殺しにし、時に業者の味方になる理由はそれだけだろうか。核心に迫る資料は管見の限りまだ見つかっていないようだ。内務省や警察の資料から関係がありそうないくつかの記述を紹介したい。
福島県警察部長の歌川貞忠は一九二九年一一月の県議会で公娼廃止を求められ、こう答弁した。
廃止せんとする場合におきましては、あるいはこの制度によって営業しておるところの貸座敷業者の既得権をいかにするか、また公娼の契約をしておるところの前借金をどうするかというような経済上の問題が伴うので、これらが公娼廃止という世論を実現することのできない一つの原因ではないか[22]〔略〕
私有財産制のもと、国家権力が民間人の経済的な権利関係に強権的に介入することを躊躇したのは事実だろう。前借金の取り扱いは、戦争末期、追い詰められた日本政府がいよいよ売春関連の業界を強制的に縮小させた時も、内務省や警察にとって頭痛の種だった[23]。
山形県警察部保安課風紀係の警部補・長岡万治郎は、一九三〇年代に深刻な県内の若い女性の身売りを減らそうと奔走した警察官だった。後に山形署長を務める。戦後の自著の中で、公娼制度廃止を求める団体の身売り防止運動に冷たい態度をとる同僚がいたことに触れ、こう指摘している。
貸座敷業者と警察との特別な関係があったからかも知れないようだ。盆暮れの贈りもの、花見とか何とかの行事がある場合の寄付、警察官が行けば歓待し、ことに刑事にとっては、貸座敷業者は捜査に関する情報提供者であるなど、そんなことから業者に対して憎しみを持たない傾向がある[24]。
長岡の回顧談は国レベルの政策決定に直接かかわる話ではないが、一線の警察官の中に取り締まり対象である業者と親密な関係にある者がいたら、警察が一丸となって毅然とした対応をとることは難しかっただろう。警視庁の『自警』は、暴力団が風俗業界に寄生して資金源にしていて、さらにその背後にいる政党関係者や地方自治体の有力者が取り締まりに干渉してくると記している[25]。
公娼制度の存廃問題ではないが、警視庁駒込警察署長・鈴木栄二は一九三四年四月、『警察協会雑誌』に寄稿し、多くの芸者が売春をしていると指摘したうえで、芸者に対する性病検査を徹底できない事情について、こう述べている。
明治維新以来、我が国の政治家のほとんどすべてが待合政治に没頭しておった結果〔略〕花柳界に、隠然たる政治的社会的勢力を植え付けたことは争えぬ事実〔略〕〔政治家
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が〕芸者屋の代言者となって、公正なる職務を執行せんとする警察官に、なんらかの圧迫または牽制を加うるがごとき態度は、公私混同も甚だし〔略〕[26]
花柳界とは、芸娼妓の業界、華やかな夜の街といった意味合いで使われる言葉で、ここでは主に芸者について述べている。明治維新以来の政界の慣行が花柳界との癒着を招き、政治家が警察に圧力をかけてくることを告発している。
犯罪と欺瞞にまみれた日本の売買春システムは、日本の勢力拡人とともにアジアにはびこり、やがて戦争の時代を迎える。次回以降、その経過に目を向ける。
注
1 この分野では、女性史を中心に研究の蓄積がある。一九九〇年代後半以降に限っても、藤目ゆき『性の歴史学』、藤野豊『性の国家管理』、小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度』、関口すみ子『近代日本公娼制の政治過程』、林葉子『性を管理する帝国』などの優れた業績がある。
2 『厚生省五十年史(記述篇)』七九八ページ
3 『婦人児童売買問題 第三巻』(アジア歴史資料センター)
4 『国際連盟婦人児童問題一件/婦人売買二関スル東洋関係国間会議関係 第二巻』(同)
5 「公娼と私娼」『種村氏警察参考資料第一七集』(国立公文書館所蔵。以下、種村氏警察参考資料はすべて同館所蔵)
6 小菅芳次「公娼制度再検討(一)~(四)」『警察協会雑誌』第三八五~三九〇号
7 「公娼竝性病予防に関する座談会」『体性』第二二巻第二号(一九三五年二月)
8 武島一義「子女の身売防止と警察」『警察協会雑誌』第四二一・四二二号
9 「公娼の概況」『種村氏警察参考資料第三集』
10 「第六五議会参考資料」『種村氏警察参考資料第二五集』、「第六六回帝国議会参考資料」「第六七議会参考資料」『種村氏警察参考資料第四八集』、「第七三議会参考資料(警保局警務課)」『種村氏警察参考資料第六〇集』
11 『買売春問題資料集成[戦前編]第五巻』二一七ページ、藤野豊『性の国家管理』一〇五ページ、『日本女性運動資料集成 第九巻』二二〇ページ
12 『富山県警察史 上巻』七八五ページ
13 『福岡県警察史 昭和前編』一八二ページ
14 『兵庫県警察史 昭和編』五〇ページ
15 『高知県警察史 昭和編』八四八ページ
16 『山形県警察史 下巻』四六二ページ
17 『大分県警察史』(一九四三年)一一七ニページ
18 『自警』第一八〇号一一四、一二二~一四二ページ
19 『自警』第一三六号二五ページ
20 藤岡章男「公娼廃止論(一)」『警鼓』第一三巻第八号
21 藤岡章男「公娼廃止論(二)」『警鼓』第一三巻第九号
22 『福島県警察史 第二巻』九二九ページ
23 「警務課長会議資料」『種村氏警察参考資料第一一三集』
24 長岡万治郎『私の若き日の記録』三三ページ
25 『自警』第一四五号二ページ
26 鈴木栄二「芸妓検黴論」『警察協会雑誌』第四〇五号
慰安婦問題.
連載2回.
そもそもこの国の売買春がどんなふうに行われていたか、というところ.
コメントのしようがない,なんというか.
横浜・黄金町のまちづくりにすこしばかりかかわりがあった.
なごりのちょんの間を見にいったりした.
その前,ちょっと好奇心もあって,裏の路地はちょっと遠慮したけれど,
川沿いを歩いたことがあった.
夜だった.
で,いつだったか,知人が訪ねてきたので、昼間,ちょっと見学に,その知人と歩いた.
まちづくりにかかわるようになってから聞いたのだったか,
朝から営業しているところもあるのだと.
黄金町が「浄化」されて,それでどうなったか.
近隣に拡散していったように見えた.黄金町の路地から,小さな飲み屋はいなくなった.
ちょんの間などは残っていたけれど.
伊勢佐木町の裏通りなどに、新規開店のお店が増えたように見えた.
昼間,付近を歩くと,営業中のお店がたくさんあった.
現在,どうなっているか,知らない.
もちろんそれが売買春であったか,しらない.
さらには,この国には,とっくに公娼制度はない.
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【世界】2019.9月 228-236
慰安婦がいた時代
新資料とともに改めてたどる
連載第2回 奴隷 売買春システムの腐敗
佐藤純
[写真──公娼制度批判を掲載した長崎県の警察官向け雑誌『警鼓』]
旧日本軍の慰安婦制度は日本社会の売買春を背景にして生まれた。両者の関係に分け入っていく前に、まず戦前・戦中の日本社会の売買春と取り締まりについて見ておきたい[1]。政策を担当する内務省とその官僚、取り締まりに当たる各地の警察と警察官たちによって書かれた資料を中心に検討する。
■年間二二七八万人が買春
江戸時代に成立した各地の遊廓は、明治維新後も維持された。貧しい家庭の女性たちが前借金と引き換えに身売りされ、売春を強いられた。明治政府は一八七二年に芸娼妓解放令を出し、女性たちを奴隷のように拘束することを禁じたが、実効性がなかった。逆に、一九〇〇年の内務省令「娼妓取締規則」で公娼制度が確立し、敗戦後の四六年二月まで続いた[2]。娼妓になることができたのは一八歳以上の女性で、警察署に出向いて登録し、警察の監督を受け、警察の許可を受けた貸座敷でのみ営業を許された。健康診断を受ける義務があった。建前上は他人が娼妓の通信や面接の自由、廃業を妨害することが禁じられていた。
業者と娼妓は互いに独立し、雇用関係になく、明治以来、人身売買は禁止されているので、公娼制度は人身売買の弊害を生まない、というのが一九二〇年代半ばの内務省の公式見解だった[3]。
具体的な運用は地方に任され、一九三〇年代に公娼制度廃
<229>
止に踏み切る県が相次いだ[4]。ただし、売買春が根絶されたわけではなく、公娼制度に基づかない「私娼」は残った。
一九三一年二月に内務省警保局がまとめた「公娼と私娼」は、全国の警察からの報告をもとに貸座敷と娼妓、私娼の状況を四一五ページにわたって詳述している。戦争の時代に突入する直前の日本の売買春の全体像を大づかみに知ることができる貴重な資料だ[5]。
それによれば、貸座敷指定地は全国に五四一カ所あり、業者が一万一一五四人いた。娼妓は二九年に五万五六人、貸座敷を利用した客は二二七八万四七九八人。娼妓一人あたり四五五人を相手にし、二〇~五〇歳の男性が一人平均一・九回利用した計算になるとしている。大都市の娼妓は楼主に対して平均一四〇九円の借金があった。当時、有名大学から大手商社に入った人の初任給が七三円程度だったから、その二〇倍近い。稼業期間を四~六年に制限している地方が多かった。娼妓になってからも、衣装や身のまわりの品など様々な名目で追加の借金を負わされ、最初の契約期間内に返済を終えられずに売春を続けさせられる女性も多かった。
私娼は娼妓以外で売春をさせられる女性のことをいう。私娼窟の女性たちのほか、芸妓、酌婦、仲居、カフェーの女給などの中にいた。本来は違法だが、いくら取り締まってもなくならないので、内務省・警察は地域を限定して黙認していた。野放しだったわけではなく、警察は性病対策や営業の監督という名目で関与した。借金を背負わされ、抱え主の下で売春を強いられる構図は、公娼と同じだった。娼妓になることができない一八歳未満の女性が、私娼の一七%を占めた。東京の玉ノ井、亀戸のような私娼窟が全国に二〇七カ所あり、一万二一八一人の女性がいた。
女性と、女性に売春をさせる貸座敷や料理店、置屋などとの間を取り持つ紹介業者が全国に五六三〇人いた。
■「売春を奨励する国家」
公娼制度に対する批判が高まり、制度の廃止を求める世論が盛り上がっていた一九三二年九月~三三年二月、全国の警察幹部らでつくる警察協会の雑誌『警察協会雑誌』に内務事務官・小菅芳次が書いた「公娼制度再検討」という記事が連載された[6]。小菅は警視庁保安課長などを務めた内務官僚だ。
小菅は連載の一回目で公娼制度の歴史を振り返り、二回目で制度と実態に斬り込んでいく。人身を拘束することを目的とする契約が民法の規定に照らして無効であることを指摘したうえで、小菅は、貸座敷業者と娼妓は独立、対等の事業者であって主従関係はないという、政府が掲げる建前を、「表面を糊塗した苦しい弁解にすぎない」と批判した。
娼妓がつらい毎日に耐えられずに廃業を決意し、貸座敷から逃げ出した場合、警察が女性を取り押さえて業者に引き渡すことが相次ぎ、警察への批判が高まっていた。警視庁は、
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小菅が保安課長を務めていた一九三一年六月、廃業を申請する娼妓と業者との間に警察が介入することは、娼妓取締規則の趣旨に反するおそれがあるとして、問題のない申請はすぐに受け付けて廃業させるよう各警察署長に通牒を出した。娼妓取締規則では、警察は申請を受理したらただちに廃業させる、何人(なんびと)も廃業を妨害してはならない、と定めていた。
内務省に戻り、全国の風俗取り締まりを主導する立場になった小菅は、論文の中で、警視庁管内で規則に反する実態があったことを認めたうえで、そうした業者寄りの対応を「不必要であり不合理」と批判し、「今もって漫然その遺風を踏襲しておる地方もある」と暴露し、業者に捕えられた女性に対し、「有形無形の私刑もある」と指摘した。さらに、規則が保障する通信、面接などの自由の恩恵を受けている娼妓は少ないと述べ、制度が形骸化していることを認めた。
小菅は三回目で批判の矛先を国家に向けた。
国家が公娼制度を認めることは、結局国家が人身売買を認めるということになる。〔略〕現在の公娼制度を維持する限り、日本の国家は売淫を奨励するものであるかのごとき観を呈する結果になる。
小菅は私娼も公娼と同様の弊害をかかえていると指摘した。公娼制度を廃止すると、私娼が増えたり性病が蔓延したりするという理由で制度の存続を求める勢力に対して、その根拠が当を得ていないことを説いた。
最終回の四回目、小菅は公娼制度廃止を唱える大阪・東京朝日、報知、国民の各新聞の論調や、世界的な公娼廃止の流れを紹介し、「大勢はすでに決しておる」と結論づけた。
現役官僚と思えないような厳しい言葉をつづった小菅は、後に広島県、長崎県、京都府の警察部長、香川県知事などを務めた。その経歴からすると、連載の論調は、ただちに役所を追われるほど内務省・警察内部の空気からかけ離れていたわけではなく、その時点では一定の共通認識が広がっていたと見るべきだろう。
ただ、連載後の一九三四年一一月一二日、日本性病予防協会が開いた座談会に出席した小菅は、公娼廃止が「実現性を帯びて来た」と述べながらも、公私娼の女性たちが人身売買されているかどうかについて、「かなり苦しい説明ではありますが、人身売買ではないということになっています」と答えている[7]。連載の歯切れの良さに比べて後退した印象があるが、そのあたりの事情を解明するのは今後の課題としたい。
小菅と同じ座談会に出た警視庁医務課長の加藤寛二郎は、芸妓の性病検査をしている医師から聞いた話として、実際には一〇人中おおむね四、五人が性病に感染しているが、女性たちが働けなくなると気の毒なので、一~二人しか報告しない実態があると明かしている。警視庁は私娼の性病対策にも
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乗り出していたが、実際には当時の標準的な医療水準に及ぼない恣意的な運用がなされていたと考えられる。
『警察協会雑誌』には、同じ内務省の社会局事務官・武島一義も一九三五年七~八月に「子女の身売防止と警察」と題して寄稿している。小菅がいた警保局が全国の警察の元締めであるのに対し、社会局は労働・福祉を所管する部署だった。武島は東北の貧しい農漁村から女性たちが芸娼妓、酌婦などとして身売りされている実状を訴え、国レベルで有効な対策を打ち出していない状況を批判したうえで、「人身売買の弊風が依然として容(ゆる)されていいことか悪いことか、喋々するのは愚の骨頂である」と断じた[8]。
■違法行為が横行
国立公文書館は内務省の内部資料を大量に所蔵している。丹念に読んでいくと、警保局が組織として公私娼の問題点を認識し、公式に記録していたことがわかる。
一九二六年五月の「公娼の概況」では、貸座敷業者と娼妓の関係について、「貸座敷業者の下に隷属関係に立つを常とす」と述べ、独立、対等、自由意思という制度の建前が虚構に過ぎないことを認めている。業者と娼妓側が交わした契約に盛り込まれた好ましくない規定として、業者の合意なしに廃業しない(山口県)、面接制限(警視庁)などのケースを挙げている。これらの規定が実行に移されれば、娼妓取締規則に違反する可能性が出て来るだろう。岐阜県の調査では、業者が娼妓の売上・支出の計算をごまかして不正な利得を得たり、業者が負担すべき組合費や税金を娼妓に出させたり、虐待したりといった違法の疑いがある事例が多数見つかった。福井県、高知県でも同様な問題が見つかっていた[9]。
先に紹介した「公娼と私娼」に、もう一歩踏み込んで建前と実態の乖離を率直に認めた記述がある。
法制の立前からいえば、金銭の消費貸借と娼妓稼業とは別個の問題ではあるものの、事実上においては、遺憾ながら必ずしも否(しか)らずといわざるを得ない。
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互いに無関係であるはずの金の貸し借りと売春は実のところ一体だと内務省は認めていたのだ。民間人同士の契約に警察権力がどこまで介入することができたかどうかは置くとしても、公娼制度がいかに詭弁の上に成り立っていた仕組みだったかということが分かる。
「公娼と私娼」も違法・不当の疑いがある契約の事例を挙げている。さらに、三二府県が公私娼の紹介業者の問題行為を報告していて、このうち一〇府県は誘拐や詐欺、私文書偽造、猥褻(わいせつ)といった犯罪の疑いがある事例があることを報告している。ここまで来ると、もはや詭弁というレベルではなく、日本の売買春システムは犯罪と深く結びついていたと言うべきだろう。
公娼制度の存廃問題は帝国議会でしばしば取り上げられた。内務省はその都度、考え方を整理した資料を用意していた。一九三三年から三八年にかけての資料から[10]、国レベルで即刻廃止には踏み切らないという基本的姿勢を維持しながらも、スタンスが微妙に変化していったことが読み取れる。
一九三三年一二月~三四年三月の第六五回帝国議会の資料では、公娼制度存続にこだわっているわけではないとしつつ、「公娼制度を人身売買による奴隷制度とみるは誤れり」としているが、六六回(三四年一一~一二月)では、「もし政府が公娼を廃止するとせば」と回りくどい言い回しながら廃止の方向性をにじませた。六七回(三四年一二月~三五年三月)では、「売淫を公許するは〔略〕婦女売買を促し」とさらに踏み込んだ。日中戦争が始まり、慰安婦が続々と中国に送り込まれていた時期の七三回(三七年一二月~三八年三月)で、公娼制度に対していっそう強い表現が登場する。
かかる存在はかえって国民風紀の紊乱を招き、人身売買を促進し〔略〕政府においては公娼制度の廃止、すなわち法による売淫制度の公認の撤廃を庶幾し〔略〕
内務省は一九三四年から三五年にかけて、水面下で、東京を含む府県単位で公娼制度をなくしていき、料理屋や酌婦に転向させるなどして売春を黙認する方向で検討していたようだ[11]。『富山県警察史 上巻』は三五年四月にそうした方針が内務省から伝えられたと記録しているが、詳細は不明だ。内務省・警察の内部で、どんな議論を経て、何が決まり、実態にどう影響したのか。さらに踏み込んだ解明が待たれる。
■やくざと結託する業者
売春の取り締まりを直接担当した地方の警察が主に戦後にまとめた公式資料の中にも、戦前・戦中の公娼制度や私娼の問題点に言及した記述が多数ある。
福岡 娼妓は前借金で縛られていて全く自由はなく、籠
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の鳥といわれていた[13]。
兵庫 自由意思の尊重という建前も、実質上は前借金という形で有名無実化してしまった。〔略〕公娼制度は女性の人権無視の上になり立っている[14]。
高知 娼妓は業者の完全な金縛り状態におかれ、厳しい監督を受けて娼妓稼業に従事していた[15]。
ちなみに、奇妙なことだが、兵庫の記述とそっくりの表現が育森にある。岐阜にも福岡、兵庫と似た言い回しがある。似た表現の組み合わせは他にもある。他県の記述の引き写しが横行していたか、誰かがベースとなる文章を用意していたと考えるのが自然だ。
紹介業者による犯罪や不正があったことを、青森、秋田、山形、福島、鹿児島各県の警察が明記している。山形県では、貸座敷を経営する暴力団の親分が摘発され、恐喝、横領などの罪で起訴、一九三一年に有罪判決が確定した[16]。
一九四三年に刊行された『大分県警察史』によれば、三八年一〇月、県警察部は、貸座敷と同様の商売をしている料理屋や飲食店に雇われた芸妓や酌婦が、容易に借金を返せないばかりか、かえって残高が増えて売春をやめられず、「人道上容認し得ざる幼少婦女子に醜業を強い」、性病に感染させたり、虐待したりする弊害が長年続いているとして、女性の年齢や契約内容、追加の借金などを規制して取り締まるよう通牒を出した[17]。戦後、時間がたってから編まれたのではなく、ほぼリアルタイムで書かれた警察資料の中で、芸妓・酌婦の悲惨な状況が記録されていたことになる。
警視庁職員らでつくる自警会や、警察協会の東京以外の各地の支部は、それぞれ会員向けの雑誌を発行していた。そこには、具体的な体験に基づいて売買春と取り締まりの問題点を指摘する記述や生の動きが多数記録されている。より現場に近い警察官たちの肉声と言えるだろう。
一九三四年八月の『自警』は、警視庁が、公娼制度廃止をにらんで、すでに制度を廃止した群馬、秋田両県に担当者を派遣して調査させたほか、吉原や亀戸など遊廓や私娼窟がある地域の警察署長たちを集めて初めて話し合いを持ったこと
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を伝えている。同じ号には、「公娼廃止と将来に於ける売淫問題」というテーマで募集した懸賞論文の入選作品が掲載されている。一~三等の警察官六人全員が公娼制度が廃止される前提に立って論文を書いている。三等の巣鴨署巡査・佐藤春雄、同じく上野署巡査・成智英雄は公娼制度を「人身売買」「婦女をあたかも商品のごとく実質的に売買」と表現し、成智はさらに、私娼窟に略取、誘拐、人身売買、自由剥奪(はくだつ)、暴行、傷害、恐喝、脅迫をして生活する者がはびこっていると警鐘を鳴らした[18]。
一九三〇年一二月には、警視庁保安課の担当者が、紹介業者の従業員の中に、女性に対する猥褻行為、詐欺、誘拐などの犯罪を犯す者がいると寄稿している[19]。当時の課長は、後に公私娼の問題を指摘する論文を書く小菅芳次である。
『自警』は一九三〇年代に入って三四年までは公娼廃止にまつわる主張や動きを積極的に掲載していたが、翌年は一気にトーンダウンし、三六年には公娼制度存続論が掲載された。公娼制度の存廃をめぐって警察内部の空気が揺れていたことをうかがわせる。三五年前後の公娼存廃問題をめぐる動きについては、改めて触れる。
長崎県は一九三四年七月に公娼制度を廃止した。売春を全面的に禁止したわけではなく、私娼は残った。直後の八月、警察協会長崎支部の『警鼓』は、県警察部警務課・藤岡章男の「公娼廃止論」と題した連載を始めた。藤岡はこの中で、娼妓になる女性たちは前借金という経済的な理由で娼妓になることを強いられたのであって、自発的な意思に基づいているわけではないとして、公娼制度を「人身売買に類似」「奴隷的待遇」と批判し、廃止すべきだと訴えた[20]。やくざ者が遊廓に出入りし、貸座敷業者と結託して娼妓の廃業を妨害しているとも指摘した[21]。山形の事件や東京の『自警』の記述と合わせて考えれば、貸座敷業界とやくざ、暴力団との密接なつながりは全国に広がっていた可能性があると言えるだろう。
一方で藤岡は、私娼の女性が客を選んだり、客からのセックスの求めに応じるかどうかを自分の意思で決めたりすることができ、この点が公娼との根本的な違いだと指摘する。公娼を廃止して私娼を残した県の政策に沿う主張と言える。ただし、藤岡は、「私娼の場合においても、時にあるいは抱え主または雇い主のために淫行を強制せらるることもなきにあらざるべし」とも述べていて、売春を強制される私娼の女性がいることも認めている。
■なくせぬ理由
公娼制度の廃止を求める世論が盛り上がり、内務省や警察の内部からもこれだけたくさんの声が上がっていたのに、なぜ政府は抜本的な対策に踏み込まなかったのか。貸座敷で女性に売春をさせて返済させることを前提に金を貸す契約を有効と認めた判決が多く出ていたことが、しばしば引き合いに
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出されるが、警察が目の前の犯罪被害者を見殺しにし、時に業者の味方になる理由はそれだけだろうか。核心に迫る資料は管見の限りまだ見つかっていないようだ。内務省や警察の資料から関係がありそうないくつかの記述を紹介したい。
福島県警察部長の歌川貞忠は一九二九年一一月の県議会で公娼廃止を求められ、こう答弁した。
廃止せんとする場合におきましては、あるいはこの制度によって営業しておるところの貸座敷業者の既得権をいかにするか、また公娼の契約をしておるところの前借金をどうするかというような経済上の問題が伴うので、これらが公娼廃止という世論を実現することのできない一つの原因ではないか[22]〔略〕
私有財産制のもと、国家権力が民間人の経済的な権利関係に強権的に介入することを躊躇したのは事実だろう。前借金の取り扱いは、戦争末期、追い詰められた日本政府がいよいよ売春関連の業界を強制的に縮小させた時も、内務省や警察にとって頭痛の種だった[23]。
山形県警察部保安課風紀係の警部補・長岡万治郎は、一九三〇年代に深刻な県内の若い女性の身売りを減らそうと奔走した警察官だった。後に山形署長を務める。戦後の自著の中で、公娼制度廃止を求める団体の身売り防止運動に冷たい態度をとる同僚がいたことに触れ、こう指摘している。
貸座敷業者と警察との特別な関係があったからかも知れないようだ。盆暮れの贈りもの、花見とか何とかの行事がある場合の寄付、警察官が行けば歓待し、ことに刑事にとっては、貸座敷業者は捜査に関する情報提供者であるなど、そんなことから業者に対して憎しみを持たない傾向がある[24]。
長岡の回顧談は国レベルの政策決定に直接かかわる話ではないが、一線の警察官の中に取り締まり対象である業者と親密な関係にある者がいたら、警察が一丸となって毅然とした対応をとることは難しかっただろう。警視庁の『自警』は、暴力団が風俗業界に寄生して資金源にしていて、さらにその背後にいる政党関係者や地方自治体の有力者が取り締まりに干渉してくると記している[25]。
公娼制度の存廃問題ではないが、警視庁駒込警察署長・鈴木栄二は一九三四年四月、『警察協会雑誌』に寄稿し、多くの芸者が売春をしていると指摘したうえで、芸者に対する性病検査を徹底できない事情について、こう述べている。
明治維新以来、我が国の政治家のほとんどすべてが待合政治に没頭しておった結果〔略〕花柳界に、隠然たる政治的社会的勢力を植え付けたことは争えぬ事実〔略〕〔政治家
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が〕芸者屋の代言者となって、公正なる職務を執行せんとする警察官に、なんらかの圧迫または牽制を加うるがごとき態度は、公私混同も甚だし〔略〕[26]
花柳界とは、芸娼妓の業界、華やかな夜の街といった意味合いで使われる言葉で、ここでは主に芸者について述べている。明治維新以来の政界の慣行が花柳界との癒着を招き、政治家が警察に圧力をかけてくることを告発している。
犯罪と欺瞞にまみれた日本の売買春システムは、日本の勢力拡人とともにアジアにはびこり、やがて戦争の時代を迎える。次回以降、その経過に目を向ける。
注
1 この分野では、女性史を中心に研究の蓄積がある。一九九〇年代後半以降に限っても、藤目ゆき『性の歴史学』、藤野豊『性の国家管理』、小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度』、関口すみ子『近代日本公娼制の政治過程』、林葉子『性を管理する帝国』などの優れた業績がある。
2 『厚生省五十年史(記述篇)』七九八ページ
3 『婦人児童売買問題 第三巻』(アジア歴史資料センター)
4 『国際連盟婦人児童問題一件/婦人売買二関スル東洋関係国間会議関係 第二巻』(同)
5 「公娼と私娼」『種村氏警察参考資料第一七集』(国立公文書館所蔵。以下、種村氏警察参考資料はすべて同館所蔵)
6 小菅芳次「公娼制度再検討(一)~(四)」『警察協会雑誌』第三八五~三九〇号
7 「公娼竝性病予防に関する座談会」『体性』第二二巻第二号(一九三五年二月)
8 武島一義「子女の身売防止と警察」『警察協会雑誌』第四二一・四二二号
9 「公娼の概況」『種村氏警察参考資料第三集』
10 「第六五議会参考資料」『種村氏警察参考資料第二五集』、「第六六回帝国議会参考資料」「第六七議会参考資料」『種村氏警察参考資料第四八集』、「第七三議会参考資料(警保局警務課)」『種村氏警察参考資料第六〇集』
11 『買売春問題資料集成[戦前編]第五巻』二一七ページ、藤野豊『性の国家管理』一〇五ページ、『日本女性運動資料集成 第九巻』二二〇ページ
12 『富山県警察史 上巻』七八五ページ
13 『福岡県警察史 昭和前編』一八二ページ
14 『兵庫県警察史 昭和編』五〇ページ
15 『高知県警察史 昭和編』八四八ページ
16 『山形県警察史 下巻』四六二ページ
17 『大分県警察史』(一九四三年)一一七ニページ
18 『自警』第一八〇号一一四、一二二~一四二ページ
19 『自警』第一三六号二五ページ
20 藤岡章男「公娼廃止論(一)」『警鼓』第一三巻第八号
21 藤岡章男「公娼廃止論(二)」『警鼓』第一三巻第九号
22 『福島県警察史 第二巻』九二九ページ
23 「警務課長会議資料」『種村氏警察参考資料第一一三集』
24 長岡万治郎『私の若き日の記録』三三ページ
25 『自警』第一四五号二ページ
26 鈴木栄二「芸妓検黴論」『警察協会雑誌』第四〇五号
2019-08-11 23:30
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