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書評紙は時代映す鏡  編集に携わり半世紀、三島由紀夫らと交流 井出彰

2024年05月01日(水)

きょうはメーデー.
でも,メディアによれば,メーデーの集会は、とっくに終わっているようだ.
いつごろからだろうか,メーデーの集会が,5月1日ではなく,休みの日におこなわれるようになったのは.
といって,メーデーの集会に行ったことがあったか、あまり憶えがない.
労働者が,それだけで「左派」であるわけがなく,まして「革命戦士」などであるわけがないのだし,
ただ,じっさいの経済社会のさまざまな「勢力」のなかで,相応にまとまっていかなければ,相応の交渉力を持ち得ない、ということなのだろう.
……などと,思いながら,
古い雑誌や新聞紙などを捨てなくては,とちょっとだけ動かしていたら,
10年ばかり前のコピーが出てきた.
【日経】に掲載された、当時の図書新聞代表・井出彰さんが書いた記事.

近所の本屋さんには,読書人は置いてあるけれど,
図書新聞は置いてないな、出ているんだったか…….
いや,たまに地域で老舗の大きな書店を見に行こともあるけれど,
(いや,飲み屋の前に立ち寄るだけか)
もうずいぶんどちらもみたことがなかったな…….

さいきん,たぶん新聞の記事のどこかだったか,
評論というジャンルは若い人などに受けないのだと書いてあったか.
受けがよいのは,深掘りとか、推しとか……とかそんなことが書かれてあったか.

記事を読みながら,ちょっと思い出す.
たぶん11月25日,アルバイトを終えて,帰りを急いで私鉄の駅に向かっていた.
道ばたに新聞の号外が落ちていた.
三島の市ヶ谷駐屯地での自決の記事,
拾い上げて眺めていたか.
そういえば,11月25日、吉本隆明さんの誕生日だったな……と.

そのころ,前だか,後だか忘れたけれど,早稲田の古本屋をのぞいていたら,
ちょっと変わった人がいた.
むかしの軍人がもっていたような双眼鏡でも収めるのか,小さな皮製のケースを肩から斜めがけしていていた……,
あぁ,村上一郎さんだな、と思いながら,本を探していた,

大学時代の恩師のところで(あるいはまだ学生の時だったか),どんな話でそうなったか忘れたけれど,
村上一郎の名前を出したときに,彼が自分の書架から「振りさけみれば」を取り出してきた.
村上から謹呈されたとのことだった.
ほぼ同年代,同じころに学び,たぶんおなじように海軍にいたのだろう.

ちょっと遡って,高校に入って、すこし背伸びしながら神田の本屋をのぞいていて,
たぶんウニタで「無名鬼」を手にした.
はじめて村上一郎という名前をみたのだったか.
同じころ,「試行」を手にした.
書評紙を知ったのも同じようなころだったろうか.


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書評紙は時代映す鏡
編集に携わり半世紀、三島由紀夫らと交流 井出彰
2013/2/20付|日本経済新聞 朝刊

 文学や人文書などの本を紹介し、批評を加える書評紙。書物を通して時代を映し出し、紙面ではオピニオンリーダーがジャーナリズムの一翼を担うってきた存在だ。私は1960年代から、半世紀近くにわたって書評紙の編集に携わってきた。

 70年11月25日、作家の三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決し、日本中に大きな衝撃を与えた。あの日、私も市ヶ谷にいた。私は当時,書評紙『日本読書新聞』の編集者だった。会社の宿直室に泊まっていた私は午前10時ごろ、1本の電話で起こされる。

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自決の日の出来事

 文芸評論家、作家の村上一郎の奥さんからの電話だった。三島が陸上自衛隊に乗り込んだことを知った村上は「自分も行動を共にする」と言い残し,日本刀を持って出掛けていったという。奥さんは私に「止めてください」と懇願する。

私はタクシーを飛ばし、陸上自衛隊の門の前で待った。そこへ自宅のある吉祥寺から車に乗って村上がやってきた。興奮していた彼をなだめ、落ち着かせようと近くの喫茶店に連れて行った。そこで先に連絡を入れていた文芸評論家の桶谷秀昭と合流し、3人で色々と話し合った。

 村上を何とかなだめて自宅まで送り届け、私たちは深夜まで、三島について話し合った。その話を明け方までかかって原稿に起こし、その週の日本読書新聞に掲載。1日で売り切れるほどの大きな反響があり、2度にわたって増刷した。

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揺れる往会の指標に

 68年、日本読書新聞に入った。200人ほどの志望者の中から試験や面接で絞られ、2人の新入社員が入った。驚いたのは編集長が大学を出たばかりの私と同い年で、編集部も皆若かったことだった。新人も即戦力を求められ、著名な作家や評論家に原稿を依頼し、日参する日々が始まった。

 日本読書新聞は37年に創刊された。書評だけでなく.50年代から論争の場としても機能し、埴谷雄高ら、そうそうたる人々が紙面に登場した。私が入社した60年代末から70年代初めにかけて、ベトナム反戦運動やよど号ハイジャック事件、連合赤軍事件などが起こり、社会は大きく揺れていた。読書家や文学青年たちは書評紙を食い入るように読み、社会にコミットしていった。

 編集者として、多くの作家や評論家らと交流を結んだのは貴重な経験だ。三島由紀夫とは執筆用で使っていた御茶ノ水の山の上ホテルからよく呼び出しの電話がかかってきた。2人でホテルから聖橋まで歩いた後、タクシーで自宅にうかがうことが多かった。振り返れば自決の1週間くらい前、死を覚悟したような手紙を受け取っていたのだが、紛失してしまったのが悔やまれる。

 編集部周辺には若い作家や評論家が集まり、一種のコミュニティーを形成していた。有望な若手に匿名で原稿を書いてもらうことがよくあった。芥川賞作家の中上健次とは学生時代に羽田空港で重い鉄板を飛行機に積む仕事で知り合った。体が大きく体力のあった中上は夜勤明けで喫茶店に行っても、元気いっぱいで文学の話をしてくる。私が日本読書新聞に入った後、彼に何度か寄稿してもらった。

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日本の書評文化は危機

 原稿料が高いわけではなかったが、売れっ子の作家も喜んで書評を書いてくれることが多かった。五木寛之さんにもよく書いてもらったが、こちらが支払った原稿料を「これで背広でも買いなさい」と返されたことが記憶に残っている。

 日本読書新聞は73年に辞め、84年には休屑となった。その後、出版社の経営などに携わったが、88年に書評紙「図書新聞」の編集長に就任した。特集記事やインタビューなどにもカを入れてきた。これまでの半生を対談形式でまとめ、「書評紙と共に歩んだ五〇年」(論創社)として出版した。

 現在残る書評紙は図書新聞と週刊読書人の2紙のみ。90年代に書評雑誌がいくつか創刊されたが、今は無い。雑誌などに掲載される書評は内容紹介程度にとどまる場合も多く、日本の書評文化は危機にひんしているといえる。

 37年に創刊された日本読書新聞は国家が戦争へと傾く中で、本の紹介を看板にしながら反戦思想をちりばめていった。書評紙は変わりゆく社会を書物を通して映し出す鏡のような存在だ。この文化を決して絶やしてはいけない。(いで・あきら=図書新聞代表〉






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