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寺島実郎 脳力のレッスン(255) 米中対立の本質と日本の針路 【世界】2023.09

2023年11月26日(日)

いつごろだったか,
急に思い立って,古山高麗雄さんのビルマ三部作をまとめて読んだ.
言い読者じゃないのだけれど,
ずいぶん前,知人と話をしていて,
プレオー8の夜明け
よかった,と話していてのを思い出しのだったか,
いや,ひょっとすると,なぜインパールばかり取りあげられるんだろう,
と思ったのだったか.
おもしろかった.
慰安婦というか,戦場の売春婦の話が出てきたり.

古山さんの本でだったか,あるいはもっと別の本だったか,
インドから中国へ,蒋介石の国民党政府を支援する,つまりは軍需物資を輸送するルートが通っていたということか.

ケインズは,結局,アメリカの壁に破れて,帰国し,そして死んだ……かな.

派遣の問題を,大きな目と,小さな目で見たときに,どんなふうになるんだろうな……,
ふっとおもったことがあったな.


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【世界】2023年09月

脳力のレッスン(255)

米中対立の本質と日本の針路
――二一世紀システムにおける日米中トライアングル

寺島実郎


 二一世紀日本の国際関係において、最も重要な課題は米国、そして中国との関係である。日米、日中の二国聞関係はそれぞれが自己完結しない。つまり、日米中のトライアングルの関係をどう制御するか、この宿命的な課題に立ち向かわねばならない。戦前戦後の日本の国際関係を凝視してきたジャーナリスト松本重治は「日米関係は米中関係である」と断言していた。この歴史認識を日本の針路として確認しておきたい。

■米中対立という認識の虚実
 権威主義陣営ロシア・中国に対するG7を中核とする民主主義陣営の二極対立の構図で世界が語られ、報道もそれを上塗りする傾向が顕著である。さらに、ウクライナ侵攻後のロシアの孤立と疲弊による中国優位の中露関係を背景に、「米中対立激化」という認識が主潮となってきた。
 だが、話は単純ではない。米中貿易の実体を注視してみよう。二〇二二年の米中貿易総額は六九〇六億ドルで、二一年の六五六四億ドル、二〇年の五五九二億ドルに比べ、コロナ禍においても増え続け、史上最高水準に到達している。昨年の日米貿易総額は二二八六億ドルで、日米貿易の三倍を超す米中貿易となっている。ちなみに昨年の日中貿易は、前年の三九一七億ドルから三七三五億ドルへと減少しており、日本の方が対中貿易を縮小させているのである。
 つまり、米中対立は選別的対立であり、安全保障に関わる先端技術の覇権をめぐって本気で抗争している面もあるが、国民経済の相互依存は深まっているのである。何故、そうなるのか。基本的には、鄧小平による「改革開放路線」への転換以降の四〇年にわたる米国の中国への関与・支援政策を反映するものである。例えば、中国から米国への輸出の多くは「ブーメラン輸出」といわれるもので、米国企業の中国への投資、技術移転、委託生産の結果、その製品が米国市場に向かっているのである。



 もちろん、米中貿易が今後も増え続けるというものでもなく、緊張関係の高まりを背景に米中ともに相手への依存を避け、貿易相手の東南アジア等への分散を図っている。だが、日本にとっては両国との関係が重要である。昨年の日本の貿易(輸出入総額)に占める対中貿易(含、香港、マカオ)の比重は二二・四%、対米貿易比重は一三・九%であるが、この二国との通商が日本の貿易の三分の一以上を占める構造は一〇年先においても変わらないであろう。日本にとっては米中両睨みのバランス感覚が重要なのである。
 日本人として米中関係を考える時、大切なのは歴史の長期的視座で東アジアを注視し、「日米中トライアングル」の相関において思索することである。近現代史における米国の東アジア戦略の基本性格は、日本と中国を両睨みして、日米中のトライアングルの力学の中で米国の国益を最大化することにあり、そのために「日中を分断して統治すること」である。米国の悪夢は「日中同盟」であり、何度となく米国の知識人から「日中同盟ができる可能性は」と聞かれたものである。そして、その可能性が無いことにアジア近代史の哀しみがあることに気付かされてきた。

■近代史における日米中トランアングルの位相の変化
 一八五三年のペリー提督の浦賀来航の背景には、一八四八年に米墨戦争(メキシコとの戦争)に勝利した米国がカリフォルニア、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナ諸州を領有(厳密には一五〇〇万ドルで割譲)することになり、太平洋に到達したことがある。
 だが実際には、ペリー来航以後、米国はアジアに動けないまま時間が経過した。南北戦争(一八六一~六五年)という内戦による消耗と後遺症で外に動けなかったのである。この「空白の四五年」を経て、現実に米国がアジアに展開したのは、一八九八年の「米西戦争」、スペインとの戦争に勝って、フィリピンとグアムを領有してからであった。米国が「遅れてきた植民地帝国」に変質した瞬間である。米国が「太平洋国家」としてアジアに踏み込んできたタイミングと、日本が日清戦争(一八九四~九五年)に勝利し、中国大陸に本格的に進出していくタイミングが同時化した。日米関係の悲劇は、ともに遅れてきた植民地帝国として、ほぼ同時にアジアに参入したことに由来するものである。
 一九〇〇年、清朝末期の中国において「扶清滅洋」を掲げた排外闘争たる義和団事件が吹き荒れ、米国も共同出兵したが、基本的に米国は中国侵略に先行していた欧州列強や、中国に触手を伸ばし始めていた日本とは一線を画し、中国の近代化に理解と支援の姿勢をとった。中国も欧州列強や日本を牽制する要素として米国の登場を歓迎した。日英同盟を背景に日露戦争を持ち堪えた日本、一九一四年の第一次世界大戦への参戦とドイツの山東利権の継承を図る日本に対し、米国は日本の野心を抑えるように中国への理解と支持を続けた。辛亥革命(一九一一年)期の中国にとって、独立戦争を勝ち抜いた「民主主義国家アメリカ」は敬愛の対象であった。米中関係の深層に「相思相愛の空気」が存在するといわれる理由がここにある。
 再考するならば、アジア太平洋戦争、つまり第二次大戦のアジアでの軍事衝突とは、中国を巡る日米の緊張が臨界点を超えたということであり、日本の敗戦は、「米国の物量への敗戦」と多くの日本人は考えがちだが、米国と中国の連携に敗れたのである。正確に言えば、蒋介石の国民党政権を支援する方向へと米世論とルーズベルト政権を誘導した米国のチャイナ・ロビー(親中国派)が牽引した米国の参戦と勝利であった。その構図の検証を試みたのが拙著『ふたつの「FORTUNE」』(ダイヤモンド社、一九九三年)であった。
 ワシントンにおけるチャイナ・ロビーの頭目でもあったヘンリー・ルース(タイム・ワーナー社の創業者)は長老派プロテスタント教会の宣教師の息子として中国の山東半島に生まれた。米国は中国の「近代化」に向けてキリスト教の宣教師を送り込んだのである。この動きが義和団事件の誘因ともなるが、ルースは高校進学のため米国に帰国し、イェール大学卒業後、「タイム」「ライフ」「フォーチュン」などの雑誌を発行するタイム・ワーナー社の創業者となり「メディアの帝王」と言われる存在になる。そして、ルースは自分の生まれた中国を侵略する日本の危険性を米国民に知らしめる使命感に燃え、「反日・親中国」のチャイナ・ロビーとして活動、日中戦争開始(一九三七年)後は、「フライング・タイガース」と呼ばれた米国からの義勇軍の資金源ともなり、蒋介石を支援し続け、ルーズベルトのアジア政策に大きな影響を与えた。約言すれば、日本の敗戦までの半世紀の日米中の力学は、米中蜜月・日米対立の時代であった。

■戦後期の日米中トライアングルと日本の運命
 第二次大戦が終り、米国としては支援してきた蒋介石の国民党と手を携えて中国の戦後復興・近代化に踏み込もうとした時、毛沢東との内戦に敗れた蒋介石は台湾に去り、一九四九年に中華人民共和国が成立した。衝撃を受けたワシントンのチャイナ・ロビーは台湾ロビーと化し、大陸中国を封じ込め、台湾を支援し続けた。
 「一九六七年にヘンリー・ルースが死ぬまで米国は中国が承認できなかった」といわれるほど、米国の対中政策は迷走した。英国が、香港問題もあり、一九五〇年一月には本土の共産中国を承認したのと対照的であった。実は、中国の分裂を僥倖ともいえるほどの恩恵を受けたのが日本であった。敗戦からわずか六年後の一九五一年に、日本はサンフランシスコ講和会議で国際復帰、日米安保条約締結という形で歩み始めるが、米国の対日政策を主導していたダレスは、ソ連の核開発(一九四九年九月)、ソ連・中国の友好同盟相互援助条約(一九五〇年二月)、朝鮮戦争勃発(一九五〇年六月)という冷戦



の新局面を背景に「日本を反共の砦として西側陣営に取り込み戦後復興させる」という思惑が働いたためであった。「もし中国が分裂していなければ、日本の戦後復興は二〇年は遅れた」といわれるのも、まず中国が優先されるはずだった米国の支援・投資が日本に回ってきたという判断によるものである。
 サンフランシスコのオペラハウスで行われた対日講和会議には五二カ国が参加し、四九ヵ国が講和条約に署名したが、ソ連は署名を拒否した。中国は招かれていなかった。講和条約締結の直後、吉田茂首相は単身でプレシディオ米陸軍基地内の下士官クラブハウスに赴き、米軍駐留の継続を約する「日米安保条約」に署名した。日本国内の世論に配慮し、一切のセレモニーもなかった。一九七〇年代まで、日本は復興・成長の軌道を走るが、その背景には「米中対立」(米国と本土の中国との緊張)が追い風になっていたことを認識すべきである。
 一九七〇年代に入り、パラダイムが大きく動き始めた。七一年七月にキッシンジャーの秘密外交により、ニクソン訪中計画が発表され、一〇月には、国連総会が「中国招請・台湾追放」を決議し、中華人民共和国の国連加盟が決定された。この流れを受けて一九七九年に正式な米中国交樹立がなされ、新たな米中蜜月時代が始まる。中国も文化大革命の時代(一九六六年から約一〇年間)を経て、復権した郵小平による改革開放路線へと動き、中国にとって米国は積極的パートナーとなっていった。
 一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、米国にとってアジアにおける最大の脅威は日本であった。一九八五年のプラザ合意以降の円高をテコにした「アメリカを買い占める日本」への反発、日米貿易摩擦の深刻化など日米間の緊張が高まり、G・フリードマンとM・ルバードの『THE COMING WAR WITH} APAN――「第二次太平洋戦争」は不可避だ』(徳間書店、一九九一年)などという本が出版され話題になっていた。この頃、私自身は米国ワシントンで仕事をしており、一九九五年一二月に放映されたNHKの特別ドキュメンタリー番組「トライアングル・クライシス」の制作に関わり、出演して前記のヘンリー・ルースの足跡と日米中の歴史的関係の解析を試みたが、日本の世界GDPに占める比重が約一八%とピークだったのが一九九四年であり、昨年の日本の比重は四%まで下落と隔世の感があるが、正に日本脅威論の高まりの中での企画だったことが思い出される。
 一九八九年の天安門事件など民主化運動を踏みつぶす中国を黙認し、米国は中国への「関与・支援政策」を続けた。一九九七年のアジア金融危機、二〇〇八年のリーマンショックを乗り切る上で「世界の成長エンジン」となった中国は頼もしい存在という認識が米国を支配し続けていた。米国が中国に対する警戒心を抱き始めたのはオバマ政権の後期であった。中国のGDPが日本を抜いて世界二位になったのが二〇一〇年、習近平政権がスタートしたのが二○一三年であった。強権化し、経済への国家管理・統治を強める習近平政権に対して、二○一七年からの米トランプ政権は、「中国はロシアと並ぶ競争者」という位置づけで緊張感を高めたが、トランプには「貿易赤字解消のためのディール(取引)」を求める姿勢が強く、「関税競争」的対立であった。「中国製造二〇二五」計画など次第に技術覇権志向を強める中国に対し、二〇二一年からのバイデン政権は「中国は国際システムへの挑戦者」という認識に立って経済安全保障的視界からの対決姿勢を強めた。二〇二三年六月には、これだけの円安基調にもかかわらず日本は「為替操作」懸念の対象国リストからはずされ、米国にとって脅威の対象外になったということである。

■歴史の教訓と課題
 日米中トライアングルの位相の変化を瞥見してきたが、こうした視界から見えてくる歴史の教訓と課題を整理しておきたい。何よりも、単純に分断統治の力学に引き込まれてはならないということである。英国の植民地主義を貫いた統治概念は、潜在敵対勢力を分断して利害相反を生み出して自らの統治力を最大化するというもので、ガンジーが繰り返し警鐘を鳴らしていたのもこの分断統治の術数に陥ってはならないということであった。
 英国に代わって二〇世紀システムの主役となった米国も地域戦略の根底にこの戦略を継承しており、例えばキッシンジャーの中国指導者(毛沢東、周恩来など)との交渉記録(『キッシンジャー「最高機密」会話録』毎日新聞社、一九九九年)を読んでも、かつて「共通の敵」として戦争を戦った日本を永続的に抑え込む意図を米中が確認しあう空気が感じ取れる。米国にとっては、日本を中国から切り離して緊張関係を増幅させることが国益につながるのであり、中国にとっては、米国に制御される日米安保体制下の日本が望ましいのである。
 米中はともに世界秩序の中心に自国を置く大国主義的志向をもっており、それは対立しているように見えて、大国間の合意形成で世界を仕切ろうとする傾向につながる。一九七二年の突然のニクソン訪中でパラダイムを変えたように、「頭越し外交」で事を進める傾向がある。日本に求められるのは「自立自尊」、主体的に国際関係を構築する意思である。
 二一世紀の日本の深層心理における重い課題は、中国といかに正対するかである。二〇〇〇年を超す中国との関係は複雑に曲折してきた。中国の文明文化の影響を受け続けてきた日本は、江戸期の「鎖国」という期間を通じ、本居宣長に代表される国学の誕生、通貨(寛永通宝)・暦(大和暦)の自立を図った。「鎖国」とは中国からの自立過程でもあった。その日本が、明治期に入り、日清戦争に勝利した辺りから中国への劣等感を優越感に反転させ、中国を見下すようになり、その侮りが一九四五年の敗戦へと日本を引き込んでいった。戦



後も、復興・成長を先行させた日本は中国を上から目線で見続けたが、二〇一〇年にGDPで中国に追い越された時点から中国への視界を動揺させている。ナショナリズムに誘惑される日本人にとっては「米中対立は蜜の味」となりがちである。そして、この心理こそ米国との関係を創造的に再構築することを阻んでいるといえる。
 戦後日本は、あまりにも米国に依存し、影響を受けてきた。占領期を経て、一九五一年の日米安保条約による同盟関係に踏み込んで以来、七〇年以上もこの関係に埋没してきた。米国の側からすれば、日本こそ「米国流のネーション・ビルディング」の成功モデルである。日本人は日本を独立国だと思い込んでいるが、ワシントンのジャパノロジスト(日本専門家)と四〇年以上も向き合ってきた私自身の体験では、建前はともかく、彼らの多くが日本を「プロテクトレート(保護領)」と認識している本音を感じ取ってきたものである。
 戦後の日米関係を凝縮し、象徴する表現として的確だと思われるのが松田武の「自発的隷従」である(『自発的隷従の日米関係史』岩波書店、二〇二二年)。ジョン・ダワーもこの表現に賛意を寄せている。「自発的隷従」は一六世紀のフランスの法律家E・ボエシが提起した概念であり、民衆の自発的な隷従が圧政を完成させる構造に着目した古典である。日米同盟が常態化する中で、日本側から過剰依存と同調が生まれている。例えば、同盟責任の双務性(米国を守る責任)を求めて、日本側から集団的自衛権にコミットしていく心理、さらに「米国の核の傘」の下にあることを理由に国連の核兵器禁止条約には参加できないとする固定観念、これこそが自発的隷従の象徴といえる。
 「中国の脅威を抑え込むための日米同盟強化」という誘惑に吸い込まれがちな日本であるが、素朴な疑問に還って日本という国を直視するならば、二一世紀の日本の課題が鮮明になってくる。その疑問とは「二〇四五年、敗戦から一〇〇年後の日本に米軍基地は存在しているのか」である。敗戦直後に占領軍が駐留している事態は、世界史において珍しいことではない。だが、一〇〇年経っても戦勝国の軍隊が駐留し続けている国を、国際社会の常識からは「独立国」とはいわない。いわんや、駐留米軍基地に関する地位協定を精査するならば、敗戦国のステータスを引きずった米軍基地の地位協定が固定化していることに驚かされるはずである。
 二一世紀システムを生きるには、「二一世紀の世界史における日本の役割」を自問自答した「国家構想」が求められる。論及してきたごとく、ロシア、中国、米国といった二〇世紀世界秩序の中核として存在してきた国が明らかに世界をリードする「正当性」を失い、自国利害へと迷走している中で、日本にはバランス感覚に立った「自立自尊」の主体的未来構想が問われている。それを考察・探究していきたい。


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