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インタビュー 『ゲッベルスと私』監督たちに聞く

2018年7月10日(火)

豪雨,
旧民主党の面々が,「脱コンクリート」をどんなふうに総括したのか,
知らない.
そして,こうした自然の災害がつづく.
ざまぁない,と見るひともいるだろう.
列島のすべての海岸を、すべての河岸を,
コンクリートで固めつくすのだろうか………,
と少しばかり不安が増した.

ただ,すこしばかり時間を巻き戻せば,
列島がさまざまな自然災害に見舞われてきたのではないだろうか.
いまに始まったことではない,と.

旧民主党の面々が,あのスローガンを,たんなる言葉あそびの類にとどめず,
可能性や限界,
具体的な政策・事業のあり方,
きちんと考え続けてもらえればいいな,と思っていた.

災害はつづく.

で,自然災害の話ではなく,映画.
映画評しか読んでいない.
じっさいに映画を見ていない.
もうずいぶん映画を見ていない.
でもとても気になるテーマだった.


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インタビュー 『ゲッベルスと私』監督たちに聞く
「見て見ぬ振り」を繰り返さないために
クリスティアン・クレーネス
フロリアン・ヴァイゲンザマー

聞き手=中村一成

(C)2016 BLACKBOX FILM & MEDIENPRODUKTION GMBH
監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー(脚本も)、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー
2016年、オーストリア映画、113分、ドイツ語、モノクロ
配給:サニーフィルム/6月16日より岩波ホール他全国劇場ロードショー中

なかむら・いるそん ジャーナリスト。著書に「ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件」「ルポ 思想としての朝鮮籍」など。

撮影・中山和弘

Florian Weigensamer
 オ-ストリアの政治誌「Profl」でジャーナリストとして勤務後、通信社で欧州向けニュース記事やルポタージュを執筆。その後、東欧とアジアをテーマにした政治・社会テレビ番組をクレーネスと制作するほか、アーティストと共同で展示映像の製作なども行う。

Christian Krones
 著名な撮影監督のアシスタントを経て、オーストリア、ドイツのテレビ局に勤務の後、1990年からフリーランス・プロデューサー。2006年、ブラックボックス・フィルム&メディアプロダクションを設立、会社経営、プロデューサー、ディレクター業を兼務する。



 ナチスの宣伝大臣ゲッベルスの元秘書、ブルンヒルデ・ボムゼルにカメラを向けた『ゲッベルスと私』が公開されている。彼女の証言から浮かび上がるのは、目の前の不正義から目を逸らし、権力に同調した者たちがナチスの独裁体制を完成させ、支えた事実と、排外主義に覆われた現在世界と当時との類似性である。来日したクリスティアン・クレーネスとフロリアン・ヴァイゲンザマー両監督に話を聴いた。


「自分ならどうしたか」という問い

──「なにも知らなかった、私に罪はない」が彼女の一貫した主張です。権力中枢でのやり取りや虐殺の事実を「知らない」という人物をあえて主人公にしたのは?

クリスティアン・クレーネス(以下、CK) かつてナチの中枢にいた人の話を聴き記録するのは後世への警鐘だと。年齢的にも最後の機会ですし、映画を撮る者の義務だとの思いがありました。

フロリアン・ヴァイゲンザマー(以下、FW) 確かにナチの時代を描いた映画はいっぱいあります。ユダヤ人犠牲者はもちろん、加害者のゲッベルスを描いた
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作品もあるし、ヒトラーに至ってはいくらでもあります。でも、同調者に焦点を当てた映画はこれまでなかったと思う。ナチスに便乗し、そこで利益を得た人たちは、ドイツにもオーストリアにもたくさんいました。彼らは目の前の不正義に対して見て見ぬ振りをする。あるいは政治的関心を払わずにいた。ああいう人たちがいたから独裁体制が成立しました。同調者があの体制を担ったのです。
 政治的に考える映画人の一人として、私自身の任務だと思うのは、観る人に次のようなことを訴えるということ。ボムゼルさんが語るナチスの時代は、ユダヤ人迫害に代表されるように楽しい時代ではなく不愉快な時代です。その不愉快な歴史を見据え、自分ならどうしたか。彼女と同じような機会便乗型でいくのか、あるいは抵抗するのか。給料や高い地位などのニンジンをぶら下げられた時、それまでの自分自身の原則を捨ててしまうのか。「私ならどうしたか」をつねに考えてみようということ。これは映画人としての義務だと思います。

──原題『あるドイツ人の人生(A German Life)』(傍点は筆者)の意味もそこに?

FW ナチスの宣伝省で働いたのは特殊でしょうが、彼女の人生は当時の典型的ドイツ人だと思います。オーストリアも同じです。彼女と同じ何百万人のドイツ人、オーストリア人が独裁、人権侵害を見て見ぬ振りをしてナチスを支えた。そして戦後は過去にきちんと向き合わず、キャリアを積み重ねた。これも典型です。
 加えて、あの世代の人々は幼少時に厳しい権威主義的な教育を受けています。お父さんに口答えなどできない、質問などしない、上に従順な人間を作り出す教育です。映画の中でも彼女が、自分が受けた教育に触れた上で、今の人たちはもっと政治的に自分で考えられる教育を受けていると語る部分があります。彼女はその意味で典型的、平均的だと思う。

CK 商業映画には売らんが為的なセンセーショナルな題名が多いけれど、あの当時の典型的なドイツ人の人生を浮き彫りにするのが私たちの狙いなので、タイトルも抑制的にいこうとなったのです。


現代と共通する右傾化の要素

──彼女の回顧とゲッベルスの言葉、そして当時の映像記録が淡々と繰り返される。静かで、ある意味動きのない作りの作品ですが、一方でお二人は、「これはアクチュアルな映画なのだ」と強調されています。

CK 彼女にカメラを向けたのは二〇一三年と一四年の二回です。シリアの内戦はまだ初期だったし、ドナルド・トランプの大統領当選はもっと後です。私たちは最初、歴史の記録との認識で制作を始めたのですけれど、日を追うごとに世界の右傾化が強まっていきました。映画ができたのは二〇一六年です。前年には欧州に大勢の難民がやってきて排外主義が噴出しました。米国大統領選も完成の年です。言い換えれば、世界の右傾化が誰の目にも明らかになりました。その段階で本作は単なる歴史映画に留まらない、極めて今日的な意味を帯びていました。
 思うに、世界は第二次大戦後最大の右傾化に直面している。欧州や米国、日本も。そうなると二〇世紀中盤に欧州で起
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こったことと、現代世界で進行していること、時代は違うけれど、大衆を扇動するメヵニズムや口調、言葉などパラレルな要素が多々あるのではないでしょうか。
 権力の座に就こうとする、あるいは一部就いた右翼やポピュリストたちは、民衆の不安や憎悪を煽り立てます。かつてのナチスで言えば、ユダヤ人がドイツ民族の脅威だと喧伝した。現在なら、中東やアフリカから難民がやってきて、欧州の福祉を食い物にしている、我々の安全を脅かしていると、そう繰り返して民衆の不安を掻き立てているのです。

──お二人が拠点とするオーストリアは欧州で最も右傾化が激しい国の一つです。

CK 現在、国民党と自由党が連立政権を組んでいるのですけれど、自由党というのはナチスの残党と言っても過言ではない排外主義政党です。極右を含んだ連立政権は発足してほんの数か月ですが、この間の変化は激しいものがあります。
 選挙前から彼らは、意識的に難民を標的にした挑発発言を繰り返してきました。排外を競うようにね。そして、難民法をより苛烈なものに変えると言う。それからメディアです。彼らはメディアをコントロールしようとします。まずは公共放送の「改革」です。権力者の立場でこれらを確実に実行しようとしています。
 一方で、残念ながら市民社会の反撃は弱々しい。ナチスもそうでした。信じらイれないテンポで民衆を誘導し、政権を取ってすぐにメディアを統制し、教育をおさえていく。似たような現象です。時代は八〇年ほど違いますが、ある種の法則性があるのではないかと思います。

FW 思うに、民主主義は私たちが考えていたほど安定したものではなくて、むしろ私たちが思う以上に壊れやすくて不安定なものなのでしょう。世界で最も民主的な憲法を持つと言われたワイマール共和国からナチスへと移行した事実が示すように、民主主義から独裁への流れは皆知っているはずですが、今はその危険な流れへの過渡期にある気がします。小さな手順が踏まれていき、その先に何があるのかを考える必要がある。私たちが権力をコントロールするという、民主主義本来の姿を取り返さないといけない。


ポピユリストがつけ入るところ

──なぜ民主主義制度は圧政を準備するのでしょう。現在も若年層の民主主義嫌いが顕在化しているように思えます。

CK 背景を考えるなら、人間の性(さが)に触れないわけにはいきません。やはり人間はどうしても誘導、誘惑に負けてしまう、それをポピュリストは悪用するわけです。ゲッベルスが言ったように、真実を言うのではなく、とにかく大きな声で言うこと。そうすれば大衆はついてくると。そういうポピュリストに引き込まれる危険は、いつでもどこでもあると思います。
 一九三〇年代は世界大恐慌がありました。ナチスがそれを利用して大言壮語の約束を繰り返すと、民衆はそれに惑わされてしまう。今日の世界も、不安や恐怖が掻き立てられている危険な状況にあります。欧州でも日本でも、飢えるような危機ではないことは当時とは違いますが、人々の不安にポピュリストが付け込み、悪用する法則は似ています。
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 それから、ポピュリストが若い人にとって魅力的なのは当然でしょう。いつの時代も彼らは大言壮語を繰り返し、それまでのシステムに「NO」と叫び、「こんなものはダメだ」と言って単純な解決策を提示していく。そこに人々が誘導されるメカニズムは同じ。典型はトランプです。彼は米国第一と繰り返し、外部の敵から国民を守ると声高に叫びますが、敵を作ったのは米国の政策ですよ。
 そして、ポピュリストは不安を掻き立てる。難民が職を奪うとか生活を奪うとか、少数派を敵にして煽り立て、自分たちは皆さんをその脅威から守るんだと主張する。かなりの部分は嘘ですけどね。
 ナチスは民主主義を悪用しながら権力の座に就き、半年後には独裁体制を築いてしまった。ワイマール憲法下でとてつもない独裁体制ができたことを思います。
 今日の世界を見ると、米国も欧州も、日本についてはよく知りませんでしたが、今回いろいろな方に話を聴くと、相当危機的な状況のようですね。典型的な例はトランプです。誰も彼の考えていることが分からない、ひょっとすると彼自身にも分からない(笑)。でも言葉だけは強い、声だけは大きい。ゲッベルスは文字通り、当時のナチスの中でも最も声高にユダヤ人排斥などを叫んだ人物です。あの時代と現代との類似性を考えてみた時、我々が自問しなければいけないのは、いつ我々は立ち上がるのかということです。

──ボムゼルさんは、あの時代には抵抗など不可能だったと言っています。

FW 確かに、彼女が働いていた一九四三年から四五年は、ほぼ不可能だったと思います。ドイツはスターリングラードで敗れ、国内統制がさらに厳しくなり、抵抗は即、命に関わる時代でした。でも、一九三三年から四三年は独裁下でもやろうと思えばできた。一九三三年の選挙以前ならもっとできた。あれよあれよという間に独裁体制が築かれ、気付いた時には誰も反対の声をあげられなかった。だからこそ立ち上がる時が大切なのです。


繰り返される「見て見ぬ振り」

──本作の制作と同時進行で、現代世界は排外主義と不寛容に覆われています。あの時代を知る彼女自身、壊れていく世界の行方に危機感を持っていたと。

FW この映画の主題は時代を超越している人間の弱さ、性です。
 映画には出てこないのですけど、インタビューで彼女は、「見て見ぬ振り」をする部分で、当時と今が似ていると言っていました。それは、たとえばユダヤ人が迫害された時に見て見ぬ振りをすることです。今でも、シリア難民が地中海を船で渡り欧州に行こうとして、溺れて何人も死んでしまったニュースを見たあと、平気で夜、パーティーをしたりする。そういう、見て見ぬ振りをする近似性を彼女自身も意識していたのだと思います。
 そこの部分をことさらに取り上げなかったのは、当時と現在の類似性ということをフィルムの中でストレートには描きたくなかったから。映画に盛り込む情報をなるべく絞り込み、観る者がそこから先を考える作りにしたかったのです。
 映画で彼女自身も言っているように、若い頃の彼女はまさにノンポリで政治的
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関心はありませんでした。仕事でキャリアを積んでいこうと思っていたし、若者としての日々の楽しみ、たとえば踊りに行ったり恋人を作ったりすることに関心があった。その意味では、どこにでもいる普通の若い女性でした。
 ところがナチの中枢で働き、敗戦後はソ連に捕まり、五年間を強制収容所で過ごした──これは彼女が我々に話したがらなかった部分でした──彼女が、人生の終盤に世界を見回した時に感じたのは、危機感だったようです。特に私が覚えているのは、彼女が亡くなる直前に電話で話した内容です。彼女はトランプの演説を聞いたと言って、こう続けました。「彼の演説は昔を思い起こさせる」と。

──彼女はミュンヘンで映画を観たそうですね。かつて新聞記者から騙し討ち的な取材をされた経験もあるとのことで、メディアの聴き取りは断ってきたとも聞きます。自分の語りを世に出すことができて、彼女はどのような思いだったのでしょう。

CK この映画が上映された時、彼女は一〇五歳でした。そこで生まれて初めて赤絨毯の上を歩きました。上映後は批判的な質問も受けましたけれど、同時に「よくぞ映画に出てくれた」と称賛する声もあって、彼女は喜んでいたようです。

FW 映画の中で、「私は臆病だった」と言う場面がありますが、私はあれこそ勇気のある発言だと思いますよ。

CK 彼女が言っていたのは、人生の終盤で、自分の人生を改めて鏡に映して点検するような経験ができてよかったと。それから若い人に向けては、自分が犯した「過ち」「間違い」──彼女は決して自分のやったことを罪とは言いません──を繰り返してほしくないとも言っていました。撮影が長く続き、編集も時間がかかる。彼女自身、年齢的に完成品を観るのは無理ではないかと思っていたけれど、見届けることができた。彼女も驚いていたと思います。

FW 結果的には自分の一生をもう一回振り返ることが、彼女自身にとってもいい機会だったと思います。ある種のカタルシスというか、溜まったものを吐き出せたという意味でね。

CK もう一つ加えると、彼女が亡くなったのが一月二七日(二〇一七年)。一九四五年の一月二七日にアウシュビッツが解放されたことに因んだホロコースト記念日でした。彼女の死去した日付が記念日なのも何かの因縁と思います。メモリアルデイとは、記念というより憶えておくということ。後世が彼女の言葉を留めておくという意味でも象徴的です。


ホロコーストはまた起きうるのか

──本作では、初公開のアーカイブ映像の数々が挿入されています。選別の基準は。

FW 彼女は嘘をついてはいないと思うけれど、何分、昔の話です。事実に反していたり、証言にも矛盾があったりしました。最初に撮影をお願いする時、彼女の証言に我々が後でコメントをつけたりはしないと約束していたのですけれど、間違いや矛盾、乖離をそのままにするわけにはいかないでしょう。そこで、事実はこうだったと端的に示し、彼女の証言を相対化するためにアーカイブを使いました。映像の選定基準も、歴史の事実を
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見せるということです。
 フィルムはワシントンDCのホロコースト記念博物館で八〇〇時間かけて探し、選定しました。当時のフィルムは、ドイツにせよ米国にせよ概ねプロパガンダです。我々はその内容を改変して使うわけにはいかないけれど、オリジナルのプロパガンダ映像を使う危険性は付きまとう。そこには細心の注意を払いました。
 同じプロパガンダフィルムといってもドイツと米国は違います。ドイツは人々を一つの方向性に持っていく、動員です。それに対して米国のそれは、個人が強調されている。そういう肌合いの違い、正反対の性格も興味深いと思います。

──ゲットーでの死体処理の映像など目を背けたくなる映像も少なくない。

FW 今では制作上の苦労話のように語ることができますけれど、当時は違いましたね。何週間もの間、毎日のようにこんな映像を観て、夜はゲッベルスの本を読んだりしているわけです。本当に気が滅入りました。正直、もうナチス時代の映画を作るのはこりごりだと思っていたんですけれど、一〇五歳になるオーストリアで最年長のホロコースト体験者に出会ってしまいまして(苦笑)。今は被害者の映画を作っているところです。

CK 確かに、死体処理の映像は大変残虐で目を背けたくなる。同感です。でも私個人にとって最も残酷に思われたのは、解放後、連合国軍がガス室を検証する映像です。窒息状態の人々が外に出ようともがいた手の跡が、生乾きだった壁にくっきりついている。衝撃でした。

──いつも思うのですが、なぜ人はこんな真似ができたのでしょうか。

CK ……ホロコーストは、一回性の、他に比較しようのない出来事だということが言えるんじゃないかと思います。

FW まさに工場のように人を殺していく。いわゆる虐殺は多々あったにしても、工場生産のように計画を立て、それに沿って人を殺していったのはまさに一回性の出来事だと思います。工業化、官僚主義化で、相手と距離を置くことで大量殺害が可能になった。一つ言えるのはその点だと思います。距離があれば人は人を容易(たやす)く殺してしまえるというのは、今日の文脈でいえばドローンだと思います。攻撃者は現場とは全然違う場所から爆弾を落として人を殺す。それから、ナチスの時もそうですけど、「命令だから」「命令は命令だから」という思考です。たとえば一番末端で、人々の詰め込まれた部屋にガスを投げ込んだ人間は、その上から命令されたと言う。そのまた上の者はその上の者から命令されたと。その果てしない連鎖が続き、誰も責任を取らない。

CK そしてこういう残虐な殺人に関わった者たちは、しかしタ方になれば家に帰り、子どもを愛する優しいお父さんでもあったわけです。そこになんの矛盾も感じない。ここからホロコーストに話を戻すと、今のところ人類史上の一回性、一回限りの出来事だと言えると思うけれど、しかしそれは今後も起こりうることだという警告でもあります。

──その邪悪さは人間の本質的な部分なのだと思いますか。

FW ……少なくとも私に言えるのは、人間とはそういう可能性がある存在だと
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いうことです。容易に悪の方へと転んでしまう可能性を人間は持っている。


立ち上がる力を持つ

──記録しても世界は壊れていく。果たして人間とは過去から学べる存在なのか?

CK 確かに歴史は繰り返す側面がある。それを見れば、人間は果たして歴史から学べるのかと悲観的に考えてしまう側面はあるでしょう。でも我々は、あの最も忌まわしい時代の歴史を見据えることはできるし、私たちはそれをやらなければいけない。そうでないと結局、同じ過ちを繰り返してしまう。今日との関連性、なぜあんなことが起こったのかの背景や根拠をきっちり知っておかないと、同じような危険はつねにある。
 もちろん総体的な歴史を学ぶことは難しいし、歴史の全体像は分かり難い。ましてや一本の映画には盛り込めない。本作もモザイクの小さな石を寄せ集めたような性格のものですけれど、だからこそ歴史を検証する一つの貢献になっていると思います。そういう意味でも本作は、「昔はああだった、けれども今は違う」みたいには観てほしくない。
 先ほど「人間の性(さが)」と言いましたけれど、人間は弱くて、給料が上がるとかポストが上がるとなると、容易くそれまでのモラルを投げ捨てたりしてしまう。いとも簡単に堕ちてしまう危険があります。

──世界に希望はあると思いますか。

FW 月火水は希望があって、木金土にはなくなって、日曜日はお休みです(笑)。

CK 歴史を見れば、極右という政治集団はいつの時代にもいました。それでもみな従来はこう見倣されていた。「彼らはエキセントリックで小さな集団だから景気が良くなれば消える」と。でも、今は部分的には政権の座について、メディアや教育への統制を試みています。なぜ彼らが巧(うま)くやれるのか。状況の変化です。今や極右は社会の一握りではなく、社会の真ん中に定着している。かつて民主主義の担い手だった中間層に、今や極右が巣くっている。その意味で私は楽観的にはなれないのですけどね。
 たとえば欧州連合です。ある意味EUは何十年もかけて作り上げた平和プロジェクトです。でもそれが今、ポピュリストの手であっという間に破壊されようとしています。悲観的にもなりますが、それでも闘いは続けないといけない。

──本作を撮り終えて、人間存在について考えたこと、危機の時代に思うことは。

FW 実は、この映画を撮る前のほうが、もし自分が厳しい側面に立たされたら、道徳的に正しい行動をとるという気持ちが今よりもずっと強かったのです。しかしこの映画を撮って、人間はいかに簡単にダークサイドに転んでしまうのかということを痛感しました。この問題がどんなに難しいかを思い知らされましたね。

CK 欧州でも米国でも日本でも、右傾化がどんどん進んでいます。私自身、肝に銘じたいし、多くの観客にお願いしたいことは、政治的に鋭敏な感覚を持って、立ち上がるべき時に立ち上がるということ。遅いか否かと言えば既に遅いわけですが、立ち上がらないと。

【世界】2018.8月 240-246


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