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三浦佑之 鯨を獲る人と舟

2018年8月10日(金)

くじらの話題.
くじらについては,すこし前に
中園成生「くじら取りの系譜」
を読んだ.

列島の住人はなにを食べてきたんだろう?
なにを食べていくんだろう?


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【図書】2016.1月

鯨を獲る人と舟
三浦佑之


 前から訪ねたいと思いながら一度も渡れなかった対馬と壱岐に出かけることができた。南北に長い対馬はどこに行っても韓国からの観光客で賑わい、そこが国境の町であることを実感した。独りでレンタカーを走らせていた風体の怪しいわたしは、異国の仏像ハンターかと疑われたらしく、パトカーに尾行されたあげくに尋問されたりして過ごした。
 国生み神話に名のみえる「津島」の、列島と大陸との交流拠点としての歴史は古いが、表面だけを経めぐった者には中世以降の痕跡がつよく印象づけられた。それに対して、対馬南部の厳原(いづはら)から高速船で六〇キロほど南下した壱岐は、古代の遺跡が多いこともあってヤマト(倭)とのつながりをつよく感じさせる島であった。その中心に位置するのが原(はる)の辻遺跡である。
 いわゆる「魏志倭人伝」に出てくる「一支国(いきこく)」の中心と考えられている原の辻遺跡は、朝鮮半島や中国とのつながりを示す弥生時代の遺物が数多く出土しており、そこが交易の拠点であったことを物語る。おそらく一支国に限らず、弥生時代のクニは交易を抜きにしては存在しえない。神話や遺物から想像できる出雲などを思い合わせても、そのことは明らかだ。ことに日本海は、そうした流通を可能にする穏やかな海の路だった。
 原の辻遺跡は国指定特別史跡として公園になり、遺跡を一望できる丘の上には壱岐市立一支国博物館があって壱岐の歴史の全貌を知ることができる。そのなかの古墳ゾーンではヤマト王権とのつながりを示す六-七世紀の横穴式古墳が紹介されているのだが、展示されたうちの一基に遺された線描画に驚かされた。
 博物館を訪ねる前、さほど大きくはない島を一周しながら古墳をはじめいくつかの遺跡や神社を見て廻っていたが、その古墳は見落としていた。そこで急いで現地に車を走らせる。
 壱岐島中央部の西端、道路から少しはずれた林の中にある鬼屋窪古墳(壱岐市郷ノ浦町有安触(ごうのうらちょうありやすふれ))は、案内板によれば六世紀末から七世紀前半の築造という。現在は覆土がなく、羨道と玄室を構成する巨石だけがむき出しになっており、棺もない。目当ての線描画は入り口左側の石に刻まれていたが、風化していて肉眼だけでは何の絵かわからない。復元図を手がかりに確認すると、描かれているのは鯨漁の様子らしい。
 舳先と艫(とも)とが反り上がり、何本もの長い櫂(かい)を付けた二艘の舟が並んでいる。舟の上には長い棒(おそらく銛(もり))を持った人がいて、その先の海には大きな魚(おそらく鯨)の親子らしき姿がある。その親のほうの体にはすでに長い棒が刺さっている。鯨に向かって右側の舟(絵では上のほうに描かれた舟)の人は、長い棒を高く掲げてジャンプをしており、槍投げの選手よろしく今まさに鯨に向かって銛を投げようとしている。左側の舟人ははっきりしないが、船首に立つ人はすでに銛を打ち込んだあとで、真ん中あたりには帆柱かやぐらに登る人がいる。
その絵を見てわたしが驚いたのは次の二点であった。一つは、古代にも鯨漁はあったのだということ。もう一つは、たくさんの櫂をもつ舟足の速そうな舟の姿である。そう言えば、稲吉角田(いなよしすみた)遺跡(鳥取県米子市、弥生中期)で発見された大壼にも、前後が反り上がった舟に乗って何本もの櫂を漕ぐ人が描かれている。
 鯨漁についていえば、万葉集には「いさな(鯨魚、勇魚、不知魚、鯨名)取り」という枕詞があって海という語にかかる例がたくさんあるから、鯨が漁撈の対象であったことは十分に想像できる。しかし一般的には、勇壮に海に漕ぎ出して鯨を銛で突くというような漁法は考えられておらず、浜に上がった「寄り鯨」を捕獲するのが古代の捕鯨であろうと解釈されている(常陸国風土記久慈郡条や壱岐国風土記逸文にはそれらしき記事がある)。しかし、寄り鯨を捕獲するだけなら「いさな取る海路に出でて」(巻13、三三三九番)というように歌うものかどうか。古事記に載せられた久米歌では、カムヤマトイハレビコの戦闘集団が、「わが待つやしぎはさやらず いすくはしくぢらさやる」と歌っているのをみても、勇壮に海に漕ぎだす海の民はイメージできるはずなのに。
 捕鯨といえぱ和歌山県太地町(たいじちょう)が有名だが、そこで一七世紀初頭に発祥した「網掛け突き取り漁法」という大がかりに組織化された鯨組による捕鯨は、太地から土佐そして壱岐へと広がったという。また、日本列島における捕鯨法の変遷は次のように説明される。「古くあったという弓取法を別とすれば、突取法・網取法・米国式捕鯨法・ノルウェー式捕鯨法の四段階を経過した。第一の突取法は銛で鯨を突き殺す方法で、何艘もの船と何人もの漁夫の協業を必要とした。これによってわが国の沿岸捕鯨業がはじめて成立したとみられる。突取法の段階は元亀年間(一五七〇-七三)から延宝年間(一六七三-八一)までであったという」(吉川弘文館『国史大辞典』「捕鯨」二野瓶徳夫執筆)
 ここにいう「網取法」というのは太地で発祥した「網掛け突き取り漁法」をさす。ところが、その前段階にあったとする「突取法」がなぜ一六世紀後半から一〇〇年ほどに限定されるのか、その理由はさっぱりわからない。というのも、壱岐の鬼屋窪古墳の線描画が鯨漁を描いているのであれば、突取法の歴史はとてつもなく古いのではないか。そんなふうに考えるのは、以前、写真家の石川梵氏の『鯨人』(集英社新書、二〇一一年)という本を読み、突取法の古さを知ったからである。ただし、『鯨人』に描かれている捕鯨は、日本列島から五〇〇〇キロも南下したインドネシアのバリ島のずっと東に位置する、レンバタ島のラマレラという漁村の漁師たちに伝えられた漁法である。鯨を発見すると、プレダンと呼ばれる舟に乗り組んだ一二、三名のマトロス(乗組員)たちが舟を漕いで鯨を追い、長い銛を持って舳先に立つラマファと呼ばれる男が、呼吸するために水面に出てきた獲物目掛けてジャンプし、長いロープの付いた銛を手に体もろとも鯨に突っ込んでゆく。
 石川氏は何度かの挑戦ののちに、その瞬間を写真にとらえているが(一七六、七ページ参照)、あまりの豪快さに度肝を抜かれた。同様の写真は石川梵『海人』(新潮社、一九九七年)や関野吉晴『海のグレートジャーニー』(クレヴィス、二〇一二年)でも見られる。ただし、写真を見た時には、南の海にはすごい漁師がいるものだと驚くだけだったが、今回、壱岐の古墳で見た捕鯨の様子が、ラマレラの漁師たちを写した石川梵氏の写真と構図までまったく同じだったのには、偶然ならざる一致を思わざるをえなかった。
 だからといって、ラマレラの鯨漁と六、七世紀頃に壱岐の海で行われていたであろう鯨漁とが、単純につながると考えているわけではない。ただ、五〇〇〇キロという距離や造船・航海の技術は、われわれが感じるほど大きな障害ではないのかもしれないという気がするだけである。南から北へと、王魚(マッコウクジラ)を追いながら黒潮に乗った人びとが、遥か北の日本列島に辿り着くこともありうるか、と。何百年、何千年もの時間をかけて。
 舟の構造からすると、日本古代の舟にはアウトリガー(舷外浮材)が付いておらず、外海の航海はむずかしいと考えられている。しかし、取り外し可能な浮材を用いたり複数の船を並べたりした場合、考古学的な痕跡は遺らない。舟の構造と航海技術に関しては考慮の余地がありそうだ。
 さらに舟に関して、日本列島の各地に舟競漕が存在するのは興味深い。何艘かの舟を用いた競漕は、沖縄のハーリーや長崎のぺーロンだけではなく、全国の海浜地域に濃密に分布する(『日本列島沿岸における「船競漕」の存在分布調査報告書』海の博物館、二〇〇一年)。原の辻遺跡公園内の展示館で入手した安冨俊雄『日本の舟競漕-壱岐編-』(私家版、一九九五年)によると、壱岐でも各所で舟競漕が行われている。
 先日も、毎年一〇月一六日に熊野川の下流で行われる「御船(みふね)祭り」を見学した。その中心は、九名の漕ぎ手とトモトリ・オモテ各一名が乗った「早船(はやふね)」九艘が、1・6キロ上流まで地区の名誉をかけてカヌーレースする行事であり、まるでレガッタを見ているようだった。熊野(いや)速玉(はやたま)大社(たいしゃ)の例大祭である御船(みふね)祭りは、「神幸船」に載せられた祭神(夫須美(ふすみ)神)を諸手船(もろとぶね)が曳いて上流に設えられた御旅所に向かう神事で、早船の競漕は神の先導として行われるのだが、勇壮な舟競漕のほうに見物人の目が向くのは自然なことである。そして、もともと速く漕ぐことには、意味があったはずだ。鯨を追うためにとか、何かのために。
 諸手船の舳先に立ち、赤い装束を着けて女装した音頭取りが「ハリハリセー」と声をかけながら踊る、その掛け声は沖縄のハーリーとつながると谷川健一は述べている(『出雲の神々』平凡社カラー新書、一九七八年)。そして興味深いことに、諸手船は、読み方は違うが島根半島先端の美保神社(松江市美保関町)で毎年一二月三日に行われる舟競漕に使われる舟の名「諸手船(もろたぶね)」と同じである。新宮と美保とに何かつながりがあるのか、ないのか。少なくとも古事記の神話では、出雲国と木国(紀伊国)とはつよく結ばれている。舟競漕もその一つである。
 小さな舟で大海を漕ぎ廻りながら鯨を突く鯨漁と、足の速い小舟で先を争う舟競漕とは、始まりのところでつながっているのではないか。そんなことを考えていると、空想にブレーキがかからない。どこまで走り抜けば真実に巡りあえるのか、それもわからない。ただひょっとしたら、日本列島と太平洋の島々とをつなぐ、人類移動にともなう遥かな旅の痕跡がそこには潜んでいるかもしれない。(みうら すけゆき・古代文学)

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