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ノゾソラさん江 [森毅 ベスト・エッセイ]

2019年9月17日(火)

森毅『ベスト・エッセイ』から.
小針晛宏さんへの追悼の文章.


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ノゾソラさん江

 小針晛宏(こはりあきひろ)、人よんでパンセソヴァージュのノゾソラという。
 パンセソヴァージュというのは、一頃はやったレヴィ=ストロースの本の題、未開の思考とも野生の三色董ともいう、つまりは彼の酔態をさしているのだ。彼は笑い上戸と泣き上戸と怒り上戸の三色を、まったくランダムに選択し、笑えば歌などあって陽気でよいのだが、泣けば「今どき大学の教師なんてミジメだねエ」と陰々滅々、怒っては「日本の革命をどうするんや」とすごむ。バリケードの中へ酔ってはいりこんで、笑ってはその昔の歌こえなど聞かされて学生どもおおいにしらけ、さらには陰々滅々をもてあまし、ついに「お前たち革命できると思とるんか」などと怒鳴られて、ヘルメットかついで逃げだしたものだ。ぼくはしらふで酔っていて飲むと酔いのさめるたちなので、しらふで小針とつきあって人びとを感嘆させたものである。あるときは、電話で一時間ほどの長話、やがて同じ話の出てくるのに不審をいだいて問いただすと、深夜飲むほどに相手が欲しくなり、つ
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まりぼくは電話線を通じて、一時間も彼の酒の相手をさせられていたわけだ。あるときなどは、三つを同時に見たことがある。同宿の門限こえて脱出して飲みに出たのが、深夜に怒り狂ってドタドタと障子あくるも瞋恚(しんに)の相、どないしたんやと問うと、旅館で泥棒と間違えられたという、そらおたがい、間違えられてもしゃあないやんけ、ウムなるほど、ケラケラケラとけたたましく笑い、そのままウォーンと呻き泣きじゃくり始めたのだった。
 彼の心の中には、つねに〈笑い〉と〈泣き〉と〈怒り〉が、それもほとばしる情念として用意されていたのだった。大学の教師なんて国家に禄をはむミジメサより、文筆で暮らしをたてたいとは言っていたが、それなら商売のネタを小出しにすべきだのに、つねに思いのたけを精一杯書かずにおれない、それはあたかも、千人斬りを志した男が最初の女に入れあげて腎虚になったみたい、などと悪口を言ったものだが、つねに精一杯生きるのが小針の身上で、それで身をすりへらしているのを眺めても、はたからどうすることもできない。
 ノゾソラのほうは、?というのが不思議な字で、シジミ小僧とか、ノゾキの兄さんなどとも呼ばれてはいたが、ベトナム反戦運動のアピールをもらった男が読めず、それが覗空のごとくクシャクシャ書いてあったのを、これは針の小さき穴より空を覗くの意なりと説いたのが、おこりとされている。
〈230〉
 本当のところはアキヒロと読む。その名のごとく、少女のような体形と少女のような容貌をし、コハリをもじって小春姐さんというペンネームを使ったこともあるが、ゲイの趣味はなかったと思う。ある夜彼と同宿し、例によって徳利を倒して寝入っていたのが、夜中に寝呆けてその頃長髪の極にあったぼくのほうを向き、アレこれどういうこと、あんただあれとにじり寄り、ぼくの髪を愛撫しかけたが、顔のほうを眺めて、ア森さんか、こらイカン、ホモになるところやった、もっともこれは、ぼくの顔のほうが悪かったのかもしれない。
 文章に見る道化の演技のあまりの巧みさに、調子のよい男と思う人もあるかもしれぬが、根はひどくキマジメなのだ。ただ、道化であることが有効性を持つこの現し世に、あまりにも巧みに道化の仮面をかぶり、それが骨髄のキマジメサとギシギシと軋る、その音に耳をすませて盃を傾けている凄さ、例の三色酔態のカラミにつきあえたのは、その現代風マジメ人間の業とほとばしりを感じたからでもあった。
 それで、民青でも全共闘でも、あるいは彼に罵倒されているノンポリ優等生でも、すべての学生に好かれた。彼が倒れると、熊野寮では特別全寮放送がされて、あらゆるセクトの学生から献血がとどけられた。六九年にフリーセクトという署名のビラを見た小針は、これがセクトフリーやったらどのセクトにも入らんというこっちゃうけど、きっとフリーセクスみたいにどこのセクトともベチャーと仲ようするんやろナ、と彼じしん
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も若干はその願望があったのだが、はからずも死の一月前になって、その体内の血がフリーセクトになったのだった。
 そして、彼のいう「あのイヤラシイ四十代の中年男」になる直前での死、折から大学はバリケードストで、そのバリケードには大きな黒枠で、同志小針の死を悼むとあった。ちょうど教官有志のデモが小針追悼をかねてというので、ぼくは彼の写真を首にさげて参加したのだが、その写真を見て色とりどりのヘルメットの学生どもが飛びいりし、おかげでいつものテレテレした教官散歩デモとこと変わり、完全武装の機動隊の兄さんたちに囲まれることになった。彼は生前、機動隊の兄さんとも仲よくしたいと言っていたので、機動隊も追悼に参加したのだろうか。
 山田稔の『教授の部屋』は小針研究室を場所としてはモデルにしていたが、小説と違うのはヘルメットどもが部屋の管理者と酒を酌みかわしているところである。このようなのは普通なら造反教官風なのだが、もしも彼が「造反教官」なら、「大学執行部からもっとも愛された造反教官」という特異な例外になるだろう。教授会での部長報告は、小針追悼とバリスト状況が混線するという奇妙なものだった。「京大闘争」がなにやらパンセソヴァージュ風だったのも小針のせいかもしれぬ。
 いま彼の処女論文の別刷りを見ると、表紙にパチンコ屋開店の花輪のような字体で、
〈232〉

     一刀斎さん江   小春より

とある。ここで彼に花輪を送らねばならぬのは悲しいことだ。

(一九七五年)

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