SSブログ

北條勝貴 亡所考 第7回 そこにいたケモノたち── 毛皮獣養殖の地域史 【世界】2021年7月

2021年7月25日(日)

小学校のころ,山羊を飼っていたことがあった.
ペットとして.ほかに,ニワトリとウサギがいた.
ふつうのサラリーマンの家だったけれど,近所にはまだ田圃や畑が残っていた.小学校は,農家の子らもすくなくなかったか.

牛や馬,山羊,ウサギ,ニワトリ,ヒツジは見なかったか.
でも,狐やタヌキの類いは見なかったな.


─────────────────────────

【世界】2021年7月

亡所考 第7回

そこにいたケモノたち
毛皮獣養殖の地域史

北條勝貴


『風立ちぬ』の世界と養孤場

 前回扱った養狐産業は、樺太(からふと)や北海道、いわゆる本州では軽井沢などの史料が比較的豊かだが、その他の地域にも興味深い背景を持つものがある。例えば、水原秋櫻子が一九三七(昭和一二)年、富士見高原療養所(現富士見高原医療福祉センター富士見高原病院)──堀辰雄『風立ちぬ』で知られるサナトリウムである──へ友人曾宮一念を見舞った際に訪れた、八ヶ岳山麓の養狐場がそれである。秋櫻子は、翌年発表の掌編「養狐場」のなかで、その規模や形状に具体的に言及したあと、自分たちを見据える狐の視線について、こう記している。

  四十五、六頭がすべて同じ恰好をして見つめるのだから、見られる方は薄気味わるく、眼が妖しい光を放つように思えて、ちょっとたじろくのであった。[1]

 またそのすぐ後条には、狐舎の戸口に貼られた赤い「売約済」の札について、「この四十数頭のほとんどすべてが、やがてこの養狐場で殺され、東京へ出て襟巻になるのだと思うと気の毒であった」と綴る。先の「薄気味わる」さは、この「気の毒」さ、さらに突き詰めていえば後ろめたさの、形を変えた反映なのかもしれない。曾宮はすぐに退院するが、サナトリウムには死の影がつきまとう。
 それにしても、四十数頭の飼養とは規模が大きい。これは養殖された仔ギツネのみの数で、種狐はさらに、数頭を保持していたらしい。農林省水産局編『本邦養狐業ノ趨勢』の全国統計は、ちょうど秋櫻子掌編と同年のものだが、諏訪郡富士見村については二軒の養狐場を挙げている。うち一軒は六頭と小規模だが、もう一軒、河西荘三なる人物が一九三三年に創業した河西養狐場が、雄雌合計二六頭を飼養しており、秋櫻子の訪れたそれに当たると思われる。[2]

養蚕から養孤へ

 河西養狐場については、一九三三年一二月八日付『時事新報』に、「富士見高原で銀黒狐飼育──養蚕家が転業」という興味深い記事がみえる。これによると、当時は世界大恐慌の影響で生糸相場が安定せず、「生糸王国岡谷の膝元」の養蚕家にも、養兎や緬羊(めんよう)飼育へ転業する者が生じていた。先の荘三は、そのなかであえて養狐業を選択、温帯での飼育と駅至近の開設が話題となり、地域の期待を集めていたようである。考えてみれば、冷涼・乾燥・静謐(せいひつ)という養狐の条件は、そのまま養蚕にも当てはまる。東北以西で養狐が盛んであった地域も、古くからの養蚕地帯が少なくない。養狐も養蚕も、生きものの〈外皮〉を利用する産業であり、その行為にともなうメンタリティには、共通するものがあったのかもしれない。
 荘三については他に目立った記録がなく、詳細を調査中である。右の『時事新報』には「上諏訪町」の居住とあるが、河西氏は山梨や長野に多く、上諏訪でも、唐沢(からさわ)阿弥陀寺を開いた念仏行者河西浄西などが知られる。大正~昭和初期にかけての人物を探ってみると、諏訪郡会議員を務め、諏訪駅前に温泉旅館湖月館を経営していた河西啓作[3]、生糸商として成功した河西剛[4]らの名がみえる。恐らく、荘三もその一族だろう。養蚕との繋がり、養狐場が観光地としての意味も持つこと、駅至近、といったキーワードも合致する。

河西養狐場の地域性

 ところでこの河西養狐場は、現在の富士見町の、どの辺りに当たるのだろうか。COVID-19感染拡大のため現地へ赴くことが叶わず、この冬、町立富士見町図書館・同町高原のミュージアムへ協力を求めたところ、館長の小林久美氏をはじめとするスタッフ、町役場の方々が、親切にも貴重な資料を提供してくださったうえ、当時を知る方々へ聞き取りを行ない、跡地を突き止めてくださった。それによると、養狐場のあった場所は、高原病院から西へ一キロ弱、JR富士見駅からは西北へその半分ほどの、現町立富士見中学校(旧高原中学校)の南側だったらしい。一九九一年に刊行された、同町中心部富里(とみさと)区の区誌『故郷 富里の歩み』には、線路際に「銀黒狐飼育場」の看板の写る富士山の写真、ケージの前でキツネに餌をやる見学客を写した養狐場の写真が掲載されている。また、「今の高原中学のあるあたりは松林で養狐場があり、銀狐がたくさんいて見に行きお茶をいただきながら色々お話を伺った事もあったっけ」との、当時の住民、矢嶋きみゑさんの回想も読むことができる[5]。
 写真はともに一九三五年に撮られたもので、堀辰雄が、暮れに亡くなる婚約者と二人、高原病院へ入院していた時期に重なる。彼らもこの景観を観ていたのだろう。キツネの情愛や生命力が、文人たちを刺激したことは前回も触れた。秋櫻子を案内した療養患者の「小須田君」は、養狐場に親しんでいたようであり、他にも同所訪問が、患者らの「かっこうの気晴らし」であったと伝える証言もある[6]。先に掲げた養蚕・養狐の好条件が、転地療養施設にも共通することは、養狐場をサナトリウム文化から照射する視点を生じるかもしれない。傷心の堀の、「風立ちぬ、いざ生きめやも」との反語的決意に、キツネたちも力を添えたのだろうか。


[写真]『故郷 富里の歩み』より



温泉・観光地・養孤場

 『本邦養狐業ノ趨勢』の長野県の項は、河西養狐場を上回る最大規模の「鴇澤(ときさわ)養狐場」が、温泉で有名な、嬬恋(つまごい)の新鹿沢(しんかざわ)に存在したことを伝えている。創業は一九三二年、雌雄合わせ四〇匹の銀黒狐に、二~四匹の黒狐、十字狐、紅狐、赤狐、青狐まで飼養していた。創業者の鴇澤佐助は、一九三九年に毛皮日本社を起ち上げ、毛皮獣養殖産業の専門誌『毛皮日本』を創刊、自らも多くの研究・実践成果を発表している。多種のキツネを飼養していたのは、純粋に養殖のためだけではなかったのだろう。筆者が偶然入手した、「群馬県新鹿澤温泉 鴇澤養狐場ヱハガキ」には、精桿な「紅狐」や「三毛狐」のほか、丸々とした「綾狸」もみえる。一九三六年には上田に養狸場も開設、『毛皮日本』の誌面からは、養狐に遅れる養狸の水準を高めるべく、奮闘している様子がうかがえる。佐助はやがて、長野県養狸組合連合会副会長、大日本毛皮統制会社取締役などを歴任、斯界の第一人者となってゆく。
 興味深いのは、先の絵葉書に「新鹿澤温泉」とある点である。同温泉は、江戸期から栄えた鹿沢温泉が一九一八(大正七)年の火災で焼失したのち、大半の旅館の移転によって開かれた。二〇一九年の台風一九号で深刻な被害を受け、昨年やむなく廃業に至った老舗旅館「鹿澤館」は、一九三四年、上田市で乾物商「桝林本店」を営む鴇澤林蔵が開業したという。昭和初期の『人事興信録』をみると、この人物は、上田商工会議所常議員、若林醸造株式会社取締役、上田温泉電気株式会社・上田瓦斯株式会社各監査役などを務める、地元の名士であった。何と、その妹のとらが、養狐場を起こした佐助に嫁いでいるのである[7]。佐助も元来は上田で商家を開いていたようで、両者が親類であったことは間違いあるまい。
 樺太や北海道、軽井沢の養狐場は、当時、観光施設としても人気を集めていた。鹿澤館の開業は養狐場の二年後なので、佐助が岳父の新事業を支えようと一役買ったか、あるいは富勢を持つ林蔵のほうが、女婿の試みを湯治客に宣伝したものかもしれない。なお、上田が養蚕地帯であったことはいうまでもないが、「兎皮の揉(なめ)し作業が農家の副業的工業」に至っていた点には注意したい[8]。

ケモノちはどこへ

 それにしても気になるのは、これらの養狐狸場で、毛皮を剥がれた動物の遺体が、どう処理されたかである。どこかへ埋められたのか、飼料や肥料へ転用されたか。それとも、養殖者はと畜に関与せず、すべては専門の業者へ委託されたのだろうか。引き続き、調査を進めてゆくことにしたい。







1 水原「養狐場」(『水原秋櫻子全集』一八/紀行、講談社、一九七八年、初出一九三八年)、五〇頁
2 同書(農林省水産局、一九三九年)、七四頁
3 三澤啓一郎編『信濃人事興信録』(信濃人事興信録発行所、一九二二年)、一二八頁
4 人事興信所編『人事興信録』第八版(人事興信所、一九二八年)、カ一九五頁
5 富里区の歩みを綴る会編『故郷 富里の歩み』(同区、一九九一年)、一八五・一八六・二八九頁。小林久美氏らのご教示による。、
6 富士見高原愛好会編/林憲一郎『富士見高原』(鳥影社、一九八九年)、一三三頁
7 人事興信所編『人事興信録』第九版(人事興信所、一九三一年)、トニ八頁
8 三島康七「日本養狐狸事業の位置」(『毛皮日本』一、一九三九年)、六頁

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。