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岩波ホール閉館


岩波ホールが閉めるんだと.
振り返ると,昔,けっこう映画館ていろんなところにあったんだな,と.
地方都市に住んでいたころ,いや,ずいぶん昔にことになってしまったのだけれど,
駅前に映画館があった.ビルの地下だったか,忘れたが.
ときどき両親に連れられて観に行った.
ニュース映画が流されて,それから本番.
なにを観たんだろう.
小学校の時だったか,チンチン電車の終点近くにあった映画館にみんなで行った記憶がある.
いや,勝手にいったのかな,あるいは学校の行事でいったのかな.
ゴジラかなにかを見たのだと思う.

東京に出てきて,中学の時だったか,東京五輪の記録映画を見に行った映画館,
学校の行事でいったのかな,
で,この映画館が,あとで映画の撮影に使われたと聞いた.
その時,映画館はもう閉められていたのだろう.

高校に入って,ATGの映画を見に行くようになった.ATG……だなんて意識していたわけじゃなかったけれど,
昼のラーメン2食分とちょっとだったか.
最初,なにを見たのだったか.ポチョムキンだったかな,忘れた.
最初のころは,日劇文化に.混んでいたな.いつだったか,まだ元気だった殿山泰治さんが立ち見していた…….昼飯代とたばこ代を節約して,映画館に行った,のかな.

岩波ホールは,ちょっとお高くとまってるな……と,
といって,知らないよってことはなかった.いつ,いったんだろう.もう忘れてしまった.

所帯を持ったころ,六本木で待ち合わせて映画館に,
映画が終わると急いで地下鉄へ,それでも最終だったりして,ひと駅歩いて帰ったりしていた.

勤務先の近くに,小さな映画館があった.
5,60席もあっただろうか.
「我が谷は緑なりき」をみて,オーシャン・バーにひとりで行った……なんてこともあった.

でも,だんだん映画館がなくなっていく.
いや,だんだん映画館から足が遠のいていく.


で,映画って,どうなんだろう.
アラビアのロレンス
アカバ攻略のシーンなど,あの大きなスクリーンなればこそ……と思い出す.

暗い,何もない空間,大きなスクリーン…….


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メセナ限界 岩波ホール閉館
単館興行に今も存在意義
2022/2/4付日本経済新聞 朝刊

[写真]岩波ホールがある岩波神保町ビル(東京都千代田区)

約半世紀にわたり映画文化の拠点だった岩波ホール(東京・千代田)が7月に閉館する。なぜ支えられなかったのか。なぜ必要なのか。

「銀行に30年勤め、多くの企業の倒産を経験し、その軌跡を見てきた。同じ轍(てつ)は踏めない」。岩波ホールのある岩波神保町ビルを所有し、同ホールを運営する岩波不動産の岩波力(つとむ)社長は語った。

同社は岩波書店創業家の同族会社。創業者・岩波茂雄の次男で岩波書店元会長の岩波雄二郎氏が設立した。地下鉄3線が乗り入れる神田神保町交差点に立地する同ビルの賃貸業を営む。現在の岩波書店とは無関係だ。

雄二郎氏の長男で、第一勧業銀行(現みずほ銀行)出身の力社長は「ホール部門の過去のトレンド、コロナ禍、将来性を考えて判断した」と説明する。同ホールは一昨年2~6月にコロナ禍で休館、一昨年9月~昨年2月も天井の耐震工事などのために休館した。「再開後の観客増を見込んでいたが、逆に減ってしまった」と力社長。

コロナ禍の影響は確かに大きかった。岩波茂旦常務によると、作品による好不調の波はあるが、午後6時からの最終回の落ち込みがひどかった。観客ゼロで映写機を止めた回もあったという。

同社の売上高のうち映画興行収入は1~2割にすぎず、貸しビル業の賃貸収入は安定している。ただ利益面ではホール部門は赤字続き。「50年間で黒字になった年は数回しかない」と力社長。



 力社長によると、先代の雄二郎氏は当時の第一銀行(現みずほ銀行)頭取や千代田区長の要請を受け、書店街のランドマークとなる同ビルを1968年に建設。「岩波書店とは別に文化的なことをしたい。多少の赤字は構わない。よいことをやれ」と言って、最上階に多目的ホールをつくった。

総支配人としてホールの運営を取り仕切ったのが雄二郎氏の義妹でパリ高等映画学院に学んだ高野悦子氏。74年からはフィルム・ライブラリー協議会の川喜多かしこ代表と高野氏による名画上映運動「エキプ・ド・シネマ」の活動拠点とした。以来65カ国・地域の271作品を紹介。世界の多様な映画がどこよりも公開される日本のミニシアター文化を先導した。

カリスマ的な高野氏の上映活動の陰に隠れて見落とされがちだが、雄二郎氏の言葉に従えば、ホール事業は企業メセナだった。同社は2013年にメセナアワードも受賞した。ただ「赤字もある程度なら何とかするが、限度はある。企業は適切な利潤を元に経営するもの。確保できなければ、部門ごとに整理するしかない」と力社長。賃料が右肩上がりだった創業時とは経営環境も大きく異なる。閉館の決断はメセナの限界を示す。

13年に逝った高野総支配人の後を受けた岩波律子支配人(現顧問、雄二郎氏の長女)は、課題の若い観客の取り込みに力を入れた。近隣の大学の先生に声をかけ、上映中の作品を授業で取り上げて議論してもらう学生支援プログラムも始めた。ただ「その輪がなかなか広がらなかった。今の学生にとって1500円は高いのかも」と律子氏。

劇場が作品を選び、宣伝にも携わる。自館単独で公開し、途中で打ち切らない。高野総支配人が始めたそんな単館興行の手法の一部は、80年代に続々と誕生したミニシアターも見習った。

90年代後半からミニシアターも作品の市場規模に応じた複数館の同時公開が増えたが、岩波ホールは単館興行を墨守。逆に独自性が際立ち、00年代の洋画不況に耐えた。

「客が入らないからといって、打ち切らない。命懸けで作っている人もいるのだから。それは買い切り制を続けた岩波書店風の固い考え方だったかもしれない」と律子氏。本や音楽と同じように映画の商品寿命が短くなり、あっという間に消費される昨今の文化状況への抵抗でもあったろう。



ミニシアター全盛期の80年代は岩波ホールに限らず、地味な良作や野心作がじわじわと浸透し、時に半年近くもロングランした。そこに主体的な観客が存在し、創造的な批評があった。「今は後半に盛り上がるということがほとんどない」という律子氏の嘆きは深い。

岩波ホールはその志を保ちつつも、業務の見直しを徐々に進めていた。広告や印刷代など宣伝費の一部を劇場と配給会社で折半するトップオフ方式は昨年廃止。配給会社の負担は重くなった。

1月11日の閉館発表は配給各社にとって寝耳に水だった。世界初の女性監督アリス・ギイについてのドキュメンタリー「すべてはアリスから」など同ホールが年賀状で発表した今年のラインアップの一部は上映できなくなった。異例の事態だ。

ショックを受けながらも岩波ホールの存在意義を強調する映画関係者は少なくない。単館興行ゆえに地味な作品でも丁寧に扱ってくれる岩波でしか興行が難しい秀作、野心作が多々あるからだ。

かつて「美しい夏キリシマ」などを配給し、4月公開のバングラデシュ映画「メイド・イン・バングラデシュ」も控えるパンドラの中野理恵社長は「選択眼に信頼がある岩波ホールに出すと、各地のミニシアターもやってくれるから、手堅い興行ができる。何とか存続してほしい」と語る。

1月までオーストリア映画「ユダヤ人の私」を配給したサニーフィルムの有田浩介代表は「ずっと岩波ホールで上映することを目標にしてきた。一本の作品に劇場と一緒に取り組んで、広めていこうという考え方に共感している」と話す。

文化の多様性をどう支えるか。岩波ホール閉館が現代日本に投げかけた問いはあまりに大きい。

(編集委員 古賀重樹)
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