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神保太郎 メディア批評(176)(1)政治とメディア,足元の危機――『朝日新聞政治部』を読む 【世界】2022年08月

2023年01月31日(火)

ちょっと前のこと,
旭川の中学生の自死した事件についての新聞記事を見て,
ちょっと残念な気分だった.
NHKにわりと詳しいレポートがあった.
ネットで探して,いくつか目を通してみた.

どこか靴の上から足をかくような気分を免れないのだけれど,
たぶん当事者であっても,いや当事者であればこそ,事件の見え方はさまざまなのだろうけれど,
ぼくのみた記事は,ちょっと浅薄な印象を免れなかった.
浅薄というか,突っ込み不足というか,自死した中学生への同情はあっても,
そこで止まっているように見えた.

まぁ,そんなものだ,と言われそうだった.


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【世界】2022年08月


メディア批評
神保太郎

ウクライナ戦争は4カ月を超え、「戦況」解説と前線兵士らのSNS投稿といった刺激の強い映像が報道を覆う。一方、国会論戦は低調に終わり、参院選では人々の暮らしのはるか頭上で改憲の言葉が行き交う。取材と調査の現場はいまどうなっているのか。

連載 第176回
(1)政治とメディア,足元の危機――『朝日新聞政治部』を読む


(1)政治とメディア,足元の危機――『朝日新聞政治部』を読む

 政治が劣化した果てに政治報道が劣化したのか。あるいは、政治報道が劣化を繰り返したがゆえに、政治も劣化したのか。鶏が先か卵が先かの循環論法のような無力感を誘う空気がこの国を覆っている。かつて辺見庸が幾度となく指摘していた「相乗的劣化」がそこにある。
 岸田内閣の支持率が堅調を保っているという。本当に国民の多くが岸田政権下の政治のありようを支持しているということなのか。いまだに続くコロナ禍への取り組みが奏功しているわけでもなく、「新しい資本主義」などとぶち上げた経済政策が奏功しているわけでもなく、ウクライナ侵攻という歴史的「切断点」とも言える危機に対しても、何ら存在感のある主張を国際政治の場で示したわけでもなく、にもかかわらず国民は何となく今の政治のありように対する有効な異議申し立ても行えないまま、ただただ流れていっているのみなのではないか。このまったりとした閉塞感。六月一五日に閉会した第二〇八通常国会では、何と二六年ぶりに政府提出の計六一のすべての法案が成立した。全法案成立は、戦後の通常国会ではわずか三回という異例の事態なのだ。成立したなかには、経済分野での外敵を想定したかのような「経済安全保障推進法」、侮辱罪に懲役刑を導入し罰則強化をはかった改正刑法、そして、いつのまにか、こどもと家庭が合体した「こども家庭庁」設置法などがあった。活発な論戦が交わされた成果とはおおよそ言い難いこれら重要法案の成立過程をみれば、大政翼賛会とまでは行かぬものの、国会の権能が著しく弱まったことがわかる。
 一方で、憲法改正をめぐる論議は、憲法審査会が頻繁に開催され、ウクライナ・ショックで「安全保障環境が根源的に変わった」との認識の更新が大手を振ってまかり通り、国民投票実施への具体的プロセスにまで論議が進められた。そうしたなかで七月一〇日の参議院選挙を迎える。国会閉会の日、NHKは淡々と報じていた。「憲法をめぐっては、今回の参議院選挙でも、各党が公約に盛り込み、争点の一つになるものとみられ、憲法改正に前向きな勢力が、改正の発議に必要な三分の二の議席を確保するかどうかも焦点となります」。また毎日新聞も「憲法改正に前向きな自民、公明、日本維新の会、国民民主の『改憲四党』が改憲の発議に必要な三分の二の議席を得られるかも焦点」(六月二三日朝刊)と報じた。傍点を付した「前向き」という表現が筆者には気にかかる。

■『朝日新聞政治部』  さて、こんななかで、メディア批評を長年続けてきた立場から実にさまざまなことを考えさせられる本に出会った。鮫島浩氏の『朝日新聞政治部』(講談社)だ。すでに版を重ね多くの読者を得ている。鮫島氏は二〇二一年五月に朝日新聞社を退職した記者だ。朝日に二七年間在籍し、政治部記者としての長い経歴のほか、調査報道に専従する特別報道部のデスクなどを歴任し、二〇一三年には「手抜き除染」の一連の調査報道で新聞協会賞を受賞している朝日の看板記者でもあった。そして福島第一原発事故をめぐるあの「吉田調書」スクープ記事の担当デスクとして、結果的に朝日から「誤報」の責任を問われ、停職処分を受け、その後記者職を解かれた。「吉田調書」事件のまぎれもない当事者の一人である。
 正直、前半部分の政治部記者の経歴を自伝風に記した部分には、辟易した部分が多かった。マスメディアの政治部記者の記す著作には、自分は政治家にこれほどまで「食い込んだ」との自慢話を披渥する類のものが多い。取材対象の懐深くに入り込まなければ真実に迫れない、というのはおそらく的を射ている。だが懐に入ることによって記者としての原点が損なわれる危険性があることも常に自戒しなければならない。
 欧米のジャーナリズムの世界では、アクセス・ジャーナリストという呼ばれ方には、侮蔑の含意がある。ウォーターゲート事件をスクープし続けたワシントンポスト紙の伝説の大記者ボブ・ウッドワードでさえ、同時多発テロ事件以降のブッシュ政権高官に「食い込み」、綿密な取材を重ねて、イラク戦争勃発の内幕を描いた『ブッシュの戦争』(原題 Bush at War,2002)発表後には、戦争を止めようとしないアクセス・ジャーナリストとして激しい批判を浴びた。もっとも鮫島氏自身もそんなことは百も承知の上でこの本を記したのだろう。
 本書のなかに、朝日新聞から苛烈な処分を受ける直前に、妻の前で鮫島氏が思わず泣き出すきわめて私的な場面が描かれている。鮫島氏の妻は「あなたが問われているのは傲慢罪だ」と激しく面罵したという。鮫島氏は記す。「自分の発言力や影響力が大きくなるにつれ、知らず知らずのうちに私たちの原点である『一人一人の読者と向き合うこと』から遠ざかり、朝日新聞という組織を守ること、さらには自分自身の社内での栄達を優先するようになっていたのではないか。私は今からその罪を問われようとしている」。その上で鮫島氏は断じている。「木村(伊量(ただかず))社長が『吉田調書』報道を取り消した二〇一四年九月一一日は『新聞が死んだ日』である。日本の新聞界が権力に屈服した日としてメディア史に刻まれるに違いない」。この本の第六章以下を読み進むうちに、この鮫島氏の言葉の重みが伝わってくる思いがした。それは「吉田調書」報道を「誤報」として取り消した朝日新聞内部で何が起きていたのか、どのような判断が誰によって、どのような力関係のもとでなされたのかを知るいくつもの重要な事実が提示されていると認識したからだ。

■未解決の「吉田調書」問題  あの「吉田調書」報道の背景には、さまざまな要素があった。大新聞社の宿痾(しゅくあ)とでも言える社長の座をめぐる権力抗争が朝日にもある。これはどこの大組織でもみられるパワーゲームだが、朝日の場合も、政治部出身者がその主役をつとめてきたことが多かった。政治の世界での権力抗争顔負けの抗争が、マスメディアの組織のなかでも鏡のように演じられる。ピラミッド構造のなかでそれぞれが小権力を求めて栄達昇進に血道をあげる。その病弊がこの本でも触れられている。
 「吉田調書」入手の大スクープは、二〇一四年五月二〇日付けの朝刊で報じられた。木村社長体制ができあがってからほぼ二年後のことだ。吉田昌郎福島第一原発所長(二〇一三年死去)の政府事故調による聴取内容を記した「吉田調書」(非公開)を経済部・木村英昭記者(初報当時は、特別報道部)が独自に入手した。木村記者と宮崎知己デジタル委員(当時)らは、この調書を精緻に読み解き、事故直後の二〇一一年三月一五日、第一原発の所員の九割にあたる約六五〇人が「吉田氏の待機命令に違反し」、一〇キロ離れた福島第二原発へ撤退していた事実を重大視、この事実を大々的に報じた。記事はすさまじい反響を呼んだ。特報後、木村社長らが狂喜し新聞協会賞に申請したエピソードなどが生々しい。だが、その後、福島第一原発所員らを故意に貶(おとし)めている等の批判が一部からあがった。
 そこへ、長年右派からの攻撃の標的とされていた朝日新聞の従軍慰安婦報道の訂正問題が重なったことが致命的に大きい。いわゆる「吉田証言」は最重要ターゲットとされていた。「吉田調書」スクープの三カ月後に、従軍慰安婦報道に関する検証特集記事が掲載され、右派からは猛然と反発する声があがった。遅きに失した、反省がない、等と。さらにこれに関連して、池上彰氏が二〇一四年八月二九日掲載予定のコラム「池上彰の新聞ななめ読み」(「吉田証言」への朝日の対応が遅いことを批判した内容)について、木村社長がゲラを読んで激怒、掲載が延期されたことが週刊文春によって報じられ、世の中の批判を一気に浴びることになり、朝日は満身創痍の状態となった。
 鮫島氏の結論は、世論と政権からの総攻撃の前に、かつてない窮地に立たされた朝日が「吉田調書」「吉田証言」「池上コラム問題」を三点セットにして「いかにダメージコントロールするか」に方針を急転換し、「吉田調書」報道に関わった自分たちがいわば「人身御供」として差し出された、という内容だ。
 実は筆者自身、この問題の取材に関わってきた。鮫島氏の本であらためて確信したことがある。この問題は全く終わっていない。「吉田調書」「誤報」扱い事件について真実がさらに明らかにされるように強く望む。考えてもみようではないか。「吉田調書」以外の政府事故調による東電幹部らの調書は、事故から一一年たった現在も依然として非公開のままだ。東電旧経営陣の「武藤調書」や「武黒調書」が存在しているにもかかわらず。隠蔽は無責任を拡大する。六月一七日に最高裁第二小法廷が、福島第一原発事故にともなういわゆる生業訴訟で、規制権限を使わずに東電に津波の対策を指示しなかった国の対応は違法ではなく、国に賠償責任はないという判決をくだした。国策民営で推し進められてきた原発事業に「国に責任はない」とまで最高裁がお墨付きを与える事態となった。このことと、「吉田調書」「誤報」扱い事件は決して無関係ではないだろう。真実が明らかになれば、責任の所在はより明確になるからだ。

■ウクライナ戦争と報道の足元  紙幅が限られているなかで、ウクライナ戦争報道に関して触れる。唾棄すべきことに、戦争報道に「飽きた」という空気が随所にみられるのではないか。長期化、泥沼化の様相さえ呈してきたウクライナ侵攻に関する報道は、これからこそが重要なのだが、日本の大手のメディアの一部には、取材経費確保がむずかしい等の理由をあげて現地報道から撤退する向きもみられる。そんななかで、最前線の兵士がスマホで自撮りした映像をオンライン上にアップし、それをマスメディアがそのまま報じているケースさえ散見される。現地取材なしに、刺激の絶対値が強い自撮り提供映像で報道ニュース番組が覆われれば、それは一体、誰のために何のために報じられているのかを考えざるを得ない。
 情報にまつわるテクノロジーの劇的進化によって、野放図な複製、コピペ行為の放置がメディア内部でも蔓延し、言葉自体の価値の変容という根源的問題、ひいては報道に関わる人間の倫理の頽廃をもたらしている。独立系の調査報道集団「Tansa」が調べ上げた、地方創生臨時交付金の途方もない無駄づかい問題は、五月三〇日、国会でも取り上げられ、立憲民主党の蓮舫議員がTansaの名前に言及しながら追及したことから、大手メディアも追いかけたケースだが、Tansaがメディア各社に出典の明示を求めている文章を読み(『土曜メルマガ』)、事態の深刻さを知った。私たちはどこで踏み外したのか。この問題は私たちの足元にまで及んでいる。足元とは、まさに言葉の厳密な意味での足元だ。

*今回は(1)のみでお届けします。



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