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SDGsという陥穽 大合唱の裏に何があるのか ―― 池田清彦

2023年07月15日(土)

池田清彦さんの名前を知ったのはいつだったか,
駅前のビルの中の本屋だったか,いや老舗の本屋の棚だったか,
まぁ,どちらにしてもいい読者というわけじゃないのだけれど,
たぶん,

構造主義生物学とは何か―多元主義による世界解読の試み
海鳴社,1988年

ちゃんと読んだわけじゃなかったと思う,でも,こんど読もう,と棚に収まっていた.

その後,ときどきメディアに登場することがあったり,
昆虫好きのお仲間といっしょにでてきたり,
そして,ときどきちょっと軽いような,あるいは,相手をおちょくるような,
そんな発言もあっただろうか.
でも,それは,あるいはあえてちょっとピエロみたいな仕草をしているんじゃないか,とも思うことがあったし,
いうほどめちゃくちゃなことを言っているわけじゃなくて,池田さんなりに考えて,考えた上でのことなんだろうな,とは思う.
真に受けるわけじゃないけれど,
メインストリームからはズレた議論に,ときに正邪ではなく,正誤ではなく,
もう一つの視点のようなものを思うことがある.


ちょっと似たような立ち位置にいるのだろうか,
たとえば槌田敦さんの反・地球温暖化論も,似たような印象がある.
槌田さんの議論が正しい,と思っているわけじゃないけれど,
じゃ,メインストリームの議論をどう考えるか,となると,
槌田さんの議論もあったな,とか,思いだして,ちょっと立ち止まろうと思うことがある.
メインストリームが正しい……というわけでもないだろうし.


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【クライテリオン】2023年03月

SDGsという陥穽 大合唱の裏に何があるのか

池田清彦

池田清彦(いけだきよひご)
生物学者。47年東京都生まれ。東京都立大学大学院理学研究科博士課程生物学専攻単位取得満期退学、理学博士。山梨大学教授、早稲田大学教授を経て、現在、山梨大学名誉教授、早稲田大学名誉教授。フシテレビ系「ホンマでっか!?TVJに出演中。また、「まぐまぐ」で、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』、YouTubeとVoicyで「池田清彦の森羅万象」を配信中。著書に『構造主義生物学とは何か』『構造主義科学論の冒険』ほか100冊くらい。最新刊は『瓠独という病』(宝島社新書)。


SDGsのスローガンは矛盾だらけ。
不合理な政策を導き、
莫大な税の無駄を生んでいる。


一七の目標が金儲けの手段に

 数年前からSDGsというお題目が流行り出した。鵜の目鷹の目で、政治的・経済的なヘゲモニーを握るためのキャッチコピーを探している人々にとって、SDGsは恰好のスローガンになったようで、SDGsを掲げさえすれば、自分たちに有利な政策が遂行できるとばかり、SDGsの大合唱に余念がない。
 一つの目標を掲げて脇目もふらずにそれに向かって邁進するという構図は勇壮で、当事者の脳内にはドーパミンが分泌されて、ポジティブな興奮を誘うことは間違いないが、太平洋戦争中の「鬼畜米英」や「欲しがりません勝つまでは」を顧みるまでもなく、メリットとデメリットを勘案することなく猪突猛進するのは、ほとんどの場合クラッシュへの道であることは歴史が証明している。
 SDGsは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の頭文字を並べたものであるが、冷静な頭で考えれば、SustainableとDevelopmentは矛盾する。持続可能とはほぼ定常状態を取り続けることであるから、開発して生態系を改変すれば、持続可能性は失われてしまう。Developmentを続ける限りGoalには行きつかない。好意的に解釈すれば、Developmentの許容限度を示して、そこで止めれば、Sustainable Goalsに辿り着くということかとも思うが、SDGsの一七の目標にはそんなことは記されていない。
 一七の目標についてすべてコメントする紙幅はなさそうなので、私が重要だと思う項目について議論をしたい。人類の存続にとっても個々人の生存にとっても、最も重要な課題は食料とエネルギーの供給問題である。SDGsの目標の1と2は、「貧困をなくそう」「飢餓をゼロに」であるが、現在の世界人口八〇億人に、充分な食料とエネルギーを供給することは難題である。二十世紀初頭、世界人口は一六億五○○○万人であった。このくらいの世界人口であれば、現在の技術力をもってすれば、目標の1と2を実現することは難しくない。
 そのことを考えれば、SDGsにとって喫緊の目標は「世界人口を平和的な方法で徐々に減らしていこう」ということなのだが、そんな目標はどこにも書いてない。現在の世界の政治・経済を牛耳っているグローバル・キャピタリズムは安い労働力と膨大な数の消費者を必要とするので、原則的に人口減は好ましくないからだ。しかし、この地球上で利用可能な食料とエネルギーには限りがあるので、人口増が止まらない限り、いずれクラッシュは免れない。
 グローバル・キャピタリズムにとって経済成長は外すことができない看板だとすれば、最も重要なことは、人口を徐々に減らしながら、経済成長を止めない方途を考えることだが、SDGsの目標にはそんな話も書いてない。一応、「8 働きがいも経済成長も」というお題目は書いてあるが、それがSustainableとどう結びつくかという話は書いてない。一七の目標は個々に見る限り、それ自体は文句が付けようがないが、あちらを立てればこちらは立たず、といったよく考えれば矛盾する項目も多く、SDGsを金儲けの手段として利用したい人たちは、自分たちに最も都合がいい目標をスローガンに掲げて、たとえて言えば、水戸黄門の御印籠のように、反対意見を有無を言わせず黙らせるために使っているように見受けられる。

レジ袋有料化は何のため?

 さてこの地球上には人類ばかりでなく多くの野生生物も生息しているので、野生生物の生存もある程度保証しなければ倫理に悖る、というのは多くの人に支持されている思想だろう。一七の目標の中には「14 海の豊かさを守ろう」「15 陸の豊かさも守ろう」というのがあることからもそれが分かる。ところで、人類も含めてこの地球上のすべての従属栄養生物(動物・菌類といった光合成が出来ない生物)は独立栄養生物(植物やシアノバクテリアといった光合成が出来る生物)

〈20〉
が作り出す炭水化物に依存して生きている。
 陸上生態系について言えば、植物が光合成で作り出した炭水化物の中から植物自身の生存のために使った残り、すなわちNPP(純一次生産量 Net Primary Production)は年間五六四憶トン(炭素量換算)である。これが陸上生態系の従属栄養生物が年間に利用できるすべての食料ということになる。人類はこれを野生生物(ほぼ野生動物)とシェアして使っているわけだ。人類の取り分が増えれば、野生動物の取り分が減ることになる。全世界の穀物生産量は年間二六億トンで、世界人口八〇億人に公平に分配すれば一人当たり三二五キログラムとなり、これは日本人の年間一人当たりの穀物消費量一五〇キログラムの倍以上であるから、計算上、穀物は充分足りているように見える。しかし、実際は、相当量は家畜の餌に回されている。穀物から家畜の肉への転換効率(一キログラムの肉を作るのに何キログラムの穀物が必要か)はウシで七、ブタで四、ニワトリで二・二なので、全世界の人に充分な量の肉を供給しようとすると、穀物生産量をさらに増やす必要がある。
 穀物や肉の生産量を増やすために、原野を切り拓いて耕地や牧場を開発すれば、そこに暮らしていた野生動物の数は減る。タンパク源を海洋資源に頼って、魚介類を乱獲すれば、海洋生物の多様性は脅かされることになる。しかし、八〇億人に、充分な食料を供給するためには、さらに食料を増産する必要がある。結果的に陸の豊かさも海の豊かさもある程度犠牲にせざるを得ない。根本的にはNPPを人類と野生動物でどのようにシェアするか、そのための方途はどうするか、ということを考えなければ、Sustainable Goalには至らない。
 しかし、実際は、実効性のある政策は棚上げにして、たとえば、海洋汚染の原因になるプラスティックを削減するという名目で、レジ袋の有料化といった姑息なやり方でお茶を濁しているのが現状だ。プラスティックは燃やしてしまえば海洋に流出しないのだから、何をやっているのか分からない。スーパーのレジ係はお客さんにいちいちレジ袋が必要か不要かを聞かねばならず、その手間だけ考えても結構なデメリットであろう。

地球温暖化という法螺話

 この例に限らず、何らかの行動を起こせば、必ずコストがかかる。娯楽のような行動そのものが目的である場合は措くとして、何らかの目的のための行動の場合は、コストに見合うメリットが期待できるかどうかを、冷静に判断しなければならない。しかし、SDGsを掲げて行っている政策や企業活動の中には、コストパフォーマンスを無視しているものも多い。その最たるものは地球温暖化を抑制すると称して行っている様々な政策や活動である。
これはSDGsの目標7「エネルギーをみんなに。そしてクリーンに」と13「気候変動に具体的な対策を」に係るもので、地球温暖化は人類にとって最大の脅威で、その原因はCO2の人為的排出にあるのだから、CO2の削減こそ、最も重要な政策であるという疑似正義の下に行われている、科学的な裏付けに乏しい運動である。この運動には、世界的な規模で、国連、多くの政府、マスコミがコミットしているので、信じている人も多く、その結果、莫大な無駄金(多くは税金)が使われ、一方でそれに群がって儲けている人たちも沢山いるという、現代社会で一番厄介な宿痾である。
 「地球温暖化は事実であり、その主たる原因は人為的なCO2の排出である」という法螺話(ホラー話)は、一九八八年にジェームズ・ハンセンが米上院で訴えてから世界中に広まったが、二十世紀末から二十一世紀初頭にかけてコンピユータ・シミュレーションでなされた未来の気温の予測はほぼすべて外れた。コンピュータの予測は実証ではなく、パラメータをちょっと変えれば異なる予測を導けるので、研究者の願望が反映され易いのだ。

 信頼できるのは過去の実測値だけである。都会に住んでいるとヒートアイランド現象のせいで、温暖化は本当だと思う人がいるのは分かる。実際、東京の年平均気温はこの一〇〇年で二・四度上昇した。他の日本の大都市も二度近く上昇している。ところが、三宅島の年平均気湶は一九五〇年以来ほとんど変わっていない。都会を離れれば、気温は上昇していないのだ。世界に目を移せば、一八五〇年~一九〇〇年の世界平均気温に比べ、二〇一一年~二〇二〇年の世界平均気温は一・〇九度上昇している。これが壊滅的に恐ろしい気温上昇だということはあり得ない。ホッキョクグマが絶滅に瀕しているとか、台風が巨大化して数も増えているとか、ツバルが水没するとかいう恐ろしげな話も、すべて法螺話だということが分かっている。
 さらに過去に遡れば、縄文時代前期(約八〇〇〇年前から五○○○年前まで)は現在より二度以上気温が高く、十世紀ごろの中世温暖期も一度程度高かった。その間に寒冷化した時期もあり、地球の気温は変動しているのであって、こういった過去の温暖化が人為的なものだということは当然あり得ない。
 CO2が温暖化効果ガスであることは事実だが、だからと言って、ここ一五〇年の一・〇九度の気温上昇の主因が


〈22〉
人為的なCO2の排出によるものだというのは実証不可能な仮説にすぎない。二十世紀に入ってからCO2濃度は上がり続けているが、一九四〇年~一九七〇年の三〇年間で、地球の平均気温は○・二度低下しているのだ。地球の気温に影響を与えるのは、太陽の黒点数(増加すると温暖化して減少すると寒冷化する)や火山の大爆発(寒冷化する)などもあり、原因は多岐にわたる。現在よりCO2濃度が何倍も高かった四・五億年前や三億年前にも気温が低かった時期があり、CO2濃度と気温は必ずしも連動しない。そういう科学的なエビデンスを無視して、CO2の削減政策に血限になって邁進するのは異常と言う他はない。
 日本は二〇〇五年以来、毎年官民合わせて(ほとんどは税金)約三兆円の温暖化対策費を使っているが、渡辺正(『「地球温暖化」狂想曲 社会を壊す空騒ぎ』丸善、二○一八年)の計算によると、日本の貢献は地球の気温を○・○〇一度ほど下げるだけだという。そうであれば、温暖化するにせよ寒冷化するにせよ、気温変動に適応するために資金をつぎ込んだ方が賢い。
 高等学校で生物を習った人なら知っていると思うが、植物の光合成速度は、水とCO2と光量と温度の関数である。CO2濃度が上がり、温暖化して、雨が沢山降って、お日様が当たれば、地球上で作られる炭水化物の量は増えるのである。中生代のジュラ紀や白亜紀に巨大な恐竜が沢山生息できたのは、地球の平均気温が現在よりも約一〇度高く、CO2濃度も現在の約五倍の二〇〇〇ppmもあり、生産性が現在よりはるかに高かったからである。
 CO2濃度が多少増加して気温も多少高くなれば、農業には好都合なのだ。但し、栽培に適した作物は、地域ごとに変わってくる。現状を固守しようとせず、柔軟に対応すれば、恐れることはない。税金は、ほとんど役に立たない温暖化対策に使うよりも、適応政策にこそ使うべきだ。現在世界中で遂行されている温暖化対策なるものは、実効性に乏しい空手形である。要するに、地球の平均気温を人為的には全く下げられないのだ。逆説的な言い方になるが、それゆえにこそ、金儲けの手段として、脱炭素という名の下に、再生可能エネルギーを称揚する人たちが後を絶たないわけだ。
 余り言及されることはないけれども、温暖化対策で本当に地球の平均気温が下がれば、たとえば作物が不作になるところが沢山出てくるだろう。自然現象であれば諦めもつくが、人為的に起こされたとなると、損害賠償を求めて、世界のあちこちで訴訟が起こるに違いない。だから誰も、人為的に気温を下げるなんて恐ろしいことはやらないはずだ。別言すれば、現在の脱炭素政策は全く気温変動には寄与しないので、人々は安心してこれを挺子に金儲けに邁進できるのである。

遠慮せずに火力発電を!

 最後に日本のエネルギー戦略はどうあるべきかについて私見を述べたい。まず原発はどうだろう。岸田政権は原発に乗り気なようだが、他に発電方法がないならばともかく、日本のような地震大国ではやめた方がいいと思う。原発はフランスのような地震がほとんどない国には向いているが、日本で稼働するにはリスクが大きすぎる。二〇二一年の日本の電源構成を見ると、火力発電七一・七%(内LNG三一・七%、石炭二六・五%、石油二・五%、その他の火力、一%)、自然エネルギー二二・四%(水力七・八%、太陽光九・三%、風力○・九%、地熱○・三%、バイオマス四・一%)、原子力五・九%となっている。ここ数年で、太陽光発電の割合が増えているが、太陽光発電や風力発電の発電量は天候に左右されるので、これらに頼れば頼るほど、火力発電のバックアップが必要になり、CO2の排出量はそれほど減らない。
 ソーラーパネルは作るにも廃棄するにもエネルギーがかかり、かなりのCO2が排出される。さらに、ソーラーパネルにはセレンや鉛、カドミウムなどの有害物質が混入しているので、安全に廃棄するにもコストがかかる。一番の問題はメガソーラーや風力発電は火力発電に比べ膨大な敷地が必要で、山林を削って設置すれば、自然環境の破壊になり、陸の豊かさは守れないことだ。山の斜面を覆いつくすようにメガソーラーが設置されている光景を見るにつけ、耐用年数が来た時は、そのまま放置されるのじゃないかと心配になる。電気自動車も電池の製造時と廃棄時にかなりのCO2が排出され、カーボンフリーとは名ばかりだ。
 そもそも脱炭素は、化石燃料に乏しいEUが世界のエネルギー政策でヘゲモニーを握るべく始めた政治的戦略で、ウクライナ紛争で、ロシアからの天然ガスの供給が止まつた途端、ドイツもフランスもイギリスも石炭発電の再稼働に踏み切ったのだから、日本も温暖化対策費に年間三兆円を使うなどという無駄なことをやめて、遠慮せずに、最も効率が良い火力発電を推進すべきだろう。
 最近、アメリカからいいニュースが伝わってきた。核融合実験で、投入したエネルギーよりも多くのエネルギーを発生させることに成功したという。核融合が実用化されれば、エネルギー問題はブレイクスルーを起こして、世界の政治状況も激変する。それまでの間、日本はダマシダマシ、火力発電主体で乗り切って、国土をメガソーラーで蹂躙されないようにした方がいいと思う。

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