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末澤恵美 歴史の一部としてのロシア=ウクライナ戦争  【世界】2022-10

2023年10月06日(金)

なるべくちゃんと読んでおこうと思いながら,
テーブルに積まれる紙の束が増える一方のようで,ちょっと情けない.
読んでも,なかなか頭の中に入ってこない.
アルメニアは,このまえちょっと新書が出ていたな………とか,
ロシア,ウクライナあたりの歴史も同じ.

キエフは,いつの間にかキーウとなり,
しかし,本を読んでいたら,昔は,キエフだったのだとか.
そのうち,北京は,英国式にベイジンとか,よく知らないけれど,その国のふつうの発音でベイチンと呼ぶんだろうか.

なんだかご都合主義だな……とか思いながら,それにしても知らないことが多すぎるんだな,と思う.


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【世界】2022年10月

歴史の一部としてのロシア=ウクライナ戦争

末澤恵美

すえざわ・めぐみ 平成国際大学スポーツ健康学部教授。旧ソ連・中東欧研究。
    ウクライナに関する論文に「ウクライナの政治変動と外交政策」(名古屋大学出版会
    『黒海地域の国際関係』第七章、二〇一七年)、「民族の独立とレファレンダム――
    クリミアの事例」(『選挙研究』二〇一六年三二巻二号)など。



■はじめに

 ロシアがウクライナに侵攻してから半年が経とうとしている。停戦に向けた交渉が行なわれたこともあったが、解決への見通しがたたないまま犠牲者と避難民は増加し続けている。その一方で、ニュース・新聞・ネットでさかれるスペースは日に日に減っており、日本に避難してきたものの、言語の壁などによる生活への疲れがでてきた、との声も耳にする。五月には、戦争のさなか、独立ウクライナの初代大統領だったL・クラフチュクが他界した。
 ロシアによる攻撃が始まって間もない頃、ある番組で、ウクライナ国民は命を最優先に男性も国外退避すべきであり、命さえあればいつか国の再建はかなう、との主旨の発言をした橋下徹氏に対し、ウクライナの政治学者A・グレンコ氏が、ウクライナは三三〇年間ロシアに支配されてきたのであり、ここで再び独立を失えばプーチン後もそれが続く可能性があると反論した。
 このやりとりは番組を超えて注目されたが、筆者にとっては、ロシアの侵攻後、日々の報道のほとんどをロシア軍の動きや兵器などの軍事的な分析が占めるなか、グレンコ氏が数世紀にわたる歴史から現状と将来を見据えていたことが印象的であった。ロシアがウクライナに侵攻した時、筆者は「まさか」という思いと、「やはり」という矛盾する思いを同時に抱いたからである。ウクライナの長い歴史から見れば独立国家となってからの三一年はほんの「一瞬」に近い時間であり、独立と同時にロシアとのあいだで様々な問題が生じていたものの、二一世紀のこの時代に首都攻略まで目論む露骨な侵略戦争が起こるとは想像していなかった。しかしウクライナの人々にとっては、二〇二二年の侵略も数世紀にわたる歴史の一部なのであることを、グレンコ氏の言葉から改めて認識した。
 ロシアとウクライナ、ロシア人とウクライナ人の関係を対立の要素からのみ語るのはあまりに一面的であり、ロシアとウクライナの戦争は、歴史的要因と現代的要因が複雑に絡み合った結果ではある。しかしなぜウクライナがロシアの侵攻と戦い続けるのかを理解するには、歴史的な流れを踏まえる必要があるため、本稿はその経緯をたどることにする。

■ロシアにとってのキーウ

 ロシアのプーチン大統領が口にする「ひとつの民族」は、九世紀のキーウ(キエフ)・ルーシに遡る。現在のウクライナの国章はキーウ・ルーシの紋章であり、通貨フリヴニャもキーウ・ルーシ時代の通貨の名称である。キーウには、ルーシをキリスト教化(東方正教)したヴォロディーミル(ウラジーミル)聖公が十字架を背負ってドニプロ(ドニエプル)川を見下ろす像や、ヤロスラフ賢公の建立による聖ソフィア聖堂、東スラヴ最古の修道院などがあり、キリル文字化されたのも「ルーシ法典」が制定されたのもこの時代であるため、ロシア国家史ではキーウ・ルーシはノヴゴロドと並ぶロシア国家のルーツとされている。
 ゼレンスキー大統領は、ロシアがみずからルーシとの繋がりを焼き払おうとしたと批判したが、プーチンがクリミアや東部に住むロシア人の保護という大義名分を超えてキーウへの侵攻を試みたのは、ゼレンスキー政権の陥落と親露政権樹立という政治的目的だけでなく、キーウをロシア領に「取り戻した」英雄としてロシア史に名を残そうとしたのではないか。少なくとも、もし成功していれば、クリミア併合時とは比較にならないほど大統領への支持が高まると期待したのであろう。逆にいえば、そうするために「民族一体説」を強調する必要があった。

■キーウ・ルーシ後のウクライナ

 一三世紀前半にキーウ・ルーシがモンゴルに滅ぼされ、政治の中心がモスクワに移る一方、西からリトアニア、ポーランドの支配が及び、ザポリッジャ(ザポロージェ)を拠点にウクライナ・コサックが形成され独立闘争を展開した。ウクライナの国歌は「我らがコサックであることを示そう」と締めくくられており、ウクライナに行くとコサックの像やコサックをモチーフにしたグッズを土産店で目にする。人形の多くが思わず笑ってしまうコミカルな表情やモチーフで作られており、三〇年前に筆者が知人のウクライナ人にその理由をたずねたところ、「ウクライナの文化はユーモアの文化であり、それがなければウクライナという国はとっくに滅びていた」との答えがかえってきた。その一言に、ウクライナの歴史の重さ、ウクライナ人の内面的な強さを改めて実感したことを覚えている。
 ウクライナはロシアとポーランド・リトアニア、クリミア・ハン(後オスマン帝国)に囲まれ、一六六七年の「アンドルソフ講和」でロシアとポーランドに分断支配される。その後ロシア、オーストリア、プロイセンによるポーランド分割と対オスマン戦争での勝利によって一八世紀後半にはほとんどがロシア帝国領となり、クリミアには黒海艦隊が創設された(西ウクライナはポーランドからオーストリア領となった)。

■ソ連時代

 革命でロシア帝国が滅びると、中央ラーダ政権が独立を宣言し、東西ウクライナの統一を試みる。だが一九二二年には西ウクライナの一部を除きボリシェヴィキ政権のもとでソ連邦創設条約を締結し、独立政権は短命に終わった。ソ連建国直後は共和国におけるソヴィエト化を進めるための「土着化政策」の一環で、ウクライナでも民族言語による教育やウクライナ人の幹部登用が奨励されたものの、スターリン時代になると粛清、「ホロドモール(2)」、民族単位での強制移住、バンドゥーラ奏者への弾圧が始まった。ウクライナの民族楽器であるバンドゥーラは、キーウ・ルーシ時代のフレスコ画にその原型(コブザ)がみられ、ザポリッジャ・コサックの間で盛んに奏でられた。バンドゥーラ奏者は目の不自由な人が多かったが、民族主義をあおるものとしてスターリンに弾圧された。ポーランドの支配下や中央ラーダ政権時代に生まれたウクライナ独自の正教会も非合法化された。
 第二次世界大戦でウクライナは独ソ戦の激戦地となり、ドイツ軍にソ連からの解放を期待し対独協力についたソ連兵(および民間人)は粛清された。しかし反独・反共武装組織「ウクライナ蜂起軍」(UPA)は戦後も一〇年近く反ソ武力闘争を続けた。UPAは一九二九年に結成された「ウクライナ民族主義者組織」(OUN)を母体としており、プーチンがネオナチと呼ぶ「バンデラ主義者」とは、OUN、UPAの中心的人物だったS・バンデラを崇拝する人々のことだが、ウクライナでも五月九日は対独戦勝記念日である。ウクライナはソ連、ベラルーシ(白ロシア共和国)とともに国連の創設メンバーとなったが、これはソ連による民族自決権容認の一環ではなく、国連におけるソ連票を増すためであったことが投票行動の一致にあらわれている。
 クリミアはソ連建国当初ロシア共和国内の自治共和国であった。ところが一九四六年に自治州に降格となり、黒海艦隊基地のあるセヴァストーポリは一九四八年のロシア共和国最高ソヴィエト幹部会令によってロシア共和国の直轄市となった。その後一九五四年のソ連邦最高ソヴィエト幹部会令によって、クリミアそのものがウクライナ共和国に移管された。
 フルシチョフをはじめ指導部のクリミア移管をめぐる政治的思惑に関しては諸説ある。一九五四年はコサックのフメリニツキーがポーランドに対抗してロシアと締結した「ペレヤスラフ協定」から三〇〇年目にあたり、「ウクライナとロシアの再合同」三〇〇年を祝う数々の行事が行なわれた(3)。しかし協定の締結時からロシアの支援とコサックの自治をめぐる解釈にはズレがあり、「ペレヤスラフ協定」を記念すべき「再合同」とするのはロシア側の見方である。クリミア移管に関するソ連最高ソヴィエト幹部会令は、セヴァストーポリについては触れていない。だが、その後のロシア共和国憲法では共和国直轄市としてモスクワとレニングラードが、ウクライナ共和国憲法ではキーウとセヴァストーポリがあげられていることから、セヴァストーポリはクリミアの一部となったと理解されている。
 フルシチョフの「雪解け」によって、「六〇年代の人々」を意味する「シェスチデシャートニキ」による文化復興運動が起こり、一九七五年にブレジネフ下のソ連が欧州安保協力会議(CSCE)の最終文書いわゆる「ヘルシンキ宣言」に調印してからは、「ヘルシンキ宣言」の人権保障規定のモニタリングを目的とする「ヘルシンキ・グループ」がウクライナでも生まれたが、メンバーは反体制派として投獄された。彼らが解放されたのは、ゴルバチョフ時代になってからである。
 ゴルバチョフのペレストロイカは、共産党の一党独裁を終わらせ、一部市場経済の導入やグラスノスチ(情報公開、検閲廃止)によって社会が活性化され、街のいたるところで市民が議論する様子が見られるようになり、党の見解によらない独立系の新聞が次々と発行された。品不足を表す店頭の「行列」はソ連経済の代名詞としてアネクドート(政治的な風刺・小話)になっていたが、ゴルバチョフ以前には存在しなかった新聞を買う人々の行列が検閲廃止後見られるようになった。新聞がただ党の方針を伝える媒体から、真実を知るための手段と多様な意見を自由に闘わせる場になったからである。グラスノスチは、ゴルバチョフがトップに就任して間もなくウクライナで起きた、チョルノビリ(チェルノブイリ)原発事故での情報伝達の遅れと閉鎖性という、大きな犠牲と教訓のもとに促進された政策であった。
 改革遂行のための行政権強化と共産党に代わる統合の象徴として大統領ポストが設置されたが、議論はデモに、デモはストライキへとエスカレートしていった。バルト三共和国では、急激な政治的要求は潰されかねないため、チョルノビリ原発事故を受けて環境保護運動という形から始まり、ペレストロイカ支持運動、ソ連併合の原因となった一九三九年の独ソ不可侵条約秘密議定書に関する情報開示要求運動、そして政府による同秘密議定書の違法性認知を通じての独立復活運動へとつき進んでいった。独ソ不可侵条約秘密議定書は、ポーランドの東部とルーマニアの北ブコヴィナ、ベッサラビアの一部もソ連領に組み入れたため、現在のウクライナ領は段階的に形成されたこととなる。
 ウクライナでは、禁じられていたウクライナ語の文字「Г(ゲー)」や宗教の復活、ホロドモールに関する議論が起こり、バルト三共和国が独ソ不可侵条約秘密議定書の調印日(八月二三日)に実施した三国の首都を結ぶ「人間の鎖」運動にならって、中央ラーダ政権時代の「東西ウクライナ統一令」調印記念日にキーウとリヴィウ(リヴォフ)を結ぶ「人間の鎖」を実施した。
 エストニアを皮切りに他の共和国が次々と「国家主権宣言」を採択するなか、ウクライナも一九九〇年に共和国籍や共和国軍に関する規定を含む「国家主権宣言」を採択し、青と黄色の旗を掲げるデモが増えていった。ウクライナの運動において重要な役割を担ったのは、先述の「シェスチデシャートニキ」、解放された反体制派知識人、作家同盟のメンバーであり、人民戦線(「ウクライナ・ナロードヌィ・ルーフ」)の初代議長I・ドゥラチも作家同盟のメンバーであった。
 ソ連憲法ではもともと公用語や国語に関する規定はなかったが、非スラヴ語・非キリル文字であった民族言語を復活させ国語化しようとする共和国が出てくると、ソ連政府はロシア語をソ連の公用語とする言語法を制定した。また、民族の自決権とソ連邦からの離脱権を認めながらも手続き法がなかったため、連邦離脱法が制定されたが、離脱のための条件が厳しくバルト三共和国では「事実上離脱させないための法」と呼ばれた(4)。ゴルバチョフは同時に、ソ連を維持するための新しい連邦条約の策定を進めた。ウクライナは、「主権宣言」の時点では、「他のソ連共和国との関係は同権・相互尊重・内政不干渉を原則とする条約に基づいて構築される……主権宣言の諸原則は連邦条約の策定に適用される」との文言があるように、まだ独立をめざすとは明言されていなかった。
 ソ連では、住民の意思を確認し政府に対する主張の根拠となるレファレンダム(国民投票)が各地で実施されるようになり、クリミアでも一九九一年一月に自治州から自治共和国としてのステイタスをとり戻し、新しい連邦条約に参加するか否かを問うレファレンダムが行なわれた(賛成九三%)。その二カ月後、ソ連全土で「平等な主権共和国による刷新された連邦としてのソ連維持」を問うレファレンダムが行なわれ、ウクライナでは七〇%が賛成したが西部三州がボイコットした。
 しかし、リトアニアで「血の日曜日事件」が起こり、自由を求める人々の間でゴルバチョフに対する不信感が増すなか、ゴルバチョフ周辺でも保守派の要人の間で改革による混乱、連邦弱体化、軍縮による勢力圏縮小に対する不満が蓄積されていった。保守派は新連邦条約の調印を阻止しようと一九九一年八月に反ゴルバチョフ・クーデターを起こしたが、クーデターはエリツィンによって打倒されただけでなく共和国の独立を加速化させ、ウクライナ最高ソヴィエトは八月二四日に「独立宣言」を採択した。この宣言の起草者もL・ルキヤネンコやV・チョルノヴィルなど、かつて反体制派として投獄されていた人々であった。この二日後、キーウの「十月革命広場」は現在の「独立広場」となった。
 ソ連はバルト三共和国の独立回復を承認して三国は国連に加盟、ウクライナは一二月に共和国ソヴィエトの決定に関するレファレンダムと大統領選を実施し、独立が決定した。初代大統領となったL・クラフチュクは、ロシアのエリツィン大統領、ベラルーシのシュシケヴィチ最高ソヴィエト議長とともに「独立国家共同体」(CIS)の創設とソ連消滅を宣言し、バルト三国とグルジア(現ジョージア)を除く他の共和国もCISに加わり、ゴルバチョフは大統領を辞任してソ連は消滅した。通常の国家間組織であれば組織の名称に「独立」とあえてつける必要はない。CISは創設協定の中でソ連の消滅を宣言した、つまりソ連を消滅させることが目的だったため、あえて「独立国家共同体」と名付けたわけである。

■ソ連崩壊後

 数世紀にわたる悲願の独立を果たしたものの、国家建設のプロセスは多大な困難を伴うものであり、ウクライナは新憲法の制定が旧ソ連諸国で最も遅れた。「主権宣言」には、同宣言が「新しい憲法の土台となる」と書かれており、宣言採択の三カ月後には憲法準備委員会が設置されていた。だがウクライナの場合、大統領と議会の権限争い等だけでなく、ロシア語やクリミアの扱い、及びそれに関連して連邦国家とするか単一国家とするか、議会を一院制にするか二院制にするかという争点もあがり、左派と右派の合意に時間がかかったのである。
 クリミアに関しては、特別の地位と権利を与えることでロシア人の不満を緩和し分離を防ごうと、自治共和国としての地位復活が認められたが、これに対し西ウクライナ諸州から反発が生じるなど、当時の争点のほとんどは現在に通じる問題であった。つまり一九九六年に新憲法は制定されたものの、根本的な問題は解決されていなかったわけである。国内問題と外交問題が直結しているのがウクライナの難しさであり、クリミアにある黒海艦隊とその基地セヴァストーポリ、エネルギーをめぐるロシアとの対立は、ウクライナに残されたソ連の核兵器移送を遅らせた。アメリカの仲介と国際社会からの批判もあり、ウクライナは解体とロシアへの移送に合意したが、その条件として一九九四年にロシア、アメリカ、イギリスからとりつけたウクライナの安全を保障する「ブダペスト覚書」は役にたたなかったことが、二八年後の二〇二二年に明らかとなった。
 なお、新憲法によってかつての国旗、国章などの国家シンボルが復活したが、国歌「ウクライナいまだ死なず」については、二番の「シャン川からドン川まで、兄弟よ、血の闘いのために立ち上がろう。祖国は誰にも渡さない。黒海は微笑み、ドニプロ川は歓喜する。我らがウクライナに運命はやってくる」の傍線部分がポーランドとロシアにまで及ぶと問題になり、一番のみとなった(「ウクライナは未だ死なず。栄光も自由も。兄弟よ、運命は我らにまだ微笑みかけるだろう。我らの敵は太陽の下の露の如く滅び、兄弟よ、我らの地で栄えんと魂も肉体も我々の自由に捧げよう。そしてコサックの血が流れていることを示そう」)。
 ロシアとの問題は、エリツィン=クチマ時代の一九九七年に「友好・協力・パートナーシップ条約」と三つの「黒海艦隊協定」が調印されたことでいったんは解決し(5)、同年にはウクライナとNATOの「特別のパートナーシップ憲章」、ロシアとNATOの「基本文書」も調印された。しかしNATOが東方拡大を続け、さらに一九九九年のコソヴォ危機でNATOがセルビアを空爆したためNATOとロシアの関係は悪化、結果的にNATOがコソヴォの独立を助けたことはロシアがクリミアの独立を支援する口実を与えた。
 二〇〇四年の「オレンジ革命」を受け翌年に大統領になったユシチェンコは、黒海艦隊協定の延長を拒み、S・バンデラを英雄扱いしたことからロシアが猛反発したが、政権内の不和と失政から国民の支持を失いオレンジ政権は消滅した。二〇一四年の「ウクライナ危機」は、オレンジ革命で敗北したヤヌコヴィチがユシチェンコの次の大統領に就任した四年後に起こった。ヤヌコヴィチはロシアとの関係を修復し、黒海艦隊協定の延長、地方におけるウクライナ語以外の言語の使用に関する「国家言語政策基本法」の成立(6)、大統領権限の強化を試みた。ヤヌコヴィチは、NATOと異なりEUとの関係は維持していたが、EUがヤヌコヴィチの政敵であるティモシェンコの釈放や司法改革、汚職対策を再三要求し、それらを「連合協定」締結の条件としたことから、二〇一三年一一月、ヤヌコヴィチは直前になって調印を延期した。

■ウクライナ危機からロシアによる侵攻へ

 これに対してキーウでデモが起き、年明けに治安部隊との衝突で一〇〇名が死亡しヤヌコヴィチは所在不明のまま最高ラーダ(国会)によって解任された。ロシアにいたヤヌコヴィチは、自身の解任を「ファシストによる国家転覆」と訴え、プーチンはウクライナにおける混乱からロシア系住民を保護するとの名目で連邦軍の使用許可を上院に要請した。クリミアではロシアとの「再合同」かウクライナ残留かを問うレファレンダムが行なわれ(この時も「再合同」という文言が使われた)、その結果を根拠としてクリミアはプーチンとロシア連邦の一部となる条約を締結した。クリミアに続こうとウクライナ東部のルハンスク州とドネツク州も独立を宣言し、ウクライナ政府軍との衝突にいたってからの経緯は周知の通りである。
 新憲法制定の過程で議論になったウクライナの連邦化が、二〇年あまりを経て今度はプーチンから提案された。東部二州を事実上ロシアのコントロール下におくためである。ポロシェンコ大統領は、連邦化は拒みつつも和平達成のため東部二州に対する特別の地位付与には合意し、そのための憲法改正案を最高ラーダに提出した。しかし二州を特別扱いすることには国内(主に西部州)から反対の声があがり、「ミンスク合意」は頓挫した。特別の地位付与は解決策にならないことをクリミアの例から学んでいたからである。ポロシェンコ大統領以降、地方自治改革が本格的に進められているが、ミンスク合意が暗礁にのりあげた原因がウクライナ側にもあったことは、ロシアに侵攻の口実を与えたかもしれない。
 クチマは「ロシア寄り」とみられることが多いが、ロシアによる侵攻の二〇年近く前、まだ大統領としての現役時代に『ウクライナはロシアではない』という著書をあえてモスクワで出版している(7)。ロシアがウクライナをどう見てきたかを歴史家さながらに、しかし大統領としての目線で記しており、ロシアを批判することなく「ロシアの一部としてのウクライナ」から「ウクライナとロシア」という視点に立って共存することを呼びかけている。
 本稿は誌面の都合と冒頭に述べた理由から、危機後の経緯やロシアの侵攻に関する現状分析よりもロシアとウクライナの歴史的な関係に焦点をあててきたが、ウクライナは多民族国家であることを忘れてはならない。とりわけ、クリミア・タタール人の状況が危惧される。ロシア帝国によるクリミア併合でその地を追われ、スターリンによる強制移住と弾圧で多くの犠牲者を出し、ゴルバチョフ時代にようやく帰還できたものの二〇一四年に再び事実上の追放にあうという、歴史に翻弄されてきた人たちである。ニュースではなかなかとりあげられない犠牲者にも私たちは目を向けるべきである。


(1)二〇二二年三月三一日に日本政府はウクライナの固有名詞をロシア語ではなくウクライナ語の発音による表記に改めた。本稿では初出のみロシア語名も表記する。
(2)凶作に加え、過酷な穀物の調達、移動の自由禁止によりもたらされた「人為的飢饉」といわれている。
(3)ロシアとウクライナにいくつものフメリニツキー像がたてられ、クチマ元大統領やティモシェンコ議員が卒業したドニプロペトロフスク大学など「再合同三〇〇年記念」の名称が加えられた教育機関・施設もあった。
(4)共和国で三分の二の賛成があること、ソ連人民代議員大会の過半数の賛成を得ること及び否決された場合はその後一〇年にわたり同様の提案はできないこと、五年間の移行期間をおくこと等。
(5)友好条約の条項には領土保全・国境不可侵も含まれている。黒海艦隊はインフラを含め両国で折半し、ウクライナはその半分をロシアに売却、かつロシアとセヴァストーポリのリース契約をすることでエネルギー代金の未払いにあてた。
(6)しかし同法は地方における非ウクライナ語話者の便宜を配慮し、一八の言語をあげて多言語主義を奨励するものであるため、ロシア語だけを優遇する法ではない。
(7)Деoннд Кучма,《Украина――не Россня》,Время,Москва,2003




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