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海のアルメニア商人 アジア離散交易の歴史 (重松伸司 集英社新書)

2023年07月20日(木)

新書一冊,
重松伸司
海のアルメニア商人 アジア離散交易の歴史
集英社新書
を読む.

興味深く読む.
読みやすい……けれど,ちょっと物足りないところもあったかな.
というか,たぶん本書で紹介されるアルメニア通史を承知していないと,追いついていけないんだろうな,こちらの知識不足か.

ついでにむかしのことを思いだしていた.
いや,たいしたことではないのだけれど,高校の歴史,世界史と日本史.
というか,世界史の教師と日本史の教師.
いまでも印象に残っているのは,日本史の教師.発表授業とかいって,生徒が自分でテーマ,参考書を選んで,発表をする、そんな授業.
呼び方はいろいろあるんだろう.
そういう趣旨の歴史教育のあり方を考える教員集団があったのだそうだ.
ずっと後になって,ネットで調べていて、教師の名前を発見したのだった.
で,アルメニア? 
いや,教科書のレベルでは,もともと無理があったのだろうが,
それにしてもいったいなにを学習していたのだろう,と思い返す.
あるいは,たんに教師が嫌いだったんだろうか.
いまメディアをにぎわせているロシアーウクライナなど,はたしてどれほどの「」を学んだだろうか.

戦後,若手の歴史研究者の座談会で,
世界史(事実上西洋史),東洋史,日本史を統合する歴記教育に言及されていたと聞く.若手は、やがてそれぞれのジャンルの「大家」にでもなったか,戦後間もないころの志はどうだったんだろうか、とも思うが,
そんなことをちょっと思い返しながら.

ユーラシアの西の端の辺境地帯が、なぜ世界史をつくったのだろうと、ちょっと考える.しかし,その世界史に,アフリカや,中央アジアや,中南米はどのくらい織りこまれただろうか.
極東の島国は,新しい歴史教育をめざすらしいが,新しい皇国史観にならないことを祈ろう.

でも,たぶんもっと時間と空間を拡げた,そう通史のようなバックグラウンドがないとちょっと物足りないというか,食い足りないというか.
でも,一般読者が簡単に読める,こうしたジャンルの本がもっと増えるといいんだろうな.


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海のアルメニア商人
アジア離散交易の歴史

重松伸司

集英社新書 1160D

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目次

はじめに      8

第1章 アルメニアン・シルクロード      18
    カスピ海と黒海のはざま/離散の民からコスモポリタンへ/
    農業の民から商業の民へ/カントの「アルメニア商人説」/
    ユーラシア内陸の広域巡回商人/国際商都ジュルファの陥落/
    新ジュルファの建設/新都を拠点とする交易回廊/西のアルメニアン交易回廊/
    交易都市を結ぶ情報回廊/「交換」の場、フンドゥク/
    北のアルメニアン交易回廊/東のアルメニアン交易回廊/
    なぜアルメニア商人の広域交易は可能だったのか/ウサギの目と耳と脚/
    帝国間の覇権争い/ユーラシア内陸交易の衰退



第2章 陸と海のインド交易回廊      47
    ホヴァンネスのインド交易路/コスタンドの交易録/
    ラホールのアルメニア商人たち/アーグラのアルメニア人高官/
    スーラトのアルメニア人司祭/アルメニア商人の海洋進出は早かった/
    インド~東南アジアの航海ルート/ザファル青年が語る旅の記録/
    陸と海を結ぶ鞘どり交易

第3章 アルメニア商人とイギリス東インド会社      64
    イギリスと手を結ぶ/一六八八年協約/
    内陸ルートから海上ルートへ/
    主協約書の内容/EICの意図は/
    EIC、アルメニア商船を利用/内陸都市から海港都市へ/
    アルメニア商人のゴールデン・トライアングル

第4章 アルメニアン・コミュニティの家族史
       ――ホヴァキム家の事例      79
    シンガポールのアルメニアン・コミュニティ/シンガポールのホヴァキム家/
    起業家パルシク・ホヴァキム/東南アジア、インド、イギリスを結ぶ一族/
    園芸愛好家の母娘ウレリア、アグネス、サラ/新種のラン発見/
    国花となったヴァンダ・ミス・ジョアキムと交配論争/
    論争はどう決着したか/家族史から現れる姿

第5章 アジア海域のアルメニア海運      102
    アジアの海運同盟/カルカッタ航路の争奪/大阪商船の調査報告/
    日本郵船の調査報告/アプカー商船の創業/BIリストの中のアプカー船舶

第6章 アルメニア商船の日本就航      123
    居留地記録のアプカー商船/アルメニア商船の神戸入出港/



    アプカー商船と有力商会/C・イリス商会とアルメニア号/
    コーンズ商会とP&O/ブラウン商会とアプカー商船/バーナード商会/
    ホーム・リンガー商会とアプカー商船/アルメニア商船の長崎入出港/
    特別輸出港とアプカー商船

第7章 アルメニア商人の居留地交易      142
    アルメニア人、A・M・アプカー/
    『ジャパン・ディレクトリー』に見るアプカー商会/横浜アプカー商会の変遷/
    横浜七〇番館アプカー商会/関東大震災と神戸への避難/神戸のアプカー家/
    神戸アプカー商会一八九八~一九二八年/アプカー商会の交易品/ニッチ交易

第8章 アルメニア通り・教会・ホテル      169
    アジアのアルメニア通り/カルカッタのアルメニア人街/
    アルメニア人街の住人たち/カルカッタのアルメニア人家族/
    南アジア・東南アジアのアルメニア教会/アルメニア人のホテル経営/
    アルメニア人のクラシックホテル創業/
    東南アジアのホテル王、サーキーズ四兄弟/アルメニア人経営のクラブホテル/
    名前・国家・宗教

おわりに      196

謝辞        202

図版作成/MOTHER






   はじめに


 アルメニアについて語ろうとすれば、避けて通れない言説がある。それは、「緩衝地帯」「ジェノサイド」「交易の民」だ。
 アルメニアという民族と社会は、大国の干渉・侵略、離散という絶え間ない政治変動に翻弄されてきた。アルメニア人の歴史家ブルヌティアンのアルメニア民族の通史はそうした史実を余すところなく描いている。同書は邦訳にして本文四五〇頁、巻末年表三〇頁の大著である*1。
 有史以来の二〇〇〇年以上の間、アルメニアの置かれていた立ち位置は、次々と勃興する帝国のはざまにあった。ローマとパルティア、ササン朝とビザンツ、ビザンツとアッバース朝、神聖ローマとイル・ハン国、サファヴィー朝とオスマン帝国、オスマン帝国とロシア、ロシアと西欧列強諸国……。アルメニアはこれらの大国が引き起こす緊張と対立と紛争の緩衝地帯となり、その均衡が破れるや侵略を受け、侵略の挙句に離散や虐殺という運命に追い込まれた。そのことが同書の「年表」には淡々と記されている。紀元前四〇〇~三○○年の間には、「自治」「独立」を果たし、紀元前八〇年頃には最大版図を得るが、数世紀も持続することはなく短命に終わった。アルメニアが実質的な独立を果たしたのは一九九一年、わずか三〇年前のことである。

 アルメニアについての重要な言説は「ジェノサイド」だ。この用語自体は二〇世紀半ばから使われ始めたのだが*2、ジェノサイドの実態は紀元前後から発生している。一九世紀以降に限っても、少なくとも三度、一八九五~一八九六年、一九〇九年、一九一五~一九二二年に民族の虐殺が発生しているが、今もなお実態の解明は不十分である*3。
 ジェノサイドとは集団虐殺に限らない。ライフ・ベース、つまり食料・水・住居のインフラをはじめ、移動、定住、家族、職業、信仰……人びとが生存の基盤とするあらゆる自由を絶たれることである。そうした歴史的な悲劇はアルメニアだけではなく二一世紀の今日もなお、世界のあちこちで繰り返されている。その惨状たるや、地域や民族を問わず、新たなジェノサイドの時代ではないかと思わされる。

 ジェノサイドから逃れる手段の一つは民族の分散逃避であるが、それは難民となり離散(ディアスポラ)という結果をもたらす。正確に言えば、離散は結果ではなくして、その前後に「いかに生き抜こうとしているか」という意思と、「どう生き抜いてきたか」という現実がある。本書の主たる関心は、干渉や侵略や虐殺という政治・社会状況の直接的な実態の解明ではない。アルメニアの人びとが「いかに生き抜こうとし、生き抜いてきたか」という営為を、「アジアへの離散と交易」という史実の視点から描くことにある。
 当然のことだが、離散アルメニア人の実態を網羅的に紹介することは難しい。
 本書は、筆者がアジア各地で出会った人びとへのインタヴューと、さまざまな歴史遺跡、関係史料にもとづく現場確認、「フィールドワーク」から得られた成果の一端である。二〇○○年頃から、筆者はベンガル湾沿岸域のインドのコルカタ(旧カルカッタ)を中心に、チェンナイ(旧マドラス)、バングラデシュのダカ(旧ダッカ)、ミャンマー(旧ビルマ)のヤンゴン(旧ラングーン)、シンガポール、マレーシアのマラッカ、ペナンなどの港町でアルメニア商人についての史料収集と墓碑調査を行ってきた*4。インド・東南アジアのアルメニア人のコミュニティについては史料も情報も少なく、あっても断片的で、在留アルメニア人の関係者もなかなか現れず、調査は困難を極めた。
 しかし、調査を進めてゆく中で新たな事実が明らかになってきた。数少ないアルメニア人コミュニティの中で、香港(ホンコン)で事業を興し、アジアのアルメニア人救済者として敬われ、後にはアルメニア人として初めて「サー」の称号を授与された実業家ポール・チャターや、一八六〇年代から海運、海上保険、炭鉱業など手広く事業を営んでいたアプカー一族などが、旧カルカッタに拠点を置いていたことなど、さまざまな事実が断片的ながら浮かび上がってきた。

 かつてイギリスの植民地領であった旧カルカッタは、アジアにおけるアルメニアン・コミユニティの「拠り所(よりどころ)」であった。現地のインド人はほとんど気付かないのだが、今もなお同市の下町、安宿が軒を連ねているサダル通り近くには、入り口に「アルメニアン・カレッジ」と大書されたゲートがある。周囲は高い塀で囲まれ、ゲートでは複数の警備員による厳しいチェックが行われていて、外部からの訪問者をよせ付けない。筆者は幾度となくこの施設に通い、電話をかけ、訪問の趣旨を伝え、一週間後にようやく扉が開いた。中は二万平方メートルもあろうか、幾棟かの建屋と運動場があり、一〇〇人ほどの若いアルメニア人の男女が生き生きと生活していた。
 数回の訪問の後、やっとのことでその責任者であるアルメニア人、ソーニア女史の信頼を得て、彼女の紹介でコルカタ市内のアルメニア人施設や教会や墓地、さらには同市北部のチンスラー、バングラデシュの首都ダカのアルメニア教会と管理人を次々と訪ねることができた。しばらく通ううちに、コルカタの南・北の郊外にも高い塀に囲まれたアルメニア人の関係施設があることを知った。それらの区画内には管理事務所のほかに、生活施設や学校、養護院、教会、墓地なども併設されていて、老人や壮年のアルメニア人がともに生活している施設もあった。ここには、周囲のインド世界とは全く隔絶した「アルメニアン・アジール」ともいえる空気が充満しており、南アジア在住のアルメニア人の安息の場であることが伝わってきた。

 帰国後、筆者はアルメニア友好団体の関係者や居留地研究者の案内で、横浜山手外国人墓地や神戸市立外国人墓地にはアプカーやほかのアルメニア人の墓碑が残っていることを知った。
 幕末・維新期の当初に、旧居留地にアルメニア商人が到来したことも明らかになった。改めて函館、横浜、神戸、長崎の旧居留地や外国人墓地、彼らが商会を置いた大阪や門司の市内、居留地外国人の保養施設があった神戸、その西郊の舞子、塩屋、北郊の有馬など旧跡を訪ね回り、史料をしらみつぶしに当たった。
 その結果、函館の居留地関係史料にはアルメニア人らしい人名も墓碑も見当たらないことが判明した。だが、ほかの居留地では商会や海運会社、ホテルなどアルメニア商人関係の史料が次々と現れた。

 ところで、アルメニアという国名やアルメニア人という民族名は、我々日本人の認識からは遠く、深く理解されることはほとんどなかった。インドで活躍していたアルメニア人が、南シナ海、東シナ海を経て、やがて中国や日本にまでやってきたという事実も知られることはなかった。

 近世のユーラシア大陸では、アルメニア商入は「陸の巡回商人」として活躍していた。そうした史実は第1章で紹介するように、これまで海外の研究でかなり明らかになっている。しかし、近代になると彼らが「海の商人」に変貌し、インド・東南アジアを経て東アジアにまで到来したという史実はほとんど明らかにされてこなかった。では「陸の巡回商人」が「海の商人」に転身した背景には何があったのだろうか。

 筆者の関心は近代の国際交易史にはない。小民族であるアルメニア人の移動に関わる動機や背景、海域での交易活動や彼らの交易圏の広がり、そして、彼らを結びつける「ネットワーク」、彼らの拠り所(アイデンティティ)、そしてアルメニア海商とイギリスやフランスなど強大な海洋帝国との関わりがテーマなのである。

 本書におけるアルメニア商人の交易の主な舞台は、近代におけるベンガル湾からマラッカ海峡、日本に至る海域世界である。彼らの活動は実は香港や上海(シャンハイ)、厦門(アモイ)などの中国各地、ウラジオストックなどにも及んでいた。そのことは「チャイナ・ディレクトリー」や「チャイニーズ・レポジトリー」などの記事から断片的にうかがえる。しかしながら、これらの地域での史料収集や現地調査の機会がなかなか得られず、しかも政情の変動などでここ十数年の間、調査のめどは立たず、ついに断念せざるを得なかった。中国におけるアルメニア商人の活動については、極めて重要なテーマなのだが、史実検証を今後の研究に俟(ま)たざるを得ない。

 近代アジア、特に南アジアから東アジア一帯のアルメニア商人の実態については、一般書はもちろん国内外の専門研究でさえも多くはない。本書はいわばその端緒、出発点である。アルメニア人による最新の研究を取り上げつつ、本書の内容に関連する一般向けの邦語文献や翻訳書もできるだけ紹介しておきたい。
 それでも史料の欠如や論証の不十分な点があるだろう。それはひとえに筆者の責任である。今後の研究の深まりの中で補足修訂していただきたい。
 なお、本書では次の点に留意した。

1 歴史的用語や人名・事件名は、基本的に邦語表記とした。
2 本文での人名・地名は、基本的に近代の表記とした。
3 本書では、「離散アルメニア人」と「在外アルメニア人」という用語・概念を使い分ける。
4 文献を参照した箇所には註番号を付して、各章末に一括してまとめた。



*1 ジョージ・ブルヌティアン著、小牧昌平監訳、渡辺大作訳『アルメニア人の歴史――古代から現代まで』藤原書店、二〇一六年。原書:George A.Bournoutian,A Concise History of the Armenian People:from Ancient Times to the Present,Mazda Publishers,2012
*2 一九四八年一二月九日の国際連合総会において採択された条約によって初めて承認された「国際的な犯罪」。一九四四年にユダヤ系ポーランド人ラファエル・レムキンによって提唱された用語・概念である。主としてホロコーストがユダヤ人に対する、ジェノサイドがアルメニア人に対する民族抹殺を含意したが、今日ではより広くさまざまな民族集団に対する非人道的な犯罪を意味する概念として用いられている。
*3 松村高夫・矢野久編著『大量虐殺の社会史――戦標の20世紀』ミネルヴァ書房、二〇〇七年、第一章「トルコにおけるアルメニア人虐殺(一九一五~一六年)」。
*4 重松伸司『ベンガル湾海域文明圏の研究――アルメニアン・コミュニティの社会組織とその活動』〈調査研究基礎資料〉、「海域学」プロジェクト関連事業成果報告書、立教大学アジア地域研究所、二○一四年六月(未公刊)。





   おわりに


 近代における離散アルメニア人はいったいどのような特徴を持っていたのだろうか。これまで語ってきたことをまとめてみたい。
 第一に、アルメニアン・コミュニティの離散の「体験と記憶」である。
 近世から近代への過渡期に差し掛かったアルメニアは、ユーラシア内陸の激動の渦中にあった。そうした状況が離散を誘発した一つの要因であったことは事実だ。しかし、イスファハンの新ジュルファに定着した近代以降のアルメニア人の離散は、それ以前にロシアや西アジア、地中海やヨーロッパへと展開したアルメニア人の状況とは大きく異なる。南アジア、東南アジア、東アジアに離散したコミュニティには共通の経験が見られる。それは、アルメニアという民族に付随する「歴史的な負の記憶」が必ずしも顕著ではなかったことだ。具体的に言えば、これら移動先の地域ではアルメニア人をめぐる深刻な民族紛争が起こることは稀で、また彼らが「緩衝の地の民」として絶えず分断され、抹殺されてきたという歴史上の記憶もなく、抹殺すべきだという移動先の民族による意識も、ほとんどなかったのではないだろうか。
 そうした離散民側と受け入れ社会側との問の「民族的な負の遺産」が強く意識され、民族意識の自覚に結びついたのは、一九一五~一九二二年のオスマン帝国によるジェノサイド以降のことである。それまでこれらの地では離散アルメニア人は比較的に「安住の状況」にあったといえよう。
 こうした近代における「安住の状況」は、一面ではイギリスとの関係によっても補強されていった。
 「一六八八年協約」によって、アルメニア人は「イギリス人に準じた人々」としての地位・身分を担保された。結果的には彼らは近代のインド、東南アジア、中国、日本の居留地や植民地コロニストでは、支配者とは言えないまでも準植民者として遇され、自由な活動が可能な立場にあった。それに対して、植民地支配下にあった華僑・インド移民は圧倒的に被支配者の立場であり、収奪の対象であった。近代の「離散」状況について、民族によってこのような相違があったことは記憶されるべきではないか。
 第二に、離散アルメニア人の「社会的・経済的地位」である。本書で取り上げた離散アルメニア人の多くは専門的職業人であった。いくつかの事例で挙げたように、彼らは貿易商・仲介商人・保険事業者・投資家・企業家であり、また専門職の弁護士や技術者であったし、社会的には現地の慈善家でもあった。彼らの多くは政治から一定の距離を置いてはいたが、現地の社会・経済・文化面では相応の影響力を持つ名士であった。それは東南アジアの華人有力層にも共通するのだが、「移民エリート」の典型でもあったといえる。
 もちろん、「モノ言える人びと」だけが離散アルメニア人ではない。記録には残らない数万・数十万・数百万のアルメニア人がいた。そのことは本書では記せなかったが、少なくとも本書で述べたアルメニア人が彼らの代弁をしてきたのではないかと考えることもできる。
 第三に、離散アルメニア人、特にアルメニア商人は「ニッチの民」だという特性である。ニッチとは、辞書上は「くぼみ」あるいは「隙間」という意味だ。しかし、それは単に小規模な、あるいはマイナーな商品の交易のみを行うという意味ではない。アルメニア商人としての独自の商品や商法やルートあるいは領域において力を発揮する、いわばアルメニア人独自の「領分」という意味である。例えば「鞘どり交易」や、海洋帝国が扱わないが有用な資源の交易である。そうした生き方は、ほかの大勢力にも侵されず、対抗せず、そして併存する関係、共生関係の生き方ではなかったかと筆者には思える。
 近代のアルメニア商人の場合、各国・各地域の商会の存在と商会間の関係は独特である。「のれん分け」のようにして各商会が各地で独自に存在しており、本社-支社といった支配・従属型の強いネットワークがあったわけではない。資本・商品・人事・輸送路・契約先などについて、本社からの強い規制があったわけでもない。そうした傾向は、カルカッタの本社とシンガポールやペナン、香港や神戸などに支社を持つアプカー商会の場合にも見られる。それはアルメニア人の「分散し生存する」というサヴァイバル戦略ではなかっただろうか。つまり、一つの商会(組織)が消滅してもほかの商会(組織)が生き延びるという、いわば細胞の分裂と生存に似た知恵であっただろう。この点において、第1章で見たような近世の広域巡回交易における新ジュルファ(ピヴォタル・センター)と各商都(ノーダル・タウン)との関係とは異なると考えられる。
 第四に、コミュニティの「紐帯(ちゅうたい)」である。離散アルメニア人の大多数は「家族(ファミリー)」を単位とする移動・定着を行った。この点で、華僑・インド移民の多くが単身男性の出稼ぎ移民であることと大きく異なる。とはいえ、アルメニア人の「家族」とは、おおむね一親等か二親等までで、あえて言えば「直接にコンタクトできる範囲の血統を絆(きずな)」とする結びつきであろうか。この点で、宗族や同族・同姓・同郷・同胞意識の共有による、広範で複合的な規範を持つ華僑社会のネットワークとも、ヒンドゥー系インド移民に見られるカースト・同郷・同宗といった「伝統的集団主義」とも大きく異なり、またユダヤ教を共有規範とする根強いユダヤ人の同胞意識とも異なる。離散アルメニア人としての共通の同胞意識や相互扶助の関係は顕著には見られないように思える。見方を変えれば、一面で合理的な利害共助の関係性であり、他面で非合理的でそれゆえに強靭(きょうじん)な結びつきという関係を排除して「目に見える範囲での関係」にとどまっていたのだとも考えられる。こうした関係性が離散の状況に起因するものなのか、アルメニア人の民族性なのかは明らかではない。
 第五に、「宗教とアイデンティティー」の関連である。
 アジア各地における離散アルメニア人のアイデンティティーについて、アルメニア教会やアルメニア人の信仰や氏名といった属性から掘り下げた。
 これまでの通念として、個々のエスニックやエスニック・コミュニティの結束には、強い宗教意識があると考えられてきた。離散・定住を問わず、アルメニア人のアイデンティティーの核にはアルメニア教会の信仰があると見られてきた。しかし、アジア各地の墓碑銘、名士録、商工名鑑、改宗審問書などのさまざまな記録から浮かび上がってくるのは、離散アルメニア人の信仰がアルメニア教会やカトリック、イスラーム教あるいはユダヤ教など、個人によっては無宗教と、実に多様であることだ。またアスラニアンが指摘するように、「カトリックへの改宗も便宜的、実践的であり、融通無碍(むげ)」なのである。単一の強固な宗教的信仰がエスニックのエトスだという考えは必ずしも自明なものではない。出自の多義的表明と宗教信仰の多様性とは、彼らの「戦略的アイデンティティー」の一つと考えられるだろう。
 最後に、アルメニア商人の活動から見えてくることがある。二一世紀における世界では「逃走という生き方」もあるのではないのかということである。それは離散アルメニア商人の現地調査を続ける中で次第に醸成されてきた筆者の個人的意識である。「逃走」とは「逃亡」ではなく、「敗北」でもない。離散しつつも新たな「アイデンティティー」が兆し、それを世界のどこかで醸成する一つの方策であり、二一世紀においては積極的な生き方ではないのかということだ。
 国家がアプリオリに存在すると当然のように信じ、自分たちはその国家に自明の如く属し、「国民としての意識」を保持するという生き方は、やがては行き詰まってゆくのではないだろうか。
 では、それに代わり、それを超克する我々の生き方とは何なのか。一言で「コスモポリタン」というには安易にすぎるが、それに代わる「積極的な意味での逃走」という概念と具体的な方策を我々が模索しなければ、二一世紀は衰亡の世紀になるのではないかとも感じている。





謝辞


 本書の刊行にあたって、次の研究・資料館や研究者、友人の方々に大変お世話になりました。
 関西大学図書館、神戸市文書館、神戸市立中央図書館、兵庫県立図書館、横浜開港資料館、ゼンリンミュージアム(北九州市)、長崎歴史文化博物館、京都大学東南アジア地域研究研究所、神戸大学海事博物館、コルカタ・アルメニアン・カレッジ、チェンナイ・アルメニア教会、シンガポール国立図書館・公文書館、シンガポール・アルメニア教会、有馬郷土史資料館からは、関達資料の閲覧の便宜や資料の提供をいただきました。
 また、アストギク・ホワニシヤン、メリネ・メスロピヤン、ゲヴォルグ・オルベイアン、クレメント・リャン、谷口良平、木下孝、頼定敬子、森本治樹、長島弘、中島偉晴、大村次郷、弘末雅士、山口元樹、旦匡子、谷口義子、吉田佳展の各氏からは、史料や現地情報の提供をいただき、また、神戸、長崎、コルカタ、ペナン、ジャワ島での現地調査をご案内いただきました。調査の中で出会い、さまざまな貴重な話をお聴きした現地の人びとにもお礼申し上げます。
 執筆の途次では、堀本武功、上田周平、大麻豊の各氏からコメントや激励をいただき、執筆断念の危機を越えることができました。
 本書の海外調査には大同生命国際文化基金の「大同生命地域研究賞」、日本学術振興会の科学研究費助成事業による「海域学・渡海者」研究プロジェクト(代表:上田信・立教大学文学部名誉教授)の研究分担金が大きな支援となりました。
 刊行にあたっては、集英社新書編集部の金井田亜希編集長と校閲担当の方々からは、多くのご教示・ご批正をいただき、心からお礼申し上げます。長期にわたって気ままな研究を支えてくれた妻の紀子と子供たちには、感謝のほかありません。
重松伸司
s.shigemat⑨gmail.com

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