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寺島実郎 脳力のレッスン 近代史におけるロシアと日本の相関――ウクライナ危機とロシアの本質(その3) 【世界】2022年08月

2023年01月31日(火)

メディアから,ウクライナ戦争の報道が聞かれなくなるのは,いつだろう?

そういえば,モンゴルの人たちは,「国」をどんなふうに思い描いていたんだろう.
あるいは,そもそもそんなものは知ることはなく,知ろうともしなかっただろうか.
知らない.

シベリアという広大な辺縁の地を,どんなふうにみていたのか.
おなじように,列島の国も,蝦夷地をどんなふうにみていたのか.

さいきん間宮林蔵の足跡がとりあげられていた.
間宮林蔵は,アムール川を遡って……と聞いたこともあったと思い出す.
あるいは,松前藩は,他の藩とはずいぶん違っていたとか,お米のとれない地を領地にしていたわけだから……とか.

大陸側から列島を見た地図があったけれど,さいしょ見たとき,ちょっと不思議な感じがあった.
そういえば,木下藤吉郎さんは,朝鮮半島に戦争をしけて,
そのあと,半島から,日本海に沿って,ひょっとすると蝦夷地の方まで進軍しようとしていたのではないか,なんて話もあったな,と思い出す.
意外と広い視野を持っていた?ともいえそうだけれど.


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【世界】2022年08月


連載244
脳力のレッスン 特別編
寺島実郎

近代史におけるロシアと日本の相関――ウクライナ危機とロシアの本質(その3)


 江戸期の約二五〇年間、日本とロシアの関係は不思議なほど密度の濃いものであった。本連載でも「世界を見た漂流民の衝撃――韃靼漂流記から環海異聞」(二〇一五年七月号)で書いたが、鎖国といわれる状況下の日本で、日本人の漁民や船乗りが漂流して海外に漂着した事例は、確認できるものだけで三三九件、そのうちロシア関連(樺太・千島、カムチャッカ、アリューシャン、沿海州)が二一件(『日本漂流漂着史料』荒川秀俊編、気象研究所監修、一九六二年)で、驚くべきことに四人のロシア皇帝が日本人漂流民を引見している。
一七〇二年に大阪出身の漂流民、伝兵衛がピョートル大帝に謁見、その後サンクトペテルブルクに日本語学校が設立されることになった。次に、一七三四年には薩摩の漂流民、ゴンザとソーザが女帝アンナに謁見、ゴンザは世界初の日露辞典を編纂することになる。一七五四年にイルクーツクに移転するまで、漂流民がサンクトペテルブルクの日本語学校を支え、ロシアに骨を埋めた。さらに、一七八三年には伊勢の漂流民、大黒屋光太夫がアリューシャン列島に漂着、エカテリーナ二世に謁見し、帰国を許されて一七九二年のラックスマンの根室来航とともに帰国している。そして一八〇三年、奥州の若宮丸の漂流民・津太夫他四人がアレクサンドル一世に謁見し、日本人初の地球一周を体験して翌一八〇四年にレザノフによって長崎に送り届けられている。通商を求めてのラックスマン、レザノブの来航は、ペリー浦賀来航の半世紀前であり、日本近代史の扉は、実はロシアの「北の黒船」が揺さぶったのである。
 大航海時代の波に乗って、ポルトガル、スペイン、そしてオランダが一六世紀~一七世紀にかけて日本に接近してきたのとはまったく異なる文脈で、ピョートル大帝以来のロマノフ王朝のアジアへの関心と野心が、一八世紀末になって日本の扉を叩いたのである。

■ロシア近代史の苦闘――「大改革」の時代
 一八五三年、米国のペリー提督が浦賀に来航した年、ロシアではクリミア戦争が勃発した。中東一神教の聖地エルサレムの管理権問題を端緒に、ロシアがオスマン帝国領内に侵入した。オスマン帝国傘下にあったパレスチナにおけるキリスト教の聖地管理権はギリシア正教に認められていたが、カトリックのローマ教皇を支援するフランスのナポレオン三世の圧力で、正教系の管理権が失われかけたことが開戦理由であったが、ニコライ一世の下でのロシアの南下政策が背景にあった。翌一八五四年にはオスマン帝国を支援する形で英国とフランスがロシアに宣戦、黒海沿岸を戦場に戦闘は続き、一八五六年のパリ条約での「ロシアの敗北」という形で決着した。とくに、五万人のロシア軍が立て籠もるクリミアのセヴァストポリ要塞を六万人の英・仏・土の連合軍が三四九日間包囲し、陥落(一八五五年九月)させた攻防戦は伝説として語り継がれている。今日でもロシア人がクリミアにこだわる伏線がここにある。
 クリミア戦争の敗戦によってロマノフ王朝は「ロシアの後進性」を思い知らされた。敗北の失意の中で急死したニコライ一世を継いだアレクサンドル二世による「大改革の時代」を迎えるのである。大改革の当初の目標が農奴解放と鉄道建設であった。
 一八六一年、「農奴解放令」が出された。一八六〇年代央の時点で、ロシアにおいては綿織物や製糖などの分野で一定の工業化も進み始めてはいたが、全人口の約八割が農民で、その約半分が農奴(領主地農民)、その他「国有地農民」「皇室御料地農民」なども存在していたが、総じて農奴・農民の立場は隷属的で悲惨なものであった。農奴解放令もあくまで皇帝主導の上からの改革であり、貴族・領主層の権益に配慮した改革はかえって領主と農民の対立を深め、「領主殺し」など、社会不安の震源となり始めた。
 結局、農奴解放も民主的改革には至らず、資本主義的産業化の萌芽の中で西欧に触発されたインテリゲンチャ青年による「ヴィ・ナロード」(人民のなかへ)運動が始まり、社会主義革命への導線になっていった。一八七〇年代になると、ヴィ・ナロード運動は、資本主義を飛び越えて一気に社会主義革命へと進む「革命的ナロードニキ運動」(武力闘争化)へと変質し、一八八一年三月には、「解放帝」といわれたアレクサンドル二世も、爆弾テロで暗殺され、「皇帝殺し」が現実化してしまった。
 ロシアの鉄道建設については、モスクワ・サンクトペテルブルク間の六五〇キロが一八五一年に開通し、一八六五年に三五〇〇キロだった鉄道総距離が一八七四年に一・八二万キロと、驚くべき勢いで敷設が進められたのである。
 一八六七年、日本が明治維新を迎え、欧米列強に触発され、必死に近代国家への体制造りと格闘していた時代を巨視的視界で捉えるならば、まさにロシアの「大改革」と並走していたことが分かる。興味深い事実だが、日本人としてこの時代のロシアを目撃したのが「岩倉使節団」であった。一八七一年(明治四年)一一月に横浜を出発した岩倉使節団は、米欧を視察した後、一八七三年三月にロシアのサンクトペテルブルクに到着、四月三日にアレクサンドル二世に謁見している。大久保利通はベルリンから先行帰国していたが、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文は「大改革」を指揮していたロシア皇帝と面談したのである。久米邦武が残した『米欧回覧実記』(六一章~六五章)は驚くほど的確、かつ鋭くロシアの本質を見抜き、次のように記す。
 「其政は専制の下に圧せられ、其化は古教の内に迷ひ、其富は豪族の手に収められ、人民一般の開化は、猶半開の地位を逃れず」
 久米邦武はロシアの政治体制がロシア正教による政教一致の絶対君主としての皇帝を戴き、「法教はまったく器具に弄して、此仮面を以て愚民を役使する」体制になっていると捉えている。米国から欧州列強を見てきた日本の若き指導者たちは、「欧州で最も不開なる国」としてロシアの後進性に失望を抱いたようで、それはラックスマン(一七九二年根室来航)、レザノブ(一八〇四年長崎来航)と「北の黒船」によって揺さぶられてきた幕末日本にとって、最も現実的な脅威と思ってきたロシアが「欧州の片田舎、辺境」にすぎないことへの心理的揺らぎだったといえる。
 日本の「明治近代化」も動き始めた。新政府が幕府から引き継いだ横須賀海軍工廠が日本最初の造船所として稼働したのが一八六八年で、一八七二年(明治五年)にはフランスの協力で富岡製糸工場が稼働、同年九月には東京新橋-横浜間の鉄道開通(一八八九年に東海道線が全線開通)と「文明開化」の槌音が響き始めた。つまり、日露両国は、同じタイミングで列強模倣の「富国強兵」「殖産興業」、そして対外拡張路線を歩んだのである。

■日露近代史の相関――対照的で深層底流では共振
 一八六〇年(万延元年)、遣米使節団と威臨丸が太平洋を渡った年、ロシアはウラジオストクの建設を開始した。この街の名はロシア語で「ウラジ・ヴォストーク」(東方を征服せよ)を意味し、ロマノフ王朝の極東への野心を剥き出しにしているといえる。クリミア戦争での敗北により、南下政策は挫折、アレクサンドル二世は「東進」に転じた。一八五八年、アイグン条約で中国(清朝)にアムール河以北を割譲させ、一八六〇年には北京条約で沿海州を獲得、極東開発に踏み込み始めたのである。
 人口過疎の極東開発に向けて、ロシア・ウクライナからの農業開拓移民を投入し始めた。一九世紀末までに九万人が極東ロシアへ移住したとされるが、背景には一八六一年の農奴解放令があった。解放された農奴が新天地を求め、極東に向かったとされるが、極東への入植者には兵役の免除、土地の二〇年間無料貸与(開墾した土地の買い受けも可能)という特典が付与されたという。とくに、国境警備を兼ねるコサックの移住が促進され、アムール州と沿海州で一六万平方キロの国境沿いの土地がコサックに割り当てられた。一八八三年以降はオデッサとウラジオストクを結ぶ義勇艦船が移送することになり、黒海からインド洋・太平洋・日本海と海路での入植が主流となる(左近幸村『海のロシア史――ユーラシア帝国の海運と世界経済』名古屋大学出版会、二〇二〇年)。対岸の北海道への「屯田兵」入植と相似形だったといえる。
 極東ロシアにはウクライナ出身者が集積した。現在、極東ロシアの人口は約六五〇万人といわれるが、約半数近くが先祖はウクライナ人だという。農業開拓移民としての移住に加え、ロシア革命時、および第二次大戦期のヒトラーのロシア侵攻(大祖国戦争)に際し、モスクワに抗った多くのウクライナ人が「シベリア送り」になったためだという。極東ロシアのウクライナ系の人が「人口の浸透圧」で、樺太、北海道、満州に越境し、「白系ロシア人」として生きた。昭和の名横綱・大鵬の父親もウクライナ人であった。
 ウクライナと日本の宿縁は続く。日露戦争(一九〇四~〇五年)は、一九世紀の後半に日露双方が進めた「大改革」と「富国強兵」が朝鮮と満州を舞台に激突したといえる。日清戦争に勝利した日本に対して、ロシアはドイツ、フランスとともに「三国干渉」を行ない、遼東半島を返還させ、見返りに清国から東清鉄道の敷設権、旅順、大連などを手に入れ、極東進出の意図を露わにし始めた。
 一八九一年に着工したシベリア鉄道は一九〇四年に完成するが、その完成以前の開戦を有利と日本は判断した。日露戦争で日本人はロシア人と戦ったと思っていたが、実は、極東ロシア軍には多くのウクライナ人が投入されていた。例えば、旅順要塞の攻防戦で最前線を指揮していたコンドラチェンコ少将、旅順港を拠点としたロシア海軍太平洋艦隊のマカロフ提督、「坂の上の雲」の秋山好古(よしふる)将軍と対峙したコサック騎兵を率いたミシチェンコ将軍は皆ウクライナ人であった。
 日露戦争後、二〇世紀の世界史の中で、ロシアと日本は対照的な進路を辿る。ロシアは「社会主義革命」の道へと踏み込み、ソ連邦下の七〇年を過ごし、ソ連崩壊(一九九一年)を迎える。日本は新参の帝国主義国家としての性格を強め、「親亜」を「侵亜」に反転させて、「大東亜共栄圏」の夢を追い、敗戦を迎える。どちらも、近代史における挫折を体験するのである。ここでは、プーチンのロシアの行動にも関わる「ロシア革命」の評価について言及しておきたい。
 革命の指導者レーニン(一八七〇~一九二四年)は、一九一七年の二月革命時にドイツ軍の支援を受けて「封印列車」で帰国するまで、ミュンヘン、ジュネーブ、ロンドン、パリと二〇年近くを西欧社会で過ごした人物であり、ユダヤ人思想家マルクスに傾倒した職業革命家で、「ロシア主義者」からすれば、プーチンの常套句でもある「外国の回し者」となる。なぜ、プーチンがロシア革命後の社会主義に共感を示さず、「正教大国ロシア」を語るのかを考察する必要がある。プーチンのような「ロシア主義」(ロシア正教に支えられたロシア民族主義)の視界からは、ロシア革命も国際シオニズムに立つユダヤ人主導の革命に見えるのである。一九二二年、ソ連成立の年に英国で出版されたユダヤ研究の定番本とされるヒレア・べロックの“The Jews”(邦訳『ユダヤ人』祥伝社、二〇一六年)は、ロシア革命が「ユダヤ的性格」をもっていることを分析している。つまり、一〇〇年前の英国の知識階級の間では、ロシア革命は「ユダヤ人革命」と捉えられていた面があり、未熟な「産業資本主義」段階にあったロシアにおいて、資本家を打倒する暴力革命が成功したのも、革命運動の中核となってユダヤ人が駆り立てたためとする認識が提示されているのである。
 ロシア革命の主役の一人、トロツキー(一八七九~一九四〇年)はウクライナのオデッサ出身のユダヤ人であった。亡命先のロンドンでレーニンと出会い、革命後は軍事委員として赤軍の創設に尽力した。一九二九年にスターリンと対立して追放され、メキシコで暗殺された。ソビエトとは「会議」を意味するが、「人民が主体的に意思決定に参画する仕組み」として社会主義革命の基本的装置とされ、一九一八年に農民ソビエトと労兵ソビエトの統合がなされたが、こうした志向は国際シオニズム運動の思想と親和性をもつものであった。国際シオニズム宿願のカナンの地におけるイスラエル建国(一九四八年)に際し、国造りの基本とされた「キブツ社会主義(集団農業共同体)」と共鳴する形で、ソ連がいち早くイスラエルを国家として承認したのも、国際シオニズムと社会主義の相関を示すものであった。
 プーチン的世界観、大ロシア主義から見える「ロシア革命」の時代は、こうした脈絡の中に置かれるものであり、プーチンがウクライナ侵攻後、ことさらに「愛国と犠牲」を美化する背景には「西欧化」と「シオニズム」(ユダヤとその背後にある米国)を忌避する心理があることは間違いない。
 一方、日本の二〇世紀以降の歴史は屈折している。二〇世紀の初頭、日露戦争から第一次世界大戦後の一九二三年まで、日本は英国との日英同盟を基軸に「戦争国」としての体験を重ね、日英同盟解消後は、列強との多国間ゲームに翻弄されて消耗し、満州国問題で孤立して真珠湾への道に迷い込んでいく。敗戦後は一九五一年から現在まで日米同盟を基軸とする七〇年間を生きる。日本は二〇世紀以降の一二〇年間のうち、実に九〇年間をアングロサクソンの国との二国間同盟で生きたアジアの国という特異な性格を持つ国なのである。間に挟まった約三〇年間は、思い出したくもない戦争の時代であり、「アングロサクソン同盟は成功体験だった」という固定観念がしみ込んでいるかにもみえる。だが、「G7の一翼を占めるアジアの大国」を自負しても、「名誉白人的立ち位置」に自己満足し、「米国に過剰依存、過剰同調する国」として、アジアから敬愛されない国という危うさを日本は露呈し始めている。
 不思議な現実だが、「米国との同盟強化」を声高に語る人が、戦争責任者を合祀した靖国神社を敬い、戦前の「国体」に郷愁を抱き続け、いつ偏狭なナショナリズムに回帰するかもしれない妖しさを内包しており、アジアの識者は首を傾げながら見つめている。日本の国際的存在感の前提であった経済力を直視すれば、世界GDPに占める日本の比重は、ピーク時(一九九四年)一八%であったが、昨年は五%にまで落ちこんだ。この「埋没する日本」という現実を冷静に認識し、未来を構想する時、重要なのはアジアとの関係である。通商国家日本にとって、昨年の貿易総額に占める米国との比重は一四%、アジアとの貿易比重は五三%であった。一〇年後、このアジアとの貿易比重は間違いなく六割を超えているであろう。アジア・ダイナミズムを如何に制御し引き付けるのか、これが重要なテーマであり、日米同盟だけを頼りに日本の安定を図ることはできない。「西欧化に成功したアジアの国」のように見えて、日本の国際関係の基盤は実は硬直的であり不安定である。
 論じてきたごとく、日露は対照的な近代史を歩んだように見える。だが、踏み込んで深層底流を見つめるならば、「西欧」との微妙な断層を抱え込み、閉塞感に苛まれると痙攣するという意味で、共通の歴史意識を内在させていることに気付く。ともに、西欧にあこがれ、影響され、西欧化を試みるが、結局、西欧の正式のメンバーになれず、西欧との関係が思うに任せぬ状況になると、逆上して民族主義に回帰する局面を迎えかねないのである。西欧のようで西欧でなく、アジアのようでアジアでない危うさが日露近代史に共通する要素なのかもしれない。

 
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