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片山善博(156) 心許ない国に相変わらず頼ろうとする自治体への違和感

2023年04月23日(日)

珍しく旅行会社のチラシが新聞に折り込まれていた.
そういえば,販売店が確保できないとか,販売部数の減少か,
紙の新聞の宅配が廃止される地域が増えているのだろうか.
で,その旅行に,補助金が出ているのかな,
そのお金をありがたがって頂戴する,って,ヘンだと思わなくなっているのかな,
そんな気がする.どうなんだろう.

ふるさと納税などというヘンな制度……と思うが,
返礼品,納税代行?など,中間業者だけが半町しているんじゃないか,と,
ちょっと僻みっぽく、いや,実態がよくわからないのだけれど,
なぜこんな制度が,国家によって創設されるのか,
まったく理解を超えていた.
そう,いつからだろう,なにかと言えばすぐに補助金がどうだの,インセンティブがどうだの……,
そうか,MMTなんて理論があるらしいな、不勉強で詳細を知らないけれど.
むかし,税金は,どのように説明されていたか、思い出す.
まぁ,そういえば税金で,兵器を開発し,軍隊を動員していたんだな,と思う.
なにも生み出さない、というわけじゃない,という人たちのいるのだろう.
なるほど,植民地から徹底した収奪をする,そのために軍事力を使おうとか,
ある種の非対称的な取り引きを合理化するために,軍事力をバックとする安全保障が唱えられる,とか,

いや,問題は自治体か.



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【世界】2022年11月

片山善博の「日本を診る」(156)

心許ない国に相変わらず頼ろうとする自治体への違和感


 安倍晋三元首相の国葬問題をめぐるゴタゴタにみられるように、昨今の国の政策決定のあり方に多くの国民が首を傾げている。安倍元首相の評価は、政権にあった時からすでに大きく割れていた。外交面ではわが国の存在感を高めたという評価がある反面、北方領土問題も拉致問題も何ら進展させることができなかったという低い評価もある。
 経済面ではアベノミクスにより失業率を低下させたという評価がある一方で、失業率低下は、団塊の世代が大量に退職したのに、それを補う若者の数が大きく減少しているのだから当たり前だとの冷めた見方もある。
 そのアベノミクスによって財政も金融も袋小路に入り、二進も三進もいかなくなってしまった。また、国会で何度も嘘を繰り返した政治家が国葬に馴染むのかなどとする批判は自ずと出てくる。
 さらに、旧統一教会問題で政治に対する国民の不信感が募っている折に、自民党の国会議員と教会との関係では安倍元首相がいわば中心的役割を演じていたことを窺わせる報道にしばしば接する。そのことについてなんら調査をしないまま国葬の対象にするのは納得がいかない。多くの人がこんな疑問やわだかまりを抱いていた。
 もとより国葬にするという選択肢はあっていい。ただし、異論や反論に対してそれを凌駕(りょうが)するだけの理屈を示し、反対派にもある程度は納得してもらえる説得力を示す必要があった。そんな説得や納得のプロセスを経て決まったのであれば、国葬をめぐる世論も随分違っていただろう。
 わが国の政治制度では、そうした説得をし、納得を調達する場は国会である。国論が大きく割れている問題は率先して国会で議論しておかなければならなかった。それを避け、法的根拠を欠いたまま閣議決定という政権内の手続きで済ませたのは、せっかくの機会を政権が自ら放棄したに等しい。実にもったいないし、拙劣なやり方だった。
 他にも、巨額の国費を国会で審議しないまま支出するなど、近頃の国の政策の決め方について欠陥や拙(つたな)さを上げればきりがない。ただ、ここで取り上げるのは国ではなく自治体のことである。国がこんなに心許ないのに、何事につけ国の指示や判断を待ち、それに縋(すが)ろうとする自治体の不甲斐なさについてふれておきたい。

■学校に弔意を求めることの是非は教委自ら判断せよ  まずそれこそ国葬にちなんだ話題である。このところ(この稿を書いているのは、国葬の一週間ほど前である)全国の多くの教育委員会では、国葬に際して半旗掲揚などで弔意を示すよう学校に求めるかどうかで頭を悩ませているという。
 その心情を理解できないわけではない。国葬に対する国論が割れている中では、弔意を求めるにせよ求めないにせよ、批判なり非難なりを浴びせられるのは必至だからである。できればそうした批判なり非難なりの矢面に立ちたくないのが人情だろう。
 しかし、いくら嫌でも教育委員会は方針を自ら決めなければならない。それが学校運営の任に当たる教育委員会の役割と責任だからである。公教育は地方自治法上「自治事務」に該当する。自治事務とは自治体固有の事務であって、制度上国の判断を仰ぐことの多い「法定受託事務」と異なり、自治体(公教育では教育委員会)の責任と判断で運営しなければならない。
 ところが新聞報道によると、「弔意の判断を自治体に委ねられても困る」とか「政府から通知がないので困惑している」などと、お門違いで無責任な愚痴が、あちこちの教育委員会から聞こえてくるという。
 あまりにも情けない。厄介なことは判断を避けようとせず、できるだけ国から方針を示してもらい、それに従いたいという本音がそのまま出ている。そこからは、公教育の担い手としての自覚も主体性も感じられない。ひょっとして自分たちは国の出先機関だと勘違いしている印象すらある。
 教育委員会のこうした姿勢は、実はこの問題に止まらない。随所で普遍的に見られている。例えば、教師の多忙化が叫ばれて久しい。長時間労働が常態化し、ブラック企業の類だと批判されてもいる。
 教師の長時間労働を解消するのは誰の責任であるか。世間では国の責任だと誤解している人が多いが、制度的には公立小中学校であれば、それを設置している市町村教育委員会の責任である。民間企業で長時間労働を解消しようとすれば、その企業の経営者が従業員を増やしたり、仕事の量を減らしたりする。事情は学校も同じで、教師を増やすか教師の仕事を減らすかである。教師を増やすのは人事権の問題や財源の問題もあり、市町村だけで決めるのは容易でない。それなら教師の雑務を減らすとか、学校現場の業務のデジタル化を進めるなどして教師の労働時間の短縮を図らなければならないのだが、総じてこれも進んでいない。
 この問題の責任は国にあるとの世間の誤解にちゃっかり便乗し、あるいは教育委員会自身もそう誤解しているからか、自分が解決しなければならないとの認識が薄いようだ。せいぜい、国に対して「教師の多忙化解消」を要望するぐらいである。第一義的な責任者が本腰を入れて取り組まないのだから、教師の長時間労働が解消されないのもむべなるかな、である。

■「木に縁りて魚を求むるが如し」の自治体  静岡県牧之原市の認定こども園で送迎バス内に園児が置き去りとなり、死亡する事故が発生した。昨年福岡県の保育園で同じような事故があったばかりなので、どうして教訓が生かされなかったのかと、訝(いぶか)しく思っていた。
 筆者が鳥取県で知事をしていた頃、県内はもとより他の都道府県で起こった事件や事故で、県政運営上教訓や参考になりそうなものは庁内で共有した。その上で、類似の事件や事故を未然に防ぐための備えをできるだけ整えていた。
 そんな経験があることから、子どもの命に係わる重大な事故については、全国の自治体と幼稚園や保育園では事故防止のための取り組みが主体的になされているものと思っていたのだが、実態は必ずしもそうではなかったようだ。
 牧之原市の事故をきっかけに自治体の現場からは、国の対応不足を指摘する声が出ているという。「国からは通知が送られてきただけ」で、「結局は各園任せでしかない」などとする不満である。筆者はこの現場の声に強い迎和感を抱いている。
 本来、幼稚園や保育園に関する行政は、国ではなく自治体が第一義的な責任を負っている。これも先の白治事務に該当する。他の地域で事件や事故があれば、自治体自らが主体的に安全対策や予防措置を講じてしかるべきである。その際、国の通知などは注意喚起のお知らせ程度のものである。しかも、現場から遠い国に対して、その現場のことよで的確な助言や指導を求めようとするのは「木に縁(よ)りて魚を求むるが如し」と知るべきである。
 ここでも自分が所管する業務なのに、自ら責任を持って対応したり、判断したりする気概が見られず、ひたすら国からの指示を待ち、それに縋ろうとする頼りない姿勢が見えている。地方自治の仕組みが始まってからすでに七五年になるが、いまだに「日暮れて道遠し」の感は否めない。

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