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宮下洋一 「死ぬ権利」とは何か?――欧州「安楽死」事情

2023年05月02日(火)

ジャン=リュック・ゴダールさんの訃報が伝わったとき,
あぁ,もう歳だものな,と思った.
でも,それは間違いだった.
続報で,その死は,いわゆる安楽死だったという.

一瞬,きちがいピエロの最後が浮かんできたけれど,じっさいはもちろん違っていたのだろう.

そういえば,だいぶん前だったか,ALSの女性が,スイスに行って安楽死をとげる,というドキュメンタリーを見たな,と思いだした.

ほんとうのところ,よくわからない.
緩慢な死への道,放置された死……などとどこが違うか?
COVID-19への対応の,たとえば北欧の国と,列島の国の対応の違い……といわれていることはなんだったか,不十分な知識だったけれど,
死と生をめぐる議論があったように感じた.
というか,列島の国では,死は隠されきたように思えた.

ゴダールについては,現代思想誌が特集していたから,なにか参照すべき文章があるかもしれない…….

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【世界】2022年12月

「死ぬ権利」とは何か?――欧州「安楽死」事情

宮下洋一
みやした・よういち 在欧ジャーナリスト。著書に『安楽死を遂げるまで』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『安楽死を遂げた日本人』(以上、小学館文庫)、一二月に『死刑のある国で生きる』を刊行予定。


 映画史における伝説的存在だったフランスの巨匠、ジャン=リュック・ゴダール監督が二〇二二年九月一三日、スイス西部ボー州ロールにある邸宅で安楽死を行ない、九一歳で旅立った。
 ゴダール氏は、映画『勝手にしやがれ』(一九五九年)や『気狂いピエロ』(一九六五年)などで、世界の映画界にヌーベル・バーグ(新たな波)を巻き起こした。その彼の死を純粋に悼む人たちがいた一方で、「疲労困憊(こんぱい)だった」という理由で意図的に死を早めた事実に衝撃を受けた人たちもいた。世界を駆け巡った訃報は、終(つい)の選択について、人々に考えるきっかけを与えたともいえる。
 近年、欧州では、安楽死の法制化に向けた動きが進んでいる.すでに安楽死を認めているオランダ、ベルギー、ルクセンブルク(以下、ベネルクス三国)、スイスに続き、ドイツ(二〇二〇年)やオーストリア(二〇二二年)も部分的に認め、伝統的なカトリック大国のスペイン(二〇二一年)も安楽死法を可決させた。こうした国々を始め、今、先進国が安楽死に関心を集めているのは、一体なぜなのか。人間にとって、安楽死は本当に必要な行為なのか。人々が「死ぬ権利」を求めるという最新の動向と、ゴダール監督が選んだ最期を知るために、現場に足を運んでみることにした。

増え続ける安楽死容認国

 私はこれまで、世界各国で安楽死の現場を取材し、日本人を含む難病患者や、諸外国の患者がスイスで安楽死する瞬間を見届けてきた。そこでまず、安楽死とは何かという部分から説明しておきたい。
 二○○○年代から安楽死を容認しているベネルクス三国では、「積極的安楽死」と「自殺幇助」のふたつが行なわれている。前者は、医師が致死薬入りの注射を直接患者に打ち、死に至らせる方法で、後者は、患者自らが同じ劇薬が含まれたコップの水を飲むか、点滴に入った同じ薬品を自身で体内に流し込む方法だ。
 一方のスイスでは、刑法第一一四条で嘱託による殺人が違法とされ、五年以下の懲役または罰金が科されることから、積極的安楽死を禁じている。しかし、それに続く第一一五条では、「利己的な動機」がなければ、自殺への関与に違法性を問わないという条項があり、合法ではないが、自殺幇助は「不可罰」と解釈されている。どちらの方法も致死薬により、死期が意図的に早められることから、厳密な区別が必要な場合を除き、私は、広義の意味で両者を安楽死と呼ぶことにしている。ベネルクス三国が公表する安楽死の最新報告書によると、二〇二〇年または二〇二一年の一年間に行なわれた安楽死の数は、いずれの国も過去最多を更新している。オランダは二〇一二年に七六六六人で、国内総死者数の四・五%にあたる。安楽死した患者のうち七人は、重度の認知症だったことも報告されている。ベルギーは同時期に二六九九人で、そのうちの四六〇人には末期症状がなく、また報告書に反映されていない自殺幇助による死者数も多いといわれる。人口が少ないルクセンブルクでは、二〇二〇年の一年間で二五人が安楽死していた。スイスについては、後に詳しく見ていくことにする。
 これらの国々での安楽死は、二〇〇〇年代から常に右肩上がりの状態が続いている。特に、オランダやベルギーで行なわれてきた安楽死が一定の認知と理解を得る中で、他の欧州諸国も同様の制度を築き、「死ぬ権利」を求めようとする動きが、この数年間で加速した。オーストリアの憲法裁判所は、二〇二〇年一二月、自殺幇助を禁ずることは「自己決定権に反する」との見解を示し、二〇二二年一月から自殺幇助が容認された。イタリアでも、二〇一九年に「耐えがたい苦痛」を抱える患者への自殺幇助に対し、憲法裁判所は「必ずしも違法ではない」と判断し、医療者側に柔軟な対応をとる裁量を与えるかたちとなった。二〇二二年六月には、全身麻痺の男性(当時四四歳)が安楽死しているが、刑事事件化には至っていない。
ドイツでは、隣接するスイスに渡り、自殺幇助を依頼する人が多くいた。連邦憲法裁判所は、かつて行なわれていた自殺幇助を二〇一五年に禁じたが、同国の「死の自己決定権」や自死のために「第三者に援助を求める権利」といった基本法に反するとの解釈から、二〇二〇年二月に復活させている。
 このほか、二〇二一年三月に安楽死法が可決され、同年六月に施行されたのがスペインで、オランダやベルギーと同じ積極的安楽死と自殺幇助の双方を認めている。自殺を大罪とみなすカトリックを国教とする国で、安楽死が法制化されたのは、欧州では初めての事例となった。
 安楽死は、各国のデータが示すように、本来は「耐えがたい苦痛」を患う癌患者や神経難病患者らに適用されてきたケースがほとんどだった。しかし、昨今では、例外的な患者に対しても、その範囲が拡がっている。
 そこで、私が取材してきた安楽死の現場の中でも、最近、特に強い印象を与えた出来事をふたつ紹介したい。ひとつは、安楽死法の開始からまもなくして起きたスペインの事件。もうひとつは、世界を揺るがしたゴダール監督のスイスでの安楽死だ。

銃撃犯の安楽死

 安楽死法の施行からまだ一年あまりだが、スペインでは同法の課題を突き付ける騒動が早々に起きている。二〇二一年一二月、カタルーニャ自治州タラゴナ県で、銃撃殺人未遂事件が発生した。被疑者の男性は以前、勤務していた警備会社で三人の元同僚に銃を向け、重軽傷を負わせた。犯行後、逃走中に警察官に撃たれ、全身麻痺状態に陥った被疑者は、裁判の開始を待たず、医療刑務所で安楽死を遂げたのだ。
 加害者が「死ぬ権利」を主張する一方で、彼に撃たれた被害者たちは、基本的人権である「司法アクセスの権利」を求めた。しかし、二〇二二年八月二日、同州で安楽死の可否を審査する「保証評価委員会」は、被疑者の申請を検討した結果、正式に受理した。
 そもそも、この国で安楽死を希望する患者たちは、どのような要件を揃えていなければならないのか。以下の六つのうち、ひとつでも欠けていれば、申請は認められない。
①スペイン国籍者か、一二ヵ月以上の滞在歴と住民票がある
②一八歳以上の成人である
③明確な意思を持ち、周囲の圧力を受けていない
④緩和ケアを含む代替治療に臨んだ報告書がある
⑤一五日の間隔をあけた安楽死請願書を二回提出した
⑥回復の見込みがなく、耐え難い肉体または精神的苦痛がある
 これらの要件は、まずは担当医とそのチームが患者の病態を判断するが、安楽死の承認は保証評価委員会に委ねられる。この委員会は、医師や法律家や看護師らで構成され、各自治州に設置されている。
 被疑者は、すべての要件を満たしていたかもしれない。だが、裁判や刑事処罰を受ける前に安楽死が行なわれる事態は、想定外の出来事だった。
 被疑者に撃たれた元同僚の一人、ルイサ・リコ氏は、民放テレビ局「アンテナ・トレス」の取材に応じ、「彼は、罪を犯したのだから、裁かれるべきでした。彼の(死ぬ)権利が認められたのならば、(被疑者が法の裁きを受けるよう望む)私たちの権利も認められて当然ではないでしょうか」と訴えている。逃走中の被疑者に撃たれた地元警察官の代理人、ホセ・アントニオ・ビトス弁護士(四七歳)は、「勾留者や受刑者に対する安楽死の規定が(安楽死法には)書かれていませんでした」と釘を刺し、「ルールがなかったのですから、禁止されることもなかったのです」と批判した。
 この事件をめぐり、医療と司法の間でさまざまな議論が飛び交った。だが、「司法には介入の余地がない」との結論で事件は幕を閉じ、被害者の権利は顧みられなかった。
 保証評価委員会(カ々ルーニャ支部)に所属するメンバーの一人、ヌリア・テリバス法学者(五七歳)は、委員会の中で物議を醸した安楽死だったことを認めつつ、こう述べた。
 「最終的に死の決断を下すのは、生きている本人です。人がどう生き、どう死ぬかを、他人が決めることはできないのです」

人生の指揮を執る

 私が取材を多く重ねてきたスイスでは、安楽死にも多様性が求められる時代になったように見える。先に触れたように患者の対象範囲が、年々拡がっているからだ。「病でなく、疲労困憊だった」とフランス紙に家族の一人が宛てた手紙のように、ゴダール監督の安楽死も、その一例だと言える。これらの近況を把握するために、私は約二年ぶりにスイスを訪れた。
 既述の通り、スイスでは、ベネルクス三国やスペインで行なわれている積極的安楽死は違法行為にあたる。ただし、他の国々と異なるのは、安楽死の目的で渡航する外国人も受け入れていることだ。
 スイスには、「エグジット」と呼ばれる国内最大の自殺幇助団体がジュネーブ(フランス語語圏支部)とチューリッヒ(ドイツ語圏支部)にある。二〇二二年に設立四〇周年を迎えたこの団体は、スイス在住者のみ登録を許可している。ゴダール監督は、スイス国籍を有していた。
 現在、エグジットの会員数は、ドイツ語圏支部で一四万二二三三人、フランス語圏支部で一万九四二五人。二〇二一年の一年間で自殺幇助を受けた患者は、両支部合わせて一三九四人に上る。いずれの支部でも、年間死者数は過去最多を記録している。
 エグジット(フランス語圏支部)の共同会長の一人、ガブリエラ・ジョナン氏(五五歳)は、ここ数年の会員の傾向について、私に次のように話した。
 「複数疾患持ちの高齢者会員が増えています。これは、終末期を迎えた人々とは限りません。心身の衰弱によって、命の終え方だけは自分で決めたいとの思いから、エグジットに連絡を取ってくるのです」
 エグジットはもともと、「耐え難い苦痛」や「回復の見込みがない」末期癌患者を始め、心臓や呼吸器系の疾患を持つ患者などを受け入れていた。しかし、現在は死に直面していない精神疾患患者や高齢者にまでも、自殺幇助が施されるようになっている。
 ジョナン氏は、エグジットで勤務する前までは、緩和ケア医療の中心で癌患者の看取りを専門に行なってきた。そのためか、安楽死だけが理想の手段でないことも熟知していた。自殺幇助に関する問い合わせを受ける際も、「緩和的鎮静」という方法もあることを伝えるようにしているという。
 緩和的鎮静とは、余命が通常一、二週間に迫ってきた、主に末期癌患者に対し、耐え難い痛みを鎮静させるとともに人工的に昏睡状態に陥らせ、死に向かわせることをさす。水分を与えないため、腎不全になり、三~七日間で死に至る。間接的な安楽死と捉え、禁止する国も多いが、日本もスイスもこれを認めている。
 エグジット(フランス語圏支部)の二〇一九年の報告書を見ると、自殺幇助で亡くなった合計三五二人のうち、一三四人は「複数の疾患を持つ高齢者」で、一二二人の「癌患者」を上回っていた。死が差し迫っていないと考えられる高齢者の安楽死が増えている背景には、何があるのか。ジョナン氏は、きっぱりとこう答えた。
 「彼らは、死の選択を持ちたいのです。そして何よりも、自らの人生の指揮を最後まで執りたいのです」
 ゴダール監督も、同じ気持ちでいたのだろうか。彼がエグジットに電話を入れたのは、二〇二二年九月六日。亡くなるわずか一週間前のことだった。

六〇秒で訪れた死

 ゴダール監督が一九七〇年代から生活していた町ロールは、ジュネーブから電車で約二〇分の場所にある。人口は約六〇〇〇人。駅を出て一〇分ほど歩くと、目の前に大きなレマン湖が広がっている。彼は、この湖の辺りをよく散歩したようだ。
 フランス映画界の巨匠は、この町ではどのような人だったのか。閑散としたロールの目抜き通りを歩いてみる。喫茶店、花屋、洋服店などは、すみずみまで手入れが行き届き、清潔な印象だ。町の住民は、「ハットを被り、杖をついて歩いていた」と声を揃える。だが、次に出てくる言葉は、「とても難しく、内向的な性格の人だと聞いていたので、挨拶をしても、会話をしづらかった」というものだった。彼らは、ゴダール監督が亡くなる寸前まで、町内を歩く姿を目撃していた。それは、生の終わりが予告されている安楽死という最期を物語っている。
 孤高の映画作家が頻繁に通ったレストラン「39」の従業員女性は、「ゴダールさんのことは、あまり話してはいけないと言われているのですが……」と小声で囁き、こう明かした。「カナール・アンシェネ(フランスの風刺新聞)を読みながら、りんごのタルトをよく食べていました」。
 一九九〇年代、隣町のピックで、監督と一緒にテニスをしていたビクトル・イゲラス氏(七八歳)は、「テニスクラブの控室でも、喫煙は禁止なのに葉巻を吸っていましたね」と言って笑った。人柄については、「人から話しかけられたり、特別扱いされたりすることが嫌いな人だった」と振り返った。
 夕暮れ時、レマン湖のベンチに腰掛けている七〇代の夫婦がいた。隣町ニオンに住む二人だが、夫のベルナール氏は、偶然にも、ゴダール監督から声をかけられ、名作『わたしたちはみんなまだここにいる』(一九九七年)に脇役で出演したことがあると言った。この作品の監督は、巨匠の妻、アンヌ・マリー・ミエビル氏で、ゴダール氏本人はこの時、主役を演じた。
 「噂されているほど、気難しい人ではなく、むしろ感じの良い人でした.ヌーベル・バーグの仲間(フランソワ・トリュフォー監督やクロード・シャプロル監督ら)に対しては、厳しくて厄介な人だったと言われますが、私が受けた感じでは、とても優しい人でした」。
 人によって、監督の印象は大きく異なった。他人の内面を理解することは、簡単ではない。ゴダール監督が安楽死を選んだ理由も、実際のところは彼にしか分からない。死に方は、生き方の反映だからだ。
 彼は、どのように息を引き取ったのか。エグジットの関係者から、その最期を聞いた。
 ゴダール監督は、安楽死当日の朝、寝室のベッドに腰掛けた。横にはミエビル夫人が寄り添い、正面には監督が信頼した長年の友人と、自殺幇助を見届けるエグジットの看護師の三人がいた。話したいことは、前夜にすべて話し終えていたという。自殺幇助という儀式を淡々と始めるだけだった。
 致死薬入りの水を看護師から手渡されたゴダール監督には、すでに覚悟ができていた。別れの言葉も告げず、コップを口に運び、一気に飲み干した。それから六〇秒。ジャン=リュック・ゴダールは、永遠の眠りについた。

「死ぬ権利」とは

 人間にとって、「死ぬ権利」は絶対的なものなのか。私が欧米諸国で取材を始めるようになってから、常に感じていることのひとつだ。自殺は罪であるとするキリスト教でも、その権利を制御できないのが現実だ。
 人生に疲れた時、そして苦しくなった時、個人の意思で死ぬことが許されるのであれば、今後、安楽死の増加は避けられなくなるだろう。とりわけ、個人の生き方、選択が尊重される欧米では、なおさらのことだ。
 取材後、エグジットのジョナン氏は、私にこう尋ねてきた。
 「明日の朝、ジュネーブの高齢夫婦が同時に自殺幇助を受けるのですが、あなたも立ち会って取材されますか」
 安楽死容認国では今、「死にたい」と思わせる社会に潜む問題の解決よりも、その意思の反映に重点を置く傾向にある。それが「死ぬ権利」というものなのか。私の理解が彼らに追いつくには、まだ時間が足りないのかもしれない。

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