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寺島実郎 脳力のレッスン(240) 戦後日本と都市新中間層の今――資本主義と民主主義の関係性(その4)

2023年06月28日(水)

とても不安……,いや,不安というべきかどうか分からないけれど,
まちを歩きながら,自分が時間の流れに取り残されているような気がすることがある.
なんだろうな,と前を見る.
いや,ひょっとすると,まちがむかしに戻っているのかもしれない……と思う.

労働をリタイアして,しばらくしてそんな違和があった.

ちょっと前に,

代表制民主主義はなぜ失敗したのか
藤井達夫
集英社新書
2021.11
を読んでいた.

そういえばこの国が小選挙区制を導入しようとしていたころ,
そのたぶんモデルでもあったのだろう,イギリスで,小選挙区制の問題が指摘されている,
そんな指摘があったように思う.
総得票数と獲得議席数との間に乖離が,それも少ない票で多数を占める可能性がある,
いや,じっさいの選挙結果でそうであったか,もうずいぶん前のことだった.

それよりもっと前だったか,
少数党の「乱立」する国の連立政権で,
どんなふうに閣議がすすめられるか……といったことを伝えるレポートがあった.
そういってはちょっと身も蓋もないのだろうが,談合しているんだ,という.
閣議が続く中で,折り合いをつけるために.

イギリスは労働党と保守党の2大政党,といわれるけれど,ほんとうにそうなんだろうか.
そういえば,ケインズには,Am I a Liberal というパンフレットがあったことを思い出す. 
かれは,保守党は地主,金利生活者の政党だと思っていたのではなかったか.
animal spiritをもった「企業家」の政党ではない,と.

いや,そんなことを思い出しながら,さて,民主主義とか,
何であったか,何でありうるか……と.ちょっと思った.そこで止まってしまったが.

いつも思い出す,宮本常一さんが描く小さな漁村での集落の談合の様子を思い出す.
なかなか合意にたどり着かない談合で,外部の者から観ると,いったい何を語り合っているのか,と訝るような.
まぁ,巧遅よりも拙速……かな,と思う.
いや,そうではなく,巧遅ではなく,拙速でもないような.

いま大学の経済の耕義で,分配論をやることがあるのだろうか,と友人と話したことがあった.
いつごろからだろうか,税をめぐる議論が,とても荒っぽいな,と思った.
巧遅でなく,でも拙速でない,そんな議論があってよかったと思うけれど,
海の向こうのずいぶんと乱暴な議論に引きずられて,税制が大きく変容させられたのではないか,と.

たとえば消費税,あるいは付加価値税とかを,ヨーロッパの国々のように,もっと税率を引き上げようという議論があるようだけれど,
かの国々の消費税は,はたしてこの国の制度とおなじようにできているのだろうか.
メディアをせっかく特派員などを置いているのだったら,もうすこし多面的な議論を演出すべきだったのではないだろうか.

……などとと思い浮かべながら,狭い日本,そんなに急いでどこへ行くのか?と思うこともある.
急がば回れとか.それでも,急いで回ろう,かな.

寺島実郎さんの議論,なんとなく既視感があるな……,なんだろう.


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【世界】2022年12月

脳力のレッスン(240)
寺島実郎

戦後日本と都市新中間層の今――資本主義と民主主義の関係性(その4)


 「敗戦」という衝撃の中で、戦後日本が始まり、戦勝国たる米国によって唐突に日本は「民主主義の国」になった。だが、当時の日本人にとって最大の関心は「食うこと」、つまり食べて生き延びることであった。昭和二〇年八月一五日、『貧乏物語』(一九一六年)の著者でマルクス主義者でもあった河上肇は京都に静かに暮らしていたが、次のような歌を詠んでいる。

「大きなる 饅頭蒸して ほほばりて
   茶をのむ時も やがて来るらむ」

 多くの日本人は敗戦を「物量の敗戦」と受け止めた。「大和魂は一歩もひけをとらなかったが、米国の物量にねじ伏せられた」と思いたかったし、そうとしか思えなかったのである。戦後日本がひたすら「経済の時代」を探求する導線がここにあった。戦前の日本政治の在り方への真剣な省察はなされないまま、強制的に民主主義が与えられ、受け身でしかそれを捉えられなかった。
 その後、六〇年安保闘争、七〇年安保・全共闘運動という「政治の季節」の高揚と挫折を経て、「PHP」(繁栄を通じた平和と幸福)を追い求め、「工業生産力モデル」の優等生として「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(一九七九年、E・ヴォーゲルの著書)といわれるに至り、GDP世界二位の国を実現したことに胸を張った。
 もちろん、民主主義を理解しようとする真剣な試みもあった。その重要な舞台の一つとなったのが、岩波書店の『世界』であった。敗戦の翌年、一九四六年五月号の『世界』は特集「アメリカ論」を組み、中野好夫の「ド・トクヴィル『アメリカの民主主義』」や清水幾太郎の「カイザーリング『アメリカ・セット・フリー』」などを掲載した。丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」を寄稿し、戦前の日本の政治構造の解明を試みたのもこの号であった。この特集のタイミングは、GHQによる「主権在民、象徴天皇制」を支柱とする新憲法草案が提示され(二月一三日)、一一月三日に日本国憲法が公布される谷間であり、アメリカ政治研究の必要を痛感し、民主主義の在り方を模索しようとしていた知識青年や学生(大学進学率はまだ一割以下だった)は貪るように『世界』を読んだという。

■日本の戦後民主主義――一足飛びの大衆民主主義

 戦前にも一定の民主主義はあった。国会開設後の一八九〇年の第一回総選挙では、「直接国税一五円以上を納める二五歳以上の男子」に投票権が与えられたが、それは人口のわずか一・一%にすぎなかった。最初の「男子普通選挙」(二五歳以上)が実施された一九二八年の第一六回総選挙でも、有権者は一九・八%にすぎなかったのである。
 戦後、一九四六年四月の第二二回総選挙は、婦人参政権を実現した「二〇歳以上の男女普通選挙」であり、有権者は人口の四八・七%となり、一気に大衆民主主義の時代を迎えた。そして、二○一六年の参議院選挙からは「一八歳選挙権」となり、有権者は人口の八三・七%となった(総務省統計局資料)。大衆民主主義が一段と加速したのである。だが、国民の政治参加の基盤が広がることと、民主主義が有効に機能することは別次元である。
 戦後民主主義を代表する論者の一人である鶴見俊輔(一九二二~二〇一五)は、『思想の科学』一九六〇年七月号に「根もとからの民主主義」を寄稿し、目の前で繰り広げられる「六〇年安保デモ隊」の行動を擁護し、「この大衆運動をとおして、日本の政治はその私的な根から新しく出発し、自分たちの肉声を映画やテレビをとおして世界につたえている。世界にとって、それはきくに足る何かなのだ」と論じ、戦後民主主義の未来に期待を示した。
 鶴見俊輔は冒頭で「一九四五年八月一五日に、敗戦が来た」と表現しているが、「来た」というのが実感だったのであろう。唐突な「戦後日本の民主化」が「白発性の欠如」という宿命を抱えていることに苦闘し続けたといえる。与えられた民主主義において「市民社会の自立」はなるのか、それこそが戦後日本の宿命のテーマであった。
 もう一人、戦後民主主義に影響を与えた人物が丸山眞男(一九一四~九六年)である。岩波新書の『日本の思想』は一九六一年に出版され、現在でも一〇〇刷を超すほど読み継がれている。とくに、「六〇年安保の教科書」といわれた論稿が「『である』ことと『する』こと」だ。「国民主権である」という制度的建前と権利に安住するのではなく、「行動する」論理に踏み出すことの大切さを示唆するもので、民主主義とは何かに関して日本人の視界を拓くものであった。私も、北海道の高校生としてこの本を手にした時の高揚感を覚えている。
 だが、六〇年安保の挫折を経て、ベトナム戦争での米国への失望、さらにプラハの春を戦車で踏みつぶしたソ連への幻滅を味わい、世界の若者は「一九六八野郎」(パリ五月革命、カリフォルニア世代)となって既存の秩序への反抗を試み、日本でも新左翼の登場と全共闘運動の中で、丸山眞男の市民主義は微温的な「プチ・ブルの議論」として軽視されていった。それでも、六〇年代末から七〇年代初頭の大学は、「丸山眞男とマルクスの結婚」という言葉に象徴される市民主義と社会主義が混在した心象風景の学生達が主流であった。運動の主役でもあった「団塊の世代」といわれる戦後生まれの先頭世代は、その後どう生きたのか。それが民主主義の今日的状況と相関しているのである。

■戦後民主主義の主役としての都市新中間層

 経済の時代を突き進んだ日本において、大衆民主主義を担う主体たる「国民」の経済的・社会的基盤は、産業化と都市化の潮流のなかで大きく変容した。一九五〇年、つまり敗戦から五年後の時点で、就業人口の四八・六%は一次産業(農林水産業)に従事しており、国内総生産の二六・○%は一次産業によるものだった。その後の産業構造の変化によって、七〇年の段階で、一次産業の従事者比重は一九・三%、生産比重は六・一%となり、九〇年には従事者比重は七・二%、生産比重は二・五%となった。そして、二〇二〇年には従事者比重はわずか三・二%、生産比重は一・〇%となった。
 また、産業の都市集中により、人口の都市集中が進行し、例えば、首都圏の四都県の人口は一九五〇年には一三〇五万人で、全人口の一五・七%だったが、二〇二〇年には三六九一万人と、全人口の二九・三%を占めるに至っている。つまり、戦後の日本は産業構造の変化と人口の都市集中により、膨大な都市新中間層という存在を産み出した。
 一次産業から二次・三次産業へ、田舎から大都市へ、この人口構造の変化は、総じて国民を豊かにする移動であった。勤労者世帯可処分所得(月額)は、一九五五年の二・六万円から一九七〇年の一〇・三万円、八〇年の三〇・六万円、九〇年の四四・一万円と急増し、九七年の四九・七万円でピークアウトするまで増加を続けた。「明日は今日よりも豊か」と思える時代が、九〇年代末まで続いていた。各種世論調査において、国民の八割以上の階層帰属意識が「自分は中流」と答える一億総中流幻想が生まれたのも当然と思われる時代状況だった。成長の成果が分配を通じて国民生活を潤していくという好循環が機能していたといえる。また、この背景には東西冷戦期における資本主義対社会主義の緊張関係(「五五体制」)を軸に、労働組合運動が経営を突き上げていたという要素も指摘できる。
 私は、『中央公論』一九八〇年五月号に、「われら戦後世代の『坂の上の雲』」という、自分の原点というべき論稿を寄稿した。戦後近代化と産業化の過程で、日本は大都市圏に産業と人口を集中させ、一定の豊かさの中で「新中間層」というべき「階級意識」を持たず、「中流意識」を持った階層を産み出していた。かつての農村社会における地縁・血縁のしがらみから解放された「都市の新中間層」が、戦後民主主義の担い手になることを期待した論稿でもあり、「全否定」を掲げた全共闘運動から約一○年後、私自身が産業の現場に身を置きながら新中間層予備軍として戦後民主主義の前途に果たすべき役判を模索していたといえる。
 この四二年前の論稿において、私は都市新中間層の中核となりつつある戦後世代(団塊の世代)が身につけてきた価値観を「経済主義」(経済的価値への傾斜)と「私生活主義」(個人主義とは異なる閉鎖的小市民主義)とみて、そのことがもたらすであろう未来状況に強い懸念を示していた。あれから四〇年、都市新中間層は、日本の民主主義の中でどこに立っているのであろうか。

■二一世紀のバラタイム転換――大衆民主主義の今日的危機

 二〇〇〇年から二一年の間に、日本では新たな就業人口移動が進んだ。製造業・建設業の就業者が四五五万人減少し、広義のサービス業(金融・不動産業を除く)で七四七万人の就業者が増えた。サービス業でもとくに医療・福祉(多くは介護)と運輸業で四八五万人を増やしている。サービス業は、製造・建設業に比べ、平均年収が約九〇万円低く、この移動が就業者全体の所得を下げているのである。つまり、一二世紀の就業人口の移動は、国民を豊かにするものではないといえる。
 また、二〇二一年の雇用者五九六三万人のうち、非正規雇用者(パート、アルバイト、派遣、契約社員)は二〇六四万人で三四・六%を占める。さらに、年収二〇〇万円未満の「ワーキング・プア」(働いているのに貧困)は一四七六万人で、非正規雇用者の七一・五%を占める。正規雇用者で年収二〇〇万円未満の三四七万人を加え、日本には年収二〇〇万円未満の人が一八二三万人おり、全雇用者の三〇・六%を占める。つまり、分配の平準性を特色とした日本は、今世紀に入り「格差と貧困」へと社会構造を変えたのである。
 先述のごとく、一九九七年に四九・七万円でピークを迎えた勤労者世帯可処分所得は、二〇一一年に四二・一万円まで下落、その後一二年には四九・三万円となったが、二四年も前に比べてまだ水面下で、現役世代の勤労者の所得が低迷を続け、かつ「ワーキング・プア」の比重の高まりが示すごとく、分配の格差が拡大していることが窺(うかが)える。
 さて、この社会構造の変化の中で、戦後民主主義の担い手と思われた都市新中間層の位相も変化した。まず、都市新中間層の第一世代は定年退職を迎え、都市郊外のベッドタウン(東京でいえば国道一六号線沿いのニュータウン、マンション、団地)に高齢者として生活している。会社人間として往復二時間の通勤を続けてきたサラリーマンが、「イエ型企業社会への同一化」(ウチの会社と企業内労組への帰属意識)から解放された空白感の中で、多くは拠り所なき不安の心理の中にあるといえる。
 私は五年前の岩波新書『シルバー・デモクラシー』において、「なぜ高齢者はアベノミクスを支持するのか」を分析している。「経済主義」と「私生活主義」を身につけて企業社会を生きた高齢化した都市新中間層は、次第に「生活保守主義」へと傾斜し、異次元金融緩和で実体経済を膨らませて株高と円安を誘導する歪んだ経済政策に拍手を送るようになった。理由は明確で、家計が保有する金融資産のうち、貯蓄の約六割、有価証券の約七割は六〇歳以上の高齢者が保有しており、日銀に政治的圧力をかけ、赤字国債を青天井で引き受けさせ、ETF(上場投資信託)買いで株価を支える政策は、資産を持った高齢者を潤すからである。人口の四割を高齢者が占める時代が迫る中で、若者の投票率が高齢者の半分という状況が続けば、有効投票の六割は高齢者が占めることになるわけで、「老人の老人による老人のための政治」というシルバー・デモクラシーのパラドックスは現実のものとなりつつある。
 次に、現役世代の都市新中間層の現状を確認しておきたい。都市新中間層も第二、第三世代に入った。帰る田舎を持たない都市圏を故郷とする存在である。彼らは右肩下がりの四半世紀と並走した。一九九四年に世界GDPの一八%を占めた日本経済は、二〇一〇年に中国に抜かれ、二一年には世界GDPの五%にまで後退した。そして、一一年の東日本大震災、二〇年からのコロナ禍と、戦後日本が造りあげてきたものが盤石ではないことを思い知らされた。レジリエンス(耐久力)が問われる局面を迎えたのである。
 不安を背景に内向、保守化へと向かった。絆(キズナ)、連帯、統合、安定を求める空気へと変質していった。変革や改革という言葉が消えていった。「イマ、ココ、ワタシ」しか視界に入らない閉塞感が日本を覆うようになった。そこに「安倍政治」なるものが同軌した。戦後民主主義にとってこの一〇年間の安倍政治とは何だったのか。新たな時代を拓くためにこのことを次に考察したい。

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