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寺島実郎 脳力のレッスン(249) 近現代史の折り返し点に立つ日本――「歴史総合」導入の衝撃

2023年08月19日(土)

ひと皆使うだろう個室に日本地図と世界地図の地図帳が置いてあって
ときどきページを開いて眺めている
高校のころ 地理の教員は イヤなやつだった
紛争収束後 まもなく別の高校の校長に転じたと聞いたが どうだったか
だから地理に興味はなかった……というほどではなかったけれど
いまはどうか知らないけれど 大学受験で地理を選択する人は少なかったのではなかったか
そもそも地理が受験科目にあったんだろうか

歴史に教科書には もちろん地図帳など収録されてはいない
テーマによって ごくごく簡単な地図が挿絵として載っている程度か

世界史の授業で 列島の国のことを聞くことはほとんどなかった
日本史の授業はどうだったか
ちょっと変わった教師に教わった
変わっていたかどうか むしろ彼の教え方が その高校の看板のひとつだったのではなかったか
そんな覚えがある
でも 意識して世界の あるいはアジアの 極東の歴史がとりあげられることは ほとんどなかったのではないだろうか

そんなことを思い出しながら 読んでいた


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【世界】2023年03月

脳力のレッスン(249)
近現代史の折り返し点に立つ日本――「歴史総合」導入の衝撃

寺島実郎


 「歴史とは現在と過去の対話である」というのは、歴史家E・H・カーの名言であるが、より踏み込んで思索を深めるならば、「歴史は過去と現在と未来の相互対話で成り立つ」と思われる。その意味で、日本にとって二〇二三年は歴史的な節目の年である。明治維新からアジア太平洋戦争における敗戦までの「明治期」が七七年、その一九四五年の敗戦から二〇二二年までが七七年であった。明治期と戦後期がともに七七年という折り返し点を迎えたのである。
 さらに、想像力を膨らませて、これからの七七年先を見据えるならば、七七年後は世紀末で、二二世紀を目前とする年ということになる。歴史意識を研ぎ澄まして、近現代史における我々の立ち位置を確認し、近未来の日本に突きつけられている課題を正視しなければならない。
 明治維新の頃は三三八〇万人、敗戦直後は七二一五万人であった日本の人口は、二〇〇八年に一・二八億人でピークを迎え、昨年は既に一・二四億人にまで減少し、二一〇〇年の人口は中位予測で約五九七二万人とされる。人口が半減すると予想される時代と並走することになる。
 もう一つ、視界に入れるべき数字として、世界GDPにおける日本の比重を確認しておきたい。統計ベースが異なるが、明治初期、世界GDPに占める日本の比重は三%前後と推計される。第一次大戦から第二次大戦の戦間期、日本の比重は五%前後まで高まったがこれが明治期におけるピークだったと推定される。敗戦後、一九五〇年の世界GDPにおける日本の比重は約三%であり、戦後期を通じてのピークを迎えたのは一九九四年の一八%であった。この数字が昨年ついに四%台となった。二一世紀直前の二〇〇〇年には一四%であったから、今世紀に入っての急速な埋没である。これからの七七年間で如何なる推移を辿るかは分らない。ただ、このままでは、二〇三五年までに三%を割り込む可能性が高い。
 「GDPはGDPにすぎず、人間社会総体の価値を投影するものではなく、もはや『成長志向』の時代ではない」という議論も大切にしたい。だが、GDPは創出付加価値の総和であり、国民経済の活力を反映する指標とするならば、世界経済の中で日本が相対的に沈下していることは正しく認識すべきである。
 こうした数字を視界に入れるだけで、気が遠くなる近未来と向き合っていかねばならないのだが、その前提として、我々は「明治期」「戦後期」とされる時代とは何だったのかについて真剣に考察し、未来圏への道標とせねばならない。

■「歴史総合」導入の衝撃と苦闘

 奇しくも、昨年四月から日本の高等学校に「歴史総合」という必修科目が導入された。これまでの「世界史」「日本史」という分類での歴史教育ではなく、全高校生が「歴史総合」を学んだ後に、探究科目として「世界史探究」、「日本史探究」の履修が可能ということである。地球を一つの星として捉え、世界史と地域史の相関を視座とする「グローバル・ヒストリー」というアプローチは、世界における歴史研究の主潮であり、日本の教育現場にもこのアプローチが導入されたわけで、妥当な方向だと思う。
 だが、話は単純ではなく、教育現場には静かな混乱が生じている。誰が教壇に立ち、何を教材としてどう教えるのかという問題が浮上してくるのである。「歴史総合」の導入の狙いについては、「①世界史と日本史を関連付けて教える、②古代からの通史ではなく、主に近代、現代を扱う、③現代に生きる私たちの社会の在り方や直面する課題を学ぶ」と説明されており、まさに戦後日本の歴史教育が忌避してきたことに正対する試みである。
 戦後の歴史教育を受けてきた多くの日本人の知的欠陥は「近代史への基本認識が欠落している」ことにある。日本史を高校で学んだ人も、多くは縄文弥生で始まった授業が幕末維新で時間切れとなり、近代史は自習してくれというのが常態であった。多くの人は明治期の歴史には向き合うことなく社会人として生きてきたのである。私は一五年以上も日中韓の大学の単位互換協定たる「キャンパス・アジア構想」に関わってきたが、日本人がそれを「反日教育」と呼ぼうが、中国・韓国の学生は近代史だけは刷り込まれており、日本の学生との大きなギャップを感じる。
 現在、書店には「歴史総合」を意識した書物が並ぶ。歴史教育の教壇に立つ教師は、教科書、副読本として何を使うかに頭を悩ませていると思う。岩波講座『世界歴史』(全二四巻、岩波書店)や『歴史の転換期』(全一一巻、山川出版社)など歴史学会の集合的努力によるグローバルな視界からの歴史認識を探る試みもなされている。また、『高校生のための「歴史総合」入門――世界の中の日本・近代史』(全三巻、浅海伸夫、藤原書店、二〇二二年)や岩波新書の『シリーズ歴史総合を学ぶ①②』(成田龍一、小川幸司編、二〇二二年)、は視界に入れるべき論点を探る手掛かりになるであろう。
 ただし、明治期を的確に捉えることは容易ではない。「歴史総合」の教科書に一通り目を通したが、明治レジームの評価に関し、肝心なことに踏み込めないでいるという印象はぬぐえない。例えば、明治維新から一九四五年の敗戦に至る体制の「どこに問題があって、あの無謀な戦争に至ったのか」という素朴な疑問にどこまで的確に答えられるであろうか。
 しかも、二〇一六年六月の改正公職選挙法施行により一八歳に選挙権年齢を引き下げたところであり、それは高校生が政治参画することを意味し、学びたての近現代史理解が投票行動の基底に影響を与えることは容易に想像できる。どの教科書、副読本で学ぶかが意思決定に重い意味をもつのである。それは天皇制の在り方を含め、憲法改正につながる現代日本の課題に対して重要な判断材料を提供することになるのである。

■明治期レジームの評価という重い課題

 歴史総合が近現代史に焦点を当てるということは、「幕末・維新」から「敗戦」に至る時代をどう認識し、いかに評価するのかを正視することである。つまり、先述の明治維新からの七七年と正対することが歴史総合の焦点なのだが、それは勇気の要ることである。何故なら、それはこの時代の「国体」の本質を探ることであり、必然的にこの時代の天皇制に論及することになるからである。
 私が『人間と宗教 あるいは日本人の心の基軸』(岩波書店、二〇二一年)を書き進める上で苦闘したのが、「戦後期」を生きてきた人間として、「明治期」と「戦後期」で一八〇度転換してしまった日本人の価値基軸を体系的に確認することであった。そして、明治期のレジームが微妙な二重構造になっていたことに気付き始めた。その構造こそが我々の近現代理解を難しくしているのである。
 「尊王援夷」を旗印に討幕を果たした明治維新は「天皇親政の神道国家」を目指すことで出発した。古道への回帰であり、「復古」であった。本居宣長(一七三〇~一八○一)に代表される江戸期における国学は、文明文化において決定的な影響を受けてきた中国の「からごころ」から日本の「やまとごころ」を自立させる起点となった。水戸学の主柱たる会沢正志斎(一七八二~一八六三)は、「新論」で皇室を中心とする「国体」の優越性を語り、日本人全体が皇室を尊び、天皇を中心に大名、武士が結束して外国を排除する流れを形成する基点となった。
 一八六七年に「王政復占の大写令」が出され、「諸事神武創業の始」に基づく祭政一致国家を目指す基本方針が示された。「天皇は神聖不可侵で、元首にして統治権を総攬する」という「国体」が重視され、一八七〇年には「大教宣布の詔」が出され、仏教さえ排除する「天皇親政の神道国家」を目指すというのが明治期の通奏低音だったのである。それが次第に「開国近代化」を推し進める方向へと変質していく。明治新政府は岩倉使節団の米欧回覧(一八七一~七三年)などを通じて、列強に伍すためには近代国家体制の確立が不可欠であることを認識し、内閣制度導入(一八八五年)、明治憲法制定(一八八九年公布)、国会開設(一八九〇年)、を進めていく。さらに「殖産興業」「富国強兵」を掲げて、日本型資本主義を展開していく。「復古」という下部構造の上に「開化」という上部構造を載せた二重構造が明治レジームの基本構造となるのである。
 祭政一致を目指し、神祇官制を復活させて動き始めた明治政府が教部省体制に移行(一八七二年)、その下に置いた教院・教導職を廃止したのが一八八四年で、建前上は国家的宗教制度は廃止された。だが、明治維新をもたらした「天皇親政の神道国家」を希求する意識は「密教」のごとく封印され、埋め込まれた。「復古」を内在させた「開化」、ここに明治期の評価の難しさがあり、明治レジームの危うさはこの構造に由来するといえる。昭和期に入り、その危うさが露呈する。富国強兵で自信を深め、新興の帝国主義国の性格を強め始めた日本への欧米の圧力が強まり、日本の孤立と閉塞感が高まる(一九三三年の国際連盟脱退)と、埋め込まれていた下部構造(天皇親政の神道国家)が、近代国家という上部構造を突き上げて顕在化するのである。
 「天皇は主権者ではなく、国家の最高機関」とする天皇機関説は、立憲君主制の常識といえるが、それを排除する国体明徴運動(一九三五年)が起こり、翌一九三六年には天皇親政国家を再興せんとする陸軍青年将校による「二・二六事件」が暴発した。そして「軍の統帥権は天皇にあり、内閣などの国務機関の意向を超越している」とする統帥権干犯問題が軍部の専横を招き、日本を戦争への道に追い込んでいった。
 今日では遠景となった明治期への視界を拓く上で有効な教材が、戦前の「高等科国史」である。つまり、戦前の高校生がいかなる歴史教科書を学び、いかなる歴史認識を身につけていたのかを確認することである。「高等科国史」(昭和一九年版)は「神勅」から始まる。日本は神の国であり、「天照大神」がその子孫としての皇孫をこの国に降臨させたとする話から始まり、万世一系の天皇の下に「皇威の伸張、尊王思想、朝威の更張としての明治維新の大業」という歴史観が貫かれている。民族の神話と権威付けはいかなる国にも存在するが、自尊を突き抜けて排他的選民思想に転ずる時、害毒が生じるのである。
 ほぼすべての明治期の国民がこの国定教科書の歴史観を強要されることで身につけた価値観を想うと戦慄を覚える。そして、自国を極端に美化する民族宗教(国家神道と国家権力が一体になることがもたらした八〇年前の日本の狂気が、今まさにプーチンのロシアが「ロシア正教」という民族宗教で国民を戦争に駆り立てている構図と近似していることに気付くのである。羽賀祥二の『明治維新と宗教』(筑摩書房、一九九四年)は「敬神愛国」を軸とする国民教化による天皇神格化の過程を冷静に検証している。

■明治という時代と天皇制

 明治期について真剣に思索する機会も少なく、近代史を空白にしたまま戦後日本を生きた日本人の多くは、司馬遼太郎を通じて近代史に触れたともいえる。『竜馬がゆく』(一九六三年)『坂の上の雲』(一九六九年)『翔ぶが如く』(一九七五年)は総計で五六〇〇万部(二○二二年六月現在)も売り上げ、司馬遼太郎は国民作家といわれるほど読まれてきた。戦争に至る歴史への罪悪感を抱きつつ、ひたすら「経済の時代」を生きた戦後日本人にとって司馬遼太郎の描いた近代史は救いだった。司馬は明治という時代を支えた青年群像を描き、国家と帰属組織と個人の目標が一気通貫で「坂の上の雲」を見つめていた時代として伝えた。「国民戦争」として日露戦争を描いたのである。だが、不思議なほど司馬は昭和の戦争に至った明治体制の矛盾、とくに国民を駆り立てた「国家神道」については言及しなかった。自分自身の戦争体験を通じた昭和の軍部には厳しい批判を繰り返したこともあり、日本人は「明るい明治と暗い昭和」という視界を共有していった。
 検定済みの「歴史総合」の教科書も、ほとんどは「西力東漸(せいりきとうぜん)」の中で迎えた明治期を「日本の近代化の時代」と描いている。微妙に「国家神道」と「国体」がもたらした悲劇への言及を避けており、実はこのことが現代日本の選択に関する議論を曇らせてきたといえる。敗戦後の一九四五年一二月、GHQは「神道指令」を出し、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止」を指示し、翌四六年の天皇の「人間宣言」がなされ、それが象徴天皇制への導線ともなった。
 占領下の指令により、日本人の心に浸透していた国家神道的価値観が唐突に消去された空白は、埋められないまま放置されてきたといえる。それ故に、国家神道の残影は今日も明治期に郷愁を抱く人達の中に生き続けている。例えば、二○一七年三月、安倍政権は「教育勅語」の副読本化を閣議決定した。教育勅語の大半は人間社会における良識的徳目を示しており、今日でも尊重されるべしという考え方のようだが、教育勅語の本質が国家神道を支柱とする「主権在君」にあり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という価値に帰結していることを忘れてはならない。また、自民党の憲法改正案では「天皇を元首とする」となっており、明治期への省察は見られない。
 歴史総合の導入を機に、日本人が再認識すべき柱の一つは「象徴天皇制」の意義である。権力というよりも権威として定着してきた日本の歴史における天皇制の意味を熟慮し、権力と一体化した明治期の絶対天皇制に対して、本来あるべき天皇制に近いものとして象徴天皇制を安定的に根付かせることが問われているのである。日本人に求められるのは、現代から過去への冷徹な問いかけであり、それを未来に繋ぐ真摯な視座の構築であろう。






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