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原武史 葛西敬之は日本の鉄道をどう変えたか



もうだいぶ前のこと,本の題名は忘れたけれど,元国労の幹部が,民営化にいたるころの日本国有鉄道,国労や動労などの動きをについて書いた本を読んでいて,
国鉄を放り出されて,清算事業団に行き,それから自治体などに転職していった人たちのことを考えていたことがあった.
いつだったか,スト権ストのころか,上尾で「暴動」めいた事件があったりしたころ,
電車に組合のスローガンなどが大書されていた.
スローガンを,自分たちの主張を広く伝えることがいけないとはいわないけれど,
さて,電車にペンキで大書して,乗客としてはあまりいい気持ちはしないだろうな,なんて思っていた.いや,ひとのことをとやかく言える身ではないなとは思ったけれど,
ちょっとわが身を振り返ったりしていた.

それで,その本だったか,あるいは別の場所でだったか,葛西敬之というひとが,分割民営化は経営的な合理性ではなく,対労働組合,たんてきに国鉄の労働組合を叩き潰すための選択肢だったというようなことを語っていたというのだった.

国鉄や電電など,どういう人材を集めていたか,思い出す.
田舎に行くと,国鉄や電電などに,優秀な子たちが就職していったのではなかったかな.
そのなかから選抜されて,中央で研修を受けたりしながら,じっさいの現場を取り仕切っていたんだろう.葛西さんのような人たちがどんなキャリアパスを描いていたか.

民営化前後に国鉄に就職した,技術系の本社採用組の人の話を聞いたことがあった.
かれはそれこそ数年後,地方の鉄道管理局で課長として,鉄道のインフラの維持にあたっていたんだろう.鉄道が好きで進んだ,といっていた.しかし,労使の関係の悪化は,現場の席に者にはとても負担が重かった,というか,たぶん仕事が楽しくなくなっていったのだろう.
辞める,という選択をしたのだという.自治体に転職した.そこで勤め上げたんだろうか.もう退職しているんだろうか.
葛西さんもそれこそ30歳くらいで,静岡だか,鉄道管理職の人事課長かなにかに就いていたようだ.そこで,本を書いた労組の活動家と知り合う.

……この国の交通政策が,たぶん鉄道の現状をつくっているんだろうとは思う.
ほんとうにそれでよかったのか,とも思う.ヨーロッパなどで,鉄道線路の距離が伸びているとか聞く.実際にそうなのか,詳しくはないのだけれど,鉄道関係のテレビ番組などを見ていると,そうかもしれないな,と思う.
アジアではどうなんだろう.中國あたり,西に向かって新線を建設したりしたらしいし……とか.
ものの本によれば,ヨーロッパでは,上下分離による建設が多いとか聞く.
鉄道とか,電力とか,より効果的にネットワークをつくっていくことが求められていたのではなかったかな.
しかし,電力は,戦後発送電分離が検討されたが,結局,地域独占体制がつくられて,
3.11でその弱点が浮き彫りになったのではなかったか.東と西の周波数変換がすすまないとか.
鉄道が網のように張り巡らされているから,東北本線が動かなくても奥羽本線は日本海側の路線が代替して物資が運ばれていった.
新幹線は,では,そうした代替が可能か?
まして,リニアなど? そういえばリニアがとても「電気食い」だと聞く.

まぁ,いろいろ思い出すことがあり,考えないことがあるな,と思いながら,
原武史さんの文章を読んでいた.







【世界】2023年03月

葛西敬之は日本の鉄道をどう変えたか

原 武史


 昨年五月に亡くなった葛西敬之(よしゆき)の姿を、聞近で一度だけ見たことがある。
 時は国鉄が解体され、JRが発足して間もない一九八七(昭和六二)年一二月一四日。所は宮崎県日向市の浮上式鉄道宮崎実験センターだった。「浮上式鉄道」は、リニアモーターカーを意味する。
 当時、私は日本経済新聞東京本社の社会部に所属する記者で、JRを担当していた。石原慎太郎運輸大臣がリニアを視察するため同センターを訪れることになり、私も報道陣に加わって以下のような記事を書いた。

  石原運輸相は一四日午前、宮崎県日向市にある鉄道総合技術研究所の浮上式鉄道宮崎実験センターを訪れ、同実験線を走るMLUOO2型リニアモーターカーに試乗した。(中略)
 午前九時四〇分、同センターに着いた石原運輸相は直ちに五階の指令室に入り、高木肇所長の概況説明を聞いたあと、プラットホームへ。同相をはじめ一四人を乗せたリニアはOO2型の有人走行としては最枝高の時速三〇六キロを記録。約五・六キロの実験線を八分で往復した。(『日本経済新聞』八七年一二月一四日号夕刊)

 このとき、石原が試乗したあとに我々報道陣をリニアへと案内したのが、四六歳にしてJR東海の取締役総合企画本部長に就任した葛西だったのだ。
 言うまでもなくヒラの取締役という役職は、社長や会長はもちろん、副社長や専務や常務よりも地位が低い。だが葛西の名は、彼らより知れわたっていた。国鉄末期に「国鉄改革三人組」の一人として、JR東日本の常務となった松田昌士(まさたけ)、JR西日本の副社長となった井手正敬(まさたか)とともに分割民営化を推進したことで注目を浴びていたからだ。
 運輸大臣をリニアに試乗させ、最高時速で走らせた葛西の表情は誇らしげに見えた。政府のお墨付きを得て、東京と大阪を一時間で結ぶリニア中央新幹線構想が、いよいよ本格的に動き出す予感がしたものだった。だが、本稿で取り上げる森功『国商 最後のフィクサー葛西敬之』(講談社、二○二二年)によると、JR東海がリニアを建設することが分割民営化の時点で決まっていたわけではなかった。当初主導権を握っていたのは運輸省とJR東日本だったが、JR東日本の人事が揉め、主導権がJR東海に移ったことで、葛西自身もリニアに本腰を入れるようになったという。
 そうだとしても、八七年一二月一四日の光景はいまだに脳裏に焼きついている。葛西はJR東海の将来を、たとえ当面は東海道新幹線に依存せざるを得ないとしても、将来的には速度で勝るリニアに託しているように見えたからだ。同時に、その開業は時の権力者との結託なしにはあり得ないという葛西の経営姿勢を示した原風景としても、しっかりと記憶されている。


■山県有朋への傾倒■

 政治家や官僚と結託して特権的な利益を得る「政商」は少なくない。しかし森功によれば、葛西敬之はそうではなく、自ら信じた「国益」のために政治家や官僚と結託した経営者だった。『国商』というタイトルは、ここに由来している。
 新聞記者時代に私が一度だけ目にした葛西敬之の印象は間違っていなかった。それどころか平成になり、実験線が宮崎県からリニア中央新幹線のルートに当たる山梨県に移され、JR東海の社長や会長となる葛西のもとでリニアの工事が進むにつれ、その本領はますます発揮されてゆくことが、『国商』には克明に描かれている。
 中でも特筆すべきは、二度首相の座に就き、憲政史上最長の政権を築いた安倍晋三との深い付き合いだろう。安倍は、葛西がひそかに入院してから亡くなるまでの一カ月半の間に三度も病院を訪れ、葛西を見舞った。そして葛西が亡くなるや、フェイスブックに哀悼の辞を寄せた。
 両者に共通するのは、日本を尊び、国益を何よりも尊重する右派的な政治信条だ。葛西が「日本会議」の中央委員や靖国神社の「崇敬者総代」などを務めてきたことにもそれはあらわれている。
 しかし安倍が、国家の中枢に天皇を置き、男系男子の天皇を理想とする「万世一系」イデオロギーを信奉していたのに対して、葛西に同様のイデオロギーは感じられない。『国商』にも、葛西の天皇観について触れた箇所はひとつもない。


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 代わりに言及されているのは、明治から大正にかけて長州閥のリーダーとして強大な権力を保った山県有朋である。『国商』の「おわりに」では、二二年九月二七日に開かれた「故安倍晋三国葬儀」で友人代表の菅義偉が引用した岡義武『山県有朋 明治日本の象徴』(岩波文庫、二〇一九年)は、葛西が安倍に薦めた本だったという驚くべき事実が明らかにされている。

 葛西は東大法学部時代、日本政治外交史が専門の岡ゼミを受講し、山県に傾倒していった。その影響を受けたのが安倍であり、本にある山県の歌に安倍がマーキングし、葛西敬之へ哀悼を寄せた。そして葛西の関係者葬の二日後、その歌を自らのフェイスブックに掲載した。(『国商』)

 葛西自身、『文藝春秋』二〇一○年一二月臨時増刊号に「穏健な帝国主義者」と題する山県有朋論を寄稿している。ここで葛西は、岡の『山県有朋』を「名著」として紹介し、こう述べている。

 一見、飽くなき権力意志の如く見えるのは実は自らの手で育て上げた明治日本を守り、永続させなければならないという使命感だった。出世と政権奪取が目的と化した感のある今日の政治家や官僚と、「日本民族の独立」を存亡の危機から救うという死活的目的達成のために権力掌握にこだわった明治日本の建設者たちはこの一点において顕著に異なっている。

 もちろん葛西自身は政治家ではない。しかし山県を持ち上げるこうした文章からは、JR東海の「総帥」として絶対的な権力をもちながら、安倍政権に影響力を及ぼそうとした意図が伝わってくる。それを一言でいえば、中国に脅かされつつある日本の国益を守り、「永続させなければならないという使命感」にほかなるまい。


■満鉄の超特急と新幹線■

 安倍が戦後に改憲させられる前の日本に郷愁を抱いていたように、葛西もまた戦前に郷愁を抱いていた。ただしそれは、「万世一系」を定めた大日本帝国憲法下の日本よりも、満鉄の超特急「あじあ」が走っていた「満洲国」の方だったろう。
 一九三一(昭和六)年九月に満州事変が勃発し、翌年には傀儡国家の「満洲国」が成立。清朝最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)が皇帝となるのは、三四年三月だった。同年一二月の時刻表を見ると、大連を午前九時に出た「あじあ」は、首都新京(現・長春)に午後五時三〇分に着いた。最高速度は一三○キロ。これほど速い列車は、当時の日本はもちろん、世界にもほとんどなかった。
 その要因としては、満鉄の線路幅が日本の国有鉄道の一〇六七ミリよりも広い国際標準軌の一四三五ミリだったこと、「満洲国」の地形が比較的フラットで、高低差のない曲線状の線路を敷きやすかったことが挙げられる。国土の七割が山地で、線路の高低差が生じやすい上にカーブも多い日本の鉄道とは、そもそも初期条件が異なっていた。
 敗戦とともに「満洲国」は滅んだが、「あじあ」の技術は新幹線に受け継がれた。満鉄同様、国際標準軌を採用し、六四(昭和三九)年一〇月に開業した東海道新幹線の最高速度は二一〇キロで、当時としては世界最速だったからだ。国鉄総裁として新幹線の建設を進めた十河(そごう)信二は、かつて満鉄理事として「あじあ」を走らせた人物でもあった。葛西が国鉄に入ったのは、新幹線開業の前年に当たる六三年だった。自ら著した『飛躍への挑戦 東海道新幹線から超電導リニアへ』(ワック、二〇一七年)で、葛西は開業の意義をこう強調する。

 国民的な夢を背景に、それでいて政界筋と部内から少なからざる反対を受けつつも、開業してみれば東海道新幹線は大成功であった。初年度は一部区間で徐行を行ったため東京~大阪間を四時間かけて走行したが、一年後には計画どおり時速二一〇キロで三時間一〇分運転となった。前人未踏の時速二一〇キロによる東京~大阪間三時間一〇分(それまでは六時間五〇分)という飛躍は、計画段階でのすべての予測値を飛び越えて非連続的、飛躍的な輸送量の増加をもたらした。

 「満洲国」よりも地形で圧倒的に不利な日本の条件を見事にはねのけ、新幹線は「世界最速」の座を「あじあ」から受け継いだ。この文章には、鉄道の価値をスピードや所要時間という数値に還元させる葛西の思考が鮮やかに現れている。
 それでも開業当初は、「ひかり」が毎時○分発、「こだま」が毎時三〇分発で、途中名古屋と京都にしか停まらない「ひかり」と各駅に停まる「こだま」の本数が同じだった。並行在来線の東海道本線にも、東京と九州を結ぶ寝台特急をはじめ、九州、山陽、山陰、近畿、東海の各地方に向かう特急や急行が数多く走っていた。
 つまり乗客は、所要時間だけでなく料金や車窓風景や乗り換えの回数など、自らの優先順位に応じて列車を比較的自由に選ぶことができたのである。国鉄時代には駅にエスカレーターやエレベーターがほとんど設置されていなかったから、とりわけ高齢者や障害者にとって、たとえ余計に


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所要時間がかかっても、いったん降りることなく新幹線の駅がない地方都市に直行できる在来線の特急や急行は貴重だったに違いない。
 八五年三月のダイヤ改定で一時間あたりの東海道新幹線の本数が「ひかり」六本、「こだま」四本になるなど、より速い列車を優先させる傾向は国鉄末期に現れていた。それでも、さまざまな優等列車が新幹線と在来線の双方を走るダイヤは、八七年三月の国鉄解体まで維持された。


■東海道新幹線の変質■

 八七年四月に発足したJR東海は、はじめから東海道新幹線を中核とする会社だった。葛西は羽田と伊丹を結ぶ航空便に対して優位に立つためにも、新幹線のさらなるスピードアップが必要と考えた。『国商』の一節を引こう。

 葛西は八八年から「二七〇㎞/h化プロジェクト」に着手した。八八年六月に常務、さらに九〇年六月代表取締役副社長に出世し、新たな高速新幹線開発の陣頭指揮を執る。東海道新幹線が大きく変わったのは、二年間の試験運転を経た九二年の300系の登場からだ。時速二七〇キロの「のぞみ」が開業した。時速二二〇キロの0系新幹線に対し、300系新幹線のぞみは、三時間かかっていた東京~新大阪間を二時間半で走行できるよう計算された。九二年に一日五本しか走っていなかったのぞみ300系新幹線は翌九三年に三四本になり、新幹線全体の本数も民営化六年目にして二三一本から二七三本へと急増する。

 葛西がJR東海で文字通りの権力者として台頭する時期は、東海道新幹線に「のぞみ」が走り始め、「ひかり」と「こだま」から成っていた開業以来のダイヤが大きく変わる時期と重なっていた。さらに二〇〇三年一〇月には、新幹線の品川駅が開業する。当時、葛西は社長だった。「葛西は新幹線品川駅の開業を境に、すべての列車を時刻二七〇キロで運転するようにした。それまでひかりが主体だったダイヤをのぞみ中心に切り替え、運行本数も一挙に増やした」(『国商』)
 九六年八月には山梨県に将来のリニア中央新幹線の一部となる実験線が完成し、実験走行も始まったが、実用化に向けての道筋はまだついていなかった。リニアの開業が見込めない以上、当面は新幹線のスピードアップに専念するしかない。葛西には、こうした判断があったのだろう。
 〇七年一月には、台湾の新幹線に当たる台湾高速鉄道が開業した。日本初の鉄道海外輸出を推し進めたのも葛西だった。しかし、国交がなかった台湾に新幹線を輸出すること自体が政治的な意味合いを帯びていた。葛西は中国に新幹線の技術を盗まれることを恐れ、中国に新幹線を輸出した川崎重工業との契約を切り、代わりに日本車輌を子会社にして技術革新を図った。葛西に言わせれば、共産主義国家の中国で日本の新幹線が走ることなど、絶対にあってはならなかったのだ。
 おそらく葛西は、二一世紀に入り中国が急速に経済大国として台頭してきたことを、ひしひしと感じていただろう。中国ではすでに、新幹線に当たる高速鉄道網の整備が進んでいたからだ。とりわけ〇八年に着工し、一一年に開通した京滬(けいこ)高速鉄道は、北京-上海間一三一八キロを最速四時間四八分で結び、最高速度は三五〇キロに達した。
 葛西の思惑に反して、東海道新幹線の「のぞみ」よりも速い列車を、中国は独力で走らせていたのである。前述のように、中国と日本では地形が全く異なっていた。高低差の少ない平地が広がる中国は、日本よりも高速の列車を走らせやすかった。言い換えれば、山地の区間やカーブの区間が多い新幹線は、中国に対抗するには不利な条件をはじめから抱いていたともいえる。


■「国体」としてのリニア■

 それでも、満鉄の「あじあ」以来、世界の鉄道をリードしてきたのは日本だという自負が葛西にはあったのだろう。中国に打ち勝つためには、冒頭に触れたように、JR凍海の発足直後から運輸大臣を試乗させるなど、新幹線に代わる目玉として注目していたリニアの開発を急ぐしかない。その思いは、晩年になるほど強まった。

 JR東海の社長、会長に昇りつめ、国士と評されるようになった葛西が最も心血を注いだ事業がリニア新幹線である。(中略)手段を選ばず、いかに効率よく目的を達成できるか。そんな合理主義者の反面、見方を変えれば、極めて純粋な企業経営者でもある。その葛西はいつの間にか、リニア中央新幹線構想について、日本の全国民が評価するプロジェクトだと信じて疑わなくなる。(『国商』)

 リニアは〇三年、有人走行で時速五八一キロという世界最高速度を記録し、一五年にはその記録を六〇三キロに塗り替えた。一四年には安倍首相の仲介で、キャロライン・ケネディ駐日米国大使を山梨実験線に試乗させた。葛西はりニアを、米国にも売り込もうとしていたのである。
 だが米国では、リニア事業からすでに撤退している。リニアに熱心なのは、いまや中国と日本だけになっている。中国のリニアは常電導で、車両が三センチしか浮かないのに対して、日本のリニアは超電導で、一〇センチ以上も車体が浮き上がる。


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 葛西は「日本の技術は中国とはレベルが違う」と公言し、JR東海のホームページにも、一〇センチの浮揚により時速五〇〇キロ以上の高速走行が可能だと高らかに謳っている。(『国商』)

 中国でも、時速六〇〇キロで走るリニアの車両は完成していると報道されているが、実用化はまだされていない。葛西の夢は、世界のどの国も成功していない超電導で、東京と大阪を一時間で結ぶリニア新幹線を一刻も早く走らせ、中国とのスピード競争に打ち勝つことだった。
 そのためには、南アルプスの地下にも、住宅の建て込んだ首都圏の地下にも、長大トンネルを掘る必要があった。品川-名古屋間で言えば、全区間の八六%がトンネルになると計算された。富士山はもとより、景色自体がほぼ全く見えなくなるわけだ。鉄道の価値がスピードという数値に極端なまでに一元化された結果がこれだった。
 この工事に対して、南アルプストンネルが県北部を通ることになる静岡県の川勝平太知事が反対していることは周知の通りだ。首都圏では、住宅地の真下に当たる大深度地下にトンネルを掘ることへの不安も高まっている。しかし葛西は、東海道新幹線のときも反対があったが、いざ開業すれば意義が広く認められたように、リニアも必ず国民に受け入れられると信じていた。
 安倍晋三が「万世一系」の皇室を世界のどこにもない「国体」として誇りたかったとすれば、葛西敬之はリニアを世界のどこにもない最先端の列車として誇りたかったのだろう。「東京~大阪間を一時間で結ぶリニアバイパスの完成は、日本の『頭脳・体幹部』に弾力性と活力を与え、二一世紀を通じて日本の発展を支えるインフラとなるだろう」(『飛躍への挑戦』)。リニアとは、東京や大阪という「頭脳・体幹部」に血液を供給する動脈のようなものだと葛西は言う。葛西にとってはリニアこそ、「国体」を構成する不可欠の要素だったのである。


■「スピード信仰」が国を歪めた■

 元運輸事務次官の黒野匡彦(まさひこ)は、葛西敬之の印象について、「経営者でなく、一種の思想家のように思えます。経営判断よりも先に、自分の思想信条で判断しちゃうところがある」と答えている(『国商』)。鉄道会社の経営者でありながら「思想家」でもあるという点で、葛西は阪急の創業者である小林一三と共通する。
 だが両者の思想は、まさに対照的である。小林は福沢諭吉を、葛西は山県有朋を尊敬していた。慶應義塾出身の小林は福沢から影響を受け、国家から独立した文化圏を阪急沿線に築こうとしたのに対して、東大法学部出身の葛西は権力を一貫して手放さなかった山県に倣うかのように政権と結託し、国家とまさに一体化することで、鉄道をナショナリズムの道具にした。
 阪急が走る大阪を「民衆の大都会」と呼んだ小林にとっての民衆は、阪急文化を担うべき主体だった。分譲住宅地も宝塚歌劇団も夕ーミナルデパートも、そうした思想に基づいていた(原武史『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』、講談社学術文庫、二〇二〇年)。
 一方、葛西にとっての民衆は、世界最速を目標とする鉄道を利用する客体にすぎなかった。彼が最も重視したのは国家であって、個々の乗客ではなかった。この点に関する限り、葛西は確かに岡義武が描いた山県有朋に似ていた。

 彼の支配の基礎は、民衆にはなかったのである。(中略)民衆は、彼にとっては、支配の単なる客体にすぎず、従って、彼の権力意志は支配機構を掌握することへと集中されたのであった。彼は民衆から遊離したところの存在であった。(『山県有朋』)

 葛西にとって乗客とは、速く走る列車の恩恵に浴することで、自らの思想の支持者になるべき存在だった。JR東海管内の東海道本線から特急をほぼなくし、事実上東海道新幹線でしか移動できないダイヤに変えたばかりか、停車駅の少ない「のぞみ」が圧倒的に優位なダイヤに新幹線を変えたのも、乗客はスピードこそを最も重視するというもくろみがあったからだ。

 いまや東アジアでは、前述した台湾や中国ばかりか、韓国にも新幹線に当たる高速鉄道が走っている。だがこれらの国や地域では、新幹線が開業しても在来線の特急や急行を廃止していない。所要時間のほかに料金や車窓風景や乗り換えの少なさなど、乗客の優先順位に応じて自由に列車を選べるダイヤ自体、変わっていないのである。
 また欧州では、「フライト・シェイム(飛び恥)」という言葉があるように、二酸化炭素を多く排出する飛行機を避け、所要時間が余計にかかっても排出量の少ない夜行列車を利用する気運が高まっている。多くの都市では、自動車に代わって路面電車の復権が進んでいる。スピードに一元化されない鉄道の価値が見直されているのである。
 一方、日本では依然としてスピード信仰が揺らいでいない。最近でも、二二年九月に他の新幹線とつながらず、在来線との乗り換えを要する西九州新幹線が開業したほか、敦賀に延伸する北陸新幹線、札幌に延伸する北海道新幹線、そしてリニア中央新幹線の工事が、当初の想定よりはるかに膨らんだ総事業費を伴いつつ進んでいる。加えてリニアには、財政投融資として三兆円が注ぎ込まれる。それでも葛西がもくろんだように、工事を積極的に支持する地方の


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政治家や実業家がいることもまた確かである。しかし、日本の少子高齢化は急速な勢いで進んでいる。全人口に占める六五歳以上の高齢者の割合は三割に迫り、世界でも最高水準にある。葛西自身もこのことは気になったようで、次のような反論を試みている。

 一部に、人口の高齢化と少子化が進む日本において超電導リニアバイパスのような巨大投資が必要か否かをあげつらう向きもある。しかし、人口が減少する傾向にあっても、日本の頭脳・体幹部である首都圏~中京圏~近畿圏への人口集中は続くであろうし、成熟しつつある日本を活性化し、停滞気味なトレンドに非連続な転換をもたらしてくれる新技術への投資は不可欠であろう。(『飛躍への挑戦』)

 葛西は、高度成長期に開業した東海道新幹線の成功神話をそのまま信じていたのだ。安倍晋三が「万世一系」イデオロギーを信じたように、葛西敬之にとっての「国体」もまた護持されなければならなかった。しかし令和になってからのコロナ禍は、日本社会を大きく変えた。リモートワークが普及し、速く移動するという鉄道の目的自体が意味を失った。「密」を避けたいという意識が広がったことや、勤務地の近くに住む必要がなくなったことが要因となって東京都の人口が減り、他県への転出が進んだ。葛西の読みは完全に外れたのだ。
 しかも近年では、「持続可能な社会」が重視されるようになっている。リニアは東海道新幹線に比べても、環境への負荷がはるかに大きい。消費電力量も、東海道新幹線の四~五倍かかるとされている。葛西が東日本大震災後も原発再稼働を熱心に唱えていた理由の一端がここにある(山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』、みすず書房、二〇二一年)。それが再生可能エネルギーを重視する時代にも逆行していることは、改めて言うまでもなかろう。
 これからの鉄道に求められるのは、地球環境や生態系を破壊し、電力を浪費して速い列車を走らせることではない。地下深くに駅をつくり、段差だらけにすることでもない。どうすれば鉄道は、平均寿命の延びとともに余暇時間の増えた我々の人生をより豊かにするための媒体となり得るのか。あるいは回復しつつある訪日外国人客に日本ならではの四季折々の自然を味わってもらうための媒体となり得るのか。JR東海だけでなく、すべての鉄道会社が真剣に考えなければならない時期に来ていると思う。
 葛西敬之が鉄道業界に長年にわたって君臨し続けることで、日本は世界的に見ても異常な国になってしまった。『国商』は、重い問いかけを読者に迫っている。


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