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田中克彦 抵抗する言語――ウクライナ問題と言語学

2023年08月19日(土)

戦争が始まって まもなく キエフがキーウに書き換えられた
もし学校のテストで キエフと書いたら × になるんだろうか……なんて考えた

言語学か…… まるで不勉強だったけれど 田中克彦さんの本を すこし読んだことがあって
おもしろかった
よくなじんでいるはずの世界を 違う方向から見せてくれるような

言葉があって 思いを通じ合わせながら 言葉があるために 心を閉ざしてしまうような

ルーシーの中心は かつてキエフにあったとか
それがモンゴルの侵略に遭い 北のモスクワが台頭してくることになるとか
それで もともとルーシーの人びとというのは どこから来たのだったか


―――――――――――――――――――――――――

【世界】2023年03月

抵抗する言語――ウクライナ問題と言語学

田中克彦


 言語学は戦争にも革命にも関心のない、世俗から超然とした学問なのか?――一見そのように見える――、こうした疑問は、過去にもときどき耳にすることはあった。じっさいに、「言語学を志す者は、無意味な政治問題に心乱されるようなことがあってはなりません」と、教壇の上から説教する教授もいた。これは日本に特有の現象かもしれない。
 言語学者は、ほんとうにそうだったのだろうか。否であると私は力をこめて答えたい。
 まず思い出すのは、第二次大戦終結の年、一九四五年に、ニューヨークで現れた言語学の専門誌『ワード(WORD)』創刊号の巻頭にかかげられた、アルフ・ソンメルフェルトの「言語問題と平和」(Alf Sommerfelt,Les questions linguistiques et la paix)である。この雑誌『ワード』は、アンドレ・マルチネ、ロマーン・ヤーコブソン、レヴィ=ストロースなどヨーロッパから亡命したユダヤ系の学者がニューヨークに集まり、ひそかに準備していた研究会が刊行したものであった。ソンメルフェルトはノルウェーの言語学者で、ナチスの侵攻に追われてイギリスに渡った亡命政権の文部大臣をつとめていた人らしく、ドイツの汎ゲルマン主義と、日本の言語系統論が南米にまで及んでいることを指摘した上で、「戦争が終わった今、我々はこれらの敵を武装解除したい
と欲する。この武装解除はまた、精神的にも行わなければならない」と結んでいる。
ここに言う系統論的な「日本語南米征服説」は、ちょっと古めかしい、あやふやな知識にもとづいているとしても、ドイツの言語学がナチズムの理論武装補強に資したという責めは否定できないだろう。
 同じように、ドイツ語そのものに現れたナチズムの特性を考察したヴィクトル・クレムペラー――指揮者オットー・クレムペラーの兄――の『第三帝国の言語〈LTI〉 ある言語学者のノート』(一九四七年)も忘れてはならない著作である(邦訳は一九七四年、法政大学出版局)。日本語においては、これに比すべき著作がないのは、日本で言語学にたずさわる人の、ある特性を示しているだろう(ドイツ語ではさらにその後、『非人間の辞典より』一九六七年など、クレムペラーの仕事を継承し、よりドイツ的なしつこさをもって深める作業が現れた)。
 雑誌『ワード』が、最初の数年間は、ドイツ語で書かれた論文を一篇も掲載しなかったのは、ソンメルフェルトの意向をソンタク(付度)したのであろう。
 これらの著作を並べたあとで、忘れずに記しておきたいのが、L・ヴァイスゲルバーの『ヨーロッパの言語的未来』(L.Weisgerber,Die Sprachliche Zukunft Europas,1953)である。
 これはスイスのドイツ語を話す人たち――スイスには四つの「国語」が憲法で定められていて、ドイツ語は最も多くの国民により用いられている――の、ドイツ語を話し続けていいか、という質問に答えた小冊子であるが、ヴァイスゲルバーはこれに対して、言語、民族、国家について縦横に語っている。私は一九六四-六六年の頃、ボン大学に留学中、この人の講義を聞き、また研究室をたずねて対話した。
 そうだ! 言語を支えるのは言語共同体(=民族)であり、それを基礎に国家が形成される、この点からみれば、今日の国際状況を考える上で、言語からの観点をさけることはできない。できると考えるのは、問題の重要な論点から目をそらすこととなるであろう。

■メイエ『新生ヨーロッパの言語』

 ここまでは第二次大戦について述べたが、じつは第一次大戦とそれに続くロシアの十月革命をうけて書かれたきわめて重要な著作がある。フランスを代表すると言っていい言語学者アントワーヌ・メイエが書いた『新生ヨーロッパの言語』(初版一九一八年、第二版一九二八年。この第二版の邦訳は一九四三年、三省堂。二〇一七年、岩波文庫から出ている)は、一般的概説ではなくて、言語学者にはめったにないことであるが、身をのりだして、個々の言語の優劣を論じ、存在してはいるが、あってはならない言語(たとえばウクライナ語!)を具体的に指摘した、おそるべき著作である。
 この本は、一九一八年の初版と一九二八年の再版とでは、題名は同じでも、まるで別の著作かと思われるくらい、内容は大幅に増補されている。著者は、この本はそのままにしておいてはならない、絶対に書き足さねばならないという思いにかられて一〇年後に増補版を出したものと見られる。増補されているのは、がいして、ロシア革命によっていかなる変化が生じたかを述べた部分である。だから、原著にある「新生」を省いて、時代の限定のない、あくまで一般的なヨーロッパ諸語の概説書であると見せかけた日本の出版社の意図は正しくない。
 この本を書いた理由として、メイエは、第一次大戦とロシア革命がもたらした結果であるという。このできごとによって何がもたらされたかといえば、「文明はいよいよ統一に向かっているのに対し、言語の数は増える一方」であり、特に新しいロシアすなわちソビエト連邦では、かつての蛮族のことばまでが文字を与えられて、学術や文学の領域に至るまで用いられることになり、ヨーロッパの統一を乱している。「全世界はただ一つの文明をもつ方向に向かっているのに、文明語(langue de civilisation)の数は増える一方である」。それは民族自決権の主張がこのような状況をもたらしたものだと嘆く。
 かつては、「独、英、スペイン、仏、イタリア語」の五つの言語で理解できた世界が、もうこれだけでは足りない。で、新しく生まれた言語は、たいていは、文明化されていない地方や僻地の農民などの方言や土語であって、いずれも「つまらない」ことばばかりであると。

■ことばの数は増え続ける

 近代化の過程における言語の数の増大は、言語学者だけでなく、政治学や社会学の人たちからも、驚きをもって注目されていた。
 カール・W・ドイッチュが一九三九年に発表した論文の中で、整理された文法と正書法をそなえた書きことばは、一八〇〇年から一九〇〇年までの聞に一六から三〇に増えた、さらに一九〇〇年から一九三七年の三七年の間には五三を数えるまでになったと指摘している。つまり二〇世紀がはじまってから三七年の間には、一九世紀の百年間に増えた数の倍をこえる言語の増加があったことを明らかにした。これは言うまでもなくヨーロッパ全土にわたり、民族意識が高揚し、その民族が国家的独立を求めた結果によるものである。
 もちろん、これら新しく生まれた言語は、民族や国家が突如製造したものではない。民族が自治領域あるいは国家という独自の単位を作ったことによって、それら言語の存在がはじめて明らかになり、国際的にも認知されたというだけのことである。世界の言語の数は今日、七千ないし八千と言われているが、かつてフランス科学アカデミーは二七九六と決定したという。これには何をもって一個の言語と認めるかという、終わりのない議論があることを知っておかなければならない。
 まともに使える「言語」の数は少なければ少ないほどいいという考えは、メイエだけのものではない。マルクス主義の創始者たちにあってもしかりである。エンゲルスは民族を「歴史ある民族」と「歴史なき民族」に区別して、歴史ある少数の民族の言語のみが歴史を担う資格があるとした。そして、当時ロシア人は、歴史ある民族には数えられていなかったのである(良知力「48年革命における歴史なき民によせて」『思想』一九七六年一〇月号参照)。
 こう聞いて、マルクス主義を支持する人たちは反論するであろう。否、ソ連邦はあれほど多くの言語を世界史の舞台に出したではないかと。事実スターリンは、一九二五年の東方労働者共産主義大学(クートゥヴェ КУТВ)創立四周年を祝う記念講演で、「社会主義革命は、それまで知られていなかった多数の民族語の新しい生命をよみがえらせた」と述べた。当時スターリンはそれを「五〇以上の民族語」と誇ったが、その後、控えめに見ても一二〇をこえていた。
 ソビエトロシアにおけるこのような転回は、オーストリア・マルクシストの影響による、ソ連マルクシズム特有の新しい転回であって、これを私は、ソビエト・マルクシズヘヘムの元マルクシズムからの逸脱と呼んでいる。

■ウクライナ語はロシア語の方言?

 話をメイエの著作にもどそう。メイエの専門は何といってもスラヴ語学である。だからかれがロシアについて述べるところでは最も学識が現れ、力がこもる。かれは、革命後、まずロシアの貴族社会から文明語のフランス語が追放されたことを嘆く。貴族の家庭では、乳母は農奴の女を雇い、その乳によって児を育て、幼児の頃からはフランス人を雇ってフランス語の教育をする。親たちは、こどもたちがロシア語のような下等の言語をしゃべることを望まず、高級な文明語たるフランス語がしゃべれることを自慢した。これはロシアの著名な作家たちが幼児期を回想した自伝などで語っているからよく知られている。
 で、ロシア語は言語学上、東スラヴ語派に属し、その仲間にはウクライナ語とベラルーシ語がある。これら三つの言語相互の間は大変近く、たがいに理解できるくらいである。その近さのゆえに、ウクライナ語とベラルーシ語はいずれもロシア語の方言と見なされているほどである。
 したがって、メイエは当時の慣例にしたがって、ロシア語をGrand-ruse(大ロシア語)、ウクライナ語をPetitt-ruse(小ロシア語)と呼んでいる。小ロシア語を知る人は難なく大ロシア語を習熟することができるので、「小ロシア語なるものを確立することは必要でもなく有益でもなかった」。だから「ウクライナ政府が小ロシア語を国語にすることは、農村の土語に基礎を置く特殊語を都市住民に課することになり、文明を低下させるものである」。「小ロシア語の住民は大ロシア語から遠ざかることによって、みずからこの利益をすてたのである。彼等は力の及ぶ限り大ロシア語の進出を阻止している」。
 この文章を読む人は、誰しも二〇二二年にウクライナを侵攻したプーチン氏とまったく同じ思想を読みとることであろう。

■アウスバウ――方言からの独立へ

 さきに、一九世紀から二〇世紀にかけて、有力な大言語に従属する小方言が、次々に民族とその国家の独立を表示することばとして姿を現す流れを見た。メイエがそれを、文明の流れの方向は一つであるのに、言語だけが分裂していくのは人類にとって損失だと嘆くさまを見た。
 言語学者は、あるいは言語学はすべてそのように見るのであろうか。そうではない。ここにどうしても紹介しなければならない別の研究がある。著者はハインツ・クロスと言い、その著書の名は『一八〇〇年以降の、新しいゲルマン系文化語の発展』(Heinz Kloss,Die Entwicklung neuer germanischer Kultursparachen seit 1800,Düsseldorf,1978)である。
 ここには、ウクライナ語よりもはるかに話し手人口が少なく、歴史にも名を出さない北欧のアイスランド語や、フリースランド語のような言語から、パプア=ニューギニアの国語にもなった、崩れた英語に由来するトクピシンにまで話がおよんでいる。
 著者は、これらの小さな、世間から見れば素性のあやしい言語が、いかにして維持されるかについて興味深い観察と分析を行った結果、これら大言語に依存する小方言が、いずれも、大言語からの距離をもつために、さまざまな努力を払っているさまを描き出した。
 クロス氏はこの努力と、その結果現れる現象をアウスバウ(Ausbau)と呼んだ。「拡張」というような意味らしい。つまり、その方言にさまざまな可能な努力を加えて、言語の領域を広げて身を守り、大言語からのへだたりを作るというような意味だ。これらの小さな方言的言語はそのよう


〈140〉
にしないと、たちまちに隣接の大言語に吸収されて消えてしまうおそれがあるからである。
 それに対して、小さくとも、とりまく大言語とはきわだって異なる言語は、とりつく島もないように、隣接の大言語に吸収されるおそれはない。日本で言えば、アイヌ語がそうである。このような言語をAbstand(アプシュタント:間隔)の言語と呼んだ。
 このアウスバウ言語、アプシュタント言語の区別を、私は、言語を単に発生的に系統で考えるだけでなく、別の方向、つまり、置かれた状況から見る視点を得るために、さまざまな状況に応用して考えてみた。そして、これをとりあえず日本語でもわかるように、アウスバウを「造成」、アプシュタントを「隔絶」と訳して、いろんなケースにあてはめて考えてみた。この訳語が適切か否かは、いまは問わないことにして。たとえば日本語との関係で、アイヌ語はアプシュタント(隔絶)言語であり、オキナワ諸語はアウスバウ言語だと言えるだろう。そして一九八一年、『ことばと国家』(岩波新書)でも紹介した。いま考えてみると、このアウスバウこそは、まさにロシア語に対するウクライナ語の関係を考えるのに大いに役に立つ。
 アウスバウ(拡張)とは、言語をそれとして意識するだけでなく、話し手の多大な努力を要する作業である。そして話し手が大言語と自らの母語との差を冷静に意識して、自分の言語=母語の使い方に努力する過程でもある。もし私がウクライナ語の歴史を書くとすれば、ロシア語を意識しながら、まずそこで用いる語彙のアウスバウの過程を考えることからはじめるであろう。
 歴史をふりかえってみると、このアウスバウの問題に最初に手をつけたのは一七世紀以来のドイツ語だった。「モノ」を表すobject(対象)に、私の耳には大変ものものしく響くゲーゲンシュタントGegenstandを与えるなどして、ドイツの哲学は、自前の材料を用いて地のことばに言い換え、かれらの哲学を独特の風貌をもつ学問につくりかえた。この方式は、全世界の後進諸語、すなわち未開、野蛮な国の言語に一つの行動規範を与えることになり、日本語も、漢字をつかってだが、それをまねて大規模に実行した。ロシア語ももちろんこの方式により、多数の文明的近代語彙を製造したのであるが、わが日本のロシア語学はロシア語しか見ていないから、あまりそんなことには注意を払わなかった。

■独立を求めてたたかう方言

 クロスさんは、さきの著作ではテーマがゲルマン語なので、ゲルマン諸語についてだけ述べているからふれなかったが、それより一〇年ほど前に書かれた別の著作『二〇世紀の民族政策の基本問題』(Grundfragen der Ethnopolitik im 20.Jahrhundert,1969)では、ウクライナ語独自の行政用語が、ソビエト政権下でロシア語にとりかえられていったさまに言及している。それに抵抗したウクライナの言語学者たちが厳しい刑に処せられたことについてはいくつもの研究がある。
 ソビエト政権のロシア語は、この政権下に生まれたロシア語の新語を、政権下の諸言語に翻訳することを許さなかった。それらの単語は「ソヴィエティズム」を表現するための魂のこもった語彙であるとして翻訳することを禁じた。日本を含むほとんどの外国では何の抵抗もなく、このソヴィエティズムを受け入れた。しかし、ロシア語に直接隣接する諸言語はСовт「ソビエト」を直接導入せず、自前の材料を用いて翻訳し、それを、ソビエト崩壊まで貫いて用いたのである。
 私の知識の範囲で挙げると、フィンランド語ではneuvosto(会議)、モンゴル語zöblölt(会議の)、ウクライナ語はрадаとしており、語源はドイツ語の(あるいはポーランド語を介しての)Rathaus ラートハウス(市役所)のRatにあたる。(冒頭写真の「ソビエト社会主義共和国」の表記も、ウクライナ語版ではрадаラーダが使われている)
 この母語化した一語を守るために、ウクライナのいかにすぐれた言語学者たちの命が失われたかを心にとどめておく必要がある。
という間に文字をおぼえ、識字率が一挙にあがったという。だが、いずれにせよ、これによって、東アジアを支配する唯一の文明語たる漢字からの自立をはたすための、断固たるアウスバウの表明だったのである。これにより、すべての朝鮮人は、漢字とそのイデオロギーによる永劫(えいごう)の支配から決然として脱することができたのである。これはヴェトナムが先んじて達成していたことだが。日本が同じ道を歩まなかったのはなぜか。これこそは日本の歴史学者が、とりわけ国語学者が朝鮮語などとの対比において解明しなければならない問題であろう。

■「文明」から排除される「民族」

 ここで私たちは、一九世紀から二〇世紀のはじめにかけにしないと、たちまちに隣接の大言語に吸収されて消えてしまうおそれがあるからである。
 それに対して、小さくとも、とりまく大言語とはきわだって異なる言語は、とりつく島もないように、隣接の大言語に吸収されるおそれはない。日本で言えば、アイヌ語がそうである。このような言語をAbstand(アプシュタント:間隔)の言語と呼んだ。
 このアウスバウ言語、アプシュタント言語の区別を、私は、言語を単に発生的に系統で考えるだけでなく、別の方向、つまり、置かれた状況から見る視点を得るために、さまざまな状況に応用して考えてみた。そして、これをとりあえず日本語でもわかるように、アウスバウを「造成」、アプシュタントを「隔絶」と訳して、いろんなケースにあてはめて考えてみた。この訳語が適切か否かは、いまは問わないことにして。たとえば日本語との関係で、アイヌ語はアプシュタント(隔絶)言語であり、オキナワ諸語はアウスバウ言語だと言えるだろう。そして一九八一年、『ことばと国家』(岩波新書)でも紹介した。いま考えてみると、このアウスバウこそは、まさにロシア語に対するウクライナ語の関係を考えるのに大いに役に立つ。
 アウスバウ(拡張)とは、言語をそれとして意識するだけでなく、話し手の多大な努力を要する作業である。そして話し手が大言語と自らの母語との差を冷静に意識して、自分の言語=母語の使い方に努力する過程でもある。もし私がウクライナ語の歴史を書くとすれば、ロシア語を意識しながら、まずそこで用いる語彙のアウスバウの過程を考えることからはじめるであろう。
 歴史をふりかえってみると、このアウスバウの問題に最初に手をつけたのは一七世紀以来のドイツ語だった。「モノ」を表すobject(対象)に、私の耳には大変ものものしく響くゲーゲンシュタントGegenstandを与えるなどして、ドイツの哲学は、自前の材料を用いて地のことばに言い換え、かれらの哲学を独特の風貌をもつ学問につくりかえた。この方式は、全世界の後進諸語、すなわち未開、野蛮な国の言語に一つの行動規範を与えることになり、日本語も、漢字をつかってだが、それをまねて大規模に実行した。ロシア語ももちろんこの方式により、多数の文明的近代語彙を製造したのであるが、わが日本のロシア語学はロシア語しか見ていないから、あまりそんなことには注意を払わなかった。

■独立を求めてたたかう方言

 クロスさんは、さきの著作ではテーマがゲルマン語なので、ゲルマン諸語についてだけ述べているからふれなかったが、それより一〇年ほど前に書かれた別の著作『二〇世紀の民族政策の基本問題』(Grundfragen der Ethnopolitik im 20.Jahrhundert,1969)では、ウクライナ語独自の行政用語が、ソビエト政権下でロシア語にとりかえられていったさまに言及している。それに抵抗したウクライナの言語学者たちが厳しい刑に処せられたことについてはいくつもの研究がある。
 ソビエト政権のロシア語は、この政権下に生まれたロシア語の新語を、政権下の諸言語に翻訳することを許さなかった。それらの単語は「ソヴィエティズム」を表現するための魂のこもった語彙であるとして翻訳することを禁じた。日本を含むほとんどの外国では何の抵抗もなく、このソヴィエティズムを受け入れた。しかし、ロシア語に直接隣接する諸言語はCOBET「ソビエト」を直接導入せず、自前の材料を用いて翻訳し、それを、ソビエト崩壊まで貫いて用いたのである。
 私の知識の範囲で挙げると、フィンランド語ではneuvosto(会議)、モンゴル語zoblolt(会議の)、ウクライナ語はpaπaとしており、語源はドイツ語の(あるいはポーランド語を介しての)Rathaus ラートハウス(市役所)のRatにあたる。(冒頭写真の「ソビエト社会主義共和国」の表記も、ウクライナ語版ではpauaラーダが使われている)
 この母語化した一語を守るために、ウクライナのいかにすぐれた言語学者たちの命が失われたかを心にとどめておく必要がある。
 日本の敗戦とともに南北ふたつの朝鮮が、そろって漢字を放棄した理由を、この機会に考えてみよう。今日では韓国の知識人の多くは、漢字のない不便さを嘆き、漢字を失ったことは韓国の学問をはじめ、知的世界にとって大きな損失であったと嘆く。しかし他方では、これこそは、すべての韓国人があっという間に文字をおぼえ、識字率が一挙にあがったという。だが、いずれにせよ、これによって、東アジアを支配する唯一の文明語たる漢字からの自立をはたすための、断固たるアウスバウの表明だったのである。これにより、すべての朝鮮人は、漢字とそのイデオロギーによる永劫(えいごう)の支配から決然として脱することができたのである。これはヴェトナムが先んじて達成していたことだが。日本が同じ道を歩まなかったのはなぜか。これこそは日本の歴史学者が、とりわけ国語学者が朝鮮語などとの対比において解明しなければならない問題であろう。


■「文明」から排除される「民族」

 ここで私たちは、一九世紀から二〇世紀のはじめにかけ着語との接触がロシア語の劣化を招いたという議論に二〇世紀に入ってから敢然と反論したのが、ニコライ・トルベツコーイなどのユーラシア主義者たちであった。
 こうした印欧語比較言語学にのみ込まれた文明主義からの脱出は、いろいろな仕方で、無意識的にも意識的にも試みられたが、私としては、何としてもフェルディナン・ド・ソシュールの苦悩に満ちた試みをあげなければならない。
 ソシュールは、その青年時代を、ライプツィヒとベルリンで、印欧語比較研究のまっただ中で過ごした。かれ自身、二一歳の若さで、「印欧諸語における母音の原初体系についての覚え書き」(一八七八年)を発表して、大いに注目されたが、ジュネーヴに帰ってからしばらくの沈黙の後、ジュネーヴ大学で一九〇六年から一九一一年にかけて三回の講義を行った。この講義はソシュールが残したメモと、講義に出席した学生の筆記にもとついて、弟子のシャルル・バイイとアルベール・セシュエとが講義を再現しようとしてまとめた『一般言語学講義』を通して知ることができる。
 その後一九五〇年代になって、ソシュールが自ら執筆した著書ではないというので、さらに資料をあさって本物の講義を復元しようという野心家がいろいろ試みたが、私は、バイイがソシュールの意図を十分にとどめてくれていると信じて、まずこのバイイ編の講義を繰り返し味わい、それを縦横に理解することが肝要だと考え、折あるごとにその読解に沈潜した。
 ところが、ソ連の学界はソシュールと、それが触発した欧米のすべての流れを、反マルクス主義的反動思想であると、全面的に否定した。私は、この種の論評に強い関心を抱き、できればその路線に立とうと努力してみた。しかし、それを読めば読むほどソシュールの主張の鮮やかさにひかれたのである。
 ソ連のソシュール批判の要点の一つは、その方法が「反歴史的」だということである。印欧語比較言語学の「比較・歴史的」な方法から外れてはならないというのである。ソシュールの理論は、「歴史(的)」ということばを避けてdiachroniqueと言い、それに対立する「没歴史的」という意味で共時的(synchronique)ということばで語られている。したがってソシュールの言語学は「共時言語学」と呼ばれる。『講義』に「歴史の介入は人の判断をゆがめる」という鋭い指摘がある。

■文化領域の巨大な変化の中で

 このような考えがどこから生まれたのであろうかと考えた。そして、ソシュールがこの「歴史主義」というよりは「歴史でのみ」という流れを押しのけて、共時主義に至ったのには、エミール・デュルケムの社会学の影響があったことに気づかざるを得ないのである。
 このことを知るためには一九三三年に書かれた、ワルシャワ大学のW・ドロシェフスキーの論文、「デュルケムとソシュール」である。この論文はすでに一九三四年に小林英夫によって翻訳され、今では『20世紀言語学論集』(みすず書房、二〇〇〇年刊)に収められているので読むことができる。
 ヨーロッパでこのようにひそかに進んでいた学問的雰囲気の変化は、ほとんど同時に、アメリカでは言語学と人類学の世界で生じて文化人類学の発生をうながし、アメリカで進められていた新しいモードが誕生したのである。
 デュルケム社会学の影響の下に生まれたソシュールの言語学は、言語のわくを破って、文化の諸現象を、文明の流れの外に置いて、個別、固有の現象として、それ自体の独自の価値をもつ単位として観察する構造主義の大きなうねりとなって展開した。一九世紀の最終期から二〇世紀の初めにかけて生じたこの動きは、レーニン、スターリンの名とともにソ連の思想界がひろめた「史的唯物論」に鋭く対立するものであり、ソ連のイデオローグたちは、それを脅威に感じとって反応したにちがいないことがわかる。
 この、文化を扱う領域に起きた巨大な変化は、学問の領域をはみ出し、無意識にも人々の気持ちを世界規模で変えていったさまは、それと気づかれず、世界の学界に潜行した、一種の文化的革命、否、反革命とも呼ぶべき巨大なうねりとなり、それはいまなお進行中である。

 ロシアの大統領プーチン氏が「まつろわぬ民」ウクライナに軍を侵攻させてから間もなく一年になる。その時私がまず思い出したのは、ほぼ一世紀前にメイエが発したウクライナ語に関する感想である。プーチン氏にあっては、ウクライナ語などは存在すべきでないという思いは、この百年のうちにいっそう強化されたのであろう。ロシア軍の侵攻を、ある人たちは侵略と言いかえた。プーチン氏は、かつて十字軍が異教徒や異端の征伐に向かったときのように、むしろ懲罰と意識したであろう。文明の発展に逆らう逆賊は滅びるべきであると。
 文明は未開の植民地に進出する際には、必ずそう自らの植民地侵略を正当化してきた。日本の教養層もまた、そのような信仰の中で自らを形成した。大学をはじめあらゆる拠点を文明の奔流がおおいつくしても、なお極東の一蛮族の未開な「民俗」を足場にして抵抗し続けた柳田國男などの仕事がいまにしてまぶしく思われるのである。





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