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大衆的検閲について 桐野夏生

2023年08月04日(金)

それで,「大衆」とはどんな存在なんだろう.
大衆と,一括りにできるんだろうか,とは,まず思うことだった.
あるいは,匿名ということも考えてみる.

あるいは,だれかが主張していたけれど,
ロシアが動員令を発しないのは,大衆を武装させることがこわいからだと.
ボルシェビキの蜂起を想起させられるのだとか.
ふーん,とは思ったが,さて,どうなだろう.

余談だけれど,
政権与党は,選挙で国民の支持を得た,というのだけれど,
得票率30~40%ぐらいか,投票率を勘案すると,どう考えればいいのだろう.
現在の小選挙区制のもとでは,圧倒的に〔死に票」が多いのだと思う.
二つの政党しかなければ,ともかく,現在の政治状況をかんがえれば,いかがなものか.
制度導入時の議論を再点検しなければならないのかもしれない.
自治体の首長選挙の場合,左右にかかわらず,有権者の過半の得票をえる場合がある.
まさに,市民の支持を得た,というところか.


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【世界】2023年02月

大衆的検閲について

桐野夏生

きりの・なつお 作家。日本ペンクラブ会長。『OUT』日本推理作家協会賞、『柔らかな頬』直木賞、『グロテスク』泉鏡花文学賞、『残虐記』柴田錬三郎賞、『東京島』谷崎潤一郎賞、『ナニカアル』読売文学賞など受賞多数。他に『日没』『燕は戻ってこない』など著書多数。


 二〇二二年一一月一〇日から一二日にかけて、第三三回国際出版会議(International Publishers Congress)がインドネシア共和国ジャカルタで開催された。同会議は、国際出版連合(International Publishers Association)が主催し、「読書の重要性――未来を抱きしめて(Reading Matters;Embracing the Future)というテーマのもと、六三ヵ国から六〇〇人を超える参加者が集った。期間中は一二のパネル・ディスカッションが催され、テクノロジーの発達と監視が出版の自由に与える影響、人工知能と著作権の関わり、気候危機における出版事業の課題、アテンション・エコノミーに対抗する未来の読者の創出など、持続可能な出版活動を目指し様々な討議がなされた。
 桐野氏は二日目の基調講演を務めた。以下はその全文である。


  「暗黒の時代」の記憶

 私のジャカルタ訪問は、今回で四度目になる。アジアでも有数の、巨大で多様性に満ちた街に四度も来ることができて大変嬉しく思っている。
 十数年前、私は「林芙美子」という日本の女性作家をモデルにした『ナニカアル』(二○一○年〉という小説を書いた。二度目と三度目のジャカルタ訪問は、その小説の取材のためだった。
 第二次世界大戦中、日本軍は、作家、詩人、画家、編集者、ジャーナリストを大量に動員して戦地に派遣し、侵略戦争を正当化、美化するための文化的な奉仕を、これらの人々に強要した。それは「徴兵」に次ぐ強制力がある「徴用」という形での召集だった。
 作家、詩人、画家、編集者、ジャーナリストたちは、日本軍の占領地であったシンガポール、インドネシアなどに派遣された。そこで見聞きしたものを、作品にするよう強制されたが、もちろんその創作物には厳しい検閲があり、明らかな作戦の失敗や、日本兵の無惨な死、そして厭戦(えんせん)的思想など、軍に都合の悪いことは一切書くことを許されなかった。
 林芙美子は、徴用された作家たちの中でも、とりわけ厚遇された作家だ。偽装された病院船で日本を発ち、軍部の人間や朝日新聞社記者とともに、シンガポールを皮切りに、ジャカルタやスラバヤなどあちこちを移動した。
 彼女は、日本軍の統治があたかもうまくいっているかのような戦地報告を書いては日本に送った。帰国の際は、危険な船舶ではなく、朝日新聞社の最新鋭の飛行機だったことからも、彼女がいかに軍部の覚えがめでたかったかが窺えるというものである。
 林芙美子は、今でも古びない作品を数多く残した優れた作家である。子供時代、彼女は行商を生業とする母親に連れられて、放浪生活を送った。そして、単身東京に出てきてからは、女工や女給となって貧しい暮らしをした。
 その体験を赤裸々に描いた『放浪記』(一九三〇年)という作品は、当時のベストセラーだ。その作品を愛したのは庶民、まさしく若い兵士の母親の世代の女性たちだった。そのため、林芙美予は、とりわけ強力なプロパガンダとして、日本軍に利用されたのだ。
 当然のことながら、第二次世界大戦が終わると、林芙美子は戦争協力者として非難された。レニ・リーフェンシュタールほどではないにしても、そのイメージを払拭(ふっしょく)しきって死んだ、とは言えまい。
 林芙美子の例を見るまでもなく、第二次世界大戦前と戦中の日本は、国家による検閲と弾圧が厳しい暗黒の時代だった。作家だけでなく、出版社の編集者や記者も、反国家的・共産主義的だと見傲(みな)されれば、たちまち投獄された。その基準も曖昧で、かつでっち上げも多かったから、無実の罪で亡くなった人も少なくない。
 日本軍は狡知(こうち)に長けてもいた。新聞社には、紙パルプの配給を制限することによって、戦争協力を迫っていたから、戦争批判は一切表に出ず、日本は侵略戦争に邁進(まいしん)したという事実がある。

  平和で自由な国の「検閲」

 巷(ちまた)では、隣人による監視や密告が横行した。「隣組」という、行政が作った組織がある。隣人同士が互いに助け合うための組織だが、本来の目的は、隣人による相互監視と干渉だった。
 ここインドネシアでも、日本占領期には「隣組」と、その上部組織である「宇常会」という、本国と同じような組織を作って、住民の監視と軍政当局の告示伝達に利用した。この時代の日本のように、作家が一番怖れるものが、国家による検閲である。そして、意に添わぬことを書かされる強制である。
 検閲こそが、言論と表現の自由、そして出版の自由を脅かす。現在も、独裁的・全体主義的国家では、当然のごとく行われていることは周知の事実であろう。それもインターネットが発達した今、個人に対する国家の管理はより徹底しているから、逃れるのは困難に近い。公権力による表現への制限は、どこに拡大してゆくかわからないがゆえに危険である。表現の自由だけは、国の介入を許してはならない。
 では、自由を保障されている平和な国で、我々作家の表現の自由を奪うものは何か。それは、国家でも政治的集団でもなく、ごくごく普通の人々による「大衆的検閲」とでも名付けたくなるような圧力である。

  アルゴリズムという闇

 日本では、コロナ禍によって、戦時中もかくや、と思われるような醜悪な出来事が多々起きたことは記憶に新しい。二年前、日本では新型コロナの感染拡大防止のために、政府や自治体が外出の自粛要請を行った。その途端、要請に従わない店や個人に対する告発の電話が、警察に多くかかってきたという。いわゆる密告である。
 これら自粛を強要する行為をする人々は、「自粛警察」と呼ばれた。マスクをしていない人を告発するのは、「マスク警察」だ。しかし、取り締まっているのは、警察ではなく、一般市民だということが、あたかも第二次世界大戦中の「隣組」を思い起こさせた。
 「自粛」という概念が、いかに容易に、他人の自由を束縛するものに転化するかを、我々は目の当たりにしたのだ。コロナのおかげで、日本人は第二次世界大戦前夜の雰囲気と、日本人の無意識の闇を経験したとも言えよう。この自粛の強要も「大衆的検閲」の一種と言うならば、その不寛容さはコロナ以前から見られていた傾向でもある。私は、ネットによる歪(いびつ)な世論形成が不寛容さの醸成にひと役買っているのではないかと考える。
 先日の朝日新聞(二〇二二年一〇月二旦には、フェイスブック(現・メタ)の内部告発者フランシス・ボーゲン氏が明らかにした、フェイスブックのアルゴリズムが偏っている、という指摘が引用されていた。
 アルゴリズムとは、「コンピューターが膨大なデータをもとに問題を解いたり、目標を達成したりするための計算手順や処理手順」だ。
 ホーゲン氏が開示した同社の内部文書には、こんな指摘があったという。「どの投稿がシェアされそうか、という要素を重視していたことから、挑発的で質の低い投稿が優先されていた」。
 アルゴリズムは、公開されないブラックボックスだ。しかも、国家ではなく利潤を追求する私企業のブラックボックスなのに、世界中のほとんどの人が影響を受けている。
 「挑発的で質の低い投稿」を多く優先すれば、人々はそれが多数の意見だと思い込むし、必然的に、「挑発的で質の低い」社会が心地よくなる。自分にとって心地よい意見しか取り入れなくなれば、批判精神は当然、痩せ衰える。
 批判精神がなくなれば、曖昧なものや、価値判断のできないものは、思考するのが面倒臭いから(というか、AIに任せてしまっているから)、とりあえず適当なラベルを貼る。
 ラベリングは、単純な二元論だ。右翼か左翼か。フェミニストかアンチフェミニストか。民主党か共和党か。この二元論は当然のことながら分断を生む。
 分断が激しくなれば、お互いの誹誘中傷も激化する。わかりやすい正義感が形成されれば、そこから外れた他人を、いとも簡単に誹誘中傷するようになるだろう。不倫した男女を責めるのも、過去にイジメをした人物を責めるのも、誰も文句を言えない、わかりやすい正義感の発露である。
 ジャーナリストの須賀川拓(すかがわひろし)氏は、アルゴリズムを、「人間の消費活動(欲)の軌道を測るようなもの」と規定している。「欲の軌道を測る」とは、うまい表現である。
 対立を煽られ、相手を誹諦中傷することで快を得るように「軌道を測られている」としたら、私たちの欲望は、品性下劣な方向に、あるいはわかりやすい「正義」を希求するように、と向けられていっても気付かないだろう。

  「正義」が作家を滅ぼす

 もちろん、SNSによって、これまで社会で耳を傾けられてこなかった人たちが自ら声を上げ、新たな運動を作りだしてきたことの意義は大きい。
 問題なのは、ひとたび「悪」「敵」のラベルを貼られると、どんな言葉の礫(つぶて)を投げてもよし、何を言ってもよし、とされる風潮が当たり前のように共有されることだ。あたかも人民裁判のごとく過去を裁くには、人権的配慮も必要なのに、その配慮を誰もしなくなったのはなぜか。なぜ急に日本は、そして世界は、そのようにモラリスティックな「正義」を行使するようになったのか。
 ある女性作家が、配偶者がいる男女が出会って恋をする物語を書いた。すると出版社に「不倫の話なんか書くな」という抗議がいくつもあったと聞いた。
 少し前までは、そんなことはあり得なかった。なぜなら、小説だからだ。小説は完全に、私たち作家が頭の中で浮かんだことを書き連ねた想像の中の世界でしかない。それを止められたら、作家に死ねというのと同じことだし、小説という表現物の死でもある。
 サルマン・ラシュディ氏の襲撃事件に衝撃を受けたイスラエルの作家、エトガル・ケレット氏は、こう書く。
 「大学の文学部が『ロリータ』を教材から外して拒否し、ロシアがウクライナに侵攻したためにドストエフスキーについての学会が中止され、アカデミー賞受賞者がテレビの生中継中にスタンダップ・コメディアンの顔を平手打ちしていい気分になり、読者を怒らせるような考えやジョークを公表したがためにジャーナリストや漫画家が殺されるようなとき、その世界はアーティストにとってもアートにとっても危険な世界だ。(中略)
 芸術上の自由が全体主義政権や宗教的運動によって縮小された過去の時代とは違って、いまやその自由は、アーティストを名指しして顔に泥を塗り作品をボイコットすることで芸術を取り締まろうとする、リベラルなコミュニティを含むあらゆる方面からの攻撃に晒されている」(秋元孝文訳、『新潮』二〇二二年一○月号、原題「作家にとっていい時代ではなくなった 作家のライセンス-取り消し」)

  「大衆的検閲」の正体

 人間はたくさんの間違いを犯す。嘘を吐いたり、他人に意地悪をしたり、既婚者とわかっていても好きになったり、他人にいろんな迷惑をかけて生きている。犯罪を犯す人間だっている。多くの人が踏みとどまる、自分の中に引かれたラインを越えてしまった人々について、小説は書いてきた。小説は人間の弱さや愚かしさ、さらに言えば、弱く愚かな人間の苦悩について描くものなのだ。
 不倫の物語なんか書くな、と出版社に抗議する人たちは、正しいことが書かれた小説しか読みたくないのかもしれない。では、「正しさ」とは何か。私たち作家が困惑しているのは、今、人々の中に強くなっている、この「正しい」ものだけを求める気持ちだ。コンプライアンスは必要だが、表現においての規制は危険である。その危険性に気付かない点が、「大衆的検閲」の正体でもある。
 文学は、人間の弱さを基盤とした、他者への想像力がその根幹だ。そして、自分自身と他者との関係の中に、新しい価値を創造してゆくものである。とはいえ、過去の優れた文学作品の中でも、差別的な表現にぶつかることがある。小説の中だとはいえ、差別されて書かれる側は、不快の念を持つ。少し前の小説には、女性が愚かしく書かれているものや、差別的に書かれているものも多かった。欧米の作家の書いた小説の中には、日本人に対する差別的な表現も見られるし、日本人作家の書いたアジア人への差別的表現も同じように不快である。しかし、それは、その時代に生きた作家の、ある面での限界を表すものだ。批評精神を持って読む必要があるが、変えてはいけない。そうした過去の時代の限界を知り、乗りこえようと抗(あらが)うなかでこそ、他者への想像力は磨かれ、新しい文学作品を生んでゆくのだと思う。今、過去の作品の表現を変えることは、歴史を修正することに近い行為である。

  すべての表現は自由である

 日本では、二〇一一年の福島での原発事故以来、人々の同調圧力が強まり、政治も国民の自由を制限するほうに向かった。また、前述したようなネットによる「正義」感の醸成と発露も怖ろしかった。近い将来、戦時中のような言論弾圧が起きるかもしれないと考えた私は、二〇一六年から二〇年にかけて、『日没』という小説を書いた。これはある作家が、読者の告発によって政府の収容施設に入れられ、思想矯正を受ける物語だった。
 まるで私の書いた『日没』と同じようなことが、現実で起き始めている。国家ではなく、読者による告発である。世界でも同じような問題が起きている、とある国の出版社が語ってくれた。
 私の中にある、もうひとつの懸念と危惧は、これまで一緒に表現の自由を守るために闘ってくれた、強い絆で結ばれた出版社が、読者を獲得するために、これらの「大衆的検閲」に協力するのではないかという怖れである。
 かつて、出版社と作家は強い絆で結ばれていた。私たち作家は、世界のどこかで本を待っている読者のために、何でも書けるし、何でもできると信じ、その夢と希望に酔っていた。そして、そこには「紙」が常に存在していた。
 しかし、この数十年で世界は驚くほど変わった。今やほとんどの紙の出版物は電子化されつつあって、いずれ消えてなくなる運命だ。持続可能な未来。その概念は正しい。これまでの人類による、資源の膨大な浪費を思えば、当たり前のことだ。未来に生きる人々が、そのツケを払う必要はない。
 とはいえ、紙の本に長く親しんできた我々作家が、作品をコンテンツと言われ、本という物質がデジタル化されて、電子という空間に漂うことに哀しい思いを抱くのも無理はなかろう。なぜなら、一冊の本には、その中に大きな世界がある、という神通力があった。
 しかし、一コンテンツになった途端、その神通力は失われ、ただのテキストに過ぎなくなった。文脈を無視して、内容が差別的だと断じられたり、言葉狩りの憂き目に遭うことも多々起きるようになった。あらゆる表現と多様性に満ちた「小説」という面白く自由な世界を、ネットが狭め、不自由にさせている。
 アルゴリズムによってもたらされた不寛容な精神に流されて、ごく普通の人々が、国家権力による検閲のような振る舞いをすることは、過去の文学作品に対しても、もちろん現在の表現活動に対しても、決してはあってはならない。
 すべての表現は自由であるべきだ。作家も、そして出版社も、表現の自由のために、今まで以上に、強い絆を求めて闘っていかなければならないと思う。

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