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寺島実郎 脳力のレッスン(251) 二〇紀世紀システムにおける日本――戦後日本の繁栄とは何だったのだろうか 【世界】2023年05月

2023年10月02日(月)

時間だけ,確実に過ぎていって,
十五夜がちゃんと見えないな……と愚痴をこぼしているうちに,神無月.
ついでに長い夏も,ようやく終わろうとしているようだ.
いつごろまお月見をやっていたんだろう,あまり覚えていない.
田舎にいたころは,ススキに,母親の手造りの団子を供えたりしていた.
都会に引っ越してきて,もうお月見なんか……とは思わなかったと思うけれど,
でも,改めて今日はお月見だなんてことはなくなっていったか.

「豊かさ」ってなんだったろうか,
あるいはいま,豊なんだろうか.

上京してきたとき,地下鉄日比谷線が突貫工事でつくられていた.
板敷きの道路だった記憶がある.
引っ越しの荷物を,親について,汐留までとりに行った.
銀座に住んでいた友人が,まだそのころ,裏通りには未舗装の道路が残っていたんだよ,と教えてくれた.

年少のころのことが思い出される.
それで,豊かになったんだろうか……と.

ガルブレイスの「豊かな社会」は1960年には翻訳がでていた.
列島の人は,どんなふうに読んでいたんだろう.
1970年代になって,手にとって読んでみた.
そのころ,石油危機.
すでにベトナム戦争に疲弊したアメリカは,中国との国交を開くようになる.
たぶん学校のゼミで,「覇権国家」が話題になっていたか.

最近色々とむかしのことが思い出されることがある.
たんなる思い出なのかな,と思うけれど,
それだけではなくて,「高度成長」は「歴史」の一コマなのかもしれないな,
そんなところかなとも思う.


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【世界】2023年05月

脳力のレッスン(251)
寺島実郎

二〇紀世紀システムにおける日本――戦後日本の繁栄とは何だったのだろうか

――直面する危機への視座の探求(その2)


 一〇〇年前の第一次世界大戦がもたらした世界秩序の構造転換期との対照において、今我々が直面する世界秩序の構造変化の考察を試みている。日本の新たな進路の模索に向けて、二〇世紀の世界秩序の基本枠とは何か、そしてその中での日本の位相をどのように認識するかを確認しておきたい。

■「二〇世紀システム」を主導した米国――国際主義とフォーディズムという柱

 第一次世界大戦を機に、世界史を突き動かす中心に「理念の共和国」たる米国が胎動してきたこととロシア帝国の崩壊後に次元の異なる「社会主義」という理念を掲げるソ連邦が登場してきたことを論じてきた。
 ベルサイユ講和会議を経た一九二〇年代の米国は共和党政権の時代となった。一九二〇年の大統領選挙は共和党のハーディングが勝利し、ベルサイユを主導したW・ウィルソンの民主党政権とは異なる舵取りを始めた。米国大統領ウィルソンが提案した国際連盟に入ることを米国議会が拒否し、ウィルソンの国際主義と距離をとりつつも、資本主義陣営の新たなリーダーとして、社会主義革命に対抗して資本主義の再構築が迫られていた。
 この頃のアメリカは、台頭する産業力を背景とする「産業人の時代」であった。そして、それを象徴する存在がヘンリー・フォード(一八六三~一九四七年)であった。アイルランド系農民の子としてデトロイト郊外に生まれ、一九〇八年にT型フォードを産み出した彼こそ、大量生産・大量消費の大衆資本主義時代を拓いた人物であった。T型フォードは一九年間累計で一五〇〇万台以上も生産され、ツーリングタイプで最初の価格八五〇ドルを二九〇ドル(一九二四年)にまで引き下げていった。T型フォードの登場によって、一九〇〇年にわずか八〇〇〇台だった米国の自動車登録台数は、一九二一年には一〇〇〇万台を超し、一九二五年には二〇〇〇万台を超した。車は農民や労働者でも買えるものになったのである。
 T型フォードは生産工程と部品・工具類の標準化により大量生産方式(フォードシステム)を確立しただけでなく、ヒトとモノの大量移動という輸送革命を起こした。また、一日五ドル(年収換算一二〇〇ドル)という当時の平均賃金の倍の給与をフォード社は支払い、労働者の生活を豊かにし、それが車の購買力を高め、市場を拡大するという形で米国資本主義の好循環の基盤を創り出した。ローン販売という拡販システムは、フォードに対抗するために一九一六年にGM社が導入したものだったが、一九二四年には米国の新車販売の七五%はローン販売になっていた。
 ヘンリー・フォードの経営思想を集約したものがフォーディズムであり、産業躍進時代の自信に満ちた産業人の哲学の象徴ともいえるものであった。フォードの自伝ともいうべき『我が一生と仕事』(DOUBLEDAY,一九二二年)で主張されているのは、「努力して生活を向上させる勤勉な労働こそ米国社会の基本的倫理」であり、「良質で安価な商品を国民に提供する奉仕こそが重要」で、資本家対労働者の対立をもたらす労働組合は不要であり、「自由な労働」によって労働者の生活レベルを上げ、「豊かさの下でのビジネスと国民の共同体」を創ることこそ偉大なアメリカが目指すべき進路とした。この「フォーディズム」が米国資本主義の生産と分配における世界制覇の哲学であり、社会主義の挑戦に対する米国流の解答であった。
 再考するならば、このフォーディズムこそ、英国に始まった産業革命以降の産業人の基本思想ともいえる「産業的啓蒙主義」(INDUSTRLAL ENLIGHTENMENT)の米国版といえよう。科学技術への信頼と啓蒙主義に立ち、産業に科学イノベーションを持ち込み、産業が民衆を幸福にするという思い入れが込められており、世界のリーダーに躍り出たアメリカの産業人の自負が表出したものであった。
 一九二〇年代のアメリカはまさに大衆資本主義の潮流が渦巻く時代であった。大衆が豊かさを実感する装置として、セルフサービス式の大量安価販売の仕組みとして「スーパーマーケット」というチェーンストアが登場したのもこの時代である。「米国こそ骨の髄まで資本主義の国であり、欧州がユーロ社民主義やユーロコミュニズムへの誘惑に引き寄せられる歴史を繰り返してきたのと対照的に、社会主義政党が育ったこともない」という認識は、米国の特質を語る定番となってきた。それは、ロシア革命直後の一九二〇年代のアメリカにおいて大衆資本主義への自信が埋め込まれたためだといえ


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よう。
 これまでの議論を整理するならば、米国が主導した二〇世紀システムは二つの柱から成り立ったことが分かる。一つは、ウィルソン流の国際主義であり、二〇年代に挫折したかに見えたが、フランクリン・ルーズベルト以降、再び蘇って、第二次大戦後の国際連合創設、ブレトンウッズ体制の確立という形で世界秩序の骨格を形成した。そして、もう一つがフォーディズムに象徴される産業主義である。この二つの柱の交錯の中で「アメリカの世紀」が演じられてきたのである。

■戦後日本の経済的成功の基本性格――二〇世紀システムのサブシステムとして

 ところで、このフォーディズムを再考するならば、この思想は戦後日本の産業リーダーであり、「経営の神様」とまでいわれた松下幸之助のPHPの思想(繁栄を通じた平和と幸福)に通底していることに気付く。松下が語った「水道哲学」(誰もが豊かさを享受できる経済)も「労使協調」も、基本はフォーディズムを引き継ぐものである。米国の一九二〇年代が、戦争を経て日本に憑依したといえる。
 そして、戦後復興から成長期の日本経済を凝視するならば、敗戦の屈辱の中から立ち上がった日本人の努力を否定するものではないが、日本が主体的に選択、創造しえた道程ではないことが分かる。戦勝国米国が主導したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本に対する“NATION-BUILDINGの(国造り)”政策を通じて、米国が主導する「二〇世紀システム」に組み込まれたことが「奇跡の復興」に繋がったのである。戦後日本の経済的成功は「奇跡」ではなく、大きな歴史潮流のサブシステムであったといえる。
 「アメリカの物量にねじ伏せられた」と敗戦を総括した日本は、ひたすら「物量の復活」(経済的豊かさ)を求めて大量生産・大量消費の大衆消費社会に突入した。一九五四年、敗戦後わずか九年で、「三種の神器」(電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機、のちに白黒TV)ブームを迎え、一九六六年には、「3C」ブーム(カラーTV、カー、クーラー)を迎えた。そして、一九七〇年の大阪万博は一八三日間で六四二〇万人が入場、戦後復興が一定の到達点に至った象徴となった。
 その背景には、原材料資材の効率的調達と製品の国際市場への参入という「通商国家日本の構想」を可能にする国際環境が存在したといえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議で国際社会に復帰した日本は、一九五二年にはIMF・世界銀行への加盟、一九五五年にはGATT(関税と貿易に関する一般協定)への加盟を実現、一九五六年にはソ連との国交回復を背景に国際連合に加盟と、国際主義プラットフォームに参入していった。一九六二年には、米国の日本への戦後援助は終了したが、日本は二〇世紀システム(開放経済と自由貿易体制)のメリットを享受して、復興・成長への道を走ったのである。
 一九五五年、日本生産性本部が経済界、労働組合、学界の参加の下に設立され、米国の先端的経営技法の導入、先行事業の研究のための海外視察団が結成され、高度成長期を通じ年五〇回以上も渡航し、この「現代の遣唐使」といわれた米国への視察を通じてスーパーマーケットなど新しいビジネスモデルが上陸してきた。「主婦の店ダイエー」としてスタートしたダイエーが、一九七二年に売上高で百貨店の雄たる三越を抜いたという象徴的なことが起こった。
 日本にコンビニとしてセブン-イレブンが上陸したのが一九七四年であったが、流通情報革命で業態を進化させ、弁当、惣菜のような「生もの」を販売できる店舗にし、全国に五・六万店(二〇二二年現在)のコンビニという生活インフラを配するまでになった。先行モデルに付加価値を付けて進化させ、親元をも凌駕するという戦後日本産業を象徴する展開である。
 改めて、二〇世紀初頭から今日に至る「世界史の中での日本」を整理するならば、「戦争」という悲惨な断絶を越えて、日本が生きてきた不思議なプロセスが見えてくる。二〇世紀初頭の一九〇二年から一九二三年まで、日本は英国との「日英同盟」によって、日露戦争から第一次大戦を超える期間の国際関係を生き延びた。極東の島国日本が世界史のセンターラインに「戦勝国」として躍り出た時代であった。その後、一九二一年のワシントン会議後の展開で、米国の思惑を背景に日英同盟を解消、遅れてきた植民地帝国として「先行していた列強への異議申立者」として戦争・敗戦の時代に突入する。そして、敗戦後の日本は新手のアングロサクソンの国たる米国との同盟関係を基軸に、一九五一年からの七二年間を歩んできた。つまり、二〇世紀に入ってからの一二二年間のうち実に九三年間をアングロサクソンの国との二国間同盟で生きたアジアの国ということで、そんな国は日本以外にない。しかも、日本人の多くはそれを「成功体験」だと認識している。
 二〇世紀システムとは「第一次大戦期以降の米国と英国の『特別の関係』(アングロサクソン同盟)を基盤に形成された世界秩序」ともいえ、日本は戦争・敗戦へと迷走した三〇年間を除いて、二〇世紀システムのサブシステムとして機能したのである。そこで、日本の進路にとっての課題は、この基本構図が今後も変わらないと認識するか否かということになるのだが、その前に、二〇世紀システムの中で日本の資本主義と民主主義が真に錬磨され、成熟してきたのかを考察しておきたい。

■日本資本主義の宿命的虚弱性――「総力戦体制」の継承と硬直

 第一次世界大戦の歴史遺産といえるのが「総力戦体制」である。この大戦が恐ろしい消耗戦になったことによって、戦争の意味が変わった。「戦場での軍隊による戦闘」(軍備と戦術)から、「銃後」の国力(経済・産業・国民)を総動員する総力戦になったのである。日本でも国家による「統制」が進み、一九二五年に重要輸出品工業組合法、一九三一年に重要産業


〈160〉
統制法、一九三七年には軍需工業動員法が適用、臨時資金調整法が制定されていった。軍事を中核にした産業化が加速し、一九三八年には、ついに国家総動員法という形で、物資の供出・配給の統制が図られた。
 注視すべきは、その国家総動員体制が戦後日本でも継承されたことである。このことは野口悠紀雄(『一九四〇年体制 増補版』東洋経済新報社、二〇一〇年)や山本義隆(『近代日本一五〇年』岩波新書、二〇一八年)が指摘してきたことであるが、日本の資本主義の性格を考えるうえで、重要である。表面的には、一九四五年の敗戦後、日本帝国主義の経済を支えた総力戦体制は米国によって徹底的に解体されたことになっている。GHQによる経済民主化政策が、「財閥解体、農地解放、労働改革」を三本柱として、市場経済化、非軍事化を目指して展開されたことも事実である。だが、戦後経済の混乱を制御する必要から官僚統制は残った。戦時経済の司令塔だった企画院と商工省は、「経済安定本部」と「通産省」という形で残り、大蔵省は財政金融政策の中核として「大蔵省護送船団」といわれるがごとく一九九〇年代まで機能し続けた。食糧管理制度も健康保険制度も形を変えて生き続けた。
 戦争のための総力戦から経済戦争・産業競争のための総力戦へと形を変え、日本は国家主導の資本主義を継承した。日本の復興・成長を見つめた戦勝国から、官民一体となって「工業生産力モデル」をひた走る日本に対し、「日本株式会社」批判が起こったのも頷ける点であった。
 一九八〇年代末の冷戦の終焉に向けて、世界を「新自由主義」といわれる潮流が突き動かし始めた。社会主義陣営の疲弊と硬直化を背景に、レーガン・サッチャーの米英同盟が主導し、「小さな政府を実現し、市場に任せろ」というM・ブリードマン流のシカゴ学派の主張に乗って、「規制緩和」が時代のテーマとなった。さらに、冷戦後の一九九〇年代には、米国の一極支配といわれた「米国流資本主義の世界化」ともいうべき潮流が生まれ、日本でも経済の国際化、グローバル化という掛け声が声高に叫ばれるようになった。「規制改革」がキーワードになり、「官から民へ」の潮流が生まれ、一九八七年の「国鉄民営化」(三七・一兆円の累積赤字の解消と二八万人の職員の人員整理)がなされ、極めつきが小泉構造改革であり、二〇〇五年の「郵政民営化」であった。
 だが、「規制改革」「官から民へ」という新自由主義の時代も続かなかった。二一世紀に入って、日本産業の国際競争力の低下と日本経済の埋没が顕著になると、円高圧力に耐え切れなくなり、「国がなんとかしろ」という声が高まり、登場したのがアベノミクスであった。結局、アベノミクスは「国家による金融主導の調整インフレ誘導策」であり、異次元金融緩和と財政出動によって「デフレからの脱却」を目指す国営資本主義の政策論であった。その結末が、中央銀行である日銀が「赤字国債を引き受けて国債の五三%を保有(二二年末)し、上場株式保有における筆頭株主(ETF買い)」という経済社会の歪みである。
 翻って、明治期以来の日本は「上からの近代化」を常態とし、官営工場の「払い下げ」の伝統の上に資本主義を成立させ、戦争時の「総力戦体制」を埋め込んできた。この国家依存の資本主義という性格は敗戦後も変わらなかった。その過程で日本の国民意識に「国家への依存と期待」が醸成されてきたといえる。上からの近代化、官主導の産業形成の宿命というべきか、日本資本主義の際立った特色として、愁嘆場に来ると「国が何とかすべきだ」という心理に回帰するのである。日本資本主義の最大の弱点がここにあり、国民も経済界も主体的に創造する意思に欠ける。結局、国が動かなければ何も動かない。「その筋のお達し」という権威付けが大切にされ、それが社会全体の重い同調圧力を生む。
 これは今日にも継承されており、アベノミクスも国家主導の異次元金融緩和と財政出動で意図的にインフレと円安を誘導し、経済を水膨れさせる手法なのだが、その易きに流れる政治に簡単に依存してしまうのである。補助金、助成金、給付金といったポピュリズム志向が根深く、「自主・自立・自尊」という気概こそが資本主義を支えるエトスであり、民主主義の基点でもあることを簡単に忘却するのである。
 寺西重郎が語る『日本型資本主義』(中公新書、二○一八年)が存在し、「ものづくり重視、強欲なマネーゲームへの嫌悪、人間関係と集団行動の重視」といった傾向を持っていることも確かであり、渋沢栄一がこだわった「論語と算盤」的な価値観を抱く経営者が存在してきたことも重視すべきだが、日本の資本主義がインナーサークルで自己完結的で、緊張感を生んでも他者に働きかけること(ルール形成)に消極的であるという限界を内包していることに気付かざるをえない。
 民主主義と資本主義の関係性については、世界史の脈絡の中で論究してきた(本連載240~248)が、基本的には資本主義と民主主義の「親和性」を確認してきたといえる。つまり、経済の基盤が市民の参画を支え、市民の主体的行動が資本主義の活力を促し、競争を通じた価値の実現をもたらすことが近代史の底流を形成してきたテーマである。「質の高い民主主義」と「人間的価値創造を促す市場経済」を探究することは、われわれの時代を創る車の両輪なのである。この点を忘れて、日本の再生はない。実は、「日本の埋没」は単に経済力の相対的低下ということではなく、民主主義を成熟させる努力を忘れ、国家主導のマネーゲームの肥大化を成長戦略と誤認し、健全な経済社会を見失っていることに本質的な原因があるのではないだろうか。
 二〇世紀システムを土壌とする日本の成功体験は、今、二〇世紀システムの動揺と構造変化という局面を迎え、新たな未来圏への創造的視界を求めている。その地平の彼方を見つめて、議論を深めていきたい。

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