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片山善博(161)日銀総裁人事をめぐる国会審議――地方議会はこれを見習うべき 【世界】2023-04

2023年08月04日(金)

暑い夏……,で,新聞記事の伝えるところでは,しかs,1978年7月もまた,今夏に匹敵するほどの平均気温だったとあった.
いろいろ覚えておいてもいい年だったのだけれど,そんなに暑い夏だったかな,と思う.
家にエアコンなどなかったな,それで,仕事場に出ている方がいいと思っていただろうか.
休みの日などは,喫茶店に居座って本を読んだりしていたな,とは思い出す.

そういえば地方自治体の統治体制は,どの国でも同じようになっているわけではないらしい.
議院内閣制みたいに,議員が,自治体の行政部門の各部の責任者になっているようなところも少なくないらしい.
いや,どんな形式がいいんだろう,というのではなく,
いろんなやり方があって,さて,自治体の規模とか,置かれている状況,政治的,経済的,あるいは地理的……などによって,どういう仕組みが,より民主的というか,市民の意思を吸い上げ,また市民のためになるんだろう,と考えること,と思うが,
そもそも現状がどうだったっけ?
テレビの国会中継,
そのものまねのような自治体の議会……というのは言いすぎだと思うけれど.
ときどき思うけれど,だれも傍聴になんか来ないのかもしれないけれど,
傍聴席をもっと増設し,もっと待遇をよくしたらどうなんだろう.
後楽園球場のグラウンドに議場を設えて,観客席から,わいわいガヤガヤやりながら,議員と大臣,官僚のやりとりを見,聞くというのは.

そういえばどこかで,だれかが議論していたか,議員というのは,仕事じゃなくて,商売じゃなくて,いっしゅ市民の義務みたいなものじゃないか,と.


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【世界】2023年04月

片山善博の「日本を診る」(161)
日銀総裁人事をめぐる国会審議――地方議会はこれを見習うべき

 わが国の地方自治の質を向上させるには、地方議会のありようを変えなければならない。長らく地方自治に携わってきての感想である。
 日本の地方自治制度は二元代表制を採用している。一方に住民から直接選ばれた議員で構成される議会があり、他方に同じく住民から直接選ばれた首長がいる。議会は立法機関として自治体の条例や予算などの重要事項を決定する。首長は議会が決めた条例や予算を執行する。それを議会が
点検し、チェックする。議会と首長は互いに独立した存在であり、緊張関係を保っていることが前提とされる。
 では地方自治の現状はどうかといえば、議会と首長はここで述べたような関係に立っていない。大半の議会では多数会派が首長に寄り添う。首長が提出する議案はすべて無傷で通すことが自分たちの責務だと勘違いしている議員も多い。二元代表制が前提としている運用方式とは大きく異なっているのである。どうしてこんなことになっているかといえば、地方議会が国会を見習い、まるで議院内閣制であるかのように議会を運営しているからである。
 先の多数会派に属する人たちは、日常的に自分たちのことを与党といい、多数会派に属さない会派のことを野党という。本来、二元代表制の下では首長対議会という構図はあっても、与党対野党の対立はないはずなのに、である。

■総裁人事をめぐる国会のやり取りは地方議会の範となる

 筆者はかねがね地方議会はいい加減に国会の真似をするのをやめてはどうかと、地方議会関係者に勧めてきた。一般的にはそうであるが、例外的にこの点だけは国会を見習うべきだと推奨していることもある。それは日本銀行の次期総裁及び副総裁の人事をめぐる国会のやり取りである。日銀総裁及び副総裁は内閣が任命するが、それには衆議院及び参議院の同意を必要とする(日本銀行法二三条一項)。この同意を求める議案を国会はちゃんと審議していて、それを地方議会も見習ってほしいのである。
 政府は黒田東彦現総裁の後任に植田和男氏を充てるなど、日銀の新しい総裁及び副総裁の人事について同意を求める議案を国会に提出した。これを受け、国会ではこの人事案をめぐって、すでに衆議院子算委員会で岸田首相に対して質疑が行われた。
 そこでは、日銀総裁の条件や、政府と日銀との基本的関係などを質したりしている。これは任命権を持つ首相に対して説明責任を果たすことを求めるもので、とても大切なプロセスである。首相に対する同様の質疑は、参議院予算委員会でも行われる。
 一方、この号が書店に並ぶ頃にはすでに終了していると思われるが、衆議院及び参議院の議会運営委員会では、候補者からそれぞれ所信を聴取し、それについて質疑を行うことが予定されている。これは、わが国の金融政策を主導する日銀を切り盛りする人たちの見識や人となりを国民に明らかにする上でとても貴重な機会となる。
 中には、与党が絶対多数を占めている国会の現状からして、こんな手続きを踏んだからといって結論が変わるわけはないので、時間のムダではないかという人もいる。たしかに、自民党の中で人選に異論が出て大騒ぎになるようなことでもない限り、結論が変わることはあるまい。
 ただ、たとえそうだとしても、首相や候補者本人に公の場で問い質す機会を持つことはとても重要である。その理由の一つは、こうした公の場で問い質されることがあらかじめわかっていると、任命権者が身びいきや思いつきで人選を行うことを抑止する効果が期待されるからである。
 また、例えばこのたびの日銀の例で言えば、かつて「日本銀行は政府の子会社」などと中央銀行の独立性をないがしろにする発言をした首相がいたが、岸田首相も同じような考えを持っていないことを確認しておく必要がある。総裁人事を国会で質すのはその絶好の機会となる。
 さらに、肝心の植田氏をはじめとする各候補者の見識や人となりだけでなく誠実度や責任感、説明能力や冷静沈着度などを検証する機会になることである。これらの資質は、今や崖っぷちに立たされている日銀の困難な舵取りをする上で必須だと思うが、それを深く見定める機会となる。

■地方議会は教育委員会人事を丁寧に審議せよ

 国会と同じように地方議会でも人事についての同意案件が議案として提出される。それは例えば教育委員会の教育長及び教育委員だったり、人事委員会の委員だったりする。これらの議案を地方議会がどう処理しているか。実は、ほとんどの議会は実質的に何も審議しないで右から左へと可決しているのである。
 現在小中学校の教員の多忙化が問題となっている。学校現場がブラック化しているとまで言われるほどだ。それを反映して優秀な教員志願者が減っていて、とうとう合格者が採用見込み数を下回る県も出てきているという。
 こうした深刻な事態を解消する役割と責任を持つのはもっぱら教育委員会であり、それは教育長と四人ないし五人の教育委員によって構成される合議機関である。教育長や教育委員にどんな人が就くかはとても重要であり、その人選はよく吟味されなければならない。その吟味の役割と責任を負っているのが選任同意権を持つ地方議会である。
 その地方議会は、首長が提案した教育長及び教育委員の選任同意議案について、委員会への審議付託を省略し、直ちに採決に付し可決するのが通例である。他の議案は必ず常任委員会に付託するのに、選任同意議案だけ手抜きしているのである。これでは教育長と教育委員の「品質管理」
は何もなされていないに等しい。こんなことだから、教育委員会が責任を持つべき学校現場の諸課題が一向に解決しないのではないか。これが長年地方自治に携わってきた筆者の見立てである。
 そこで、かねて教育長と教育委員だけでもいいから選任同意案件について丁寧に審議してほしいと地方議会関係者に説いてきた。それを受け止めてもらえたからかどうかわからないが、他の範となる取り組みをしている議会も散見されるようになった。京都府京丹波町議会はその一例であ
る。ここでは教育長及び教育委員の選任同意に当たり、任命権者である町長との間で質疑が行われる。似補者を選んだ理由、教育長にはどんなことを期待しているかなどについて町長に質し、それに対して町長が説明責任を果たす機会になっている。
 今のところ質疑の相手は任命権者だけであり、候補者本人にまで及んでいないところはまだ改善の余地がある。ただ、他の地方議会の実におざなりなやり方と比較すると特筆に値する取り組みだと評価している。今後できれば国会と同じように、候補者本人を町議会に招致し、その所信を
聴いたうえで質疑を行うなど、いっそうの改革を期待したい。人事同意案件について何も審議していない地方議会には、まずは京丹波町議会がやっていることから取り掛かることをお勧めしたい。
 地方議会は漫然と国会のまねごとをするのはやめるべきである。ただ、そのよいところは大いに見習って、議会改革に取り入れてほしい。

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ちょっといまさら……だけれど,まぁきちんと議論すべきではあるか――〔大機小機〕年金支給年齢の引き上げを



高齢化社会,
65歳以上人口が、全人口の7%を超えた社会,
ということで,
列島の国は,1970年の国勢調査で,高齢化社会へ…….
(1970年国調で7.1%)
さらに,65歳以上人口が14%を超えると,高齢社会というのだそうだ.
そして,列島の国は,1994年に高齢社会へ.
(1995年国調で14.6%)
この65歳以上人口が,21%を超えると,超高齢社会というらしい.
列島の国は,2005年に超高齢社会になったとされる.
(2005年国調では20.2%,2010年国調で23.0%)

それで,では,これはそのときにはじめて認識されたことかといえば,
そんなことはない.
人口学が予測したとおりに,人口構成は変化してきたといえそうだ.
あるいは,ひょっとするとどちらかというと「悲観的な」方向にずれながら,
趨勢的に予測どおり,というところだろうか.

書名など忘れてしまったけれど,1970年前後の計量モデルの推定で,
遠くない将来における高齢社会,そこにおける年金財政問題など,だいたい現実を先取りするようなレポートが出ていたはずだ.

多産多死から,多産少死へ,そして少産少死へ……
ほとんどの国,地域が,同じような道をたどってきているのだろう.
ただ,先進国が,かなり長い時間をかけてその道を歩んできたのに対して,
後発の国ほど,急速な変化を描いているようだ.
列島の国もその典型なのだろうが,これから,たとえば中国など,たいへんな社会の変動に見舞われる可能性があるのだろう.
さらに,インドが控えているようだ.

アメリカなどが,相応の人口構成を保っているのは,移民の影響だろうと言われる.
たぶんそのとおりなのだろう.
白人に限れば,ヨーロッパ諸国とあまり変わりがないのだろう.

ほぼほぼ確実に予測されていた社会が到来しただけではないか……,
さいきんの高齢化にかかる政策課題の議論を聞くたびに,
この国は,いったい何を見,何をしてきたのだろうと思う.


それから,誰が言っていたか,
江戸時代に戻ろう,とか.
人口3000万人ぐらいだろうか.
列島が養いうる人口の規模は,こんなところじゃないのか,とか.
現在の食糧自給状況などをかんがえると,
本気で,もっと子どもを,なんて言っているのかと思ったりする.
いつごろまでだったろうか,産児制限の運動が盛んだった.
無理矢理堕胎を強いたりした国ではなかったか.

振り返ってみる.
仕事の関係もあって,1990年頃,特別養護老人ホームの整備水準をどうするか、などと議論したことがあった.
素人なりにデータを集めてみて,援護の必要な高齢者がどのくらいになるのだろうか,とか,
もちろん援護の程度がどうなのか,支援のシステムの全体像が描かれないといけないのだけれど,
メディアをつうじて流される情報,あるいは,人びとの不安を煽るような保険や医療関係のコマーシャルなどの根拠をたどっていくと,ちょっとどうなんだろう、と思ったけれど,
同時に,そもそも高齢者にとって必要な支援とは,どんなもの,ことなのだろうか,
そこの議論が不足しているのではないか,とも.

今回のCOVID-19への対応で,とくに北欧の国などの、列島と比べるとドライともいえそうな対応(公衆衛生,医療)の背景について,市民の健康観,死生観などの違いを指摘する議論があったと記憶する.
たんなる効率の問題としてではなく,どのように最後の時を迎えるのか,そこにいたる高齢者の生活のあり方も含めて,相当の議論があったのではないか……と.
1970~80年代にスウェーデンなどで地方自治改革が検討され,実施されたようだけれど,
医療や福祉についても,おおきな政策的な変化があったのではなかったか.
もちろん彼の国々は,バラ色だなんて思わない.老人ホームは,あちらもこちらも,たいした差はないのだろう.
それでも,来るべき大きな社会の変化への対応を,すでに変化しつつある時代に、相応の政策対応に向けた議論をしてきた、ということは,列島の国と比べると,やっぱりちゃんとおさえておいてよいことのように見える.

それから,フランスで年金改革への反対が,高齢者だけでなく,若い人たちも巻き込んで議論になっている,というか,年寄りも若いのも,いっしょに政府の動きに反対している、と報じられている.
この列島の国の,年寄りと若い人との「分断」を煽るような議論と比べて.なんと健全な!と思ってしまう.
年寄りのために若い人が犠牲になる……とでもいうような目先の議論は,その若い人が年をとったときに,一層極端なかたちで繰り返されかねない,
いや,現実はそうなるであろう、と思われる.
とすれば,若い人と年寄りの利害は,長期についてみれば,対立ではなく,調停されるべき課題なのだろう.

なんだか,でも,すべてが終わりに向かっているのではないか,とちょっと暗くなることがある.
それでいいわけではないけれど.
一夜漬けの受験勉強は,そのうち取り返しがつく、なんとかなる,でよかったけれど,
高齢社会をめぐる諸課題を,いまごろ議論している姿は,ちょっと一夜漬けにもならないな,と思う.
教育をめぐる議論も同様.
防衛とか,さらに.

なんだか何十年も前……と,まるで夢を見ているようにも思う.


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〔大機小機〕年金支給年齢の引き上げを
2023/3/9付日本経済新聞 朝刊

「異次元の少子化対策」が話題になっているが、人口減よりも深刻なのが高齢化だ。2050年ごろに人口が1億人を下回るとみられるが、1960年代の水準に戻るだけだ。しかし、当時の高齢者比率は6%程度で、50年の約38%との差は著しく大きい。

高齢者の増加で自動的に増えるのが年金だ。政府は20年ほど前の100年安心年金の看板に固執している。だが働き手が減るなか、膨張する年金受給者をどう支えるのか。

04年に改正された年金制度では、年金保険料に上限を定めた。受給者の寿命が延びることでの給付増加分は、毎年の給付額の削減で賄うという厳しい方式を選択した。

しかし年金額が持続的に減っては、生活できない高齢者が続出する。このため物価上昇にスライドする範囲内でしか年金給付を削減しないこそくな仕組みを導入したが、デフレ時には機能しない。

保険料は上げられず、給付も十分には削減できない。後は年金積立金の運用益に期待するしかない。過去の年金試算では、将来の年金積立金がなぜか急速に積み上がり、100年間維持できるような、都合のよい運用利回りと賃金の見通しが描かれている。

無理な将来試算をするより、長生きする分だけ年金を受け取れる時期を先送りするのが合理的だ。生涯ベースの年金受給額を増やさなければ、年金制度は安泰になる。

高齢で働けなくなった後の強制的な年金削減ではなく、あらかじめ長く働き続けることを基本とする。低めの年金額でもよければ早めに引退という選択肢もある。65歳以上への支給開始年齢の引き上げが、なぜ日本では検討もされないのか。他の先進国はほぼ67歳が支給開始年齢となる。

厚生労働省は、国民の反発が予想される支給開始年齢引き上げを「政治的に可能ではない」とタブー視する。しかし、巨大な年金保険の運営に責任を持つ官僚は、国民に嫌われる事実でも正しく示す英国型の「行政職人」に徹し、後は政治に委ねるべきだ。

次期24年の財政検証に備えた社会保障審議会での議論が始まった。持続可能ではない年金給付の削減方式にこだわり、積立金が自動的に膨らむような大本営発表を繰り返すべきではない。成算なき戦いに突入した過去の歴史に学ばなければ、高齢化との戦いにも敗戦を喫する。

(吾妻橋)
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