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「隠す権利」から「広める制度」へ 変化が求められる著作権のあり方

2023年1月1日(日)

1月1日が,あまり特別じゃない日になって,もうずいぶんたった……と思う.
ふつうの一日,ではあるけれど,ひさしぶりに老母を訪ねる.

著作権か…….

昨年,図書館についてのメディアの記事があったな,と思い出す.
ひさしぶりに図書館の自由とか.
図書館側の自由ではなく,図書館利用者の自由,なんだな,と思い出す.でもなかなか…….

図書館のことを考えていたことが,あった.ずいぶん前のこと.
青空文庫,Wikipedia…….

あるいは,独創的な,なんてことばを考えてみた.
鈍才がなにを,とも思うけれど,知識の総体と,そこに加えられるべき天才秀才たちの知的な貢献とを考えてみる.
そういえば,知識は自由を求めている……なんてことはなかったか.
ちょっと下世話に,商取引ではない,商取引からの自由も.


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https://ascii.jp/elem/000/000/092/92334/

「隠す権利」から「広める制度」へ 変化が求められる著作権のあり方
2007年12月12日 17時00分更新
文● 編集部


 インターネット上で、映画や音楽といったコンテンツをどう流通させていくか。これはコンテンツホルダーに突きつけられた大きな課題である。

 パッケージメディアの販売が頭打ちになる中、ネットに活路を見出したい。しかし、その一方で、違法に流通したコンテンツを思うようにコントロールできないいらだちもある。ネット時代に即した新しい方法が必要であると自覚しながらも、ユーザーの利便性と収益を両立できるような解答にいまだ行き着いていない。コンテンツ業界が抱えるジレンマは深い。


「著作権の壁」が産業の発展を阻害している

 先週6日に早稲田大学で開催された「知的財産セミナー」(主催:早稲田大学知的財産本部)で講演した、角川グループの会長・角川歴彦氏は「厳しすぎる日本の著作権法が、萎縮効果を生んでいる」と指摘。YouTubeに代表される革新的なWeb 2.0企業を日本で誕生させ、コンテンツ産業を育んでいくためには、制度的なイノベーションが必要であるとコメントした。

[写真]角川歴彦氏。写真は第18回東京国際映画祭に登壇したときのもの

 講演の内容は、同氏が「文部科学時報」(2007年9月号)に寄稿した内容に即したもの。ここでは、(1)米国で成功しているWeb 2.0企業が誰もかなわないような技術力を持っている、(2)インターネットは海賊版が氾濫する不正コピーの巣窟である──という2つの誤認が、日本における革新を阻んでいると指摘されている。

 同氏の見解では、YouTubeやiTunes Storeの成功は画期的な技術に支えられたものではなく、むしろビジネスモデルの新規性と、米国で1998年に制定された「デジタルミレニアム著作権法」(DMCA)に代表される緩やかな著作権の仕組みに支えられたものである、という。厳しすぎる国内の著作権法によって、日本の企業は多少でも著作権侵害の可能性のある新規事業にためらいを見せており、それがコンテンツ産業の発展に悪影響をもたらしているというのである。

 こういった現状を踏まえて角川氏は、旧来の著作権に対する考え方を見直すべき時期が来ていると主張する。ライトなユーザーを取り込める新しい利用方法を規定することで、ユーザーにとってもコンテンツ提供者にとってもメリットのある著作権のあり方を模索するべきであるということだ。

 同氏が提案する「閲覧権」は、ユーザーにはコンテンツを自由に楽しむことを許す一方で、非常に安価な閲覧料を徴収するなどし、著作者にも一定のお金が入るような仕組みを考えていくものだという。信頼性の高いDRM技術の導入によって、ユーザーの利用状況を集中管理し、「広く、薄く、あまねく」対価を徴収できれば、平等で、著作者、事業者、国民(ユーザー)の権利のバランスが取れたシステムが可能になるのではないかというのが主旨である。


DRMに対する過度な期待は禁物?

 ただし、これに対しては批判もある。法政大学 社会学部 准教授の白田秀彰氏は、まず「閲覧権」という言葉の使い方自体に違和感があると話す。

 著作権法の規定では「著作者は~~権を専有する」といった表現がとられることが一般的だ。ここで、「著作者は閲覧権を専有する」と規定するならば、ある作品が合法に目の前に提示されたとしても、著作権者の許諾なく見てはならないことになる。これは、精神の自由や身体の自由を強く制約することにつながる。

 また、私的領域での自由を制約しないよう、閲覧権を「公に閲覧する権利」であるとするなら、現在すでに規定されている上演権、上映権、展示権等を、受け手の側の行為を制約する形で重ねて規定することになり、既存の権利と整合性が取れないという。

違法コンテンツの温床という認識もあるYouTubeだが、最近では著作権保護技術を強化し、コンテンツ企業の合法的な参加も呼びかけている

 白田氏は「DRM技術に対する過度な期待」に対しても疑問を呈する。完全なDRMというのは技術的に非常に難しいものであり、過去に実現された例はない。

 仮にIPアドレスを利用してどのマシンでコンテンツが再生されたかを把握できたとしても、実際に観た人間が誰なのかを正確に把握するのは難しい。さらに、著作権法には「制限規定」(著作権法第30条~同47条の4)があり、私的利用や学術利用等には著作権が及ばない。どのような状況で作品が使用されたかまで仔細に把握し自動で判断するような、人工知能的DRM技術は不可能だろうという。

 また、個人の使用状況を細かにトレースするということは、精神的自由権(プライバシー)の侵害という重要な問題もはらんでいると白田氏は指摘する。


課徴金を利用した新しいモデルを

 これに対して白田氏が「社会的コストが小さな一つの代替案」として示すのが課徴金制度を用いて著作者に利益を分配するシステムだ。

 白田氏は、ハーバード大学のウィリアム・フィッシャー教授の説に言及しながら、「ある国の経済規模全体に占めるコンテンツ産業の規模は、おおよそ決まっており推計可能だ。その推計をもとに、税あるいは課徴金として国民が毎年一定額を支出することにより、国民がコンテンツ産業全体を買い上げることができる」と説明する。

 課徴金制度では、ユーザーが納める額は一定で、徴収の段階で誰が何をどのように閲覧したかは問題にならない。これによりユーザーのプライバシーを維持し、「お金を払っていない人にはコンテンツにアクセスさせない」という、本質的には困難であり、取引費用の大きな所有権的アプローチをとる現在の著作権制度とは別のあり方が出てくる、と白田氏は話す。

「自分の納めた課徴金のうち、『○○パーセントを××というクリエイターに分配する』と指定できる仕組みが確立できれば、クリエイターの側には収入を増やすために、自分の作品を積極的に広める動機が出てくる。本質的にクリエイターは、作品がユーザーの手許に届くことを望んでいるはず。また、情報技術関連のエンジニアは、情報の送り手と受け手の自由をひろめるよう努力してきたはず。こうした積極的な方向への理想や努力を制約する制度は不幸だ」(白田氏)

 DRMでは新しいメディアや技術が現れるたびに、それに対応したDRMを開発する費用が必要になる。また、DRM技術が破られた場合には、ハードウェアやソフトウェアを一斉に改修する費用が必要になる。それらの費用は膨大なものになるだろう。しかし、課徴金制度であればそういった問題は起こりえない。

「コピーワンス、ダビング10の例を見ても分かるように、DRMによる著作権の完全管理には、非常に大きな社会的コストが必要だ。著作物を所有物としてとらえる考え方には無駄が多いと思う」(白田氏)

 課徴金制度の最大の問題点は、既存の著作権制度とはまったく異なる仕組みである点だという。それ以外にも、さまざまな問題が出てくることが考えられるが、自由にユーザーに観てもらって、好きな作品だと分かってもらうとクリエイターの収入が増える。隠す方向ではなく見せる方向に皆が努力するという、積極的な社会状況が魅力だという。



 インターネット上で、コンテンツをどのように流通させ、ビジネスとして確立していくかに関しては、さまざまな議論があっていいはずだ。いずれにしても、時代に即した「著作権のあり方」を考え直す、節目が訪れているのは確かであり、見る側も提供する側も安心してコンテンツに接することができる、そんな仕組みづくりが必要だ。

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