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森本あんり 政治的神話と社会的呪術 ――なぜ人はファクトよりフェイクに惹きつけられるのか

2023年06月30日(金)

森本あんりさんのいい読者というわけではないけれど,

不寛容論
新潮選書

2020年の暮れに本屋の棚にならんでいたのを入手して,読んでいた.
年が改まって,中学時代の先生からの年賀状に,新聞に投稿した投書のコピーがあった.
フランスでのイスラムの話だった.

宗教的な寛容/不寛容……,
答えは宙ぶらりんのまま.

それと,アメリカという国.
また,ヨーロッパの東部での戦争,
以前,ポーランドで仕事をしていた友人が,小さな声で,
スラブが勝手にやっているんだとささやいているんだよ,西の方では,
と.
ときおりメディの片隅に,正教のあり方に言及する記事を見ることもある.

森本さんは,コラムニストの小田嶋隆さんの友人だったのだそうだ.
活字でしか知らないけれど,ちょっと和むような,そんな印象があった.
それで,回答が与えられているわけではないけれど,
たしかに,そういう課題でもあるんだろうと思う.

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【世界】2020年2月


政治的神話と社会的呪術
なぜ人はファクトよりフェイクに惹きつけられるのか

森本あんり

もりもと・あんり 国際基督教大学教授(哲学・宗教学)・学務副学長。
     一九五六年生まれ。著書に『反知性主義』(新潮社、二〇一五年)、
     『異端の時代』(岩波新書、二〇一八年)、『キリスト教でたどる
     アメリ力史』(角川ソフィア文庫、二〇一九年)ほか。


シンボルの世界に生きる人間

「人間を不安にし、驚かすものは、「物」ではなくて、「物」についての人間の意見と想像である」――これは、エルンスト・カッシーラーが最晩年の著書『人間』(原著一九四四年)で引用したエピクテトスの言葉である。これを現代の文脈で言い換えると、「人間を不安にし、驚かすものは、「ファクト」ではなく、「ファクト」についての人間の意見と想像である」となろう。
 なぜ現実、政治がフィクション化するのか。なぜ冷静で客観的なファクトチェックにもかかわらず、それをあざ笑うかのようにフェイクニュースが流され続け、大統領や首相といった立場にある人びとからも良心的な報道機関を蔑視する発言が繰り返されるのか。そしてなぜ、人びとは事実よりも妄想や陰謀を進んで受け容れるのか。
 こうした問いに少し遠回しの答えを求めようとして、人間のシンボル機能を論じたカッシーラーを読んでいたら、いつのまにかローマ時代のエピクテトスにまで連れて行かれてしまった。エピクテトスが語ったのは、具体的には死に対する恐れである。人が死を恐れるのは、死そのものというより、死についての想像やその可能性の予感が怖いからである。もしこのような線の引き方が正しいなら、事実よりその意味や解釈を求めるのは、少なくともここ二〇〇〇年ほどは変わらない人間のごく基本的な性格の一部だと言えるかもしれない。そこまで遡らずとも、前世紀の巨大な政治的虚構を眼前に据えて論考を重ねたカッシーラーを読むことは、今世紀に築き上げられつつあるポスト真実の仮構世界を読み解く力を与えてくれるように思われる。
 カッシーラーは、人間を「象徴を操作する動物」.(animal symbolicum)と定義し、言語・神話・芸術・宗教・科学といった文化現象をいずれもこの観点からひとつづきに解釈した。すべての生物には、感受と反応という二つの系統が備わっており、その相互的な影響が機能的な円環を形成している。だが人間がもつこの機能的円環には、感受と反応の間に象徴系という第三の連結が存在する。この象徴系の介在は、反応の遅延を招くため、生物学的には「衰退」であり「欠陥」であり「堕落」なのだが、まさにそこに人間に固有の経験と思想の展開する空間が生まれる。人間は、「ただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる」のである。
 われわれはこのシンボルの介在を、時と好みによって自由にバイパスすることはできない。無媒介のファクトに接することは、カントに倣えばそもそものはじめから不可能なのである。われわれは、世界を言語的形式、芸術的形象、神話的象徴、宗教的儀式、あるいは科学的抽象化において認識するほかない。つまり人間は、「固い事実の世界に生活しているのではなく……希望と恐怖に、幻想と幻滅に、空想と夢に生きている」。これが、冒頭のエピクテトスの引用へと続くのである。動物なら、危険が差し迫った時には反射的な行動で身を護ることができるし、フェイクニュースに踊らされることもないだろう。だが人間は、その一瞬にさまざまな可能性を思い描いて立ち竦む。いわばそこで全宇宙を象徴的に解釈し、自分自身で創出した世界に自分を嵌め込んでしまうのである。

真理の最終審級としての個人

同じことを、ハンナ・アーレントからの引用で言い直すこともできる。戦後すぐに書かれた彼女の全体主義論には、大衆は「階級」や「国民」という総体的な利害には心を動かされない、と書かれている。これは昨今の選挙でも立証ずみである。だとえば、高所得層への減税と福祉予算の削減を唱える政治家が、なぜか低所得者の支持を集める。あるいは、将来世代にツケを回すような政策を掲げる政治家が、なぜか若者の支持を受ける。こうした投票行動の不思議は専門家たちを悩ませるが、実のところ個々の有権者にとっては、階級や国家という政治体系上の括りは大きすぎ、自分の利害と直結させて考えることが難しい。だからいくらそういう集団的な利害に訴えても、投票ブースに入る個々人の心には響かない、ということである。アーレントは、「事実というものは、もはや大衆への説得力を失ってしまった」とも書いている。われわれが今になって「ポスト真実」だ「フェイクニュース」だと騒いでいることは、すでに第二次大戦前から始まっていた大衆化の帰結だ、というわけである。
 では、事実でなければ、人びとは何を求めているのか。アーレントによれば、それは「一貫した世界観」である。身の回りに起きる個々のばらばらな出来事を、自分に納得のゆくしかたで説明してくれる世界理解の方法である。かつてそれは宗教であった。たとえ自分が苦難に遭っても、「この不条理や苦しみは、神や仏のご計画の中で何かしら意味があるのだろう」と考えることで納得することができた。しかし、既成宗教が弱体化した今日、それに変わる説明原理を提供してくれるのは、陰謀論である。一見無関係と思われるような遠くの出来事のあれこれは、実はみな繋がっているのだ、その背後にはこういう原因があって、それがすべての現象を動かしているのだ、という説明原理である。自分が失業して苦しんでいることと、中国やメキシコで起こっていることが、実は深いところで繋がっている、そしてそれは誰かの陰謀なのだ、という一貫した説明原理である。それが事実かどうか――それはさして重要ではない。人は、正しいと思うから納得するのではなく、納得するから正しいと思うのである。精神史の大枠からすると、こうした内面的で主観的な確信のもち方は、近代リベラリズムが個人の至高性を尊重してきたことの当然の結果とも言える。宗教学的には、これは「信憑性構造」の問題、つまり社会がおのずと当然のように前提している権威や正統性の所在、という問題である。ここ一〇〇年ほどの間に、人びとが信頼を寄せ判断の規準とするものは、少しずつ組織や集団から個人へと転移してきた。その端緒は、アメリカではR・W・エマソンやW・ジェイムズらの思想に見てとれる(拙著『異端の時代』参照)。彼らの言う「宗教」とは、個人が内心で感じる原初的な情熱のことである。教会や寺院などへと組織化された既成宗教は、すべてその頽落(たいらく)形態なのであって、そもそも信用するに値しないものとされるのだ。
 このような宗教観の変容は、今日起こっている真理観の変容を先取りしている。かつて人びとは、新聞を読んだり専門書を調べたりして、何が事実であるかを判断していた。信頼できる組織の裏付けや論理的な整合性といった仲立ちを得ることが、真偽の判断を支える根拠だったのである。しかし今日、真理の最終審級は個人の内面であり、そこに散る感情の火花である。他人が何と言おうと、権威筋の偉い人が何と言おうと、「自分がそれをほんものと感じられるかどうか」「それが自分の心をふるわせて感動させてくれるかどうか」がものごとの真偽を決するのである。こうした仲介者の不要な直接体験に根ざす宗教性を、「神秘主義」と呼ぶ。それは、祭儀や制度の客観性に満足しない感情の内面性を尊重する宗教性類型のことで、その結果生まれたのが「ラディカルな無組織の個人主義」(E・トレルチ)である。かつてそれは、宗教的な感受性の豊かな少数の天才にのみ見られたのだが、現代社会ではこれが「もっともありふれた宗教形態」(R・N・ベラー)となった。ファクトよりもフェイクを受け容れる現代人の傾向は、こうした信憑性構造の時代的な変容に相即している。

機能しないファクトチェック

 では、そういう世界観や真理観に生きる人に、ファクトチェックを提示すると、どのような反応が返ってくるだろうか。
 三年ほど前、日本経済新聞に「偽ニュースとどう戦うか」を主題にした三者インタビューが掲載された(二〇一七年六月一七日)。ちょうどロシア発のフェイクニュースがアメリカ大統領選挙に影響を与えたことが報じられた頃で、一人目はキエフ大学のジャーナリズム部長であった。彼は、偽ニュースを告発する組織を創設して活動中で、メディアの監視を続けることの重要性を説いた。二人目はルモンド紙のニュース検証班リーダーで、こちらはフェイクニュースが拡散する前にその信用度を検証することに努めている。ウェブごとの信頼度を表示するソフトも配布しているが、偽ニュースの伝播速度は速く、信頼できるメディア機関は逆に検証を重ねた上で動くので、対応が後手に回ってしまうという。三人目はわたしで、フェイクニュースが関東大震災やルワンダ内戦のような非常時の流言飛語として古今東西に存在すること、現代ではリベラリズムの相対主義やポストモダンのパースペクティヴィズム、さらにアメリカでは機能主義的な真理観をもつプラグマティズムの伝統が背景にあることなどを説明した。
 しかし、この記事に「真実を丁寧に提示せよ」というタイトルがつけられたのを見て、ようやく自分の失敗を悟った。問題の核心は、いくら丁寧に真実を提示しても、それが既存メディアのニュースである限り、けっして額面通りには受け取られない、という点にあったからである。
 偽ニュース問題の底には、「自分たちは権力者に騙されている」という基本感情がある。事実、大手メディアで発言しているのは、米国でも日本でも、体制側でも反体制側でも、一握りの知的エリートである。アメリカに深く根付いている「反知性主義」の伝統によれば、そういう権威ある人の言うことは、まずは疑ってかかるのが正しい態度なのである。逆に、ツイッターなどのソーシャルメディアは、学歴や肩書きにかかわりなく誰でも情報を発信し拡散できるという点で、実に平等で民主的である。新しいツールの登場により、これまでは出版社や編集者という制度のフィルターを通して曲がりなりにも選別され検証されてきた情報が、ファクトとフェイクの区別もなく一挙に溢れかえることになった。
 こうした土壌に増殖したフェイクニュースは、たとえファクトチェックで誤りを指摘されても、簡単には消滅しない。そこで提示されたのは「うわべだけの事実」で、自分はより深いところにある「真のストーリー」を知っている、と信じられているからである。そして、いったんそう信じた人は、もはやどんな反証も受け付けない。結局あれこれの「事実」はどうでもよいのであって、それらの全体を通してある種の「納得感」が得られるかどうか、つまりアーレントの言う「一貫した世界観」があるかどうか、が問題なのである。新聞やテレビの解説者の説明は(残念だがおそらく本誌やこの論攷(ろんこう)も)、そういう納得感を与えない。
 ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』(原著二〇一六年)には、CNNではなくFOXニュースこそがファクトだ、と考えるルイジアナのティーパーティ支持者が紹介されている。彼女は、「CNNは客観性がまったくない」と断言する。ニュースを見たくてチャンネルを合わせるのに、意見しか聞けないからである。CNNは、たとえばアフリカの病気の子どもを映し出して、視聴者の同情と責任に訴えかける。まるで「この子をかわいそうだと思わないなら、あんたは人でなしだ」と言われているようで腹が立つ、というのである。誰を気の毒に思うべきとか、サラダを先に食べうとか、電球はLEDを買えとか、そんなことを指図されるのはまっぴらご免だ。彼らは、リベラルな知識人から「無知で時代遅れで無教養な貧しい白人」という侮辱的な視線を浴び続けることにうんざりしているのである。その嫌悪感は、トランプの一人や二人がいなくなっても、そう簡単に消えるものではないだろう。だから人びとは、単にあれこれの事実や良識の示すところではなく、自分が心で真実と感じられる物語「ディープストーリー」を生きるのである。

世界は五分前に始まった?

 ついでにもう一つ面白い話を付け加えておく。アメリカでキリスト教原理主義の影響力が強いことは、よく知られている通りである。聖書の創造説を盾に進化論を否定する人は、国民の四割にも及ぶ。「世界が六〇〇〇年前に創造された」などという主張を聞いて、あきれる人は多いだろう。
 だが、六〇〇〇年前はおろか、「世界は五分前に創造された」という主張ですら、論理的に反証することが困難なのはご存じだろうか。「そんなはずはない、現に自分はもっと前の記憶をもっているし、役所に行けば記録も残っている」などという素朴な反論は、「その記憶や記録も五分前に造られたのだ」という一言で片付けられてしまう。地層も化石も放射年代測定も、すべてがその通りに五分前に創造されたのだ、と論じられれば、それ以上はどんな反論も通じずにお手上げとなる。聖書の創造説を信ずる原理主義者も、同じである。科学的な反証として六〇〇〇年前よりも古い化石が示されれば、それは単に、神が六〇〇〇年前にそのような化石をそこに置いた、ということを示すにすぎない。
 「五分前創造説」は、一九二一年に数学者バートランド・ラッセルが提示した仮説だが、不可知論者であったラッセルのことだから、もちろん聖書的な創造説を擁護するのが目的だったわけではない。彼が示したかったのは、われわれが過去の事実として知っていると思い込んでいることが、実は過去そのものとは論理的につながっていない、ということである。過去の事実は、記憶にとって何ら論理的な必然性をもたない。かりに過去が何も存在しなかったとしても、現在における想起はまったく整合的に分析され得るのである。
 ラッセルはまた、記憶が構成されるには、単なるイメージだけでは不十分で、そこに信念が含まれねばならない、とも言っている。コロンブスが一四九二年に大西洋を横断した、という「事実」は、実はわたしの「信念」にすぎない。それはわたしが見たこともなく、想起することもない出来事だからである。そう考えてゆくと、ファクトとフェイクとの境界線は、さほど簡単に見分けのつくものでないことがわかってくる。その境界線上に、妄想と虚偽と陰謀論とが花を咲かせるのである。
 われわれの認知構造がひとたび大きく変化すると、個々のファクトはすべてそのフレームに合致するように解釈される。もし人びとの思い込みを正そうとするなら、個々のファクトでなくそのフレーム全体に関わるような価値観や世界観のシフトが起きなければならない。それは、宗教的な「回心」にも似た経験になるだろう。人間の文化的営為をすべて神話や宗教と地続きの象徴作用と見なしたカッシーラーの批判的考察も、ここからそう遠くない。

シンボルに真偽はあるか

 カッシーラーのシンボル論に戻ろう。なぜ今、とりわけリベラルな民主主義を掲げる国々で、普遍的なはずの人間本性がフェイクへと傾斜して発現しているのか。人間にシンボル機能が本来的に備わっているとしても、その働きがすべてフェイクを結果するわけではないだろう。というより、人間が不可避的に関わらざるを得ないシンボルには、正しいものとそうでないものがあるのだろうか。もしシンボル機能が真偽の判断になじむものであるなら、誤ったシンボルはどのようにして生まれ、伝播し、共有されてゆくのだろうか。
 カッシーラーが最晩年にナチズムを正面に見据えた『国家の神話』(原著一九四六年)に取り組んだのも、そういう問いがあってのことだろう。その論述はいつもながら浩瀚(こうかん)だが、古代ギリシアから中世哲学と啓蒙主義を経てロマン主義に至る概観は、その最終的帰結として「二十世紀の神話」を分析するための準備作業であったように見える。神話を人間の本来的なシンボル機能の一部とみた彼にとり、現代に蘇った政治的神話がなぜあれほどまでに破壊的な特殊性を帯びたのかを理解することは、避けることのできない課題の一つであった。
 彼の分析によれば、現代のこの神話は、人間の本来的な想像力の発露ではなく、特定の目的に沿って政治的に作り出された人工物である。無意識の深みから湧出する自然の奔流は、巧妙に築き上げられた堰堤(えんてい)と運河に導かれ、具体的な到達点へと至るように統制され利用された。いわばそれは覚醒夢のごとく、「完全に合理化された非合理」となった。ナチズムが成功した秘訣は、言語から儀式に至るまで、明瞭な技術と目的意識をもってこの神話を作り上げていったことにある。おそらくそれは、日本にもあてはまることだろう。いにしえの和人たちが生活の中で自然と紡ぎ出し語り継いできた神話や宗教は、ひとたび国家の軍事目的のために計画動員されるようになると、グロテスクな政治的工作物と化した。
 では、その制作者たちは、自分たちが作り出した物語が真理であると信じていたのだろうか。カッシーラーはこのような問いをばっさりと切り捨てる。「客観的真理」などというものは「ただの幻想」にすぎない。政治的神話が真理であるかどうかを問うのは、「機関銃」や「戦闘機」が真理であるかどうかを問うのと同様に無意味である。なぜなら、これらはみな「兵器」だからである。政治的神話が真理かどうかは、その効力によって証明される。

現代の社会的呪術

 そして、その効力を最大限に高める技術として使われたのが、言語や儀礼である。ナチ政権は、「最終的解決」「ジークハイル」など多くの特殊な新語を作り、これを発話行為として呪文のように用いた。また、生活のあらゆる局面に挟み込まれるべき儀礼を作り、友人との挨拶すらそれなしにはできないようにした。これらはみな呪術的な作用をもつ。現代人は、自然を支配する力としての呪術は信じない。だが、社会的な集団化を支配する「社会的呪術」については、いまだその効力を深く信じている、というのがカッシーラーの診断なのである。
 われわれは今日、この社会的呪術の効能を現在進行形で目撃している。政治は本来、特定問題を交渉し解決するための知恵であり、その意見集約と実務遂行を担う団体が「党派」であった。しかし、いま人びとが属しているのは「党派」ではなく「部族」である。彼らは、生のあらゆる局面にわたって敵と味方を峻別する。車や食べ物からテレビ番組にいたるまで、同じ価値観を共有する。彼らの祭典では、みな「アメリカを再び偉大に」と書かれた同じ赤い帽子をかぶり、彼らの偉大な祭司の登場を歓呼して迎え、その口から発せられる単純な呪文の繰り返しに酔う。その式場に異分子が紛れ込もうものなら、ほとんど宗教的な禁忌を犯したかのように過激な反応が起こり、「つまみ出せ」という興奮した暴力的な声が渦巻く。神話の中に現れる人物は、しばしば雷鳴や大水などの自然現象を人格化したものと考えられてきたが、研究者たちによれば、それはむしろ社会的な力の人格化である。トランプ現象は、「人格化された集団的願望」なのである。
 神話の技術でもう一つ重要なのは、「予言」である。大衆は、「単なる物理力」よりも「想像力」によって動かされる。その大衆の想像力を強く刺激するのが「予言」だからである。歴史的運命に関する予言は、当代に不可欠の新たな統治技術となった。カッシーラーは、シュペングラーの『西洋の没落』が現れたとき、たまたまルネサンス期の占星術の論文を読んでおり、両者が酷似していることに気がついたという。シュペングラーの書は、著者自身も認めるように、厳密な歴史学というよりは、古今東西の文明を形態学的に類推する詩的な「観相学」であった。それは、あらゆる文明が自然法則や因果関係を超えた「運命」の力によって定められた行路をたどり、やがて老衰して死に至る、という予言であった。同書は、あたかも日蝕や月蝕を予言するように、西洋文明が辿り行く確実な没落を予言したのである。第一次大戦の終わりに出版されたシュペングラーの予言は、西洋文明の瓦解という危機を感じていた大衆の想像力に一挙に火をつけることになった。
 全体主義国家においては、指導者は現在の世界秩序に絶対的な支配権をふるう魔術師であるばかりでなく、将来の運命を司る予言者でもあることが求められる。そこでは、「不可能でさえある約束がなされ、千年王国が繰り返し告知される」。これも最近のアメリカでよく耳にする話である。例えば、夢物語のような白人だけのアメリカを建設するとか、気候変動も地球温暖化も起きない富裕者の楽園が到来するとか、構造的に斜陽となった石炭や鉄鋼などの産業が新たに日の目を見るとか、あるいは国際社会がアメリカの独善を「偉大な国家」として歓迎するとか。大事なことは、それらが実現可能かどうかではない。こうした説話は、部族の結束意識を高めるための予言なのであって、内容ではなく発話自体が呪術的な遂行行為なのである。

理念の破壊の後に

 歴史上の専制体制は、外的な行動に枷(かせ)をはめることで足れりとしてきたのであって、人びとの感情や思考に介入しようとまではしなかった。そのような試みは反発を強めるだけで、人びとの人格的自由や意志の独立という理念を奪うことはできない、ということを知っていたからである。ところが、とカッシーラーは警告している。現代の政治的神話は、これと逆の方向を辿った。ちょうど蛇が獲物をまず麻痺させてから食べるように、先に自由や平等や人権といった「理念」と「理想」をすべて破壊したのである。だから人びとは、実際に何か起こったかを自覚する前に、すでに征服され服従させられてしまっていた。現代社会が目撃しているあからさまな人権無視や民主的正統性への侮蔑、平和や正義といった理念の無効化の次には、何が来るのだろうか。
 一方、彼自身を含む知識人たちは、その神話があまりに不合理で空想的で馬鹿げているのを見て、誰もそれを真面目に取り上げようとしなかったという。振り返ってみれば、それは大きな誤りであった。その同じ過ちを繰り返すまいとして、カッシーラーは政治的神話の起源と構造、それが用いた言語と技術を問い直すことに最晩年の精力を注いだのである。
 われわれが直面する問いに容易な解答は存在しない。だが、今われわれが目にしている現象が、一過性のものというよりはもう少し根深いものであることを知るのは、腰を据えて今後の戦略を練り、忍耐と希望を錬磨するために、多少の意義があるかもしれない。

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