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『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』 藤井達夫(集英社新書)

2023年04月23日(日)

しばらくテーブルの上に積まれていた.
ふとんに入って,すこしずつ読んでみた.

ぜんぶ納得できたとか,理解したとか,そんなことはなかったけれど,
でもおもしろかった.おもしろいテーマだと思った.

そういえば,GDPの大きな国というのは,みな人口大国なんだな、と思う.
デンマークと言うには、けっして裕福な国ではないのだろう,
でも,幸福度の高い国とか,
それで,人口500万人くらいだったか.
人口10万くらいのコミューン,基礎自治体ということだったか,
全国からコミューンの担当者を集めて会議を開く,としても,50人,
そんな話を聞いたことがあった.

インドが中国の人口を上回ったのではないか,とか,そんなニュースが流れる.
いずれGDPでも,世界のトップに立つのかもしれないとか.
で,かの国は幸せになるのだろうか,と思う.
人口10億の国,人口500万の国……,
一律に論じられるのか,と思うことがあったな,と思い出す.

そういえば,列島の国も,1億を超える人口を抱える.
江戸時代3000万人くらいか,ひとつの藩で10万人くらいだったとか,
それで「一国」だったわけだから.



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代表制民主主義はなぜ失敗したのか

藤井達夫

集英社新書

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はじめに

 この国はいま、どんな状態にあるのだろうか。まず思い浮かぶのは、労働の不安定化による生活の安全の破壊、格差問題という名で偽装された貧困化、ポスト工業化社会に不適合となった社会保障制度の持続不可能性など、「社会問題」が噴出していることだ。
 この現状をさらに深刻にしているのは、近年、そうした「社会問題」が隠しがたいものとなっているにもかかわらず、政治が長期的な視野に立った抜本的な解決策を実施することはおろか、構想さえできていないことだ。コロナ禍は改めてこのことを確信させてくれた。思い起こせば、第二次安倍政権はこうした日本の象徴であった。この政権は、近年の他の政権と比較して「社会問題」に効果的に対処し、長く停滞した時代を終わらせる上でいくつもの好条件を備えていた。憲政史上最長の政権だったという点、衆参のねじれもなく安定した政権運営が可能であったという点、そして首相のトップダウン型政策決定ができるよう内閣機能の強化がなされていたという点だ。これほどの好条件を揃(そろ)えた政権はまず記憶にない。
 しかし、実情は「社会問題」を解決するには程遠く、コロナ禍の最中に自ら退陣する道を選
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択した。そればかりか、好条件が裏目となって、第二次安倍政権の下で政治権力の私物化という事態が進行した。こうして、この国の政治は私たちの生活を脅かすリスクになりつつあるように見える。


 そんな政治をこのまま見て見ぬふりして放置し続けるのか、少しずつでも地道な改革をしてやいくのか、それとも、こんな政治のやり方はきっぱり止めにして、全く違うものに取り換えてしまうのか。私たちの未来は、私たちがそれらのどれを選択するかにかかってくる。しかし、いずれを選択するにしても、この国の政治がどのような原理や制度に基づいて行われてきたのかを、まず確認しておく必要があるだろう。
 日本の政治は、民主主義、より正確には、選挙と政党を基盤にした代表制度の下での民主主義によって運営されている。一般にこれを代表制民主主義と呼ぶ。代表制民主主義について、統治の基本原則を記した現行の日本国憲法ではこう規定されている。
 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に出来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と。
 厳かでありながらも、一見、平易な一文だ。しかし、日本国憲法に結実した代表制民主主義の定義の真意は、字面をなぞるだけでは、把握することはできない。民主主義と代表制度は、元来どのような関係にあったのか、いかなる経緯でそれらは結合し、代表制民主主義が誕生したのか、代表制民主主義がよく機能する条件とは何か、そうした条件が喪失され、代表制度が機能不全となった場合、民主主義はどうなるのか。これらの問いに正面から向き合ったとき、代表制民主主義に対する確かな理解を得ることができる。その上で、この国の政治に対して私たちがどのような選択をすべきなのかについて、より良い判断ができるようになるだろう。


 本書では、代表制民主主義とは何かを説明すると同時に、現在、それが小手先の手当てではどうにもならないほどの機能不全に陥っていることを明らかにする。さらに、現代に適した形で代表制民主主義を復活させる抜本的な改革の方向性も提示する。そのために、代表制民主主義の仕組みを解体し、さらに再構築していく。
 具体的にはまず、日本を含めた民主主義諸国の苦境の原因を究明する。そこから、民主主義の本来の理念や目的は何であったのか、近代に復活する代表制度の下での民主主義とはいかなるものであったのかについて検討する。このために、民主主義の理念を明確にした上で、民主主義とはそもそも無縁であった代表制度が近代以降、その理念を実現する手段として導入された経緯を明らかにする。さらに、代表制度が民主主義の制度として機能するための条件を検討し、その条件が消失してしまったがゆえに、代表制度が民主主義の制度として機能しなくなっ
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ていること、そしてここに現代の民主主義諸国の行き詰まりの根本的な原因があることを指摘する。最後に、現代において民主主義の理念に奉仕するような代表制度の改革案を考察する。こうした大筋は、以下の章立てで詳述される。
第一章では、民主主義諸国の現状から出発する。日本に限らず、現代の民主主義諸国はもはや破綻寸前だ。《私物化》をキーワードとすることでこの苦境を解明する。現代の私物化は、二つの領域で進行している。それが、社会の私物化と政治の私物化だ。
 この章では、社会の私物化にフォーカスする。他人の意思の下に置かれることなく自由な状態で生きていくために共有せざるをえないもの――例えば、空気や水などの自然、道路や公園などの社会インフラ、医療や教育をはじめとする公的制度――が新自由主義によって私物化されている。新自由主義による、社会という共有のものの私物化。これが民主主義諸国の苦境の一因に他ならない。
 第二章では、政治の私物化が主題となる。政治の私物化とは何か。それは、本来なら社会の私物化を防ぎ、支配と服従の関係を排除するために存在している、共有のものとしての政治(権力)の私物化を意味する。この事態が現代の民主主義諸国で起きている。政治の私物化の行き着く先は、専制政治である。とするなら、現代の民主主義諸国は専制の脅威に晒(さら)されていることになる。
 この章の議論はそれだけではない。専制の脅威の中で民主主義はいま、全体主義との壮絶な戦いを演じた一九四五年以来の最大の危機を迎えつつある。その危機とは、台頭する超大国中国の統治モデルと民主主義との競争から生ずる。このモデルは、政治的メリトクラシー――本書では、選挙ではなく、能力と経験本位の選抜を勝ち抜いた政治エリートによる支配を意味する――によって、自由を制約しながらも治安と豊かさを人びとに提供しようとする。民主主義が統治をめぐる中国とのこの競争に勝利できる保証はどこにもない。むしろ、今後多くの民主主義国に暮らす人びとが中国モデルに誘惑され、公然と支持を表明する可能性さえある。第二章では、その理由についても分析する。
 第三章では、民主主義は元来、何を目指していたのか、いかなる目的で生まれたのかを問う。つまり、民主主義の理念とはどのようなものかをはっきりさせる。民主主義を多数決や選挙と同一視する人はいまだに多い。それでは、民主主義について十分に理解しているとはいえない。確かに、現在、代表制民主主義を運用していく際、代表者を選ぶために選挙が行われ、何らかの意思決定を策定すべく多数決が行われる。しかし、だからといって、選挙や多数決が民主主義それ自体であるということにはならない。それらは民主主義が目指す理念を実現するための手段でしかない。その手段は選挙や多数決以外にも存在する。だから、手段と目的の区別を明確にするためにも、民主主義とは何かについてまず問わねばならない。そこで、古代の民主主
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義および近代の民主主義の双方を、歴史的あるいは理論的な視座から考察する。そこから得られる民主主義の理念こそ、反専制としての民主主義なのである。
 第四章では、代表制民主主義とは元来、どのようなものであったのかについて議論する。そのために、代表制度の起源と歴史について理論的視座から検討する。出発点は、代表制度が、民主主義とそもそも無関係な制度であったという事実だ。現在の一般的な民主主義に対する理解からすれば、これは驚愕(きょうがく)すべきものに違いない。実のところ、一八世紀に復活する民主主義は、反専制という古(いにしえ)からの理念を大規模化した国民国家において実現するために代表制度と接合させられた。ここに代表制民主主義が誕生するわけであるが、本書では一級の政治思想のテキストを参照することでその始まりを確認する。その後の発展において、代表制民主主義は、工業化社会の完成とともに黄金期を迎えることになる。二〇世紀中頃における黄金期の社会的・経済的・文化的条件が何であったのか、その条件の下で、代表制度がどのように機能したのかを論じる。
 第五章では、代表制度の機能不全がどのようなものであるのか、その原因がどこにあるのかを明らかにする。一九七〇年代以降、多くの民主主義国はポスト工業化の時代に突人していくが、その過程で代表制民主主義の黄金期を可能にした諸条件が徐々に消失していく。それに伴い、代表制度が民主主義の制度として想定された機能を果たすことができなくなっていく。代表制度の機能不全の結果が民主主義のポピュリズム化である。そこで、グローバルに進行している現代民主主義のポピュリズム化に焦点を当て、その原因を代表制度の機能不全から考察する。トランプ前大統領に代表されるポピュリストの下で、元来は専制政治に対抗するための砦(とりで)であった民主主義は私物化され、支配のための道具となり果てつつあることを論じる。
 第六章では、最後に残された課題、「それではどうしたらよいのか」について検討する。まず確認すべき前提は、現行の代表制度を批判的に検討したからといって、「毎日国民投票」をすればよいというような直接民主主義を称揚することにはならないということだ。途方もない努力の末に作り上げられた代表制度という遺産を放棄することは賢明でも、また可能でもない。それに、熟議の機会を欠いた現行の国民投票のやり方には、多くのエリートたちが危惧するリスク――衆愚政治のリスク――がないともいえない。これが本書の基本的な立場だ。そこから、代表制度を現代の条件に合わせてどう改革していくのかを検討する。具体的には、熟議と参加をベースにした民主主義のイノベーションの実例に焦点を当てる。
 何とありきたりなことをと思われるかもしれない。しかし、そうするのは、「話し合いをしましょう」とか、「選挙だけでなくデモにも行きましょう」などとお説教を垂れるためではない。その実例には、政治権力を民主的にコントロールするための、新たなアイデアと工夫が存在するからだ。さらに、新しい時代の代表制民主主義を支える市民を創出する可能性があるか
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らであり、新自由主義によって荒廃させられた共有のものを新たに想像=創造する可能性があるからに他ならない。
 現代の多くの民主主義国で見られる政治の破綻と、それに乗じて民主主義のオルタナティブとしての存在感を強めつつある中国の統治モデル。現代の民主主義が直面するこの危機を少しでも危惧するのなら、代表制度の過去を振り返り、現在を診断し、未来を構想することはもはや義務といっていい。とはいえ、それは決して暗くて空(むな)しい義務ではないだろう。これまで、私たちの生活を支えるさまざまな制度の多くが、試行錯誤を経ながらも時代の変化に適応し、より望ましい形に進化してきた。代表制度もその例に漏れることはないはずだからだ。そして、何より、代表制度の新たな進化を構想することは、閉塞感よりも開放感が、絶望よりも希望が伴うはずだからだ。




〈12〉

目次

はじめに   3

第一章 民主主義諸国における社会の私物化   17
  一 私物化から支配へ
    ――自由はどのように失われるのか
    ルソーの『人問不平等起原論』/自由・共有のもの・私物化/二つの共有のもの
二 新自由主義と社会の私物化
  共有のものとしての《社会》/新自由主義による社会の解体/
〈14〉
私物化による自由の喪失と社会の分断

第二章 民主主義諸国における政治の私物化とその先   45
  一 政治権力をどうコントロールするのか
    ――共和主義と自由主義、そして民主主義
    代表者による政治の私物化――アメリカの場合/
    代表者による政治の私物化――日本の場合
  二 新自由主義が政治の私物化を加速させる
    新自由主義と政治の決断主義化
  三 私物化の時代の民主主義はどこへ向かうのか
    中国の誘惑/政治的メリトクラシーとしての中国モデル/
    中国モデルのインパクト

第三章 民主主義とは何か――古代と近代   77
  一 始原にさかのぼる
    ――権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義(1)
    古代アテナイにおける民主主義の誕生と発展/
    古代の民主主義を実現するための制度/古代の民主主義における共有のものと自由
  二 近代に復活した民主主義
    ――権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義(2)
    『社会契約論』と共有のもの/全面的訳渡と一般意志/
    自由・共有のもの・私物化

第四章 代表制度とは何か   105
  一 民主主義と代表制度との理論上の接合
    多元主義と代表制度/人民主権と代表制度
〈16〉
  二 代表制度を民主化する
    正統性と選挙/代表制民主主義と選挙/代表制民主主義と政党
  三 民主的な代表制度の変容
    名望家政党とエリート主義/大衆政党と代表制度の黄金期/
    政党の黄昏と代表制度の行き詰まり/代表制度の変容の帰結

第五章 行き詰まる代表制度とポピュリズム   151
  一 民主的な代表制度の黄金期の諸条件とその消失
    戦後和解体制と福祉国家という条件/工業化社会という背景/
    日本の事例/ポスト工業化社会への移行と代表制度の黄金期の終焉
  二 代表制度の行き詰まりと現代のポピュリズム
    代表制度とポピュリズム/ポピュリズム化する民主主義のリスク/
    ポピュリズムか中国モデルか、それとも……

第六章 代表制度の改革   191
  一 代表制度改革の方向性
    どのようにして権力の私物化を禁じ、専制政治に対抗するのか/
    どのようにして共有のものを取り戻すのか/
    なぜ、エンパワーメントが必要になるのか
  二 具体的なイノベーションを評価する
    (1)熟議世論調査/(2)市民集会/(3)参加型予算/まとめ

おわりに   233

主な参考文献   239





おわりに

 本書では、共有のものと民主主義との関係を検討することで、民主主義が共有のものの私物化を防ぎ、専制政治に対抗する政治のあり方であることを論じてきた。また、民主主義と代表制度とを峻別した上で、代表制度が民主主義の理念を実現する手段としてうまく機能する諸条件を特定した。次いで、現代の民主主義のポピュリズム化の原因が代表制度の機能不全にあること、さらに、その機能不全はそれらの好条件が消失してしまったためであることを指摘した。その上で、もはや旧来の代表制度が民主主義の制度として適切に機能することがない以上、現代に適合した形で代表制度をどう改革するかを検討した。
 本書の構想が固まりつつあったのは、二〇二〇年の春先だった。それは、新型コロナウイルスのパンデミックによって、東京に最初の緊急事態宣言が出される直前であった。それ以来、新たな感染症の脅威に晒された私たちの世界は、大きく変わってしまった。そして、感染拡大の第五波に飲み込まれた東京では、非常事態宣言下でオリンピックが開催された。「コロナと闘う五輪」などという厚生労働大臣の言葉の意味の分からなさは、日本の当時の状況が、もは
〈234〉
や悲劇でも喜劇でもなく、悪夢ないしはカオスであったことを端的に示しているといえよう。
 世界史的な出来事の進行する中での執筆であったが、本書では、このパンデミヅクが民主主義に及ぼす影響について論じなかった。しかしながら、どうやら新型コロナウイルスのパンデミックは、現在の惨禍が過ぎ去った後の民主主義諸国において、本書でフォーカスした民主主義の退潮をさらに推し進めそうだ。
 長期にわたる感染症対策の中で、自由が大幅に制約された例外状態が常態化することになった。例外状態の常態化は、二一世紀の世界において「テロとの戦争」をとおして試みられてきた。ジョルジョ・アガンベンが指摘したように、「テロとの戦争」が枯渇した現在、例外状態の常態化のために新たに発明されたのが「ウイルスとの戦争」というわけだ。この闘いにおいて統治する側では、人びとの行動を監視し管理するテクニックやテクノロジーを活用していった。そして、それらは今後も、決して手放されることなく、さまざまな場面でことあるごとに、再び利用されるだろう。また、危機の只中(ただなか)ですでに収集された膨大なデータを解析し、精緻化することで、監視し管理する権力が人びとの日常生活により深く、より不可視な形で浸透する手立てを編み出す努力が続けられるだろう。
 統治する側がそうだとすれば、統治される側では何が起こりえるのか。この例外状態に慣れてしまった人びとが、安全と引き換えに、自由を手放すことを厭(いと)わなくなることは十分考えられる。また、そのような人びとは自由を可能にしてきた共有のものの私物化に対してこれまで以上に無頓着になり、ひいては、権力の私物化に対抗する必要性をそれほど感じなくなっても何ら不思議ではない。つまり、ポストコロナの世界に生きる人たちは、民主主義にこだわらなくなる可能性は大いにありうるということだ。それは、まさに、本書で論じた中国化が民主主義諸国で加速していく事態に他ならない。民主主義諸国の中国化は、新自由主義によってその種が撒(ま)かれたとするなら、新型コロナウイルスのパンデミックによって、ゆっくりと芽吹き始める。そんな暗いシナリオを誰が否定できるだろうか。
 この世界史的な危機における最優先の課題は、あらゆる資源を動員して、新型コロナウイルスによるパンデミックを封じ込め、この惨禍以前の生活を取り戻すことである。しかし、その一方で、そろそろ私たちは、「その後」について真剣に考える時期に来ているのではないか。そして、「その後」の最大の懸念こそ、民主主義諸国に暮らす人びとが自由の制約された生活に慣れることで、民主主義への支持や関心をこれまで以上に喪失してしまうということなのだ。
 過度な懸念だという人もいるだろう。しかし、新型コロナウイルスとの闘いの中で、常に問われていたことは、命を守ることと、私たちの自由や民主主義的な価値を維持することとの均衡をどう保つか、ということであった。ポストコロナの世界においても、それは変わらない。いやむしろ、新型コロナウイルスとの闘いという例外状態の中で、自由や民主主義的価値がど
〈236〉
の程度毀損されたのか、それらを守るための手続きや制度がどう歪められたのか、真剣な反省が急務となるはずだ。その中で、民主主義とはそもそも何であったのか、そしてそれを実現するための制度はどのようなものであったか振り返る機会も出てくるかもしれない。そんな際に、本書を手に取っていただけるようなことがあれば、望外の僥倖(ぎょうこう)だ。

 さて、本書は、拙著『〈平成〉の正体』(二〇一八年)の続編ともいうべきものだ。そこでは、平成の時代の「格差問題」や「ポスト冷戦の日本外交」「政治制度改革」、デモや請願活動などの「日常の政治」を民主主義の深化という観点から批判的に検討した。しかし、紙幅の関係上、そこでは民主主義そのものについては十分に論じることができなかった。このため、次に書くものは、民主主義をテーマにする必要があると常々考えていた。そんな中、本書の企画について相談を持ちかけたのが、『〈平成〉の正体』の担当編集者、藁谷浩一さんであった。前回と同様に、草稿段階からの藁谷さんの冷静で的確なコメントは、執筆の際の励みになったし、何より、彼への信頼感のおかげで、寄る辺なさに苛まれることなく、思う存分書き上げることができた。感謝の念に堪えない。
 また、本書のアイデアや構想について意見を求めるたびに、親身に応答してくれた、弟の友之にもお礼をいわねばなるまい。たわいもない会話から真剣な議論まで、彼とのやり取りから本書の多くのヒントをもらうことができた。そして、毎度のことではあるが、安藤丈将さん、小須田翔さん、森達也さんには、勉強会で本書の草稿を発表する機会を与えていただいた。それだけでなく、一〇年以上に及ぶこの勉強会での議論が、本書の知的土台を形成することになった。お礼の雷葉もない。最後に、妻の優子。変わらぬ支えをありがとうございます。



藤井達夫(ふじいたつお)
一九七三年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。現在、早稲田大学大学院政治学研究科ほかで非常勤講師。近年の研究の関心は、現代民主主義理論。単著に『〈平成〉の正体――なぜこの社会は機能不全に陥ったのか』(イースト新書)、共著に『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版)、『日本が壊れる前に――「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』(亜紀書房)など。


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