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『朝のあかり――石垣りんエッセイ集』(中公文庫) 

2023年04月25日(火)

伊藤比呂美さんの編で,
石垣りん詩集
岩波文庫 2015年第1刷
が出て,本屋で手にとった.

名前は知っていたけれど,たぶん読んだことはなかったように思う.

1920年2月生まれ,
2004年12月死去.

解説で,梯久美子さんが書いているように,とても辛辣で,厳しい文章がある.
東京・赤坂で生まれたという.薪炭商の家だったとある.
いまではとても想像もできない……かなと思う.
そういえば,一ツ木通りには,むかし銭湯があったことを思い出す.


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朝のあかり
――石垣りんエッセイ集

石垣りん

2023年2月25日
中央公論新社

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目次


Ⅰ はたらく   9

 宿借り             10
 けちん坊            12
 朝のあかり           14
 雨と言葉            16
 目下工事中           18
 よい顔と幸福          21
 日記              31
 晴着              38
 事務服             41
 事務員として働きつづけて    45
 おそば             49
 領分のない人たち        53
 食扶持のこと          58
 着る人・つくる人        64
 巣立った日の装い        68
 試験管に入れて         71
 夜の海             76
 こしかた・ゆくすえ       80


Ⅱ ひとりで暮らす   83

 呑川のほとり          84
 シジミ             86
 春の日に            88
 電車の音            90
 器量              92
 花嫁              94
 通じない            96
 女の手仕事           99
 つき合いの芽          103
 彼岸              108
 コイン・ラントリー       110
 ぜいたくの重み         112
 水はもどらないから       114
 愛車              117
 庭               119
 籠の鳥             121
 貼紙              124
 山姥              127
 梅が咲きました         130
 雪谷              132
 私のテレビ利用法        135
 かたち             139


Ⅲ 詩を書く   151

 立場のある詩          152
 花よ、空を突け         171
 持続と詩            181
 生活の中の詩          186
 仕事              194
 お酒かかえて          200
 福田正夫            204
 銀行員の詩集          212
 詩を書くことと、生きること   214


Ⅳ 齢を重ねる   233
 終着駅             234
 四月の合計           237
 二月のおみくじ         239
 椅子              242
 私はなぜ結婚しないか      244
 せつなさ            248
 インスタントラーメン      250
 火を止めるまで         252
 しつけ糸            255
 鳥   259
 おばあさん           262
 空港で             265
 八月              268
 港区で             271
 花の店             274
 隣人              277
 風景              280
 思い出が着ている        283
 悲しみと同量の喜び       289
 ウリコの目 ムツの目      295
 乙女たち            302
 夜の太鼓            305


  解説  梯久美子   309





   解説   梯 久美子


 石垣りんの名を、教科書で知ったという人は多いのではないだろうか。「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」「表札」「空をかついで」などの作品が、これまで中学校や高校の国語教科書に採用されてきた。
 戦後を代表する詩人のひとりに数えられる石垣りんは、一方で、すぐれた散文を多く書き残している。生前に刊行されたエッセイ集が三冊あり、そこから七十一篇を選んで収録したのが本書である。
 石垣りんに対して、優等生的な「教科書の詩人」というイメージしかもっていなかった人は、本書を読んで、世の中を見る彼女の目の仮借のなさに驚くかもしれない。たとえば「I はたらく」にある、「よい顔と幸福」と題された文章の辛辣さはどうだろう。
 石垣りんは銀行員として長く働いた人である。その銀行の職場新聞に載ったある投稿の話からこのエッセイは始まる。自分たち銀行員を〈大へん良い顔をしている〉と自賛し、〈ことにわが子息たちはまことに良い顔をしている〉とする文章に、彼女は強烈な違和感をもつ。
 貧しさゆえに教育を受けられない人たちのことに思いが至らず、特権を当然のものとして享受する人たち。エリートの無神経さと、持つ者/持たざる者の分断、階層の固定化といった現在まで続く問題を、石垣りんは半世紀以上前に、借りものではない自分の言葉で、こんなにも具体的に語っていたのだ。
 このエッセイの中で石垣りんは、大組織のいちばん低い場所で長年働いてきた自分を〈アウトサイダー〉と明確に位置づけている。アウトサイダーの目を持たねば見えないものがあるという自覚は、彼女の詩にも通底するものだ。
 書かれた内容にも増して私が驚いたのは、このエッセイが、石垣りんが勤めていた銀行の行友会誌に発表されたものだという事実である。高等小学校を卒業して事務見習いとして入行したのが十四歳、文中に勤続二十五年とあるから、三十九歳のときである。私は銀行の後輩にあたるという女性からその掲載誌を見せてもらったが、黄ばんだ誌面に印刷された文章を改めて読みながら、「書く女」としての石垣りんに圧倒される思いがした。
 晩年の石垣りんと交流のあった元新聞記者の栗田亘氏は、なぜ詩を書くのかと彼女に尋ねたことがあるという。するとこんな答えが返ってきたそうだ。
〈長いこと働いてきて、人の下で、言われたことしかしてこなくてね。でも、ある時点から自分のことばが欲しかったんじゃないかな。何にも言えないけれど、これを言うときはどんな目に遭ってもいいって〉(「お別れのことば」より)
 どんな目に遭ってもいい、という覚悟で石垣りんは詩を書いていた。それはおそらく散文においても同じだったのだと思う。
 栗田氏は、この〈凛とした、明晰なことば〉を、彼女がく少女のように差じらいを含んで〉語ったと書いている。
 石垣りんを知る人は一様に、彼女がはにかみやで遠慮がちな人だったと回想している。詩人の谷川俊太郎氏は、石垣りんが八十四歳で亡くなったとき、別れの会で朗読した詩で、こう呼びかけた。
〈何度も会ったのに/親しい言葉もかけて貰ったのに 石垣さん/私は本当のあなたに会ったことがなかった/きれいな声の優しい丸顔のあなたが/何かを隠していたとは思わない/あなたは詩では怖いほど正直だったから〉(「石垣さん」より)
 おだやかで控えめで、いつも優しい笑みを浮かべていた石垣りんは、ひとたびペンを持てば、誰にもおもねらず、遠慮せず、本当のことを書いた。その覚悟と衿持は、本書に収められたエッセイにもたしかに息づいている。
 石垣りんの詩にもエッセイにも、身を挺してつかみ取った批評性がある。だがそれだけではない。同時に、隣人に注がれる、あたたかい目が存在する。
 「Ⅱ ひとりで暮らす」にある「花嫁」は、公衆浴場で見知らぬ女性から、衿足を剃ってほしいと頼まれる話である。明日嫁に行くと言われて、石垣りんは祈るように差し出されたカミソリを受け取る。
〈明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った〉
 何と美しい描写であることか。人間というものの、切なさといじらしさがここにはある。
 見知らぬ人の衿足にカミソリを当てるのは、親切心や優しさだけではできないことで、ひとつの決心がいる。その決心をうながしたのは、りんと同じく都会でひとり生きてきたこの女性の孤独だったに違いない。
 石垣りんは、独身のまま生涯を全うした。さまざまな事情はあったにせよ、ひとりで生きて死ぬことを選んだ人である。自立、という言葉が軽く感じられるほど、孤独をその身に深く引き受け、個として生きるよろこびと哀しみを味わい尽くした。その軌跡は、彼女が残した詩と散文に刻まれている。
 詩人の三木卓氏は、彼女を〈単独者〉と呼び、〈その目は、生活の表層にとどまるという幸福を得ることができず、深く人間の生の本質的な条件を見てしまわないではすまない〉と書いている(「生活の本質見抜いた目――石垣りんさんを悼む」より)。
 本書に収められたエッセイの一篇一篇には、石垣りんの人生の断片がちりばめられており、その背後に、彼女が生きた時代が見え隠れする。より深く彼女の文章を味わってもらうため、石垣りんがどのような人生を歩んだのかを、簡単ではあるが最後に記しておく。
 石垣りんは一九二〇(大正九)年、東京に生まれた。父の仁は赤坂で薪炭商を営んでいた。生母のすみは、りんが四歳のとき三十歳の若さで病死。父はすみの妹を後妻に迎えるが、りんの叔母にあたるこの人も早世する。父は三人目の妻を迎えるも離婚、その後、りんが十七歳のときに四度目の結婚をした。
 高等小学校卒業後、十四歳で丸の内の日本興業銀行に事務見習いとして就職。自分の稼いだお金で自由に本を買い、ものを書きたかったから進学しなかったという。少女雑誌に詩や小説を投稿し、やがて仲間たちと女性だけの詩誌を創刊する。
 太平洋戦争が始まったとき二十一歳、疎開はせずに銀行で働き続け、二十五歳で終戦を迎えた。赤坂の家は空襲で全焼し、戦後は品川の路地裏にある十坪ほどの借家に、祖父、父、義母、二人の弟と暮らした。父は身体を壊して働けず、上の弟は病気のため無職、下の弟は障害があり、家族六人の生活がりん一人の肩にかかってきた。以後、銀行で働いて家族を養いながら詩を書き続けた。
 老いてなお四人目の妻に甘えて暮らす父をりんは嫌悪し、義母とも折り合いが悪かった。このころのりんは〈この家/私をいらだたせ/私の顔をそむけさせる/この、愛というもののいやらしさ〉(「家」)、〈父と義母があんまり仲が良いので/鼻をつまみたくなるのだ/きたなさが身に沁みるのだ〉(「家――きんかくし」)といった痛烈な詩を書いている。
 三十三歳のときに祖父が、三十七歳のときに父が死去。残された家族の面倒は引き続きりんが見た。
 満五十五歳になる前日、銀行を定年退職。その五年前に、退職金でローンを完済できる見込みの1DKのマンションを購入していた。本書のエッセイにも登場する私鉄沿線のこのマンションは、十四歳から働き、戦後は家族を養ってきたりんが、ようやく持つことのできた自分ひとりの城である。
 二〇〇四年、八十四歳で死去。詩集は生前に刊行した『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』『表札など』『略歴』『やさしい言葉』および、没後に遺稿から編まれた『レモンとねずみ』がある。

(かけはし・くみこ ノンフィクション作家)

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