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寺島実郎 脳力のレッスン(252) 二一世紀システムの宿痾としての金融不安 ――直面する危機への視座の探求(その3)

2023年10月06日(金)

世界のGDPの総和を,株式市場の株価の総和が上回ったのはいつだったか.
それで,なにかが起きるのか,ちょっと仲間うちで話題になったことがあったか.

そのもっと前,都市銀行が10行だったか,4大証券とかいっていたころ,
この国で語られていたのは,間接金融から直接金融へ……だったか.
なにが画期だったろうか.

そうか,この国は,アメリカの属国だった……と思わせる出来事があったか.

アメリカのシステムが,人々を幸せにするかどうか,多くの疑問があったはずだと思う.
それでも多くの要求が出されて,多くをのみ込んで,
たぶんたんなる要求ではない,何かがあったんだろうかとも思う.


21世紀後半には,アフリカの人口が世界の多数派となるだろう,と予測される.
とりあえず,アジアなんだけれど,すでに列島は人口減少の局面にあるという.
おとなりの半島の国は,子ども数を減らしていく.
大陸の国も,いずれそうなると予測され,現にそうなっている.

低開発国,第三世界,グローバルサウス……まぁ,いろんな呼び方があるのかもしれないけれど,
世界市場は,地球を覆い尽くしているわけではなかったんだと思う.
世界市場が外れた地域を,かつて低開発国とか,呼んでいたのだろう.
それで,それらの国がすこしずつテイクオフしていくのだろうか.あるいは,すでにテイクオフしつつあるのだろうか.

ただ,人口が減少すれば,衰退する国家になるかどうか,そんなに明らかでもないのだろうとは思う.

いま,教育機関の中で,たとえば税の問題とか,分配の問題とか,どんなふうに教えられているんだろう……と思う.身近に学生さんがいないのでよく知らないのだけれど,本屋に行ってもそれらしい本を見ることがないな,と思う.
それで,たとえば消費税の問題とか,ふるさと納税とか,わけのわからない話が多すぎるように思うけれど,それは,かつて学んだことが,もはやお払い箱になっているということなんだろうか.
……
まぁ,すこしは勉強しなおそうかなとは思う.

そういえば,寺島実郎さんが,横浜港のふ頭歳開発にかかわる検討メンバーに加わるとか,
なんだかな……,もっと語るべきこと,語ってほしいことがあるようにも思うのだけれど.
まぁ,そこでどんな議論がなされるのか,知らず,
それでもなにかおもしろい話が語られればいいか.

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【世界】2023年06月

脳力のレッスン(252)
寺島実郎

二一世紀システムの宿痾としての金融不安
――直面する危機への視座の探求(その3)


 二〇世紀システムの動揺と衰退を直視し、世界秩序の再生の道筋を探っている。二〇世紀の世界、とくに資本主義世界のシステムは、第一次大戦期以降の米国が主導する「国際主義」と「産業主義」を柱として成立してきたことを論じてきた。とくに第二次大戦後の米国は、国際連合、世界銀行・IMF体制などの国際秩序を主導し、大量生産・大量消費の産業社会を牽引した。そして戦後日本はそのシステムを享受して復興・成長という過程を突き進んだ。その秩序枠の動揺という局面を迎え、時代システムの本質を再考し、未来圏を主体的に構築しなければならない。
 そこで、二一世紀システムを考察する前提として、二○世紀システムが抱え込んだ危うさを確認しておきたい。その危うさは既に新たな金融危機の予兆として顕在化しているといえる。「累卵(るいらん)の危機」という言葉があるが、我々は二〇世紀が積み上げた矛盾の臨界点に立っているのかもしれない。

■二〇二三年春の余震――相次ぐ金融破綻の意味

 本年三月の米シリコンバレー・バンクの経営破綻は、世界的な金融恐慌に波及しないための政府・金融当局の必死の封じ込めによって、落ち着きを取り戻しつつあるとされる。西海岸のシリコンバレー・バンクは、スタートアップのベンチャー型企業に資金を提供する金融機関として急成長してきたが、昨年二月のロシアによるウクライナ侵攻を背景に進行したインフレ抑制のためのFRB(中央銀行)による相次ぐ金利の引き上げによって収益性が毀損して「信用不安」を引き起こした。特異な事例と説明されるが、本当にそうだろうか。
 続いて、東海岸のファースト・リパブリック銀行なども資金繰りの悪化と預金流出という事態に見舞われ、事態の鎮静化のために米大手一一行が四兆円規模の金融支援、FRBが「最後の貸し手」として二〇兆円を米銀に融資するなど、必死の対応をみせているが、金融技術革命による金融の変質、すなわちノンバンク金融仲介業の台頭と金融ビジネスの複雑化・無形資産化によって、金融セクター全体が新次元の構造問題を抱えており、沈静化したとは言い難い。
 同じく三月、経営危機に直面したクレディ・スイスはライバルのスイス金融最大手UBSにわずか三〇億スイスフラン(四三○○億円)で買収されることになった。経営危機の原因は口座情報の流出、マネーロンダリングなど「経営管理不全」で、米国の銀行への信用不安とは性格が異なるが、クレディ・スイス発行の劣後債(ハイリスク・ハイリターンの債券)たるAT1債一七〇億ドル(二・二兆円)が「無価値」とされ、潜在する危うい金融商品が露呈したのである。
 クレディ・スイスの危機に対しては、スイス政府が日本円で一・三兆円の信用保証、スイス中央銀行が一四・三兆円の緊急クレジットライン(融資限度)を設定することでUBSによる買収を支え、国家の威信をかけて金融不安の払拭に動いた。最悪の事態は、米欧ともに国と中央銀行が動いて回避されたとされているが、一連の春の嵐はコロナの三年間の超金融緩和が急速な引き締めに反転したことの軋みがもたらしたといえ、今後、世界金融が金利高、引き締め、規制・管理強化という基調を強めることによる景気後退局面に入るならば、金融不安のマグマは膨らむであろう。
 また、日本の金融は大丈夫なのかという問いに対し、金融機関の健全性を示す指標としての「自己資本比率」や「流動性比率」など表面指標からすれば、多くの金融機関が健全と判断されてよいのだが、アベノミクスなる「低金利、超金融緩和」の長期化で、利回りのよいハイリスクの金融派生型商品に引き寄せられてきた副反応が生じる可能性を潜在させていることは注意すべきである。破綻したクレディ・スイスが発行していたAT1債(二〇二二年発行分)の表面金利は実に九・七五%だった。運用に苦闘する中で、外資のファンドへの依存を高め、健全な産業金融(産業と事業を創生する「育てる資本主義」)への努力を疎かにした日本の金融機関の基盤能力が劣弱化しているのである。
 後述するごとく、「経済の金融化」という歴史潮流の中で、金融セクターは「金融工学の進化」を背景に複雑化、肥大化しており、もはや銀行を主役とする産業金融が主流ではなくなり、ノンバンク(シャドーバンク)といわれる存在が重くなり、様々な金融派生型商品を扱うヘッジファンドなどの金融仲介業が業容を拡大している。「ノンバンクが世界の金融資産の半分を保有」という推定もあり、この領域は正確に実態が掌握できないため、規制や管理強化の対象とし難いのである。今後予想される世界的な金融の引き締めは、ハイリスク資産が集中している「ノンバンク」の分野に軋みを生じさせると思われる。

■繰り返された金融不安の歴史とその構造

 米国の資本主義の投機的性格について、M・ウェーバーは一〇〇年以上も前に書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇五年)において、次のように指摘している。「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格を帯びることさえ稀ではない。将来この鉄の濫の中に住むものは誰なのか」と問いかけた後、ウェーバーは「最後に現れる『末人たち』」に対して、「精神の無い専門家、心情の無い享楽人、この無なるもの」というあの有名な言葉を残した。この洞察は、その後の米国の資本主義の展開、そして今日の状況を鋭く言い当てている。
 二〇世紀における「金融不安」を振り返り、二一世紀システムの基本的課題を確認しておきたい。一九二九年の大恐慌については、それが第二次大戦への導線になったとの反省の下に、多くの研究が積み上げられてきた。チャールズ・キンドルバーガーの『熱狂、恐慌、崩壊――金融恐慌の歴史』は一九七八年に初版、二〇〇〇年には第四版が刊行(邦訳、日本経済新聞社、二〇〇四年)され、多くの示唆を与えている。さらに、FRB議長を務めたべン・バーナンキも自らを「大恐慌マニア」と言って憚らないが、『大恐慌論』(原著二○○○年、邦訳二〇一三年、日本経済新聞出版)によって二〇二二年のノーベル経済学賞を受賞している。にもかかわらず、大恐慌の教訓が生かされたとは言えない。
 一九二九年の大恐慌の後、米国は金融不安を避けるため「銀行と証券の業務分離」を図るグラス・スティーガル法(一九三三年銀行法)を定めた。この規制は七〇年近く続いたが、冷戦後の「新自由主義・規制緩和」の流れの中で一九九九年に廃止され、銀行も証券子会社を通じて証券業務に進出可能となった。
 新たな不安の前兆は二〇〇一年のエンロンの崩壊であった。元々は天然ガス・パイプラインの運営会社だったが、「総合エネルギー企業」として「電力デリバティブ」なるビジネスモデルに踏み込み、電力という基幹インフラさえ先物取引の対象にするという虚構性が破綻をもたらした。だが多くのマネーゲーマーは反省どころか新たな虚構へと向かっていった。その典型がリーマンショックをもたらした「サブプライムローン」なる仕組みであった。与信リスクの高い低所得者への不動産ローンのことで、分かりやすく言えば、所得の低い黒人・ヒスパニックに住宅ローンを提供して不動産ブームを持続させようとするもので、当時「三年で倍の勢いで高騰していた不動産市場を背景に、その担保価値を高めて借り換えさせる住宅ローン」を登場させたのである。この基礎となったのはマイロン・ショールズとロバート・マートンの理論で、「貧困者に希望を拓く金融工学の成果」として一九九七年のノーベル経済学賞を受賞している。冷静に考えれば、三年で倍などという不動産ブームが永久に続くはずはないが、熱狂は怖いもので渦中では常識も忘却されるものなのである。
 名門リーマン・プラザーズの崩壊と世界金融危機をもたらした二○○八年のリーマンショックを受けて、二〇一〇年にオバマ政権下で金融規制改革法(ドッド・フランク法)が成立、「強欲なウォールストリートを縛る」という意図で金融取引の透明性を高める方向に舵が切られた。ところが、二〇一八年には「ウォールストリートの代理人」ともいうべきトランプ政権下でドッド・フランク法の緩和(骨抜き)がなされ、リーマンショックの教訓は霧消してしまった。
 金融セクターは、冷戦後の世界において、一段と肥大化、複雑化してきた。「金融工学」なる世界が広がり、金融は「資金仲介業務」の産業金融から、「リスク仲介業務」へと比重を移した。ジャンクボンド、ヘッジファンド、サブプライムローン、住宅ローン担保証券、ハイイールド債、仮想通貨などが次々と登場、どこまでを金融資産とするかの判断さえ難しくなっている。約一〇〇兆ドルとされる世界GDP(二〇二二年)の約五倍に迫る金融資産(株式時価総額と債券総額)の肥大化が進行していると推定される。
 本連載236「『新しい資本主義』への視界を拓く」において、冷戦後の資本主義の新局面として、情報技術革命(インターネットの登場)と金融技術革命(金融工学の進化)を背景に、産業資本主義を中核としてきた資本主義が核分裂を起こし、金融資本主義とデジタル資本主義が肥大化したことを論じた。デジタル技術に触発された金融の肥大化(「経済の金融化」)が進行し、これをどう制御するかが二一世紀システムの重い課題になってきている。
 視界に入れるべきことは、地球上の誰もが、この「経済の金融化」という潮流から逃れられない現実である。ロシア・中国の権威主義陣営対G7など民主主義陣営の二極対立という世界観が流布されがちだが、中国も上海総合指数、ロシアもMOEXという株式市場の動向に一喜二愛しながら動いている。中露の国民も金融資産の動向に躍起になる時代なのである。一例として、昨年のロシアにおける金地金(きんじがね)・金貨の需要が一前年の五倍になったという事実は、ウクライナ侵攻に踏み込んだプーチンへのロシア国民の支持は安定しているといわれるが、その深層心理は「不安」の中にあることを投影している。
 そこで、内在する金融不安を再考する時、その危険性を探る手がかり(指針)として、金価格の動向に触れておきたい。世に「炭鉱のカナリア」という言葉があるが、二一世紀に入ってからの金価格の動きが金融不安を象徴していると思われるからである。仮に、二一世紀に入る前年の二〇〇〇年に三人の日本人がそれぞれ一億円を、一人はタンス預金、一人は株式(東証プライム)、一人は金に投資したとする。二〇二三年三月現在、それぞれの価値はどうなったであろうか。タンス預金の一億円はそのまま一億円だが、実際の価値は物価動向により七%程度目減りしている。株式への一億円は異次元金融緩和を背景に一・六億円になっており、金への一億円は実に八・一億円になっているのである。
 これは金融不安への潜在意識を投影しているというべきであろう。「金本位制」からの離脱が、信用経済を拡大させた転機だったともいえ、信用不安が金への郷愁を刺激するのである。リスクに反応する「炭鉱のカナリア」は正直である。

■金融資本主義を制御する政策科学への視界

 こうした状況に米東海岸のアカデミズムはどう向き合っているのだろうか。MITのスローン経営大学院のアンドリュー・マカフィーは近著『MORE from LESS(モア・フロム・レス)――資本主義は脱物質化する』(原著二〇一九年、邦訳、日本経済新聞出版、二〇二〇年)で、「技術の進歩は経済の繁栄と脱物質化を両立させる。……人類と自然界のトレードオフは終わった」として、「テクノロジーの進歩、資本主義、市民の自覚、反応する政府という希望の四騎士がそろえば人類は繁栄し続ける」という相変わらずの技術楽観論を展開している。ウォールストリートの理論的支柱の役割を果たしてきた米東海岸の伝統的基調であり、欧州の論調とは対照的である。
 英オックスフォード大学のポール・コリアーとジョン・ケイは『強欲資本主義は死んだ――個人主義からコミュニティの時代へ』(原著二〇二〇年、邦訳、勁草書房、二○二三年)で、個人主義の行き過ぎが資本主義を混乱させているとして、コミュニティと中間組織の再生で「資本主義とコミュニティの共創を図ること」を模索している。また、フランスのセルジュ・ラトゥーシュが「消費社会のグローバル化がもたらす破局的結末」を語っている『脱成長』(原著二〇一九年、邦訳、白水社、二〇二〇年)やジャック・アタリの『命の経済』(邦訳、プレジデント社、二〇二〇年)の問題意識や、ドイツを主舞台とする「人新世」の思潮(地球規模の課題に「利他主義と連帯」をもって向き合う)など、欧州のアカデミズムは、資本主義の金融化がもたらす陥穽を提示し、国家という枠組みを超えた「コモンズ」の地平に希望を拓こうとしている。
 二一世紀の政策科学に求められるのは、金融資本主義を制御する国境を越えた新次元のルール形成である。本連載239(「新次元のルール形成の必要性」)で論じた如く、「国際連帯税からグローバル・タックス」まで、国境を越えた金融取引に広く課税し、国境を越えた諸課題(地球環境保全、格差と貧困、最貧国の医療・防災など)に対応するための財源とするなどを実現すべき段階にあることを再確認せざるをえない。欧州における「金融取引税」の動向などを注視し、過度なマネーゲームを制御する制度設計に立ち向かわねばならない。

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