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片山善博の「日本を診る」164 そろそろ変わろう地方議会,このままでは見捨てられる 【世界】2023年07月

2023年10月22日(日)

いつだったか 東京特別区の区長選挙で 
当選者が出ないのではないか
そんなことを危惧するような新聞記事が出たことがあったか.
候補者の誰も法定得票をクリアーできないのではないか その可能性が囁かれたのだったか.
いつごろからだろうか とくに地方自治体の首帳選挙は とても引く投票率が目立つ.
議員選挙も 同様か.

それでも当選すると 我こそは……となるような.
ふしぎな光景だと思うことがあった.

国政選挙も しかし 似たようなものか.
勝った負けたばかり 紙面が画面に踊るから 勝ったものたちにどのくらいの支持があったか見てみれば もうちょっとなんとかならないのか とも思う.

そうやって選ばれた「選良」が じっさいの議事堂のなかで あるいはその外で
行政との関わり お役人とどんな関係をつくっているのか ちょっと心配になる.
いや 心配を通り過ごしている……かな. 


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【世界】2023年07月

片山善博の「日本を診る」164
そろそろ変わろう地方議会,このままでは見捨てられる


 統一地方選挙のたびごとに指摘されるのが、議会議員選挙の投票率の低さと議員のなり手不足である。今回の選挙もその例にもれない。低い投票率となり手不足は、地方議会に対する住民の関心の低さを反映しているのだから、議会はもっと住民の関心を集めるように努力をせよ、とも指摘される。同感である。
 もっとも、大都市部の選挙では多くの立候補者があるので、なり手不足の問題は地方部に限られるとの見方もある。たしかに、東京都の身近な特別区の議員選挙を見ると、定数が三十数人のところ、六〇人近くの立候補者がいた。
 ただ、立候補者が多いのは議員報酬がとても恵まれているからだと、筆者は睨(にら)んでいる。他の地域でもそれに匹敵するだけの報酬を出せば、全国的になり手不足問題は解消するに違いない。逆に、都区部の議員報酬を地方の小規模自治体並みにしたらどうなるか。おそらく、地方部以上になり手不足に悩まされるだろう。ちなみに、この区の議員選挙の投票率は三七%程度だったことから、立候補者数と住民の関心度とは必ずしも関係がないことが推察される。

■これまでの地方議会改革はピント外れ

 このところの地方議会議員選挙からは、住民の関心が高くなる兆しは見えない。むしろ、議会の存在感はじり貧だといってもいい。今でも、議会は何の役に立っているのかわからないと椰揄(やゆ)する人が少なくないが、このままだと本当に議会不要論まで出かねないと、筆者は危惧している。
 本来、地方自治において議会は中心的な役割を持つ機関である。予算にしても条例にしても自治体の重要な事柄は最終的には議会が決める仕組みである。その重要な役割と責任を持つ議会が住民から関心を寄せられず、存在感も薄いとなると、地方自治とは名ばかりで空洞化するおそれは多分にある。長年地方自治に携わってきた筆者が強く危惧する所以(ゆえん)である。
 もちろん、これまで議会関係者が拱手傍観(きょうしゅぼうかん)、何もしてこなかったわけではない。議会改革に熱心に取り組んできた議会は多い。例えば、議会の役割や責任を明確にする観点から議会基本条例を制定した議会はかなりの数にのぼる。また、議会のことを住民によく理解してもらおうと、議会報告会を開くことにした議会は少なくない。定例議会が終わってから、数人の議員が地域に出向き、先の議会で議決した案件を説明するのである。
 また、議場における首長ほかの執行部とのやり取りをわかりやすくするための工夫をしたところもある。例えば、議員が長々と質問した後に執行部もまた長々と答弁するやり方を、いわゆる一問一答制に改めた、などである。
 ただ、こうした改革に取り組んでみたものの、結果は総じて空振りに終わっている。議会基本条例を制定したからといって、議会は何も変わっていない。議会報告会は、当初こそある程度の数の住民が出席したが、その後は閑古鳥が鳴く状態になったところがほとんどだ。
 議会関係者がそれなりに工夫し、かつ、熱心に取り組んだにもかかわらず、一連の改革はなぜ功を奏することがなかったのか。当事者のみなさんに対する非礼を省みることなく率直に言えば、それらは本質を欠いたピント外れだったから、というほかない。

■議会がただちに実践すべき改革案

 本質を外さない改革を行うには、地方議会制度を規定する地方自治法の改正など大がかりな仕掛けが必要かといえば、決してそんなことはない。議員のみなさんの姿勢と気構え次第で、現行の法律と制度のもとでも十分対応できる。
 まず、議会運営の悪しき慣行を改めることである。これまでほとんどすべての議会は、首長が提案する議案について、それを議会で審議する前の時点ですでに可決することを決めている。これは甚(はなは)だ不見識であり、即刻やめるべきである。議会とは議案を慎重に審議した上で結論を出す決定機関であるのに、執行部から内々説明を受け、可決することを事前に決めるのは議会の自殺行為に等しい。この不見識はもっぱら議会の多数派に責任がある。
 議会と同じく裁判所も決定機関であり、議案ならぬ事件を慎重に審理した上で決定する。もし裁判所が、裁判を始める前に検事から内々説明を受け、それによって被告人を有罪とする判決を下すことを決めていたとしたら、裁判所は国民の信頼を一切失うだろう。
 今のほとんどの地方議会は、この信頼を失った裁判所のようなものである。この不見識をやめない限り、やれ議会基本条例だとか議会報告会だとかを試みても、住民の関心も信頼も得られるわけがないと知るべきである。
 もう一つ、議会での質問と答弁のあり方も改めてほしい。どこの議会でも議員と首長との質疑が行われているが、そこでは質問する議員も答弁する首長も、原稿をひたすら読んでいる。議員があらかじめ執行部に質問の内容を知らせ、それに基づいて執行部の職員が答弁書を作成し、それを首長が議場で読み上げるのである。
 自治体関係者はこれを当たり前のやり方だと思っているのだろう。ただ、外部の人にとっては、それは実に滑稽に見えていると認識すべきである。筆者は、以前勤めていた大学のゼミで、学生たちが最寄りの議会を傍聴に行くのを課題としていた。
 傍聴を終えた学生からは、「議会は死んでいる」、「くだらないことを、真面目くさってだらだらやっているのが不思議だ」、「自治体の大事なことが、あんなところで決められていると思うと、不安になる」、「まるでお経を聞いているようで眠くなったし、議場の議員も居眠りをしていた」などの報告が多かった。誇張でも何でもなく、それが普通の学生の素直な感想である。こんなことを続けていては、住民の信頼はおろか関心も呼ぶことはないと知ってほしい。
 答弁書をなくして議論すべしというと、それでは首長が答弁できないとの反論が返ってくる。それはこれまでの質問の内容が細かすぎて、首長が自身で答えなくてもいいようなことまでも聞くからである。
 首長は行政運営の基本姿勢とか、重要な政策の理念や目標などを尋ねられたら、ちゃんと答えなければならないのは当然である。それすら自分で答えられない首長なら失格で、早々にやめた方がいい。ただ、役所は首長と部下職員とのチームで仕事をしている。議員が本当に聞きたいことがあるなら、そのことに詳しい職員に質問すればいい。もし、そのことに責任を持つ職員にも答える知識がないなら、それは職員の任命権を持つ首長の責任であり、人事の見識や能力が問われることになる。議会は首長の説明責任をどこに求めるべきか。それは首長が行政の微に入り細うかを穿つことまで答えられるかどうかではなく、役所のチームをうまく率いているかどうかに、重点を変えてほしい。変えられるかどうかは議会の見識にかかっている。
 地方議会の現状をやや大袈裟に言えば、住民から見捨てられるかどうかの瀬戸際にあると思う。見捨てられないためには、議会関係者の気づきと発奮が必要である。まずは一つでも二つでもいいから、ここで述べた基本的で大切な改革を実践する議会が出てほしいと切に願っている。

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