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隣のジャーナリズム 「みんな知っていた,しかしみんな知らなかった.」――マライ・メントライン 【世界】2023年07月

2023年10月31日(火)

ほんとうのこと?
正しいこと? 
……
テレビの画面で 戦争の実況中継を見ている.

そして これは ほんとうのことなんだろうか.

このまえ 年配の女性が 軽自動車を運転していて 自転車で登校?下校?の中学生数人を跳ね飛ばすという事故?事件?があった.
記憶に間違いがなければ 自転車は 道路を逆走していたのではなかったろうか.
だからはね飛ばしていいということは ぜったいにないけれど,
ちょっとイヤな感じが残っている.
ずいぶん前のことだけれど 深夜のタクシーで 狭い道路を走っていて左側をタクシーに向かってくる自転車があったのを思い出す.運転手が 逆走してくる自転車がいちばんこわい……といっていたのを思い出す.
まぁ 小さなコトだな.
大きな 熱い戦争に比べれば……かな.
戦争のなかの 報じられない小さなコトがたくさんあるのだろう.


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【世界】2023年07月

隣のジャーナリズム

「みんな知っていた、
しかしみんな知らなかった。」

マライ・メントライン


 ジャニーズ事務所問題で浮かぶ昏い相似形

 最近、日本の国内報道とその在り方を考えさせられる事件として最も印象的だったもののひとつに「ジャニーズ事務所問題」がある。
 美少年マニアの社長が長年にわたり事務所のタレントに脅迫と性的搾取を行い、その黒いウワサはゴシップ誌やネットでさんざん取り上げられながら、メインストリーム的報道には週刊文春以外ほとんど載らずまた刑事事件化することもなく数十年、なんとまさかの英国BBCが黒船来寇的な実態告発リポートを放映して大騒ぎとなり、即、ここぞとばかりに文春砲が炸裂、そして元事務所タレントの一人が決死の顔出し告発カムアウトを実行するに至って、いまさらながら日本国内の大手マスメディアが大々的に報じるようになった、という一件。
 正直、これは芸能ゴシップ民ならずとも昔から「周知の事実」な話でもあり、あれ?大手マスコミ各社でもそれなりに触れてなかったっけ?的な印象すらあったりする。そして、いわゆる意識高い系の言論人が「そんなひどいことがあったなんて! 大人が勝手につくった逃げ場のない加害搾取システム! これは許せませんね! ジャニーズ事務所とズブズブだったマスコミも同罪!」と、あたかもいま初めて知りました的な真顔で一斉にイキっているのを見ると、正直、むしろ不気味な印象を受けてしまう。
 なぜというに、情報の出し手と受け手をひっくるめたこの図式は「戦時中、ドイツ人はホロコーストをどれくらい認識していたか」問題と、驚くほど相似しているからだ。
 みんな知っていた。しかしみんな知らなかった。
 知っている、あるいはウスウス感づいてはいるが、いざとなれば「いやあ私はまるでその件について知る立場にいませんでした!」と言い張れるためのアリバイを確保してある状況、といえばよいだろうか。
 まあ、人間の考えること感じることなんて、時代が変わっても同じですよ。だから内面的行動が似ちゃうのも当然で、何の不思議もありません……と、ネット民たちはしたり顔で語るだろう。しかし私が気にしているのはそんなことではなく、たとえば聖職者やクリエイターによる性犯罪の慢性化と巧妙化など、この手の「公然の黙認」の悪が日本でもドイツでも全世界でも今なお渦巻き続けている、残念なドス黒さの「持続性」の正体が何なのかということだ。
 ナチといえば、ドイツで反ナチ教育というものがあれほど高度化し徹底されたように見えて、実はナチ的メカニズムの内部で駆動する「核心」の何がしかは無傷で生き残り今日に至っているのか、という地味な落胆がそこにある。

 たとえばこんなドラマなら

 ひとつ思うのは、「政治的に正しい」倫理ドラマの陳腐さについて。たとえばナチものドラマにて、まあだいたい舞台となる町なり村なり家族なりで、ナチ寄りな人とそうでない人はキャラ付けが明確に異なる。ありていにいえばナチ寄りに行っちゃう登場人物は「わかりやすすぎるクソ野郎かダメ野郎」であり、読者の多くが「そもそも自分とは縁遠いヤツ」と認識しがちな極論的な存在だ。これではダメだ。ダメなんだ。ジャニーズ問題に当てはめると、問題暴露が決定的になる前に、妙に「社長」をヨイショしながらエクストリーム擁護していた人たちのことか。あれって絶対ジャニーズファン的にも標準層じゃないよね、と感じずにいられないけど、ドラマ化すると絶対キーパーソンとして出てくるはず。そこに、教育的ドラマの悪意のないウソがある。
 ではたとえばドラマなら、どんな展開が良いのか?


 一九四四年五月、東部戦線。
 モギリョフ橋頭堡(きょうとうほ)をめぐる大きな防衛戦をしのいだのを機に、フランツ・シェーファー伍長が所属する中隊には休暇が与えられる。故郷に戻るのは一年ぶりだ。前線を離れると、それなりに日常生活の空気を感じる。もちろんそこに住んでいるベラルーシ人にとってはナチの支配と監視におびえる非日常的な日常なのだが、フランツがそれを感じることはない。ミンスクからは列車に乗る。中隊には運よく二等客車があてがわれる。ベルリン中央駅まで他の列車を押しのけて行くらしいぜ! という話で盛り上がる。しかし、だだっぴろい平地で列車は止まる。たいして見栄えのする風景じゃない。駅でもないから食い物の調達もできない。ぶつくさ言う兵士たちに対し、車内放送のスピーカーから「時間調整と対向列車待ちを行います」と乾いた声で説明が響く。そういや信号所みたいな場所だなここ。でも俺たち最優先じゃねえのかよ、と思っているうちに、



50
 来た。
 窓から頭を出して覗くと、どうも大編成の貨物列車らしい。汽笛を鳴らしてゆっくり近づいてくる。緊急用の弾薬を運ぶのか? と見ていると、列車の脇をすり抜けて……
 人だ! 人が詰め込まれている!
 それも、客車でなく、貨車に。兵士じゃない。戦時捕虜でもない。どうみても民間人だ。
 貨車の通気用の窓に顔が蝟集し、こっちを見ている。すべて絶望しきった表情。そして漂ってくる猛烈な悪臭。「閉めろ!窓を閉めろ!」呆然と凝視していた兵士たちに小隊長が怒鳴る。いや今閉めるとむしろ匂いが籠もるんじゃ……とフランツは一瞬思ったが、そういう問題じゃない。
 ベルリンに到着するまで、いや下車したあとも「あれは何だったのか?」とは表立って誰も訊かなかった。

 帰宅後、フランツは家族でのタ食後のひとときに、見てしまったモノの話をした。箝口令が敷かれるかと思いきや、小隊長も中隊長も何も言わなかったからだ。
 「戦略上の理由か何かで、ユダヤ人たちが東方、ポーランドのコロニーに『集団疎開』しているという話だよ。ニュース映画で見たが」父が言う。
 「でもさ、貨車を使うの?」弟が問う。
 「本当は客車を使いたかったけど調達できなかった可能性がある。帝国鉄道は運行計画重視、客のもてなしは二の次だからね」父が答えると、一座に渋い笑いが広がる。
 「コロニーに到着すれば、その人たちの不安も消えて元気になるでしょう!」母が明るく言い、話は終いになった。


 ……こんな感じだろうか。うん、こんな感じだ。この物語で最も重要なのは「フランツはどうすべきだったのか?」であり、さらに「フランツにどの程度のことが出来たのか?」である。ドイツ史はその答えをひとつ知っている。ハンス・ショル。白バラの一員。彼は東部戦線で見てしまったものを内面で偽れず、妹や仲間とともに決然と衆目の前で反ナチのビラを撒き、断頭台で処刑された。皆、ハンス・ショルになるべきなのか? もっとうまく立ち回る方法はあるのか?
 これに対し有効でも誠実でもない点に、いまのマスコミや教育が提供する情報やプログラムの問題がある。彼らは「そもそもそうならないように気を付けましょう。幸いにして、まだそれほど決定的にひどい状態じゃないから」と繰り返すだけなのだ。
 世の中を本当に少しでもマシなものにするためには、何か、情報の質で決定的な「転機」が必要であるように思われてならない。

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