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宮下洋一 「死ぬ権利」とは何か?――欧州「安楽死」事情

2023年05月02日(火)

ジャン=リュック・ゴダールさんの訃報が伝わったとき,
あぁ,もう歳だものな,と思った.
でも,それは間違いだった.
続報で,その死は,いわゆる安楽死だったという.

一瞬,きちがいピエロの最後が浮かんできたけれど,じっさいはもちろん違っていたのだろう.

そういえば,だいぶん前だったか,ALSの女性が,スイスに行って安楽死をとげる,というドキュメンタリーを見たな,と思いだした.

ほんとうのところ,よくわからない.
緩慢な死への道,放置された死……などとどこが違うか?
COVID-19への対応の,たとえば北欧の国と,列島の国の対応の違い……といわれていることはなんだったか,不十分な知識だったけれど,
死と生をめぐる議論があったように感じた.
というか,列島の国では,死は隠されきたように思えた.

ゴダールについては,現代思想誌が特集していたから,なにか参照すべき文章があるかもしれない…….

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【世界】2022年12月

「死ぬ権利」とは何か?――欧州「安楽死」事情

宮下洋一
みやした・よういち 在欧ジャーナリスト。著書に『安楽死を遂げるまで』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『安楽死を遂げた日本人』(以上、小学館文庫)、一二月に『死刑のある国で生きる』を刊行予定。


 映画史における伝説的存在だったフランスの巨匠、ジャン=リュック・ゴダール監督が二〇二二年九月一三日、スイス西部ボー州ロールにある邸宅で安楽死を行ない、九一歳で旅立った。
 ゴダール氏は、映画『勝手にしやがれ』(一九五九年)や『気狂いピエロ』(一九六五年)などで、世界の映画界にヌーベル・バーグ(新たな波)を巻き起こした。その彼の死を純粋に悼む人たちがいた一方で、「疲労困憊(こんぱい)だった」という理由で意図的に死を早めた事実に衝撃を受けた人たちもいた。世界を駆け巡った訃報は、終(つい)の選択について、人々に考えるきっかけを与えたともいえる。
 近年、欧州では、安楽死の法制化に向けた動きが進んでいる.すでに安楽死を認めているオランダ、ベルギー、ルクセンブルク(以下、ベネルクス三国)、スイスに続き、ドイツ(二〇二〇年)やオーストリア(二〇二二年)も部分的に認め、伝統的なカトリック大国のスペイン(二〇二一年)も安楽死法を可決させた。こうした国々を始め、今、先進国が安楽死に関心を集めているのは、一体なぜなのか。人間にとって、安楽死は本当に必要な行為なのか。人々が「死ぬ権利」を求めるという最新の動向と、ゴダール監督が選んだ最期を知るために、現場に足を運んでみることにした。

増え続ける安楽死容認国

 私はこれまで、世界各国で安楽死の現場を取材し、日本人を含む難病患者や、諸外国の患者がスイスで安楽死する瞬間を見届けてきた。そこでまず、安楽死とは何かという部分から説明しておきたい。
 二○○○年代から安楽死を容認しているベネルクス三国では、「積極的安楽死」と「自殺幇助」のふたつが行なわれている。前者は、医師が致死薬入りの注射を直接患者に打ち、死に至らせる方法で、後者は、患者自らが同じ劇薬が含まれたコップの水を飲むか、点滴に入った同じ薬品を自身で体内に流し込む方法だ。
 一方のスイスでは、刑法第一一四条で嘱託による殺人が違法とされ、五年以下の懲役または罰金が科されることから、積極的安楽死を禁じている。しかし、それに続く第一一五条では、「利己的な動機」がなければ、自殺への関与に違法性を問わないという条項があり、合法ではないが、自殺幇助は「不可罰」と解釈されている。どちらの方法も致死薬により、死期が意図的に早められることから、厳密な区別が必要な場合を除き、私は、広義の意味で両者を安楽死と呼ぶことにしている。ベネルクス三国が公表する安楽死の最新報告書によると、二〇二〇年または二〇二一年の一年間に行なわれた安楽死の数は、いずれの国も過去最多を更新している。オランダは二〇一二年に七六六六人で、国内総死者数の四・五%にあたる。安楽死した患者のうち七人は、重度の認知症だったことも報告されている。ベルギーは同時期に二六九九人で、そのうちの四六〇人には末期症状がなく、また報告書に反映されていない自殺幇助による死者数も多いといわれる。人口が少ないルクセンブルクでは、二〇二〇年の一年間で二五人が安楽死していた。スイスについては、後に詳しく見ていくことにする。
 これらの国々での安楽死は、二〇〇〇年代から常に右肩上がりの状態が続いている。特に、オランダやベルギーで行なわれてきた安楽死が一定の認知と理解を得る中で、他の欧州諸国も同様の制度を築き、「死ぬ権利」を求めようとする動きが、この数年間で加速した。オーストリアの憲法裁判所は、二〇二〇年一二月、自殺幇助を禁ずることは「自己決定権に反する」との見解を示し、二〇二二年一月から自殺幇助が容認された。イタリアでも、二〇一九年に「耐えがたい苦痛」を抱える患者への自殺幇助に対し、憲法裁判所は「必ずしも違法ではない」と判断し、医療者側に柔軟な対応をとる裁量を与えるかたちとなった。二〇二二年六月には、全身麻痺の男性(当時四四歳)が安楽死しているが、刑事事件化には至っていない。
ドイツでは、隣接するスイスに渡り、自殺幇助を依頼する人が多くいた。連邦憲法裁判所は、かつて行なわれていた自殺幇助を二〇一五年に禁じたが、同国の「死の自己決定権」や自死のために「第三者に援助を求める権利」といった基本法に反するとの解釈から、二〇二〇年二月に復活させている。
 このほか、二〇二一年三月に安楽死法が可決され、同年六月に施行されたのがスペインで、オランダやベルギーと同じ積極的安楽死と自殺幇助の双方を認めている。自殺を大罪とみなすカトリックを国教とする国で、安楽死が法制化されたのは、欧州では初めての事例となった。
 安楽死は、各国のデータが示すように、本来は「耐えがたい苦痛」を患う癌患者や神経難病患者らに適用されてきたケースがほとんどだった。しかし、昨今では、例外的な患者に対しても、その範囲が拡がっている。
 そこで、私が取材してきた安楽死の現場の中でも、最近、特に強い印象を与えた出来事をふたつ紹介したい。ひとつは、安楽死法の開始からまもなくして起きたスペインの事件。もうひとつは、世界を揺るがしたゴダール監督のスイスでの安楽死だ。

銃撃犯の安楽死

 安楽死法の施行からまだ一年あまりだが、スペインでは同法の課題を突き付ける騒動が早々に起きている。二〇二一年一二月、カタルーニャ自治州タラゴナ県で、銃撃殺人未遂事件が発生した。被疑者の男性は以前、勤務していた警備会社で三人の元同僚に銃を向け、重軽傷を負わせた。犯行後、逃走中に警察官に撃たれ、全身麻痺状態に陥った被疑者は、裁判の開始を待たず、医療刑務所で安楽死を遂げたのだ。
 加害者が「死ぬ権利」を主張する一方で、彼に撃たれた被害者たちは、基本的人権である「司法アクセスの権利」を求めた。しかし、二〇二二年八月二日、同州で安楽死の可否を審査する「保証評価委員会」は、被疑者の申請を検討した結果、正式に受理した。
 そもそも、この国で安楽死を希望する患者たちは、どのような要件を揃えていなければならないのか。以下の六つのうち、ひとつでも欠けていれば、申請は認められない。
①スペイン国籍者か、一二ヵ月以上の滞在歴と住民票がある
②一八歳以上の成人である
③明確な意思を持ち、周囲の圧力を受けていない
④緩和ケアを含む代替治療に臨んだ報告書がある
⑤一五日の間隔をあけた安楽死請願書を二回提出した
⑥回復の見込みがなく、耐え難い肉体または精神的苦痛がある
 これらの要件は、まずは担当医とそのチームが患者の病態を判断するが、安楽死の承認は保証評価委員会に委ねられる。この委員会は、医師や法律家や看護師らで構成され、各自治州に設置されている。
 被疑者は、すべての要件を満たしていたかもしれない。だが、裁判や刑事処罰を受ける前に安楽死が行なわれる事態は、想定外の出来事だった。
 被疑者に撃たれた元同僚の一人、ルイサ・リコ氏は、民放テレビ局「アンテナ・トレス」の取材に応じ、「彼は、罪を犯したのだから、裁かれるべきでした。彼の(死ぬ)権利が認められたのならば、(被疑者が法の裁きを受けるよう望む)私たちの権利も認められて当然ではないでしょうか」と訴えている。逃走中の被疑者に撃たれた地元警察官の代理人、ホセ・アントニオ・ビトス弁護士(四七歳)は、「勾留者や受刑者に対する安楽死の規定が(安楽死法には)書かれていませんでした」と釘を刺し、「ルールがなかったのですから、禁止されることもなかったのです」と批判した。
 この事件をめぐり、医療と司法の間でさまざまな議論が飛び交った。だが、「司法には介入の余地がない」との結論で事件は幕を閉じ、被害者の権利は顧みられなかった。
 保証評価委員会(カ々ルーニャ支部)に所属するメンバーの一人、ヌリア・テリバス法学者(五七歳)は、委員会の中で物議を醸した安楽死だったことを認めつつ、こう述べた。
 「最終的に死の決断を下すのは、生きている本人です。人がどう生き、どう死ぬかを、他人が決めることはできないのです」

人生の指揮を執る

 私が取材を多く重ねてきたスイスでは、安楽死にも多様性が求められる時代になったように見える。先に触れたように患者の対象範囲が、年々拡がっているからだ。「病でなく、疲労困憊だった」とフランス紙に家族の一人が宛てた手紙のように、ゴダール監督の安楽死も、その一例だと言える。これらの近況を把握するために、私は約二年ぶりにスイスを訪れた。
 既述の通り、スイスでは、ベネルクス三国やスペインで行なわれている積極的安楽死は違法行為にあたる。ただし、他の国々と異なるのは、安楽死の目的で渡航する外国人も受け入れていることだ。
 スイスには、「エグジット」と呼ばれる国内最大の自殺幇助団体がジュネーブ(フランス語語圏支部)とチューリッヒ(ドイツ語圏支部)にある。二〇二二年に設立四〇周年を迎えたこの団体は、スイス在住者のみ登録を許可している。ゴダール監督は、スイス国籍を有していた。
 現在、エグジットの会員数は、ドイツ語圏支部で一四万二二三三人、フランス語圏支部で一万九四二五人。二〇二一年の一年間で自殺幇助を受けた患者は、両支部合わせて一三九四人に上る。いずれの支部でも、年間死者数は過去最多を記録している。
 エグジット(フランス語圏支部)の共同会長の一人、ガブリエラ・ジョナン氏(五五歳)は、ここ数年の会員の傾向について、私に次のように話した。
 「複数疾患持ちの高齢者会員が増えています。これは、終末期を迎えた人々とは限りません。心身の衰弱によって、命の終え方だけは自分で決めたいとの思いから、エグジットに連絡を取ってくるのです」
 エグジットはもともと、「耐え難い苦痛」や「回復の見込みがない」末期癌患者を始め、心臓や呼吸器系の疾患を持つ患者などを受け入れていた。しかし、現在は死に直面していない精神疾患患者や高齢者にまでも、自殺幇助が施されるようになっている。
 ジョナン氏は、エグジットで勤務する前までは、緩和ケア医療の中心で癌患者の看取りを専門に行なってきた。そのためか、安楽死だけが理想の手段でないことも熟知していた。自殺幇助に関する問い合わせを受ける際も、「緩和的鎮静」という方法もあることを伝えるようにしているという。
 緩和的鎮静とは、余命が通常一、二週間に迫ってきた、主に末期癌患者に対し、耐え難い痛みを鎮静させるとともに人工的に昏睡状態に陥らせ、死に向かわせることをさす。水分を与えないため、腎不全になり、三~七日間で死に至る。間接的な安楽死と捉え、禁止する国も多いが、日本もスイスもこれを認めている。
 エグジット(フランス語圏支部)の二〇一九年の報告書を見ると、自殺幇助で亡くなった合計三五二人のうち、一三四人は「複数の疾患を持つ高齢者」で、一二二人の「癌患者」を上回っていた。死が差し迫っていないと考えられる高齢者の安楽死が増えている背景には、何があるのか。ジョナン氏は、きっぱりとこう答えた。
 「彼らは、死の選択を持ちたいのです。そして何よりも、自らの人生の指揮を最後まで執りたいのです」
 ゴダール監督も、同じ気持ちでいたのだろうか。彼がエグジットに電話を入れたのは、二〇二二年九月六日。亡くなるわずか一週間前のことだった。

六〇秒で訪れた死

 ゴダール監督が一九七〇年代から生活していた町ロールは、ジュネーブから電車で約二〇分の場所にある。人口は約六〇〇〇人。駅を出て一〇分ほど歩くと、目の前に大きなレマン湖が広がっている。彼は、この湖の辺りをよく散歩したようだ。
 フランス映画界の巨匠は、この町ではどのような人だったのか。閑散としたロールの目抜き通りを歩いてみる。喫茶店、花屋、洋服店などは、すみずみまで手入れが行き届き、清潔な印象だ。町の住民は、「ハットを被り、杖をついて歩いていた」と声を揃える。だが、次に出てくる言葉は、「とても難しく、内向的な性格の人だと聞いていたので、挨拶をしても、会話をしづらかった」というものだった。彼らは、ゴダール監督が亡くなる寸前まで、町内を歩く姿を目撃していた。それは、生の終わりが予告されている安楽死という最期を物語っている。
 孤高の映画作家が頻繁に通ったレストラン「39」の従業員女性は、「ゴダールさんのことは、あまり話してはいけないと言われているのですが……」と小声で囁き、こう明かした。「カナール・アンシェネ(フランスの風刺新聞)を読みながら、りんごのタルトをよく食べていました」。
 一九九〇年代、隣町のピックで、監督と一緒にテニスをしていたビクトル・イゲラス氏(七八歳)は、「テニスクラブの控室でも、喫煙は禁止なのに葉巻を吸っていましたね」と言って笑った。人柄については、「人から話しかけられたり、特別扱いされたりすることが嫌いな人だった」と振り返った。
 夕暮れ時、レマン湖のベンチに腰掛けている七〇代の夫婦がいた。隣町ニオンに住む二人だが、夫のベルナール氏は、偶然にも、ゴダール監督から声をかけられ、名作『わたしたちはみんなまだここにいる』(一九九七年)に脇役で出演したことがあると言った。この作品の監督は、巨匠の妻、アンヌ・マリー・ミエビル氏で、ゴダール氏本人はこの時、主役を演じた。
 「噂されているほど、気難しい人ではなく、むしろ感じの良い人でした.ヌーベル・バーグの仲間(フランソワ・トリュフォー監督やクロード・シャプロル監督ら)に対しては、厳しくて厄介な人だったと言われますが、私が受けた感じでは、とても優しい人でした」。
 人によって、監督の印象は大きく異なった。他人の内面を理解することは、簡単ではない。ゴダール監督が安楽死を選んだ理由も、実際のところは彼にしか分からない。死に方は、生き方の反映だからだ。
 彼は、どのように息を引き取ったのか。エグジットの関係者から、その最期を聞いた。
 ゴダール監督は、安楽死当日の朝、寝室のベッドに腰掛けた。横にはミエビル夫人が寄り添い、正面には監督が信頼した長年の友人と、自殺幇助を見届けるエグジットの看護師の三人がいた。話したいことは、前夜にすべて話し終えていたという。自殺幇助という儀式を淡々と始めるだけだった。
 致死薬入りの水を看護師から手渡されたゴダール監督には、すでに覚悟ができていた。別れの言葉も告げず、コップを口に運び、一気に飲み干した。それから六〇秒。ジャン=リュック・ゴダールは、永遠の眠りについた。

「死ぬ権利」とは

 人間にとって、「死ぬ権利」は絶対的なものなのか。私が欧米諸国で取材を始めるようになってから、常に感じていることのひとつだ。自殺は罪であるとするキリスト教でも、その権利を制御できないのが現実だ。
 人生に疲れた時、そして苦しくなった時、個人の意思で死ぬことが許されるのであれば、今後、安楽死の増加は避けられなくなるだろう。とりわけ、個人の生き方、選択が尊重される欧米では、なおさらのことだ。
 取材後、エグジットのジョナン氏は、私にこう尋ねてきた。
 「明日の朝、ジュネーブの高齢夫婦が同時に自殺幇助を受けるのですが、あなたも立ち会って取材されますか」
 安楽死容認国では今、「死にたい」と思わせる社会に潜む問題の解決よりも、その意思の反映に重点を置く傾向にある。それが「死ぬ権利」というものなのか。私の理解が彼らに追いつくには、まだ時間が足りないのかもしれない。

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寺島実郎 脳力のレッスン(240) 戦後日本と都市新中間層の今――資本主義と民主主義の関係性(その4)

2023年06月28日(水)

とても不安……,いや,不安というべきかどうか分からないけれど,
まちを歩きながら,自分が時間の流れに取り残されているような気がすることがある.
なんだろうな,と前を見る.
いや,ひょっとすると,まちがむかしに戻っているのかもしれない……と思う.

労働をリタイアして,しばらくしてそんな違和があった.

ちょっと前に,

代表制民主主義はなぜ失敗したのか
藤井達夫
集英社新書
2021.11
を読んでいた.

そういえばこの国が小選挙区制を導入しようとしていたころ,
そのたぶんモデルでもあったのだろう,イギリスで,小選挙区制の問題が指摘されている,
そんな指摘があったように思う.
総得票数と獲得議席数との間に乖離が,それも少ない票で多数を占める可能性がある,
いや,じっさいの選挙結果でそうであったか,もうずいぶん前のことだった.

それよりもっと前だったか,
少数党の「乱立」する国の連立政権で,
どんなふうに閣議がすすめられるか……といったことを伝えるレポートがあった.
そういってはちょっと身も蓋もないのだろうが,談合しているんだ,という.
閣議が続く中で,折り合いをつけるために.

イギリスは労働党と保守党の2大政党,といわれるけれど,ほんとうにそうなんだろうか.
そういえば,ケインズには,Am I a Liberal というパンフレットがあったことを思い出す. 
かれは,保守党は地主,金利生活者の政党だと思っていたのではなかったか.
animal spiritをもった「企業家」の政党ではない,と.

いや,そんなことを思い出しながら,さて,民主主義とか,
何であったか,何でありうるか……と.ちょっと思った.そこで止まってしまったが.

いつも思い出す,宮本常一さんが描く小さな漁村での集落の談合の様子を思い出す.
なかなか合意にたどり着かない談合で,外部の者から観ると,いったい何を語り合っているのか,と訝るような.
まぁ,巧遅よりも拙速……かな,と思う.
いや,そうではなく,巧遅ではなく,拙速でもないような.

いま大学の経済の耕義で,分配論をやることがあるのだろうか,と友人と話したことがあった.
いつごろからだろうか,税をめぐる議論が,とても荒っぽいな,と思った.
巧遅でなく,でも拙速でない,そんな議論があってよかったと思うけれど,
海の向こうのずいぶんと乱暴な議論に引きずられて,税制が大きく変容させられたのではないか,と.

たとえば消費税,あるいは付加価値税とかを,ヨーロッパの国々のように,もっと税率を引き上げようという議論があるようだけれど,
かの国々の消費税は,はたしてこの国の制度とおなじようにできているのだろうか.
メディアをせっかく特派員などを置いているのだったら,もうすこし多面的な議論を演出すべきだったのではないだろうか.

……などとと思い浮かべながら,狭い日本,そんなに急いでどこへ行くのか?と思うこともある.
急がば回れとか.それでも,急いで回ろう,かな.

寺島実郎さんの議論,なんとなく既視感があるな……,なんだろう.


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【世界】2022年12月

脳力のレッスン(240)
寺島実郎

戦後日本と都市新中間層の今――資本主義と民主主義の関係性(その4)


 「敗戦」という衝撃の中で、戦後日本が始まり、戦勝国たる米国によって唐突に日本は「民主主義の国」になった。だが、当時の日本人にとって最大の関心は「食うこと」、つまり食べて生き延びることであった。昭和二〇年八月一五日、『貧乏物語』(一九一六年)の著者でマルクス主義者でもあった河上肇は京都に静かに暮らしていたが、次のような歌を詠んでいる。

「大きなる 饅頭蒸して ほほばりて
   茶をのむ時も やがて来るらむ」

 多くの日本人は敗戦を「物量の敗戦」と受け止めた。「大和魂は一歩もひけをとらなかったが、米国の物量にねじ伏せられた」と思いたかったし、そうとしか思えなかったのである。戦後日本がひたすら「経済の時代」を探求する導線がここにあった。戦前の日本政治の在り方への真剣な省察はなされないまま、強制的に民主主義が与えられ、受け身でしかそれを捉えられなかった。
 その後、六〇年安保闘争、七〇年安保・全共闘運動という「政治の季節」の高揚と挫折を経て、「PHP」(繁栄を通じた平和と幸福)を追い求め、「工業生産力モデル」の優等生として「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(一九七九年、E・ヴォーゲルの著書)といわれるに至り、GDP世界二位の国を実現したことに胸を張った。
 もちろん、民主主義を理解しようとする真剣な試みもあった。その重要な舞台の一つとなったのが、岩波書店の『世界』であった。敗戦の翌年、一九四六年五月号の『世界』は特集「アメリカ論」を組み、中野好夫の「ド・トクヴィル『アメリカの民主主義』」や清水幾太郎の「カイザーリング『アメリカ・セット・フリー』」などを掲載した。丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」を寄稿し、戦前の日本の政治構造の解明を試みたのもこの号であった。この特集のタイミングは、GHQによる「主権在民、象徴天皇制」を支柱とする新憲法草案が提示され(二月一三日)、一一月三日に日本国憲法が公布される谷間であり、アメリカ政治研究の必要を痛感し、民主主義の在り方を模索しようとしていた知識青年や学生(大学進学率はまだ一割以下だった)は貪るように『世界』を読んだという。

■日本の戦後民主主義――一足飛びの大衆民主主義

 戦前にも一定の民主主義はあった。国会開設後の一八九〇年の第一回総選挙では、「直接国税一五円以上を納める二五歳以上の男子」に投票権が与えられたが、それは人口のわずか一・一%にすぎなかった。最初の「男子普通選挙」(二五歳以上)が実施された一九二八年の第一六回総選挙でも、有権者は一九・八%にすぎなかったのである。
 戦後、一九四六年四月の第二二回総選挙は、婦人参政権を実現した「二〇歳以上の男女普通選挙」であり、有権者は人口の四八・七%となり、一気に大衆民主主義の時代を迎えた。そして、二○一六年の参議院選挙からは「一八歳選挙権」となり、有権者は人口の八三・七%となった(総務省統計局資料)。大衆民主主義が一段と加速したのである。だが、国民の政治参加の基盤が広がることと、民主主義が有効に機能することは別次元である。
 戦後民主主義を代表する論者の一人である鶴見俊輔(一九二二~二〇一五)は、『思想の科学』一九六〇年七月号に「根もとからの民主主義」を寄稿し、目の前で繰り広げられる「六〇年安保デモ隊」の行動を擁護し、「この大衆運動をとおして、日本の政治はその私的な根から新しく出発し、自分たちの肉声を映画やテレビをとおして世界につたえている。世界にとって、それはきくに足る何かなのだ」と論じ、戦後民主主義の未来に期待を示した。
 鶴見俊輔は冒頭で「一九四五年八月一五日に、敗戦が来た」と表現しているが、「来た」というのが実感だったのであろう。唐突な「戦後日本の民主化」が「白発性の欠如」という宿命を抱えていることに苦闘し続けたといえる。与えられた民主主義において「市民社会の自立」はなるのか、それこそが戦後日本の宿命のテーマであった。
 もう一人、戦後民主主義に影響を与えた人物が丸山眞男(一九一四~九六年)である。岩波新書の『日本の思想』は一九六一年に出版され、現在でも一〇〇刷を超すほど読み継がれている。とくに、「六〇年安保の教科書」といわれた論稿が「『である』ことと『する』こと」だ。「国民主権である」という制度的建前と権利に安住するのではなく、「行動する」論理に踏み出すことの大切さを示唆するもので、民主主義とは何かに関して日本人の視界を拓くものであった。私も、北海道の高校生としてこの本を手にした時の高揚感を覚えている。
 だが、六〇年安保の挫折を経て、ベトナム戦争での米国への失望、さらにプラハの春を戦車で踏みつぶしたソ連への幻滅を味わい、世界の若者は「一九六八野郎」(パリ五月革命、カリフォルニア世代)となって既存の秩序への反抗を試み、日本でも新左翼の登場と全共闘運動の中で、丸山眞男の市民主義は微温的な「プチ・ブルの議論」として軽視されていった。それでも、六〇年代末から七〇年代初頭の大学は、「丸山眞男とマルクスの結婚」という言葉に象徴される市民主義と社会主義が混在した心象風景の学生達が主流であった。運動の主役でもあった「団塊の世代」といわれる戦後生まれの先頭世代は、その後どう生きたのか。それが民主主義の今日的状況と相関しているのである。

■戦後民主主義の主役としての都市新中間層

 経済の時代を突き進んだ日本において、大衆民主主義を担う主体たる「国民」の経済的・社会的基盤は、産業化と都市化の潮流のなかで大きく変容した。一九五〇年、つまり敗戦から五年後の時点で、就業人口の四八・六%は一次産業(農林水産業)に従事しており、国内総生産の二六・○%は一次産業によるものだった。その後の産業構造の変化によって、七〇年の段階で、一次産業の従事者比重は一九・三%、生産比重は六・一%となり、九〇年には従事者比重は七・二%、生産比重は二・五%となった。そして、二〇二〇年には従事者比重はわずか三・二%、生産比重は一・〇%となった。
 また、産業の都市集中により、人口の都市集中が進行し、例えば、首都圏の四都県の人口は一九五〇年には一三〇五万人で、全人口の一五・七%だったが、二〇二〇年には三六九一万人と、全人口の二九・三%を占めるに至っている。つまり、戦後の日本は産業構造の変化と人口の都市集中により、膨大な都市新中間層という存在を産み出した。
 一次産業から二次・三次産業へ、田舎から大都市へ、この人口構造の変化は、総じて国民を豊かにする移動であった。勤労者世帯可処分所得(月額)は、一九五五年の二・六万円から一九七〇年の一〇・三万円、八〇年の三〇・六万円、九〇年の四四・一万円と急増し、九七年の四九・七万円でピークアウトするまで増加を続けた。「明日は今日よりも豊か」と思える時代が、九〇年代末まで続いていた。各種世論調査において、国民の八割以上の階層帰属意識が「自分は中流」と答える一億総中流幻想が生まれたのも当然と思われる時代状況だった。成長の成果が分配を通じて国民生活を潤していくという好循環が機能していたといえる。また、この背景には東西冷戦期における資本主義対社会主義の緊張関係(「五五体制」)を軸に、労働組合運動が経営を突き上げていたという要素も指摘できる。
 私は、『中央公論』一九八〇年五月号に、「われら戦後世代の『坂の上の雲』」という、自分の原点というべき論稿を寄稿した。戦後近代化と産業化の過程で、日本は大都市圏に産業と人口を集中させ、一定の豊かさの中で「新中間層」というべき「階級意識」を持たず、「中流意識」を持った階層を産み出していた。かつての農村社会における地縁・血縁のしがらみから解放された「都市の新中間層」が、戦後民主主義の担い手になることを期待した論稿でもあり、「全否定」を掲げた全共闘運動から約一○年後、私自身が産業の現場に身を置きながら新中間層予備軍として戦後民主主義の前途に果たすべき役判を模索していたといえる。
 この四二年前の論稿において、私は都市新中間層の中核となりつつある戦後世代(団塊の世代)が身につけてきた価値観を「経済主義」(経済的価値への傾斜)と「私生活主義」(個人主義とは異なる閉鎖的小市民主義)とみて、そのことがもたらすであろう未来状況に強い懸念を示していた。あれから四〇年、都市新中間層は、日本の民主主義の中でどこに立っているのであろうか。

■二一世紀のバラタイム転換――大衆民主主義の今日的危機

 二〇〇〇年から二一年の間に、日本では新たな就業人口移動が進んだ。製造業・建設業の就業者が四五五万人減少し、広義のサービス業(金融・不動産業を除く)で七四七万人の就業者が増えた。サービス業でもとくに医療・福祉(多くは介護)と運輸業で四八五万人を増やしている。サービス業は、製造・建設業に比べ、平均年収が約九〇万円低く、この移動が就業者全体の所得を下げているのである。つまり、一二世紀の就業人口の移動は、国民を豊かにするものではないといえる。
 また、二〇二一年の雇用者五九六三万人のうち、非正規雇用者(パート、アルバイト、派遣、契約社員)は二〇六四万人で三四・六%を占める。さらに、年収二〇〇万円未満の「ワーキング・プア」(働いているのに貧困)は一四七六万人で、非正規雇用者の七一・五%を占める。正規雇用者で年収二〇〇万円未満の三四七万人を加え、日本には年収二〇〇万円未満の人が一八二三万人おり、全雇用者の三〇・六%を占める。つまり、分配の平準性を特色とした日本は、今世紀に入り「格差と貧困」へと社会構造を変えたのである。
 先述のごとく、一九九七年に四九・七万円でピークを迎えた勤労者世帯可処分所得は、二〇一一年に四二・一万円まで下落、その後一二年には四九・三万円となったが、二四年も前に比べてまだ水面下で、現役世代の勤労者の所得が低迷を続け、かつ「ワーキング・プア」の比重の高まりが示すごとく、分配の格差が拡大していることが窺(うかが)える。
 さて、この社会構造の変化の中で、戦後民主主義の担い手と思われた都市新中間層の位相も変化した。まず、都市新中間層の第一世代は定年退職を迎え、都市郊外のベッドタウン(東京でいえば国道一六号線沿いのニュータウン、マンション、団地)に高齢者として生活している。会社人間として往復二時間の通勤を続けてきたサラリーマンが、「イエ型企業社会への同一化」(ウチの会社と企業内労組への帰属意識)から解放された空白感の中で、多くは拠り所なき不安の心理の中にあるといえる。
 私は五年前の岩波新書『シルバー・デモクラシー』において、「なぜ高齢者はアベノミクスを支持するのか」を分析している。「経済主義」と「私生活主義」を身につけて企業社会を生きた高齢化した都市新中間層は、次第に「生活保守主義」へと傾斜し、異次元金融緩和で実体経済を膨らませて株高と円安を誘導する歪んだ経済政策に拍手を送るようになった。理由は明確で、家計が保有する金融資産のうち、貯蓄の約六割、有価証券の約七割は六〇歳以上の高齢者が保有しており、日銀に政治的圧力をかけ、赤字国債を青天井で引き受けさせ、ETF(上場投資信託)買いで株価を支える政策は、資産を持った高齢者を潤すからである。人口の四割を高齢者が占める時代が迫る中で、若者の投票率が高齢者の半分という状況が続けば、有効投票の六割は高齢者が占めることになるわけで、「老人の老人による老人のための政治」というシルバー・デモクラシーのパラドックスは現実のものとなりつつある。
 次に、現役世代の都市新中間層の現状を確認しておきたい。都市新中間層も第二、第三世代に入った。帰る田舎を持たない都市圏を故郷とする存在である。彼らは右肩下がりの四半世紀と並走した。一九九四年に世界GDPの一八%を占めた日本経済は、二〇一〇年に中国に抜かれ、二一年には世界GDPの五%にまで後退した。そして、一一年の東日本大震災、二〇年からのコロナ禍と、戦後日本が造りあげてきたものが盤石ではないことを思い知らされた。レジリエンス(耐久力)が問われる局面を迎えたのである。
 不安を背景に内向、保守化へと向かった。絆(キズナ)、連帯、統合、安定を求める空気へと変質していった。変革や改革という言葉が消えていった。「イマ、ココ、ワタシ」しか視界に入らない閉塞感が日本を覆うようになった。そこに「安倍政治」なるものが同軌した。戦後民主主義にとってこの一〇年間の安倍政治とは何だったのか。新たな時代を拓くためにこのことを次に考察したい。

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