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(歴史のダイヤグラム)食堂車の思い出と今昔 原武史

2021年6月4日(金)

原武史さんが食堂車のことを書いていた.
懐かしいな,と思う.
で,食堂車を利用したことがあったかな,と思い起こす.
駅弁にお茶ってのが多かったかな,
たまに食堂車にいったかな……,
ちょっと独特の雰囲気があったなと思い出す.ということは,
時には食堂車を利用していたんだろうな.

いつだったか北海道まで行った帰り,青函連絡船で食堂に行った.
もう働き始めていたか,すこしだけフトコロに余裕があったか.
一人で食べていたら,ちょっといなせな兄さんが,ビールをおごってくれるという.
兄さんもひとりだったから,ちょうどいいお相手だったのだろうか.
でも,気がついたら,もう青森に到着しそうなころ,ほろ酔いでうたた寝していたのだった.
慌てて起き出して下船,乗り換え.どんな列車に乗り換えたんだったか,たぶん東北本線の急行あたりに乗り換えたのだったと思う.こちらには,食堂車など就いていなかったと思う.

旅情……ということばを思いだす.
だいたいひとり旅だった,車両が混んでいるときに,食堂車に逃げ込んでいたこともあったか.ビールとつまみで粘っていたなと思う.
でも,もうそんな汽車旅は期待できそうにないな.

狭いニッポン,そんなに急いでどこへ行くのか,と思う.
新幹線が通って,在来線が第3セクター化し,運転本数は減り,あるいは車両の編成もさびしくなっていく.
食堂車所じゃない,ということか.
代わりに,豪華レストラン列車?なんてのが,観光客目当てに運行される.それを「旅情」なんて言葉で言い表せることができるだろうか,なんて考える.

まぁ,そういう流れなんだろう,とどめがたい.

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(歴史のダイヤグラム)食堂車の思い出と今昔 原武史
2021年5月29日 3時30分

[写真]寝台特急「あさかぜ」のナシ20形食堂車=1958年

 2012(平成24)年4月2日、ポーランドのクラクフからワルシャワ中央まで、インターシティーと呼ばれる特急列車に乗った。私が乗ったのは6人掛けのコンパートメントの車両で、隣が食堂車だった。クラクフを出たのが16時40分だったので、頃合いを見計らって食堂車に移り、夕食をとることにした。

 傾きかけた陽光に照らし出される無人の大平原を眺めながら食べるジュレク(発酵したライ麦のスープ)やピエロギ(水餃子〈ギョーザ〉風料理)の味はすばらしかった。すでに日本国内の鉄道からは、食堂車がほぼなくなっていた。ポーランド料理を堪能するうちに、かつて国内で乗った食堂車の記憶がよみがえってきた。

 中学2年だった1976(昭和51)年7月、山口県の防府から横浜まで、寝台特急「あさかぜ1号」に乗ったことがある。防府を出た17時17分には食堂車がもう営業していて、さっそく向かったところ、メニューを見て驚いた。サーロインステーキやビーフシチューなど、一流レストランを思わせる品々が並んでいたからだ。懐具合からカレーライスとスープだけで粘ることにした。それでも瀬戸内海の夕景を見ながら味わうひとときは格別だった。

 いまでは、車内でこうした体験ができなくなってしまった。どうしても列車でおいしい料理を味わいたければ、JR東日本、西日本、九州が走らせている、宿泊機能を備えたクルーズトレインがあると言われるかもしれない。しかし料金は最高で150万円前後、最低でも数十万円。これではとても手が出ない。

 西武鉄道では、旅するレストランと称して「52席の至福」という電車を池袋―西武秩父間や西武新宿―西武秩父間などに走らせている。この電車はキッチン車両や客席車両などからなっていて、移動中に車内でブランチやディナーが食べられる。

 ただ1人あたりの旅行代金はブランチが1万円、ディナーが1万5千円とやはり高い。景色がよいのはほぼ奥武蔵の山中を走る高麗(こま)―西武秩父間だけだから、「旅する」気分が味わえる時間も限られたものになってしまう。

 4月初旬、大学で行う放送授業の取材のため、近鉄名古屋から宇治山田まで初めて近鉄の観光特急「しまかぜ」に乗った。しばらくすると車内放送があり、カフェ車両で食事の準備ができたという。まさか食堂車が併結されているとは思わなかった。

 座席に置かれたメニューを見ると、イセエビや松阪牛など、地元の特産品を使った料理が充実していた。大いに食指が動いたが、正午前には宇治山田に着いてしまう。もう少し利用しやすい時間に走ってくれたらと思わずにはいられなかった。(政治学者)


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