SSブログ

小池和男 日本の職場方式の海外通用性 

2023年02月08日(水)

古い資料を整理,と言うか廃棄しようとしていて,
若いころ興味を持って読んでいた記事のコピーが出てきた.

労働経済学の小池和男さんの,

日本の職場方式の海外通用性 月刊かんぽ 1988年6月

この頃,もっと前から,仕事の都合もあって,
たとえば楠田丘さんの書かれたもの,
古い給料表を探してきたり,幾人かの労働経済分野の書かれたものを読んでいた.
最近はやりの「ジョブ型」などのことばを,そのころ聞いたように記憶する.
おそらく小池さんも,そして楠田さんも,どちらかというと「日本型雇用」に肯定的だとみなされていただろうし,ぼくもそうは思った.
そうは思ったけれど,書かれたものを読む限り,
たんなる日本型雇用賛美論ではなかった,と思う.

この記事が書かれたころ,この国はバブルのさなかにあっただろうか.
そして,アメリカとの経済摩擦が激化していくのだろうけれど,
そんな影響が労働分野にも及ぶことになっただろうか.

それはそれとして,
じっさいに職場と人を,どういうふうにみていくか,
通常の教科書は置いて,具体的な観察をつうじた小池さんや楠田さんの記述はおもしろかった.
最近の雇用,労働に関する議論を,
現場でどうかは知らないけれど,メディアで見ていて,
とても不安,不満を覚える.

もちろん「左翼」とか「リベラル」とされる人たちの議論にはさらに不安と不満を覚えるが,
しかし同時に,経営とか,アカデミアとかの議論も,さてどうなのだろう……とちょっと考え込む.

そのころ,もう一つ,よく考えておかないといけないな,と思ったのが,
「組織」だったように思う.
なぜ組織?
どんな組織?……
古典的な,組織-個人.これなど,右から左まで同じような問題に直面しがちなように思えた.

一つ,いわゆる職務記述書について,研究書を読んだとき,
職務記述書は,どちらかというと,たとえばブルーカラーだったり,
管理階層の下位の比較的定型的な仕事に従事するホワイトカラーなどが対象となる,とうことだったように記憶する.
管理職となり,管理階層があがっていったときに,どのような職務記述書を作成するのだろう……,
と最近の議論を見る.



―――――――――――――――――――――――――

【月刊 かんぽ】1988.06

日本の職場方式の海外通用性

法政大学教授 小池和男


 この文章は、日本の職場のやり方が、どれほど海外に通用するかを吟昧する。いま、日本企業の海外進出はめざましく、長年の経験のある企業に加え、中小企業も新たに進出しつつある。そこで、いったい、どのような仕事の仕方をとれば経営がうまくいくのか。日本の職場の方式をそのまま海外へもっていけるものか。それともその一部を修正していくべきか、どの点をどのように直せばよいのか。あるいは、根本的に改変しないと通用しないものなのか。迷っている企業も少なくないであろう。
 これまでのさまざまな見解をふり返ると、大幅に改めないと危い、という主張が少なくない。日本の経営の強味は、その人事・雇用制度にあるのに、それが独得の「文化」によっているなら、大幅に改変しない限り、他国に適用するはずがない、というのである。あるいは、独特の日本方式を行うには、それをよく知る日本人職員の比率を高くせざるをえず、その結果、民族志向の地元との摩擦がつよくなる、とみるのだ。ハーバートの吉野洋太郎氏をはじめ、多くの研究者がそう主張している(1)。もしそうなら、いま華々しく進出しても、ぞくぞくと撤退することになる。はたしてそうであろうか。
 わたくしの考えでは、海外通用性の問題は、実は日本方式とはなにか、他国の方式とはなにかを、どれほど深く把握するかにかかる。もし日本方式を、日本に存在しようがない、きわめて非現実的な、絵に画いたような年功賃金、終身雇用などとみるならば、どうして他国に適用しようか。自国にも存在しないものが、他国に通じるはずがない。なによりも、自国と他国の職場の方式を根底から吟味しなおす作業となる。
 日本方式の真の内実は、年功賃金、終身雇用、ましてや集団主義などといったものではなく、鮮やかなソフトウェア技術にある。職場の労働者の技術にある。それは技能や熟練とよばれ、一種の技術だから、条件さえあれぽ、他国に十分伝えられる。その点をこの文章で説明したい。とはいえ、通念はあまりに根強く、そこを素通りするわけにはいくまい。
<12>


年功賃金は日本だけではない

 通念によれば、日本方式とは、なによりも年功賃金・終身雇用・年功的昇進・企業別組合そして集団主義である。年功賃金でくらしに応じた賃金を払い、終身雇用で雇用が確保されれぽ、くらしが保障される。ただし、保障されたからといって、ひとはよく働くものではない。かえって心を安んじ、怠ることも大いにあろう。にもかかわらず日本の職場にそれがおこらないのは、集団主義という気風の賜物だ。企業という集団を重視し、働く仲間に気配りしながら働く。そのゆえに職場の効率が高い、と説く。
だが、いったい絵に画いたような年功賃金や終身雇用が日本に存在しようか。ときに年功賃金を、ほとんど勤続や年齢で賃金額がきまるもの、働きにあまり関係なくくらしできまるもの、と想定する。たとえばさきの吉野氏がそうである。わたくしはそんな賃金を日本でみたことがなく、かえって、イギリス大銀行の非役付行員やオーストラリアの非役付銀行員にそれに近い形を見出すにすぎない。
 日本では、毎年定期昇給があることをもって、さきのように誤解したりする。だが、いうまでもなく、定期昇給額は、毎回厳しい働きぶりの査定があり、それによって金額がちがう。それに、資格によって、同じ勤続年齢でも定期昇給額はだいぶちがう。個人の働きぶりによって長い期間をとれば、賃金はかなり差がついていく。そもそもよく働こうがなまけようが賃金に差がつかなければ、だれがよく働こうか。
 もしたんに定期昇給があるということを重視するなら、西欧のホワイトカラー一般にごく普通の傾向と思われる。この点について残念ながら統計的資料がなく、これを支持する数値をしめせないが、わたくしが見歩いた限りでは広くみられた。さらに、さきにちらと触れたイギリスの大銀行の非役付行員はきれいな年齢給で、しかも役付にならないうちは査定分が日本よりずっと少なく、またオーストラリアの非役付銀行員も同様に勤続給で査定分はごく少なく、日本以上に絵に画いた年功賃金に近い。ただし、イギリスもオーストラリアも、こうした状況は非役付どまりで、いったん役付となると、昇給に査定が大幅に入ってくるようだ。
 もっとゆるく勤続に応じ賃金力ーブが上っていくことをいうなら、それは西欧やアメリカのホワイトカラー一般の賃金といわねぽならない。こんどはよい統計資料がようやく一九七〇年代半ばに西欧でつくられた。日本は一九五四年からある。それらを比ぺると、いわゆる年功カーブが実は西欧やアメリカのホワイトカラーに広くみられる現象であることがわかる(2)。
 年功的昇進も、ほとんど勤続に応じ昇進していく制度は、中位上位の役職については、日本はもとよりどの国にも存在しうるはずがない。どんな組織でも役職の数は上位にいくほど急減し、厳しい競争をまぬがれない。日本の大企業では、個人ごとの厳しい査定が長期にわたってつみ重ねられ、生きのこりのすさまじい競争が展開される。ところてん方式で上っていけるはずがない。
 他国の大企業では、ホワイトカラーを成績によって早くから抜擢する点が目につき、日本との差をきわだたせる。ただし、それは、どの組織にも必ず存在する決定的選抜をやや早く行うか、日本のように一〇~一五年働きぶりをみてから行うかの差にすぎぬ。勤続にほぼ応じ賃金の高い仕事へと昇進していく方式は、下位の職ならときにみられる。ただし、それは日本よりはるかに米英のブルーカラーであって、組合があると、厳密に勤続に応じて上っていく(3)。いわゆる「先任権」制度である。
 終身雇用についても同様である。入社から定年までつとめつづける人は、大企業でもごく一部にすぎず、もともと二〇歳代前半までに会社をかわる人が少なくなく、また、他国より早い定年の前後に、大量に移動する。近時移動が多くなり終身雇用がくずれたなどといわれているが、事実はまさに逆で、六〇年代にかなりの移動があり、七〇年半ぽ以降、大幅に減少した(4)。
 ときに、終身雇用だから、少なく
<13>
とも大企業に解雇は稀だ、などと思われている。たしかに短期の生産減に対しては、大企業は耐えて解雇をなるべくしないよう努める。だが、赤字が二期つづくと、大企業といえども解雇にふみ切る。さらに、ひとつの貴重な統計がある。石油危機後の三年間をとり、その間どれほど解雇したかを、企業規模別に集計した資料である。それによると、一、○○○人以上の大企業でも解雇にふみ切った事業所の割合は、中小企業とかわらない。つまり長期には、中小企業なみに解雇する(5)。そもそも市場に厳しい競争があるかぎり、どうしても勝ちつつある企業と負けつつある企業が生じる。負けかかっている企業は一部を解雇しないと、かえって赤字を大きくし、ついには倒産という全員解雇を招きかねない。うちは終身雇用で解雇をしないなどと海外で広言するくらい危いことはない。市場競争がある以上、守れるはずがなく、守れない公約くらい信用を失墜させるものはない。


集団主義?

 このように、年功賃金、年功的昇進、終身雇用などは、良質な資料をみるかぎり、またきわめて明瞭な事実からの推論によって、日本方式の内実とはとうてい思われない。
 のこる集団主義がまだつよく生きつづけているかにみえる。その最も愚かな解釈は、職場の仕事を集団でこなし、報酬も集団の成果に対して支払われる、というのである。ひとりひとりの作業のうけもちがはっきりせずに、どうして今日の大組織の作業ができようか。成績査定があくまで個人ごとなのは、いうまでもない。
 いま最も有力な解釈は、職務のあいまいさと、そのあいまいさを生かし、職場の他の人をうまく手助けする働きをいう。そうであれば、職務範囲を明確に書かなくとも、効率的によく働く、というのである。他方、集団主義的気風がないところでは、職務があいまいでは、かえって効率が大きく低下する。この点の根本的な修正なしには海外の日本企業はうまくいかない、という議論である。他国の労働者は、日本の労働者とちがい、いわれたことしかしない、というよくいわれる不満は、まさにこの表われである。
 職務のあいまいさやそれを生かす働きは、年功賃金などとちがい、よい統計がなく、直接吟味できない。ここではつぎのふたつの作業を行ってみる。

 (イ)日本にある日本企業の職場を観察し、目本の職場で職務がどれほどあいまいで、文書化されていないか、をさぐる。
 (ロ)こうした事例観察にもとづき、文書化のていどが高いと、非集団主義の場合でもはたして効率的かどうか、この点について推論を展開したい。さきの通常の議論は、集団主義的気風があるとき、職務があいまいだと効率的だが、そうした気風がないとき、かえって効率が下がる、と主張していた。その点を吟味したいのである。

 一般に、職務があいまいかどうか、どれほど文書化しているかを、少しでも確めた資料はまことに乏しい。やむなく、わたくしが近年同じ職場を少なくとも二度たずね得た、わずか五企業九職場の観察を用いるほかない(6)。いずれも大企業の生産職場だが、のちにみるようにホワイトカラー職場には一層よく推論は適用されよう。五事例は、いずれも文書化の調査のために選ばれたのではない。技能形成の観察が主目的であった。ききとりの時点は、一九八四~六年である。


異常と変化

 五企業のうち、ひとつは徹底して文書化がおこなわれ、のこり四事例では仕事の一部について文書化されていた。一部とは、異常の処置の仕方、点検の仕方であり、また三事例については、ひとの配置表および各人の技能の評価表がみられた。これらはたしかに仕事の全部ではないけれど、まことに枢要な部分なのだ。その点から説明しよう。
<14>
 職場の仕事をじっくりと観察すると、「ふだんの作業usual operations」と「ふだんとちがった作業unusual operationsとにわかれる。くり返しが多く、規格化しやすい部分がふだんの作業である。この部分の作業の仕方を書いた文書は、さきの徹底した文書化の事例しかなかった。それはもともとないのではない。新しく生産ラインが設置されたとき、または設備が大幅に改修されたときには、もちろん作業標準書――どこからはじめ、どのように職務を作業していくかの手順が書かれる。だが、ひとびとはすぐ改善工夫を試みる。また設備の小幅な改善がある。効率向上の小道具もとりつけられる。そうすると、初期の作業標準書は不要になり、忘れさられる。
 他方、職場の作業は決してふだんの作業で尽きはしない。おどろくほどひんばんに変化と異常が起っている。変化の一例として、製品の多様性をとりあげてみよう。一見最もくり返し的にみえる量産組立ラインでも、こまかくみればひとつのラインに三〇~四〇種の製品が流れる。消費者需要の多様性を考えれば、当然のことであろう。その変化に応じ、治具や工具を変え、その微調整を行い、うまく対応できるかどうかで、効率は大きくちがう。それが腕なのだ。より重要なのは、異常で、その対応が下手では、機械がすぐとまるか、あるいは不良品をつくりつづける。異常への対応こそ、現代の職場で最も中核的な作業なのだ。
 さきの五事例は、すべて異常への対処を文書化している。また、そのための事前点検の仕方も文書にしている。ただし誤解のないようにいいそえておくが、異常の対処のすべてが書いてあるのではない。ひんばんに現れ、ひとびとが会得してしまったものは、もう書かれない。近時あらわれたトラブルで重要なものについて、その対応の方法を書いておく。それも文書を書くのは技術者ではない。品質管理や保全の人ではなく、生産職場の労働者が書く。つまり、作業の最も重要な部分を、職場の人が書いている。そこに、職場の生産労働者の、すぐれた技能がある。
 配置の一覧表は、日本の職場での配置の慣行を考えるとき、意味深い。日本の職場は、ときに日々の、ときに不定期の、いわゆるローテーションをとることが多い。しかもそれは職場ごとの慣行であり、同じ事業所をとっても職場によりさまざまなのであった。とても記録されていまいと思っていたところ、五例中四例に記録があった。うち二例はローテーションというより数年間は固定制で、欠勤時の代替要員も記されていた。のこる二例はまさにひんばんなローテーションがあり、職長がノートに鉛筆書きで記していた。記録した理由は、職長によれば、ひとつは消費者からの苦情に対しだれの責任かはっきりさせるためであり、他は昇格時や査定のひとつの資料にするため、という。個人責任、査定の明示的な資料、いずれも通念に反することが、ぞくぞくと見いだされる。こうした文書が知られなかったのは、事務所にはとどけられず、調べ手が職場まで下りてじっくりと尋ねなければならないのに、それが行われなかったからであろう。


文書化の限界

 さきに、一例は極度に文書化が進んでいるとのべた。文書化が大いに行われると、かえってその問題もみやすくなろう。まず、どのように文書化されているかをみよう。標準作業書がそれぞれの機械の傍に下げられている。異常処置書もある。ただし、異常のすべてではなく、近時のド重要なものを、生産労働者が記した、点検書もある。ここまでは、もうあまり使われない標準作業書を別にすれば、さきの四例と大差ない。ちがうのは教育確認書である。こまかく研修のコースの終りごとに確認を書き入れる。注目すべきは、研修と異常の処置を結びつけることだ。ある種の研修コースを修了しないと、異常に対処できない。あるいは少なくとも異常処置書に書いてない異常には手をだせない、という事業所の方針である。それは資格化・文書化の、当然ゆきつくところであろう。なお、そのコース修了者は職場のごく一部にすぎず、五~七年の勤続者も修了しておらず、それに研修コース自体はわずか一日ていどのも
<15>
のなのだ。この方針は、はたして効率的であろうか。
 たしかに研修コースは有効である。異常の原因を追究するには機械の構造を知らねばならず、それには一般機械工学、油空圧、電子制御など研修コースで学ぶべきものが少なくない。だが、職場で目の前にある機械はしばしば特殊なものである。専用機ならいうまでもなく、汎用機でも前後の機械との連けいや小道具のとりつけで、特有さがそなわる。それを覚えるには実地経験しかない。さらに、異常のあらわれ方は多様で予測しにくい。職場で経験し、わからないとき先輩にたずねて身につけていく方式が有効だろう。ところが、資格がないと異常に手をだせないのであれば、その手がかりがない。それ故、同じ事業所で同じ方針のもとにある他の職場は、事実上資格にこだわらず、職場の労働者は異常の処理にたずさわっていた。
 一般的にいおう。文書化・規格化が効率的だ、という主張は、実はふたつの危い前提にもとづいている。(イ)異常は予測できる。(ロ)「統一方式」より「分離方式」が効率的だ。以上のふたつである。(イ)から説明しよう。異常がほとんど予測でき、且つそのあらわれ方がそれほど多様でなければ、その対応の仕方を規格化できる。ところが、実際には、異常は十分には予測できず、またあらわれ方も多様なのであった。そうならば、文書にかりに書いても、内容はごく抽象的で、とうてい処置方法を規格化できまい。
 (ロ)かりに予測できる異常と否とにわけられたとする。予測でき規格化できる分を文書化し生産労働者にまかせ、規格化できない部分を資格のより高い人にゆだねるとしよう。それを「分離方式」となづける。他方、規格化しにくい異常もかなり生産労働者が手がける場合を「統一方式」とよぼう。もし生産労働者の適性がかなり高く、異常に対処する知的熟練を身につけるコストが低いならば、断然統一方式が効率的となろう。異常のおこったとき、すぐ対処できる人が多勢、それも機械のすぐ傍にいる。のみならず、生産労働者にとって励みになる。むつかしい仕事に挑戦できると思えば、それにふさわしい処遇さえ用意されるなら、ひとは知的熟練を身につけるべく努力しよう。
 日本の職場の高い生産性は、まさにこのような職場の労働者のすぐれた技術力による。従来の議論はそれをみおとした、技術を見おとせば、「文化」にたよらざるをえない。企業への一体感など集団主義という検証しがたいものをもちだしてくる。以上はブルーカラーの話だが、同様な議論をホワイトカラーや管理者たちによりつよく適用できよう。かれらの方こそ、くり返し部分が少なく、それこそ異常と変化にとりかこまれているからである。


仕事表のすすめ

 異常と変化に対応するには、機械・製品・生産のしくみについての知的理解と、異常の発生についての経験が必要となる。それを知的熟練とよべば、その形成は、主に長い実地経験による。関連する職場の主な持ち場をやや幅広く経験するのが、生産のしくみを知るのに最もよい。補うのに、短期の研修コースが有効である。基本の実地方式は幅広く経験するためかなりの長期を要する。
 こうした知的熟練の形成を海外の労働者にすすめるのは、実は容易ではない。国内でもやさしくないけれど、海外での手法を記すのがこの文章の目的である。その手段は決して特異なものでなく、どこにでも通用する常道を歩むほかない。すなわち(イ)報酬と(ロ)評価である。高い技能を身につけたかどうかを公正に評価し、それに応じ公正な報酬を払うことである。ところが長い実地方式による場合、評価、すなわち高い技能を身につけたかどうかが、簡単には見わけにくいのだ。
 古典的教科書的な技能なら、ことは容易である。社外の訓練コースで高い資格を得、その資格のあるものが高い仕事につく。資格と給与をむすびつけていけばよい。ところが、長期の実地方式で幅広く経験していくと、ローテーションもあり、技能の高度化は連続的で、はっきりとは区切れない。異常への対応にしても、見のがしてしまえば、それまでどおりで気付かず、またひとりで処理できる水準、仲間に教えうるレベルとさまざまあろう。
 この、いわば連続的な技能の変化をとらえるのに、ここで提唱する方策は、仕事表の作成である。それは経験の幅と深さとをそれぞれ測る二
<16>
枚からなる。幅をみる仕事表から説明しよう。表側に職場の人名をひとりずつ書きこむ。表頭に職場の主な持ち場を列記する。そして、各人が経験した持ち場に、たとえば丸印をつけていく。その際、経験のていどによって色わけしてもよい。ひとりで辛うじてできるレベルをピンクとすれば、仲間に教えることができるなら赤とする。
 職長が評価するのだが、三~六カ月ごとに書き直していく。できたら、この表を職場に張りだしておく。職長の評価であれば、実は必ずしも恣意性を一〇〇%排除しきれるものではない。少なくとも周りからはそう思われる。職場にはりだすとは、日頃ともに働く仲間の目に耐える、という意味があろう。ちょうどサッカーの練習を毎日いっしょに行っている仲なら、だれがレギュラーになれるか、とくに改めて議論することなく、チームのメンバーにはわかってくる。野球とちがい、サッカーのように数字であらわしがたい場合には、こうした手続きが重要なのだ。
 深さの仕事表も表頭には、こんどは職場のなかの主な異常と変化への対応の作業を書きならベておく。あとは幅の仕事表と同じく、三~六ヵ月ごとに改訂し、またレベルによって色分けしておく。
 こうした評価をもとに、報酬のしくみを用意する。それは、短期に仕事ぶりと一致させるよりも、長期に仕事と見合わせることが大切である。なによりも促すべき技能形成方式は長期の実地方式である。長い目で技能と一致しないわけにはいかない。しかし、仕事や技能の変化は連続的だから、この仕事ができたからいくら、という短期の払い方はできない。たとえば二週間ごとのローテーションを考えたら、仕事や持ち場ごとに払うことの、非現実性がよく了解されよう。
 さらに、同じ持ち場についていても、異常や変化への対応力には大きな差がありうる。そして、この異常や変化への対応こそ、現代の職場の作業の中核なのだ。とうていいまついている持ち場で、報酬をきめるわけにはいかない。もし、持ち場ごとに報酬をきめたら、いったいだれが異常や変化によく対応しようとするだろうか。
 長期に技能と見合い、短期には職務とは必ずしも一致しない報酬の支払い方――そのひとつの例が、資格制度である。周知のように、同じ資格でも毎年定期昇給がある。それには査定がある。さきの仕事表による評価は、その査定の重要な基礎となろう。さらに、数年おきに、より上の資格へと進む機会がある。長期の雇用の場合、この昇格や昇進こそが、最も働きぶりを促す。そこにももちろん、仕事表の評価がつよく影響する。
 こうした報酬は決して現代日本の職場に特有ではなく、実は西欧のホワイトカラーにかなり広くみられる。およそ、長期に技能を高めていく必要のある場合、そして技能の内実が複雑で、容易にその段階を見定めがたいときには、こうした報酬法がとられるのだ。


 およそ現代日本の職場の方式のなかで、良質な部分は十分他に適用する。それはほぼ右に記した、職場のソフトウェア技術に尽きると考える。他の要素は、その技術を促進するに役立つかぎりで用いればよい。
 なお、長期の実地方式が根づくほど、他国の労働者は長くつとめないだろう、という疑問もあろう。だが、わたくしが歩き廻った職場の限りでは、全くそうではない。アメリカの生産職場には、日本の大企業を上廻る長勤続層が蟠踞しているし(7)、タイの地元企業にも日本に優るとも劣らぬ長勤続傾向が認められた(8)。長くつとめると、得になるしくみなら、ひとは長く勤続するものだ。


(1) Yoshino,M.Yotaro,Japan's Multinational Enterprise,Harv.Univ.Press.1976.石川博友訳『日本の多国籍企業』ダイヤモンド一九七七年。
(2) 拙著『日本の熟練』有斐閣、一九八一年。
(3) 拙著『職場の労働組合と参加――労資関係の日米比較』東洋経済,一九七七年参照。
(4) 拙稿「熟練という性質の分析視角――労働市場は流動化しているか」『経済と労働』(東京都)一九八六年三月号所収。
(5) 拙稿「解雇からみた現代日本の労使関係」森口親司他編『日本経済の構造分析』創文社、一九八三年所収。また村松久良光「解雇・企業利益と賃金――大手工作機械メーカー一三社に関して」関西経済研究センター『失業と雇用の経済分析』一九八五年所収が機械産業を分析している。小池論文は電機とセメントの企業をみている。
(6) 愛知県『知的熟練の形成』愛知県一九八七年及び小池和男、猪木武徳編『人材形成の国際比較――東南アジアと日本』東洋経済、一九八七年所収の事例を用いる。
(7) 前掲拙著『職場の労働組合と参加』参照。
(8) 前掲、小池・猪木編『人材形成の国際比較』参照。

nice!(0)  コメント(0)