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田中克彦 抵抗する言語――ウクライナ問題と言語学

2023年08月19日(土)

戦争が始まって まもなく キエフがキーウに書き換えられた
もし学校のテストで キエフと書いたら × になるんだろうか……なんて考えた

言語学か…… まるで不勉強だったけれど 田中克彦さんの本を すこし読んだことがあって
おもしろかった
よくなじんでいるはずの世界を 違う方向から見せてくれるような

言葉があって 思いを通じ合わせながら 言葉があるために 心を閉ざしてしまうような

ルーシーの中心は かつてキエフにあったとか
それがモンゴルの侵略に遭い 北のモスクワが台頭してくることになるとか
それで もともとルーシーの人びとというのは どこから来たのだったか


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【世界】2023年03月

抵抗する言語――ウクライナ問題と言語学

田中克彦


 言語学は戦争にも革命にも関心のない、世俗から超然とした学問なのか?――一見そのように見える――、こうした疑問は、過去にもときどき耳にすることはあった。じっさいに、「言語学を志す者は、無意味な政治問題に心乱されるようなことがあってはなりません」と、教壇の上から説教する教授もいた。これは日本に特有の現象かもしれない。
 言語学者は、ほんとうにそうだったのだろうか。否であると私は力をこめて答えたい。
 まず思い出すのは、第二次大戦終結の年、一九四五年に、ニューヨークで現れた言語学の専門誌『ワード(WORD)』創刊号の巻頭にかかげられた、アルフ・ソンメルフェルトの「言語問題と平和」(Alf Sommerfelt,Les questions linguistiques et la paix)である。この雑誌『ワード』は、アンドレ・マルチネ、ロマーン・ヤーコブソン、レヴィ=ストロースなどヨーロッパから亡命したユダヤ系の学者がニューヨークに集まり、ひそかに準備していた研究会が刊行したものであった。ソンメルフェルトはノルウェーの言語学者で、ナチスの侵攻に追われてイギリスに渡った亡命政権の文部大臣をつとめていた人らしく、ドイツの汎ゲルマン主義と、日本の言語系統論が南米にまで及んでいることを指摘した上で、「戦争が終わった今、我々はこれらの敵を武装解除したい
と欲する。この武装解除はまた、精神的にも行わなければならない」と結んでいる。
ここに言う系統論的な「日本語南米征服説」は、ちょっと古めかしい、あやふやな知識にもとづいているとしても、ドイツの言語学がナチズムの理論武装補強に資したという責めは否定できないだろう。
 同じように、ドイツ語そのものに現れたナチズムの特性を考察したヴィクトル・クレムペラー――指揮者オットー・クレムペラーの兄――の『第三帝国の言語〈LTI〉 ある言語学者のノート』(一九四七年)も忘れてはならない著作である(邦訳は一九七四年、法政大学出版局)。日本語においては、これに比すべき著作がないのは、日本で言語学にたずさわる人の、ある特性を示しているだろう(ドイツ語ではさらにその後、『非人間の辞典より』一九六七年など、クレムペラーの仕事を継承し、よりドイツ的なしつこさをもって深める作業が現れた)。
 雑誌『ワード』が、最初の数年間は、ドイツ語で書かれた論文を一篇も掲載しなかったのは、ソンメルフェルトの意向をソンタク(付度)したのであろう。
 これらの著作を並べたあとで、忘れずに記しておきたいのが、L・ヴァイスゲルバーの『ヨーロッパの言語的未来』(L.Weisgerber,Die Sprachliche Zukunft Europas,1953)である。
 これはスイスのドイツ語を話す人たち――スイスには四つの「国語」が憲法で定められていて、ドイツ語は最も多くの国民により用いられている――の、ドイツ語を話し続けていいか、という質問に答えた小冊子であるが、ヴァイスゲルバーはこれに対して、言語、民族、国家について縦横に語っている。私は一九六四-六六年の頃、ボン大学に留学中、この人の講義を聞き、また研究室をたずねて対話した。
 そうだ! 言語を支えるのは言語共同体(=民族)であり、それを基礎に国家が形成される、この点からみれば、今日の国際状況を考える上で、言語からの観点をさけることはできない。できると考えるのは、問題の重要な論点から目をそらすこととなるであろう。

■メイエ『新生ヨーロッパの言語』

 ここまでは第二次大戦について述べたが、じつは第一次大戦とそれに続くロシアの十月革命をうけて書かれたきわめて重要な著作がある。フランスを代表すると言っていい言語学者アントワーヌ・メイエが書いた『新生ヨーロッパの言語』(初版一九一八年、第二版一九二八年。この第二版の邦訳は一九四三年、三省堂。二〇一七年、岩波文庫から出ている)は、一般的概説ではなくて、言語学者にはめったにないことであるが、身をのりだして、個々の言語の優劣を論じ、存在してはいるが、あってはならない言語(たとえばウクライナ語!)を具体的に指摘した、おそるべき著作である。
 この本は、一九一八年の初版と一九二八年の再版とでは、題名は同じでも、まるで別の著作かと思われるくらい、内容は大幅に増補されている。著者は、この本はそのままにしておいてはならない、絶対に書き足さねばならないという思いにかられて一〇年後に増補版を出したものと見られる。増補されているのは、がいして、ロシア革命によっていかなる変化が生じたかを述べた部分である。だから、原著にある「新生」を省いて、時代の限定のない、あくまで一般的なヨーロッパ諸語の概説書であると見せかけた日本の出版社の意図は正しくない。
 この本を書いた理由として、メイエは、第一次大戦とロシア革命がもたらした結果であるという。このできごとによって何がもたらされたかといえば、「文明はいよいよ統一に向かっているのに対し、言語の数は増える一方」であり、特に新しいロシアすなわちソビエト連邦では、かつての蛮族のことばまでが文字を与えられて、学術や文学の領域に至るまで用いられることになり、ヨーロッパの統一を乱している。「全世界はただ一つの文明をもつ方向に向かっているのに、文明語(langue de civilisation)の数は増える一方である」。それは民族自決権の主張がこのような状況をもたらしたものだと嘆く。
 かつては、「独、英、スペイン、仏、イタリア語」の五つの言語で理解できた世界が、もうこれだけでは足りない。で、新しく生まれた言語は、たいていは、文明化されていない地方や僻地の農民などの方言や土語であって、いずれも「つまらない」ことばばかりであると。

■ことばの数は増え続ける

 近代化の過程における言語の数の増大は、言語学者だけでなく、政治学や社会学の人たちからも、驚きをもって注目されていた。
 カール・W・ドイッチュが一九三九年に発表した論文の中で、整理された文法と正書法をそなえた書きことばは、一八〇〇年から一九〇〇年までの聞に一六から三〇に増えた、さらに一九〇〇年から一九三七年の三七年の間には五三を数えるまでになったと指摘している。つまり二〇世紀がはじまってから三七年の間には、一九世紀の百年間に増えた数の倍をこえる言語の増加があったことを明らかにした。これは言うまでもなくヨーロッパ全土にわたり、民族意識が高揚し、その民族が国家的独立を求めた結果によるものである。
 もちろん、これら新しく生まれた言語は、民族や国家が突如製造したものではない。民族が自治領域あるいは国家という独自の単位を作ったことによって、それら言語の存在がはじめて明らかになり、国際的にも認知されたというだけのことである。世界の言語の数は今日、七千ないし八千と言われているが、かつてフランス科学アカデミーは二七九六と決定したという。これには何をもって一個の言語と認めるかという、終わりのない議論があることを知っておかなければならない。
 まともに使える「言語」の数は少なければ少ないほどいいという考えは、メイエだけのものではない。マルクス主義の創始者たちにあってもしかりである。エンゲルスは民族を「歴史ある民族」と「歴史なき民族」に区別して、歴史ある少数の民族の言語のみが歴史を担う資格があるとした。そして、当時ロシア人は、歴史ある民族には数えられていなかったのである(良知力「48年革命における歴史なき民によせて」『思想』一九七六年一〇月号参照)。
 こう聞いて、マルクス主義を支持する人たちは反論するであろう。否、ソ連邦はあれほど多くの言語を世界史の舞台に出したではないかと。事実スターリンは、一九二五年の東方労働者共産主義大学(クートゥヴェ КУТВ)創立四周年を祝う記念講演で、「社会主義革命は、それまで知られていなかった多数の民族語の新しい生命をよみがえらせた」と述べた。当時スターリンはそれを「五〇以上の民族語」と誇ったが、その後、控えめに見ても一二〇をこえていた。
 ソビエトロシアにおけるこのような転回は、オーストリア・マルクシストの影響による、ソ連マルクシズム特有の新しい転回であって、これを私は、ソビエト・マルクシズヘヘムの元マルクシズムからの逸脱と呼んでいる。

■ウクライナ語はロシア語の方言?

 話をメイエの著作にもどそう。メイエの専門は何といってもスラヴ語学である。だからかれがロシアについて述べるところでは最も学識が現れ、力がこもる。かれは、革命後、まずロシアの貴族社会から文明語のフランス語が追放されたことを嘆く。貴族の家庭では、乳母は農奴の女を雇い、その乳によって児を育て、幼児の頃からはフランス人を雇ってフランス語の教育をする。親たちは、こどもたちがロシア語のような下等の言語をしゃべることを望まず、高級な文明語たるフランス語がしゃべれることを自慢した。これはロシアの著名な作家たちが幼児期を回想した自伝などで語っているからよく知られている。
 で、ロシア語は言語学上、東スラヴ語派に属し、その仲間にはウクライナ語とベラルーシ語がある。これら三つの言語相互の間は大変近く、たがいに理解できるくらいである。その近さのゆえに、ウクライナ語とベラルーシ語はいずれもロシア語の方言と見なされているほどである。
 したがって、メイエは当時の慣例にしたがって、ロシア語をGrand-ruse(大ロシア語)、ウクライナ語をPetitt-ruse(小ロシア語)と呼んでいる。小ロシア語を知る人は難なく大ロシア語を習熟することができるので、「小ロシア語なるものを確立することは必要でもなく有益でもなかった」。だから「ウクライナ政府が小ロシア語を国語にすることは、農村の土語に基礎を置く特殊語を都市住民に課することになり、文明を低下させるものである」。「小ロシア語の住民は大ロシア語から遠ざかることによって、みずからこの利益をすてたのである。彼等は力の及ぶ限り大ロシア語の進出を阻止している」。
 この文章を読む人は、誰しも二〇二二年にウクライナを侵攻したプーチン氏とまったく同じ思想を読みとることであろう。

■アウスバウ――方言からの独立へ

 さきに、一九世紀から二〇世紀にかけて、有力な大言語に従属する小方言が、次々に民族とその国家の独立を表示することばとして姿を現す流れを見た。メイエがそれを、文明の流れの方向は一つであるのに、言語だけが分裂していくのは人類にとって損失だと嘆くさまを見た。
 言語学者は、あるいは言語学はすべてそのように見るのであろうか。そうではない。ここにどうしても紹介しなければならない別の研究がある。著者はハインツ・クロスと言い、その著書の名は『一八〇〇年以降の、新しいゲルマン系文化語の発展』(Heinz Kloss,Die Entwicklung neuer germanischer Kultursparachen seit 1800,Düsseldorf,1978)である。
 ここには、ウクライナ語よりもはるかに話し手人口が少なく、歴史にも名を出さない北欧のアイスランド語や、フリースランド語のような言語から、パプア=ニューギニアの国語にもなった、崩れた英語に由来するトクピシンにまで話がおよんでいる。
 著者は、これらの小さな、世間から見れば素性のあやしい言語が、いかにして維持されるかについて興味深い観察と分析を行った結果、これら大言語に依存する小方言が、いずれも、大言語からの距離をもつために、さまざまな努力を払っているさまを描き出した。
 クロス氏はこの努力と、その結果現れる現象をアウスバウ(Ausbau)と呼んだ。「拡張」というような意味らしい。つまり、その方言にさまざまな可能な努力を加えて、言語の領域を広げて身を守り、大言語からのへだたりを作るというような意味だ。これらの小さな方言的言語はそのよう


〈140〉
にしないと、たちまちに隣接の大言語に吸収されて消えてしまうおそれがあるからである。
 それに対して、小さくとも、とりまく大言語とはきわだって異なる言語は、とりつく島もないように、隣接の大言語に吸収されるおそれはない。日本で言えば、アイヌ語がそうである。このような言語をAbstand(アプシュタント:間隔)の言語と呼んだ。
 このアウスバウ言語、アプシュタント言語の区別を、私は、言語を単に発生的に系統で考えるだけでなく、別の方向、つまり、置かれた状況から見る視点を得るために、さまざまな状況に応用して考えてみた。そして、これをとりあえず日本語でもわかるように、アウスバウを「造成」、アプシュタントを「隔絶」と訳して、いろんなケースにあてはめて考えてみた。この訳語が適切か否かは、いまは問わないことにして。たとえば日本語との関係で、アイヌ語はアプシュタント(隔絶)言語であり、オキナワ諸語はアウスバウ言語だと言えるだろう。そして一九八一年、『ことばと国家』(岩波新書)でも紹介した。いま考えてみると、このアウスバウこそは、まさにロシア語に対するウクライナ語の関係を考えるのに大いに役に立つ。
 アウスバウ(拡張)とは、言語をそれとして意識するだけでなく、話し手の多大な努力を要する作業である。そして話し手が大言語と自らの母語との差を冷静に意識して、自分の言語=母語の使い方に努力する過程でもある。もし私がウクライナ語の歴史を書くとすれば、ロシア語を意識しながら、まずそこで用いる語彙のアウスバウの過程を考えることからはじめるであろう。
 歴史をふりかえってみると、このアウスバウの問題に最初に手をつけたのは一七世紀以来のドイツ語だった。「モノ」を表すobject(対象)に、私の耳には大変ものものしく響くゲーゲンシュタントGegenstandを与えるなどして、ドイツの哲学は、自前の材料を用いて地のことばに言い換え、かれらの哲学を独特の風貌をもつ学問につくりかえた。この方式は、全世界の後進諸語、すなわち未開、野蛮な国の言語に一つの行動規範を与えることになり、日本語も、漢字をつかってだが、それをまねて大規模に実行した。ロシア語ももちろんこの方式により、多数の文明的近代語彙を製造したのであるが、わが日本のロシア語学はロシア語しか見ていないから、あまりそんなことには注意を払わなかった。

■独立を求めてたたかう方言

 クロスさんは、さきの著作ではテーマがゲルマン語なので、ゲルマン諸語についてだけ述べているからふれなかったが、それより一〇年ほど前に書かれた別の著作『二〇世紀の民族政策の基本問題』(Grundfragen der Ethnopolitik im 20.Jahrhundert,1969)では、ウクライナ語独自の行政用語が、ソビエト政権下でロシア語にとりかえられていったさまに言及している。それに抵抗したウクライナの言語学者たちが厳しい刑に処せられたことについてはいくつもの研究がある。
 ソビエト政権のロシア語は、この政権下に生まれたロシア語の新語を、政権下の諸言語に翻訳することを許さなかった。それらの単語は「ソヴィエティズム」を表現するための魂のこもった語彙であるとして翻訳することを禁じた。日本を含むほとんどの外国では何の抵抗もなく、このソヴィエティズムを受け入れた。しかし、ロシア語に直接隣接する諸言語はСовт「ソビエト」を直接導入せず、自前の材料を用いて翻訳し、それを、ソビエト崩壊まで貫いて用いたのである。
 私の知識の範囲で挙げると、フィンランド語ではneuvosto(会議)、モンゴル語zöblölt(会議の)、ウクライナ語はрадаとしており、語源はドイツ語の(あるいはポーランド語を介しての)Rathaus ラートハウス(市役所)のRatにあたる。(冒頭写真の「ソビエト社会主義共和国」の表記も、ウクライナ語版ではрадаラーダが使われている)
 この母語化した一語を守るために、ウクライナのいかにすぐれた言語学者たちの命が失われたかを心にとどめておく必要がある。
という間に文字をおぼえ、識字率が一挙にあがったという。だが、いずれにせよ、これによって、東アジアを支配する唯一の文明語たる漢字からの自立をはたすための、断固たるアウスバウの表明だったのである。これにより、すべての朝鮮人は、漢字とそのイデオロギーによる永劫(えいごう)の支配から決然として脱することができたのである。これはヴェトナムが先んじて達成していたことだが。日本が同じ道を歩まなかったのはなぜか。これこそは日本の歴史学者が、とりわけ国語学者が朝鮮語などとの対比において解明しなければならない問題であろう。

■「文明」から排除される「民族」

 ここで私たちは、一九世紀から二〇世紀のはじめにかけにしないと、たちまちに隣接の大言語に吸収されて消えてしまうおそれがあるからである。
 それに対して、小さくとも、とりまく大言語とはきわだって異なる言語は、とりつく島もないように、隣接の大言語に吸収されるおそれはない。日本で言えば、アイヌ語がそうである。このような言語をAbstand(アプシュタント:間隔)の言語と呼んだ。
 このアウスバウ言語、アプシュタント言語の区別を、私は、言語を単に発生的に系統で考えるだけでなく、別の方向、つまり、置かれた状況から見る視点を得るために、さまざまな状況に応用して考えてみた。そして、これをとりあえず日本語でもわかるように、アウスバウを「造成」、アプシュタントを「隔絶」と訳して、いろんなケースにあてはめて考えてみた。この訳語が適切か否かは、いまは問わないことにして。たとえば日本語との関係で、アイヌ語はアプシュタント(隔絶)言語であり、オキナワ諸語はアウスバウ言語だと言えるだろう。そして一九八一年、『ことばと国家』(岩波新書)でも紹介した。いま考えてみると、このアウスバウこそは、まさにロシア語に対するウクライナ語の関係を考えるのに大いに役に立つ。
 アウスバウ(拡張)とは、言語をそれとして意識するだけでなく、話し手の多大な努力を要する作業である。そして話し手が大言語と自らの母語との差を冷静に意識して、自分の言語=母語の使い方に努力する過程でもある。もし私がウクライナ語の歴史を書くとすれば、ロシア語を意識しながら、まずそこで用いる語彙のアウスバウの過程を考えることからはじめるであろう。
 歴史をふりかえってみると、このアウスバウの問題に最初に手をつけたのは一七世紀以来のドイツ語だった。「モノ」を表すobject(対象)に、私の耳には大変ものものしく響くゲーゲンシュタントGegenstandを与えるなどして、ドイツの哲学は、自前の材料を用いて地のことばに言い換え、かれらの哲学を独特の風貌をもつ学問につくりかえた。この方式は、全世界の後進諸語、すなわち未開、野蛮な国の言語に一つの行動規範を与えることになり、日本語も、漢字をつかってだが、それをまねて大規模に実行した。ロシア語ももちろんこの方式により、多数の文明的近代語彙を製造したのであるが、わが日本のロシア語学はロシア語しか見ていないから、あまりそんなことには注意を払わなかった。

■独立を求めてたたかう方言

 クロスさんは、さきの著作ではテーマがゲルマン語なので、ゲルマン諸語についてだけ述べているからふれなかったが、それより一〇年ほど前に書かれた別の著作『二〇世紀の民族政策の基本問題』(Grundfragen der Ethnopolitik im 20.Jahrhundert,1969)では、ウクライナ語独自の行政用語が、ソビエト政権下でロシア語にとりかえられていったさまに言及している。それに抵抗したウクライナの言語学者たちが厳しい刑に処せられたことについてはいくつもの研究がある。
 ソビエト政権のロシア語は、この政権下に生まれたロシア語の新語を、政権下の諸言語に翻訳することを許さなかった。それらの単語は「ソヴィエティズム」を表現するための魂のこもった語彙であるとして翻訳することを禁じた。日本を含むほとんどの外国では何の抵抗もなく、このソヴィエティズムを受け入れた。しかし、ロシア語に直接隣接する諸言語はCOBET「ソビエト」を直接導入せず、自前の材料を用いて翻訳し、それを、ソビエト崩壊まで貫いて用いたのである。
 私の知識の範囲で挙げると、フィンランド語ではneuvosto(会議)、モンゴル語zoblolt(会議の)、ウクライナ語はpaπaとしており、語源はドイツ語の(あるいはポーランド語を介しての)Rathaus ラートハウス(市役所)のRatにあたる。(冒頭写真の「ソビエト社会主義共和国」の表記も、ウクライナ語版ではpauaラーダが使われている)
 この母語化した一語を守るために、ウクライナのいかにすぐれた言語学者たちの命が失われたかを心にとどめておく必要がある。
 日本の敗戦とともに南北ふたつの朝鮮が、そろって漢字を放棄した理由を、この機会に考えてみよう。今日では韓国の知識人の多くは、漢字のない不便さを嘆き、漢字を失ったことは韓国の学問をはじめ、知的世界にとって大きな損失であったと嘆く。しかし他方では、これこそは、すべての韓国人があっという間に文字をおぼえ、識字率が一挙にあがったという。だが、いずれにせよ、これによって、東アジアを支配する唯一の文明語たる漢字からの自立をはたすための、断固たるアウスバウの表明だったのである。これにより、すべての朝鮮人は、漢字とそのイデオロギーによる永劫(えいごう)の支配から決然として脱することができたのである。これはヴェトナムが先んじて達成していたことだが。日本が同じ道を歩まなかったのはなぜか。これこそは日本の歴史学者が、とりわけ国語学者が朝鮮語などとの対比において解明しなければならない問題であろう。


■「文明」から排除される「民族」

 ここで私たちは、一九世紀から二〇世紀のはじめにかけ着語との接触がロシア語の劣化を招いたという議論に二〇世紀に入ってから敢然と反論したのが、ニコライ・トルベツコーイなどのユーラシア主義者たちであった。
 こうした印欧語比較言語学にのみ込まれた文明主義からの脱出は、いろいろな仕方で、無意識的にも意識的にも試みられたが、私としては、何としてもフェルディナン・ド・ソシュールの苦悩に満ちた試みをあげなければならない。
 ソシュールは、その青年時代を、ライプツィヒとベルリンで、印欧語比較研究のまっただ中で過ごした。かれ自身、二一歳の若さで、「印欧諸語における母音の原初体系についての覚え書き」(一八七八年)を発表して、大いに注目されたが、ジュネーヴに帰ってからしばらくの沈黙の後、ジュネーヴ大学で一九〇六年から一九一一年にかけて三回の講義を行った。この講義はソシュールが残したメモと、講義に出席した学生の筆記にもとついて、弟子のシャルル・バイイとアルベール・セシュエとが講義を再現しようとしてまとめた『一般言語学講義』を通して知ることができる。
 その後一九五〇年代になって、ソシュールが自ら執筆した著書ではないというので、さらに資料をあさって本物の講義を復元しようという野心家がいろいろ試みたが、私は、バイイがソシュールの意図を十分にとどめてくれていると信じて、まずこのバイイ編の講義を繰り返し味わい、それを縦横に理解することが肝要だと考え、折あるごとにその読解に沈潜した。
 ところが、ソ連の学界はソシュールと、それが触発した欧米のすべての流れを、反マルクス主義的反動思想であると、全面的に否定した。私は、この種の論評に強い関心を抱き、できればその路線に立とうと努力してみた。しかし、それを読めば読むほどソシュールの主張の鮮やかさにひかれたのである。
 ソ連のソシュール批判の要点の一つは、その方法が「反歴史的」だということである。印欧語比較言語学の「比較・歴史的」な方法から外れてはならないというのである。ソシュールの理論は、「歴史(的)」ということばを避けてdiachroniqueと言い、それに対立する「没歴史的」という意味で共時的(synchronique)ということばで語られている。したがってソシュールの言語学は「共時言語学」と呼ばれる。『講義』に「歴史の介入は人の判断をゆがめる」という鋭い指摘がある。

■文化領域の巨大な変化の中で

 このような考えがどこから生まれたのであろうかと考えた。そして、ソシュールがこの「歴史主義」というよりは「歴史でのみ」という流れを押しのけて、共時主義に至ったのには、エミール・デュルケムの社会学の影響があったことに気づかざるを得ないのである。
 このことを知るためには一九三三年に書かれた、ワルシャワ大学のW・ドロシェフスキーの論文、「デュルケムとソシュール」である。この論文はすでに一九三四年に小林英夫によって翻訳され、今では『20世紀言語学論集』(みすず書房、二〇〇〇年刊)に収められているので読むことができる。
 ヨーロッパでこのようにひそかに進んでいた学問的雰囲気の変化は、ほとんど同時に、アメリカでは言語学と人類学の世界で生じて文化人類学の発生をうながし、アメリカで進められていた新しいモードが誕生したのである。
 デュルケム社会学の影響の下に生まれたソシュールの言語学は、言語のわくを破って、文化の諸現象を、文明の流れの外に置いて、個別、固有の現象として、それ自体の独自の価値をもつ単位として観察する構造主義の大きなうねりとなって展開した。一九世紀の最終期から二〇世紀の初めにかけて生じたこの動きは、レーニン、スターリンの名とともにソ連の思想界がひろめた「史的唯物論」に鋭く対立するものであり、ソ連のイデオローグたちは、それを脅威に感じとって反応したにちがいないことがわかる。
 この、文化を扱う領域に起きた巨大な変化は、学問の領域をはみ出し、無意識にも人々の気持ちを世界規模で変えていったさまは、それと気づかれず、世界の学界に潜行した、一種の文化的革命、否、反革命とも呼ぶべき巨大なうねりとなり、それはいまなお進行中である。

 ロシアの大統領プーチン氏が「まつろわぬ民」ウクライナに軍を侵攻させてから間もなく一年になる。その時私がまず思い出したのは、ほぼ一世紀前にメイエが発したウクライナ語に関する感想である。プーチン氏にあっては、ウクライナ語などは存在すべきでないという思いは、この百年のうちにいっそう強化されたのであろう。ロシア軍の侵攻を、ある人たちは侵略と言いかえた。プーチン氏は、かつて十字軍が異教徒や異端の征伐に向かったときのように、むしろ懲罰と意識したであろう。文明の発展に逆らう逆賊は滅びるべきであると。
 文明は未開の植民地に進出する際には、必ずそう自らの植民地侵略を正当化してきた。日本の教養層もまた、そのような信仰の中で自らを形成した。大学をはじめあらゆる拠点を文明の奔流がおおいつくしても、なお極東の一蛮族の未開な「民俗」を足場にして抵抗し続けた柳田國男などの仕事がいまにしてまぶしく思われるのである。





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寺島実郎 脳力のレッスン(249) 近現代史の折り返し点に立つ日本――「歴史総合」導入の衝撃

2023年08月19日(土)

ひと皆使うだろう個室に日本地図と世界地図の地図帳が置いてあって
ときどきページを開いて眺めている
高校のころ 地理の教員は イヤなやつだった
紛争収束後 まもなく別の高校の校長に転じたと聞いたが どうだったか
だから地理に興味はなかった……というほどではなかったけれど
いまはどうか知らないけれど 大学受験で地理を選択する人は少なかったのではなかったか
そもそも地理が受験科目にあったんだろうか

歴史に教科書には もちろん地図帳など収録されてはいない
テーマによって ごくごく簡単な地図が挿絵として載っている程度か

世界史の授業で 列島の国のことを聞くことはほとんどなかった
日本史の授業はどうだったか
ちょっと変わった教師に教わった
変わっていたかどうか むしろ彼の教え方が その高校の看板のひとつだったのではなかったか
そんな覚えがある
でも 意識して世界の あるいはアジアの 極東の歴史がとりあげられることは ほとんどなかったのではないだろうか

そんなことを思い出しながら 読んでいた


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【世界】2023年03月

脳力のレッスン(249)
近現代史の折り返し点に立つ日本――「歴史総合」導入の衝撃

寺島実郎


 「歴史とは現在と過去の対話である」というのは、歴史家E・H・カーの名言であるが、より踏み込んで思索を深めるならば、「歴史は過去と現在と未来の相互対話で成り立つ」と思われる。その意味で、日本にとって二〇二三年は歴史的な節目の年である。明治維新からアジア太平洋戦争における敗戦までの「明治期」が七七年、その一九四五年の敗戦から二〇二二年までが七七年であった。明治期と戦後期がともに七七年という折り返し点を迎えたのである。
 さらに、想像力を膨らませて、これからの七七年先を見据えるならば、七七年後は世紀末で、二二世紀を目前とする年ということになる。歴史意識を研ぎ澄まして、近現代史における我々の立ち位置を確認し、近未来の日本に突きつけられている課題を正視しなければならない。
 明治維新の頃は三三八〇万人、敗戦直後は七二一五万人であった日本の人口は、二〇〇八年に一・二八億人でピークを迎え、昨年は既に一・二四億人にまで減少し、二一〇〇年の人口は中位予測で約五九七二万人とされる。人口が半減すると予想される時代と並走することになる。
 もう一つ、視界に入れるべき数字として、世界GDPにおける日本の比重を確認しておきたい。統計ベースが異なるが、明治初期、世界GDPに占める日本の比重は三%前後と推計される。第一次大戦から第二次大戦の戦間期、日本の比重は五%前後まで高まったがこれが明治期におけるピークだったと推定される。敗戦後、一九五〇年の世界GDPにおける日本の比重は約三%であり、戦後期を通じてのピークを迎えたのは一九九四年の一八%であった。この数字が昨年ついに四%台となった。二一世紀直前の二〇〇〇年には一四%であったから、今世紀に入っての急速な埋没である。これからの七七年間で如何なる推移を辿るかは分らない。ただ、このままでは、二〇三五年までに三%を割り込む可能性が高い。
 「GDPはGDPにすぎず、人間社会総体の価値を投影するものではなく、もはや『成長志向』の時代ではない」という議論も大切にしたい。だが、GDPは創出付加価値の総和であり、国民経済の活力を反映する指標とするならば、世界経済の中で日本が相対的に沈下していることは正しく認識すべきである。
 こうした数字を視界に入れるだけで、気が遠くなる近未来と向き合っていかねばならないのだが、その前提として、我々は「明治期」「戦後期」とされる時代とは何だったのかについて真剣に考察し、未来圏への道標とせねばならない。

■「歴史総合」導入の衝撃と苦闘

 奇しくも、昨年四月から日本の高等学校に「歴史総合」という必修科目が導入された。これまでの「世界史」「日本史」という分類での歴史教育ではなく、全高校生が「歴史総合」を学んだ後に、探究科目として「世界史探究」、「日本史探究」の履修が可能ということである。地球を一つの星として捉え、世界史と地域史の相関を視座とする「グローバル・ヒストリー」というアプローチは、世界における歴史研究の主潮であり、日本の教育現場にもこのアプローチが導入されたわけで、妥当な方向だと思う。
 だが、話は単純ではなく、教育現場には静かな混乱が生じている。誰が教壇に立ち、何を教材としてどう教えるのかという問題が浮上してくるのである。「歴史総合」の導入の狙いについては、「①世界史と日本史を関連付けて教える、②古代からの通史ではなく、主に近代、現代を扱う、③現代に生きる私たちの社会の在り方や直面する課題を学ぶ」と説明されており、まさに戦後日本の歴史教育が忌避してきたことに正対する試みである。
 戦後の歴史教育を受けてきた多くの日本人の知的欠陥は「近代史への基本認識が欠落している」ことにある。日本史を高校で学んだ人も、多くは縄文弥生で始まった授業が幕末維新で時間切れとなり、近代史は自習してくれというのが常態であった。多くの人は明治期の歴史には向き合うことなく社会人として生きてきたのである。私は一五年以上も日中韓の大学の単位互換協定たる「キャンパス・アジア構想」に関わってきたが、日本人がそれを「反日教育」と呼ぼうが、中国・韓国の学生は近代史だけは刷り込まれており、日本の学生との大きなギャップを感じる。
 現在、書店には「歴史総合」を意識した書物が並ぶ。歴史教育の教壇に立つ教師は、教科書、副読本として何を使うかに頭を悩ませていると思う。岩波講座『世界歴史』(全二四巻、岩波書店)や『歴史の転換期』(全一一巻、山川出版社)など歴史学会の集合的努力によるグローバルな視界からの歴史認識を探る試みもなされている。また、『高校生のための「歴史総合」入門――世界の中の日本・近代史』(全三巻、浅海伸夫、藤原書店、二〇二二年)や岩波新書の『シリーズ歴史総合を学ぶ①②』(成田龍一、小川幸司編、二〇二二年)、は視界に入れるべき論点を探る手掛かりになるであろう。
 ただし、明治期を的確に捉えることは容易ではない。「歴史総合」の教科書に一通り目を通したが、明治レジームの評価に関し、肝心なことに踏み込めないでいるという印象はぬぐえない。例えば、明治維新から一九四五年の敗戦に至る体制の「どこに問題があって、あの無謀な戦争に至ったのか」という素朴な疑問にどこまで的確に答えられるであろうか。
 しかも、二〇一六年六月の改正公職選挙法施行により一八歳に選挙権年齢を引き下げたところであり、それは高校生が政治参画することを意味し、学びたての近現代史理解が投票行動の基底に影響を与えることは容易に想像できる。どの教科書、副読本で学ぶかが意思決定に重い意味をもつのである。それは天皇制の在り方を含め、憲法改正につながる現代日本の課題に対して重要な判断材料を提供することになるのである。

■明治期レジームの評価という重い課題

 歴史総合が近現代史に焦点を当てるということは、「幕末・維新」から「敗戦」に至る時代をどう認識し、いかに評価するのかを正視することである。つまり、先述の明治維新からの七七年と正対することが歴史総合の焦点なのだが、それは勇気の要ることである。何故なら、それはこの時代の「国体」の本質を探ることであり、必然的にこの時代の天皇制に論及することになるからである。
 私が『人間と宗教 あるいは日本人の心の基軸』(岩波書店、二〇二一年)を書き進める上で苦闘したのが、「戦後期」を生きてきた人間として、「明治期」と「戦後期」で一八〇度転換してしまった日本人の価値基軸を体系的に確認することであった。そして、明治期のレジームが微妙な二重構造になっていたことに気付き始めた。その構造こそが我々の近現代理解を難しくしているのである。
 「尊王援夷」を旗印に討幕を果たした明治維新は「天皇親政の神道国家」を目指すことで出発した。古道への回帰であり、「復古」であった。本居宣長(一七三〇~一八○一)に代表される江戸期における国学は、文明文化において決定的な影響を受けてきた中国の「からごころ」から日本の「やまとごころ」を自立させる起点となった。水戸学の主柱たる会沢正志斎(一七八二~一八六三)は、「新論」で皇室を中心とする「国体」の優越性を語り、日本人全体が皇室を尊び、天皇を中心に大名、武士が結束して外国を排除する流れを形成する基点となった。
 一八六七年に「王政復占の大写令」が出され、「諸事神武創業の始」に基づく祭政一致国家を目指す基本方針が示された。「天皇は神聖不可侵で、元首にして統治権を総攬する」という「国体」が重視され、一八七〇年には「大教宣布の詔」が出され、仏教さえ排除する「天皇親政の神道国家」を目指すというのが明治期の通奏低音だったのである。それが次第に「開国近代化」を推し進める方向へと変質していく。明治新政府は岩倉使節団の米欧回覧(一八七一~七三年)などを通じて、列強に伍すためには近代国家体制の確立が不可欠であることを認識し、内閣制度導入(一八八五年)、明治憲法制定(一八八九年公布)、国会開設(一八九〇年)、を進めていく。さらに「殖産興業」「富国強兵」を掲げて、日本型資本主義を展開していく。「復古」という下部構造の上に「開化」という上部構造を載せた二重構造が明治レジームの基本構造となるのである。
 祭政一致を目指し、神祇官制を復活させて動き始めた明治政府が教部省体制に移行(一八七二年)、その下に置いた教院・教導職を廃止したのが一八八四年で、建前上は国家的宗教制度は廃止された。だが、明治維新をもたらした「天皇親政の神道国家」を希求する意識は「密教」のごとく封印され、埋め込まれた。「復古」を内在させた「開化」、ここに明治期の評価の難しさがあり、明治レジームの危うさはこの構造に由来するといえる。昭和期に入り、その危うさが露呈する。富国強兵で自信を深め、新興の帝国主義国の性格を強め始めた日本への欧米の圧力が強まり、日本の孤立と閉塞感が高まる(一九三三年の国際連盟脱退)と、埋め込まれていた下部構造(天皇親政の神道国家)が、近代国家という上部構造を突き上げて顕在化するのである。
 「天皇は主権者ではなく、国家の最高機関」とする天皇機関説は、立憲君主制の常識といえるが、それを排除する国体明徴運動(一九三五年)が起こり、翌一九三六年には天皇親政国家を再興せんとする陸軍青年将校による「二・二六事件」が暴発した。そして「軍の統帥権は天皇にあり、内閣などの国務機関の意向を超越している」とする統帥権干犯問題が軍部の専横を招き、日本を戦争への道に追い込んでいった。
 今日では遠景となった明治期への視界を拓く上で有効な教材が、戦前の「高等科国史」である。つまり、戦前の高校生がいかなる歴史教科書を学び、いかなる歴史認識を身につけていたのかを確認することである。「高等科国史」(昭和一九年版)は「神勅」から始まる。日本は神の国であり、「天照大神」がその子孫としての皇孫をこの国に降臨させたとする話から始まり、万世一系の天皇の下に「皇威の伸張、尊王思想、朝威の更張としての明治維新の大業」という歴史観が貫かれている。民族の神話と権威付けはいかなる国にも存在するが、自尊を突き抜けて排他的選民思想に転ずる時、害毒が生じるのである。
 ほぼすべての明治期の国民がこの国定教科書の歴史観を強要されることで身につけた価値観を想うと戦慄を覚える。そして、自国を極端に美化する民族宗教(国家神道と国家権力が一体になることがもたらした八〇年前の日本の狂気が、今まさにプーチンのロシアが「ロシア正教」という民族宗教で国民を戦争に駆り立てている構図と近似していることに気付くのである。羽賀祥二の『明治維新と宗教』(筑摩書房、一九九四年)は「敬神愛国」を軸とする国民教化による天皇神格化の過程を冷静に検証している。

■明治という時代と天皇制

 明治期について真剣に思索する機会も少なく、近代史を空白にしたまま戦後日本を生きた日本人の多くは、司馬遼太郎を通じて近代史に触れたともいえる。『竜馬がゆく』(一九六三年)『坂の上の雲』(一九六九年)『翔ぶが如く』(一九七五年)は総計で五六〇〇万部(二○二二年六月現在)も売り上げ、司馬遼太郎は国民作家といわれるほど読まれてきた。戦争に至る歴史への罪悪感を抱きつつ、ひたすら「経済の時代」を生きた戦後日本人にとって司馬遼太郎の描いた近代史は救いだった。司馬は明治という時代を支えた青年群像を描き、国家と帰属組織と個人の目標が一気通貫で「坂の上の雲」を見つめていた時代として伝えた。「国民戦争」として日露戦争を描いたのである。だが、不思議なほど司馬は昭和の戦争に至った明治体制の矛盾、とくに国民を駆り立てた「国家神道」については言及しなかった。自分自身の戦争体験を通じた昭和の軍部には厳しい批判を繰り返したこともあり、日本人は「明るい明治と暗い昭和」という視界を共有していった。
 検定済みの「歴史総合」の教科書も、ほとんどは「西力東漸(せいりきとうぜん)」の中で迎えた明治期を「日本の近代化の時代」と描いている。微妙に「国家神道」と「国体」がもたらした悲劇への言及を避けており、実はこのことが現代日本の選択に関する議論を曇らせてきたといえる。敗戦後の一九四五年一二月、GHQは「神道指令」を出し、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止」を指示し、翌四六年の天皇の「人間宣言」がなされ、それが象徴天皇制への導線ともなった。
 占領下の指令により、日本人の心に浸透していた国家神道的価値観が唐突に消去された空白は、埋められないまま放置されてきたといえる。それ故に、国家神道の残影は今日も明治期に郷愁を抱く人達の中に生き続けている。例えば、二○一七年三月、安倍政権は「教育勅語」の副読本化を閣議決定した。教育勅語の大半は人間社会における良識的徳目を示しており、今日でも尊重されるべしという考え方のようだが、教育勅語の本質が国家神道を支柱とする「主権在君」にあり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という価値に帰結していることを忘れてはならない。また、自民党の憲法改正案では「天皇を元首とする」となっており、明治期への省察は見られない。
 歴史総合の導入を機に、日本人が再認識すべき柱の一つは「象徴天皇制」の意義である。権力というよりも権威として定着してきた日本の歴史における天皇制の意味を熟慮し、権力と一体化した明治期の絶対天皇制に対して、本来あるべき天皇制に近いものとして象徴天皇制を安定的に根付かせることが問われているのである。日本人に求められるのは、現代から過去への冷徹な問いかけであり、それを未来に繋ぐ真摯な視座の構築であろう。






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原武史 葛西敬之は日本の鉄道をどう変えたか



もうだいぶ前のこと,本の題名は忘れたけれど,元国労の幹部が,民営化にいたるころの日本国有鉄道,国労や動労などの動きをについて書いた本を読んでいて,
国鉄を放り出されて,清算事業団に行き,それから自治体などに転職していった人たちのことを考えていたことがあった.
いつだったか,スト権ストのころか,上尾で「暴動」めいた事件があったりしたころ,
電車に組合のスローガンなどが大書されていた.
スローガンを,自分たちの主張を広く伝えることがいけないとはいわないけれど,
さて,電車にペンキで大書して,乗客としてはあまりいい気持ちはしないだろうな,なんて思っていた.いや,ひとのことをとやかく言える身ではないなとは思ったけれど,
ちょっとわが身を振り返ったりしていた.

それで,その本だったか,あるいは別の場所でだったか,葛西敬之というひとが,分割民営化は経営的な合理性ではなく,対労働組合,たんてきに国鉄の労働組合を叩き潰すための選択肢だったというようなことを語っていたというのだった.

国鉄や電電など,どういう人材を集めていたか,思い出す.
田舎に行くと,国鉄や電電などに,優秀な子たちが就職していったのではなかったかな.
そのなかから選抜されて,中央で研修を受けたりしながら,じっさいの現場を取り仕切っていたんだろう.葛西さんのような人たちがどんなキャリアパスを描いていたか.

民営化前後に国鉄に就職した,技術系の本社採用組の人の話を聞いたことがあった.
かれはそれこそ数年後,地方の鉄道管理局で課長として,鉄道のインフラの維持にあたっていたんだろう.鉄道が好きで進んだ,といっていた.しかし,労使の関係の悪化は,現場の席に者にはとても負担が重かった,というか,たぶん仕事が楽しくなくなっていったのだろう.
辞める,という選択をしたのだという.自治体に転職した.そこで勤め上げたんだろうか.もう退職しているんだろうか.
葛西さんもそれこそ30歳くらいで,静岡だか,鉄道管理職の人事課長かなにかに就いていたようだ.そこで,本を書いた労組の活動家と知り合う.

……この国の交通政策が,たぶん鉄道の現状をつくっているんだろうとは思う.
ほんとうにそれでよかったのか,とも思う.ヨーロッパなどで,鉄道線路の距離が伸びているとか聞く.実際にそうなのか,詳しくはないのだけれど,鉄道関係のテレビ番組などを見ていると,そうかもしれないな,と思う.
アジアではどうなんだろう.中國あたり,西に向かって新線を建設したりしたらしいし……とか.
ものの本によれば,ヨーロッパでは,上下分離による建設が多いとか聞く.
鉄道とか,電力とか,より効果的にネットワークをつくっていくことが求められていたのではなかったかな.
しかし,電力は,戦後発送電分離が検討されたが,結局,地域独占体制がつくられて,
3.11でその弱点が浮き彫りになったのではなかったか.東と西の周波数変換がすすまないとか.
鉄道が網のように張り巡らされているから,東北本線が動かなくても奥羽本線は日本海側の路線が代替して物資が運ばれていった.
新幹線は,では,そうした代替が可能か?
まして,リニアなど? そういえばリニアがとても「電気食い」だと聞く.

まぁ,いろいろ思い出すことがあり,考えないことがあるな,と思いながら,
原武史さんの文章を読んでいた.







【世界】2023年03月

葛西敬之は日本の鉄道をどう変えたか

原 武史


 昨年五月に亡くなった葛西敬之(よしゆき)の姿を、聞近で一度だけ見たことがある。
 時は国鉄が解体され、JRが発足して間もない一九八七(昭和六二)年一二月一四日。所は宮崎県日向市の浮上式鉄道宮崎実験センターだった。「浮上式鉄道」は、リニアモーターカーを意味する。
 当時、私は日本経済新聞東京本社の社会部に所属する記者で、JRを担当していた。石原慎太郎運輸大臣がリニアを視察するため同センターを訪れることになり、私も報道陣に加わって以下のような記事を書いた。

  石原運輸相は一四日午前、宮崎県日向市にある鉄道総合技術研究所の浮上式鉄道宮崎実験センターを訪れ、同実験線を走るMLUOO2型リニアモーターカーに試乗した。(中略)
 午前九時四〇分、同センターに着いた石原運輸相は直ちに五階の指令室に入り、高木肇所長の概況説明を聞いたあと、プラットホームへ。同相をはじめ一四人を乗せたリニアはOO2型の有人走行としては最枝高の時速三〇六キロを記録。約五・六キロの実験線を八分で往復した。(『日本経済新聞』八七年一二月一四日号夕刊)

 このとき、石原が試乗したあとに我々報道陣をリニアへと案内したのが、四六歳にしてJR東海の取締役総合企画本部長に就任した葛西だったのだ。
 言うまでもなくヒラの取締役という役職は、社長や会長はもちろん、副社長や専務や常務よりも地位が低い。だが葛西の名は、彼らより知れわたっていた。国鉄末期に「国鉄改革三人組」の一人として、JR東日本の常務となった松田昌士(まさたけ)、JR西日本の副社長となった井手正敬(まさたか)とともに分割民営化を推進したことで注目を浴びていたからだ。
 運輸大臣をリニアに試乗させ、最高時速で走らせた葛西の表情は誇らしげに見えた。政府のお墨付きを得て、東京と大阪を一時間で結ぶリニア中央新幹線構想が、いよいよ本格的に動き出す予感がしたものだった。だが、本稿で取り上げる森功『国商 最後のフィクサー葛西敬之』(講談社、二○二二年)によると、JR東海がリニアを建設することが分割民営化の時点で決まっていたわけではなかった。当初主導権を握っていたのは運輸省とJR東日本だったが、JR東日本の人事が揉め、主導権がJR東海に移ったことで、葛西自身もリニアに本腰を入れるようになったという。
 そうだとしても、八七年一二月一四日の光景はいまだに脳裏に焼きついている。葛西はJR東海の将来を、たとえ当面は東海道新幹線に依存せざるを得ないとしても、将来的には速度で勝るリニアに託しているように見えたからだ。同時に、その開業は時の権力者との結託なしにはあり得ないという葛西の経営姿勢を示した原風景としても、しっかりと記憶されている。


■山県有朋への傾倒■

 政治家や官僚と結託して特権的な利益を得る「政商」は少なくない。しかし森功によれば、葛西敬之はそうではなく、自ら信じた「国益」のために政治家や官僚と結託した経営者だった。『国商』というタイトルは、ここに由来している。
 新聞記者時代に私が一度だけ目にした葛西敬之の印象は間違っていなかった。それどころか平成になり、実験線が宮崎県からリニア中央新幹線のルートに当たる山梨県に移され、JR東海の社長や会長となる葛西のもとでリニアの工事が進むにつれ、その本領はますます発揮されてゆくことが、『国商』には克明に描かれている。
 中でも特筆すべきは、二度首相の座に就き、憲政史上最長の政権を築いた安倍晋三との深い付き合いだろう。安倍は、葛西がひそかに入院してから亡くなるまでの一カ月半の間に三度も病院を訪れ、葛西を見舞った。そして葛西が亡くなるや、フェイスブックに哀悼の辞を寄せた。
 両者に共通するのは、日本を尊び、国益を何よりも尊重する右派的な政治信条だ。葛西が「日本会議」の中央委員や靖国神社の「崇敬者総代」などを務めてきたことにもそれはあらわれている。
 しかし安倍が、国家の中枢に天皇を置き、男系男子の天皇を理想とする「万世一系」イデオロギーを信奉していたのに対して、葛西に同様のイデオロギーは感じられない。『国商』にも、葛西の天皇観について触れた箇所はひとつもない。


〈156〉
 代わりに言及されているのは、明治から大正にかけて長州閥のリーダーとして強大な権力を保った山県有朋である。『国商』の「おわりに」では、二二年九月二七日に開かれた「故安倍晋三国葬儀」で友人代表の菅義偉が引用した岡義武『山県有朋 明治日本の象徴』(岩波文庫、二〇一九年)は、葛西が安倍に薦めた本だったという驚くべき事実が明らかにされている。

 葛西は東大法学部時代、日本政治外交史が専門の岡ゼミを受講し、山県に傾倒していった。その影響を受けたのが安倍であり、本にある山県の歌に安倍がマーキングし、葛西敬之へ哀悼を寄せた。そして葛西の関係者葬の二日後、その歌を自らのフェイスブックに掲載した。(『国商』)

 葛西自身、『文藝春秋』二〇一○年一二月臨時増刊号に「穏健な帝国主義者」と題する山県有朋論を寄稿している。ここで葛西は、岡の『山県有朋』を「名著」として紹介し、こう述べている。

 一見、飽くなき権力意志の如く見えるのは実は自らの手で育て上げた明治日本を守り、永続させなければならないという使命感だった。出世と政権奪取が目的と化した感のある今日の政治家や官僚と、「日本民族の独立」を存亡の危機から救うという死活的目的達成のために権力掌握にこだわった明治日本の建設者たちはこの一点において顕著に異なっている。

 もちろん葛西自身は政治家ではない。しかし山県を持ち上げるこうした文章からは、JR東海の「総帥」として絶対的な権力をもちながら、安倍政権に影響力を及ぼそうとした意図が伝わってくる。それを一言でいえば、中国に脅かされつつある日本の国益を守り、「永続させなければならないという使命感」にほかなるまい。


■満鉄の超特急と新幹線■

 安倍が戦後に改憲させられる前の日本に郷愁を抱いていたように、葛西もまた戦前に郷愁を抱いていた。ただしそれは、「万世一系」を定めた大日本帝国憲法下の日本よりも、満鉄の超特急「あじあ」が走っていた「満洲国」の方だったろう。
 一九三一(昭和六)年九月に満州事変が勃発し、翌年には傀儡国家の「満洲国」が成立。清朝最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)が皇帝となるのは、三四年三月だった。同年一二月の時刻表を見ると、大連を午前九時に出た「あじあ」は、首都新京(現・長春)に午後五時三〇分に着いた。最高速度は一三○キロ。これほど速い列車は、当時の日本はもちろん、世界にもほとんどなかった。
 その要因としては、満鉄の線路幅が日本の国有鉄道の一〇六七ミリよりも広い国際標準軌の一四三五ミリだったこと、「満洲国」の地形が比較的フラットで、高低差のない曲線状の線路を敷きやすかったことが挙げられる。国土の七割が山地で、線路の高低差が生じやすい上にカーブも多い日本の鉄道とは、そもそも初期条件が異なっていた。
 敗戦とともに「満洲国」は滅んだが、「あじあ」の技術は新幹線に受け継がれた。満鉄同様、国際標準軌を採用し、六四(昭和三九)年一〇月に開業した東海道新幹線の最高速度は二一〇キロで、当時としては世界最速だったからだ。国鉄総裁として新幹線の建設を進めた十河(そごう)信二は、かつて満鉄理事として「あじあ」を走らせた人物でもあった。葛西が国鉄に入ったのは、新幹線開業の前年に当たる六三年だった。自ら著した『飛躍への挑戦 東海道新幹線から超電導リニアへ』(ワック、二〇一七年)で、葛西は開業の意義をこう強調する。

 国民的な夢を背景に、それでいて政界筋と部内から少なからざる反対を受けつつも、開業してみれば東海道新幹線は大成功であった。初年度は一部区間で徐行を行ったため東京~大阪間を四時間かけて走行したが、一年後には計画どおり時速二一〇キロで三時間一〇分運転となった。前人未踏の時速二一〇キロによる東京~大阪間三時間一〇分(それまでは六時間五〇分)という飛躍は、計画段階でのすべての予測値を飛び越えて非連続的、飛躍的な輸送量の増加をもたらした。

 「満洲国」よりも地形で圧倒的に不利な日本の条件を見事にはねのけ、新幹線は「世界最速」の座を「あじあ」から受け継いだ。この文章には、鉄道の価値をスピードや所要時間という数値に還元させる葛西の思考が鮮やかに現れている。
 それでも開業当初は、「ひかり」が毎時○分発、「こだま」が毎時三〇分発で、途中名古屋と京都にしか停まらない「ひかり」と各駅に停まる「こだま」の本数が同じだった。並行在来線の東海道本線にも、東京と九州を結ぶ寝台特急をはじめ、九州、山陽、山陰、近畿、東海の各地方に向かう特急や急行が数多く走っていた。
 つまり乗客は、所要時間だけでなく料金や車窓風景や乗り換えの回数など、自らの優先順位に応じて列車を比較的自由に選ぶことができたのである。国鉄時代には駅にエスカレーターやエレベーターがほとんど設置されていなかったから、とりわけ高齢者や障害者にとって、たとえ余計に


〈158〉
所要時間がかかっても、いったん降りることなく新幹線の駅がない地方都市に直行できる在来線の特急や急行は貴重だったに違いない。
 八五年三月のダイヤ改定で一時間あたりの東海道新幹線の本数が「ひかり」六本、「こだま」四本になるなど、より速い列車を優先させる傾向は国鉄末期に現れていた。それでも、さまざまな優等列車が新幹線と在来線の双方を走るダイヤは、八七年三月の国鉄解体まで維持された。


■東海道新幹線の変質■

 八七年四月に発足したJR東海は、はじめから東海道新幹線を中核とする会社だった。葛西は羽田と伊丹を結ぶ航空便に対して優位に立つためにも、新幹線のさらなるスピードアップが必要と考えた。『国商』の一節を引こう。

 葛西は八八年から「二七〇㎞/h化プロジェクト」に着手した。八八年六月に常務、さらに九〇年六月代表取締役副社長に出世し、新たな高速新幹線開発の陣頭指揮を執る。東海道新幹線が大きく変わったのは、二年間の試験運転を経た九二年の300系の登場からだ。時速二七〇キロの「のぞみ」が開業した。時速二二〇キロの0系新幹線に対し、300系新幹線のぞみは、三時間かかっていた東京~新大阪間を二時間半で走行できるよう計算された。九二年に一日五本しか走っていなかったのぞみ300系新幹線は翌九三年に三四本になり、新幹線全体の本数も民営化六年目にして二三一本から二七三本へと急増する。

 葛西がJR東海で文字通りの権力者として台頭する時期は、東海道新幹線に「のぞみ」が走り始め、「ひかり」と「こだま」から成っていた開業以来のダイヤが大きく変わる時期と重なっていた。さらに二〇〇三年一〇月には、新幹線の品川駅が開業する。当時、葛西は社長だった。「葛西は新幹線品川駅の開業を境に、すべての列車を時刻二七〇キロで運転するようにした。それまでひかりが主体だったダイヤをのぞみ中心に切り替え、運行本数も一挙に増やした」(『国商』)
 九六年八月には山梨県に将来のリニア中央新幹線の一部となる実験線が完成し、実験走行も始まったが、実用化に向けての道筋はまだついていなかった。リニアの開業が見込めない以上、当面は新幹線のスピードアップに専念するしかない。葛西には、こうした判断があったのだろう。
 〇七年一月には、台湾の新幹線に当たる台湾高速鉄道が開業した。日本初の鉄道海外輸出を推し進めたのも葛西だった。しかし、国交がなかった台湾に新幹線を輸出すること自体が政治的な意味合いを帯びていた。葛西は中国に新幹線の技術を盗まれることを恐れ、中国に新幹線を輸出した川崎重工業との契約を切り、代わりに日本車輌を子会社にして技術革新を図った。葛西に言わせれば、共産主義国家の中国で日本の新幹線が走ることなど、絶対にあってはならなかったのだ。
 おそらく葛西は、二一世紀に入り中国が急速に経済大国として台頭してきたことを、ひしひしと感じていただろう。中国ではすでに、新幹線に当たる高速鉄道網の整備が進んでいたからだ。とりわけ〇八年に着工し、一一年に開通した京滬(けいこ)高速鉄道は、北京-上海間一三一八キロを最速四時間四八分で結び、最高速度は三五〇キロに達した。
 葛西の思惑に反して、東海道新幹線の「のぞみ」よりも速い列車を、中国は独力で走らせていたのである。前述のように、中国と日本では地形が全く異なっていた。高低差の少ない平地が広がる中国は、日本よりも高速の列車を走らせやすかった。言い換えれば、山地の区間やカーブの区間が多い新幹線は、中国に対抗するには不利な条件をはじめから抱いていたともいえる。


■「国体」としてのリニア■

 それでも、満鉄の「あじあ」以来、世界の鉄道をリードしてきたのは日本だという自負が葛西にはあったのだろう。中国に打ち勝つためには、冒頭に触れたように、JR凍海の発足直後から運輸大臣を試乗させるなど、新幹線に代わる目玉として注目していたリニアの開発を急ぐしかない。その思いは、晩年になるほど強まった。

 JR東海の社長、会長に昇りつめ、国士と評されるようになった葛西が最も心血を注いだ事業がリニア新幹線である。(中略)手段を選ばず、いかに効率よく目的を達成できるか。そんな合理主義者の反面、見方を変えれば、極めて純粋な企業経営者でもある。その葛西はいつの間にか、リニア中央新幹線構想について、日本の全国民が評価するプロジェクトだと信じて疑わなくなる。(『国商』)

 リニアは〇三年、有人走行で時速五八一キロという世界最高速度を記録し、一五年にはその記録を六〇三キロに塗り替えた。一四年には安倍首相の仲介で、キャロライン・ケネディ駐日米国大使を山梨実験線に試乗させた。葛西はりニアを、米国にも売り込もうとしていたのである。
 だが米国では、リニア事業からすでに撤退している。リニアに熱心なのは、いまや中国と日本だけになっている。中国のリニアは常電導で、車両が三センチしか浮かないのに対して、日本のリニアは超電導で、一〇センチ以上も車体が浮き上がる。


〈160〉

 葛西は「日本の技術は中国とはレベルが違う」と公言し、JR東海のホームページにも、一〇センチの浮揚により時速五〇〇キロ以上の高速走行が可能だと高らかに謳っている。(『国商』)

 中国でも、時速六〇〇キロで走るリニアの車両は完成していると報道されているが、実用化はまだされていない。葛西の夢は、世界のどの国も成功していない超電導で、東京と大阪を一時間で結ぶリニア新幹線を一刻も早く走らせ、中国とのスピード競争に打ち勝つことだった。
 そのためには、南アルプスの地下にも、住宅の建て込んだ首都圏の地下にも、長大トンネルを掘る必要があった。品川-名古屋間で言えば、全区間の八六%がトンネルになると計算された。富士山はもとより、景色自体がほぼ全く見えなくなるわけだ。鉄道の価値がスピードという数値に極端なまでに一元化された結果がこれだった。
 この工事に対して、南アルプストンネルが県北部を通ることになる静岡県の川勝平太知事が反対していることは周知の通りだ。首都圏では、住宅地の真下に当たる大深度地下にトンネルを掘ることへの不安も高まっている。しかし葛西は、東海道新幹線のときも反対があったが、いざ開業すれば意義が広く認められたように、リニアも必ず国民に受け入れられると信じていた。
 安倍晋三が「万世一系」の皇室を世界のどこにもない「国体」として誇りたかったとすれば、葛西敬之はリニアを世界のどこにもない最先端の列車として誇りたかったのだろう。「東京~大阪間を一時間で結ぶリニアバイパスの完成は、日本の『頭脳・体幹部』に弾力性と活力を与え、二一世紀を通じて日本の発展を支えるインフラとなるだろう」(『飛躍への挑戦』)。リニアとは、東京や大阪という「頭脳・体幹部」に血液を供給する動脈のようなものだと葛西は言う。葛西にとってはリニアこそ、「国体」を構成する不可欠の要素だったのである。


■「スピード信仰」が国を歪めた■

 元運輸事務次官の黒野匡彦(まさひこ)は、葛西敬之の印象について、「経営者でなく、一種の思想家のように思えます。経営判断よりも先に、自分の思想信条で判断しちゃうところがある」と答えている(『国商』)。鉄道会社の経営者でありながら「思想家」でもあるという点で、葛西は阪急の創業者である小林一三と共通する。
 だが両者の思想は、まさに対照的である。小林は福沢諭吉を、葛西は山県有朋を尊敬していた。慶應義塾出身の小林は福沢から影響を受け、国家から独立した文化圏を阪急沿線に築こうとしたのに対して、東大法学部出身の葛西は権力を一貫して手放さなかった山県に倣うかのように政権と結託し、国家とまさに一体化することで、鉄道をナショナリズムの道具にした。
 阪急が走る大阪を「民衆の大都会」と呼んだ小林にとっての民衆は、阪急文化を担うべき主体だった。分譲住宅地も宝塚歌劇団も夕ーミナルデパートも、そうした思想に基づいていた(原武史『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』、講談社学術文庫、二〇二〇年)。
 一方、葛西にとっての民衆は、世界最速を目標とする鉄道を利用する客体にすぎなかった。彼が最も重視したのは国家であって、個々の乗客ではなかった。この点に関する限り、葛西は確かに岡義武が描いた山県有朋に似ていた。

 彼の支配の基礎は、民衆にはなかったのである。(中略)民衆は、彼にとっては、支配の単なる客体にすぎず、従って、彼の権力意志は支配機構を掌握することへと集中されたのであった。彼は民衆から遊離したところの存在であった。(『山県有朋』)

 葛西にとって乗客とは、速く走る列車の恩恵に浴することで、自らの思想の支持者になるべき存在だった。JR東海管内の東海道本線から特急をほぼなくし、事実上東海道新幹線でしか移動できないダイヤに変えたばかりか、停車駅の少ない「のぞみ」が圧倒的に優位なダイヤに新幹線を変えたのも、乗客はスピードこそを最も重視するというもくろみがあったからだ。

 いまや東アジアでは、前述した台湾や中国ばかりか、韓国にも新幹線に当たる高速鉄道が走っている。だがこれらの国や地域では、新幹線が開業しても在来線の特急や急行を廃止していない。所要時間のほかに料金や車窓風景や乗り換えの少なさなど、乗客の優先順位に応じて自由に列車を選べるダイヤ自体、変わっていないのである。
 また欧州では、「フライト・シェイム(飛び恥)」という言葉があるように、二酸化炭素を多く排出する飛行機を避け、所要時間が余計にかかっても排出量の少ない夜行列車を利用する気運が高まっている。多くの都市では、自動車に代わって路面電車の復権が進んでいる。スピードに一元化されない鉄道の価値が見直されているのである。
 一方、日本では依然としてスピード信仰が揺らいでいない。最近でも、二二年九月に他の新幹線とつながらず、在来線との乗り換えを要する西九州新幹線が開業したほか、敦賀に延伸する北陸新幹線、札幌に延伸する北海道新幹線、そしてリニア中央新幹線の工事が、当初の想定よりはるかに膨らんだ総事業費を伴いつつ進んでいる。加えてリニアには、財政投融資として三兆円が注ぎ込まれる。それでも葛西がもくろんだように、工事を積極的に支持する地方の


〈162〉
政治家や実業家がいることもまた確かである。しかし、日本の少子高齢化は急速な勢いで進んでいる。全人口に占める六五歳以上の高齢者の割合は三割に迫り、世界でも最高水準にある。葛西自身もこのことは気になったようで、次のような反論を試みている。

 一部に、人口の高齢化と少子化が進む日本において超電導リニアバイパスのような巨大投資が必要か否かをあげつらう向きもある。しかし、人口が減少する傾向にあっても、日本の頭脳・体幹部である首都圏~中京圏~近畿圏への人口集中は続くであろうし、成熟しつつある日本を活性化し、停滞気味なトレンドに非連続な転換をもたらしてくれる新技術への投資は不可欠であろう。(『飛躍への挑戦』)

 葛西は、高度成長期に開業した東海道新幹線の成功神話をそのまま信じていたのだ。安倍晋三が「万世一系」イデオロギーを信じたように、葛西敬之にとっての「国体」もまた護持されなければならなかった。しかし令和になってからのコロナ禍は、日本社会を大きく変えた。リモートワークが普及し、速く移動するという鉄道の目的自体が意味を失った。「密」を避けたいという意識が広がったことや、勤務地の近くに住む必要がなくなったことが要因となって東京都の人口が減り、他県への転出が進んだ。葛西の読みは完全に外れたのだ。
 しかも近年では、「持続可能な社会」が重視されるようになっている。リニアは東海道新幹線に比べても、環境への負荷がはるかに大きい。消費電力量も、東海道新幹線の四~五倍かかるとされている。葛西が東日本大震災後も原発再稼働を熱心に唱えていた理由の一端がここにある(山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』、みすず書房、二〇二一年)。それが再生可能エネルギーを重視する時代にも逆行していることは、改めて言うまでもなかろう。
 これからの鉄道に求められるのは、地球環境や生態系を破壊し、電力を浪費して速い列車を走らせることではない。地下深くに駅をつくり、段差だらけにすることでもない。どうすれば鉄道は、平均寿命の延びとともに余暇時間の増えた我々の人生をより豊かにするための媒体となり得るのか。あるいは回復しつつある訪日外国人客に日本ならではの四季折々の自然を味わってもらうための媒体となり得るのか。JR東海だけでなく、すべての鉄道会社が真剣に考えなければならない時期に来ていると思う。
 葛西敬之が鉄道業界に長年にわたって君臨し続けることで、日本は世界的に見ても異常な国になってしまった。『国商』は、重い問いかけを読者に迫っている。


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片山善博の「日本を診る」(160) 「大砲もバターも借金で」では次世代に顔向けができない

2023年08月19日(土)

そういえば ケインズは 不況時の公共事業を肯定的に あるいは積極的に論じた……
とされるのだけれど
あるいは 一般理論 とはいうけれど 普遍的とか 
どこでも通用するような議論として提示していただろうか と思い出す

それで 究極の公共事業?として 戦争とか そのための武器とかを考える人がいる
というのは ちょっとゆきすぎなんだろうか

そういえば 一般理論のドイツが盤への序文だったか
ちょっと気になるような記述があったようにも思うが
どうだったろうか
あとで探してみよう


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【世界】2023年03月

片山善博の「日本を診る」(160)

「大砲もバターも借金で」では次世代に顔向けができない


 昨年、岸田内閣は防衛費を大幅に増額する方針を決めた。これまでわが国の防衛費は対GDP比一%以内を目安にしてきたが、これを二%にまで増やすというから、防衛費予算はほぼ倍増である。
 続いて、「従来とは次元の異なる少子化対策」に乗り出す方針を表明した。子ども・子育て政策は、「最も有効な未来への投資」だとの認識のもとに、少子化対策を含む子ども子育て政策の予算を倍増するという。
 経済学や公共政策の教科書には、「大砲かバターか」という言葉がよく登場する。大砲は軍事・防衛費を、バターは民生費をそれぞれ意味している。このたび、岸田内閣が力を入れることにした防衛費はまさしく大砲であり、子ども子育て予算は代表的な民生費だからバターだといえる。
 「大砲かバターか」は、そのいずれを優先するのかという文脈の中でしばしば用いられる。また、その両方を同時に十分満たすことの難しさを含意している。いずれに重点を置くか、その選択をしなければならないことが暗黙の前提とされている。
 ところが、岸田内閣は防衛費も子ども子育て予算も倍増するというのだから、大砲とバターの両方とも優先するつもりなのだろう。好意的に解釈すれば意欲的だといえようが、暗黙の前提に照らせば欲張りすぎているといえる。
 防衛費も子ども子育て予算も倍増する方針だけは先行しているが、実を言えばそのために確保しなければならない財源にはほとんどといっていいほど目途が立っていない。

■防衛財源のほとんどが赤字国債で賄われる可能性も

 まず、防衛費である。防衛費の増額に要する財源は仕上がり年度ではおよそ四兆円だとし、そのうち一兆円ほどは増税で調達し、残りは歳出改革や「防衛力強化資金」などで確保するとし、一応の目鼻が整っている風を呈している。
 たしかに自民党税制調査会は税制改正大綱の中で、増税の対象税目は法人税、所得税及びたばこ税だと決めている。ところが、例えば法人税率をどうするのかは曖昧なまま。なにより、これらの増税をいつから実施するのか、その時期さえ決められていない。それらは六月の骨太方針までに決めるのだという。現時点では、一兆円規模の増税は構想の段階にとどまっている。
 しかも、自民党内にはそもそも増税方針に納得していない議員が多いらしい。すでに、増税以外の財源確保を検討する特命委員会が党内に設けられ、増税に反対する議員を中心に議論が展開されている。
 これまで、自民党党税調の税制改正大綱に示された内容は決定的であり、党所属議員には異論や反論を許さず、彼らを拘束した。ところが、昨今の党税調にはそれだけの神通力はなくなったようだ。特命委員会の検討状況や党内の政治事情によっては、先の一兆円は幻に終わりかねない。
 今のところ増税で調達することにしている一兆円を除く残りの三兆円は、歳出改革によって生み出される財源、新たに設ける「防衛力強化資金」、それに一般会計の歳出剰余金の三つの財源で賄うとしている。
 まず、歳出改革によって生み出される財源は、安定的な財源だといえる。ただ、これまで歳出改革、既存経費の削減というお題目を唱えて財源確保に取り組んだ例は何度もあったものの、それで生み出された財源は期待からほど遠かった。このたびは件の特命委員会がことのほか力を入れているようだが、果たしてどれほどの成果が得られるか。
 漏れ伝えられるところによると、既存の歳出項目のうち国債費を削減する案が有力な案になっているようだ。これは国債のいわゆる六〇年償還ルールに従って毎年度償還している額を減らし、それによって浮いた額を防衛費の財源に回す考えなのだろう。
 たしかに国債費の減額は形式的には既存歳出の削減に当たるのかもしれないが、結果として国債残高を増やすだけのことである。これを恒久財源というわけには到底いかないし、そもそも財源に位置づけることすらまやかしに近い。こんな辻褄合わせは子供騙し以外の何物でもない。

■次世代への安易なつけ回しは許されない

 「防衛力強化資金」とは、国有財産の売却益などの税外収入をこれに繰り入れ、それを防衛費の財源にするという考えのようだ。しかし、国有財産の売却益などの税外収入はこれまでも生じていて、それらは通常は一般会計の中で貴重な財源として活用されてきている。これを防衛費の財源に優先的に充てることになれば、その分だけ他の経費に充てる財源が減るので、それは玉突き的に赤字国債の増発につながることになる。「防衛力強化資金」などともっともらしい名称を付しても、所詮は赤字国債の増発を目立たなくする姑息な仕掛けにすぎない。
 一般会計の歳出剰余金は各年度生じていて、それは次年度以降の一般財源になる。これを防衛財源に先取りすることになれば、その分だけ次年度以降の一般財源が減ることになるから、ここでも玉突き的赤字国債の増発につながるだけである。
 一般会計の歳出剰余金で気になることが一つある。このところの予算には数兆円単位の巨額の予備費が計上されている。この予備費に目をつけ、新型コロナ対策が終了してからも、必要見込み額を大きく上回る数兆円規模の予備費を計上しておき、それを予定どおり不用額にすることによって、防衛費増額に必要な財源のうちのかなりの部分を、歳出剰余金で賄うことができる。しかし、もとより予備費積み増しの財源は赤字国債であって、その不用額も赤字国債由来であることを忘れてはならない。
 以上のように、防衛費増に充てるための増税によらない財源だとされているもののほとんどは、実質的に国債増発と変わらない。唯一ちゃんとした財源といえるのは、国債費減額などでない本当の意味の歳出削減によって生み出される財源だが、それはごくわずかしかないことが予想される。さらに、特命委員会の奮闘により、増税自体が骨抜きにされたり、増税幅が縮小したりするなら、もはや防衛費増のほとんどを次の世代につけ回しすることになる。
 子ども子育て予算倍増に必要な財源については、今のところまったく白紙である。行政サービスの充実を、財源を示さないまま国民に提示するのは不見識だと思う。負担が伴うことで、その行政サービスの真の価値は評価されるからだ。
 与党の一部から、消費税引き上げを示唆するような発言も出たが、直ちに否定され、口封じされたようだ。統一地方選挙を控え、予算倍増という国民が喜ぶことだけを伝え、財源などという余計なことは言うなということか。選挙が終わってから増税を決めるやり方は、国民に対して実に不誠実であるし、反対に増税や歳出削減をしないまま予算だけ倍増するのは次世代に対して不誠実である。
 「大砲かバターか」は、税を中心とした限りある財源を何に優先して使用するかという真剣な選択である。ところが、財源のことなどお構いなしに「大砲もバターも」手に入れ、そのツケは次世代に回す。こんな無責任な政治が許されていいはずがない。

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(天声人語)地図が好き

2023年08月19日(土)

5万分の1の国土地理院の地図 いつごろだろうか 地図の見方とか
たぶん学校で教わったか
とすると たぶん中学校だったか

たぶん小学校の高学年 父親に連れられて 山に登った
そんなに高い山ではなくて それでも付近では その山の連なりがいちばん高かったろうか
それでもうみべの小さな駅から登り始めたので けっこうな距離があったように記憶する
それで そのとき父親は 地図をもっていたのだろうか
あるいは 自分の記憶で登っていったのだろうか

ひとり旅で 地図をもっていくことがあったか
電車の窓から風景と地図を見比べるとか 街中を歩きながら 地図を思い浮かべるとか
地図を見ながら 旅先の風景を空想するとか
そのうち2万5千分の1の地図が容易に手に入るようになった
でも クルマを使うようになって 道路地図を見るようになって
なんだか平板な地図になれるようになっていったけれど
道路地図からは 風景が思い浮かばない……

ナビがでてきて どうするとディーラーのお兄さんに聞かれて
でも ナビは遠慮する と

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(天声人語)地図が好き
2023年2月11日 5時00分

 小学生のころ仲が良かった友達に冨永君がいた。彼は地図が大好きだった。私たちは2人で電車に乗り、大きな街の本屋に行って、5万分の1の地図を買った。最初は確か甲府の辺りの地図だった。なぜかはもう覚えていない▼そこから北を私が、南を冨永君が買い集めた。彼の地図には市街地の記号がたくさんあった。私のは山ばかり。くねくねした等高線の重なりをじっと眺めた。きれいだねと私が言うと、冨永君もうれしそうにうなずいていた▼そんな古い記憶を思い出したのは、昨年末、国交省の定めるルールが改定され、タクシーに紙の地図を備え付けなくてもよくなったと聞いたからだ。これからはカーナビさえあれば十分らしい。今さらながら紙の地図が減っていく現実を痛感する▼地図好きの人々はどう思っているのだろう。東京・駒沢にあるカフェ「空想地図」を訪ねた。店主の田中利直(としなお)さん(52)が若いころから集めてきた地図や関連書籍など約1200点が置いてある。愛好家たちが集う人気の空間だそうだ▼「どの道がどうやって、どこにつながっているのか。全体像を知るにはやはり紙の方がいい」と田中さん。でも、紙はかさばるし、スマホの地図アプリも便利ですよね。「不便でもいいんです。一枚の地図を前に、延々と語り合うのが楽しい」▼目を輝かせ、地図への熱い思いを語る田中さんの言葉を聞きながら、小学生の自分と冨永君がうなずいているのを感じた。きょうはあの伊能忠敬の生誕278年。

…………………………

※ 以前よく利用していた書店に立ち寄ったとき,小さな張り紙があって,
国土地理院の地形図を置かなくなったことが記されていた.
えっ!?と思ったが,そうか,デジタルか,と思ったのだった.それでいいんだろうか?
たとえば,よく道路地図を見る.カーナビはないから,ちょっとわからないところもあるけれど,Googleの地図を見る,見てみるが,風景がすぐには浮かんでこない.そして,じっさいにクルマを走らせていて,道路地図は何か足りない,のぼり・くだりがわかりにくい,周りの風景,遠くの景色がわからないな,と.

それから,デジタル化された地図を見る道具の問題もありそうだ.普通の人が所有するPCは,ノートタイプだと,画面サイズ15インチ程度,デスクトップだと20数インチぐらいだろうか,これでは国土地理院の紙の地図の大きさにはかなわない.目に入ってくる情報量はとても違うように思う……


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