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隣のジャーナリズム 「みんな知っていた,しかしみんな知らなかった.」――マライ・メントライン 【世界】2023年07月

2023年10月31日(火)

ほんとうのこと?
正しいこと? 
……
テレビの画面で 戦争の実況中継を見ている.

そして これは ほんとうのことなんだろうか.

このまえ 年配の女性が 軽自動車を運転していて 自転車で登校?下校?の中学生数人を跳ね飛ばすという事故?事件?があった.
記憶に間違いがなければ 自転車は 道路を逆走していたのではなかったろうか.
だからはね飛ばしていいということは ぜったいにないけれど,
ちょっとイヤな感じが残っている.
ずいぶん前のことだけれど 深夜のタクシーで 狭い道路を走っていて左側をタクシーに向かってくる自転車があったのを思い出す.運転手が 逆走してくる自転車がいちばんこわい……といっていたのを思い出す.
まぁ 小さなコトだな.
大きな 熱い戦争に比べれば……かな.
戦争のなかの 報じられない小さなコトがたくさんあるのだろう.


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【世界】2023年07月

隣のジャーナリズム

「みんな知っていた、
しかしみんな知らなかった。」

マライ・メントライン


 ジャニーズ事務所問題で浮かぶ昏い相似形

 最近、日本の国内報道とその在り方を考えさせられる事件として最も印象的だったもののひとつに「ジャニーズ事務所問題」がある。
 美少年マニアの社長が長年にわたり事務所のタレントに脅迫と性的搾取を行い、その黒いウワサはゴシップ誌やネットでさんざん取り上げられながら、メインストリーム的報道には週刊文春以外ほとんど載らずまた刑事事件化することもなく数十年、なんとまさかの英国BBCが黒船来寇的な実態告発リポートを放映して大騒ぎとなり、即、ここぞとばかりに文春砲が炸裂、そして元事務所タレントの一人が決死の顔出し告発カムアウトを実行するに至って、いまさらながら日本国内の大手マスメディアが大々的に報じるようになった、という一件。
 正直、これは芸能ゴシップ民ならずとも昔から「周知の事実」な話でもあり、あれ?大手マスコミ各社でもそれなりに触れてなかったっけ?的な印象すらあったりする。そして、いわゆる意識高い系の言論人が「そんなひどいことがあったなんて! 大人が勝手につくった逃げ場のない加害搾取システム! これは許せませんね! ジャニーズ事務所とズブズブだったマスコミも同罪!」と、あたかもいま初めて知りました的な真顔で一斉にイキっているのを見ると、正直、むしろ不気味な印象を受けてしまう。
 なぜというに、情報の出し手と受け手をひっくるめたこの図式は「戦時中、ドイツ人はホロコーストをどれくらい認識していたか」問題と、驚くほど相似しているからだ。
 みんな知っていた。しかしみんな知らなかった。
 知っている、あるいはウスウス感づいてはいるが、いざとなれば「いやあ私はまるでその件について知る立場にいませんでした!」と言い張れるためのアリバイを確保してある状況、といえばよいだろうか。
 まあ、人間の考えること感じることなんて、時代が変わっても同じですよ。だから内面的行動が似ちゃうのも当然で、何の不思議もありません……と、ネット民たちはしたり顔で語るだろう。しかし私が気にしているのはそんなことではなく、たとえば聖職者やクリエイターによる性犯罪の慢性化と巧妙化など、この手の「公然の黙認」の悪が日本でもドイツでも全世界でも今なお渦巻き続けている、残念なドス黒さの「持続性」の正体が何なのかということだ。
 ナチといえば、ドイツで反ナチ教育というものがあれほど高度化し徹底されたように見えて、実はナチ的メカニズムの内部で駆動する「核心」の何がしかは無傷で生き残り今日に至っているのか、という地味な落胆がそこにある。

 たとえばこんなドラマなら

 ひとつ思うのは、「政治的に正しい」倫理ドラマの陳腐さについて。たとえばナチものドラマにて、まあだいたい舞台となる町なり村なり家族なりで、ナチ寄りな人とそうでない人はキャラ付けが明確に異なる。ありていにいえばナチ寄りに行っちゃう登場人物は「わかりやすすぎるクソ野郎かダメ野郎」であり、読者の多くが「そもそも自分とは縁遠いヤツ」と認識しがちな極論的な存在だ。これではダメだ。ダメなんだ。ジャニーズ問題に当てはめると、問題暴露が決定的になる前に、妙に「社長」をヨイショしながらエクストリーム擁護していた人たちのことか。あれって絶対ジャニーズファン的にも標準層じゃないよね、と感じずにいられないけど、ドラマ化すると絶対キーパーソンとして出てくるはず。そこに、教育的ドラマの悪意のないウソがある。
 ではたとえばドラマなら、どんな展開が良いのか?


 一九四四年五月、東部戦線。
 モギリョフ橋頭堡(きょうとうほ)をめぐる大きな防衛戦をしのいだのを機に、フランツ・シェーファー伍長が所属する中隊には休暇が与えられる。故郷に戻るのは一年ぶりだ。前線を離れると、それなりに日常生活の空気を感じる。もちろんそこに住んでいるベラルーシ人にとってはナチの支配と監視におびえる非日常的な日常なのだが、フランツがそれを感じることはない。ミンスクからは列車に乗る。中隊には運よく二等客車があてがわれる。ベルリン中央駅まで他の列車を押しのけて行くらしいぜ! という話で盛り上がる。しかし、だだっぴろい平地で列車は止まる。たいして見栄えのする風景じゃない。駅でもないから食い物の調達もできない。ぶつくさ言う兵士たちに対し、車内放送のスピーカーから「時間調整と対向列車待ちを行います」と乾いた声で説明が響く。そういや信号所みたいな場所だなここ。でも俺たち最優先じゃねえのかよ、と思っているうちに、



50
 来た。
 窓から頭を出して覗くと、どうも大編成の貨物列車らしい。汽笛を鳴らしてゆっくり近づいてくる。緊急用の弾薬を運ぶのか? と見ていると、列車の脇をすり抜けて……
 人だ! 人が詰め込まれている!
 それも、客車でなく、貨車に。兵士じゃない。戦時捕虜でもない。どうみても民間人だ。
 貨車の通気用の窓に顔が蝟集し、こっちを見ている。すべて絶望しきった表情。そして漂ってくる猛烈な悪臭。「閉めろ!窓を閉めろ!」呆然と凝視していた兵士たちに小隊長が怒鳴る。いや今閉めるとむしろ匂いが籠もるんじゃ……とフランツは一瞬思ったが、そういう問題じゃない。
 ベルリンに到着するまで、いや下車したあとも「あれは何だったのか?」とは表立って誰も訊かなかった。

 帰宅後、フランツは家族でのタ食後のひとときに、見てしまったモノの話をした。箝口令が敷かれるかと思いきや、小隊長も中隊長も何も言わなかったからだ。
 「戦略上の理由か何かで、ユダヤ人たちが東方、ポーランドのコロニーに『集団疎開』しているという話だよ。ニュース映画で見たが」父が言う。
 「でもさ、貨車を使うの?」弟が問う。
 「本当は客車を使いたかったけど調達できなかった可能性がある。帝国鉄道は運行計画重視、客のもてなしは二の次だからね」父が答えると、一座に渋い笑いが広がる。
 「コロニーに到着すれば、その人たちの不安も消えて元気になるでしょう!」母が明るく言い、話は終いになった。


 ……こんな感じだろうか。うん、こんな感じだ。この物語で最も重要なのは「フランツはどうすべきだったのか?」であり、さらに「フランツにどの程度のことが出来たのか?」である。ドイツ史はその答えをひとつ知っている。ハンス・ショル。白バラの一員。彼は東部戦線で見てしまったものを内面で偽れず、妹や仲間とともに決然と衆目の前で反ナチのビラを撒き、断頭台で処刑された。皆、ハンス・ショルになるべきなのか? もっとうまく立ち回る方法はあるのか?
 これに対し有効でも誠実でもない点に、いまのマスコミや教育が提供する情報やプログラムの問題がある。彼らは「そもそもそうならないように気を付けましょう。幸いにして、まだそれほど決定的にひどい状態じゃないから」と繰り返すだけなのだ。
 世の中を本当に少しでもマシなものにするためには、何か、情報の質で決定的な「転機」が必要であるように思われてならない。

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片山善博の「日本を診る」164 そろそろ変わろう地方議会,このままでは見捨てられる 【世界】2023年07月

2023年10月22日(日)

いつだったか 東京特別区の区長選挙で 
当選者が出ないのではないか
そんなことを危惧するような新聞記事が出たことがあったか.
候補者の誰も法定得票をクリアーできないのではないか その可能性が囁かれたのだったか.
いつごろからだろうか とくに地方自治体の首帳選挙は とても引く投票率が目立つ.
議員選挙も 同様か.

それでも当選すると 我こそは……となるような.
ふしぎな光景だと思うことがあった.

国政選挙も しかし 似たようなものか.
勝った負けたばかり 紙面が画面に踊るから 勝ったものたちにどのくらいの支持があったか見てみれば もうちょっとなんとかならないのか とも思う.

そうやって選ばれた「選良」が じっさいの議事堂のなかで あるいはその外で
行政との関わり お役人とどんな関係をつくっているのか ちょっと心配になる.
いや 心配を通り過ごしている……かな. 


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【世界】2023年07月

片山善博の「日本を診る」164
そろそろ変わろう地方議会,このままでは見捨てられる


 統一地方選挙のたびごとに指摘されるのが、議会議員選挙の投票率の低さと議員のなり手不足である。今回の選挙もその例にもれない。低い投票率となり手不足は、地方議会に対する住民の関心の低さを反映しているのだから、議会はもっと住民の関心を集めるように努力をせよ、とも指摘される。同感である。
 もっとも、大都市部の選挙では多くの立候補者があるので、なり手不足の問題は地方部に限られるとの見方もある。たしかに、東京都の身近な特別区の議員選挙を見ると、定数が三十数人のところ、六〇人近くの立候補者がいた。
 ただ、立候補者が多いのは議員報酬がとても恵まれているからだと、筆者は睨(にら)んでいる。他の地域でもそれに匹敵するだけの報酬を出せば、全国的になり手不足問題は解消するに違いない。逆に、都区部の議員報酬を地方の小規模自治体並みにしたらどうなるか。おそらく、地方部以上になり手不足に悩まされるだろう。ちなみに、この区の議員選挙の投票率は三七%程度だったことから、立候補者数と住民の関心度とは必ずしも関係がないことが推察される。

■これまでの地方議会改革はピント外れ

 このところの地方議会議員選挙からは、住民の関心が高くなる兆しは見えない。むしろ、議会の存在感はじり貧だといってもいい。今でも、議会は何の役に立っているのかわからないと椰揄(やゆ)する人が少なくないが、このままだと本当に議会不要論まで出かねないと、筆者は危惧している。
 本来、地方自治において議会は中心的な役割を持つ機関である。予算にしても条例にしても自治体の重要な事柄は最終的には議会が決める仕組みである。その重要な役割と責任を持つ議会が住民から関心を寄せられず、存在感も薄いとなると、地方自治とは名ばかりで空洞化するおそれは多分にある。長年地方自治に携わってきた筆者が強く危惧する所以(ゆえん)である。
 もちろん、これまで議会関係者が拱手傍観(きょうしゅぼうかん)、何もしてこなかったわけではない。議会改革に熱心に取り組んできた議会は多い。例えば、議会の役割や責任を明確にする観点から議会基本条例を制定した議会はかなりの数にのぼる。また、議会のことを住民によく理解してもらおうと、議会報告会を開くことにした議会は少なくない。定例議会が終わってから、数人の議員が地域に出向き、先の議会で議決した案件を説明するのである。
 また、議場における首長ほかの執行部とのやり取りをわかりやすくするための工夫をしたところもある。例えば、議員が長々と質問した後に執行部もまた長々と答弁するやり方を、いわゆる一問一答制に改めた、などである。
 ただ、こうした改革に取り組んでみたものの、結果は総じて空振りに終わっている。議会基本条例を制定したからといって、議会は何も変わっていない。議会報告会は、当初こそある程度の数の住民が出席したが、その後は閑古鳥が鳴く状態になったところがほとんどだ。
 議会関係者がそれなりに工夫し、かつ、熱心に取り組んだにもかかわらず、一連の改革はなぜ功を奏することがなかったのか。当事者のみなさんに対する非礼を省みることなく率直に言えば、それらは本質を欠いたピント外れだったから、というほかない。

■議会がただちに実践すべき改革案

 本質を外さない改革を行うには、地方議会制度を規定する地方自治法の改正など大がかりな仕掛けが必要かといえば、決してそんなことはない。議員のみなさんの姿勢と気構え次第で、現行の法律と制度のもとでも十分対応できる。
 まず、議会運営の悪しき慣行を改めることである。これまでほとんどすべての議会は、首長が提案する議案について、それを議会で審議する前の時点ですでに可決することを決めている。これは甚(はなは)だ不見識であり、即刻やめるべきである。議会とは議案を慎重に審議した上で結論を出す決定機関であるのに、執行部から内々説明を受け、可決することを事前に決めるのは議会の自殺行為に等しい。この不見識はもっぱら議会の多数派に責任がある。
 議会と同じく裁判所も決定機関であり、議案ならぬ事件を慎重に審理した上で決定する。もし裁判所が、裁判を始める前に検事から内々説明を受け、それによって被告人を有罪とする判決を下すことを決めていたとしたら、裁判所は国民の信頼を一切失うだろう。
 今のほとんどの地方議会は、この信頼を失った裁判所のようなものである。この不見識をやめない限り、やれ議会基本条例だとか議会報告会だとかを試みても、住民の関心も信頼も得られるわけがないと知るべきである。
 もう一つ、議会での質問と答弁のあり方も改めてほしい。どこの議会でも議員と首長との質疑が行われているが、そこでは質問する議員も答弁する首長も、原稿をひたすら読んでいる。議員があらかじめ執行部に質問の内容を知らせ、それに基づいて執行部の職員が答弁書を作成し、それを首長が議場で読み上げるのである。
 自治体関係者はこれを当たり前のやり方だと思っているのだろう。ただ、外部の人にとっては、それは実に滑稽に見えていると認識すべきである。筆者は、以前勤めていた大学のゼミで、学生たちが最寄りの議会を傍聴に行くのを課題としていた。
 傍聴を終えた学生からは、「議会は死んでいる」、「くだらないことを、真面目くさってだらだらやっているのが不思議だ」、「自治体の大事なことが、あんなところで決められていると思うと、不安になる」、「まるでお経を聞いているようで眠くなったし、議場の議員も居眠りをしていた」などの報告が多かった。誇張でも何でもなく、それが普通の学生の素直な感想である。こんなことを続けていては、住民の信頼はおろか関心も呼ぶことはないと知ってほしい。
 答弁書をなくして議論すべしというと、それでは首長が答弁できないとの反論が返ってくる。それはこれまでの質問の内容が細かすぎて、首長が自身で答えなくてもいいようなことまでも聞くからである。
 首長は行政運営の基本姿勢とか、重要な政策の理念や目標などを尋ねられたら、ちゃんと答えなければならないのは当然である。それすら自分で答えられない首長なら失格で、早々にやめた方がいい。ただ、役所は首長と部下職員とのチームで仕事をしている。議員が本当に聞きたいことがあるなら、そのことに詳しい職員に質問すればいい。もし、そのことに責任を持つ職員にも答える知識がないなら、それは職員の任命権を持つ首長の責任であり、人事の見識や能力が問われることになる。議会は首長の説明責任をどこに求めるべきか。それは首長が行政の微に入り細うかを穿つことまで答えられるかどうかではなく、役所のチームをうまく率いているかどうかに、重点を変えてほしい。変えられるかどうかは議会の見識にかかっている。
 地方議会の現状をやや大袈裟に言えば、住民から見捨てられるかどうかの瀬戸際にあると思う。見捨てられないためには、議会関係者の気づきと発奮が必要である。まずは一つでも二つでもいいから、ここで述べた基本的で大切な改革を実践する議会が出てほしいと切に願っている。

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寺島実郎 脳力のレッスン 253 二一世紀システムの輪郭――ロシア・中国の衰退とその意味  【世界】2023年07月

2023年10月22日(日)

「10・21」
といっても いまさらなんだろう.

たぶん 戦う者たちを支持しただろうけれど
かれらが勝利を収めた後に どんな社会が創り出されるか
それほど自明だったかどうか わからない.
いや たぶん彼らを支援した国々に似たような と思っていたかもしれない.
そうなったとして そうした国々を 誰が支持しようと思っただろうか.

けれど 善し悪しを超えて そのような枠組みが現にあるということを 
どう考えれば良かっただろうか……とも思う.

左とか右とか あまり簡単に括ってしまわないで
よく見 聞いておこう.
考えよう.


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【世界】2023年07月

脳力のレッスン 253
寺島実郎

二一世紀システムの輪郭――ロシア・中国の衰退とその意味

――直面する危機への視座の探求(その4)


 二〇〇九年の晩秋、西ドイツの首相を一九七四年から八年間務めたH・シュミット(一九一八~二〇一五年)とベルリンでの三日間のシンポジウムに同席した。ドイツの政治指導者として、二○世紀システムに関わり、敗戦後のドイツを冷戦の終焉、東西ドイツの統合に導いた老政治家の言葉を思い出すことがある。私が、アジア情勢に触れて、「北朝鮮の脅威」について語ったのに対し、「北朝鮮の脅威など取るに足りない」と彼は言い放った。一瞬、アジアの情勢に疎いのかと思ったが、次の一言が心に沁みた。金日成(一九一二~九四年)を継いだ金正日の率いる北朝鮮に関し、「世界の青年の心を惹き付けるメッセージはない。恐れるに値しない」と発言したのである。耳を傾けていると、第二次大戦後の「東西冷戦」という枠組みで動く世界で、毛沢東、ホー・チ・ミンやチェ・ゲバラ、カストロの思想と行動、そして金日成のチュチェ(主体)思想も、共鳴する多くの若者の心を惹きつけるものがあった。だが、金正日の北朝鮮には「金王朝の存続」以外の「正当性」(LEGITIMACY)がないという見方であった。そして、日本人である私に、「日本も大変だね。アジアに真の友人がいないから」と付け加えた。
 彼は『シュミット外交回想録』(邦訳、岩波書店、一九八九年)においても「日本人は、外交的、歴史的経験が不足しているために、一般的に世界の政治的構造をごく限られた程度にしか理解していない。日本人は、また、彼らが孤立しており、それに伴って世界において僅かな政治的役割しか果たしていないことを十分に理解できないでいる」と述べており、この認識は今日にも当てはまるであろう。今、二一世紀システムを模索する時、「正当性」という言葉を想起すべきだ。二一世紀の世界秩序の不透明感は、秩序形成に責任を担うべき大国の衰退、とりわけ世界を束ねるリーダーの「正当性」の喪失に起因することに気付く。二〇世紀システムをリードしてきたロシア、中国、米国という三つの帝国の静かなる衰退とその意味を確認しておきたい。

■ロシアの衰退とその意味

 まず、ロシアであるが、プーチンがウクライナ侵攻に踏み切った価値基準が一九世紀の帝国主義時代への回帰という時代錯誤的なものであることは既に論じた(参照、本連載250)。すなわち、「戦争は外交交渉で解決できない国際紛争の正当な解決手段」とする価値への回帰であり、それは第二次大戦期にロシア自身(ソ連邦)がコミットした「大西洋憲章」(一九四一年)、そして国連憲章が基点とする「戦争による領土不拡大」という規範への重大な侵犯である。
 プーチンが夢見る「大ロシア主義に立つロシア帝国の復権」も、「特別な軍事作戦」と称する主権国家ウクライナの領土侵犯によって一切の正当性を失い、今後、資源産出国として生き延びるにせよ、ロシアは国際社会からの孤立の中で長期にわたり衰退を続けるであろう。既に国際社会の主たる論点は「ロシアの弱体化をどう制御するか」に移り始めている。経済的衰退の一方で、皮肉にも超核大国ロシアとして「世界の戦略核弾頭一・二七万発のなかで半分近くの五九七七発を保有する」(二〇一三年、米科学者連盟)という現実が、戦況が追い詰められると核のボタンを押しかねない「核ジレンマ」をもたらしており、この国が「大きな北朝鮮」となる危うさを顕在化させ、その制御が難題なのである。
 ロシアの国内からプーチン政治を否定し、ロシアを国際社会の建設的参画者に引き戻す流れが台頭することを期待したいが、ロシア正教という極端な民族宗教(ロシア化したギリシャ正教)と政治権力が一体化して駆り立てる「愛国と犠牲」を美化し、反対者を粛清する恐怖政治の転換は容易ではない。
 昨年のロシアの実質GDP成長率は前年比▲二・一%と意外に持ち堪えているように見えるが、通貨ルーブルの評価が今後の鍵を握る。現状では通商決済におけるルーブルの「紐付け」や外貨準備における金比重の高さなどでルーブルを持ち堪えているが、ソ連崩壊時のごとく、通貨の価値が霧消して経済が機能不全に陥る可能性は否定できない。当時は、西側諸国が新生ロシアの支援に動いたが、資源産出力だけに依存するロシア経済は低迷していくであろう。
 二〇世紀システムにおけるロシアは、「ソ連邦」という形での社会主義の実験に挑戦し、失敗に終わった。それでも、社会主義が掲げた「階級矛盾の克服」や民族を超えた「労働者の団結」は、東欧から中央アジア、そして今日「グローバル・サウス」と言われる地域の若者に訴え、西側諸国が「革命の輸出」に脅えるほどの存在感をもたらしていた。だが、プーチンは社会主義・共産主義に一切の共鳴も示さない。ソ連邦の時代について、プーチンは「歴史的無駄」と切り捨て、「ソビエトはロシアを豊かな国にしなかった」と発言している(二〇一二年、下院での演説)。プーチンのロシアは偏狭なロシア民族主義に沈潜し、至近距離にいるはずのCIS(独立国家共同体)諸国の離反を招くほど、世界を牽引する「正当性」を失っている。
 本年五月九日の「戦勝記念日」におけるプーチンの演説は、ウクライナ侵攻に関し、「ロシアの崩壊を画策する欧米との本当の戦争が始まった」と被害者意識を露わにした。ロシアの国内の政治体制の動揺がもたらすものは、ロシアを取り巻く周辺秩序の融解であり、ロシアの求心力の喪失がもたらすユーラシアの政治力学の動揺であろう。中央アジアの液状化とトルコ、イラン、イスラエルなど中東秩序を突き動かす地域パワーの台頭が予想される。また、ユーラシアの地政学の宿命の構図である中ロの微妙な綱引きも変わろうとしている。プーチンが政権を維持するためには中国への依存を高めざるをえないというパラドックスの中で、すでに中露関係は中国優位の構図に変わり始めている。一三世紀初頭から一五世紀末までの二世紀半にわたる「タタールの軛」(モンゴル支配)がロシア史にこびり付いていたことを思い起こさせるほどロシアの悲しみは深い。
 ピョートル大帝以来、欧州はロシアの憧憬であった。その「欧州」が再び遠ざかりつつある。プーチンがロシア・ナショナリズムを叫ぶほど、「ロシアとは何か」についての欧州側の記憶も蘇るのである。それは「欧州の辺境としてのロシア」ではなく、「アジア的退嬰の象徴としてのロシア」への回帰である。思えば、K・マルクスさえ『一八世紀の秘密外交史――ロシア専制の起源』(原書一八五三年、邦訳白水社)において、ロシア王朝を「タタールの軛」による「東洋の原始的蛮族」とみる西洋の固定観念に言及している。現在の中国政府はモンゴル族も中華民族としており、「中華民族の偉大な復興」が習近平によって強調されるほど、タタールに取り込まれたロシアの記憶が蘇り、ロシアを決して欧州の一員とは見ない視界に説得力を与えるのである(参照、本連載191「ロシア史における「タタールの軛」とプーチンに至る影」)。
 実は、近代史におけるロシアと日本には宿命の共通課題が潜在している。クリミア戦争(一八五三~五六年)での敗北以後、ロシアはアレクサンドル二世の欧州を見習った「大改革」時代を迎える。日本も一八五三年のペリー来航後、明治維新、そして欧州模倣の「明治近代化」路線を進む。だが、ロシアは社会主義革命(ソ連邦)を迎え、日本は「富国強兵」の臨界点で欧米列強と衝突して敗戦に至る。
 どうしても欧米の一員とはなれない焦燥と悲哀、これがロシアと日本の通奏低音なのである。「日本はG7の一翼を占める先進国」という意識を日本人は持ちがちだが、利害対立が高まると排除され、逆上する。「名誉白人」的な位置づけに自己満足することの壁がここにある。

■中国の隘路――「紅い中国の悪い皇帝」という悪夢

 中国は本年三月の全人代で、習近平の第三期政権に入った。毛沢東への個人崇拝が昂じて文化大革命という粛清が世界からの孤立を招くに至ったことを省察し、中国は鄧小平以来の改革開放路線の支柱として「集団的指導体制」と「国家主席の任期制限(二期一〇年)」を遵守してきた。もちろん、「集団的指導」といっても民主的合議制が機能していたわけではないが、習近平専制の長期化は、中国が「党と政府の一体化」による一強支配、習個人崇拝、つまり毛沢東期の「レッド・チャイナ」に回帰したのだ。習近平第三期は「改革開放」路線の最後の砦ともいえた首相の李克強を更迭した。毛沢東の時代は、毛沢東一強支配のようにみえて、実は周恩来という現実主義に立つ国際社会とのバランサーが不倒翁として存在しており、その意味で、習近平の第三期は「周恩来なき毛沢東政権」になるといえる。
 習近平が第三期に向けて掲げた統治概念は「社会主義現代化強国」と「中華民族の偉大な復興」であるが、この二つの目標と実現過程が、二一世紀の世界秩序においてどこまで「正当性」を得ることができるのか、中国も試練の時に入っているといえよう。まず、「社会主義現代化強国」だが、東西冷戦期の社会主義陣営の本山だったロシアを率いるプーチンが社会主義への一切の共鳴も示さないのに、習近平は「共同富裕」というキーワードの下、経済格差の解消を意図して社会主義へのこだわりをみせている。中国経済の現状については、本連載(240「資本主義と民主主義の関係性(1)――中国国家資本主義という擬制」)において、現在の中国経済が資本主義というにはあまりにも「市場性」とはかけ離れた国家統制型になっており、しかも一方で、土地の私有が認められないはずの中国で、地方政府の財源として「定期借地権」のような形で土地を分譲・取引して収入を確保させて経済を拡大させるなど、歪んだマネーゲーム経済に埋没している危うさを指摘した。
 改めて「社会主義現代化強国」の内実を考えるならば、共産党一党支配下の金融市場経済の肥大化の矛盾の深化を視界に入れざるをえず、これを推し進めるならば、「剛性泡沫」、つまり国家が主導する金融経済化の帰結として、富裕層と貧困層の格差は拡大する一方であり、共産中国の建国理念であった「人民に奉仕する国家の建設」からは本質的に遠ざかっていくことになる。
 何故、中国は「紅い中国の悪い皇帝」の支配ともいうべき「専制化」「強権化」の道を辿るのか、再考を余儀なくされる。四〇〇〇年を超す中国の政治文化の歴史にこびりついたDNAとしての権威主義的体質を想わざるをえない。天児慧が『中国のロジックと欧米思考』(青灯社、二〇二一年)において論ずるごとく、儒教的価値観の埋め込みというか、君臣関係、家父長制を秩序の前提として受け入れる心理が潜在し、治者(権力)と被治者(国民)の二元論に立ち、多くの庶民は「衣食住と日常の保証で満足」し、政治には沈黙を守る「小国寡民」的傾向に沈潜しがちである。
 確かに、中国における治者に対する反抗は、下からの変革のエネルギー高揚ではなく、別の王朝、異民族からの攻撃であり、動乱は「扶清滅洋」を掲げた「義和団事件」のごとく宗教運動を契機とすることが多い。二〇世紀の孫文による辛亥革命も、民主主義の確立という要素よりも、満州族による清朝を倒し、漢民族の復権を目指す運動として勢いを得ているのである。
 次に「中華民族の偉大な復興」だが、習近平はこの言葉を一〇年前、第一期政権のスタート時にも使った。大方の理解は、中国は多民族国家であり、多様な中華民族が力を合わせて中華人民共和国の隆盛を図ろうと呼びかけているというものだが、実はこの言葉は中国本土の国民だけでなく、広く世界の中華民族を対象にしたメッセージでもある。
 世界には約八〇〇〇万人ともいわれる在外華人・華僑といわれる人たちが生活している。その多くは中華民族の中核ともいえる漢民族である。それは中国の歴史の特色ともいえる異民族支配を背景にしている。中国では、元(一二七一~一三六八年)というモンゴル族が支配した時代、清(一六一六~一九一二年)という満州族が支配した時代を経て、多くの漢民族が異民族支配を嫌って海外に新天地を求めるという事態が生じた。それが多くの在外華人・華僑の起源である。漢民族の人たちは、自分達こそが中華民族の中心だという自負心を有し、「中華民族の偉大な復興」という言葉は心に響くのである。世に「中華思想」という表現があるが、「人類の四大発明(紙、活版印刷、火薬、羅針盤)はすべて中華民族によってなされたが、中国は一度も特許権を主張したことはなかった」というジョークを笑顔で受け止める華人が世界中に存在している。
 実は、改革開放路線下の中国の持続的成長を支えた大きな要因は、この華人・華僑圏の中国、その中核としての香港、台湾、シンガポールという「海の中国」の資本と技術を取り込んだことであった。台湾から一〇万社を超す台湾企業が本土の中国に進出していた時代があった。その約三割が中国に失望し撤退したという。中国の強権化への警戒を投影し、中国の発展の触媒でもあった「海の中国」にも地殻変動が生じ、昨年の香港の実質GDP成長率は▲三・五%、シンガポール三・六%、台湾二・五%のプラス成長と成長エンジンが変わりつつある。欧米および日本の投資も中国を忌避する傾向を強め、「除く中国のアジア」、つまりインドやASEANに成長の主役が移るトレンドにある。
 在外華人・華僑の存在は、本土の中国にとって両刃の剣であり、中国を支える力にもなるとともに中国を睨む壁にもなりうるのである。強権化し、香港を締めあげ、台湾を恫喝する習近平の中国に対し、グローバルな開放経済の狭間を生き抜いてきた在外華人・華僑は疑念と失望を感じ始め、距離を置き始めている。これが中国の発展の障害になる可能性が高まりつつある。
 カリフォルニア大学(サンディエゴ校)教授スーザンL・シャークの『逸脱――中国はいかにして平和的台頭という道を間違えたのか』(オックスフォード大学出版、二〇二二年、未邦訳)は、一九七六年の毛沢東の死から半世紀に至る中国が、アジア経済危機(一九九七年)、リーマンショック(二〇〇八年)後の世界経済を支える形での急成長を経て、自己過信と内部不安を同居させながら、習近平専制に行き着く過程を解析し、習近平の中国が抱える「行き過ぎがもたらす危うさ」を指摘している。
 私も、中国が「平和的台頭」という賢い道を歩み続けていれば、二一世紀の世界は中国主導の潮流に向かった可能性もあったと思う。強勢外交、戦狼外交は、中国に好意的だった欧州諸国からの警戒心と嫌悪感を高め、南シナ海・インド洋での強引な海洋進出や「債務の罠」はアジア諸国の拒否反応を誘発し、決して賢い展開にはなっていない。五月の広島でのG7サミットと時を同じくして、中国は旧ソ連圏の中央アジア五か国とのサミットを西安で開催した。ロシアがウクライナ戦争の長期化で、経済・通商・金融決済などで中国への依存を高めており、中国優位のユーラシア地政学となる構図が見え始めているが、政治的影響力を高めているかにみえて、中国への信頼と敬意は必ずしも高まってはいないというのが現実である。
 「ウクライナの次は台湾危機」という短絡的な見方もあるが、第三期に入った習近平政権は、意外なほど慎重な長考局面に入ったといえる。長期的には「台湾統合」を諦めないだろうが、二〇二四年一月の台湾総統選挙に向けて、「一つの中国」認識を共有する国民党の勝利の可能性が見えてきたために、台湾独立派を刺激しないように「抑制された圧力」へと路線を変えつつある。また、ウクライナ戦争の長期化を注視しており、武力行使がもたらすリスクについての学習能力を示している面もある。この数年が二一世紀中国の歴史的役割にとっての試金石となるであろう。
 ロシアにせよ中国にせよ、ナショナリズムと自国利害だけではグローバル化する世界をリードする正当性を確立することはできない。人類史の新しい地平を拓く理念を創造する力が二一世紀システムの構築には必要なのである。

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