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等松春夫 なぜ自衛隊に「商業右翼」が浸透したか ――軍人と文民の教養の共有 【世界】2023年09月




色々なことが報じられて,
珍しく内部から議論が開かれたか……と思われて,
しかし,学長は問題はないとか発言していたな,と思い出す.
ほとんど見知ることのない場所で,
友人知人にも関係者はほとんど知らない.

……無償で高等教育が受けられる、というのは,たぶん魅力だったような気もする.
じっさい,どうだったろうか.

もっとむかしの、軍の学校について,ときおり目にすることがあったか.
陸軍エリートの多くが,小学校を卒業して幼年学校にすすんだとか.
学校で,いじめが問題にされるのは,
いじめ自体は,学校だけじゃなくて,地域の中にもあっただろうが,
学校という、ある意味で特権的な空間,周りから遮断された空間,
あるいは,教師という、医師などと同じように権威あると思われている存在によって制御されている空間……,そういうところで,人目につきにくく,
学生,生徒,場合によっては父兄,地域から遠い存在であることから,
問題が広がらない、あるいは問題とみなされない……ということだろうか.

でも,考えてみれば,いたるところに似たような空間,というか,組織,団体,集団がなかったわけではなかったか.
まぁ.あまり広げすぎても,どうか.
広げる理屈があるか,ということでもあるけれど.

さらに人目につきにくいところなのだろう.
それはそれとして,
だからこそ、彼らの対極に,あるいは反対側に適切な視線が必用なのだろうと思うこともある.
それはまた,逆の側にも言えるのだろうが.
そんなあれこれを思い浮かべながら.

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【世界】2023年09月

なぜ自衛隊に「商業右翼」が浸透したか
軍人と文民の教養の共有

等松春夫
とうまつ・はるお 一九六二年生まれ。防衛大学校国際関係学科教授。専門は日本政治外交史。著書に『日本帝国と委任統治――朝鮮半島をめぐる国際政治1914-1947』(名古屋大学出版会)。


 このたび、「危機に瀕する防衛大学校の教育」という論考を公表した[1]。この論考は直接には、現在および近過去の防衛大学校(以下、防大)内で起きたさまざまな不祥事と、防大が抱える構造と体質欠陥への危機意識から執筆された。しかしながら、問題の本質は深く、究極的には日本国と自衛隊の関係にたどりつく。
 もとより問題は多岐にわたるので、本稿では論考の背景にある筆者の問題意識に言及しつつ、近年の自衛隊がなぜ「商業右翼[2]」の浸透を許してしまったかを考察したい。このたびの問題提起によって、防大の教育のみならず自衛隊の幹部教育全般、さらには日本国にとっての自衛隊の在り方に、読者の注意が喚起されるならば、望外の喜びである。

受験生の「自衛隊」イメージ

 筆者は二〇〇九年以来、防衛省管轄下の防大の国際関係学科で政治外交史や戦争史の教育を担当している。ところで、筆者は入学試験の面接審査を担当する際、必ず受験生に「自衛隊の任務は何か」と訊ねる。すると一〇人中七、八人が第一に「災害救援」、第二に「国際平和維持活動」を挙げる。こちらが誘導する質問を重ねて、ようやく「外敵からの防衛」という答えに達する。
 憲法上の規定はどうあれ、自衛隊を軍隊であると考える筆者としては、受験生の反応はもどかしい[3]。彼らは自衛隊を軍隊ではなく、災害救援隊や国際協力組織と思っているのだろうか。しかし、自衛隊をたんに「武器をとって戦う集団」ではなく、日本の平和と国際社会の安定のために活動する組織であると感じているならば、それはそれで健全と言えよう。自衛隊は日本社会に包摂されているべきだからである。

自衛隊の正統性

 ところで、自衛隊を「軍隊」と定義するのであれば、それは「民主主義国家・日本の国軍」である。日本は民主主義を奉じる国民国家であり、その体制は天皇を国民統合の象徴とする議院内閣制の政治体制である。そして日本国憲法は基本的人権を保障している。したがって、民主主義の諸価値を尊重し、国民の生命を守り、この政治体制を擁護し、日本の独立を保つのが自衛隊の任務である。
 その自衛隊について考える際、避けて通れないのが正統性(legitimacy)の問題である。この場合、自衛隊が持つべき正統性は法的根拠と政治的承認の二つであろう。日本国憲法を読む限りでは前者の根拠が曖昧で、条文解釈と自衛隊法をはじめとする関係諸法規で取り繕っているのが現状である[4]。他方、後者は、冷戦期は不安定であったが、一九九〇年代末以降徐々に定着していった。その背景には一九九二~九三年の国連カンボジア暫定統治機構への陸上自衛隊施設大隊の派遣や、一九九五年のオウム真理教・地下鉄サリン撒布事件や阪神淡路大震災における自衛隊の水際立った救護活動があった。以後、国際平和維持活動への参加拡大や災害出動を通じて、国民の自衛隊イメージは確実に改善されていった。国民の多数派が「自衛隊は日本になくてはならない」と思うのが、もっとも明確な政治的承認であり、正統性の強固な基盤である。しかし、これはまだ比較的最近の現象なのである。

受難と忍苦の時代
 
 「君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。」これは一九五七年に吉田茂首相(当時)が防大の一期生たちに述べた言葉である。アジア・太平洋戦争の終結からまだ一二年、国民の厭戦(えんせん).反軍感情は根強かった。一九三〇年代以降の軍部の政治介入が悲惨な敗戦を招いた、というのが国民の共通認識であり、そのような時代に日本の再軍備を進めるのは、至難の業であった。それでも一九五四年には自衛隊が発足し、その幹部要員を養成する機関として防大が前年の一九五三年に開校していた。
 しかし、その後四十年あまり、自衛隊には受難と忍苦の時代が続く。前述のような厭戦・反軍感情から自衛隊は税金泥棒と世間から非難された。左右のイデオロギー対立が激しかった冷戦の時代、左翼思想が支配的だったメディアとアカデミアからは、「アメリカ帝国主義の走狗(そうく)」と罵倒された。防大を受験したい、自衛隊に入隊したいという教え子に、日教組系の教師が内申書を書いてやらないなどという、いじめもあった。このような空気の象徴が一九五八年の大江健三郎の発言である。同氏はこのとき二三歳、芥川賞を受賞したばかりの文壇の寵児であった。大江氏は『毎日新聞』のインタビューで「防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」と語っている[6]。初期の防大生には、戦争で親を失ったり、海外からの引揚者の子弟であったり、と経済的に恵まれない若者も少なくなかった。彼らに対し、これほど残酷な言葉はない。しかし、このような言説がまかり通ったのが、一九五〇年代から九〇年代初めの日本社会であった。
 このような社会では現職自衛官が一般大学で学ぶことを希望しても、入学を拒否されることが多かった。アカデミアとメディアも、ともすれば自衛隊を猜疑の目で見た。軍事・安全保障に関する研究は危険視され、朝鮮半島有事を想定した研究を自衛隊が行ったり(一九六一二年の三矢計画)、統合幕僚会議議長が有事法制の必要を論じると(一九七八年の栗栖事件)政治問題化した。一九五六年に国際連合に加盟した日本に対して、国連がレバノン内戦後の停戦監視団に自衛官の派遣を求めてきても(一九五八年)、政府は野党と世論の批判を恐れて辞退した。世間が高度経済成長やバブル景気を謳歌していた頃、自衛官は感謝もされず、黙々と任務を果たしていた。自衛隊と自衛官は、四十年以上にわたり、吉田茂が述べたような「日陰者」の悲哀を味わい続けた。自衛隊が堂々と国民の前に姿を現せるのは「オリンピックとゴジラ映画」だけだったのである。

承認欲求と商業右翼の誘惑

 しかし、人間にも組織にも承認欲求がある。自分が何かの役に立っていると評価されたいのは、自衛官・自衛隊とて例外ではない。国民からは税金泥棒呼ばわりされ、「進歩的知識人」とメディアからは「平和憲法違反」「アメリカの傀儡(かいらい)軍」と非難される。リアリズムに基づく安全保障研究をすれば、与野党の政争の具に使われ、国際的な活躍の場も国内政治事情で閉ざされた。このような時代が四十年以上も続けば、自衛官の間にどす黒いルサンチマンが蓄積されないほうがおかしい。一九二〇年代の大正デモクラシーと軍縮の時代に社会から冷遇された帝国軍人たちが、その反動で一九三○年代以降に暴走した歴史を忘れてはならない。
 問題は、一九九〇年代後半以降、自衛隊が大多数の国民に支持され、政治的正統性が確立された現在でも、受難と忍苦の時代に形成された自衛官のルサンチマンが払拭されないことである。そのためか、自衛官は自分たちを手放しで持ち上げてくれる人士にきわめて弱い。自衛隊を支持し、応援することは問題ない。しかし、自衛官を無条件に賛美し、さらには自衛隊を、日本神話や大日本帝国陸海軍の栄光と結び付けるのは、危険な時代錯誤以外の何物でもない。二〇二〇年代に入っても、自衛隊は種々の教育機関にこの種の「商業右翼」の浸透を許してしまっている。
 自衛隊の組織継承者を輩出する防大が、長らく理工系学問主体の学校であったことも一因であろう。比較的最近まで、防大生たちは人文・社会科学系の学問に触れる機会が少なく、技術者的な気質のまま卒業・任官し、自衛隊組織の中で昇進していった。実務はこなせるが、人文・社会科学系の教養に欠ける幹部自衛官が多数派となっていた。彼らの多くは、もっともらしく聞こえる陰謀論や商業右翼の言説の虚構を見抜けない。その象徴が二〇〇八年の田母神論文問題である。田母神俊雄・航空幕僚長(当時)が民間団体主催の近現代史論文
コンテストに応募して最優秀賞を取った。しかし、論文の中身は稚拙な陰謀論であり、歴史認識が政府見解と異なっていたために同氏は更迭(こうてつ)された。田母神氏は防大卒の理系エリートとして航空自衛隊の最高幹部である幕僚長まで昇り詰めた。しかし、キャリアの中で人文・社会科学系の知性を磨く機会に恵まれず、教養の偏りから陰謀論の罠に落ちたのではないか。これは氏自身の自己研鐙の問題であると同時に、自衛官たちを疎外してきたメディアとアカデミアの責任でもある。後者もまた軍事・安全保障の知識が抜け落ちた、偏った教養の持ち主たちであった。

知性派自衛官たちへの期待

 しかし、筆者は幹部自衛官がみな知性と教養に欠けるなどと一般化する気は毛頭ない。『なぜ国々は戦争をするのか』という書を、筆者は七名の現役幹部自衛官たちと一緒に翻訳・出版した。一九七四年の初版から増補改訂を重ね、二〇二年の第二版まで続くロングセラーである。第一次世界大戦からイラク戦争まで、過去一〇〇年の間に起きた戦争と紛争を全一〇章で多角的に論じている。留学中に本書を読んだ筆者は深い感銘を受け、いつか自分が教職に就くことがあれば、学生たちとこの本を精読したいと考えていた。
 やがてその機会が訪れる。二〇〇九年一〇月に防衛大学校に着任した筆者は、総合安全保障研究科で「戦争史」というゼミ形式の科目を担当することとなった。受講生は二〇代終わりから四〇代初めの初級・中級幹部自衛官と、他省庁やマスコミからの委託学生たちである。教材に筆者は『なぜ国々は戦争をするのか』を選んだ。各受講者には同書の一章分を担当させて要約と論点の抽出を行わせた。これを基にゼミでは活発な議論が展開され、二年間かけて四〇〇頁を超える原書を読了した。
 受講生たちはその後、論文を執筆して修士号を取得し、それぞれが部隊や艦隊や自衛隊の諸機関に補職されていった。防大、幹部学校、防衛研究所といった自衛隊の研究教育機関勤務になった者もいれば、防衛駐在官として海外に赴任した者もいる。
 彼らが作った各章の要約と論点を基にして筆者が監訳と編集作業を行い『なぜ国々は戦争をするのか』は上下二冊の書籍として刊行された。本書を手に取り、翻訳者たちの多くが現役の幹部自衛官であることを高く評価してくださった読者もいる。翻訳者の中からはその後博士号を取得し、本格的な学術書を刊行した者もいる。また、『国際政治』『軍事史学』『戦略研究』『国際安全保障』『日本歴史』等の学術専門誌に査読付き論文を投稿して受理された幹部自衛官も少なくない。彼らのような「ソルジャー・スカラー」が、自衛隊とアカデミア・メディアの間の架け橋になってくれることを願っている。
 しかし、このような知性派自衛官たちの活用について、防衛省及び陸海空の幕僚幹部は明確なビジョンを欠いているように見える。また、田母神氏タイプの上級・高級幹部が、受難と忍苦の時代に作られた既存の教育制度の中で再生産されている。反知性主義的な組織の体質を改善し、商業右翼を招き入れる悪習を断つには、この構造にメスを入れねばならない。



 防大の初代学校長を務めた槇智雄[10]教授は学生たちに常々「自衛官である前に紳士であれ」と語りかけていた。ここでいう「紳士」(gentleman)とは良識と責任感を持つ社会の一員という意味である。彼らが住む日本は民主主義国家である。民主主義の諸価値を尊重できない軍隊は国民を守れない。自衛隊が民主主義国家日本の国軍であるならば、自衛隊と社会、具体的には幹部自衛官と政治家・民間有識者の間の教養の共有が不可欠である。
 一国の安全保障に関する論議は健全なリアリズムに基づくべきで、イデオロギーや党派対立に左右されてはならない。健全なリアリズムの基盤となるものが、教養である。軍人と文民が自己の特殊な価値観の世界に立てこもり、互いを排除することは国を危うくする。社会が軍事専門職を包摂し、軍人が「軍服を着た市民」であることが、民主主義国家日本の自衛隊における自衛官のあるべき姿である。それを促進するには、自衛隊・自衛官側の努力のみならず、アカデミアとメディアの役割も大きい。



1 「危機に瀕する防衛大学校の教育」
https//drive.google.com/file/d/16No3obd07-MOxRbwo6MsPuqImAYK_Tfv/view?pli=1
2 「商業右翼」の定義は「【防衛大現役教授が実名告発】自殺未遂、脱走、不審火、新入生をカモにした賭博事件…改革急務の危機に瀕する防衛大学校の歪んだ教育」(集英社オンライン)の註6を参照。
3 軍隊の最大公約数的な定義を「主権国家の政府の統制下にあり、外部からの脅威に対して、国民の生命と国家の独立を維持するための暴力装置」とするならば、自衛隊は明らかに日本の国軍である。
4 神学論争と化した既存の「改憲・護憲」論議にとらわれない、自衛隊と憲法に関する考察では以下が出色の研究である。幡新大実『憲法と自衛隊――法の支配と平和的生存権』東信堂、二○一六年。
5 https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000152686
6 『毎日新聞』一九五八年六月二五日・夕刊
7 ジョン・ストウシンガー(等松春夫監訳・比較戦争史研究会訳)『なぜ国々は戦争をするのか』上・下、国書刊行会、二〇一五年。ストウシンガー(一九二七~二〇一七)は杉原千畝と真鍋良一という二人の日本人外交官の助けでナチスを逃れ、後に米国で国際政治学者(サンディエゴ大学教授)となった。なお、筆者は以前にも軍事史学会の編集委員として、一般大学の研究者とPKOに携わった現役自衛官ど協力して軍事史学会編『PKOの史的検証』(錦正社、二〇〇七年)を刊行している。
8 防大の総合安全保障研究科(以下安保研)とは一般大学の大学院に相当し、一九九七年に設置された。安全保障全般に関する教育を幹部自衛官および他省庁やマスコミからの委託学生に対して行う。前期課程(二年)では修士号、後期課程(三年)で博士号を取得できる。毎年二○名前後が入学する。
9 安保研で博士号を取得し、学術研究書を刊行した幹部自衛官は近年増加しつつある。以下代表的な成果を挙げる。金澤裕之『募府海軍の興亡――幕末期における日本の海軍建設』、慶慮義塾大学出版会、二〇一七年、小川健一『冷戦変容期イギリスの核政策――大西洋核戦略構想におけるウィルソン政権の相克』、吉田書店、二〇一七年。
10 槇智雄(一八九一~一九六八〉政治学者・慶慮義塾大学法学部教授。戦前にオックスフォード大学で学び、その経験からジェントルマンシップとノブレス・オブリージュ(エリートの使命感)の精神を防大教育の根幹に据えた。槇教授の防大教育の思想は以下を参照。槇智雄『防衛の務め――自衛隊の精神的拠点』(中央公論新社、二〇〇九年)を参照。

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『「ロシア」は,いかにして生まれたか ――タタールのくびき』 宮野 裕(NHK出版)

2023年08月14日(月)

そういえば ずいぶん前のこと 台風の進路をコントロールするとか
そんな話もあったけれど どうなったんだろう
ハリケーンが 日付変更線……だったか……をまたいで 台風に名前を変えたという
これまでにも時折あったと お天気の解説者が語っていたけれど

だいぶん前 通勤の電車や仕事のすきまが読書だったところ
たぶん 杉山正明 モンゴルの歴史をのぞいてみた
岡田英弘 という名前もあったけれど ちょっと個性が強いのかな 
もちろん悪いことじゃないのだけれど
いずれにせよ 世界史といいながら 西洋史と「国史」 スキマに東洋史……で
「世界」はいずこに なんて思わなかったかな

学校の歴史教育が変わるのだと メディアが騒ぎ立てるけれど 
いまごとなんだかな……と思う

それにしても不勉強は いろんなところに落とし穴を用意しているんだな
と 自分の来た道を振り返ることがある

そういえば キエフをキーウと表記すると この戦争の開始以来 メディアが唱える
ならば 大陸の国とか半島の国はどうなるんだろうと ちょっと悪態をつきたくなる

ちょっと前に グルジアという国名を ジョージアに変更すると報じられた
それで思いだしたのだけれど なぜ「アメリカ合州国」ではなく「アメリカ合衆国」なんだろうと

本棚から世界地図を引っ張り出してきて 本を読みながら地図を見るのだけれど
まったく追いついていけなかった
まぁ中学とか高校の補助教材のような地図だから しかたがないか と思いながら
ちょっと高校時代を思い出して
もう半世紀も前になってしまう
最低の地理の教師 クソおもしろくない世界史の教員
日本史の教師だけが 記憶に残っている 
もうすこしちゃんと話を聞いておけばよかった とあとで思ったけれど そこから先に踏み出すことをしなかった
その後 ネットで見ていて 彼の名前を発見したことがあった
すこしだけ得心するところがあった

それで 地図帳か
たんなる感想でしかないのだけれど 地理 歴史 たぶんもっと一体的に あるいは総合的に考えることが必要だったんだろうな とあとから思った
歴史を 古文書の世界に閉じ込めるのは どうなんだろう とも感じた
あるいは 科学史とか技術史 そんな分野もあったのだから もうすこし「総合」に向かうような議論があっていいのに とも思ったのだったけれど 
大学入試が「歴史総合」になったって なにが変わるんだ?とも思う

それで ロシア
このひどい戦争で いったいなにか変わるんだろうか
メディアの報道は ロシアのバックグラウンドに昏いように見えた というかあまり報道されない
ウクライナについても つい最近 徴兵事務にかかわる連中が首になったとか報じられていたけれど じつはずっとそうだったんじゃないのか 独立以来
ワグネルとか ロシアの傭兵部隊?軍事企業が出てくるけれど 
ウクライナ側には ●●連隊とか●●大隊とかいうわけのわからない私兵集団が いつの間にか正規軍に組み入れられていたんじゃなかったか

……どうすればよかったんだ となってしまうのかもしれないけれど
そもそもなぜ争うのか なにを争っているのか……
先の戦 といって応仁の乱がでてくるとか そんな話がこの列島にだってあるんだから
さて ヨーロッパの東 どういう歴史があったのか と思った

本屋の棚に NHKのHowToもののなかに小さな冊子を見て おもしろそうだなと思って
すこしずつ読んで おもしろかった


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世界史のリテラシー

「ロシア」は,いかにして生まれたか
タタールのくびき

宮野 裕

NHK出版
2023年6月15日

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宮野 裕(みやの・ゆたか)
1972年、東京都生まれ。岐阜聖徳学園大学教授。筑波大学第一学群人文学類卒業。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程西洋史学専攻中退。博士(文学)。専門はロシア中近世史。薯者に『「ノヴゴロドの異端者」事件の研究』、訳書に『ロシア中世教会史』『中世ロシアの政治と心性』など。


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はじめに 

 ロシアという国は、特に明治日本以来、文学や芸術により、また思想や政治のあり方などの点で私たち日本人を惹きつけてきました。
 その際、私たちのロシアへのまなざしは、ヨーロッパに対するそれとは異なっていて、しかしながら中国や東南アジアに対するまなざしとも異なる独特のものであったように思います。例えば、多くの権力が一人に集中するような政治体制やそれを許容するように見える国民意識を目の当たりにすると、ロシアはヨーロッパとは異なる国だと感じることでしょう。
 ところが、だからといって中国などを念頭に置くと、ロシアはアジアとも言いがたいと感じるはずです。ヨーロッパ風の建築物が建ち並ぶハバロフスクやウラジオストクは、「身近なヨーロッパ」として(コロナ前まで)観光客に人気がありました。
 この本では、このような独特の、そしてある意味で孤独な存在であるロシアがどのように生まれたのかについて考えていきたいと思います。現在は過去の積み重ねの上に成り立っているので、ロシアの生い立ちを知ることは、現在のロシアがなぜ「○○なのか」(○○は読者の皆さんのあらゆるロシアイメージが入ります)という問いを解き明かすために必要な作業なのです。
 さて、ロシアは一般的に言えば、十五世紀末から十六世紀初頭に成立したと言われています。この時期のロシアはまだシベリアには広がっていない、基本的にはウラル山脈より西側で、モスクワを中心として広がる国でした。
 この国を支配していたのは、リューリク朝と呼ばれる「公」の一族で、ロシアが成立した時期の支配者は、伝説上の始祖リューリク(?~八七九年)から数えて十八世代目に当たるイヴァン三世(在位一四六二~一五〇五年)でした。
 あとで詳しくお話ししますが、イヴァンの時代にロシアはモンゴル人による二世紀半にわたる支配(一般に「タタールのくびき」と言われます)から脱却し、独立を獲得しました。そしてこの独立とともに、国家機構を整え、領土の拡大も進めていきました。そういう事情があったので、ロシアが成立した経緯(独立だけでなく、くびきの時代も含めて)を追いかけていくと、ロシアという国のあり方、とりわけその基礎部分が見えてくるように思います。
 そこで、本書では、四章に分けて、ロシアが「タタールのくびき」とどのように関係を結び、最後はそこから離脱し、ロシアとして飛躍の第一歩を踏んだのかについて、年代で言えば十六世紀初頭までの時期についてお話ししたいと思います。
 ここで、予めお話しする内容をお伝えしておきます。
 第一章では、「タタールのくびき」とは何か、どのように成立したのかをお話しします。ロシアの歴史におけるくびきのインパクトは計り知れませんから、まずはこのくびきについてお話ししておきたいと思います。
 第二章では、このくびきのなかでどのようにしてモスクワ諸公が力をため、競合諸国を追い落としながらこの地域の中心になっていったのか、その過程を追いかけます。私の考えでは、「タタールのくびき」がなければ、モスクワがロシアの中心になることはありませんでした。
 第三章ではイヴァン三世の時代にロシアがようやく独立を果たし(くびきからの離脱。多くの研究者の意見では、一四八〇年の「ウグラ川での対峙」という歴史事件で終わったとされています)、国力を蓄えていく過程を叙述します。この過程で、君主に多くの権限が集まる仕組みの原型が作られていきました。その意味でも、現在のロシアを考えるために重要です。
 最後に、第四章においては、蓄えた力をバネにして、ロシアが、特に「父祖の地の回復」というスローガンを掲げて西に侵攻していくさまを描きます。ロシアは、当時リトアニアの支配下に置かれていたかつてのルーシ大公国(一般にはキエフ大公国やキエフ・ルーシ国家として知られています。「ルーシ」は、リューリク兄弟の出身地スカンディナヴィアの氏族名に由来するとしばしば考えられています)領に領土を拡張していきます。この拡張の様子を現在のウクライナ侵攻と重ね過ぎることはよくないのですが、それでも現代に生じているウクライナ侵攻と類似のロジックがここで使われたことを知ることで、ロシアの今回の行動を支える考え方について深めることができると思います。
 以上のような形で、くびきのもとでモスクワがどのような道を辿り、北東ルーシ地方の中心となり、また権力の集中を可能にする土台を築くに至ったのかといった問いに答えながら、「ロシア」がいかに生まれてきたのかについて、お話ししたいと思います。では、始めましょう。


※現在、日本のニュース等では、ウクライナの首都は現代ウクライナ語の読みに基づいて「キーウ」と表記されています。しかし本書では、あえて「キエフ」と呼ぶことにします。それは、本書が扱う古い時代の史料で、この町は「キエフ」あるいは「クィエフ」と呼ばれているからです。ほかにも、同じ考え方で、結果としてロシア語と同じ表記が使われる場合があります(チエルニゴフなど)。


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世界史のリテラシー

「ロシア」は、いかにして生まれたか
タタールのくびき

目次

はじめに   002

第一章*事件の全容(1)
「タタールのくびき」はいかにしてルーシにつけられたのか?  011

モンゴルによる侵攻前のル-シ国家
  「諸地域」が、公を頂点とする「公国」を形成   012
モンゴルのユ-ラシア遠征
  十万人を超えるモンゴル兵がルーシのすぐ南まで攻めこんだ   015
ルーシへのモンゴル侵攻
  北東部から南部へ、モンゴル軍はルーシ諸都市を蹂躙した   018
ウラジーミル大公ヤロスラフのモンゴル臣従
  「タタールのくびき」のもとに入ったルーシ   022
反モンゴル同盟の形成
  ルーシに訪れた、モンゴルからの自立のチャンス   026
アレクサンドルの選択
  なぜアレクサンドルは、モンゴルによる支配を受け入れたのか   028
くびきの基本構造
  タタールによる「間接支配」はいかにして行われたか  033
タタールの侵攻による被害
  都市や農村への影響と、人の移動による地域の衰退と隆盛   040

第二章*事件の全容(2)
なぜ、モスクワが「ロシア」の中心になったのか?   045

モスクワ公国の成立
  タタールによる揉躙を此較的軽微な損害で乗り越えたモスクワ   046
公国の強化
  カンの力を利用して国内の競合者を排除したイヴァン一世   051
大公位を確保したモスクワ
  トヴェリ公国およびリトアニア大公国との争い   055



モスクワを中心とした北東ルーシ諸国の結束
  将軍ママイの攻撃に対し、北東ルーシ諸公「同盟軍」で対抗   059
クリコヴォの戦い
  戦いでの勝利は、タタールからの独立闘争の第一歩となったのか?   061
分裂するタタールとモスクワ公国の内戦
  タタールの内紛がモスクワの運命にも影をおとす   066
タタ-ルのモスクワに対する圧力の低下
  モスクワ公の「ツァーリ」としての意識が芽生えた!?   073
足場を失う正教会
  なぜ全ルーシ教会は、世俗権力に頼らざるを得なくなったのか?   077

第三章*同時代へのインパクト
くびきからの離脱、そしてロシア統一国家の形成へ   081

イヴァン三世の即位
  少年期の経験が生きた、一四六○年代から七〇年代の外交的勝利   082
一四七二年、アフマトの襲来
  モスクワは、大オルダ、アフマトの遠征軍をオカ川で退けた   086
一四八〇年、「ウグラ川での対峙」
  イヴァン三世は、数か月にわたるアフマト軍の侵攻を再び退けた   089
「ウグラ川での対峙」終焉の意味
  一四八○年が、「タタールのくびき」が外れた年と言えるのか?   096
統一国家の形成――集権化政策の推進
  「ロシア統一国家」の形成は、どのような形で進んでいったのか   103
「ロシア」の誕生
  どのようにして「ロシア」が国称になったのか?   103
君主への権力集中
  ロシアにおける「君主権」が「強大」になっていった理由   112

第四章*その後に与えた影響
「ルーシの地」の所有権がロシアにあるとする考えはいつ生まれたのか?   117

リトアニアとの衝突
  「我らの土地を(リトアニアの)王が不当に保持している」   118
リトアニアとの戦争の再開
  「ルーシの地はすべて我らの父祖の地である」   122



十二世紀の「ルーシの解体」
  キエフ支配に誉れを認めなくなった北東ルーシ諸公   126
旧ルーシ公国領南部へのリトアニアの伸張
  それぞれの道を歩みはじめた北東ルーシとキエフ地方   132
ルーシの一体性をつなぎ止める「全ルーシ教会」
  かつてのルーシ公国領は全ルーシ府主教の管轄である!   135
「全ルーシの一体性」概念の世俗化
  ロシアの君主はいつから「全ルーシの一体性」を主張しはじめたのか?   141
「ルーシの地」の人々はロシアを受け入れたのか?
  イヴァン三世の大義も、リトアニアの多くの人々にとっては無縁だった   147


結びにかえて   152

参考文献   158

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結びにかえて


 本書は、ロシアという国がいかに「タタールのくびき」との関わりのなかで生じてきたのかを描こうとするものでした。三百年近くを扱う本書は、特に耳慣れない用語や人物、地名などが多いせいで読みにくかったと思いますが、ロシアとタタールとが、とにもかくにも絡み合い、互いに翻弄し、また利益を引き出し合ったという点だけはご理解いただけたかと思います。冒頭でお話ししたような、このくびきの経験なくしてロシアの形成はあり得なかったという「著者の思い」にも首肯していただけるかと思います。
 もちろん、具体的な影響や結果については異論もあるでしょうし、著者としてもまだわからないことが多いのですが、普段から敬愛している先人のおかげで何とかまとめることができました。特に近年亡くなったV・カルガロフ先生、Yu・アレクセエフ先生の著書、それから現役のA・ゴルスキー先生、それから著者の師である栗生澤猛夫(くりゅうざわたけお)先生の著書から多くの示唆をいただきました。記して感謝します。なお、亡くなった田辺三千広先生との二十年前の約束もこれで果たせました。
 昨年二月にロシアのウクライナ侵攻が始まり、ロシアへの関心は確実に高まりました。前線の状況やロシア政治についての情報が毎日届き、それなりに戦争自体の動向は理解できているのですが、どうもその先の問い、つまり、なぜウクライナに侵攻したのか、なぜロシア大統領はこのような政策を行うほど権力を固められているのか、なぜ国民は支持するのか、総じてロシアはなぜああなのか、といった問いに答える段になると、ロシアを長期的に眺め直すことが必要になってくるように思われました(と言っても、それですべてがわかる、と言うつもりはありません)。
 以下では、本書の内容と重ね合わせながら、著者の独白をしておきたいと思います。
 アレクサンドル・ネフスキーによるくびきの受け入れ、そしてその背景にあった、当時のカトリック世界(「北の十字軍」や支援提供の申し出)への彼の不信感は、結果としてロシアを西欧と異なる立場を取りがちな存在にしました。
 またモスクワが北東ルーシの中心核になっていく過程は、くびきに触れずしては理解できません。宗主としてのカンの権力・権威の存在は本書が扱った世界では非常に重要で、アレクサンドルはまだしも、特にその息子たち(ドミトリーとアンドレイ)がモンゴルから軍を引き出してライバルを駆逐する方法はモスクワのユーリーやイヴァン一世に引き継がれ、府主教座の取り込みもあってモスクワはこの地の一大勢力になりました。
 西欧には西欧全体をカバーし、また懲罰軍を送りこむような圧倒的な武力を蓄える存在はなかったことを想起すれば、カンの支配は、ロシアにおける権力観、支配.被支配あるいは権力と国民・臣民のあり方に大きな影響を与えたことが見て取れるのではないでしょうか。
 十四世紀後半のドミトリー・ドンスコイは、その意味でそれまでのモスクワ君主とは異質な部分が多いと言えます。タタールの分裂が生じていたこともあって、彼がこれに立ち向かおうとしたというのは、アレクサンドル・ネフスキー以来の大方針をやや転換したと言えるでしょう。北東諸国をまとめて、のちのロシアの大枠を築いたという点で、ロシアの祖と言えるでしょう。ただ、その後もタタールの権力を認め続けたという点で、彼を独立闘争の志士と評価するのは行き過ぎでしょう。
 十五世紀前半の内戦もまた、タタール側の内戦とも相侯って、さまざまな結果を生み出しました。とりわけこの時に生じた、ドミトリー・シェミャカによる大公ヴァシーリー二世の目潰しなどの凄惨な事件は、若くして父とともに戦いや政治に関わり、投獄生活も送ったその息子イヴァン三世の世界観に強い影響を及ぼし、彼のリアリスト的な性格を構築したように見えます。
 一四七二年から八〇年のくびきからの離脱で、ロシアはイヴァン三世が主権を持つ独立国家になりました。内戦や外患に辟易(へきえき)としたイヴァンは国内統合と権力構造の整理、ならびに武力及び多くの使節を通じた外交策を一気に展開し、一四七〇年代からの三十年で急速に国制を整えました。
 この「上からの改革」が一気に進められたことは、国家の「うわべ」の構築には役立ったでしょうが、その後の西欧の自立的な下からの動き(諸身分形成や都市の形成、農民の自立など)とロシアにおけるその脆弱さとを照らし合わせると、この「改革」は、その後のロシア社会の権力構造全体のあり方の、言ってみれば消しても消えない「下書き」を描いてしまったのかもしれないとも思ってしまいます。
 ロシアにはウクライナ、とりわけそのシンボルであるキエフを自らの影響圏とする正統性があるかのような言説の原型も、この時期に現れました。教会が主張し続けた「全ルーシの一体性」という考え方(それ自体を悪く言うつもりはありません)がおそらくイヴァンに影響を与えました。ただし、精緻な計画はなかったと思われます。一四七〇年代以降、かつての大公国領はイヴァンにとって正統な相続地になりました。その相続地を「違法に保持」するリトアニアの、とりわけ南西部への侵攻は、イヴァンにとって正しい行為でした。その際、この発想元である教会の影響を受け、「全ルーシ」とはほかでもない、「正教圏」であることが当然のことでありました。だから、イヴァンにとって、カトリックを奉じるリトアニア大公のもとに「全ルーシの地」があることは二重の意味で不当でした。初期の数名のリトアニアの諸公がそうであったように、リトアニアの諸大公が(カトリックでなく)正教を奉じていれば、そしてポーランドと距離を取っていれば、かなり異なった展開があったようにも思えてきます。
 二〇二二年のクリスマスに、キーウの古刹(こさつ)、ペチェルシク修道院のウスペンシキー聖堂がウクライナ政府により国有化され、それまでこれを仕切ってきたモスクワ総主教座管轄のウクライナ正教会が追い出され、使用できなくなったといったニュースを耳にしました。
 第四章でお話ししたことを考慮すると、ウクライナ政府の対処は、ウクライナの独立にとっては有益でしょう(合法かどうかは別にして)。しかしかつての「全ルーシ教会」の領域内にウクライナ(の大部分)が存在する以上、そして正教会がウクライナに存在する限り、今回の戦争がウクライナの大勝利で終わったとしても、ウクライナをテリトリーと見なすロシアの見方はなくならず、両国関係のなかでくすぶり続けるように思われます。
 ある時期まで関心のなかった対象について、自分のまわりの状況変化に伴う自分の都合の変化に基づき、自らにコミットする権利があると主張しはじめるというのは人間社会で散見されます。それは人間の性(さが)のようなものであって、今後もなくならないでしょう。
 だがそれで人の、特に大量の人の命が失われるのは勘弁願いたいと思います。歴史研究はそうした欺瞞(ぎまん)を暴くためにあるというわけではありませんが、例えば今回のことがなぜ起きたのか、過去深くに分け入りながらその諸原因を考えていけば、結果として、プーチン大統領自身、あるいは彼を含めた多くの人々が持つ歴史観の問題性が露わになるでしょう。
 他方でロシアそのものについても、その過去(本書の範囲以降も含めて)をじっくりと見ていきながら、国際社会が、とりわけ冷戦終結後にどのように対応すべきであったのか、今後どのようにロシアを受け入れるべきなのかを考えねばならないところです。
 その際、歴史を紐解き、一般論ではない、個としてのロシア理解がまずは大事なのでしょう。本書がその一助になれば幸いです。

宮野 裕

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参考文献

【一次史料】
石戸谷重郎「イワン3世の1497年法典――本文試訳ならびに注解」(『奈良学芸大学紀要」〈通号8-1〉)
カルピニ/ルブルク著/護雅夫訳『中央アジァ・蒙古旅行記』(講談社)
國本哲男他訳『ロシア原初年代記」(名古屋大学出版会)
中村喜和編訳『ロシア中世物語集』(筑摩書房)
三浦清美「中世ロシァ図書館(XXIV) ワッシアン・ルイロのウグラ川への書簡」(『ロシア文化研究」〈通号21〉)
三浦清美「中世ロシア図書館(XXV) ウグラ川での対峙の物語」(『エクフラシス』〈通号12〉)
三浦清美訳『中世ロシアの聖者伝(1) モスクワ勃興期編』(松籟社)
ラシード=アッディーン/赤坂恒明監訳『集史 モンゴル史 部族篇 訳注』(風間書房)

【研究文献】
井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラブ』(中央公論社)
G.ヴェルナツキー著/松木栄三訳『東西ロシアの黎明』(風向社)
小澤実・長縄宣博編著『北西ユーラシアの歴史空間――前近代ロシアと周辺世界』(北海道大学出版会)
栗生沢猛夫「ヨシフ・ヴォロツキー(1439/40-1515)の政治理論(1)――モスクワ・ロシアの政治思想史研究序説」(『スラヴ研究』〈通号16>)
栗生沢猛夫「同(2)」(『スラヴ研究』〈通号17〉)
栗生沢猛夫『タタールのくびき――ロシア史におけるモンゴル支配の研究』(東京大学出版会)
B.O.クリュチェフスキー著/八重樫喬任訳『ロシア史講話1』(恒文社)
B.O.クリュチェフスキー著/八重樫喬任訳『ロシア史講話2」(恒文社)
A.A.ゴルスキー著/宮野裕訳『中世ロシアの政治と心性』(刀水書房)
杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(講談社)
田中陽児他編『世界歴史大系 ロシア史1』(山川出版社)
中村仁志「ウグラの対陣とロシァ=タタール関係」(『関西大学文學論集』〈通号72-3〉)
中村仁志「ロシア=クリミア汗国同盟と大オルダ」(「関西大学文學論集』〈通号72-1・2〉)
濱本真実『共生のイスラーム――ロシアの正教徒とムスリム』(山川出版社)
C.J.ハルパリン著/中村正己訳『ロシアとモンゴル――中世ロシアへのモンゴルの影響』(図書新聞)
J.フェンネル著/宮野裕訳『ロシァ中世教会史』(教文館)
松木栄三『ロシア中世都市の政治世界――都市国家ノヴゴロドの群像』(彩流社)
松木栄三『ロシアと黒海・地中海世界――人と文化の交流史』(風向社)
宮野裕「フィレンツェ合同のロシア、ウクライナ、ポーランド地域への波及」(『西洋中世研究」〈通号10〉)
山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社)

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82歳の麻生氏が「戦う覚悟だ」……


「麻生」という姓は,九州に多いのだろうか.
たぶん.
叔母の結婚した相手も麻生姓で,とてもまじめなひとだった.
だから,従姉妹も麻生姓だった.
でも,ここに出てくる麻生さんとは,ずいぶん違っていたな,と思う.

他人事でなく,ちょっと自分にひきつけてみておかないといけないんだろうな,とは思った.
じぶん自身もまた,年齢を重ねてきているから.
と同時に,麻生さんがどんな「戦い」を思い描いているのか知らないけれど,
多くの「戦い」で,老若男女を問われなかったから.

そういえば麻生さんは,クレー射撃の名手だとか,
打ち出されるお皿?を打ち砕くように,敵を倒そうとお考えかもしれない.

それでも戦いの前線には,若い人たちが動員されるのだろう.
しかし,さて,戦いの前線とはどんなふうになるんだろう.
ロシアーウクライナの「前線」はどうなっているんだろう.

そういえば最近,前線に動員されるウクライナ兵の平均年齢が40を超えるのだとか.
自衛隊員の平均年齢が30代半ばとか.まぁ,日本人全体の平均年齢を考えると,当然かもしれないけれど.
ウクライナ,ロシアの場合は,どうなんだろうか.


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素粒子
2023年8月9日 16時30分

 82歳の麻生氏が「戦う覚悟だ」と。いつの世も戦場に行かぬ人が軽々しく言い募る。

   ×  ×

 ウクライナを案じつつ、長崎を最後にと祈る。〈戦争へまた戦争へ原爆忌〉吉江充慶

   ×  ×

 マイナ総点検。相変わらず政府が自治体に指示、次々。「上意下達」への反省なし。

   ×  ×

 大学改革の惨状。日本の注目論文、最低更新の13位に。
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広島・岡山ローカル線、存廃含め議論へ JR西「鉄道、便利でない」

2023年11月26日(日)

鉄道路線がどんどん見直され,廃止されていく.
見直して,もっとネットワークを強化しよう,という議論は,ほとんど聞かない.
バスで代行するとか言いながら,だいたいローカルバス路線で,県境を越えるものなどあまり見ないようで,
おまけに最近は,運転手の確保が困難だとか騒がれている.
給料が安ければ,もともと労働条件は厳しかったわけだから,なり手以内,というのは,
当然に予想されていたことなんだろう.
福祉関係なんかも同じだな.

客が減って,便数が減って,それでますます便数が減る.
多くの赤字ローカル線が,同じような経過をたどって,廃止の議論を迎えるのだろう.

ときどき地図を眺め,時刻表を眺める.
結局,クルマにするか……となったり,でも年をとると,クルマじゃな,となって,
鉄道は?
一日数便しか走っていない,なんてローカル線が多そうだな.
おまけに主要幹線との接続はどうだったか.
おおむかし懐が寂しいと,長距離の鈍行,あるいは急行,もちろん2等車で,とか,
でも長距離の列車がどんどん廃止され始めたころ,結局,新幹線を使え,ってことで,
それって実質値上げじゃないか,なんて思ったこともあった.

まぁ,タイム・イズ・マネーか…….いやだな.

三江線など,代替バスだって,廃止路線になるんじゃないのか? いや,人が住んでいないんだから.本当か? 
このまえ,六角精児さんが三江線ででていたぞ,などと思うが.

国土の均衡ある発展なんだとか,
国土の強靱化だとか,
どういう国土をつくりたいんだろう?


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広島・岡山ローカル線、存廃含め議論へ JR西「鉄道、便利でない」
小沢邦男 西本秀2023年8月2日 21時40分

 JR西日本は2日、広島・岡山両県を走るローカル線の芸備線の特に利用者が少ない区間について、そのあり方を沿線自治体と話し合う「再構築協議会」の設置を国に要請する方針を表明した。国も参加して対象区間の存廃も含む議論が進む見通しだ。

【連載】 線路は続くか
地域の「足」となってきたローカル鉄道が廃線の危機を迎えています。現場から報告するシリーズです。

 同協議会は法改正によって10月に始まる新たな制度で、国土交通省の担当者によると、設置申請の具体的な表明は全国初という。

 JR西は芸備線の備後庄原(広島県庄原市)―備中神代(岡山県新見市)間の68・5キロを協議会の設置要請の対象とする方針。2日に岡山市内で開かれた芸備線の経営状況に関する会合で両県側に伝えた。

 同社地域共生部の須々木淳次長は非公開の会合の後、記者団に対し、対象区間について「全国でも非常に利用は少ない。鉄道の特性が生かせていないのが顕著」と強調。協議会の設置を「できるだけ速やかに要請していきたい」と述べた。

 再構築協議会は、4月に成立して10月1日に施行される改正地域公共交通活性化再生法に盛り込まれた。「大量輸送機関としての鉄道の特性」を生かすのが困難な赤字などのローカル線について、地域公共交通のあり方を関係者が連携して「再構築」することを目指すとされている。

 事業者や自治体の要請で国が設置し、地域に適した交通手段を話し合って、バスなど鉄道ではない方法に転換する場合でも国が財政支援をする。

⇒「議論の場ではございません」ローカル線存廃、JRと自治体の神経戦

 芸備線は利用の低迷が続き、JR西が昨年4月に発表した30区間の輸送密度(1日1キロ当たりの平均利用者数)では、今回の対象区間内にある東城―備後落合間が同社管内で最低の11人だった。

 ただ、これまで沿線自治体からは廃線への懸念が強く示されてきた。同社の表明を受け、岡山県幹部は「地元と相談しながら対応を検討したい」と述べるにとどめた。(小沢邦男、西本秀)

言葉濁す自治体、歯切れ良いJR西

 JR西日本が2日、存廃を含めてローカル線のあり方を検討する「再構築協議会」の設置に向けて踏み出した。国に設置を要請する対象としたのは中国山地を走り広島と岡山を結ぶ芸備線。沿線自治体には困惑が広がるとともに、予算面などの国の積極関与に期待する声が出ている。

 岡山県の浮田信太郎・県民生活部長 「まずは国に制度について確認してから……」

 広島県の杉山亮一・地域政策局長 「今後の対応については、国の要請があってから考えたい……」

 2日午後、岡山市内で開かれた記者会見で、両県の幹部はそろって言葉を濁した。一方、JR西側は歯切れ良かった。

 JR西の須々木淳・地域共生部次長 「イベントの時には少し増えるけれど、日常の利用はなかなか増やしづらい。地域にとって鉄道が便利なものになっていない」

 この日、直前まで開かれていた沿線自治体とJR西などとの会合。JR西側は、芸備線の備後庄原(広島県庄原市)―備中神代(岡山県新見市)の68・5キロの区間を念頭に、再構築協議会の設置を国に要請する方針を伝えた。

自治体からは「国の関与」求める声

 協議会は、4月に成立した「改正地域公共交通活性化再生法」に基づいて設置される。JR西としては初めての具体的な表明となり、10月1日の改正法の施行後、すみやかに要請する構えでいる。

 自治体側はこれまで、線区の存続を前提にした「利用促進」をJR西との会合の議題としてきた。一方、JR西は「存続ありき、廃止ありきのいずれでもなく、地域と議論したい」(須々木次長)とのスタンスだ。自治体としては、廃止の可能性も含めた論議にすんなりとは応じられないのが実情だ。

 今回までの会合で、JR西の経営状況を把握するため、広島県などは芸備線にとどまらない全路線の収支を明らかにするよう求めてきたが、JR西は応じずにいる。ある自治体の幹部は「議論の溝は埋まっていない」と感じるという。

 一方、改正法は地域交通を再構築するための予算措置も定めている。庄原市の岡本貢・生活福祉部長は取材に対し、国の関与に期待を込めた。

 「国はJRと自治体の間の『行司役』ではなく、交通政策の当事者として責任を発揮してほしい。JRが重視する『大量輸送』だけでない鉄道の役割が、ローカル線にはあるはずだ」(西本秀、小沢邦男)


改正地域公共交通活性化再生法
赤字ローカル線などの地域公共交通のあり方を関係者が連携して「再構築」することを目指し、4月に成立。10月1日に施行される。事業者や自治体の要請に基づき、国が「再構築協議会」を設置。1日1キロ当たりの平均利用者数(輸送密度)が少ない線区が対象となる。協議会は存廃やバス転換などの方針を3年以内をめどに作成する。


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(声)反対だけでは無責任、代案を

2023年11月22日(水)

反対のための反対,
は,良くないことか?ダメなのか?
そんなことを,むかしも考えてみなかったわけじゃないけれど.
でも,それでもいいじゃないか,と,ちょっと居直りだろうか.

当初に原発のはなしがあった.
なぜ,現在のような原子力発電の方法が主流になったんだろう,とむかし思った.
そういえば,チェルノブイリ原発は,ちょっと日本の主流の方法ではないとか.

で,原発を推進する人たちは,なぜ原発か,もろもろの批判,反対を含めて,自ら事業の実行可能性などを説明してきたのだったか,と思う.

戦争に反対,と,ぼくも思う.ロシアの侵略にも,対抗するウクライナ,あるいはさらにEUなども含めて,
反論や異論が,ずっとなかったわけでもなかったように思う.
いや,事ここにいたったのだから……,だから?

なかなか答えがなさそうなエネルギー問題なのだけれど,
もうずいぶん昔,オイルショックの後だったか,サウジのヤマニさんは,
石炭は,資源が枯渇して石油に取って代わられるわけではない,と語っていたらしい.
いま,石油についても,ちょっと同じようなことが言われそうだな,と思う.
反対があったから? クルマも,マスキー法は実現不可能と言われながら,
ホンダは新しいエンジンを開発して,規制をクリアした.
自動車エンジンの熱効率は,昔に比べると大幅に改善されているらしいとか.
反対がなければ,技術開発はどうなっていただろうか.
あるいは,そういう技術開発を,経営者は意思決定したのだろうか,とは思う.

……政治家についても,すこし,そんなことを.
投書にちゃんと向き合っていない風ではあるけれど.

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(声)反対だけでは無責任、代案を
2023年7月31日 5時00分


 他人の意見にダメと言うことは悪いことではない。しかし、ダメと聞く度に疑問に思う。「ではどうすればいいのか?」と。

 先日、駅前で原発廃止を主張する人たちがいた。「原発は危険」と訴え、「原発をやめろ」で締めくくるビラを見て「じゃあどうすればいいのか?」と思った。

 東日本大震災当時、私は3歳だったが、福島の原発事故をよく覚えている。原発の怖さも感じた。

 一方、最近の原発回帰の流れには脱炭素化への対応がある。温暖化の危機に、原発反対の人はどう対応するのか。火力発電を主軸とする状況を維持するのか。

 主軸を再生可能エネルギーに切り替えるのか。だが電力供給が不安定な上、景観を損ねるとの声もある。

 ダメとだけ言って終わりではあまりに無責任だ。こうすればよいと、しっかり意見を出すべきだと思う。

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