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寺島実郎 脳力のレッスン(255) 米中対立の本質と日本の針路 【世界】2023.09

2023年11月26日(日)

いつごろだったか,
急に思い立って,古山高麗雄さんのビルマ三部作をまとめて読んだ.
言い読者じゃないのだけれど,
ずいぶん前,知人と話をしていて,
プレオー8の夜明け
よかった,と話していてのを思い出しのだったか,
いや,ひょっとすると,なぜインパールばかり取りあげられるんだろう,
と思ったのだったか.
おもしろかった.
慰安婦というか,戦場の売春婦の話が出てきたり.

古山さんの本でだったか,あるいはもっと別の本だったか,
インドから中国へ,蒋介石の国民党政府を支援する,つまりは軍需物資を輸送するルートが通っていたということか.

ケインズは,結局,アメリカの壁に破れて,帰国し,そして死んだ……かな.

派遣の問題を,大きな目と,小さな目で見たときに,どんなふうになるんだろうな……,
ふっとおもったことがあったな.


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【世界】2023年09月

脳力のレッスン(255)

米中対立の本質と日本の針路
――二一世紀システムにおける日米中トライアングル

寺島実郎


 二一世紀日本の国際関係において、最も重要な課題は米国、そして中国との関係である。日米、日中の二国聞関係はそれぞれが自己完結しない。つまり、日米中のトライアングルの関係をどう制御するか、この宿命的な課題に立ち向かわねばならない。戦前戦後の日本の国際関係を凝視してきたジャーナリスト松本重治は「日米関係は米中関係である」と断言していた。この歴史認識を日本の針路として確認しておきたい。

■米中対立という認識の虚実
 権威主義陣営ロシア・中国に対するG7を中核とする民主主義陣営の二極対立の構図で世界が語られ、報道もそれを上塗りする傾向が顕著である。さらに、ウクライナ侵攻後のロシアの孤立と疲弊による中国優位の中露関係を背景に、「米中対立激化」という認識が主潮となってきた。
 だが、話は単純ではない。米中貿易の実体を注視してみよう。二〇二二年の米中貿易総額は六九〇六億ドルで、二一年の六五六四億ドル、二〇年の五五九二億ドルに比べ、コロナ禍においても増え続け、史上最高水準に到達している。昨年の日米貿易総額は二二八六億ドルで、日米貿易の三倍を超す米中貿易となっている。ちなみに昨年の日中貿易は、前年の三九一七億ドルから三七三五億ドルへと減少しており、日本の方が対中貿易を縮小させているのである。
 つまり、米中対立は選別的対立であり、安全保障に関わる先端技術の覇権をめぐって本気で抗争している面もあるが、国民経済の相互依存は深まっているのである。何故、そうなるのか。基本的には、鄧小平による「改革開放路線」への転換以降の四〇年にわたる米国の中国への関与・支援政策を反映するものである。例えば、中国から米国への輸出の多くは「ブーメラン輸出」といわれるもので、米国企業の中国への投資、技術移転、委託生産の結果、その製品が米国市場に向かっているのである。



 もちろん、米中貿易が今後も増え続けるというものでもなく、緊張関係の高まりを背景に米中ともに相手への依存を避け、貿易相手の東南アジア等への分散を図っている。だが、日本にとっては両国との関係が重要である。昨年の日本の貿易(輸出入総額)に占める対中貿易(含、香港、マカオ)の比重は二二・四%、対米貿易比重は一三・九%であるが、この二国との通商が日本の貿易の三分の一以上を占める構造は一〇年先においても変わらないであろう。日本にとっては米中両睨みのバランス感覚が重要なのである。
 日本人として米中関係を考える時、大切なのは歴史の長期的視座で東アジアを注視し、「日米中トライアングル」の相関において思索することである。近現代史における米国の東アジア戦略の基本性格は、日本と中国を両睨みして、日米中のトライアングルの力学の中で米国の国益を最大化することにあり、そのために「日中を分断して統治すること」である。米国の悪夢は「日中同盟」であり、何度となく米国の知識人から「日中同盟ができる可能性は」と聞かれたものである。そして、その可能性が無いことにアジア近代史の哀しみがあることに気付かされてきた。

■近代史における日米中トランアングルの位相の変化
 一八五三年のペリー提督の浦賀来航の背景には、一八四八年に米墨戦争(メキシコとの戦争)に勝利した米国がカリフォルニア、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナ諸州を領有(厳密には一五〇〇万ドルで割譲)することになり、太平洋に到達したことがある。
 だが実際には、ペリー来航以後、米国はアジアに動けないまま時間が経過した。南北戦争(一八六一~六五年)という内戦による消耗と後遺症で外に動けなかったのである。この「空白の四五年」を経て、現実に米国がアジアに展開したのは、一八九八年の「米西戦争」、スペインとの戦争に勝って、フィリピンとグアムを領有してからであった。米国が「遅れてきた植民地帝国」に変質した瞬間である。米国が「太平洋国家」としてアジアに踏み込んできたタイミングと、日本が日清戦争(一八九四~九五年)に勝利し、中国大陸に本格的に進出していくタイミングが同時化した。日米関係の悲劇は、ともに遅れてきた植民地帝国として、ほぼ同時にアジアに参入したことに由来するものである。
 一九〇〇年、清朝末期の中国において「扶清滅洋」を掲げた排外闘争たる義和団事件が吹き荒れ、米国も共同出兵したが、基本的に米国は中国侵略に先行していた欧州列強や、中国に触手を伸ばし始めていた日本とは一線を画し、中国の近代化に理解と支援の姿勢をとった。中国も欧州列強や日本を牽制する要素として米国の登場を歓迎した。日英同盟を背景に日露戦争を持ち堪えた日本、一九一四年の第一次世界大戦への参戦とドイツの山東利権の継承を図る日本に対し、米国は日本の野心を抑えるように中国への理解と支持を続けた。辛亥革命(一九一一年)期の中国にとって、独立戦争を勝ち抜いた「民主主義国家アメリカ」は敬愛の対象であった。米中関係の深層に「相思相愛の空気」が存在するといわれる理由がここにある。
 再考するならば、アジア太平洋戦争、つまり第二次大戦のアジアでの軍事衝突とは、中国を巡る日米の緊張が臨界点を超えたということであり、日本の敗戦は、「米国の物量への敗戦」と多くの日本人は考えがちだが、米国と中国の連携に敗れたのである。正確に言えば、蒋介石の国民党政権を支援する方向へと米世論とルーズベルト政権を誘導した米国のチャイナ・ロビー(親中国派)が牽引した米国の参戦と勝利であった。その構図の検証を試みたのが拙著『ふたつの「FORTUNE」』(ダイヤモンド社、一九九三年)であった。
 ワシントンにおけるチャイナ・ロビーの頭目でもあったヘンリー・ルース(タイム・ワーナー社の創業者)は長老派プロテスタント教会の宣教師の息子として中国の山東半島に生まれた。米国は中国の「近代化」に向けてキリスト教の宣教師を送り込んだのである。この動きが義和団事件の誘因ともなるが、ルースは高校進学のため米国に帰国し、イェール大学卒業後、「タイム」「ライフ」「フォーチュン」などの雑誌を発行するタイム・ワーナー社の創業者となり「メディアの帝王」と言われる存在になる。そして、ルースは自分の生まれた中国を侵略する日本の危険性を米国民に知らしめる使命感に燃え、「反日・親中国」のチャイナ・ロビーとして活動、日中戦争開始(一九三七年)後は、「フライング・タイガース」と呼ばれた米国からの義勇軍の資金源ともなり、蒋介石を支援し続け、ルーズベルトのアジア政策に大きな影響を与えた。約言すれば、日本の敗戦までの半世紀の日米中の力学は、米中蜜月・日米対立の時代であった。

■戦後期の日米中トライアングルと日本の運命
 第二次大戦が終り、米国としては支援してきた蒋介石の国民党と手を携えて中国の戦後復興・近代化に踏み込もうとした時、毛沢東との内戦に敗れた蒋介石は台湾に去り、一九四九年に中華人民共和国が成立した。衝撃を受けたワシントンのチャイナ・ロビーは台湾ロビーと化し、大陸中国を封じ込め、台湾を支援し続けた。
 「一九六七年にヘンリー・ルースが死ぬまで米国は中国が承認できなかった」といわれるほど、米国の対中政策は迷走した。英国が、香港問題もあり、一九五〇年一月には本土の共産中国を承認したのと対照的であった。実は、中国の分裂を僥倖ともいえるほどの恩恵を受けたのが日本であった。敗戦からわずか六年後の一九五一年に、日本はサンフランシスコ講和会議で国際復帰、日米安保条約締結という形で歩み始めるが、米国の対日政策を主導していたダレスは、ソ連の核開発(一九四九年九月)、ソ連・中国の友好同盟相互援助条約(一九五〇年二月)、朝鮮戦争勃発(一九五〇年六月)という冷戦



の新局面を背景に「日本を反共の砦として西側陣営に取り込み戦後復興させる」という思惑が働いたためであった。「もし中国が分裂していなければ、日本の戦後復興は二〇年は遅れた」といわれるのも、まず中国が優先されるはずだった米国の支援・投資が日本に回ってきたという判断によるものである。
 サンフランシスコのオペラハウスで行われた対日講和会議には五二カ国が参加し、四九ヵ国が講和条約に署名したが、ソ連は署名を拒否した。中国は招かれていなかった。講和条約締結の直後、吉田茂首相は単身でプレシディオ米陸軍基地内の下士官クラブハウスに赴き、米軍駐留の継続を約する「日米安保条約」に署名した。日本国内の世論に配慮し、一切のセレモニーもなかった。一九七〇年代まで、日本は復興・成長の軌道を走るが、その背景には「米中対立」(米国と本土の中国との緊張)が追い風になっていたことを認識すべきである。
 一九七〇年代に入り、パラダイムが大きく動き始めた。七一年七月にキッシンジャーの秘密外交により、ニクソン訪中計画が発表され、一〇月には、国連総会が「中国招請・台湾追放」を決議し、中華人民共和国の国連加盟が決定された。この流れを受けて一九七九年に正式な米中国交樹立がなされ、新たな米中蜜月時代が始まる。中国も文化大革命の時代(一九六六年から約一〇年間)を経て、復権した郵小平による改革開放路線へと動き、中国にとって米国は積極的パートナーとなっていった。
 一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、米国にとってアジアにおける最大の脅威は日本であった。一九八五年のプラザ合意以降の円高をテコにした「アメリカを買い占める日本」への反発、日米貿易摩擦の深刻化など日米間の緊張が高まり、G・フリードマンとM・ルバードの『THE COMING WAR WITH} APAN――「第二次太平洋戦争」は不可避だ』(徳間書店、一九九一年)などという本が出版され話題になっていた。この頃、私自身は米国ワシントンで仕事をしており、一九九五年一二月に放映されたNHKの特別ドキュメンタリー番組「トライアングル・クライシス」の制作に関わり、出演して前記のヘンリー・ルースの足跡と日米中の歴史的関係の解析を試みたが、日本の世界GDPに占める比重が約一八%とピークだったのが一九九四年であり、昨年の日本の比重は四%まで下落と隔世の感があるが、正に日本脅威論の高まりの中での企画だったことが思い出される。
 一九八九年の天安門事件など民主化運動を踏みつぶす中国を黙認し、米国は中国への「関与・支援政策」を続けた。一九九七年のアジア金融危機、二〇〇八年のリーマンショックを乗り切る上で「世界の成長エンジン」となった中国は頼もしい存在という認識が米国を支配し続けていた。米国が中国に対する警戒心を抱き始めたのはオバマ政権の後期であった。中国のGDPが日本を抜いて世界二位になったのが二〇一〇年、習近平政権がスタートしたのが二○一三年であった。強権化し、経済への国家管理・統治を強める習近平政権に対して、二○一七年からの米トランプ政権は、「中国はロシアと並ぶ競争者」という位置づけで緊張感を高めたが、トランプには「貿易赤字解消のためのディール(取引)」を求める姿勢が強く、「関税競争」的対立であった。「中国製造二〇二五」計画など次第に技術覇権志向を強める中国に対し、二〇二一年からのバイデン政権は「中国は国際システムへの挑戦者」という認識に立って経済安全保障的視界からの対決姿勢を強めた。二〇二三年六月には、これだけの円安基調にもかかわらず日本は「為替操作」懸念の対象国リストからはずされ、米国にとって脅威の対象外になったということである。

■歴史の教訓と課題
 日米中トライアングルの位相の変化を瞥見してきたが、こうした視界から見えてくる歴史の教訓と課題を整理しておきたい。何よりも、単純に分断統治の力学に引き込まれてはならないということである。英国の植民地主義を貫いた統治概念は、潜在敵対勢力を分断して利害相反を生み出して自らの統治力を最大化するというもので、ガンジーが繰り返し警鐘を鳴らしていたのもこの分断統治の術数に陥ってはならないということであった。
 英国に代わって二〇世紀システムの主役となった米国も地域戦略の根底にこの戦略を継承しており、例えばキッシンジャーの中国指導者(毛沢東、周恩来など)との交渉記録(『キッシンジャー「最高機密」会話録』毎日新聞社、一九九九年)を読んでも、かつて「共通の敵」として戦争を戦った日本を永続的に抑え込む意図を米中が確認しあう空気が感じ取れる。米国にとっては、日本を中国から切り離して緊張関係を増幅させることが国益につながるのであり、中国にとっては、米国に制御される日米安保体制下の日本が望ましいのである。
 米中はともに世界秩序の中心に自国を置く大国主義的志向をもっており、それは対立しているように見えて、大国間の合意形成で世界を仕切ろうとする傾向につながる。一九七二年の突然のニクソン訪中でパラダイムを変えたように、「頭越し外交」で事を進める傾向がある。日本に求められるのは「自立自尊」、主体的に国際関係を構築する意思である。
 二一世紀の日本の深層心理における重い課題は、中国といかに正対するかである。二〇〇〇年を超す中国との関係は複雑に曲折してきた。中国の文明文化の影響を受け続けてきた日本は、江戸期の「鎖国」という期間を通じ、本居宣長に代表される国学の誕生、通貨(寛永通宝)・暦(大和暦)の自立を図った。「鎖国」とは中国からの自立過程でもあった。その日本が、明治期に入り、日清戦争に勝利した辺りから中国への劣等感を優越感に反転させ、中国を見下すようになり、その侮りが一九四五年の敗戦へと日本を引き込んでいった。戦



後も、復興・成長を先行させた日本は中国を上から目線で見続けたが、二〇一〇年にGDPで中国に追い越された時点から中国への視界を動揺させている。ナショナリズムに誘惑される日本人にとっては「米中対立は蜜の味」となりがちである。そして、この心理こそ米国との関係を創造的に再構築することを阻んでいるといえる。
 戦後日本は、あまりにも米国に依存し、影響を受けてきた。占領期を経て、一九五一年の日米安保条約による同盟関係に踏み込んで以来、七〇年以上もこの関係に埋没してきた。米国の側からすれば、日本こそ「米国流のネーション・ビルディング」の成功モデルである。日本人は日本を独立国だと思い込んでいるが、ワシントンのジャパノロジスト(日本専門家)と四〇年以上も向き合ってきた私自身の体験では、建前はともかく、彼らの多くが日本を「プロテクトレート(保護領)」と認識している本音を感じ取ってきたものである。
 戦後の日米関係を凝縮し、象徴する表現として的確だと思われるのが松田武の「自発的隷従」である(『自発的隷従の日米関係史』岩波書店、二〇二二年)。ジョン・ダワーもこの表現に賛意を寄せている。「自発的隷従」は一六世紀のフランスの法律家E・ボエシが提起した概念であり、民衆の自発的な隷従が圧政を完成させる構造に着目した古典である。日米同盟が常態化する中で、日本側から過剰依存と同調が生まれている。例えば、同盟責任の双務性(米国を守る責任)を求めて、日本側から集団的自衛権にコミットしていく心理、さらに「米国の核の傘」の下にあることを理由に国連の核兵器禁止条約には参加できないとする固定観念、これこそが自発的隷従の象徴といえる。
 「中国の脅威を抑え込むための日米同盟強化」という誘惑に吸い込まれがちな日本であるが、素朴な疑問に還って日本という国を直視するならば、二一世紀の日本の課題が鮮明になってくる。その疑問とは「二〇四五年、敗戦から一〇〇年後の日本に米軍基地は存在しているのか」である。敗戦直後に占領軍が駐留している事態は、世界史において珍しいことではない。だが、一〇〇年経っても戦勝国の軍隊が駐留し続けている国を、国際社会の常識からは「独立国」とはいわない。いわんや、駐留米軍基地に関する地位協定を精査するならば、敗戦国のステータスを引きずった米軍基地の地位協定が固定化していることに驚かされるはずである。
 二一世紀システムを生きるには、「二一世紀の世界史における日本の役割」を自問自答した「国家構想」が求められる。論及してきたごとく、ロシア、中国、米国といった二〇世紀世界秩序の中核として存在してきた国が明らかに世界をリードする「正当性」を失い、自国利害へと迷走している中で、日本にはバランス感覚に立った「自立自尊」の主体的未来構想が問われている。それを考察・探究していきたい。


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宮下裕 マイナンバー制度の哲学 ――過ちを繰り返さないために 【世界】2023.09

2023年12月24日(日)

サンタにもマイナンバーかな,
ワンちゃんにもニャンコにも,ペット用マイナンバーとか…….
まぁ,冗談ではあるけれど,
いや,意外とそうでないかもしれない.

それで,来年には,健康保険証が廃止されるのだとか.

……マイナンバーで,むかしの背番号制のことを思い出すことがある.
といって,あまりキチンとは覚えてはいないのだけれど,
だいたいは政府による統制強化だ……とかいって,左派,あるいは革新系の反対が目だった.
おまけにこの時,お金持ちも反対だった……かな.
誰だったか,左派に分類される人が,背番号制導入賛成の声を上げていた.
うん,そうだよな,と思ったことがあった.
それで,今回のマイナンバーか.

これ,ほんとうに必要なんだろうか……,わからない.
なにが狙いなんだろう?
なんなら健康保険証自体をデジタル化するとか,
そして,その保険証と税とか年金とか,やりたければ紐付ければいいじゃないか,などと.

おまけで人々を釣ろうとしてみたり,それだけでもなんだか胡散臭い仕組みじゃないか,などと邪推だけれど.
担当の大臣はやたらと高飛車だったか.

今となれば,まずは国会議員あたりから全面的に導入,税金,政治資金の流れなどのモニターに使えばよかったんじゃないか,などと.

たった1枚のカードを紛失したら,あるいはネットでデータを詐取されたりしたら,などとちょっと身震いする.
パスワードは,自己責任で保守せよ,という.
ちょっと脳機能が衰えた高齢者は,パスワードなくても……とか行っていたな,と思うが,
ついメモを忘れたりしたら,どうするんだろうか.

自己責任でいいから,マイナンバーじゃなくて……とはならないようだが.


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【世界】2023年09月

マイナンバー制度の哲学
――過ちを繰り返さないために

宮下 裕
みやした・ひろし 中央大学教授。専門は、憲法・情報法。主な著書に『プライバシーという権利』(岩波新書)、『EU一般データ保護規則』(勁草書房)


■「強いシステム」と「強い個人」

 家族は多様化し、行政から世帯主への給付という旧式対応では、もはや国や自治体から個人への支援が行き届かない。コロナ給付金の受給権者を世帯主にしたことで、この問題は顕在化した。家族の中でも世帯主と別居している者、DV被害にあい世帯の中でも居所を知られたくない者、虐待により世帯主から離れた福祉施設で生活する子どもなど、世帯主への給付では個人に対する支援が到達しないのが現実である。
 だからこそ、行政が平均的な世帯を想定し世帯への給付を改め、個人への給付を行うという制度の端緒として、各人を唯一無二の存在として扱う番号が付された[1]。番号は、世帯の実態を知らない。知らないからこそ、番号の持ち主である個人の負担に応じて公平に直接の給付を可能とした。マイナンバー制度は、世帯への給付から、個人への給付と いう構造転換を図る仕掛けとなっている[2]。
 マイナンバー法の正式名称は、「行政手続における特定の個人を識捌するための番号の利用等に関する法律」であり、あくまで「個人」をその対象とし、各人への唯一無二の付番を制度の出発点とした。そして、制度の具体的運用の一例として、マイナンバー法に基づき公金受取口座の登録を定める口座登録法においても、「預貯金者の名義」である「個人の名義」のみを登録対象としている。さらに、保険証に番号制度を付着させるための健康保険法が改正され、医療保険の被保険者番号が「世帯」単位から「個人」単位へと転換した[3]。「世帯」ではなく、一貫して「個人」を起点としているのがマイナンバー制度である。
 かくして、マイナンバー制度は、個人と行政との関係において「システム個人主義」を貫徹した。この制度は、生まれたばかりの赤ちゃんから寝たきりの高齢者まで、システム上はひとりの独立した尊い存在として等しく公平に扱っている。
 それは「システム個人主義」という理念であり、日本の社会がデジタル化を推進する中で目指そうとする哲学でもある。逆にシステム上のフィクションだからこそ、システムの内側では家族をも解体させる個人主義が採用されているが、システムの外側の現実の世界では家族をはじめとした人間の絆の上に温かみのある支えあいの社会保障制度は何ら否定されていない。
 マイナンバー制度はシステムの内と外の厳格な分離の上に成り立っており、システムの内側では個人主義、システムの外側では相互扶助主義を念頭に置いている。すなわち、戸籍制度を始めとする世帯を中心とした日本の伝統と制度の残滓(ざんし)のもと、「個人の尊重」という哲学の地平をシステムの中に拓く企てである[4]。
 システムの中では個人の年金や税の情報を正確に安全に記録管理する、「強いシステム」が前提とされている。同時にこの制度は、ポータル上で自己の情報を自分で確認・管理し、行政に対して必要な申請等を行い、自ら給付を受け取る「強い個人」も見込んでいる。マイナンバー制度は、「強いシステム」と「強い個人」を仮想した「システム個人主義」に立脚した制度である。
 マイナンバーカードもまたこの制度を反映している。たとえカード自体を第三者が物理的に管理したとしても、「カードの中の自分」としての個人の情報のみを格納する「カード個人主義」の設計になっている。
 日本がマイナンバー制度を通じて「システム個人主義」を実現できるかどうかは、システムの内と外の厳格な分離のもと、信頼ある「強いシステム」を構築できるか、そしてデジタル化の中で自らの情報を管理できる「強い個人」が国民の間に浸透するかどうかにかかっている。同時に、デジタルに「弱い個人」への支援も不可欠である。

■哲学なきトラブル

 しかし現実には、各種証明書の誤交付をはじめ、公金受取口座等のいわゆる誤登録、マイナ保険証や年金記録の誤入力等、マイナンバーカードの交付に伴う様々なトラブルが生じてきた。
 制度の転換期にトラブルは不可避であり、交付現場の努力の中での小さなヒューマンエラーには豪放嘉落(ごうほうらいらく)な姿勢があってもよかろう。しかし、制度の哲学と相容れないミスは放置されてはならず、システム改修の前提となる哲学の再考が必要となる。以下、三つの論点に絞り指摘する。

(1)家族名義の誤登録
 第一に、マイナンバーカードを通じた公金受取口座における家族名義の登録をめぐる問題である。公金受取口座の誤登録は他人名義が七四八件、そして家族と思われる同一口座の登録が約一三万件である(二○二三年六月七日デジタル庁発表)。公金受取口座の約五四〇〇万の登録のうち約○・二%にすぎず、目角を立てる問題ではないという楽観的な見方も成り立ちうる。しかし、個人情報保護委員会は、個人データ(書類やメール〉の第三者への誤送付・誤送信も漏えいに含まれると整理し、一〇〇人を超えるマイナンバーに係る事故を「重大事態」と位置付けている[5]。
 さらに、マイナンバーカードの中にいる自分が自分ではない、カードに他人の記録が刻み込まれるような事態は、「システム個人主義」の理念を根底から覆す。そもそも誤登録問題は数の多寡にかかわらず、旧態依然とした世帯給付を可能とするシステム設計に責任があると言わざるを得ない。それゆえ公金受取口座の登録は、ミスを防ぐためにも、口座名義と番号の本人とのフリガナで照合することを可能とする法改正を待ってから進めるのが筋であった。
 また、子どもの口座開設の実務上の課題はひとまず置いておいたとしても、口座を持たない子どもについては親の口座を登録するという事態は想定できた。だから、本人口座の登録について、制度の哲学とともに周知・発信していれば、国民にも現実がより詳細に伝わっていただろう、
 誤登録は、単なるエラーで済まされる問題ではなく、給付を世帯から個人へと変容させるマイナンバー制度の根本原理に反するものと指摘せざるを得ない。

(2)プライバシー権侵害
 第二に、マイナンバー制度におけるプライバシー権の侵害についてである。公金受取口座を家族名義に「誤登録」した問題について、個人情報の漏えい事案に該当しないとみることも決して不可能ではない。「各行政機関等が分散管理している個人情報が外部に流出するおそれ」に着目して、マイナンバー制度が「個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由」を侵害するものではないとした二〇二三年三月九日最高裁判決に従えば、この理解に誤りはない。しかし、マイナンバー制度の核心がシステムの内側にいる個人の存在であるとするならば、システムの内から外への「開示又は公表」は、プライバシー権の主題を言い当てたことにはならない。システムの内側にいる個人こそがプライバシー権として保護される対象であり、プライバシー権の侵害は、システムの内側から外側への流出よりも、システムの内側にいる個人への干渉や影響において具体化される。個人情報が勝手に書き換えられることでシステム内の個人が歪められたり、一部の情報を切り取ることで行政が当該個人に不当な決定を下すことこそが、システムの内側にいる個人に対するプライバシー権の侵害となる。



 マイナンバー制度のシステム上ではすべての個人が独立した存在である以上、たとえ家族であっても自分以外の情報を入力した場合はシステム上の個人の自己同一性への侵害となり、システムの内側におけるプライバシー権の侵害とみるべき事案となる。ただし、情報入力した者が家族構成員のプライバシーを侵害したのではない。前記最高裁判決によれば、「法制度上又はシステム技術上の不備」があったことが原因で、システムの内側における個人の情報を書き換えることで個人の自己同一性を容易に侵害できる状態を作り出したことに国の責任がある、ということになろう[6]。

(3)マイナ保険証と家族歴
 第三に、マイナ保険証の導入に伴う医療情報の取扱いである。マイナ保険証は、被保険者記号の世帯単位から個人単位への転換を前提とした、マイナンバーカードの電子証明書の識別子IDを用いる仕組みであり、①オンライン資格確認[7]と、②医療機関等での患者の過去の薬剤情報等の閲覧(任意)という二つの異なる機能を有する。従来の保険証を廃止し、マイナ保険証を導入し、例外的に本人の申請により資格確認書の交付を認めることとされている[8]。
 患者の過去の医療情報の閲覧に関しては、一般的な疾患の発症リスクの探知のため、ときに家族の医療情報と結びついてしまうときがある。要するに、データの突合を可能とする医療情報システムにおいては、生まれながらにして医療リスクの高低が特定の番号カードにつきまとう事態が発生する。これは、マイナンバー制度の各人の医療情報はあくまで各人に属するとする個人主義と、医療の現場における家族歴調査とが緊張関係にあることを意味する。
 この事態に対処するためには、「カード個人主義」をより徹底するほかない。すなわち、マイナンバーカードのシステムの中では、原則として家族歴を排斥した個人のみの属性情報が紐づけされなければならない。家族歴を含む情報のシステムの格納が認められるには、関係するすべての者から同意の取得が必要となる。同意取得の例外として、医療の質の向上に関する具体的エビデンスに基づく公益性も考慮に入れた慎重な設計が必要となろう。
 いずれにしても、家族歴が医療DX(デジタル・トランスフォーメーション)の不可欠な要素の一つとなりえても、「カード個人主義」に立脚したマイナンバー制度においては、できる限り個人以外の医療情報を排し、差別・排除の防止と 個人情報保護の措置が講じられなければならない[9]。医師、薬剤師等の守秘義務や健康保険事業以外の目的の告知要求制限がマイナ保険証の利用場面において空洞化されないかという問題がくすぶるが、「人の生命そのものにかかわるデータベース[10]」であるだけに慎重な対応が求められる。

 ■部外者の保護

 マイナンバー制度という仕掛けとしてのシステム個人主義は、行政手続において個人の正確な把握を要請する一方で、国家といえども立ち入ることのできない私的圏域についても考えなければならない。この私的圏域が保障されなければ、マイナンバー制度は、国家が個人の生き様の隅々をシステムの中で記録・管理し、精巧な監視を実現させてしまう変換の可能性を秘めているからだ。実際、制度開始にあたっては法律で定められた別表記載事項のみに利用を認めるという歯止めが存在した。だが、二〇二三年法改正により別表2は削除され、法定事務に「準ずる」事務にまで情報連携が認められ、国会のコントロールなしに自己肥大できる状態になった。
 そこにオーウェルが描いた「真理省」に存在するような独裁的思考を有する官僚が万が一にでも登場すれば、テレスクリーンを通じて個人の思想を規格化させる事態は決して絵空事ではない。実際、イギリスの国民IDカードは、監視社会の懸念を払しょくできず、保守党・自由民主党への政権交代を機に二〇一一年に廃止された。後に首相となったテレサ・メイ内務大臣は、国民IDカードの廃止により政府の支出削減ができ、また「政府が法令遵守する品位ある国民に対する国家の管理を小さくさせ、国民の手に自らの管理を戻す」ということを廃止の理由として説示した[11]。日本のマイナンバー制度は、監視というトロイの木馬を想定して入念に設計されてきた。二〇一四年一月には、個人情報保護委員会という新たな第三者委員会がこの制度とともに設置された(当時の正式名称「特定個人情報保護委員会」)。
 マイナンバー制度の設計段階では「国家管理への懸念」および「個人情報の追跡・突合に対する懸念」が指摘されてきた[12]。それについては、各人の様々な情報が分散管理されたとしても、システムの内側では現実のものとなりうる。各人は、国家が管理するシステムの内側にいる自分に対する追跡・突合による侵害事実を知ることができず、システムの「部外者[13]」となってしまったためである。そこで、システムの内側にいる個人を保護する目的で、システムの内側にいる個人に干渉しうる当事者の主務官庁に代わり、システムそのものをチェックできる独立した職権が付与された第三者としての個人情報保護委員会が設置された。言い換えれば、「監視に対する監視」の仕組みである。システムを管理する行政機関等がその内側にいる個人を不当に監視しないか、個人情報保護委員会が行政機関等を監視する仕組みが採られたのだ。すなわち、個人情報保護員会は、システムの内側にいる個人の守護神としての役割を果たすことを本来の任務として期待されていた。
 しかし、番号制度のもとでシステムの内側にいる個人は、すでに二度も脅威にさらされたが、個人情報保護委員会は独立した職権を行使しなかった。一度目は、二○一五年、日本年金機構に対する不正アクセスにより約一二五万件の個人データが漏えいしたときだ。個人情報保護委員会は、プライバシー影響評価(公的年金業務等に関する事務全項目評価書)の審査を実施のうえ、問題なしとして年金機構の体制を承認したが、三ヵ月もしないうちに事故が起きた。事故後も、日本年金機構における不正アクセスによる情報流出事案検証委員会検証報告書が厚生労働省に提出され、個人情報保護委員会による独立調査の結果は公表されなかった。
 二度目は、二○一八年に明らかになった、日本年金機構の業務委託先から中国企業に個人データが無断で移転された問題についてである。この委託問題の調査について、厚生労働省の下で日本年金機構における業務委託のあり方等に関する調査委員会報告書が公表された。後にマイナンバーを含む無断委託であった可能性が高いという新たな事実が明らかにされたが、個人情報保護委員会は、「一定の結論が得られているものとして厚生労働省及び日本年金機構より説明を受けたと承知しておる[14]」として、新たに漏えいした可能性を含む事故について独立調査の結果を示していない。仮に主務官庁において個人情報の事故調査を自ら行い、それで問題が片付いたとするならば、個人情報保護委員会の存在意義は否定されることとなる。
 プライバシーという権利は、公と私の領域の適切な管理としての防波堤をなし、国家と個人との布置関係を整理したうえで、システムの内側にいる個人を保護することを狙いとする。イギリスで国民IDカード導入が開始された二〇〇六年にイギリス情報コミッショナーは、「監視社会」という報告書の結論において「誰が何を知り、誰がデータを所有し、誰がデータを訂正する権利を有しているのかについて、国民と国家の聞にはますます気懸りで未解決の相克が存在する」と指摘していた[15]。個人情報保護委員会の任務は、国家が正確に把握しなければならない個人情報と、把握してはならない個人情報との境界設定という、システムの中の国家と個人の関係性を主題とするマイナンバー制度の運用監視である。

■人間とシステムをめぐる哲学

 個人情報保護委員会の任務はそれにとどまらない。マイナンバーカードの交付をめぐる誤登録をめぐり、ヒューマンエラーを想定したシステム対処について整理しなければならない(マイナンバーのカードとポータルの管理の瑕疵(かし)に伴う管理者である国の法的責任の明確化と救済方途に関する論点をひとまず脇に置いておく)[16]。
 デジタル化は、説明責任を果たせないシステム万能論、すなわち完全な自動意思決定システムを盲信するものであってはならない。たとえば、マイナ保険証の利用に際して医療機関窓口における九九%の正確性をほこる一対一の顔認証システムが導入されたとしても、一億人の保険証利用者の中で一○○万人がこの顔認証システムからはじかれる計算になる。システムにもエラーは避けられない。このシステムエラーには人間が対処しなければならず、システムと人間のエラーは相互にチェックしあうしかない。ヒューマンエラーとシステムエラーは循環論であって、いずれか一方が一〇〇%完全でなければ、エラーの連鎖が生じる。このエラーの連鎖を前提として個人情報保護制度を設計したのがEUの一般データ保護規則(GDPR)である。欧州のデータ保護法制には「人間の尊厳」の思想が埋め込まれ、その体現として、データの自動処理における「人間介入の権利」が明文化されている(GDPR二二条三項)。この権利は、人間のミスをカバーするために効率的なシステムによるデータ処理が推奨されるが、逆説的にシステムがもたらす偏見や排除を含む種々のエラーに対処するために、たとえ非効率であったとしても人間が介入する契機を認め、システム内側のデータ処理に人間の倫理と責任を包蔵させることを意味する。
 マイナンバー制度は、情報連携やカードの恩恵による国民の利便性の向上や行政の効率性の促進のみを狙いとした軽い存在ではない。この制度は、デジタル化を目的ではなく手段としつつ、個人尊重の基礎に関わる氏名の読み仮名や生活場所である住所表記の在り方、身分関係を登録・公証する戸籍制度が前提としてきた社会構造のほか、世帯ではなく個人への給付のためのシステムにおける個人の把握、そして国家が管理するシステムの内側にいる個人の保護といった、国家と個人との関係に関わる根源的な問いを抱えている。これらの根源的な問いについて、デジタル庁や個人情報保護委員会が国民と「コンセンサス[17]」を形成しながら方向性を明らかにできるかどうかが問われている。
 システムの開発と運用には思想や哲学が必要である。かつて「消えた年金問題」の政府検証報告書では「システムの開発・運用においても……基本的な思想や哲学に一貫性がない」ことが原因であると指摘された。同じ過ちを繰り返してはならない。



1 「社会保障・税番号大綱」(平成二三年六月三〇日政府・与党社会保障改革検討本部)において、「主として給付のための『番号』として制度設計」がなされたことが記された。
2 番号制度の導入決定に伴う「社会保障・税一体改革大綱」(平成二四年二月一七日閣議決定)において、「社会保障給付費」を「個人」に帰属する給付が集計対象とされている国際労働機関(ILO)基準に則ることが明記された。
3 「新しい経済政策パッケージ」(平成二九年一二月八日閣議



決定)では「医療保険の被保険者番号について、従来の世帯単位を個人単位化し、マイナンバー制度のインフラを活用」すると記載された(健康保険法三条一二項、参照)。
4 二〇二四年までに「戸籍情報連携システム」の導入が予定されており、国民各人の身分関係のシステム上の編製・公証の在り方が今後問題となろう(戸籍法一二一条の三)。
5 個人情報保護委員会は公金受取口座に係る事前評価審査で「特段の問題は認められない」との結論を下していた(個人情報保護委員会「口座登録法に基づく公金受取口座の登録等に関する事務及び預貯金者の意思に基づく個人番号の利用による預貯金口座の管理等に関する事務全項目評価書」令和四年一〇月二六日承認)。この審査で口座登録における「漏えい・不正がないよう厳格に事務を実施」との藤原靜雄委員による注意喚起が重要である(第二二一回個人情報保護委員会議事録)。
6 最高裁判決の判断枠組みは、住基ネット判決(最判平成二〇年三月六日民集六二巻三号六六五頁)と変わりがなく、システムの「構造審査」と評されることがある。
7 保険医療機関及び保険医療養担当規則(令和五年四月一日)三条一項。
8 「経済財政運営と改革の基本方針2022」(令和四年六月七日閣議決定)では加入者から申請があれば「保険証」が交付されると明記されていたが、令和五年六月二日に成立した改正マイナンバー法に伴う健康保険法五一条の三において「被保険者の資格の確認に必要な書面」(資格確認書)が交付されると変更された。
9 「医療等IDに係る法制度整備等に関する三師会声明」平成二六年一一月一九日。
10 日本医師会「日医IT化宣言」平成一三年一一月二〇日(同「日医IT化宣言2016」平成二八年六月八日)。
11 GOV.UK,Identiry cards and National Identity Register to be scrapped,27 May 2010(access 30 June 2023).
12 前掲「社会保障・税番号大綱」一五頁。
13 Spiros Simitis,‘Reviewing Privacy in an Information Society’(1987)135 U Pa L Rev 707,743.
14 第二〇四回衆議院予算委員会第五分科会第二号令和三年二月二六日内閣府副大臣答弁。なお、個人情報保護委員会委員長は国会出席資格を有する政府特別補佐人とされておらず(国会法六九条二項)、個人情報保護法の国会答弁はデジタル大臣等が行う。
15 Information Commissioner's Office,‘A Report on the Surveillance Society’(2006)74.
16 マイナポータル利用規約は免責事由を「デジタル庁の故意又は重過失によるものである場合」(令和五年五月一一日改訂)と定めているが、「公の営造物の設置又は管理に瑕疵」(国家賠償法二条一項)の問題であるとも捉えうる。信号機のプログラム設定ミスが原因で起きた事故について、信号管理の瑕疵を認定した事例(千葉地判平成一〇年一一月二四日)が参考になる。
17 かつて国民総背番号制という批判から頓挫した「統一個人コード」について、「国民コンセンサスの流れ」を踏まえるべきとした行政管理庁長官答弁を回顧する必要がある(第七一回参議院予算委員会第一分科会第三号昭和四八年四月七日)。
18 総務省・年金記録問題検証委員会「年金記録問題検証委員会報告書」(平成一九年一〇月三一日)一六頁。




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片山善博の「日本を診る」(166) 「突破力」だけの無謀なマイナ保険証作戦は撤収すべし

2023年11月26日(日)

まだときおりマイナカードの文字がメディアに登場する.
もうちょっとすると,みんな忘れられるかな.
それでも,やっぱり,これ,なんのため?
大昔の背番号制の方が,狙いもはっきりしていてよかったんじゃないか,と思うことがある.

ぼくがちゃんと理解していないんだろうけれど,
なぜ左派系も含めて,背番号制に反対したんだろう,と思い返す.
当時も,今ひとつ理解できなかった.
同成多くの勤め人は,懐具合などみんな筒抜けだったんじゃないか,
困るのは,お金持ちだけだろう?とか.

友人が言っていたな,あの当時,毎月のように割引債とかの購入のために何百万と入金する人がいるんだよ,とか.
そういう人の資産を把握したいと税務当局が言うなら,それはそれでいいじゃないか,などと素人流の考えかもしれないけれど.
まだ,それなりに累進課税がおもむきも残っていたのだし.

医療情報の共有化だとか,
それこそ本人が知っていればいいじゃないか,
医者同士が勝手に情報交換されてもイヤじゃないのか?なんて,ちょっと突っ込みたくもなる.
いや,現在の健康保険証を改善していくことで,クリアーされる問題じゃなかったのか,
なんで無理無理マイナンバーカードなるものに一元化される必要があったのか,
いや,そもそも国民皆保険制度化で,むしろ健康保険証をもとに,各種行政情報を統合していくという選択肢の方が,リアルだったんじゃないのか……と思ったり.

情報システム,情報機器の安全管理すら問題があるんだから,
一元化……というのは,ちょっとこわいんじゃないのか?と素人としては思ったりもした.

突破力の政治家は,このカードでトラブっても,政府は知らない……みたいなことを喋ってなかったか.


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【世界】2023年09月

片山善博の「日本を診る」(166)

「突破力」だけの無謀なマイナ保険証作戦は撤収すべし


 マイナンバーカード(以下「マイナカード」という)の評判がすこぶ頗る悪い。そもそもマイナカードを取得するかどうかは各個人の選択に委ねられている。政府はマイナカードを持つと何かと便利になると喧伝するが、カードを持つことに不安を覚える国民は多い。
 個人情報の漏洩(ろうえい)が心配だ、詐取(さしゅ)されたり悪用されたりするのではないかなど不安の種は尽きない。そんなことからマイナカードは取得しないと決めていた人は多い。
 ところが、健康保険証を廃止し、来秋からマイナ保険証に統一するとの方針を政府が唐突に打ち出したことで事態は大きく変わった。マイナカードの取得は個人の選択から、事実上義務化されるに等しいからだ。
 マイナカードを持たないまま保険証が廃止されたら、病気の時どうすればいいのか。政府は資格証明書を交付するというが、これだと病院で肩身の狭い思いをさせられるのではないか。マイナカードを持つことへの不安より、持っていないことに伴う不安のほうが大きくなり、やむなくカードを取得した人は少なくない。
 そんな中でマイナ保険証をめぐるトラブルが数多く露見した。マイナ保険証が他人に紐づけられ、治療や投薬の履歴を他人が閲覧できる状態にあった。個人情報漏洩への危惧を鮮やかに現実化してくれたのである。また、もし医療機関が誤った履歴を見て治療方針を決めれば、命に関わることにもなりかねないではないか。

■現場を無視した「突破力」の失敗

 セキュリティは万全だ、マイナ保険証で質の高い医療が受けられると政府は自慢していたのに、このザマはなんだ。今や国民の不安と不信は充満している。
 政府は一連のトラブルの原因は、もっぱら市町村や健康保険組合の担当者による入力ミスにあるとする。それが是正されれば国民の不安は解消されるとして、市町村や健康保険組合に対して他にもミスがないかどうか、早急に点検するよう指示した。あくまでも、トラブル発生は現場のせいで、現場の責任で処理すべきといわんばかりである。
 たしかに入力ミスをしたのは現場の担当者である。しかし、人が行う作業にミスは必ず起きる。だから、この種のシステムを構築する際には、入力ミスを防ぐための厳重なチェック装置を内在させておかなければならないのに、政府はそれを怠っていた。政府は現場の入力ミスを責めるのではなく、むしろ自らの迂闊(うかつ)さを反省すべきである。
 また、政府は「できるだけ早く」、「できるだけ多く」カードが発行されるようあの手この手の術策を弄した。期限内にカードを取得してマイナ保険証に一体化させると破格のポイントを付与することとしたのはその一例である。さらに、財政上のアメとムチを使い分け、カード発行に向けて自治体から住民に圧力をかけさせる仕組みまで導入した。
 政府の目論見(もくろみ)どおり自治体のカード申請窓口には住民が殺到したが、そのことが多くのミスを誘発する原因にもなった。自治体の現場では、そうでなくても人手が足りない上に、短時日に大量のカード申請者に対応せざるを得なくなったからだ。
 本来マイナカードの発行には細心の注意を払い、慎重の上にも慎重を期して手続きを踏まなければならない。手抜きをすれば、それこそ情報漏洩や他人との紐づけなどのミスにつながるからだ。
 ところが政府は現場のこんな実情に無頓着なまま、担当大臣の「突破力」が「早く、多く」と迫ってくる。そんな状況では、大切にしなければならない慎重な手続きはやむなく二の次にならざるを得ない。ミスの責任を現場に押し付けようとする政府の態度はあまりに身勝手である。
 第二次世界大戦では、わが軍の上層部が前線の兵力、兵士の士気や戦闘能力、食料などの兵砧(へいたん)のことを考慮することなく、無謀な作戦を指示したことが失敗につながったと指摘される。このたびのマイナ保険証作戦における「突破力」はこれと通底するところがある。

■場当たり的対応の中に政府の本音が見える

 マイナ保険証作戦では現場の実情に無頓着だっただけではない。制度の内容についての検討もおざなりだった。新しく制度を設ける場合、どこかに不具合が生じないかと、あらかじめ念入りに点検しておくことが求められる。そうしておいても、制度を施行してみたら思わぬ落とし穴があるから、そうした場合にはどうやって手直しをするかということまでよく考えておかなければならない。
 ところが、マイナ保険証には思わぬ落とし穴どころか、こんなことも検討していなかったのかというチョンボや欠陥が続出している。例えば、施設に入居する認知症の高齢者が受診する際に自分で暗証番号を伝えることなどできない、さりとて施設の側が入居者のマイナカードと暗証番号を管理することは憚(はばか)られる、どうしたらいいかという切実な問いに、政府はすぐには答えられなかった。
 しばらくして出てきたのは、認知症の高齢者のマイナ保険証には暗証番号を不要とするという回答だった。しかし、暗証番号のないカードはマイナ保険証とは呼べない。政府のこの場当たり的な対応に呆れた人は多い。しかし、この苦し紛れの対応策の中に、意外に政府の本音が隠されているように、筆者には思われる。
 必ずしも大きく報じられることはないが、健康保険制度で政府が頭を悩ませているのが「なりすまし」による保険証の使い回しである。政府はこれを何とかなくしたいと考えている。もとより健康保険の適用を受ける資格のない人たちが他人の保険証で受診する不正はあってはならないし、それは健康保険制度そのものを毀傷(きしょう)する。
 そのなりすまし防止の決め手になるのが、本人認証が可能なマイナ保険証である。ところが、それが国民の不信の上に政府の稚拙さが重なり、躓(つまず)いている。しかも、認知症の高齢者のようにそもそもマイナ保険証になじみ難い人たちには特別の対応策が必要なことにも政府は気づかされ、そこで真剣に考案したのが暗証番号のない「マイナ保険証もどき」だったのではないか。
 「マイナ保険証もどき」には本人認証機能はないが、本人の顔写真が付いている。顔写真だけでも使い回し防止には十分役に立つ。よくよく考えてみれば、現行の保険証は、顔写真が付いていない運転免許証のようなものだ。こんな運転免許証なら、免許を持っていない人が他人の免許証を借りて運転することで、無免許運転の罪を免れやすい。この際、政府は健康保険証全廃方針を棚上げすべきである。マイナカードを持たない人には保険証を残すこととし、その上で例えばこれから発行する保険証には顔写真を添付する仕組みを検討してはどうか。
 この場合にも、それこそ認知症の高齢者の写真提供を誰がどうするかなど問題は多い。おそらく介助する施設などの役割が増すことが予想されるし、保険証を発行する保険者の本人確認などの作業も増える。そうした事務や手間に係る負担をめぐって利害調整のための嶮(けわ)しい議論は避けられないが、こちらのほうが保険証全廃をめぐる混乱とドタバタよりは、はるかに建設的だと考えている。

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等松春夫 なぜ自衛隊に「商業右翼」が浸透したか ――軍人と文民の教養の共有 【世界】2023年09月




色々なことが報じられて,
珍しく内部から議論が開かれたか……と思われて,
しかし,学長は問題はないとか発言していたな,と思い出す.
ほとんど見知ることのない場所で,
友人知人にも関係者はほとんど知らない.

……無償で高等教育が受けられる、というのは,たぶん魅力だったような気もする.
じっさい,どうだったろうか.

もっとむかしの、軍の学校について,ときおり目にすることがあったか.
陸軍エリートの多くが,小学校を卒業して幼年学校にすすんだとか.
学校で,いじめが問題にされるのは,
いじめ自体は,学校だけじゃなくて,地域の中にもあっただろうが,
学校という、ある意味で特権的な空間,周りから遮断された空間,
あるいは,教師という、医師などと同じように権威あると思われている存在によって制御されている空間……,そういうところで,人目につきにくく,
学生,生徒,場合によっては父兄,地域から遠い存在であることから,
問題が広がらない、あるいは問題とみなされない……ということだろうか.

でも,考えてみれば,いたるところに似たような空間,というか,組織,団体,集団がなかったわけではなかったか.
まぁ.あまり広げすぎても,どうか.
広げる理屈があるか,ということでもあるけれど.

さらに人目につきにくいところなのだろう.
それはそれとして,
だからこそ、彼らの対極に,あるいは反対側に適切な視線が必用なのだろうと思うこともある.
それはまた,逆の側にも言えるのだろうが.
そんなあれこれを思い浮かべながら.

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【世界】2023年09月

なぜ自衛隊に「商業右翼」が浸透したか
軍人と文民の教養の共有

等松春夫
とうまつ・はるお 一九六二年生まれ。防衛大学校国際関係学科教授。専門は日本政治外交史。著書に『日本帝国と委任統治――朝鮮半島をめぐる国際政治1914-1947』(名古屋大学出版会)。


 このたび、「危機に瀕する防衛大学校の教育」という論考を公表した[1]。この論考は直接には、現在および近過去の防衛大学校(以下、防大)内で起きたさまざまな不祥事と、防大が抱える構造と体質欠陥への危機意識から執筆された。しかしながら、問題の本質は深く、究極的には日本国と自衛隊の関係にたどりつく。
 もとより問題は多岐にわたるので、本稿では論考の背景にある筆者の問題意識に言及しつつ、近年の自衛隊がなぜ「商業右翼[2]」の浸透を許してしまったかを考察したい。このたびの問題提起によって、防大の教育のみならず自衛隊の幹部教育全般、さらには日本国にとっての自衛隊の在り方に、読者の注意が喚起されるならば、望外の喜びである。

受験生の「自衛隊」イメージ

 筆者は二〇〇九年以来、防衛省管轄下の防大の国際関係学科で政治外交史や戦争史の教育を担当している。ところで、筆者は入学試験の面接審査を担当する際、必ず受験生に「自衛隊の任務は何か」と訊ねる。すると一〇人中七、八人が第一に「災害救援」、第二に「国際平和維持活動」を挙げる。こちらが誘導する質問を重ねて、ようやく「外敵からの防衛」という答えに達する。
 憲法上の規定はどうあれ、自衛隊を軍隊であると考える筆者としては、受験生の反応はもどかしい[3]。彼らは自衛隊を軍隊ではなく、災害救援隊や国際協力組織と思っているのだろうか。しかし、自衛隊をたんに「武器をとって戦う集団」ではなく、日本の平和と国際社会の安定のために活動する組織であると感じているならば、それはそれで健全と言えよう。自衛隊は日本社会に包摂されているべきだからである。

自衛隊の正統性

 ところで、自衛隊を「軍隊」と定義するのであれば、それは「民主主義国家・日本の国軍」である。日本は民主主義を奉じる国民国家であり、その体制は天皇を国民統合の象徴とする議院内閣制の政治体制である。そして日本国憲法は基本的人権を保障している。したがって、民主主義の諸価値を尊重し、国民の生命を守り、この政治体制を擁護し、日本の独立を保つのが自衛隊の任務である。
 その自衛隊について考える際、避けて通れないのが正統性(legitimacy)の問題である。この場合、自衛隊が持つべき正統性は法的根拠と政治的承認の二つであろう。日本国憲法を読む限りでは前者の根拠が曖昧で、条文解釈と自衛隊法をはじめとする関係諸法規で取り繕っているのが現状である[4]。他方、後者は、冷戦期は不安定であったが、一九九〇年代末以降徐々に定着していった。その背景には一九九二~九三年の国連カンボジア暫定統治機構への陸上自衛隊施設大隊の派遣や、一九九五年のオウム真理教・地下鉄サリン撒布事件や阪神淡路大震災における自衛隊の水際立った救護活動があった。以後、国際平和維持活動への参加拡大や災害出動を通じて、国民の自衛隊イメージは確実に改善されていった。国民の多数派が「自衛隊は日本になくてはならない」と思うのが、もっとも明確な政治的承認であり、正統性の強固な基盤である。しかし、これはまだ比較的最近の現象なのである。

受難と忍苦の時代
 
 「君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。」これは一九五七年に吉田茂首相(当時)が防大の一期生たちに述べた言葉である。アジア・太平洋戦争の終結からまだ一二年、国民の厭戦(えんせん).反軍感情は根強かった。一九三〇年代以降の軍部の政治介入が悲惨な敗戦を招いた、というのが国民の共通認識であり、そのような時代に日本の再軍備を進めるのは、至難の業であった。それでも一九五四年には自衛隊が発足し、その幹部要員を養成する機関として防大が前年の一九五三年に開校していた。
 しかし、その後四十年あまり、自衛隊には受難と忍苦の時代が続く。前述のような厭戦・反軍感情から自衛隊は税金泥棒と世間から非難された。左右のイデオロギー対立が激しかった冷戦の時代、左翼思想が支配的だったメディアとアカデミアからは、「アメリカ帝国主義の走狗(そうく)」と罵倒された。防大を受験したい、自衛隊に入隊したいという教え子に、日教組系の教師が内申書を書いてやらないなどという、いじめもあった。このような空気の象徴が一九五八年の大江健三郎の発言である。同氏はこのとき二三歳、芥川賞を受賞したばかりの文壇の寵児であった。大江氏は『毎日新聞』のインタビューで「防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」と語っている[6]。初期の防大生には、戦争で親を失ったり、海外からの引揚者の子弟であったり、と経済的に恵まれない若者も少なくなかった。彼らに対し、これほど残酷な言葉はない。しかし、このような言説がまかり通ったのが、一九五〇年代から九〇年代初めの日本社会であった。
 このような社会では現職自衛官が一般大学で学ぶことを希望しても、入学を拒否されることが多かった。アカデミアとメディアも、ともすれば自衛隊を猜疑の目で見た。軍事・安全保障に関する研究は危険視され、朝鮮半島有事を想定した研究を自衛隊が行ったり(一九六一二年の三矢計画)、統合幕僚会議議長が有事法制の必要を論じると(一九七八年の栗栖事件)政治問題化した。一九五六年に国際連合に加盟した日本に対して、国連がレバノン内戦後の停戦監視団に自衛官の派遣を求めてきても(一九五八年)、政府は野党と世論の批判を恐れて辞退した。世間が高度経済成長やバブル景気を謳歌していた頃、自衛官は感謝もされず、黙々と任務を果たしていた。自衛隊と自衛官は、四十年以上にわたり、吉田茂が述べたような「日陰者」の悲哀を味わい続けた。自衛隊が堂々と国民の前に姿を現せるのは「オリンピックとゴジラ映画」だけだったのである。

承認欲求と商業右翼の誘惑

 しかし、人間にも組織にも承認欲求がある。自分が何かの役に立っていると評価されたいのは、自衛官・自衛隊とて例外ではない。国民からは税金泥棒呼ばわりされ、「進歩的知識人」とメディアからは「平和憲法違反」「アメリカの傀儡(かいらい)軍」と非難される。リアリズムに基づく安全保障研究をすれば、与野党の政争の具に使われ、国際的な活躍の場も国内政治事情で閉ざされた。このような時代が四十年以上も続けば、自衛官の間にどす黒いルサンチマンが蓄積されないほうがおかしい。一九二〇年代の大正デモクラシーと軍縮の時代に社会から冷遇された帝国軍人たちが、その反動で一九三○年代以降に暴走した歴史を忘れてはならない。
 問題は、一九九〇年代後半以降、自衛隊が大多数の国民に支持され、政治的正統性が確立された現在でも、受難と忍苦の時代に形成された自衛官のルサンチマンが払拭されないことである。そのためか、自衛官は自分たちを手放しで持ち上げてくれる人士にきわめて弱い。自衛隊を支持し、応援することは問題ない。しかし、自衛官を無条件に賛美し、さらには自衛隊を、日本神話や大日本帝国陸海軍の栄光と結び付けるのは、危険な時代錯誤以外の何物でもない。二〇二〇年代に入っても、自衛隊は種々の教育機関にこの種の「商業右翼」の浸透を許してしまっている。
 自衛隊の組織継承者を輩出する防大が、長らく理工系学問主体の学校であったことも一因であろう。比較的最近まで、防大生たちは人文・社会科学系の学問に触れる機会が少なく、技術者的な気質のまま卒業・任官し、自衛隊組織の中で昇進していった。実務はこなせるが、人文・社会科学系の教養に欠ける幹部自衛官が多数派となっていた。彼らの多くは、もっともらしく聞こえる陰謀論や商業右翼の言説の虚構を見抜けない。その象徴が二〇〇八年の田母神論文問題である。田母神俊雄・航空幕僚長(当時)が民間団体主催の近現代史論文
コンテストに応募して最優秀賞を取った。しかし、論文の中身は稚拙な陰謀論であり、歴史認識が政府見解と異なっていたために同氏は更迭(こうてつ)された。田母神氏は防大卒の理系エリートとして航空自衛隊の最高幹部である幕僚長まで昇り詰めた。しかし、キャリアの中で人文・社会科学系の知性を磨く機会に恵まれず、教養の偏りから陰謀論の罠に落ちたのではないか。これは氏自身の自己研鐙の問題であると同時に、自衛官たちを疎外してきたメディアとアカデミアの責任でもある。後者もまた軍事・安全保障の知識が抜け落ちた、偏った教養の持ち主たちであった。

知性派自衛官たちへの期待

 しかし、筆者は幹部自衛官がみな知性と教養に欠けるなどと一般化する気は毛頭ない。『なぜ国々は戦争をするのか』という書を、筆者は七名の現役幹部自衛官たちと一緒に翻訳・出版した。一九七四年の初版から増補改訂を重ね、二〇二年の第二版まで続くロングセラーである。第一次世界大戦からイラク戦争まで、過去一〇〇年の間に起きた戦争と紛争を全一〇章で多角的に論じている。留学中に本書を読んだ筆者は深い感銘を受け、いつか自分が教職に就くことがあれば、学生たちとこの本を精読したいと考えていた。
 やがてその機会が訪れる。二〇〇九年一〇月に防衛大学校に着任した筆者は、総合安全保障研究科で「戦争史」というゼミ形式の科目を担当することとなった。受講生は二〇代終わりから四〇代初めの初級・中級幹部自衛官と、他省庁やマスコミからの委託学生たちである。教材に筆者は『なぜ国々は戦争をするのか』を選んだ。各受講者には同書の一章分を担当させて要約と論点の抽出を行わせた。これを基にゼミでは活発な議論が展開され、二年間かけて四〇〇頁を超える原書を読了した。
 受講生たちはその後、論文を執筆して修士号を取得し、それぞれが部隊や艦隊や自衛隊の諸機関に補職されていった。防大、幹部学校、防衛研究所といった自衛隊の研究教育機関勤務になった者もいれば、防衛駐在官として海外に赴任した者もいる。
 彼らが作った各章の要約と論点を基にして筆者が監訳と編集作業を行い『なぜ国々は戦争をするのか』は上下二冊の書籍として刊行された。本書を手に取り、翻訳者たちの多くが現役の幹部自衛官であることを高く評価してくださった読者もいる。翻訳者の中からはその後博士号を取得し、本格的な学術書を刊行した者もいる。また、『国際政治』『軍事史学』『戦略研究』『国際安全保障』『日本歴史』等の学術専門誌に査読付き論文を投稿して受理された幹部自衛官も少なくない。彼らのような「ソルジャー・スカラー」が、自衛隊とアカデミア・メディアの間の架け橋になってくれることを願っている。
 しかし、このような知性派自衛官たちの活用について、防衛省及び陸海空の幕僚幹部は明確なビジョンを欠いているように見える。また、田母神氏タイプの上級・高級幹部が、受難と忍苦の時代に作られた既存の教育制度の中で再生産されている。反知性主義的な組織の体質を改善し、商業右翼を招き入れる悪習を断つには、この構造にメスを入れねばならない。



 防大の初代学校長を務めた槇智雄[10]教授は学生たちに常々「自衛官である前に紳士であれ」と語りかけていた。ここでいう「紳士」(gentleman)とは良識と責任感を持つ社会の一員という意味である。彼らが住む日本は民主主義国家である。民主主義の諸価値を尊重できない軍隊は国民を守れない。自衛隊が民主主義国家日本の国軍であるならば、自衛隊と社会、具体的には幹部自衛官と政治家・民間有識者の間の教養の共有が不可欠である。
 一国の安全保障に関する論議は健全なリアリズムに基づくべきで、イデオロギーや党派対立に左右されてはならない。健全なリアリズムの基盤となるものが、教養である。軍人と文民が自己の特殊な価値観の世界に立てこもり、互いを排除することは国を危うくする。社会が軍事専門職を包摂し、軍人が「軍服を着た市民」であることが、民主主義国家日本の自衛隊における自衛官のあるべき姿である。それを促進するには、自衛隊・自衛官側の努力のみならず、アカデミアとメディアの役割も大きい。



1 「危機に瀕する防衛大学校の教育」
https//drive.google.com/file/d/16No3obd07-MOxRbwo6MsPuqImAYK_Tfv/view?pli=1
2 「商業右翼」の定義は「【防衛大現役教授が実名告発】自殺未遂、脱走、不審火、新入生をカモにした賭博事件…改革急務の危機に瀕する防衛大学校の歪んだ教育」(集英社オンライン)の註6を参照。
3 軍隊の最大公約数的な定義を「主権国家の政府の統制下にあり、外部からの脅威に対して、国民の生命と国家の独立を維持するための暴力装置」とするならば、自衛隊は明らかに日本の国軍である。
4 神学論争と化した既存の「改憲・護憲」論議にとらわれない、自衛隊と憲法に関する考察では以下が出色の研究である。幡新大実『憲法と自衛隊――法の支配と平和的生存権』東信堂、二○一六年。
5 https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000152686
6 『毎日新聞』一九五八年六月二五日・夕刊
7 ジョン・ストウシンガー(等松春夫監訳・比較戦争史研究会訳)『なぜ国々は戦争をするのか』上・下、国書刊行会、二〇一五年。ストウシンガー(一九二七~二〇一七)は杉原千畝と真鍋良一という二人の日本人外交官の助けでナチスを逃れ、後に米国で国際政治学者(サンディエゴ大学教授)となった。なお、筆者は以前にも軍事史学会の編集委員として、一般大学の研究者とPKOに携わった現役自衛官ど協力して軍事史学会編『PKOの史的検証』(錦正社、二〇〇七年)を刊行している。
8 防大の総合安全保障研究科(以下安保研)とは一般大学の大学院に相当し、一九九七年に設置された。安全保障全般に関する教育を幹部自衛官および他省庁やマスコミからの委託学生に対して行う。前期課程(二年)では修士号、後期課程(三年)で博士号を取得できる。毎年二○名前後が入学する。
9 安保研で博士号を取得し、学術研究書を刊行した幹部自衛官は近年増加しつつある。以下代表的な成果を挙げる。金澤裕之『募府海軍の興亡――幕末期における日本の海軍建設』、慶慮義塾大学出版会、二〇一七年、小川健一『冷戦変容期イギリスの核政策――大西洋核戦略構想におけるウィルソン政権の相克』、吉田書店、二〇一七年。
10 槇智雄(一八九一~一九六八〉政治学者・慶慮義塾大学法学部教授。戦前にオックスフォード大学で学び、その経験からジェントルマンシップとノブレス・オブリージュ(エリートの使命感)の精神を防大教育の根幹に据えた。槇教授の防大教育の思想は以下を参照。槇智雄『防衛の務め――自衛隊の精神的拠点』(中央公論新社、二〇〇九年)を参照。

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『「ロシア」は,いかにして生まれたか ――タタールのくびき』 宮野 裕(NHK出版)

2023年08月14日(月)

そういえば ずいぶん前のこと 台風の進路をコントロールするとか
そんな話もあったけれど どうなったんだろう
ハリケーンが 日付変更線……だったか……をまたいで 台風に名前を変えたという
これまでにも時折あったと お天気の解説者が語っていたけれど

だいぶん前 通勤の電車や仕事のすきまが読書だったところ
たぶん 杉山正明 モンゴルの歴史をのぞいてみた
岡田英弘 という名前もあったけれど ちょっと個性が強いのかな 
もちろん悪いことじゃないのだけれど
いずれにせよ 世界史といいながら 西洋史と「国史」 スキマに東洋史……で
「世界」はいずこに なんて思わなかったかな

学校の歴史教育が変わるのだと メディアが騒ぎ立てるけれど 
いまごとなんだかな……と思う

それにしても不勉強は いろんなところに落とし穴を用意しているんだな
と 自分の来た道を振り返ることがある

そういえば キエフをキーウと表記すると この戦争の開始以来 メディアが唱える
ならば 大陸の国とか半島の国はどうなるんだろうと ちょっと悪態をつきたくなる

ちょっと前に グルジアという国名を ジョージアに変更すると報じられた
それで思いだしたのだけれど なぜ「アメリカ合州国」ではなく「アメリカ合衆国」なんだろうと

本棚から世界地図を引っ張り出してきて 本を読みながら地図を見るのだけれど
まったく追いついていけなかった
まぁ中学とか高校の補助教材のような地図だから しかたがないか と思いながら
ちょっと高校時代を思い出して
もう半世紀も前になってしまう
最低の地理の教師 クソおもしろくない世界史の教員
日本史の教師だけが 記憶に残っている 
もうすこしちゃんと話を聞いておけばよかった とあとで思ったけれど そこから先に踏み出すことをしなかった
その後 ネットで見ていて 彼の名前を発見したことがあった
すこしだけ得心するところがあった

それで 地図帳か
たんなる感想でしかないのだけれど 地理 歴史 たぶんもっと一体的に あるいは総合的に考えることが必要だったんだろうな とあとから思った
歴史を 古文書の世界に閉じ込めるのは どうなんだろう とも感じた
あるいは 科学史とか技術史 そんな分野もあったのだから もうすこし「総合」に向かうような議論があっていいのに とも思ったのだったけれど 
大学入試が「歴史総合」になったって なにが変わるんだ?とも思う

それで ロシア
このひどい戦争で いったいなにか変わるんだろうか
メディアの報道は ロシアのバックグラウンドに昏いように見えた というかあまり報道されない
ウクライナについても つい最近 徴兵事務にかかわる連中が首になったとか報じられていたけれど じつはずっとそうだったんじゃないのか 独立以来
ワグネルとか ロシアの傭兵部隊?軍事企業が出てくるけれど 
ウクライナ側には ●●連隊とか●●大隊とかいうわけのわからない私兵集団が いつの間にか正規軍に組み入れられていたんじゃなかったか

……どうすればよかったんだ となってしまうのかもしれないけれど
そもそもなぜ争うのか なにを争っているのか……
先の戦 といって応仁の乱がでてくるとか そんな話がこの列島にだってあるんだから
さて ヨーロッパの東 どういう歴史があったのか と思った

本屋の棚に NHKのHowToもののなかに小さな冊子を見て おもしろそうだなと思って
すこしずつ読んで おもしろかった


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世界史のリテラシー

「ロシア」は,いかにして生まれたか
タタールのくびき

宮野 裕

NHK出版
2023年6月15日

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宮野 裕(みやの・ゆたか)
1972年、東京都生まれ。岐阜聖徳学園大学教授。筑波大学第一学群人文学類卒業。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程西洋史学専攻中退。博士(文学)。専門はロシア中近世史。薯者に『「ノヴゴロドの異端者」事件の研究』、訳書に『ロシア中世教会史』『中世ロシアの政治と心性』など。


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はじめに 

 ロシアという国は、特に明治日本以来、文学や芸術により、また思想や政治のあり方などの点で私たち日本人を惹きつけてきました。
 その際、私たちのロシアへのまなざしは、ヨーロッパに対するそれとは異なっていて、しかしながら中国や東南アジアに対するまなざしとも異なる独特のものであったように思います。例えば、多くの権力が一人に集中するような政治体制やそれを許容するように見える国民意識を目の当たりにすると、ロシアはヨーロッパとは異なる国だと感じることでしょう。
 ところが、だからといって中国などを念頭に置くと、ロシアはアジアとも言いがたいと感じるはずです。ヨーロッパ風の建築物が建ち並ぶハバロフスクやウラジオストクは、「身近なヨーロッパ」として(コロナ前まで)観光客に人気がありました。
 この本では、このような独特の、そしてある意味で孤独な存在であるロシアがどのように生まれたのかについて考えていきたいと思います。現在は過去の積み重ねの上に成り立っているので、ロシアの生い立ちを知ることは、現在のロシアがなぜ「○○なのか」(○○は読者の皆さんのあらゆるロシアイメージが入ります)という問いを解き明かすために必要な作業なのです。
 さて、ロシアは一般的に言えば、十五世紀末から十六世紀初頭に成立したと言われています。この時期のロシアはまだシベリアには広がっていない、基本的にはウラル山脈より西側で、モスクワを中心として広がる国でした。
 この国を支配していたのは、リューリク朝と呼ばれる「公」の一族で、ロシアが成立した時期の支配者は、伝説上の始祖リューリク(?~八七九年)から数えて十八世代目に当たるイヴァン三世(在位一四六二~一五〇五年)でした。
 あとで詳しくお話ししますが、イヴァンの時代にロシアはモンゴル人による二世紀半にわたる支配(一般に「タタールのくびき」と言われます)から脱却し、独立を獲得しました。そしてこの独立とともに、国家機構を整え、領土の拡大も進めていきました。そういう事情があったので、ロシアが成立した経緯(独立だけでなく、くびきの時代も含めて)を追いかけていくと、ロシアという国のあり方、とりわけその基礎部分が見えてくるように思います。
 そこで、本書では、四章に分けて、ロシアが「タタールのくびき」とどのように関係を結び、最後はそこから離脱し、ロシアとして飛躍の第一歩を踏んだのかについて、年代で言えば十六世紀初頭までの時期についてお話ししたいと思います。
 ここで、予めお話しする内容をお伝えしておきます。
 第一章では、「タタールのくびき」とは何か、どのように成立したのかをお話しします。ロシアの歴史におけるくびきのインパクトは計り知れませんから、まずはこのくびきについてお話ししておきたいと思います。
 第二章では、このくびきのなかでどのようにしてモスクワ諸公が力をため、競合諸国を追い落としながらこの地域の中心になっていったのか、その過程を追いかけます。私の考えでは、「タタールのくびき」がなければ、モスクワがロシアの中心になることはありませんでした。
 第三章ではイヴァン三世の時代にロシアがようやく独立を果たし(くびきからの離脱。多くの研究者の意見では、一四八〇年の「ウグラ川での対峙」という歴史事件で終わったとされています)、国力を蓄えていく過程を叙述します。この過程で、君主に多くの権限が集まる仕組みの原型が作られていきました。その意味でも、現在のロシアを考えるために重要です。
 最後に、第四章においては、蓄えた力をバネにして、ロシアが、特に「父祖の地の回復」というスローガンを掲げて西に侵攻していくさまを描きます。ロシアは、当時リトアニアの支配下に置かれていたかつてのルーシ大公国(一般にはキエフ大公国やキエフ・ルーシ国家として知られています。「ルーシ」は、リューリク兄弟の出身地スカンディナヴィアの氏族名に由来するとしばしば考えられています)領に領土を拡張していきます。この拡張の様子を現在のウクライナ侵攻と重ね過ぎることはよくないのですが、それでも現代に生じているウクライナ侵攻と類似のロジックがここで使われたことを知ることで、ロシアの今回の行動を支える考え方について深めることができると思います。
 以上のような形で、くびきのもとでモスクワがどのような道を辿り、北東ルーシ地方の中心となり、また権力の集中を可能にする土台を築くに至ったのかといった問いに答えながら、「ロシア」がいかに生まれてきたのかについて、お話ししたいと思います。では、始めましょう。


※現在、日本のニュース等では、ウクライナの首都は現代ウクライナ語の読みに基づいて「キーウ」と表記されています。しかし本書では、あえて「キエフ」と呼ぶことにします。それは、本書が扱う古い時代の史料で、この町は「キエフ」あるいは「クィエフ」と呼ばれているからです。ほかにも、同じ考え方で、結果としてロシア語と同じ表記が使われる場合があります(チエルニゴフなど)。


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世界史のリテラシー

「ロシア」は、いかにして生まれたか
タタールのくびき

目次

はじめに   002

第一章*事件の全容(1)
「タタールのくびき」はいかにしてルーシにつけられたのか?  011

モンゴルによる侵攻前のル-シ国家
  「諸地域」が、公を頂点とする「公国」を形成   012
モンゴルのユ-ラシア遠征
  十万人を超えるモンゴル兵がルーシのすぐ南まで攻めこんだ   015
ルーシへのモンゴル侵攻
  北東部から南部へ、モンゴル軍はルーシ諸都市を蹂躙した   018
ウラジーミル大公ヤロスラフのモンゴル臣従
  「タタールのくびき」のもとに入ったルーシ   022
反モンゴル同盟の形成
  ルーシに訪れた、モンゴルからの自立のチャンス   026
アレクサンドルの選択
  なぜアレクサンドルは、モンゴルによる支配を受け入れたのか   028
くびきの基本構造
  タタールによる「間接支配」はいかにして行われたか  033
タタールの侵攻による被害
  都市や農村への影響と、人の移動による地域の衰退と隆盛   040

第二章*事件の全容(2)
なぜ、モスクワが「ロシア」の中心になったのか?   045

モスクワ公国の成立
  タタールによる揉躙を此較的軽微な損害で乗り越えたモスクワ   046
公国の強化
  カンの力を利用して国内の競合者を排除したイヴァン一世   051
大公位を確保したモスクワ
  トヴェリ公国およびリトアニア大公国との争い   055



モスクワを中心とした北東ルーシ諸国の結束
  将軍ママイの攻撃に対し、北東ルーシ諸公「同盟軍」で対抗   059
クリコヴォの戦い
  戦いでの勝利は、タタールからの独立闘争の第一歩となったのか?   061
分裂するタタールとモスクワ公国の内戦
  タタールの内紛がモスクワの運命にも影をおとす   066
タタ-ルのモスクワに対する圧力の低下
  モスクワ公の「ツァーリ」としての意識が芽生えた!?   073
足場を失う正教会
  なぜ全ルーシ教会は、世俗権力に頼らざるを得なくなったのか?   077

第三章*同時代へのインパクト
くびきからの離脱、そしてロシア統一国家の形成へ   081

イヴァン三世の即位
  少年期の経験が生きた、一四六○年代から七〇年代の外交的勝利   082
一四七二年、アフマトの襲来
  モスクワは、大オルダ、アフマトの遠征軍をオカ川で退けた   086
一四八〇年、「ウグラ川での対峙」
  イヴァン三世は、数か月にわたるアフマト軍の侵攻を再び退けた   089
「ウグラ川での対峙」終焉の意味
  一四八○年が、「タタールのくびき」が外れた年と言えるのか?   096
統一国家の形成――集権化政策の推進
  「ロシア統一国家」の形成は、どのような形で進んでいったのか   103
「ロシア」の誕生
  どのようにして「ロシア」が国称になったのか?   103
君主への権力集中
  ロシアにおける「君主権」が「強大」になっていった理由   112

第四章*その後に与えた影響
「ルーシの地」の所有権がロシアにあるとする考えはいつ生まれたのか?   117

リトアニアとの衝突
  「我らの土地を(リトアニアの)王が不当に保持している」   118
リトアニアとの戦争の再開
  「ルーシの地はすべて我らの父祖の地である」   122



十二世紀の「ルーシの解体」
  キエフ支配に誉れを認めなくなった北東ルーシ諸公   126
旧ルーシ公国領南部へのリトアニアの伸張
  それぞれの道を歩みはじめた北東ルーシとキエフ地方   132
ルーシの一体性をつなぎ止める「全ルーシ教会」
  かつてのルーシ公国領は全ルーシ府主教の管轄である!   135
「全ルーシの一体性」概念の世俗化
  ロシアの君主はいつから「全ルーシの一体性」を主張しはじめたのか?   141
「ルーシの地」の人々はロシアを受け入れたのか?
  イヴァン三世の大義も、リトアニアの多くの人々にとっては無縁だった   147


結びにかえて   152

参考文献   158

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結びにかえて


 本書は、ロシアという国がいかに「タタールのくびき」との関わりのなかで生じてきたのかを描こうとするものでした。三百年近くを扱う本書は、特に耳慣れない用語や人物、地名などが多いせいで読みにくかったと思いますが、ロシアとタタールとが、とにもかくにも絡み合い、互いに翻弄し、また利益を引き出し合ったという点だけはご理解いただけたかと思います。冒頭でお話ししたような、このくびきの経験なくしてロシアの形成はあり得なかったという「著者の思い」にも首肯していただけるかと思います。
 もちろん、具体的な影響や結果については異論もあるでしょうし、著者としてもまだわからないことが多いのですが、普段から敬愛している先人のおかげで何とかまとめることができました。特に近年亡くなったV・カルガロフ先生、Yu・アレクセエフ先生の著書、それから現役のA・ゴルスキー先生、それから著者の師である栗生澤猛夫(くりゅうざわたけお)先生の著書から多くの示唆をいただきました。記して感謝します。なお、亡くなった田辺三千広先生との二十年前の約束もこれで果たせました。
 昨年二月にロシアのウクライナ侵攻が始まり、ロシアへの関心は確実に高まりました。前線の状況やロシア政治についての情報が毎日届き、それなりに戦争自体の動向は理解できているのですが、どうもその先の問い、つまり、なぜウクライナに侵攻したのか、なぜロシア大統領はこのような政策を行うほど権力を固められているのか、なぜ国民は支持するのか、総じてロシアはなぜああなのか、といった問いに答える段になると、ロシアを長期的に眺め直すことが必要になってくるように思われました(と言っても、それですべてがわかる、と言うつもりはありません)。
 以下では、本書の内容と重ね合わせながら、著者の独白をしておきたいと思います。
 アレクサンドル・ネフスキーによるくびきの受け入れ、そしてその背景にあった、当時のカトリック世界(「北の十字軍」や支援提供の申し出)への彼の不信感は、結果としてロシアを西欧と異なる立場を取りがちな存在にしました。
 またモスクワが北東ルーシの中心核になっていく過程は、くびきに触れずしては理解できません。宗主としてのカンの権力・権威の存在は本書が扱った世界では非常に重要で、アレクサンドルはまだしも、特にその息子たち(ドミトリーとアンドレイ)がモンゴルから軍を引き出してライバルを駆逐する方法はモスクワのユーリーやイヴァン一世に引き継がれ、府主教座の取り込みもあってモスクワはこの地の一大勢力になりました。
 西欧には西欧全体をカバーし、また懲罰軍を送りこむような圧倒的な武力を蓄える存在はなかったことを想起すれば、カンの支配は、ロシアにおける権力観、支配.被支配あるいは権力と国民・臣民のあり方に大きな影響を与えたことが見て取れるのではないでしょうか。
 十四世紀後半のドミトリー・ドンスコイは、その意味でそれまでのモスクワ君主とは異質な部分が多いと言えます。タタールの分裂が生じていたこともあって、彼がこれに立ち向かおうとしたというのは、アレクサンドル・ネフスキー以来の大方針をやや転換したと言えるでしょう。北東諸国をまとめて、のちのロシアの大枠を築いたという点で、ロシアの祖と言えるでしょう。ただ、その後もタタールの権力を認め続けたという点で、彼を独立闘争の志士と評価するのは行き過ぎでしょう。
 十五世紀前半の内戦もまた、タタール側の内戦とも相侯って、さまざまな結果を生み出しました。とりわけこの時に生じた、ドミトリー・シェミャカによる大公ヴァシーリー二世の目潰しなどの凄惨な事件は、若くして父とともに戦いや政治に関わり、投獄生活も送ったその息子イヴァン三世の世界観に強い影響を及ぼし、彼のリアリスト的な性格を構築したように見えます。
 一四七二年から八〇年のくびきからの離脱で、ロシアはイヴァン三世が主権を持つ独立国家になりました。内戦や外患に辟易(へきえき)としたイヴァンは国内統合と権力構造の整理、ならびに武力及び多くの使節を通じた外交策を一気に展開し、一四七〇年代からの三十年で急速に国制を整えました。
 この「上からの改革」が一気に進められたことは、国家の「うわべ」の構築には役立ったでしょうが、その後の西欧の自立的な下からの動き(諸身分形成や都市の形成、農民の自立など)とロシアにおけるその脆弱さとを照らし合わせると、この「改革」は、その後のロシア社会の権力構造全体のあり方の、言ってみれば消しても消えない「下書き」を描いてしまったのかもしれないとも思ってしまいます。
 ロシアにはウクライナ、とりわけそのシンボルであるキエフを自らの影響圏とする正統性があるかのような言説の原型も、この時期に現れました。教会が主張し続けた「全ルーシの一体性」という考え方(それ自体を悪く言うつもりはありません)がおそらくイヴァンに影響を与えました。ただし、精緻な計画はなかったと思われます。一四七〇年代以降、かつての大公国領はイヴァンにとって正統な相続地になりました。その相続地を「違法に保持」するリトアニアの、とりわけ南西部への侵攻は、イヴァンにとって正しい行為でした。その際、この発想元である教会の影響を受け、「全ルーシ」とはほかでもない、「正教圏」であることが当然のことでありました。だから、イヴァンにとって、カトリックを奉じるリトアニア大公のもとに「全ルーシの地」があることは二重の意味で不当でした。初期の数名のリトアニアの諸公がそうであったように、リトアニアの諸大公が(カトリックでなく)正教を奉じていれば、そしてポーランドと距離を取っていれば、かなり異なった展開があったようにも思えてきます。
 二〇二二年のクリスマスに、キーウの古刹(こさつ)、ペチェルシク修道院のウスペンシキー聖堂がウクライナ政府により国有化され、それまでこれを仕切ってきたモスクワ総主教座管轄のウクライナ正教会が追い出され、使用できなくなったといったニュースを耳にしました。
 第四章でお話ししたことを考慮すると、ウクライナ政府の対処は、ウクライナの独立にとっては有益でしょう(合法かどうかは別にして)。しかしかつての「全ルーシ教会」の領域内にウクライナ(の大部分)が存在する以上、そして正教会がウクライナに存在する限り、今回の戦争がウクライナの大勝利で終わったとしても、ウクライナをテリトリーと見なすロシアの見方はなくならず、両国関係のなかでくすぶり続けるように思われます。
 ある時期まで関心のなかった対象について、自分のまわりの状況変化に伴う自分の都合の変化に基づき、自らにコミットする権利があると主張しはじめるというのは人間社会で散見されます。それは人間の性(さが)のようなものであって、今後もなくならないでしょう。
 だがそれで人の、特に大量の人の命が失われるのは勘弁願いたいと思います。歴史研究はそうした欺瞞(ぎまん)を暴くためにあるというわけではありませんが、例えば今回のことがなぜ起きたのか、過去深くに分け入りながらその諸原因を考えていけば、結果として、プーチン大統領自身、あるいは彼を含めた多くの人々が持つ歴史観の問題性が露わになるでしょう。
 他方でロシアそのものについても、その過去(本書の範囲以降も含めて)をじっくりと見ていきながら、国際社会が、とりわけ冷戦終結後にどのように対応すべきであったのか、今後どのようにロシアを受け入れるべきなのかを考えねばならないところです。
 その際、歴史を紐解き、一般論ではない、個としてのロシア理解がまずは大事なのでしょう。本書がその一助になれば幸いです。

宮野 裕

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参考文献

【一次史料】
石戸谷重郎「イワン3世の1497年法典――本文試訳ならびに注解」(『奈良学芸大学紀要」〈通号8-1〉)
カルピニ/ルブルク著/護雅夫訳『中央アジァ・蒙古旅行記』(講談社)
國本哲男他訳『ロシア原初年代記」(名古屋大学出版会)
中村喜和編訳『ロシア中世物語集』(筑摩書房)
三浦清美「中世ロシァ図書館(XXIV) ワッシアン・ルイロのウグラ川への書簡」(『ロシア文化研究」〈通号21〉)
三浦清美「中世ロシア図書館(XXV) ウグラ川での対峙の物語」(『エクフラシス』〈通号12〉)
三浦清美訳『中世ロシアの聖者伝(1) モスクワ勃興期編』(松籟社)
ラシード=アッディーン/赤坂恒明監訳『集史 モンゴル史 部族篇 訳注』(風間書房)

【研究文献】
井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラブ』(中央公論社)
G.ヴェルナツキー著/松木栄三訳『東西ロシアの黎明』(風向社)
小澤実・長縄宣博編著『北西ユーラシアの歴史空間――前近代ロシアと周辺世界』(北海道大学出版会)
栗生沢猛夫「ヨシフ・ヴォロツキー(1439/40-1515)の政治理論(1)――モスクワ・ロシアの政治思想史研究序説」(『スラヴ研究』〈通号16>)
栗生沢猛夫「同(2)」(『スラヴ研究』〈通号17〉)
栗生沢猛夫『タタールのくびき――ロシア史におけるモンゴル支配の研究』(東京大学出版会)
B.O.クリュチェフスキー著/八重樫喬任訳『ロシア史講話1』(恒文社)
B.O.クリュチェフスキー著/八重樫喬任訳『ロシア史講話2」(恒文社)
A.A.ゴルスキー著/宮野裕訳『中世ロシアの政治と心性』(刀水書房)
杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(講談社)
田中陽児他編『世界歴史大系 ロシア史1』(山川出版社)
中村仁志「ウグラの対陣とロシァ=タタール関係」(『関西大学文學論集』〈通号72-3〉)
中村仁志「ロシア=クリミア汗国同盟と大オルダ」(「関西大学文學論集』〈通号72-1・2〉)
濱本真実『共生のイスラーム――ロシアの正教徒とムスリム』(山川出版社)
C.J.ハルパリン著/中村正己訳『ロシアとモンゴル――中世ロシアへのモンゴルの影響』(図書新聞)
J.フェンネル著/宮野裕訳『ロシァ中世教会史』(教文館)
松木栄三『ロシア中世都市の政治世界――都市国家ノヴゴロドの群像』(彩流社)
松木栄三『ロシアと黒海・地中海世界――人と文化の交流史』(風向社)
宮野裕「フィレンツェ合同のロシア、ウクライナ、ポーランド地域への波及」(『西洋中世研究」〈通号10〉)
山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社)

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