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『トーラーの名において』 プロローグ











 プロローグ

我が口より、真理の言葉をことごとく除きたもうなかれ。我、汝の審判を望みたればなり。
(「詩篇」一一九の43)


 フランスでもベルギーでもユダヤ教系の学校を狙った放火事件が発生し、トルコでもチュニジアでもシナゴーグが襲撃にあった。一世紀来、悪化する一方のイスラエル=パレスティナ紛争が、必ずや他所に跳ね返りを見出してしまうという、近年のもっとも新しい事例である。しかし、なぜ、このような攻撃がユダヤ・ディアスポラ(離散)の地を標的としてなされなけれぽならないのか? テロ攻撃の犠牲となったアントウェルペン(アントワープ)ないしカニー〔フラソス、ノルマンディー地方の町〕のハシード*派ユダヤ教徒の子供たちが、一体いかなる意味において、ジェニンあるいはラマッラーにおけるイスラエル兵たちの行動に責任を負っているというのか?
 ユダヤ人(教徒)をイスラエル国に結びつけて考えることは容易であり、ほとんど自然ですらある。ディアスボラのユダヤ人(教徒)をその土地の外国人とみなす、あるいはフランスその他の国で仮滞在を長引かせているイスラエル人とみなす向きもあろう。こうした解釈は、とりわけユダヤの世界陰謀を動かぬ事実ととらえている反ユダヤ主義者たちに馴染み深いものだ。だが、ユダヤ人(教徒)をイスラエル国に自動的に結びつける考え方は、シオニストたちにも決して無縁のものではない。今から一世紀以上前、シオニズムという政治運動が形をなして以来、彼らはユダヤの民全体を代表する前衛として振る舞ってきた。なかには、イスラエル国の存続を脅かす要因が、過たず、世界各地に住まうユダヤ人(教徒)の存続に対する脅威になると言いきる者もいる。つまり、イスラエルはユダヤ世界の保
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証人であると同時に先頭旗手でもあるというのだ。しかるに、現実はそれよりもはるかに複雑な様相を呈している。
 たとえば、イスラエル独立記念日〔ユダヤ暦イヤール月*五日〕に、モンレアル(モントリオール)の街中で繰り広げられるイスラエル支持の大規模なデモ行進の傍らで、黒のフロックコートと帽子を身につけた数名のハレーディ*のユダヤ教徒たちが、「シオニズムの血塗られた暴挙に歯止めを!」、「シオニズムの夢は悪夢に転じる」、「シオニズムはユダヤ教の反対物である」など、デモ参加者たちの大勢の趣旨とは明らかに逆方向の主張を記したポスターを掲げている姿が目にされる。彼らが配布するビラには以下のように記されている。


   幾多の苦難より、搾取より、死より、そしてトーラー*の冒瀆よりもさらに
    嘆かわしきものとして、シオニズムがユダヤの魂に注ぎ込んだ内側からの腐敗
    がある。このシオニズムが、ユダヤの民であることの本質に深く食い込んでし
    まった。われらの民が天より与えられたトーラーに寄せてきた一律の信仰に取
    って代わるものとして、ユダヤ・アイデンティティーの非宗教的な定式をもた
    らしたのが、このシオニズムなのだ。それにより、ユダヤ教徒は、ゴルス〔イ
    ディッシュ語で「追放」、「亡命」、「流謫」。アラム語の「ガルート*」に
    相当〕を軍事的な脆弱さの結果とみなすようになった。こうして、流謫をみず
    からの咎(とが)ゆえに与えられた罰とみなすトーラーの視点が棄却されてしま
    った。それにより、われわれはガルヤート(ゴリアテ)〔「サムエル記」に登
    場するペリシテ人の巨人〕のような圧制者の役回りを当てがわれることとなり、
    イスラエルでも、アメリカでも、ユダヤ教徒のあいだに大きな混乱の種が播か
    れることとなった。こうして、シオニズムを採用する者どもの規範として、残
    虐さと腐敗が定着してしまったのである。
   よって、今日、ユダヤ暦イヤール月の五日は、ユダヤの民、ならびにすべて
    の人間にとって、言に尽くせぬ悲しみの一日である。今後も、この一日は、多
    くの正統派ユダヤ教徒の集いにおいて、断食と喪、そして喪の印として懺悔服
    の着用をもって迎えられることであろう。願わくは、かの国家が平和裏に解体
    し、そして世界中のイスラーム教徒とユダヤ教徒のあいだに平和が到来する様
    をじかに目にする機会が、われら全員に与えられますように!(1)


 親イスラエル派のデモ参加者たちは、こうした人々を裏切り者として指弾する。なかには、「あの人たちは本物のユダヤ人ではありませんから」などと豪語する者もいる。さらには彼らの手からプラカードを力ずくで奪い取ろうとする者もいる。治安維持に当たる警官隊が駆けつけ、同じ「ユダヤ」を名乗るこれら二つの集団のあいだに割って入る。こうした光景は、毎年、ほぼ同時にこユーヨークでも、ロンドンでも、エルサレムでも繰り広げられる。

【写真】「シオニストはユダヤ人(教徒)にあらず」とのプラカードを掲げるハレーディ

 一見、局所的にすぎないものと映りかねないこの種のエピソードは、しかしながら、ユダヤ、非ユダヤ双方の公論にほとんど知られないままとなっている一大現象の所在を示すものだ。ほかでもない、シオニズムが、トーラーの名において、ユダヤ教の伝統の名において拒絶されるという現象である。反シオニズムをそのまま反ユダヤ主義と同一視しようとする、近年、よく目にされるようになった動向に反して、シオニズムに対するこの拒絶は、いかなる意味においても「反ユダヤ主義的」と形容され得ないという点において際立っている。
 この現象は、まずもって逆説的なものと一般の目には映るかもしれない。それほどまでに、公論の場においてイスラエルとユダヤ教徒との同一視が自動的なものになり果てているということだ。報道機関は、ひっきりなしに「ユダヤ国家」ないし「ヘブライ国家」に言及する。イスラエルの政治家たちが「ユダヤの民の名において」事物を語る様も頻繁に目にされる。しかしながら、シオニズム運動とそれに続くイスラエル国の建国は、ユダヤ史の領域においてもっとも重大な見解の分裂を生ぜしめる契機にほかならない。ユダヤ教の伝統を維持し、解
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釈し続ける人々の圧倒的多数が、事の始めから、社会の新計画、「ユダヤ人」という新しい概念、〈聖地〉への集団移住、そして、そこに政治的覇権を打ち立てるための武力行使に対してはっぎりとした反意を表明してきたのである。
 実のところ、シオニズムを掲げる知識人たちと、それに対抗する正統派のラビたちは、シオニズムがユダヤ教の伝統の否定を意味するものであるという点においてはまったく意見を同じくしている。シオニズム史を専門とするイスラエルの歴史家ヨセブ・サルモンによれば――


   最大級の危険をもたらしたのはシオニズムの脅威であった。それは、ディア
    スポラの地においても、〈イスラエルの地〉*においても、信徒たちの伝統的
    な組織から長子相続権をまるごとかすめ取り、メシア待望の対象を奪い去るこ
    とを目的とするものだったからである。シオニズムは、近代の民族的なユダヤ・
    アイデンティティーを提起し、伝統的社会を新しい生活様式に従属させようと
    し、離散と贖罪の宗教的概念に対してまったく異なる態度を採用するなど、す
    べての側面において伝統的なユダヤ教に対する挑戦を意味していた。シオニズ
    ムの脅威はあらゆるユダヤ人居住地に及んだ。その脅威は、たゆみなく、包括
    的なものであった。だからこそ、シオニズムは反対派からの妥協なき抵抗に直
    面したのである。(2)


 本書の主眼は、シオニズムという、この「たゆみなく包括的な脅威」に対する抵抗の歴史を描き出すことにある。それにより、シオニズムの信奉者たちの目には翻って冒?的と映る、この力強く、持続的な抵抗の姿勢に光を当てたいのだ。シオニズムの敵対者、ないしその誹謗者として本書に登場してくるのは、なにも黒のフロックコートに身を包んだユダヤ教徒ばかりとは限らない。みずからの反対姿勢をユダヤ教の次元に属する議論によって支えようとする人々の全員が、本書の叙述の対象となる。そこにはハレーディもいれぽ、ミトナゲッド*もいるだろう。改革派のユダヤ教徒もいれば、「近代正統派」と呼ばれるユダヤ教徒もいるだろう。イスラエル人もいれぽ、ディアスポラのユダヤ人(教徒)もおり、さらには、みずからのシオニストとしての確信に疑問を抱き始めた、一部の宗教=民族派(ダーティ・レウミ)のユダヤ教徒も混じっていよう。本書はまた、こうした人々がトーラーへの忠誠を共通項として提示している抵抗の理由を解き明かそうとするものだ。それが聖書への忠誠を基本に据えている以上、これら反刻名の多くはラビとしての権威を備えた人々である。彼らは、みずから揺るぎなきものとして掲げ持ついくつかの公理をシオニズムの諸相に当てはめることによって、反シオニズムの立場を根拠づけているのだ。本書に登場してくる人々をほかのあらゆるシオニズム批判者たちから区別しているのは、あくまでもトーラーの教えを守り抜こうとする姿勢、シオニズムとイスラエル国をトーラーの視点から眺め、そしてトーラーの名においてそれら告発しようとする姿勢そのものである。
 本書で分析の対象となるさまざまな思想的立場は、よって、ほとんどの場合、ラビたちによって受け継がれてきたものだ(ユダヤ教世界において、「ラビ」とは、必ずしも職階や職能を意味するものではなく、むしろ、トーラーに関する確かな学知を身につけた者一般に与えられる称号である)。とりわけこの二世紀来、ユダヤ教を特徴づけている見解と解釈の多様性、ならびにユダヤ教が経てきた制度的な脱=中央集権化の傾向に鑑み、内容的にはほとんど似通ったものであっても、ユダヤ教内部のさまざまな異なる潮流に由来する見解を広く収録する必要があった。
 ユダヤ教の伝統において、他者の振る舞いを正すために唯一可能な方法は、その者に対する愛情と敬意を保ち続けることであるとされている。ところが、ことシオニズムに対する拒否の姿勢は、ユダヤの民そのものに対する裏切り行為として受け止められがちだ。ロンドンの「リベラル・ジューイッシュ・シナゴーグ」のラビたちは、このディレンマを次のような明快な言葉で言い表している。


   どうやらわれわれは、われらの民に対する忠誠と、われらの神に対する忠誠
    とのあいだで二者択一を余儀なくされているようだ。かつて預言者たちは、み
    ずからの民を愛していたのではなかったか? それでも彼らは、民の指導部を
    きびしく非難したのだった。エレミアほどの熱を込めてユダヤの民を愛した者
    がほかにいただろうか? それでもエレミアは、人々の罪を――その人々に対
    する愛ゆえに一層の熱を込めて――咎めたのであった。(3)


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 実際、シオニズムを糾弾するユダヤ教徒たちは、往々にして預言者にも見紛う熱情を示すものであり、なかには、そこからシオニズムとイスラエル国の悪魔視に行き着く者もいるほどである。
 敬虔なユダヤ教徒としてシオニズムの公然たる批判に乗り出す人々は、それがトーラーによってみずからに課された義務の行いであると考えている。この点に関し、トーラーは以下の二つを義務として課しているというのだ。第一に、神の名に対する冒?をやめさせること。イスラエル国が、往々にして、地球上のすべてのユダヤ人の名において、あるいはユダヤ教そのものの名において行動しているという自負を表明するのに対し、シオニズム批判のユダヤ教徒たちの側では、その種の自負を不正とみなしているのだということを、一般の人々、とりわけユダヤ教徒ではない人々に対して説明する義務があると感じているのだ。第二の義務は、人間の生命を平らかならしめよ、という掟に由来する。ユダヤ教の立場からシオニズムを拒否する姿勢を鮮明にすることで、彼らは、イスラエル国が他の諸民族のあいだにかき立てていると彼らの目には映る――激しい憎悪からユダヤ教徒の集団を守ろうとする。このままでは、イスラエル政治とその帰結をめぐって世界中のユダヤ教徒が人質に取られかねない、と警告を発しているのだ。彼らの主張によれば、現在のイスラエル国は「ユダヤ国家」でも「ヘブライ国家」でもなく、はっきりと「シオニスト国家」として認識されるべきであるということになる。
 いうまでもなく、このようにイスラエル国の命運をユダヤの民の歴史的行程から分離しようとする試みは、単なるユダヤ史の境界内には収まらない一大問題を惹起する。みずからのユダヤ・アイデンティティーを定義づけること、しかも、国家の枠組みとははっきりと一線を画したものとしてそのアイデンティティーの性格を見定めることが、現在、地球上に住まう数百万人のユダヤ教徒たちにとって不断の関心事となっているのだ。ある時期までのユダヤ人(教徒)は、一つの民が、二千年もの長きにわたり、みずから国家を持つことなく、しかも物理的生存のためにはおよそ好都合とはいえない条件のもとで自己のアイデンティティーを保持することができるという実例を示したのであった。シオニズムの勃興とイスラエル国の創生は、その唯一無二の歴史に終止符を打つほどまでにユダヤの民を変貌さぜてしまったのか。イスラエルは、ユダヤ教の伝統に蓄えられた諸価値との兼ね合いにおいて、もはやまったくユダヤ的なものではなくなってしまったのか、と彼らは絶えず問いを発しているのである。



 以下、シオニズムの略史(第一章)と、シオニズムがユダヤ・アイデンティティーにもたらした変化(第二章)を描き出したのち、個々のユダヤ人(教徒)が〈イスラエルの地〉とのあいだに取り結ぶ関係について、ユダヤ教の伝統のなかで説かれてきたところと、シオニズム思想の根源に位置しているところの両者を分析する(第三章)。ついで、武力行使の正否をめぐるユダヤ教の思想と、一世紀以上前からシオニズムの実践が〈イスラエルの地〉で繰り広げてきた思想、築き上げてきた現実とを比較することとしよう(第四章)。二十世紀の前半にシオニストたちが確立した政治、経済的覇権と、一九四八年のイスラエル建国は、信仰者としてのユダヤ教徒に新たな挑戦を投げかけるものであった。「シオニズム諸組織との協調は許されるか?」、「国家を承認し、その新たな観念実体の維持に寄与することは許されるのか?」という問いが信仰者に課されることとなったわけである。第五章においては、その協調の問題をめぐって表明されたさまざまな立場を紹介、分析する。
 イスラエルの建国はショアーが投げかける暗い影のもとで宣言され、そして、今日なお、それがイスラエル人の集団意識と政治行動に密接に結びついている。第六章では、まず、ショアーがシオニズム・イデオロギーのなかに占める位置を検討し、ついで、何人かの著名ラビたちがショアーから(そしてショアーとシオニズムの関係づけのなかから)いかなる教訓を導き出してきたかを明らかにした上で、その両者のあいだに横たわるいくつかの対照を浮かび上がらせたい。われわれ現代人の一般的な感性は、ショアーに関するラビたちの解釈を前にして、おそらくかなりの困惑を覚えずにはいられまい。彼らにとって、ショアーとは、ユダヤ人(教徒)をみずからの罪――なかんずくシオニズムの罪――の悔悟に立ち返らせるための惨劇だったのである。さらに一部のラビたちが説くところによれば、シオニズムはショアーを引き起こした直接の要因でさえあったというのだ。第七章では、ユダヤの民の持続性、贖いのメシア
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的計画、「新たなる反ユダヤ主義」の再燃といった論点をめぐり、そこにイスラエル国が占める位置について、いくつかの批判的見解を紹介する。
 本書をつうじて、二世紀来、ユダヤ世界を特徴づけている見解と立場の多様性が浮き彫りとなろう。その多様性のなかでこそ、ユダヤ教とシオニズムの区別を明示しなければならず、そして、今日なお反ユダヤ主義に養分を供給してやまない神話や盲信に揺さぶりをかけてやらなければならないのだ。

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『トーラーの名において』 ヨセフ・アガシ教授による序文






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トーラーの名において
シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史

ヤコヴ・M.ラブキン
菅野賢治=訳

平凡社 2010

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 ヨセブ・アガシ教授による序文


 十九世紀のヨーロッパにおいては、多くの人が非宗教主義(仏 laïïcisme、英 secularism)と宗教(religion)とを同時に実践していた。なかには宗教の代替物として非宗教主義を実践する人々もいた。こうして民族主義が、宗教ならざる宗教に姿を変え、国家を怪物的存在に仕立て上げながら、続く二十世紀、最悪の惨事をこの世にもたらしたことは周知のとおりである。
 本書は、私自身の国、イスラエルとの兼ね合いにおいて、民族主義に関する議論をかき立てようとするものだ。著者ラブキン氏の主眼は、“イスラエルがユダヤ人(教徒)全員の身柄を保護し、彼らにとって自然の祖国を構成している”という神話を再問に付すことにある。この神話がユダヤ教の趣旨に反するものであることは、本書に正しく示されているとおりである。ところが、イスラエル人の大部分はこの神話をシオニズムそのものと取り違え、ディアスポラ(離散)の地のユダヤ人が一人残らずイスラエルに集結した日にこそ、われわれが真の意味において自立に到達できると考えている。こうした文脈において、世界中のユダヤ人(教徒)にとって抜き差しならぬ問いは、「イスラエル国の利益はディアスポラの地に住むユダヤ人(教徒)たちの利益に合致するものなのか、あるいは逆に相反するものであるのか?」という点に存するはずである。しかし、今日のシオニズム・イデオロギーにとって、それがまさに禁忌の問いを構成しているのだ。さらに、シオニズム・イデオロギーは反ユダヤ主義(antisémitisme)を不可避の
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要素とみなし、ユダヤ人が安全に暮らすことのできる世界で唯一の土地としてイスラエルをとらえる。しかし、このとらえ方は本質的に民主主義の考え方に背馳したものである。なぜなら、そこにおいて、近代世界の全体をつうじて成し遂げられてきたユダヤ人解放の価値がア・プリオリに否定されてしまうからだ。そのとらえ方はまた、ユダヤ人の全員が、時には現今の居住国の利益に反してまでイスラエルを支持するのが当然であるという、シオニズムの要請を正当化しようとするものでもある。ディアスポラのユダヤ人指導者たちは、みずから打ち出すべき綱領として、「その立ち振る舞いの正邪にかかわらず、イスラエルこそ、われらが祖国」という歪(いびつ)な原則にもとづき、イスラエル国を弁護すること以上にふさわしいものはないと考えているのだ。
 かくしてイスラエルの歴代政府は、いまだにゲットーのなかに身を置く人間集団の導き手として振る舞う一方、イスラエル国内の非ユダヤ人の利益には一顧だに与えない姿勢を貫きながら、結果的にイスラエルを恒久的な戦争状態にとどめ置いている。しかるに、強力な軍隊を備えたゲットーほど危険な存在はないといってよいのだ。
 本書には、この種の神話から身を振りほどくことが、今、なぜことさら重要なのか、その理由が余すところなく示されている。イスラエルのユダヤ人を含め、実に多くの人々にとって、シオニズムに反意を唱えるラビたちの立場が正統的なものであり、それがユダヤ教の伝統にぴたりと適うものであることを認める妨げとなっているのが、まさにこの神話であるからだ。宗教的な反シオニズムの正当性を認めることは、イスラエルとシオニズムをめぐる真摯な議論のために不可欠であるはずなのだが、ユダヤ出自の人間であるか、キリスト教世界の側に身を置く人間であるかの別を問わず、シオニズムを標携する人々が反シオニズムに一切正当性を認めようとしないため、この議論は今日なお窒息させられた状態にある。
 トーラー*にもとつく反シオニズムの内実に触れることの重要性は言を俊たない。逆に、それを知らずにいることは、近代シオニズムを不可侵の聖域として補強することにしかならない。そこには、世界中いたるところで繰り広げられているユダヤ人(教徒)の生活に対してイスラエル国が発揮しようとしている中心性の問題、そして、イスラエル政府がディアスポラのユダヤ人(教徒)たちの名において何かを語る権利の所在に関する問題も含まれている。さらには、非イスラエル国籍のユダヤ人(教徒)はイスラエル政府が打ち出すいかなる公式見解にも異議を唱えることはできないという馬鹿げた信仰も無関係ではない。先頃、あるシオニスト会議の場で、シオニズムに対するあらゆる反意が反ユダヤ主義の名に値するという宣言が出された〔1〕。これはイスラエルを含め、世界のいたるところで、実に多くのユダヤ人(教徒)に重大な余波をもたらしかねない宣言である。もしもそれがイスラエルの公式見解に対する疑義の表明をことごとく非合法化する狙いのもとに出された宣言であるならば、純粋単純に顰蹙の種以外の何ものでもない。そして、本書に含まれている批判の言説は、まさにこの疑義の表明に向けての第一歩にすぎないのだ。
 知性の水準において、明快な思想を持つこと、とりわけ諸概念のあいだに明瞭な区別を打ち立てる能力を行使することの重要性は言を侯たない。ただ、どうやら実践の水準において、その重要性が完全に認識されているわけではないようなのだ。本書は、まさにその地点において有益な書物であるといえるだろう。その重要性にもかかわらず、これまでほとんど知られることのなかった資料に依拠しながら、本書は、さまざまな概念のあいだに存する差異をそのまま指し示してくれる。たとえば、「シオニズム」と「ユダヤ教」の差異。国家(Etat,state)としてのイスラエル、国(邦)(pays,country)としてのイスラエル、領土としてのイスラエル、〈聖地〉としてのイスラエル、それぞれのあいだの差異。さらには、「ユダヤ人(教徒)(juif,Jew)」(そのなかのイスラエル人と非イスラエル人)、「イスラエル人」(そのなかのユダヤ人と非ユダヤ人)、「シオニスト」(そのなかのユダヤ人[教徒]とキリスト教徒)、「反シオニスト」(同様に、そのなかのユダヤ人[教徒]とキリスト教徒)、それぞれのあいだの差異である。たとえば、イスラエル国を指して「ユダヤ国家(国賦Etat juif,Jewish State)」と口にしただけで、すでに信仰と民族性のはざまで現実的かつ危険な混同に道が開かれてしまうのだ。
 今日、イスラエル国が何かを正当化するために宗教の議論に依拠しているからといって、それに反意を唱える者がみずから宗教人である必要はまったくない。私は宗教人ではないし、また、シオニズムとその歴史についてことさら否定的な言辞を繰り広げる昨今のイスラエル知識人たちの流行に追随するつもりもない。ただ、イスラエルの愛国者として、また一介の哲学者として、ユダヤ教における反シオニズムの言説をわれわれの過去、現在、未来をめぐる公
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の議論に組み入れることが不可欠であると考えるまでだ。その種の議論を、われわれは今、大いに必要としているのである。

ヨセブ・アガシ
カナダ王立協会会員
テル=アヴィヴ大学、ヨーク大学(カナダ、トロント)教授

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『トーラーの名において ――シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』 ヤコヴ・M.ラブキン  菅野賢治=訳 平凡社 2010/もくじ と 日本語版の読者へ 

2023年11月06日(月)

「X」に,イスラエルの警察が,同じイスラエル市民,黒いコートにまるい帽子?をかぶったユダヤ教徒を暴力的に制圧するシーンが投稿されていた.

ニューヨークで,たぶんユダヤ教徒の人たちによるガザとの戦争に反対するデモが,報じられていた.

でも,知らないことが多すぎるな,そんな気がする.

「トーラーの名において」は,あるいはうちの本棚に眠っているかもしれないな.
眠らせちゃいけなかったんだろう……が.


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トーラーの名において
シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史

ヤコヴ・M.ラブキン
菅野賢治=訳

平凡社 2010

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    日本語版の読者へ   9
    ヨセブ・アガシ教授による序文   13

    プロローグ   17

第一章 いくつかの指標   25
    非宗教化と同化   29
    歴史――闘争の舞台   35
    反シオニストと非シオニスト   43

第二章 新しいアイデンティティー   55
    メシア主義から民族主義へ   56
    「非宗教的ユダヤ人」の誕生   73
    不完全な転身   80
    ユダヤ人、ヘブライ人、イスラエル人?   89
    現代ヘブライ語と非宗教的なアイデソティティー   111

第三章 〈イスラエルの地〉、流謫と帰還のはざまで 127
戒律の侵犯と流謫   132
    メシアに対する用心深さ   138
    シオニズムの理念   153
    シオニズムの企図   158

第四章 武力行使   167
    成文化された平和主義   167
    ロシアのユダヤ人――苛立ちと暴力   177
    矜恃と自衛   182
    解放と植民地化――民族主義の二つの顔   192
    度重なるイスラエルの勝利   199
    テロリズムの起源に   217

第五章 協調路線の限界   227
    〈聖地〉におけるシオニズムへの抵抗   230
    ディアスポラの地におけるシオニズムの拒絶   237
    国家との関係   246
    国家とユダヤ教   260

第六章 シオニズム、ショアー、イスラエル国   267
    大災厄の原因   168
    ショアーに対するシオニストたちの姿勢   277
    奇跡的再生か、継続的破壊か?   291

第七章 破壊の予言と存続のための戦略   309
    ユダヤの連続性のなかにイスラエル国が占める位置   312
    公的な議論とその限界    318
    約束か、脅威か?   329

    エピローグ   351


     原注   363
     訳注   401
     語彙集   405
     人物紹介   411
     訳者あとがき   421





凡例
・(1)(2)(3)……原注。
・〔1〕〔2〕〔3〕……訳注。
・()著者による丸括弧。
・[]著者による補足、引用文中の省略など。
・〔〕訳者による補足。
・*印が付された、ユダヤ教、シオニズム、イスラエル政治関連の特殊用語(ヘブライ語、イディッシュ語など)については、巻末の「語彙集」を参照のこと。
・**印が付された人名については、巻末の「人物紹介」を参照のこと。
・聖書からの引用は以下の例に倣う。「創世記」第二六章第一三節→「創世記」二六の13。ただし、ユダヤ教『聖書』とキリスト教『旧約聖書』とでは番号付が異なっている場合があるので注意されたい。本書では、原著どおり、ユダヤ教「聖書』の番号付に従う。
・原注のなかでは、各文献の初出箇所にのみ原語で(ヘブライ語書誌はローマ・アルファベットに置き換えて)典拠を併記する。





トーラーの名において――シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史



Yakov M.Rabkin
Au nom de la Torah
Une histoire de l'opposition juive au sionisme

O Les Presse de 1'Universite Laval,2004

本書の出版に際しカナダ・ケベック州文化産業開発協会(SODEC)より助成を受けた。





 日本語版の読者へ


 二〇〇八年から〇九年にかけて、私は二度、日本を訪れ、本書に密接に関係する主題について二十回以上の講演会、シンポジウム、研究会などをこなしました。日本の方々が本書の主題に寄せていらっしゃる関心の高さは、当初、やや意外に思われたものですが、今では、それが実に理に適った、しかも賢明な関心のあり方であるということが私にもよく理解できます。外界に対する近代日本の開放性、そして世界の諸事情に対する近代日本人の好奇心の旺盛さは、いまや国際的に定評がありますが、こと本書の主題をめぐる本格的な関心の萌芽は、経済学者にして植民地政策論の専門家、矢内原忠雄(一八九三-一九六一年)の著作のなかに見出されます。彼は、第一次世界大戦直後から、ユダヤ人によるパレスティナの植民地化を積極的に評価する論考をいくつか世に問うていました。師、内村鑑三(一八六一-一九三〇年)と同様、キリスト教徒であった矢内原は、シオニズムの企図をキリストの〈再臨〉に結びつけています。このように、シオニストによるパレスティナ植民地化に熱狂的な支持の姿勢を示したのは、主としてプロテスタントのキリスト教徒たちでした。日本において、シオニスト国家をもっとも持続的に支持してきたのは、おそらく「キリストの幕屋」運動でしょう。その創始者、手島郁郎(一九一〇-七三年)も、やはり、遡れぽ内村鑑三に行き着くキリスト教イデオロギーの潮流に連なる人物でした。
 同時に、日本においては、シオニズム綱領の現実化にともなって世界の四隅に分散を余儀なくされたパレスティナ
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人たちとの連帯を掲げる運動も多岐にわたっています。これらの運動は、多くの場合、アメリカの強大な覇権から身を振りほどこうとする動きと連動して、日本社会のさまざまな層に支持者、賛同者を見出しています。
 日本が西アジアの一帯に関心を抱くのは、また、実践的な理由からも理に適ったことというべきでしょう。日本を動かしているエネルギー源の大部分はこの地域一帯で産出されたものです。イスラエル=パレスティナ紛争は、すでに一世紀以上にもわたって同地域を不安定化し、国際関係を険悪化させてきました。そこに起因する騒擾は、決して日本と日本人を蚊帳の外に置くものではあり得ません。
 日本を含めた東アジアにとって、西アジアの“面倒見”を西洋諸国に一任しておけば済むという時代はとうに過ぎ去りつつあるはずです。むしろ、西アジアに「問題」を生み落としてきた主体は、大方、西洋諸国であったのだから、今日、西洋がその解決法を見出せずにいるのも無理なきことと考えるべきなのです。アジアの国々を広く巻き込んで、イスラエルに関する綿密かつ率直な議論の場を構築する必要もそこに存するのです。西洋の植民地主義から借り出された古色蒼然たる定式にいつまでもしがみついていては、新しい政治学を切り開くことは決してできません。
 さらに日本は、この議論のために、西洋などよりもはるかに開放的な場を提供する可能性を秘めています。周知のとおり、ユダヤ人(教徒)が、過去何世紀にもわたって、暴力、追放、搾取の辛酸を嘗めさぜられてきた舞台は、西洋のキリスト教諸国でした。二十世紀半ば、ロマ族とユダヤ入を含む「下等人種」に対して、人種差別主義にもとつくジェノサイドが行われたのも、そのヨーロッパの中心部においてでした。この暗澹たる過去が、しばしば、相応の操作を経て、イスラエル国が抱え込んでしまった差別的な本性に関する理性的な議論を圧殺するために利用されるわけですが、日本においては、その種の操作が功を奏する余地は、本来、皆無であるはずなのです。なぜといって、日本は、ナチス・ドイツの同盟国でありながら、絶望的な状況下でヨーロッパを後にしてきたユダヤ人(教徒)たちに避難地を提供するという過去の実績を持っているからです。いうまでもなく、リトアニアの日本領事、杉原千畝(一九〇〇-八六年)が、数千人のユダヤ人(教徒)――そこには、あるラビ学校(イェシヴァー*)の師と学徒の全体も含まれていました――を救ったという、あの事蹟のことです。もしも、一九三八年、日本からの申し出が「アメリカ・ユダヤ会議」議長スティーヴソ・ワイズ(一八七四-一九四九年)によって拒否されなかったならば、日本はより多くのユダヤ人(教徒)を受け入れることができたかもしれません。他方、私の国カナダは、当時、「文明国」を自称するほかの大部分の西洋諸国と同様、ユダヤ移民の入国を禁止し、結局、多くのユダヤ人(教徒)の命をナチスの殺人鬼どもの手に委ねてしまったのでした。
 ちなみに、戦後、パレスティナ人の追放、ならびに彼らの権利と財産の剥奪について、日本はまったく責任を負っζいないという点も確認しておきましょう。一九四七年、国連総会の場で、現地住民たちの大部分(イスラーム教徒、キリスト教徒、そして、反ないし非シオニストのユダヤ教徒)の反対を押しきってパレスティナ分割案が採択された時、日本は〔国連に加盟する前だったため〕その決議に手を貸さなかったのですから。
 日本は、韓国や中国とともに――ちなみに、現在、本書の中国語訳も進行中ですが――、イスラエル=パレスティナ論争に、独自の叡智、独自の接近法をもたらすことのできる立場にあります。この三国は、「シオニズムとは何か?」という問いを含め、いつしか西洋諸国が手を触れずに済ませてしまおうとするようになった問いを、政治的恐喝などを受ける心配もなく、淡々と議論の俎上に載せることができるのです。本書の役割は、まさに、その議論の抑止装置を解除することにあります。一度、本書に目を通してさえいただければ、ユダヤ教とシオニズムのあいだ、ユダヤ人(教徒)とイスラエル人のあいだで決して混同を起こしてはならないのだということ、そして、イスラエル国を批判し、シオニズムを棄却することは、決して「反ユダヤ主義」の名に値する行為ではないのだということをご理解いただけるでしょう。実際、十九世紀末、「ユダヤ民族主義」という考え方が脚光を浴び始めた当初から、ユダヤ教徒の圧倒的多数はそれを頑として撥ねつけておりましたし、今日なお、その事情に変わりはありません。こうしたユダヤ教徒は、イスラエル国が中東に打ち広めている暴力の波に胸を痛めるのみならず、同国が、「ユダヤ国家」を自称しつつ、ユダヤ教徒たち、そしてユダヤ教そのものに対して行使している暴力にも胸を痛めながら日々を過ごしているのです。
 今、ユダヤ教の新年を間近に控えて、私は、私たちの身に起こる一つ一つの事柄が、すべて、私たち自身の行いを
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正す手段にほかならないのだと、あらためて自己に言い聞かせながらこの一文を書いております。そうした謙虚さと責任感とをもって、私は本書を書き上げたつもりでおりますし、今、日本の読者の皆様に本書をお届けする気持ちも、その時とまったく変わっていません。
ヤコヴ・M・ラブキン
二○〇九年九月、モンレアル(モントリオール)にて

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