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神保太郎 メディア批評(176)(1)政治とメディア,足元の危機――『朝日新聞政治部』を読む 【世界】2022年08月

2023年01月31日(火)

ちょっと前のこと,
旭川の中学生の自死した事件についての新聞記事を見て,
ちょっと残念な気分だった.
NHKにわりと詳しいレポートがあった.
ネットで探して,いくつか目を通してみた.

どこか靴の上から足をかくような気分を免れないのだけれど,
たぶん当事者であっても,いや当事者であればこそ,事件の見え方はさまざまなのだろうけれど,
ぼくのみた記事は,ちょっと浅薄な印象を免れなかった.
浅薄というか,突っ込み不足というか,自死した中学生への同情はあっても,
そこで止まっているように見えた.

まぁ,そんなものだ,と言われそうだった.


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【世界】2022年08月


メディア批評
神保太郎

ウクライナ戦争は4カ月を超え、「戦況」解説と前線兵士らのSNS投稿といった刺激の強い映像が報道を覆う。一方、国会論戦は低調に終わり、参院選では人々の暮らしのはるか頭上で改憲の言葉が行き交う。取材と調査の現場はいまどうなっているのか。

連載 第176回
(1)政治とメディア,足元の危機――『朝日新聞政治部』を読む


(1)政治とメディア,足元の危機――『朝日新聞政治部』を読む

 政治が劣化した果てに政治報道が劣化したのか。あるいは、政治報道が劣化を繰り返したがゆえに、政治も劣化したのか。鶏が先か卵が先かの循環論法のような無力感を誘う空気がこの国を覆っている。かつて辺見庸が幾度となく指摘していた「相乗的劣化」がそこにある。
 岸田内閣の支持率が堅調を保っているという。本当に国民の多くが岸田政権下の政治のありようを支持しているということなのか。いまだに続くコロナ禍への取り組みが奏功しているわけでもなく、「新しい資本主義」などとぶち上げた経済政策が奏功しているわけでもなく、ウクライナ侵攻という歴史的「切断点」とも言える危機に対しても、何ら存在感のある主張を国際政治の場で示したわけでもなく、にもかかわらず国民は何となく今の政治のありように対する有効な異議申し立ても行えないまま、ただただ流れていっているのみなのではないか。このまったりとした閉塞感。六月一五日に閉会した第二〇八通常国会では、何と二六年ぶりに政府提出の計六一のすべての法案が成立した。全法案成立は、戦後の通常国会ではわずか三回という異例の事態なのだ。成立したなかには、経済分野での外敵を想定したかのような「経済安全保障推進法」、侮辱罪に懲役刑を導入し罰則強化をはかった改正刑法、そして、いつのまにか、こどもと家庭が合体した「こども家庭庁」設置法などがあった。活発な論戦が交わされた成果とはおおよそ言い難いこれら重要法案の成立過程をみれば、大政翼賛会とまでは行かぬものの、国会の権能が著しく弱まったことがわかる。
 一方で、憲法改正をめぐる論議は、憲法審査会が頻繁に開催され、ウクライナ・ショックで「安全保障環境が根源的に変わった」との認識の更新が大手を振ってまかり通り、国民投票実施への具体的プロセスにまで論議が進められた。そうしたなかで七月一〇日の参議院選挙を迎える。国会閉会の日、NHKは淡々と報じていた。「憲法をめぐっては、今回の参議院選挙でも、各党が公約に盛り込み、争点の一つになるものとみられ、憲法改正に前向きな勢力が、改正の発議に必要な三分の二の議席を確保するかどうかも焦点となります」。また毎日新聞も「憲法改正に前向きな自民、公明、日本維新の会、国民民主の『改憲四党』が改憲の発議に必要な三分の二の議席を得られるかも焦点」(六月二三日朝刊)と報じた。傍点を付した「前向き」という表現が筆者には気にかかる。

■『朝日新聞政治部』  さて、こんななかで、メディア批評を長年続けてきた立場から実にさまざまなことを考えさせられる本に出会った。鮫島浩氏の『朝日新聞政治部』(講談社)だ。すでに版を重ね多くの読者を得ている。鮫島氏は二〇二一年五月に朝日新聞社を退職した記者だ。朝日に二七年間在籍し、政治部記者としての長い経歴のほか、調査報道に専従する特別報道部のデスクなどを歴任し、二〇一三年には「手抜き除染」の一連の調査報道で新聞協会賞を受賞している朝日の看板記者でもあった。そして福島第一原発事故をめぐるあの「吉田調書」スクープ記事の担当デスクとして、結果的に朝日から「誤報」の責任を問われ、停職処分を受け、その後記者職を解かれた。「吉田調書」事件のまぎれもない当事者の一人である。
 正直、前半部分の政治部記者の経歴を自伝風に記した部分には、辟易した部分が多かった。マスメディアの政治部記者の記す著作には、自分は政治家にこれほどまで「食い込んだ」との自慢話を披渥する類のものが多い。取材対象の懐深くに入り込まなければ真実に迫れない、というのはおそらく的を射ている。だが懐に入ることによって記者としての原点が損なわれる危険性があることも常に自戒しなければならない。
 欧米のジャーナリズムの世界では、アクセス・ジャーナリストという呼ばれ方には、侮蔑の含意がある。ウォーターゲート事件をスクープし続けたワシントンポスト紙の伝説の大記者ボブ・ウッドワードでさえ、同時多発テロ事件以降のブッシュ政権高官に「食い込み」、綿密な取材を重ねて、イラク戦争勃発の内幕を描いた『ブッシュの戦争』(原題 Bush at War,2002)発表後には、戦争を止めようとしないアクセス・ジャーナリストとして激しい批判を浴びた。もっとも鮫島氏自身もそんなことは百も承知の上でこの本を記したのだろう。
 本書のなかに、朝日新聞から苛烈な処分を受ける直前に、妻の前で鮫島氏が思わず泣き出すきわめて私的な場面が描かれている。鮫島氏の妻は「あなたが問われているのは傲慢罪だ」と激しく面罵したという。鮫島氏は記す。「自分の発言力や影響力が大きくなるにつれ、知らず知らずのうちに私たちの原点である『一人一人の読者と向き合うこと』から遠ざかり、朝日新聞という組織を守ること、さらには自分自身の社内での栄達を優先するようになっていたのではないか。私は今からその罪を問われようとしている」。その上で鮫島氏は断じている。「木村(伊量(ただかず))社長が『吉田調書』報道を取り消した二〇一四年九月一一日は『新聞が死んだ日』である。日本の新聞界が権力に屈服した日としてメディア史に刻まれるに違いない」。この本の第六章以下を読み進むうちに、この鮫島氏の言葉の重みが伝わってくる思いがした。それは「吉田調書」報道を「誤報」として取り消した朝日新聞内部で何が起きていたのか、どのような判断が誰によって、どのような力関係のもとでなされたのかを知るいくつもの重要な事実が提示されていると認識したからだ。

■未解決の「吉田調書」問題  あの「吉田調書」報道の背景には、さまざまな要素があった。大新聞社の宿痾(しゅくあ)とでも言える社長の座をめぐる権力抗争が朝日にもある。これはどこの大組織でもみられるパワーゲームだが、朝日の場合も、政治部出身者がその主役をつとめてきたことが多かった。政治の世界での権力抗争顔負けの抗争が、マスメディアの組織のなかでも鏡のように演じられる。ピラミッド構造のなかでそれぞれが小権力を求めて栄達昇進に血道をあげる。その病弊がこの本でも触れられている。
 「吉田調書」入手の大スクープは、二〇一四年五月二〇日付けの朝刊で報じられた。木村社長体制ができあがってからほぼ二年後のことだ。吉田昌郎福島第一原発所長(二〇一三年死去)の政府事故調による聴取内容を記した「吉田調書」(非公開)を経済部・木村英昭記者(初報当時は、特別報道部)が独自に入手した。木村記者と宮崎知己デジタル委員(当時)らは、この調書を精緻に読み解き、事故直後の二〇一一年三月一五日、第一原発の所員の九割にあたる約六五〇人が「吉田氏の待機命令に違反し」、一〇キロ離れた福島第二原発へ撤退していた事実を重大視、この事実を大々的に報じた。記事はすさまじい反響を呼んだ。特報後、木村社長らが狂喜し新聞協会賞に申請したエピソードなどが生々しい。だが、その後、福島第一原発所員らを故意に貶(おとし)めている等の批判が一部からあがった。
 そこへ、長年右派からの攻撃の標的とされていた朝日新聞の従軍慰安婦報道の訂正問題が重なったことが致命的に大きい。いわゆる「吉田証言」は最重要ターゲットとされていた。「吉田調書」スクープの三カ月後に、従軍慰安婦報道に関する検証特集記事が掲載され、右派からは猛然と反発する声があがった。遅きに失した、反省がない、等と。さらにこれに関連して、池上彰氏が二〇一四年八月二九日掲載予定のコラム「池上彰の新聞ななめ読み」(「吉田証言」への朝日の対応が遅いことを批判した内容)について、木村社長がゲラを読んで激怒、掲載が延期されたことが週刊文春によって報じられ、世の中の批判を一気に浴びることになり、朝日は満身創痍の状態となった。
 鮫島氏の結論は、世論と政権からの総攻撃の前に、かつてない窮地に立たされた朝日が「吉田調書」「吉田証言」「池上コラム問題」を三点セットにして「いかにダメージコントロールするか」に方針を急転換し、「吉田調書」報道に関わった自分たちがいわば「人身御供」として差し出された、という内容だ。
 実は筆者自身、この問題の取材に関わってきた。鮫島氏の本であらためて確信したことがある。この問題は全く終わっていない。「吉田調書」「誤報」扱い事件について真実がさらに明らかにされるように強く望む。考えてもみようではないか。「吉田調書」以外の政府事故調による東電幹部らの調書は、事故から一一年たった現在も依然として非公開のままだ。東電旧経営陣の「武藤調書」や「武黒調書」が存在しているにもかかわらず。隠蔽は無責任を拡大する。六月一七日に最高裁第二小法廷が、福島第一原発事故にともなういわゆる生業訴訟で、規制権限を使わずに東電に津波の対策を指示しなかった国の対応は違法ではなく、国に賠償責任はないという判決をくだした。国策民営で推し進められてきた原発事業に「国に責任はない」とまで最高裁がお墨付きを与える事態となった。このことと、「吉田調書」「誤報」扱い事件は決して無関係ではないだろう。真実が明らかになれば、責任の所在はより明確になるからだ。

■ウクライナ戦争と報道の足元  紙幅が限られているなかで、ウクライナ戦争報道に関して触れる。唾棄すべきことに、戦争報道に「飽きた」という空気が随所にみられるのではないか。長期化、泥沼化の様相さえ呈してきたウクライナ侵攻に関する報道は、これからこそが重要なのだが、日本の大手のメディアの一部には、取材経費確保がむずかしい等の理由をあげて現地報道から撤退する向きもみられる。そんななかで、最前線の兵士がスマホで自撮りした映像をオンライン上にアップし、それをマスメディアがそのまま報じているケースさえ散見される。現地取材なしに、刺激の絶対値が強い自撮り提供映像で報道ニュース番組が覆われれば、それは一体、誰のために何のために報じられているのかを考えざるを得ない。
 情報にまつわるテクノロジーの劇的進化によって、野放図な複製、コピペ行為の放置がメディア内部でも蔓延し、言葉自体の価値の変容という根源的問題、ひいては報道に関わる人間の倫理の頽廃をもたらしている。独立系の調査報道集団「Tansa」が調べ上げた、地方創生臨時交付金の途方もない無駄づかい問題は、五月三〇日、国会でも取り上げられ、立憲民主党の蓮舫議員がTansaの名前に言及しながら追及したことから、大手メディアも追いかけたケースだが、Tansaがメディア各社に出典の明示を求めている文章を読み(『土曜メルマガ』)、事態の深刻さを知った。私たちはどこで踏み外したのか。この問題は私たちの足元にまで及んでいる。足元とは、まさに言葉の厳密な意味での足元だ。

*今回は(1)のみでお届けします。



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片山善博 日本を診る(153)広島県安芸高田市長と市議会との対立――そこに地方自治改革のヒントが見える 【世界】2022年08月

2023年01月31日(火)

「地方の時代」がいわれはじめて,すでに半世紀近くたつのだろうか.
そのころだったか,幕藩制復活?を言う論者がいた.

ずいぶん後になって,北欧の「地方分権改革」のレポート……でよいと思うけれど,
「北欧の地方分権改革―福祉国家におけるフリーコミューン実験」(日本評論社 1995)
が出た.おもしろかった.
……というか,たぶん1970~80年代に,相当の議論がなされたのだろうと思う,その成りゆきについてのレポートということだったか.
ただ,ひと言で地方自治体というけれど,国,地域によって,具体的なあり方はいろいろありそうだな,と.
この列島の国の,どの「地方」に行っても同じ制度的枠組みのなかにあるようだけれど,
あちらの国,地域ではちょっと違っているみたいだな.
もちろん枠組みは同じでも,中身まで同じとはいえないのかもしれないけれど.


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【世界】2022年08月

片山善博の「日本を診る」(153)

広島県安芸高田市長と市議会との対立――そこに地方自治改革のヒントが見える


 広島県安芸高田(あきたかた)市における市長と議会の対立の話をしばしば聞く。マスコミの取材を通じてあらましを知らされるだけだが、そこにはわが国の地方自治が現在抱えている課題とその改善のための貴重なヒントが含まれている。
 安芸高田市では、二〇一九年の参議院議員選挙をめぐる大規模買収事件に関連して前市長が辞任し、その後の選挙で当選したのが、石丸伸二市長である。石丸市長は地方議会改革などの政治改革を標榜する。
 市長と市議会との対立に関する主な出来事を拾い出すと、まず就任後初の市議会期間中、議場で居眠りをする議員がいることをツイッターに投稿した。これを踏まえてのことだろうが、市長は市議会全員協議会に呼び出され、そこでは一部の議員から「議会を敵に回すと政策に反対するぞ」との発言があり、それを市長は恫喝(どうかつ)と受け取ったという。
 二〇二一年三月、市長は空席だった二人目の副市長の選任について同意を求める議案を議会に提出したが、議会はこれを否決した。この時を含め、この副市長選任同意議案は都合三回提出され、いずれも否決されている。
 二〇二二年三月に議会は副市長の定数を一人に減らす条例改正を議員立法で成立させた。二人目の副市長の提案を阻止する狙いがあったのだろう。これに市長は反発し、対抗手段として本年六月議会に市議会議員定数を半減させる条例案を議会に提出したが、議会側はあっさり否決した。

■たかが居眠り、されど居眠り
 はじめに議員の居眠りについてである。市長は、議員は市民の代表として議会に臨んでいるのだから、居眠りなどもってのほかだとの考えなのだろう。居眠りをしている議員は市民の負託に応えていない。そのことを市民に知らせる意味もあってツイッターに投稿したのだと思う。
 議場で居眠りをする議員がいるのは、安芸高田市議会に限ったことではない。これをどう捉えるべきか。たしかに居眠り議員がいることは望ましくない。ただ、日本の地方議会の運営方式には居眠り議員を生み出す素地がある。そこでは、議員一人ひとりが市長との間で質疑を交わすことに多くの時間を費やす。質問の多くは、提出されている議案とは直接関係がない。質問者以外の議員は手持ち無沙汰で、あたかも議場の装備品あるいは質問者の引き立て役のような印象を受ける。こんな状態が日がな一日続くなら、居眠り議員が出てもおかしくない。
 ここから地方議会改革のヒントが得られる。アメリカの自治体議会では、議員ごとに質疑を行うのではなく、提出された議案ごとに審議を行うのを通例とする。議案は議員全員が関心を持つべき事項だから、議員が手持ち無沙汰ということにはならない。
 市長が居眠り議員のことをツイッターに投稿したことをどう考えるべきか。筆者は否定的に捉えている。理由の一つは、これをやりだすと泥仕合に陥りかねないからだ。市長が投稿するなら、議員だってする。「今、市長があくびをした」などと十数人の議員が実況中継するようになったら、市民はあきれるほかない。
 二つ目は、居眠りを含めて議場でのことは議場で解決すべきと考えるからだ。市長が答弁している折に「○○議員、居眠りをやめて下さい」と諭せばいい。市長の発言は議事録に残る。これが常道である。
 筆者の鳥取県知事時代の経験を持ち出すと、答弁中にいびきをかいている議員がいて、耳障りだったので答弁をしばし中断した。議場にはいびきの音だけが響き渡り、議員たちの視線は居眠り議員に集まり、苦笑と嘲笑の的となった。この後、居眠りをする議員はめっきり少なくなった。
 三つ目は、ツイッターなどでは、検証を受けない情報が一方的に発信されることによる弊害があるからである。単なる居眠りではなく何らかの疾患が原因の昏睡(こんすい)もあり得る。これは、ツイッターに投稿してあげつらうことではなかろう。でも、一旦発信してしまうと取り返しがつかなくなる。
 これに関連して、今から四〇年以上前のことが思い出される。ある有名女優が新幹線の中で、男が酔いつぶれたように意識をなくし、失禁している姿を目撃した。男の襟に代議士バッジがあったことから、女優はとんでもない「オシッコ議員」だとメディアで暴き、議員は政治生命を失った。
 ところが後日判明したのは、その議員は糖尿病を患っていて、その日は適切な措置を怠っていたことから泥酔のような様相を呈したのであり、酒を飲んで酔いつぶれていたわけではなかった。決して非難されるようなことではなかったのだが、政治家として二度と復権することはなかった。
 ちなみに、この代議士の後を継いだのが当時中小企業庁長官だった岸田文武氏で、岸田文雄総理のお父さんである。もし、女優の「誤報」がなければ、その後の道行きは違っていたはずだから、岸田総理も政治家になっていなかったか、なるにしてももっと遅かったか。感慨深くこのことを思い出す。

■最後は議会の決定に従う
 念のためにもう一つ、市長と市議会との基本的関係について取り上げておく。石丸市長は副市長の選任議案を議会が否決したことが許せなかったようだ。全国公募を経て太鼓判を押せる人物を提示したのに、議会が否定したのはけしからん、ということだろう。
 しかし、副市長人事について議会が最終決定権を持つのは地方自治のルールである。市長の提案を議会が否決したからといって議員を非難するのはお門違いである。市長は、何ごとも根回しなどしないで真剣勝負するとの考えの持ち主のようで、その志やよし。筆者もそれに同感だし、似たやり方を鳥取県知事時代にやっていた。
 ただ、筆者は最終的には議会の判断に従うことを信条としていたから、県議会で否決されたからといって(実際に否決されたことはあった)、県議会議員を批判したりしなかった。良かれと思って議案を出したが、別の見方や考え方もあったのだなと納得していた。
 マスコミ関係者から、もし片山さんが安芸高田市長だったら、副市長の選任問題をどう取り扱われたかと尋ねられた。まず、自分なら副市長候補を公募で選ぶことなどしないだろうと答えたことは脇においておく。その上で、どうしても公募で選びたいのなら、あらかじめその方式自体を議会で議論しておく。地方都市で市役所のナンバー2を全国公募することには議員だけでなく市民の間にも抵抗感があるはずだからだ。
 公募方式について議会の了解が得られたなら、候補者の選定作業に入る際に、「議会の同意がなければ任命には至らない」ということを応募する人たちに明確に伝えておかなければならない。議案が否決されても内定者の立場が著しく悪くならないようにするためである。
 最終的には議会の判断に従う。この原理を前提に、公の場で議員たちをいかに説得するか。世の中には、自分の考えをうまく言語化できない人もいる。議員の中にもいる。その人たちの言いたいことに謙虚に耳を傾ける。こんなことを実践していると、市長と市議会との相互理解も対話も進むのではないか。以上、参考までに記しておいた。

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寺島実郎 脳力のレッスン 近代史におけるロシアと日本の相関――ウクライナ危機とロシアの本質(その3) 【世界】2022年08月

2023年01月31日(火)

メディアから,ウクライナ戦争の報道が聞かれなくなるのは,いつだろう?

そういえば,モンゴルの人たちは,「国」をどんなふうに思い描いていたんだろう.
あるいは,そもそもそんなものは知ることはなく,知ろうともしなかっただろうか.
知らない.

シベリアという広大な辺縁の地を,どんなふうにみていたのか.
おなじように,列島の国も,蝦夷地をどんなふうにみていたのか.

さいきん間宮林蔵の足跡がとりあげられていた.
間宮林蔵は,アムール川を遡って……と聞いたこともあったと思い出す.
あるいは,松前藩は,他の藩とはずいぶん違っていたとか,お米のとれない地を領地にしていたわけだから……とか.

大陸側から列島を見た地図があったけれど,さいしょ見たとき,ちょっと不思議な感じがあった.
そういえば,木下藤吉郎さんは,朝鮮半島に戦争をしけて,
そのあと,半島から,日本海に沿って,ひょっとすると蝦夷地の方まで進軍しようとしていたのではないか,なんて話もあったな,と思い出す.
意外と広い視野を持っていた?ともいえそうだけれど.


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【世界】2022年08月


連載244
脳力のレッスン 特別編
寺島実郎

近代史におけるロシアと日本の相関――ウクライナ危機とロシアの本質(その3)


 江戸期の約二五〇年間、日本とロシアの関係は不思議なほど密度の濃いものであった。本連載でも「世界を見た漂流民の衝撃――韃靼漂流記から環海異聞」(二〇一五年七月号)で書いたが、鎖国といわれる状況下の日本で、日本人の漁民や船乗りが漂流して海外に漂着した事例は、確認できるものだけで三三九件、そのうちロシア関連(樺太・千島、カムチャッカ、アリューシャン、沿海州)が二一件(『日本漂流漂着史料』荒川秀俊編、気象研究所監修、一九六二年)で、驚くべきことに四人のロシア皇帝が日本人漂流民を引見している。
一七〇二年に大阪出身の漂流民、伝兵衛がピョートル大帝に謁見、その後サンクトペテルブルクに日本語学校が設立されることになった。次に、一七三四年には薩摩の漂流民、ゴンザとソーザが女帝アンナに謁見、ゴンザは世界初の日露辞典を編纂することになる。一七五四年にイルクーツクに移転するまで、漂流民がサンクトペテルブルクの日本語学校を支え、ロシアに骨を埋めた。さらに、一七八三年には伊勢の漂流民、大黒屋光太夫がアリューシャン列島に漂着、エカテリーナ二世に謁見し、帰国を許されて一七九二年のラックスマンの根室来航とともに帰国している。そして一八〇三年、奥州の若宮丸の漂流民・津太夫他四人がアレクサンドル一世に謁見し、日本人初の地球一周を体験して翌一八〇四年にレザノフによって長崎に送り届けられている。通商を求めてのラックスマン、レザノブの来航は、ペリー浦賀来航の半世紀前であり、日本近代史の扉は、実はロシアの「北の黒船」が揺さぶったのである。
 大航海時代の波に乗って、ポルトガル、スペイン、そしてオランダが一六世紀~一七世紀にかけて日本に接近してきたのとはまったく異なる文脈で、ピョートル大帝以来のロマノフ王朝のアジアへの関心と野心が、一八世紀末になって日本の扉を叩いたのである。

■ロシア近代史の苦闘――「大改革」の時代
 一八五三年、米国のペリー提督が浦賀に来航した年、ロシアではクリミア戦争が勃発した。中東一神教の聖地エルサレムの管理権問題を端緒に、ロシアがオスマン帝国領内に侵入した。オスマン帝国傘下にあったパレスチナにおけるキリスト教の聖地管理権はギリシア正教に認められていたが、カトリックのローマ教皇を支援するフランスのナポレオン三世の圧力で、正教系の管理権が失われかけたことが開戦理由であったが、ニコライ一世の下でのロシアの南下政策が背景にあった。翌一八五四年にはオスマン帝国を支援する形で英国とフランスがロシアに宣戦、黒海沿岸を戦場に戦闘は続き、一八五六年のパリ条約での「ロシアの敗北」という形で決着した。とくに、五万人のロシア軍が立て籠もるクリミアのセヴァストポリ要塞を六万人の英・仏・土の連合軍が三四九日間包囲し、陥落(一八五五年九月)させた攻防戦は伝説として語り継がれている。今日でもロシア人がクリミアにこだわる伏線がここにある。
 クリミア戦争の敗戦によってロマノフ王朝は「ロシアの後進性」を思い知らされた。敗北の失意の中で急死したニコライ一世を継いだアレクサンドル二世による「大改革の時代」を迎えるのである。大改革の当初の目標が農奴解放と鉄道建設であった。
 一八六一年、「農奴解放令」が出された。一八六〇年代央の時点で、ロシアにおいては綿織物や製糖などの分野で一定の工業化も進み始めてはいたが、全人口の約八割が農民で、その約半分が農奴(領主地農民)、その他「国有地農民」「皇室御料地農民」なども存在していたが、総じて農奴・農民の立場は隷属的で悲惨なものであった。農奴解放令もあくまで皇帝主導の上からの改革であり、貴族・領主層の権益に配慮した改革はかえって領主と農民の対立を深め、「領主殺し」など、社会不安の震源となり始めた。
 結局、農奴解放も民主的改革には至らず、資本主義的産業化の萌芽の中で西欧に触発されたインテリゲンチャ青年による「ヴィ・ナロード」(人民のなかへ)運動が始まり、社会主義革命への導線になっていった。一八七〇年代になると、ヴィ・ナロード運動は、資本主義を飛び越えて一気に社会主義革命へと進む「革命的ナロードニキ運動」(武力闘争化)へと変質し、一八八一年三月には、「解放帝」といわれたアレクサンドル二世も、爆弾テロで暗殺され、「皇帝殺し」が現実化してしまった。
 ロシアの鉄道建設については、モスクワ・サンクトペテルブルク間の六五〇キロが一八五一年に開通し、一八六五年に三五〇〇キロだった鉄道総距離が一八七四年に一・八二万キロと、驚くべき勢いで敷設が進められたのである。
 一八六七年、日本が明治維新を迎え、欧米列強に触発され、必死に近代国家への体制造りと格闘していた時代を巨視的視界で捉えるならば、まさにロシアの「大改革」と並走していたことが分かる。興味深い事実だが、日本人としてこの時代のロシアを目撃したのが「岩倉使節団」であった。一八七一年(明治四年)一一月に横浜を出発した岩倉使節団は、米欧を視察した後、一八七三年三月にロシアのサンクトペテルブルクに到着、四月三日にアレクサンドル二世に謁見している。大久保利通はベルリンから先行帰国していたが、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文は「大改革」を指揮していたロシア皇帝と面談したのである。久米邦武が残した『米欧回覧実記』(六一章~六五章)は驚くほど的確、かつ鋭くロシアの本質を見抜き、次のように記す。
 「其政は専制の下に圧せられ、其化は古教の内に迷ひ、其富は豪族の手に収められ、人民一般の開化は、猶半開の地位を逃れず」
 久米邦武はロシアの政治体制がロシア正教による政教一致の絶対君主としての皇帝を戴き、「法教はまったく器具に弄して、此仮面を以て愚民を役使する」体制になっていると捉えている。米国から欧州列強を見てきた日本の若き指導者たちは、「欧州で最も不開なる国」としてロシアの後進性に失望を抱いたようで、それはラックスマン(一七九二年根室来航)、レザノブ(一八〇四年長崎来航)と「北の黒船」によって揺さぶられてきた幕末日本にとって、最も現実的な脅威と思ってきたロシアが「欧州の片田舎、辺境」にすぎないことへの心理的揺らぎだったといえる。
 日本の「明治近代化」も動き始めた。新政府が幕府から引き継いだ横須賀海軍工廠が日本最初の造船所として稼働したのが一八六八年で、一八七二年(明治五年)にはフランスの協力で富岡製糸工場が稼働、同年九月には東京新橋-横浜間の鉄道開通(一八八九年に東海道線が全線開通)と「文明開化」の槌音が響き始めた。つまり、日露両国は、同じタイミングで列強模倣の「富国強兵」「殖産興業」、そして対外拡張路線を歩んだのである。

■日露近代史の相関――対照的で深層底流では共振
 一八六〇年(万延元年)、遣米使節団と威臨丸が太平洋を渡った年、ロシアはウラジオストクの建設を開始した。この街の名はロシア語で「ウラジ・ヴォストーク」(東方を征服せよ)を意味し、ロマノフ王朝の極東への野心を剥き出しにしているといえる。クリミア戦争での敗北により、南下政策は挫折、アレクサンドル二世は「東進」に転じた。一八五八年、アイグン条約で中国(清朝)にアムール河以北を割譲させ、一八六〇年には北京条約で沿海州を獲得、極東開発に踏み込み始めたのである。
 人口過疎の極東開発に向けて、ロシア・ウクライナからの農業開拓移民を投入し始めた。一九世紀末までに九万人が極東ロシアへ移住したとされるが、背景には一八六一年の農奴解放令があった。解放された農奴が新天地を求め、極東に向かったとされるが、極東への入植者には兵役の免除、土地の二〇年間無料貸与(開墾した土地の買い受けも可能)という特典が付与されたという。とくに、国境警備を兼ねるコサックの移住が促進され、アムール州と沿海州で一六万平方キロの国境沿いの土地がコサックに割り当てられた。一八八三年以降はオデッサとウラジオストクを結ぶ義勇艦船が移送することになり、黒海からインド洋・太平洋・日本海と海路での入植が主流となる(左近幸村『海のロシア史――ユーラシア帝国の海運と世界経済』名古屋大学出版会、二〇二〇年)。対岸の北海道への「屯田兵」入植と相似形だったといえる。
 極東ロシアにはウクライナ出身者が集積した。現在、極東ロシアの人口は約六五〇万人といわれるが、約半数近くが先祖はウクライナ人だという。農業開拓移民としての移住に加え、ロシア革命時、および第二次大戦期のヒトラーのロシア侵攻(大祖国戦争)に際し、モスクワに抗った多くのウクライナ人が「シベリア送り」になったためだという。極東ロシアのウクライナ系の人が「人口の浸透圧」で、樺太、北海道、満州に越境し、「白系ロシア人」として生きた。昭和の名横綱・大鵬の父親もウクライナ人であった。
 ウクライナと日本の宿縁は続く。日露戦争(一九〇四~〇五年)は、一九世紀の後半に日露双方が進めた「大改革」と「富国強兵」が朝鮮と満州を舞台に激突したといえる。日清戦争に勝利した日本に対して、ロシアはドイツ、フランスとともに「三国干渉」を行ない、遼東半島を返還させ、見返りに清国から東清鉄道の敷設権、旅順、大連などを手に入れ、極東進出の意図を露わにし始めた。
 一八九一年に着工したシベリア鉄道は一九〇四年に完成するが、その完成以前の開戦を有利と日本は判断した。日露戦争で日本人はロシア人と戦ったと思っていたが、実は、極東ロシア軍には多くのウクライナ人が投入されていた。例えば、旅順要塞の攻防戦で最前線を指揮していたコンドラチェンコ少将、旅順港を拠点としたロシア海軍太平洋艦隊のマカロフ提督、「坂の上の雲」の秋山好古(よしふる)将軍と対峙したコサック騎兵を率いたミシチェンコ将軍は皆ウクライナ人であった。
 日露戦争後、二〇世紀の世界史の中で、ロシアと日本は対照的な進路を辿る。ロシアは「社会主義革命」の道へと踏み込み、ソ連邦下の七〇年を過ごし、ソ連崩壊(一九九一年)を迎える。日本は新参の帝国主義国家としての性格を強め、「親亜」を「侵亜」に反転させて、「大東亜共栄圏」の夢を追い、敗戦を迎える。どちらも、近代史における挫折を体験するのである。ここでは、プーチンのロシアの行動にも関わる「ロシア革命」の評価について言及しておきたい。
 革命の指導者レーニン(一八七〇~一九二四年)は、一九一七年の二月革命時にドイツ軍の支援を受けて「封印列車」で帰国するまで、ミュンヘン、ジュネーブ、ロンドン、パリと二〇年近くを西欧社会で過ごした人物であり、ユダヤ人思想家マルクスに傾倒した職業革命家で、「ロシア主義者」からすれば、プーチンの常套句でもある「外国の回し者」となる。なぜ、プーチンがロシア革命後の社会主義に共感を示さず、「正教大国ロシア」を語るのかを考察する必要がある。プーチンのような「ロシア主義」(ロシア正教に支えられたロシア民族主義)の視界からは、ロシア革命も国際シオニズムに立つユダヤ人主導の革命に見えるのである。一九二二年、ソ連成立の年に英国で出版されたユダヤ研究の定番本とされるヒレア・べロックの“The Jews”(邦訳『ユダヤ人』祥伝社、二〇一六年)は、ロシア革命が「ユダヤ的性格」をもっていることを分析している。つまり、一〇〇年前の英国の知識階級の間では、ロシア革命は「ユダヤ人革命」と捉えられていた面があり、未熟な「産業資本主義」段階にあったロシアにおいて、資本家を打倒する暴力革命が成功したのも、革命運動の中核となってユダヤ人が駆り立てたためとする認識が提示されているのである。
 ロシア革命の主役の一人、トロツキー(一八七九~一九四〇年)はウクライナのオデッサ出身のユダヤ人であった。亡命先のロンドンでレーニンと出会い、革命後は軍事委員として赤軍の創設に尽力した。一九二九年にスターリンと対立して追放され、メキシコで暗殺された。ソビエトとは「会議」を意味するが、「人民が主体的に意思決定に参画する仕組み」として社会主義革命の基本的装置とされ、一九一八年に農民ソビエトと労兵ソビエトの統合がなされたが、こうした志向は国際シオニズム運動の思想と親和性をもつものであった。国際シオニズム宿願のカナンの地におけるイスラエル建国(一九四八年)に際し、国造りの基本とされた「キブツ社会主義(集団農業共同体)」と共鳴する形で、ソ連がいち早くイスラエルを国家として承認したのも、国際シオニズムと社会主義の相関を示すものであった。
 プーチン的世界観、大ロシア主義から見える「ロシア革命」の時代は、こうした脈絡の中に置かれるものであり、プーチンがウクライナ侵攻後、ことさらに「愛国と犠牲」を美化する背景には「西欧化」と「シオニズム」(ユダヤとその背後にある米国)を忌避する心理があることは間違いない。
 一方、日本の二〇世紀以降の歴史は屈折している。二〇世紀の初頭、日露戦争から第一次世界大戦後の一九二三年まで、日本は英国との日英同盟を基軸に「戦争国」としての体験を重ね、日英同盟解消後は、列強との多国間ゲームに翻弄されて消耗し、満州国問題で孤立して真珠湾への道に迷い込んでいく。敗戦後は一九五一年から現在まで日米同盟を基軸とする七〇年間を生きる。日本は二〇世紀以降の一二〇年間のうち、実に九〇年間をアングロサクソンの国との二国間同盟で生きたアジアの国という特異な性格を持つ国なのである。間に挟まった約三〇年間は、思い出したくもない戦争の時代であり、「アングロサクソン同盟は成功体験だった」という固定観念がしみ込んでいるかにもみえる。だが、「G7の一翼を占めるアジアの大国」を自負しても、「名誉白人的立ち位置」に自己満足し、「米国に過剰依存、過剰同調する国」として、アジアから敬愛されない国という危うさを日本は露呈し始めている。
 不思議な現実だが、「米国との同盟強化」を声高に語る人が、戦争責任者を合祀した靖国神社を敬い、戦前の「国体」に郷愁を抱き続け、いつ偏狭なナショナリズムに回帰するかもしれない妖しさを内包しており、アジアの識者は首を傾げながら見つめている。日本の国際的存在感の前提であった経済力を直視すれば、世界GDPに占める日本の比重は、ピーク時(一九九四年)一八%であったが、昨年は五%にまで落ちこんだ。この「埋没する日本」という現実を冷静に認識し、未来を構想する時、重要なのはアジアとの関係である。通商国家日本にとって、昨年の貿易総額に占める米国との比重は一四%、アジアとの貿易比重は五三%であった。一〇年後、このアジアとの貿易比重は間違いなく六割を超えているであろう。アジア・ダイナミズムを如何に制御し引き付けるのか、これが重要なテーマであり、日米同盟だけを頼りに日本の安定を図ることはできない。「西欧化に成功したアジアの国」のように見えて、日本の国際関係の基盤は実は硬直的であり不安定である。
 論じてきたごとく、日露は対照的な近代史を歩んだように見える。だが、踏み込んで深層底流を見つめるならば、「西欧」との微妙な断層を抱え込み、閉塞感に苛まれると痙攣するという意味で、共通の歴史意識を内在させていることに気付く。ともに、西欧にあこがれ、影響され、西欧化を試みるが、結局、西欧の正式のメンバーになれず、西欧との関係が思うに任せぬ状況になると、逆上して民族主義に回帰する局面を迎えかねないのである。西欧のようで西欧でなく、アジアのようでアジアでない危うさが日露近代史に共通する要素なのかもしれない。

 
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