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新刊 地下にひそむ搾取の構造――イ・ヘミ『搾取都市,ソウル』(筑摩書房 2022年3月) 【世界】2022年09月

2023年04月18日(火)

もうずいぶん前のことになってしまうけれど,
若いスタッフが半島の国に旅行に行くという,
で,どんなふうに行くの?
週末,深夜の飛行機便でいって,深夜の飛行機便で帰ってくる,
という.
いや,元気だな,と思い,
半島の国が,ほんとうはとっても近い国なんだな,と思い返していた.

以前,半島の国々の歴史を記した本は,とても少なかったように思う.
いまはどうなんだろう.

朝鮮史
旗田 巍
岩波全書 1951年

だったか.本棚のどこかに眠っているはずだけれど,
いつかちゃんと読まなくては,と思いながら,
しかし時代はどんどん過ぎていった.
過ぎていったけれど,近くて遠い国は,どれだけ近くなってきたのだろうと思う.

植民地の半島の国から,列島の帝国大学に進学し,高文試験に合格して官僚となった人の自伝を読んでいた.とても興味深かった.
そう,列島の国は,半島を植民地として支配していたのだった.
まぁ,西欧列強が,南アメリカやアフリカ,アジアにどのように対していたか,
を思えば,列島の国はなにをしていたか,とは思う.

日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想
任 文桓
ちくま文庫 2015年

その半島の国のことを,一体どれほど知っているというのか,と自問するばかり.



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【世界】2022年09月

新刊 地下にひそむ搾取の構造――イ・ヘミ『搾取都市,ソウル』

井上睦
いのうえ・まこと 北海学園大学法学部政治学科准教授。比較政治経済学,新自由主義下における福祉政治。共著に『新 世界の社会福祉 第7巻 東アジア』(旬報社)『パワーから読み解くグローバル・ガバナンス論』(有斐閣)など。

『搾取都市,ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』
イ・ヘミ著,伊東順子訳
筑摩書房 2022年3月,1870円


 格差や貧困は、今日の韓国社会においてメディアが最も好む題材の一つとなっている。しかし、格差や貧困に苦しむ人々が映し出される一方で、その根底にある搾取の構造については見過ごされることが少なくない。本書は二〇一九年に韓国日報に掲載された、住宅と貧困をめぐる特集記事のサイドストーリーである。最底辺の住宅街といわれるチョッパン街の取材を通して、貧困を生み出し固定化する重層的な搾取の構造を描き出す。
 韓国の貧困層が生活する住宅以外の場所「地屋考(地下室・屋上部屋・考試院)」。こう聞いて、二〇一九年にカンヌ国際映画祭でパルムドールを、二〇二〇年にはアカデミー作品賞を受賞した映画『パラサイト半地下の家族』を思い出す読者も少なくないだろう。地屋考に生活する人は、二〇〇五年の五万世帯から二〇一五年には三九万世帯へと増加した。この地屋考の下とされ、全国で七万余りの世帯が生活しているとされるのがチョッパンである。
 韓国の「最低住居基準」一四平方メートルに対し、平均三平方メートル。法的・政策的な定義がなく、宿泊業にも賃貸業にも当てはまらないために、行政サービスからも取り残される存在だ。チョッパン街の住民は、真冬でも風よけにビニールを張り、暖房がない部屋で震えながら過ごす。追い出されることを恐れ、雨漏りしても修理を頼むことも難しい。その劣悪な住環境から、チョッパンは人びとの暮らしがどれだけ悲惨かを露わにする「貧困ポルノ」の素材としても使われてきた。
 他方、その根底にあるにもかかわらず、貧困の語りから抜け落ちていくものがある。チョッパン街の住民は、どんないきさつでチョッパンに暮らすことになり、なぜ、働いてもそこから抜け出せないのか。この問いを出発点に、著者のイ・ヘミ氏は、土地・建物の登記簿謄本から実際の所有者に関する情報を調べ上げ、不動産仲介業者や住民、中間管理人の証言と突き合わせながら、何層にも重なる搾取の構造を裏づけていく。
 一坪当たり普通のマンションの五倍にもなる家賃を支払いながら、住民の多くは自分の住む家の実際の所有者を知らない。他方、無許可のチョッパンは税金を納める必要がない。建物ごとの中間管理人は、所有者への送金や公共料金の支払いを差し引いた「闇の現金」をポケットに入れる。さらに所有者の大多数は高級住宅街に住む資産家であり、経営は何代にもわたって引き継がれている。所有者にとってチョッパンへの投資は、たとえ「売り抜け」ができなくても家賃収入が確実な安全パイである。再開発が得か、チョッパンとして維持する方が得か。ホームレスと住居の境界線上にある最底辺住宅街で、住民の生は搾取の連鎖に呑み込まれていく。
 印象深いのは、チョッパン街の住民との出会いを通して、記者である著者の視点が変わっていき、自身の体験が語られるに至る過程だ。幼いころから貧困と闘ってきた彼女は、記者という職業に就いたことが「貧困からの脱出」という成功神話に回収されることを避けつつも、自らの貧困体験を必死に隠してきた。こうした語りは、貧しさを「恥」として包み隠さなければいけない社会そのものに疑問を投げかける。本書のまなざしの起点は貧困の側にある。貧困を「見物」し消費するのではなく、貧困の側から社会の歪みが照射される。
 本書の記事がきっかけとなり、韓国では二〇一九年一〇月、「児童住居権保障等住居支援強化対策」が発表され、チョッパン街住民を含む低所得層への住宅支援事業が展開されるようになった。他方、世論の理解を得るためとして「児童支援」が前面化されたために、貧困の根底にある問題は覆い隠された。「子どもの貧困」は「自己責任」で解決されるべき大人の貧困とは異なるものとして、また若い世代の不安定な状況は「世代間格差」によるものとしてフレーミングされる。ここでは、貧困の連鎖も、それを生み出す社会経済構造も不可視化される。貧困や格差をめぐる言説は、そのまなざしの在りかによって、ときとして社会の歪みを覆い隠し、人びとを分断しさえするのだ。
 本書は、高齢者が多く住むチョッパン、学生街の新チョッパンという二部構成を通じて、こうした言説に再考を迫る。本書が問うのは、貧困を再生産する搾取の構造だけでなく、「貧困対策」の名の下にそれを容認する我々の社会全体でもある。


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宗教が政治を支えるとき(上)――ウクライナと戦後日本 島薗進×寺島実郎 【世界】2022年09月

2023年04月04日(火)

小さな島,島といってもずいぶん前に瀬が埋め立てられて本土と地続きになっていたけれど,その小さな教会に祖父母に連れられて行った.
祖父母は毎朝お祈りを献げていたし,
その間,小さな子もじっと聞いていなければならず,区切りの所で,アーメンとかいっしょに唱えていたかな.
まぁ,夏休みとか冬休み,束の間のおつとめだったろうか.

それが仏さんを祀る寺だったらどうだったろうか,なんて思ったこともあったか.
しかし,ずっと身近に宗教の匂いはなかったようにおもう.
お葬式の時ぐらいか.
それも圧倒的に仏様ばかり,神様を見ることは稀だったか.

なんだか他愛もないことばかり,
ではあるけれど,気にはなる,ちょっと.

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【世界】2022年09月


宗教が政治を支えるとき(上)
ウクライナと戦後日本

対談 島薗進 × 寺島実郎

てらしま・じつろう 一九四七年生。(一財)日本総合研究所会長、多摩大学学長、(一社)寺島文庫代表理事。著書に『人間と宗教』、『ひとはなぜ戦争をするのか』(いずれも岩波書店)などがある。

しまぞの・すすむ 一九四八年生。宗教学者。東京大学名誉教授、上智大学グリーフケア研究所所員、大正大学客員教授。著書に『教養としての神道』(東洋経済新報社)、『新宗教を問う』(ちくま新書)などがある。



■「日本人の心の基軸」を見つめて

寺島 島薗さんは最もお会いして話を聞きたかった方です。われわれは同世代で、団塊の世代と呼ばれる戦後日本人の先頭世代として、きわめて対照的な世界を生きてきました。私自身は日本資本主義の縮図とも言える総合商社で働き、その会社が抱える課題を背負って、一〇〇力国以上の国を動いてきました。私は全共闘運動が吹き荒れる中、早稲田大学に通っていましたが、島薗さんも東大全共闘を同時代として体験されています。その後政治の季節が後退して、日本は極端な経済の季節に入り、八〇年代末のバブルの時代まで、戦後復興期から高度成長期を走ります。この時代を企業人として生きた人たちの心の基軸は、あえて言えば、松下幸之助さんが掲げたPHP、Peace and Happiness through Prosperityだったと思います。とにかくProsperityさえつくれば、Peace and Happinessはついて来るという、言い換えれば、宗教なき時代を生きたともいえます。
 ところが世界を動いてみて、強く感じた違和感や衝撃は、宗教の熱量にぶつかったことでした。いわゆる先進国であっても、日曜日に必ず教会に行くという人たちと相対し、特に深く関わることになった中東では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とつながる中東一神教の本質とは一体何なのかという考察なくしては、本当の意味でのビジネスにならないのです。相手が根源的に抱いている価値観や宗教観を、ある程度は理解できないと、課題は解決できないことを実感し始めました。
 振り返って日本を思うと、まさに経済市場主義の時代を走っていることをつくづく思い知らされました。次第に私は、鈴木大拙のように、世界に向けて東洋的価値や日本の思想の軸とは何かを発信した人に関心を持つようになり、そこから日本人の精神的基軸とは何かを問い返す問題意識が芽生えてきました。フィールドワークと文献研究の中で少しずつ、薄紙をはぐように関心を深めてきたのです。
 そこで、私は島薗さんという人を意識するようになりました。戦後日本が目隠しをしてきた、日本近代における宗教史、精神史に、本気で真面目に立ち向かっている同世代の人間がいるということに衝撃を受けたのです。
 私がアメリカから戻ってきたのは、五〇歳を目の前にした時期で、そこから徐々にアカデミズムに踏み込み、政治社会学から国際政治経済学、経営学を深めてきたつもりです。そこから戦後なる日本を凝視して、来し方行く末を考えてみると、産業化を成功させるために、大都市圏に人口と産業を集積させて、東京首都圏を取り巻くベルトである国道16号線沿いに、ベッドタウンとして、団地、ニュータウン、マンション群を集めてきた、その同世代の人間たちが高齢者の中核になってきている状況に思い至ります。
 私が尊敬し、影響も受けた、白血病の骨髄移植の技術を確立した浅野茂隆先生という方がいます。一昨年に亡くなられましたが、東京大学医科学研究所先端医療研究センター長を務めた後、まさに国道16号線沿いの病院の面倒を見ていた彼に聞いたことですが、宗教心のない人間には死生観がない、そして死生観のない人間が末期がんになると、自分を制御できなくなり、医療の現場で看護師や医師に絡んだり、暴力的になったりして、「臨床宗教師」という人が必要になってきたというのです。
 島薗さんが現在力を注がれていることの一つにグリーフケアがあります。悲嘆にくれる出来事が起こったときのケアの在り方が、時代の大きなテーマになりつつあります。私は「レジリエンス」という言葉を使っていますが、心の耐久力や回復力が求められています。コロナ禍が九〇〇日に差し掛かり、新型コロナウイルス感染症で死んだ人が三万人超、一方その間の自殺者は五万人を超したというのが日本の置かれている現実です。

島薗 いま伺った寺島さんの問題意識が凝縮された著書『人間と宗教あるいは日本人の心の基軸』の書評を書かせていただきました。共鳴するところが非常に多かったです。
 特に「日本人の心の基軸」は、私自身の問題意識として、若いときに出会ったものなのです。寺島さんが五〇歳を目前にして日本に帰ってきたことに触れられましたが、私の父が亡くなったのが私が四八歳の頃で、自分にもそのような人生の時期の一回りがあると思います。
 そもそも私が宗教に向かったのはそのずっと前、二〇歳の頃です。父が医師だったので、もともとは医学部志望で、理科三類の医学部進学課程に入りました。「東大闘争」あるいは「東大紛争」と言うべきか、これは医学部から始まりました。教授たちに暴力的な行為をしたとして医学部の学生を処分したところ、実は処分された学生は九州にいたというアリバイがあったということがきっかけです。その時私は、おじである前の医学部長の家に下宿をしていました。
 私の名前は「進」といいますが、お話に出た東京大学医科学研究所の前身は大日本私立衛生会付属伝染病研究所で、そこの所長を務めた母方の祖父が付けてくれた名前です。「進む」「進歩」、これは戦後の日本にとっては無条件の前提です。日本は覚悟が足りなかった、欧米諸国に負けないように科学を尊び、進歩しなくてはいけない、昭和天皇もそのようなことを言ったと思います。
 寺島さんも体験された政治の季節、これは一方にベトナム戦争への反対があり、他方には大学の中の処分問題のような、権威主義に対する反発がもとになって起こりました。しかしあえなくついえて、学生同士の内部ゲバルトやテロリズムに向かううちに政治の季節が終わります。
 世界的にも米国の公民権運動やベトナム戦争反対運動、フランスの五月革命やチェコのプラハの春など、若者が積極的に関わって変革を目指す動きがありました。しかし運動の挫折の中で自らを顧みると、自分の中には何もありません。えらそうに変革などと口にしていますが、自分の中の心の基軸は何なのかという問題に行き当たりました。医学部進学課程に入ったけれど、親が医師だから自分も医師になるというだけのことではないかと、自分で選んだ気がしませんでした。
 そして、自分を問い直そうとすると、迷える羊のような青年は法学部や経済学部には行かず、文学部に惹かれがちなのですね。文学部は、そのような道に迷った人を受け入れてくれる場でした。
 政治の季節の後は、おっしゃるように経済の季節であると同時に、宗教の季節でもあります。当時、多くの人々が宗教に引き寄せられました。そこにあったのは、進歩や近代化とは違う“何か”への思いです。文化人類学や柳田國男、折口信夫はとても人気がありました。
 私自身も、文学部宗教学科に移って受けたのが「柳田國男と折口信夫」と題するゼミナールで、修士論文は折口について書きました。折口が求めたのは、まさに日本人の心の基軸でした。近代化していく日本が忘れてきたと思われる大事な何ものかを、自分なりに求めようとしました。
 また、そうしたなかで同時にロシア文学の影響を受けていました。トルストイをはじめ、当時とても広く読まれたのはドストエフスキーやソルジェニーツィンです。ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』は、強制収容所の生活を淡々と描きながら、収容所体制を批判し、ソビエト連邦の雪解けを導いたような面がありますが、そこで描かれているのは、「普通の人」の生き方です。民俗学者の折口信夫や柳田國男のいう「常民」、コモンピープルです。そこへ還っていかなければならない、西洋から学んだ知識、借り物の学問や哲学や文芸などでは心の基軸にならないのだという思いがあり、新宗教研究に向かったのです。
 実は新宗教が本当に躍進したのは、創価学会でも立正佼成会でも一九五〇~六〇年代なんですね。七〇年代以降は現状維持か下降気味で、勢いのいいものが出てきたと思うと、霊感商法で多くの被害者を生んだ危うい統一教会や、攻撃的なオウム真理教や幸福の科学でした。
 そのような宗教が一方にあり、他方、世界では寺島さんが向き合ったイラン革命が起こり、アメリカには後のトランプ大統領の支持基盤につながる宗教右派が目立つようになり、パレスチナをめぐる中東での宗教対立にもつながってきます。とりわけ八〇年代以降は、国内でも霊感商法など宗教のマイナス面が目立つようになってきました。こうした戦後の流れの中で、我々は心の基軸をどのように考えたらいいのか。一つの参照項として日本の戦前を考えてみると、多くの人が国家神道と天皇崇敬に一致して束ねられていたわけです。

■文化力としての宗教

寺島 島薗さんが中心になって、二〇二〇年に『核廃絶――諸宗教と文明の対話』(上智学院カトリック・イエズス会センター、島薗進編、岩波書店)という本を出されていますね。二〇一九年五月、上智大学で行われたシンポジウムをまとめたものですが、宗教を超えて多様な問題意識の研究者や宗教者が一堂に会して、真の平和を実現するために宗教がどのような役割を果たすべきなのかを語り合っています。祈りや自己省察や協同の意思が響き合いながら、世界の核廃絶に向けた問題意識を確認した、非常に興味深い内容です。
 実は、シンポジウムの二年前という、ほぼ同じタイミングで、私は岩波書店から『ひとはなぜ戦争をするのか 脳力のレッスンⅤ』(岩波書店、二〇一七年)という本を出版しました。これは二〇年にわたり『世界』に連載し続けている『脳力のレッスン』の五番目の本になりますが、ここで語ろうとしたことは、まさにタイトルに集約されています。一九三三年一月、ヒトラー内閣が発足しますが、その直前の三二年、国際連盟がアインシュタインに、今の文明においてもっとも重要だと思われる事柄について、いちばん意見を聞きたい相手に問いかける往復書簡をしてほしいと依頼しました。アインシュタインが選んだ相手は心理学者のフロイト、テーマは戦争でした。この二人の往復書簡が書籍としてまとめられていて、タイトルは『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社文庫、二○一六年)です。私の本はそれを現代人として受け止めて、自分なりの考えを展開したものです。
 「人間を戦争から解放することはできるか」というアインシュタインの問いかけに、フロイトはまずこう答えています。エロス、つまり愛と攻撃・破壊という二つの欲動を人間は持っている、それはどちらも人間にとって不可欠であり、攻撃性を取り除くことはできない、と。
 そしてフロイトは、とても気になる言葉を発します。「文化」の力です。戦争への拒否感は、単に知性や感情レベルでのものではなく、「体と心の奥底」からわき上がる人間の文化的存在そのものから発せられるのであり、文化の発展が知性を刺激して、知性が暴力(攻撃)や熱狂(エロス)の欲動をコントロールするだろうというのです。
 そうした意味合いから考えると、人間の意識が生み出した究極の文化力は宗教ではないでしょうか。近代合理主義においても、人間の心の中にある意識が行動を制御するという点で重要であり、その意識を生成する上で大きな意味を持っているのが宗教ではないか。アインシュタインとフロイトの、一見古びた往復書簡が、いまだに究極的なテーマを背負っていると感じて紹介したのが私の本でした。
 それから五年、二月にロシアがウクライナに侵攻しました。なぜ二一世紀の現代社会においてまだこのような事態が起こるのか、根源的な疑問を持ち続けています。

島薗 実は医学部に行くのをやめて、迷える羊として入った文学部宗教学科での卒業論文のテーマが「フロイトと宗教」でした。父も精神科医だったので、もともと精神科へ行きたかったということもあります。当時はフロイト派精神医学の土居健郎先生が医学部の保健学科にいらっしゃって、少し指導していただきました。精神分析の創始者フロイトは非常にペシミストで、人間の中には隠れた暴力性があり、愛の裏には必ず憎しみがある、それを抑え、父親殺しや兄弟闘争を避けるところから宗教が出てきたという説を唱えてもいます。しかし宗教が暴力を抑えることができるかというとそうではなく、それに代わるものとして精神分析があり、自分たちの理論こそが新たな暴力抑制装置だというのがフロイトの考えでした。
 これは宗教の時代の後の科学主義に近いように見えますが、通常の科学では足りない「無意識」を真剣に受け止める精神分析という科学は、これまでの科学を超えた、新しい宗教性をはらむという側面もあるのではないかというのが土居先生の考えで、私はとても共鳴しました。
 実証主義というか、反証可能性を軸とする科学的な方法だけでは人間の中の暗い部分、あるいは文化や心の基軸に当たるものを正面から受け止めることができない。それでは伝統に返るという道があるだろうか。フロイトはノーという考えですが、異なる考え方もあります。ロシアには一九世紀以来、西欧派とスラブ派という対立軸があり、ソルジェニーツィンはロシア正教による覚醒と団結をロシア人に提起したし、日本にも繰り返し同様の運動が起こってきました。プーチンにもそのような考えがあると思います。
 しかし、伝統に回帰するだけでは人類がともにする未来は開けてこないのではないか。多様な文化が共存し交錯する近代とただ一つの真理を掲げる宗教をどのように両立させるか、近代の中の平和や共存に向かうポテンシャル、戦争から学んでよりよきものを求めていく動き、つまり進歩の理想の中に含まれているものを見つめ、さらに進歩絶対の神話、科学万能主義とは違う形でどのように乗り越えていくか。フロイトは、そのことを早くに提起した一人だと言えるでしょう。

(次号につづく)

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NATO首脳会議 届かなかった「反戦」の声――マドリードからの報告 宮下洋一 【世界】2022年09月

2023年04月04日(火)

ちょっと前の雑誌の論説.
いつだったか,小さな宴が終わるころ,ひとりの友人がボソッと,
西欧は,スラブ人同士の内輪もめぐらいにしか見ていないんじゃないか,
そんなことをもらした.
ポーランドで仕事をしていたこともある人だから,
あるいは実感として,そんなふうに感じるところがあったのだろうか,
そう思った.

それにしても,この1年余,ずいぶんと好戦的な報道ばかりをみているように思う.
一度だけだったか,ウクライナの人で,戦争はいやだ,と他国に出国した若い人をとりあげた映像があったように記憶する.

ロシアを支持しない.
でも,じゃウクライナ=NATO同盟軍とでも言うべき軍事行動が正しいとか,まったく思わない.
数年前まで,極右と書かれた軍事組織はどうなった?

戦争にいたる経緯,背景,あるいはその指導者たちの思想……,
ていねいにたどる必要があったように思う.
あるいは戦争を回避するために,なにがなされ,なされなかったか,
深く,広く教えてほしいと思う.
いや,自分ですこしは調べろ,ってことか.

そういえば,昨日,ラオスの現在が映し出されていた.
いまだに数千万発の不発弾に蔽われた国が.
その前に,劣化ウラン弾が話題になった.もうずいぶん前にその名前を聞いた.けっしてふつうの爆弾ではない,そういう記事だったように思う.
ウクライナの土地が,将来どうなるか,知らない.


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【世界】2022年09月


ウクライナ侵攻は、ヨーロッパの安全保障に重大な変化をもたらした。西側諸国が結束するなか、現地に暮らす市民の声も一色に染まりつつあるのだろうか? スペイン・マドリードの反戦デモから、この二〇年の変化を見つめる。

NATO首脳会議 届かなかった「反戦」の声――マドリードからの報告
宮下洋一


 ロシアによるウクライナへの侵略戦争から約四カ月が過ぎた二〇二二年六月二八日、スペインの首都マドリードで、北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議が開かれた。アメリカのバイデン大統領を始め、イギリスのジョンソン首相、フランスのマクロン大統領など、各国首脳が一堂に顔を合わせ、北欧のスウェーデンとフィンランドの加盟議定書への署名、またウクライナへの軍事および経済支援を行なうことなどで合意した。NATO以外からも、「アジア太平洋パートナー国」として日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランド四力国の首脳が初めて拡大会合に参加した。
 だがこの裏で、反戦運動を行なう市民たちの姿があった。スペイン国内を除き、海外ではあまり報道されなかったが、いかなる戦争にも反対する人々がいたことも事実である。日本を含め、いまやアメリカに同調する国々では、NATOが掲げる防衛・安全保障に協調する傾向が見られるが、そればかりが現実ではない。
 二〇〇三年一月から三月にかけ、世界各地でイラク戦争反対のデモが起きた。アメリカが始めた戦争に対し、市民は怒りを爆発させた。スペインでは当時、欧州最大となる総勢三〇〇万人の人々が各都市を練り歩き、「NO WAR」を叫
んだ。イラク戦争は、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が仕掛けた「帝国の戦争」であった。現在のロシアとウクライナの戦争とはもちろん大きく態様が異なるが、戦争そのものに疑問を投げかける市民の数は健在だ。

■安全保障の射程に中国も
 NATO首脳会議の表向きの争点は、先述のようにスウェーデンとフィンランド二カ国の加盟問題であり、ロシアの侵略拡大阻止に向けた結束をみせることだった。だが会議では、民主主義国家の「独裁主義への対処」、同盟国の「集団防衛の強化」といった本来の目的以外にも、「日本や韓国との協調路線」など、NATO同盟国の枠や地域を超えた話し合いにまで発展した。
 今回の会合でロシアのプーチン大統領への措置が議論されるのは当然かもしれないが、中国の習近平国家主席を牽制する議論も飛び交っていた。一二年ぶりに改定された「戦略概念2022」には、「中国」の文字が一〇回現れる。同盟三〇ヵ国は、いまや中国をも安全保障の射程に入れているのである。
 スペイン主要紙エルパイス(七月三日付)に寄稿したノーベル経済学者のジョセブ・E・スティグリッツ氏は、次のように述べている。
 「中国がアメリカに対し、直接的な戦略問題を突きつけていなくとも、その動きは明確だ。ワシントンでは、中国が戦略的脅威を植え付けているとの暗黙の了解があり、アメリカがそのリスクを緩和するためには、中国の経済成長に協力しないことだとしている」
 スティグリッツ氏は、このアメリカの見方はウクライナ問題以前から生じていると考える。そして、中国の経済的脅威から身を守るためには、欧州や先進民主主義国家などの「仲間が必要だ」というアメリカの態度を批判した。
 マドリードに集まった各国首脳は、ロシアや中国への対抗措置を探るだけに留まらなかった。会合には、アメリカとの協調を再確認し、同国からの軍事やエネルギー支援を確保する目的もあったといえる。平和を訴える市民が危機感を募らせたのは、そのような背景を見越していたからだった。

■あなた方の戦争は私たちの死
 首脳会議が行なわれる二日前の六月二六日、マドリードの中心街に約三万人(マドリード市は二二〇〇人と発表)の市民が集まり、反戦とNATO首脳会議の反対を訴えた。
 このデモに加わったスペインの政党は、左派連合(IU)、共産党の二党に限られ、与党・社会労働党との連立を組む急進左派ポデモスの姿は見られなかった。その理由として、ウクライナ侵攻に反対の立場を貫くポデモスに対し、政府が国際情勢を重視するよう圧力をかけたため、との報道もある。
 最前列の横断幕には、「戦争にはノー」、「NATOにはノー」、「平和のために」の文字が掲げられたほか、「軍国主義の予算に反対、戦争に金は払わない」などの旗が揺れていた。デモに参加した元欧州連合(EU)議員で、「平和のための国家会議」のウィリー・メイヤー広報官は、「NATOは、アフリカと地中海沿岸におけるスペインの役割に対し、誤ったメッセージを発している」と非難。モロッコからスペインに流入する難民問題に対し、北大西洋の同盟が介入する姿勢に反発した。
 このデモが行なわれた日、同国のマルガリタ・ロブレス防衛相は、「明らかに少数の集まりだ」と皮肉り、「参加者の意志は尊重するが、平和とは彼らの遺産



ではなく、全員の努力によって保たれる」と言い切った。
 当初は、市内中央駅のアトーチャから、首脳らの晩餐会会場になったプラド美術館までの抗議行動が予定されていたが、このデモのさらなる拡散を警戒したマドリード自治州政府は、首脳会議期間中のデモ活動を禁止した。
 首脳会議開幕後の六月二九日、それでも反戦を訴えようと、デモ活動禁止令を破り、約一〇〇人の市民が市内中心の広場に集まった。「NATOは犯罪者、政府は共犯者」と書かれた横断幕の後ろで、約二時間、彼らは叫び声を上げた。「首脳会議は殺し屋の集まりだ」、「軍事費を学校と病院に」、「帝国主義には反対」……。中には、「あなた方の戦争は、私たちの死だ」との声もあった。欧米がロシアに制裁を科してから、エネルギー不足が深刻となり、食糧危機も表面化している。物価の上昇は止まらず、レギュラーガソリンも一リットル二ユーロ(約二八〇円)前後を推移し、スペインのインフレ率はユーロゾーンで最高値となる一〇%を記録した。
 アメリカが主導権を握るNATOが、ウクライナ支援を強化するほど、ロシアは報復措置を重ねてくる。この報復の数々は、欧州のみならず、世界各国に広がり、人々の生活に甚大な被害を及ぼしている。「私たちの死」には、その切実な思いが含まれていた。
 デモに参加した大学生のノエさん(一八歳)は、「ゼレンスキー大統領が、他国の支援を必要としたことは理解できる」と答える一方で、「彼が賢く振る舞ってきたことが、かえって今の世界の混乱につながっている」とも批判した。長年、反戦の立場を貫いているフアンさん(五五歳)は、「すべては武器ビジネスのため。そのための戦争であり同盟でもある」と指摘。プーチン大統領については、「アメリカと同じ帝国主義者だ」と叩き、「戦争をさせない教育が必要だ」と主張した。
 このデモには、地元だけでなく、フランス、ポルトガル、イタリアから来た市民の姿もあった。だが、広場から抜けるすべての道を、一〇〇人近い警察官が人間の壁をつくって塞ぎ、参加者の行動を押さえ込んだ。反戦の声は、直接、NATOの首脳たちに届くことはなかった。

■東方拡大のなかで
 イラク戦争の開戦にあたり、ブッシュ元大統領は、大量破壊兵器の存在を根拠としていた。当時はドイツやフランスを始め、ロシアもイラク戦争に反対した。スペインは、このイラク戦争に加担した。当時のアスナール首相がそれを選択した理由は、国内で分離独立を求める武装組織「バスク祖国と自由」(ETA)の撲滅にアメリカの協力が約束されていたからだといわれた。
 その時、マドリードに集まった市民は、「爆弾ではなくパンを」や「BUSH=SADAM」などのプラカードを掲げ、帝国の戦争に反対した。後に首相となる社会労働党のサパテロ書記長も、平和を願う市民の活動を賞賛し、アメリカの戦争に反対した。しかし、そのスペイン(NATOには一九八二年加盟)は現在、ウクライナへの軍事支援と武器提供を行なっている。二〇一二年の段階で一・〇一%だった防衛費を、二〇二九年までにはNATOの共通目標とされる二%へと引き上げる目標を掲げている。NATOによると、すでに二%に到達している国は、三・七六%のギリシャを筆頭にアメリカやイギリスなどの九力国で、スペインはルクセンブルクとアイスランドに次いで低い数値を維持してきた。
 スペインのシンクタンク「エルカノ王立研究所」が六月二三日に行なった調査によると、同国では「NATOの加盟維持に賛成」が八三%であるのに対し、「脱退すべき」が一七%だったという。また、ウクライナ戦争の原因については、「ロシアがウクライナを不当に侵略したため」が八五%だった一方、「NATOが加盟地域拡大でロシアに接近したため」が一五%だった。
 ウクライナに対する侵略戦争の容認は、民主主義の敗北につながるという西側諸国の価値観から、欧州市民は断固としてロシアを許さない。そればかりか、NATOは、ロシアの社会体制から遠ざかる東欧諸国を次々と吸収していく。
 この西側同盟の戦略は拡大を続け、日本や韓国を味方につけながら、中国を封じ込めようとする勢いも見せ始めている。

■「欧州共通の価値観」
 イラク戦争に反対してきた米シカゴ大学政治学部のジョン・ミアシャイマー教授は、仏週刊誌「レクスプレス」(七月七日号)に対し、欧州はロシアとの対話による解決策を試みたが、アメリカには話し合いの選択肢がないと語る。結果として、武力行使しか残されず、最悪のシナリオになると想定した。
 「アメリカと西欧、とくに東欧がウクライナのロシア人を制圧すれば、プーチン大統領は核兵器を使って状況を取り戻すことになるだろう」
 帝国の戦争は、終わらない。振り返れば、二〇年前、「戦争はノー」、「戦争はテロリズム」、「石油の戦争に反対」などと訴えてきた人々の願いは、戦争の拒否であり、世界の平和にほかならなかった。
 だが、今は違う。状況によっては、戦争も正義になることを、西側先進国は力をもって証明しようとしている。EUの世論調査「ユーロバロメーター」が六月に行なった調査では、EU市民の五九%が次のような考えに賛同している。「たとえ金と命が犠牲になっても、自由や民主主義という欧州共通の価値観を守らなくてはならない」
 武力行使はなくならない。そして戦争も、このような価値観がある限り、延々と繰り返されていくのである。
(みやした・よういち 在欧ジャーナリスト)

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片山善博(154) 新型コロナ分科会提出資料から読み取るべき重要な課題 【世界】2022年09月

2023年02月18日(土)

たぶん半年ばかり前に書かれたのだと思うけれど,
片山善博さんがCOVID-19について語っている.

客船の騒ぎから3年を過ぎた.
そのときすでに,「空気感染」の可能性が指摘されていた.
しかし,政府は,接触感染,咳などによる飛沫感染への警戒を呼びかけてはいたけれど,
「空気感染」というコトバは,忌避されているかのようだった.
客船の中での検疫などの模様がネットに出たとき,
これじゃ問題じゃないか,と感染症の専門家が指摘していたけれど,
逆に専門家は排除されてしまったように見えた.

ぼくは素人で,厳密に事態を見極めることはできないけれど,
いろんな議論や,類似の疾患のこれまでの事例を考えれば,
それなりの推論は可能だったように思えた.

で,いつも言っているけれど,どこにどのくらいの専門家がいるんだろう,と.
医療態勢は,どこにどう整備されてきたのだったか,と.

列島の国は,病床数が対人口比でとても多いことが指摘されていて,
医療サービスの改革でよく病床規制が言われるのだけれど,
先進国には異例なほどに精神病院の病床が多いのだと指摘されてきていた.
すでに数十年前に精神病院の閉鎖性が指摘されて以来,病棟の開放だけじゃなくて,
患者さんの社会への受け入れ促進こそが語られてきたのではなかったか…….
(また,東京の精神病院での,患者に対する暴力的な対応が問題になっているらしい)

それにしても感染症に罹患した患者を,どこで,つまりどの病院で受け入れ,誰が診療に当たるのか,つまりは感染症の専門家がどのくらいるのか,
また,感染症の拡大に対処するタメの公衆衛生の取り組みを進める態勢はどこにあるのか…….

またぞろ保健所が出てきていたけれど,
はたして保健所がそのような態勢を,
もちろん平時は別だろうけれど,きちんと用意できていただろうか.
あるいは,用意すべく相応の態勢をつくってきていただろうか,
人員,機材,知識や経験……はどうなっていただろうか.
ぼくの知る保健所の医師で,感染症や公衆衛生を専門にする人はきわめて少数だった.
それでも,行政や地域,大学や病院などとの連携をすすめることができるようなキャリアが保健所などに用意されていただろうか.
そのようにどうも見えてこない.
保健師が多忙でたいへんだと,メディアで報じられていたけれど,
報道を見ると,感染者の引き受け病院の調整などがもっぱら取りあげられていたけれど,
彼らに対する期待は,そういうことだったのだろうか.さっぱり理解できなかった.

大地震などと同じように,パンデミックもそう頻繁に発生するわけではないのだろう.
それでも人の一生のうちに2,3度は大きな災害に出会い(自分が当事者になるかどうかはあるけれど),あるいは深刻な感染症の脅威にさらされてきたように思う.
列島の国は,先進国では結核感染が顕著に多いと言われているようだし,
さいきん梅毒が蔓延していると騒がれているけれど,ぼくの知る限り,急にこのような状況にいたったというわけではなさそうだ.

そういえば,都道府県などには,衛生研究所という組織があったと記憶する.
今回,衛生研究所という名前を聞くことがまったくない.どうなっているんだろう…….

……なんだか,脱線してしまった.
COVID-19をめぐる一連の騒動?というか,そういう経験が,どんなふうに総括されて,医療サービスに生かされていくのか,感染症や公衆衛生対策にどういうふうに織りこまれていくのか,まじめに考えていく必要があるように思う.
ではあるけれど,さて…….


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【世界】2022年09月

連載154
片山善博の「日本を診る」

新型コロナ分科会提出資料から読み取るべき重要な課題


 新型コロナウイルス感染拡大第七波の真っ只中にいる。第六波までは緊急事態宣言ないしまん延防止等重点措置が発令され、外出自粛や営業停止などの行動抑制が求められた。ところが、このたびは感染が急拡大しているのに、政府は緊急事態宣言などを出さない方針を早々と表明している。
 その背景には、今流行しているウイルス変異株は重症化リスクが比較的低いという認識があり、それなら経済に支障をもたらすような行動抑制は控えた方がいいとの考えがあるからだろう。
 もとより、政府が手を拱(こまね)いているだけの現状には大きな問題がある。この先感染が収まらないで感染者の数がさらに増えた場合、重症化リスクがいくら低いと言っても、重症者の絶対数は確実に増える。それによってまたそろ医療現場が崩壊する可能性を抱えているからである。

■エアロゾル感染のリスクと換気の重要性
 ただ、ここでは政府が当面緊急事態宣言などを発令しないことの是非は、取り敢えず脇においておく。その上で、第七波を迎えるに当たって、去る七月一四日の新型コロナウイルス感染症対策分科会の動向が注目に値するので、そのことにふれておく。この日の会議に提出され、公表された資料を見ると、新型コロナウイルス対策の核心にふれる内容が含まれているように思う。
 注目する点の一つは、分科会がエアロゾル感染のリスクについて初めて真正面から取り上げていることである。ちなみに、「エアロゾル」は、空中に浮遊する粒子をいい、「エアロゾル感染」とはウイルスを含むエアロゾルを吸引することで感染することをいう。これは会議資料に記述された定義である。これに続いて、「特にクラスターが多発した高齢者施設、学校、保育所等の感染事例では、換気が不十分であったことが原因と考えられる事例が散見される」と、わかりやすく、ポイントを提示している。
 これまで政府に深く関わってきた専門家たちは、エアロゾル感染のことを真正面から取り上げることに躊躇(ちゅうちょ)していた。すでに新型コロナウイルスの主要な感染源がエアロゾル感染であることは早い段階で国際的に周知されていたにもかかわらず、である。
 それにはいくつかの理由が考えられるが、その一つは、政府及び政府系の専門家たちが当初、新型コロナウイルスは接触と飛沫により感染し、空気感染はないとしていたことと関係があるのだろう。
 そう明言していた手前、後に空気感染の一種であるエアロゾル感染が有力感染源だとは言い出しづらかったのだと思う。そこで、いわゆる「三密」という言葉遊びのような表現でお茶を濁したり、「マイクロ飛沫」などという造語を新たに持ち出したりすることで、あくまでもエアロゾル感染には無関心を装っていた。専門家たちが自分たちのメンツを保つことに腐心していた事情は本誌二〇二〇年五月りの拙稿でも取り上げているので、関心のある読者はあらためてそちらにも目を通して頂きたい。
 こんな中途半端でいい加減な状態がダラダラと続いた結果、世の中の感染防止対策はもっぱら接触感染と飛沫感染を避けることに重点が置かれてきた。それが接触感染を防ぐための手指消毒や飲食店でのテーブル消毒であり、飛沫感染を避けるためのアクリル板設置などである。
 その一方で、肝心のエアロゾル感染を防ぐための換気ないし空気の流通にはあまり関心が向けられなかった。とりわけ猛暑や厳寒の時期には、冷暖房効果を低下させる換気にはどうしても後ろ向きにならざるをえない。こうした換気の怠りが密閉した空間を生み、それが冬場と夏場の感染拡大につながっているとの推論は成り立つはずだ。
 このたび本当に遅ればせながらのことではあるが、分科会がやっと重い腰を上げてエアロゾル感染のリスクのことを正面から取り上げたことを多としたい。これを機にぜひ政府は換気の重要性についてあらためて国民及び事業者への啓発につとめ、これが徹底されるように努力してほしい。そうすることが、ひょっとしてこのたびの政府の不作為を補う有力な感染防止策になるのではないかとも期待している。

■空調による感染リスクへの認識
 分科会の資料にはもう一つ実に意味深長な内容が含まれている。高齢者施設や学校、保育所等の空調設備に関する問題提起である。そこには、「(これらの)施設等の換気・空調設備を更新する際には、高い換気能力をもつ空調設備」などへの交換を推奨する旨が記述されている。
 注意しなければ読み飛ばしそうになるくだりだが、これには重要な意味が込められている。この記述を言い換えると、高齢者施設や学校、保育所などで現在用いられている空調設備は換気機能が総じて低いことが明かされているのである。
 建物設備などの専門家によると、主流の中央集中型の空調方式では、施設内各室から空気をまとめて中央の空調機に回収し、そこで外気から取り込んだ空気と混合させ、それを冷却なり加熱なりした上で施設内各室に送風するのだという。
 各室から回収した空気と外部から取り込んだ空気の割合は一般には七対三ほどだという。送風口から出てくる冷気は新鮮だと思って吸い込んでいると、実はその冷気には館内にいる人たちが鼻や口から吐き出した空気がふんだんに含まれているということである。この方式をとる理由は、もっぱら省エネしつつ冷暖房効果を高めるためである。
 筆者は最近こんな体験をしたことがある。ある地方都市に宿泊した際、ホテルが混んでいて、希望する禁煙部屋がなかったのでやむなく喫煙可能部屋に入れられた。部屋に入ると、嫌なタバコの臭いが充満している。ちなみに、部屋の窓は開かないから空気を入れ替えることもできない。
 ところが、たまたま冷房を切ってみたところ、ほどなくしてタバコ臭は弱まり、そのうちあまり気にならなくなった。どうやらタバコ臭は空調装置から流入していたようだ。流入するのはタバコ臭だけではない。先のエアロゾルも入ってくるから、もしホテル内に新型コロナの感染者が宿泊していた場合、空調を通じて感染してしまうリスクは当然ある。だからこそ、分科会の専門家たちは「高い換気能力をもつ空調設備」への交換を推奨しているのだろう。この空調設備を通して新型コロナウイルスに感染するリスクは、二年半前のクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の船内で大勢の感染者が出た際にも一部の専門家から指摘されていた。この船の空調も中央集中型空調方式だったからである。政府はこの指摘を無視し、船内での感染拡大はもっぱらドアノブなどを通じた接触感染が原因だとする見解で押し通したが、これには大いに疑問が残っている。
 また、全国の空調設備を直ちに一斉に取り替えることは物理的にも経済的にも無理がある。ただ、現行の空調方式にリスクがあることはよく認識しておく必要がある。取り敢えずは現在の空調設備を前提にし、とりわけ猛暑や厳寒の時期に冷暖房と換気をどう塩梅するか。知恵を絞らなければならない難しい課題を分科会資料は突きつけている。


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